「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。そう言って羊飼いたちは出発しました。
「主が知らせてくださったその出来事」。それは野宿をしていた羊飼いたちに主が天使を遣わして知らせてくださったことでした。羊飼いが聞いたメッセージはこのようなものでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。
恐れるな
「恐れるな。」これが羊飼いたちの聞いた天使の第一声でした。「恐れるな」と語られたのは、羊飼いたちが非常に恐れていたからでした。単に天使を目撃したからではありません。「主の栄光が周りを照らした」と書かれています。それはすなわち、神がまさにそこにおられるということです。羊飼いの側からすれば、《自分たちは、まさに今、神の御前にいるのだ》と自覚したということです。神が共におられる。しかし、その認識は、単純に喜びをもたらしはしませんでした。それは恐ろしいことだったのです。
宗教的なユダヤ人社会での出来事です。彼らも天地を造られた神について耳にしたことはあったでしょう。しかし、羊飼いたちは、ユダヤの社会においては、完全にアウトサイダーでした。彼らの仕事柄、宗教的な戒律を守って生活することは不可能でした。清めの祭儀を守ることができなければ、宗教的には汚れた者と見なされます。人々は彼らを神から遠い存在と見ていたでしょうし、彼ら自身、たとえ神はいたとしても、自分たちとは関係がないと思っていたことでしょう。
しかし、羊飼いたちが、自分は神とは無縁の存在だと思っていたとしても、神様の方はそう思っていませんでした。彼らが意識してようとしていまいと、彼らは神によって生かされてきたのだし、神様と無関係であったことは一瞬たりともなかったのです。その神様が羊飼いたちの生活の中に入って来られました。羊飼いたちは、神が共におられ、自分たちが神の御前にあることを知ったのです。しかし、繰り返しますが、そのことは単純に喜びをもたらしはしませんでした。
それはこの羊飼いに限ったことではありません。聖書において、様々な形における神と人との出会いが描かれていますが、多くの場合、人々の内に起こる反応は「恐れ」です。
神に対する「恐れ」はどこから来るのでしょう。聖書において、その「恐れ」の歴史を辿ってみると、ほとんど聖書の初めにまで遡ることになります。最初の人間であるアダムとエバです。彼らが神に背いた時、初めて「恐れ」という言葉が聖書に出て来ます。主なる神が近づいてきた時、彼らは「園の木の間に隠れた」と書かれています。神がアダムを呼ばれると、アダムはこう言うのです。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)。
裸のままで、ありのままで、神に向い、神を喜ぶことができない。どうしてですか。神に背いたことが分かっているからです。自分が正しくないことを知っているからです。かつて預言者イザヤも同じような体験をしました。神殿において自分が聖なる神の御前にあることを知った時、彼はこう叫んだのでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)。
そのように、神が近づいて来られること、神が共におられることは単純に喜びにはならないのです。それは二つの事実によるのでしょう。神は聖なる御方であるということ。そして、私たち人間は正しくも清くもないということです。
もちろん、それでもなお私たち人間は、自らの正しさを主張し合うことはあります。正しさの主張がぶつかるから争いも起こるし、戦争も起こります。しかし、人に対してではなく、聖なる神に向き合う時、同じことが言えなくなります。自分は正しいと言えなくなります。自分は清いと言えなくなります。正しい神を意識し始めるならば、そこでは自分の不真実、不誠実、心の汚れをも意識せざるを得なくなります。そこに生じるのは罪の意識です。それは喜びではなく、恐れをもたらします。あの羊飼いたちは、自分たちが神の御前にあることを知った時、――恐れたのです。
しかし、まさにその時、神様の方から声がありました。天使を通して、主は言われたのです。「恐れるな」と。主は「恐れなくてよい」と言ってくださいました。ならば、もう神の顔を避けて、園の木の間に隠れる必要はありません。「災いだ。わたしは滅ぼされる」と怯える必要もありません。私たちは恐れずに神に向かって顔を上げることができる。私たちを責め、断罪する神としてではなく、救いの神として仰ぎ望むことができるのです。
救い主がお生まれになった
そして主は、「恐れるな」と語られた後、御使いを通して、喜びの知らせを聞かせてくださいました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。
「主が知らせてくださったその出来事」とは、救い主の誕生でした。それを天使は「民全体に与えられる大きな喜び」と呼びました。「民全体」という言葉は狭い意味ではイスラエルの民全体を指しますが、恐らくこの主が意図しているのは全世界です。この12月に新しい聖書翻訳が出ましたが、その新しい聖書では「すべての民」となっています。
救い主の誕生が、すべての民に与えられた喜びとして、全世界のすべての人に与えられた喜びとして告げ知らされました。そして、それを真っ先に知らされたのが「羊飼いたち」だったことは重要です。先ほども言いましたように、ユダヤの宗教的な社会において、彼らはアウトサイダーでした。救いから遠い汚れた人々。そのように見なされていましたし、自分もそう思っていた、そのような彼らに対して、神様は天使を通してこう言ったのです。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった!」と。
私たちがこうして祝っている救い主イエス・キリストの誕生。その御方は「すべての民」のために生まれたとも言えるし、全世界のために生まれたとも言えます。しかし、神様が伝えたいことは恐らくそうではないのです。――「あなたのために」「あなたがたのために」ということなのです。これまでどんな生き方をしてきた人であっても、どれほど神に背いてきた人生であっても、自分は汚れ果てて神の救いとは全く縁がないと思っている人であっても、主が知らせたいのは、「そのような《あなたのために》《あなたがたのために》救い主はお生まれになった」ということなのです。
では、その御方はどのような意味において、わたしの、私たちの「救い主」なのでしょうか。実はその当時、「救い主」と呼ばれていた人物は既にいたのです。ローマの初代皇帝「アウグストゥス」です。彼は長い戦乱の世に終止符を打ち、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」をもたらしました。それは武力によって実現した平和でした。大きな力が支配する時、小さな争いは押さえ込まれます。戦争や紛争が無くなることが「平和」であり「救い」であるならば、確かにローマ皇帝は「救い主」ですし、彼によって救いがもたらされたと言えるでしょう。
しかし、大きな力が支配する時、そこには必ずと言っていいほど、抑圧される人々が存在するものです。実はこの章は「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(1節)という言葉から始まります。全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、被占領民族であるユダヤ人たちの上にも、大きな重荷となったことでしょう。
支配され抑圧されているユダヤ人たちは、当然のことながら皇帝を「救い主」とは呼びません。彼らはローマ人の支配から解放してくれる、彼らの「救い主」が現れることを待ち望んでいました。それは当然のことながら、皇帝よりもより大きな力を持つ救い主でなくてはなりません。力を覆すには力をもってするしかありませんから。
しかし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた御使いは、さらにこう続けたのです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)。なんと!ダビデの町にお生まれになった救い主は、「救い主アウグストゥス」とは正反対の姿でそこにいるのです。ユダヤ人たちが求めている「力ある救い主」ともかけ離れた姿でそこにいるのです。それは何を意味するのでしょうか。神が与えようとしている救いは「力」をもって実現するのではない、ということです。
そもそも救いを必要としている人間の根源的な悲惨はどこにあるのでしょうか。それは先ほど、聖書を遡って創世記に見たアダムの姿から明らかです。人が神の顔を避けて、園の木の間に隠れていることです。聖なる神の御前において、私たちは自らの罪を思い、恐れざるを得ないという現実です。まずそこから救われなくてはなりません。そのためにこそ神は「恐れるな」と言って、この世界のただ中に救い主を置かれたのです。もはや誰も恐れる必要がないほどに、無防備な姿で、貧しい姿で。人が安心して神と共に生きられるためにです。そして、その救い主はやがて後の日に、力によってではなく、十字架にかかられることにより、私たちの罪を代わりに背負われることにより、私たちの救いを全うすることになるのです。
これが主の知らせてくださった出来事です。これが主によって私たちにも知らされている出来事です。羊飼いたちは、言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」そう言って彼らは出発しました。そして、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てました。もちろん、それで彼らが苦しみのない別世界に移されたわけではありません。依然として、ローマの支配下にある苦しい生活が、厳しい労働が彼らを待っていたことでしょう。しかし、彼ら自身は以前と同じではありません。彼らは神の救いの内を既に生き始め、味わい始めているのです。何と書かれていますか。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。そして、同じことがここにいる私たちにおいても始まっているのです。
(祈り)