2018年12月23日日曜日

「さあ、ベツレヘムへ行こう。」

ルカ2:8-20

 「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。そう言って羊飼いたちは出発しました。

 「主が知らせてくださったその出来事」。それは野宿をしていた羊飼いたちに主が天使を遣わして知らせてくださったことでした。羊飼いが聞いたメッセージはこのようなものでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。

恐れるな
 「恐れるな。」これが羊飼いたちの聞いた天使の第一声でした。「恐れるな」と語られたのは、羊飼いたちが非常に恐れていたからでした。単に天使を目撃したからではありません。「主の栄光が周りを照らした」と書かれています。それはすなわち、神がまさにそこにおられるということです。羊飼いの側からすれば、《自分たちは、まさに今、神の御前にいるのだ》と自覚したということです。神が共におられる。しかし、その認識は、単純に喜びをもたらしはしませんでした。それは恐ろしいことだったのです。

 宗教的なユダヤ人社会での出来事です。彼らも天地を造られた神について耳にしたことはあったでしょう。しかし、羊飼いたちは、ユダヤの社会においては、完全にアウトサイダーでした。彼らの仕事柄、宗教的な戒律を守って生活することは不可能でした。清めの祭儀を守ることができなければ、宗教的には汚れた者と見なされます。人々は彼らを神から遠い存在と見ていたでしょうし、彼ら自身、たとえ神はいたとしても、自分たちとは関係がないと思っていたことでしょう。
 しかし、羊飼いたちが、自分は神とは無縁の存在だと思っていたとしても、神様の方はそう思っていませんでした。彼らが意識してようとしていまいと、彼らは神によって生かされてきたのだし、神様と無関係であったことは一瞬たりともなかったのです。その神様が羊飼いたちの生活の中に入って来られました。羊飼いたちは、神が共におられ、自分たちが神の御前にあることを知ったのです。しかし、繰り返しますが、そのことは単純に喜びをもたらしはしませんでした。

 それはこの羊飼いに限ったことではありません。聖書において、様々な形における神と人との出会いが描かれていますが、多くの場合、人々の内に起こる反応は「恐れ」です。

 神に対する「恐れ」はどこから来るのでしょう。聖書において、その「恐れ」の歴史を辿ってみると、ほとんど聖書の初めにまで遡ることになります。最初の人間であるアダムとエバです。彼らが神に背いた時、初めて「恐れ」という言葉が聖書に出て来ます。主なる神が近づいてきた時、彼らは「園の木の間に隠れた」と書かれています。神がアダムを呼ばれると、アダムはこう言うのです。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)。

 裸のままで、ありのままで、神に向い、神を喜ぶことができない。どうしてですか。神に背いたことが分かっているからです。自分が正しくないことを知っているからです。かつて預言者イザヤも同じような体験をしました。神殿において自分が聖なる神の御前にあることを知った時、彼はこう叫んだのでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)。

 そのように、神が近づいて来られること、神が共におられることは単純に喜びにはならないのです。それは二つの事実によるのでしょう。神は聖なる御方であるということ。そして、私たち人間は正しくも清くもないということです。

 もちろん、それでもなお私たち人間は、自らの正しさを主張し合うことはあります。正しさの主張がぶつかるから争いも起こるし、戦争も起こります。しかし、人に対してではなく、聖なる神に向き合う時、同じことが言えなくなります。自分は正しいと言えなくなります。自分は清いと言えなくなります。正しい神を意識し始めるならば、そこでは自分の不真実、不誠実、心の汚れをも意識せざるを得なくなります。そこに生じるのは罪の意識です。それは喜びではなく、恐れをもたらします。あの羊飼いたちは、自分たちが神の御前にあることを知った時、――恐れたのです。

 しかし、まさにその時、神様の方から声がありました。天使を通して、主は言われたのです。「恐れるな」と。主は「恐れなくてよい」と言ってくださいました。ならば、もう神の顔を避けて、園の木の間に隠れる必要はありません。「災いだ。わたしは滅ぼされる」と怯える必要もありません。私たちは恐れずに神に向かって顔を上げることができる。私たちを責め、断罪する神としてではなく、救いの神として仰ぎ望むことができるのです。

救い主がお生まれになった
 そして主は、「恐れるな」と語られた後、御使いを通して、喜びの知らせを聞かせてくださいました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 「主が知らせてくださったその出来事」とは、救い主の誕生でした。それを天使は「民全体に与えられる大きな喜び」と呼びました。「民全体」という言葉は狭い意味ではイスラエルの民全体を指しますが、恐らくこの主が意図しているのは全世界です。この12月に新しい聖書翻訳が出ましたが、その新しい聖書では「すべての民」となっています。

 救い主の誕生が、すべての民に与えられた喜びとして、全世界のすべての人に与えられた喜びとして告げ知らされました。そして、それを真っ先に知らされたのが「羊飼いたち」だったことは重要です。先ほども言いましたように、ユダヤの宗教的な社会において、彼らはアウトサイダーでした。救いから遠い汚れた人々。そのように見なされていましたし、自分もそう思っていた、そのような彼らに対して、神様は天使を通してこう言ったのです。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった!」と。

 私たちがこうして祝っている救い主イエス・キリストの誕生。その御方は「すべての民」のために生まれたとも言えるし、全世界のために生まれたとも言えます。しかし、神様が伝えたいことは恐らくそうではないのです。――「あなたのために」「あなたがたのために」ということなのです。これまでどんな生き方をしてきた人であっても、どれほど神に背いてきた人生であっても、自分は汚れ果てて神の救いとは全く縁がないと思っている人であっても、主が知らせたいのは、「そのような《あなたのために》《あなたがたのために》救い主はお生まれになった」ということなのです。

 では、その御方はどのような意味において、わたしの、私たちの「救い主」なのでしょうか。実はその当時、「救い主」と呼ばれていた人物は既にいたのです。ローマの初代皇帝「アウグストゥス」です。彼は長い戦乱の世に終止符を打ち、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」をもたらしました。それは武力によって実現した平和でした。大きな力が支配する時、小さな争いは押さえ込まれます。戦争や紛争が無くなることが「平和」であり「救い」であるならば、確かにローマ皇帝は「救い主」ですし、彼によって救いがもたらされたと言えるでしょう。

 しかし、大きな力が支配する時、そこには必ずと言っていいほど、抑圧される人々が存在するものです。実はこの章は「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(1節)という言葉から始まります。全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、被占領民族であるユダヤ人たちの上にも、大きな重荷となったことでしょう。

 支配され抑圧されているユダヤ人たちは、当然のことながら皇帝を「救い主」とは呼びません。彼らはローマ人の支配から解放してくれる、彼らの「救い主」が現れることを待ち望んでいました。それは当然のことながら、皇帝よりもより大きな力を持つ救い主でなくてはなりません。力を覆すには力をもってするしかありませんから。

 しかし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた御使いは、さらにこう続けたのです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)。なんと!ダビデの町にお生まれになった救い主は、「救い主アウグストゥス」とは正反対の姿でそこにいるのです。ユダヤ人たちが求めている「力ある救い主」ともかけ離れた姿でそこにいるのです。それは何を意味するのでしょうか。神が与えようとしている救いは「力」をもって実現するのではない、ということです。

 そもそも救いを必要としている人間の根源的な悲惨はどこにあるのでしょうか。それは先ほど、聖書を遡って創世記に見たアダムの姿から明らかです。人が神の顔を避けて、園の木の間に隠れていることです。聖なる神の御前において、私たちは自らの罪を思い、恐れざるを得ないという現実です。まずそこから救われなくてはなりません。そのためにこそ神は「恐れるな」と言って、この世界のただ中に救い主を置かれたのです。もはや誰も恐れる必要がないほどに、無防備な姿で、貧しい姿で。人が安心して神と共に生きられるためにです。そして、その救い主はやがて後の日に、力によってではなく、十字架にかかられることにより、私たちの罪を代わりに背負われることにより、私たちの救いを全うすることになるのです。

 これが主の知らせてくださった出来事です。これが主によって私たちにも知らされている出来事です。羊飼いたちは、言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」そう言って彼らは出発しました。そして、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てました。もちろん、それで彼らが苦しみのない別世界に移されたわけではありません。依然として、ローマの支配下にある苦しい生活が、厳しい労働が彼らを待っていたことでしょう。しかし、彼ら自身は以前と同じではありません。彼らは神の救いの内を既に生き始め、味わい始めているのです。何と書かれていますか。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。そして、同じことがここにいる私たちにおいても始まっているのです。
(祈り)

2018年12月16日日曜日

「私たちに対する神の御心」

1テサロニケ5:16-24

神が望んでおられること
 礼拝堂のアドベントクランツの第3のキャンドルが灯されました。クランツのキャンドルには一本一本意味がありまして、第一のキャンドルは「希望」、第二のキャンドルは「平和」、そして今日灯された第三のキャンドルは「喜び」です。ちなみに、来週灯される第四のキャンドルは「愛」を意味します。来週は本来、アドベントの第四週ですが、慣例に従いまして「クリスマス礼拝」として御子の御降誕を併せて祝います。

 ということで、第三のキャンドルが灯された今日、与えられているテーマは「喜び」です。第二朗読において、次のような御言葉が読まれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(16‐18節)。

 これはパウロの書いた手紙の一部です。結論部分に書かれている大事なことです。しかし、以前のパウロならば、全く違ったことを書いていたに違いありません。彼は生粋のユダヤ人でした。生まれて八日目に割礼を受け、幼き日より律法を学んで育った人でした。後にはガマリエルという高名なラビのもとで厳しい律法の教育を受けた人でした。ファリサイ派のパウロ、またの名をサウロ。以前の彼ならば、きっとこう書き送ったに違いありません。「いつも神の戒めを守りなさい。絶えず神の戒めを守りなさい。どんなことにおいても神の戒めを守りなさい。これこそ、神があなたがたに望んでおられることです」と。

 戒めを守ることがまず先決だったのです。従順であること、律法を遵守する正しい人間であることがなければ何も始まらないのです。何か良きものを神から受けるとするならば、それは神への従順、自分の義を差し出してこそ、はじめて受けることができる。救いでさえも、永遠の命でさえも、律法遵守の報いであると信じていたのです。かつてイエス様のもとに来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年がいました。その問いは、パウロの問いでもあったはずです。どんな善いことをしたらよいのでしょうか。これで十分でしょうか。まだ不十分でしょうか。いったい何をしたらよいのでしょうか。

 しかし、そのようなパウロが、キリスト・イエスを通して、驚くべき神の御心を知ったのです。神はわたしたちを愛しておられる。まことに愛されるに値しない私たちを、神は愛しておられる。独り子を賜うほどに、独り子を十字架にかけて罪の贖いの犠牲とするほどに、そのようにして私たちに罪の赦し、私たちを救おうとされるほどに、――それほどまでに私たちを愛しておられる!その驚くべき事実を知ったのです。

 そのように、キリストにおいて完全に現された神の愛と恵みの前で、神との取引は意味を持たなくなりました。これだけ律法を守りました。祝福してください。救いをください。そんな取引は無意味となりました。パウロは「イエス・キリストにおいて神が望んでおられること」を知ったのです。神が望んでおられるのは、神の好意を得ようとして一生懸命に差し出す熱心さではない。神が見たいと望んでおられるのは、私たちが十分に従順であるというアピールではないのです。そうではなくて、神が見たいと望んでいるのは、神の子供たちの輝いた笑顔なのです。天の父に向けられた、輝いた笑顔なのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

いつも喜んでいなさい
 とはいえ、「いつも喜んでいなさい」という言葉に出会う時、私たちの自然の反応は、「それは無理でしょう!」ということであるかもしれません。なぜなら、私たちの生活には、私たちから喜びを奪うに十分な、ありとあらゆる要因が満ちているからです。しかし、当然の事ながら、パウロはそのようなことを重々承知の上でこれを書いているのです。彼自身、喜びを奪うような幾多の苦難を味わってきた人ですから。また、宛先であるテサロニケの教会はパウロ自らが伝道して生まれた教会です。パウロが初めてテサロニケを訪れ、福音を宣べ伝えた時には、反対者による暴動が起きたのです(使徒17章)。パウロとシラスは夜逃げをするようにしてテサロニケを後にしたのです。パウロが去った後、テサロニケの信徒たちがどれほど大きな苦難の中に置かれているかは、よく分かっているのです。分かった上で、それにもかかわらず、パウロは彼らに言うのです。「いつも喜んでいなさい!」

 ここで私たちは、もう一度パウロがこれを書いている理由を思い起こさねばなりません。神の子供たちが「いつも喜んで」いることは、他ならぬ神が望んでおられることなのです。神が望んでおられる――ならば神が与えてくださる、ということでもあります。ここで語られている喜びは、明らかにこの世が私たちに提供する喜びではありません。そのような喜びであるならば、苦難によって奪われてしまうのでしょう。これは神が与えてくださる喜びです。天来の喜びです。

 パウロが別の箇所でこう言っています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と。確かに信仰者の生活経験には、聖霊によって与えられる喜び、天来の喜びというものがあることを私たちは知っています。そして、暗闇が深ければ深いほど星の輝きが際立つように、天来の喜びもまた苦難や悲しみの闇の中において輝き出でることを知っています。パウロとシラスがフィリピにおいて不当に鞭打たれ、投獄されてもなお、その獄中で喜びに満ちて神を賛美していたことを聖書は伝えています(使徒16:25)。三年半前にネパールで大地震がありましたが、まだ震災の傷癒えぬ被災地をお訪ねした時、礼拝に集まってきた人たちの内に見たのは、災害によっても奪われることのない天来の喜びでした。神と共にあることの喜び。魂の底から湧き上がる聖霊による喜び。そのような喜びを神が与えてくださる。私たちは聖書からも、身近な信仰者の証しからも、あるいは多かれ少なかれ自らの生活経験からもそのことを知っています。

 要は、そのような神から来る喜び、聖霊の与えてくださる喜びが、私たちの生活の基調音となっているか、私たちの生活全体を支配するようになっているか、ということなのでしょう。「いつも喜んでいなさい」とパウロは言うのです。苦難や悲しみや思い悩みが私たちの生活を支配するのではなく、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるには、いったいどうしたらよいのでしょうか。そこでパウロはさらに「絶えず祈りなさい」と言うのです。また、「どんなことにも感謝しなさい」と言うのです。

祈りと感謝
 「絶えず祈りなさい」。これはいったい何を意味するのでしょうか。それを理解するには、そのように言っている人に目を向けるのが良いのでしょう。パウロは絶えず祈っていた人なのでしょう。それが「ひざまずいて祈りの言葉を口にする」ことを意味しないことは明らかです。実際、この手紙を書いている時には、パウロはそのような意味で祈っているわけではありませんから。パウロの場合、手紙を書く時には口述筆記だったでしょうから、パウロはテサロニケの信徒を思いつつ、手紙の文章を語っているのです。

 しかし、彼はそのように文章を語りながら手紙を書いているのですが、そこに自然と「祈りの言葉」が入るのです。例えば、3章の終わりは手紙が一区切りするところなのですが、そこでパウロはこのように語るのです。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:12‐13)。このような祈りの言葉は他の手紙にも見られます。

 つまりこの手紙を書いている時も、パウロは常にパウロは神の臨在を意識しながら生きているのです。神との交わりの中にあるのです。パウロはまさに神と共に生きているのです。パウロが「絶えず祈りなさい」と言っているのは、こういうことなのでしょう。

 そのように神と共に生きる生活、「絶えざる祈りの生活」はどのように形づくられていたのでしょうか。興味深いことに、この手紙の冒頭には、挨拶に続いて次のような言葉が書かれています。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」(1:2)。この場合、「わたしたち」はパウロとシルワノ(シラス)とテモテです。「祈りの度に・・・」と言う時、それは三人が集まって祈る時を指しているのかもしれません。あるいは個々の祈りの時を指しているのかもしれません。恐らく両者でしょう。いずれにせよ、それは実際に神に向かって文字通り祈っている、「祈りの時」を指しているのです。

 逆説的ですが、このように、絶えず祈る生活は、ある特定の「祈りの時」によって形づくられるのです。「いつでも祈れる」と思って、具体的に祈りの時を持たない人は、往々にして「いつでも祈らない」人になってしまうものです。神の臨在を常に意識する生活は、神の臨在を特別に意識する時間を持つことによって形づくられるのです。

 そして、そのように形づくられる、神の臨在を常に意識し、神と共に生きる生活、絶えず祈る生活は、当然のことながら、絶えず神に信頼して生きる生活ともなるのでしょう。それゆえパウロはこう続けるのです、「どんなことにも感謝しなさい」と。感謝は神への信頼の具体的な現れです。

 その対極にあるのはどのような姿かを思う時、思い起こされるのは荒れ野を旅していた時のイスラエルの民の姿です。彼らはエジプトから救い出されました。彼らは葦の海の中に道を開かれる神の御業を見せていただきました。彼らは、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれました。しかし、彼らは荒れ野で欠乏を経験した時、つぶやいたのです。彼らは不満を言い、不平を述べ立てたのです。エジプトから導き出されたのに、荒れ野の旅も主に導かれているのに、彼らは言ったのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」(出エジプト16:3)。不信仰の具体的な表現は不平、不満、つぶやきです。信頼の具体的な表現は感謝です。パウロは言います。「どんなことにも感謝しなさい」。

 そのように「絶えず祈りなさい」、「どんなことにも感謝しなさい」と共にあって、初めて「いつも喜んでいなさい」という言葉が意味を持つのです。そのようにして、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。


 さて、アドベントの第三週にこの御言葉が与えられて、私自身は、実際に自分がこの御言葉の示している生活からいかに遠いかを思わずにはいられませんでした。皆さんはどうでしょうか。しかし、今どれほど遠くても、私はこの御言葉が指し示している生活に憧れます。そこに近づきたいと願います。メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、この聖書箇所について次のように書いていました。「これがキリスト者の完全である。わたしたちはこれ以上すすみ得ない。そして、これに到達しないで留まる必要はない。」そうです、これに到達しないで留まる必要はありません。共に、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰生活を求めてまいりましょう。

(祈り)

2018年12月9日日曜日

「希望の源である神」

ローマ15:7‐13

互いに相手を受け入れなさい
 「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)。そのように勧められていました。「だから」という言葉で始まっていますように、この勧めは前に書かれていることを前提としています。この直前には次のような祈りの言葉が記されています。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(5‐6節)。「忍耐と慰めの源である神」へのこの祈りを前提として、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧められているのです。

 パウロの祈り求めている内容は、要するに「心を合わせ声をそろえて、礼拝させてくださるように」ということです。そのように一つとなって礼拝をささげる教会となることを祈り求めているのです。しかし、これを「祈り求めている」ということは、とりもなおさずこのことが容易なことではないからでしょう。人間の力で実現できることならば祈り求める必要はないからです。実際、これとは逆のことが教会には起こります。この手紙を受け取っているローマの教会においても、一つとなって礼拝することを妨げるようなことが起こっていました。詳細はこの前の14章に書かれていますが、簡単に言えば、キリスト者は肉を食べてもよいか、それとも食べてはいけないのか、ということを巡っての意見の対立があったのです。

 ローマの教会の話を持ち出すまでもなく、私たち自身経験的に知っています。同じ思いをもって生きられるようになることは容易なことではありません。ましてやすべてが神の御前にある礼拝において、真に心を合わせて声をそろえて父である神をたたえられるようになることは、本当はとてつもなく難しいことなのでしょう。少なくともそこに向かうためには、少なくとも互いが互いを受け入れるということが必要になってまいります。しかし、互いに相手を受け入れるということ自体、簡単なことではありません。時として相当な忍耐を必要とします。

 私たちは皆、忍耐することを好みません。水が低い方に自然に流れるように、自然な傾向としては忍耐を要しない方向に向かいます。建て上げるよりは壊すほうに、一つになろうとするよりは、分裂する方向へと自然に向かいます。そのようにして、似た者たち、もともと同じ考えを持ち、もともと同じ感じ方をする者たちだけで共にいることを求めます。それは共同体の分裂という形で起こりますし、異質な者の排除という形を取ることもあります。自分自身が出て行くという形を取ることもあるでしょう。いずれにせよ、忍耐を要する関係は切ってしまった方が楽になります。そのように、私たちの自然の性質は忍耐を要する関係からの逃げ道を求めます。

 しかし、忍耐を要する人間関係から私たちが逃げ回って生きることを、神様は望んでおられません。神は、互いに異なる者が共に生きることを望んでおられるのです。さらには、互いに異なる者たちが、心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望んでおられるのです。教会という存在自体が既にそのような神の心が表れです。教会はもともと同じ思いを抱いている者が「集まった」のではありません。キリストにより、背景の異なる様々な者たちが「集められた」のです。何のために?集められた者たちが、心を合わせ声をそろえて主を礼拝するためにです。

 そのように、神様は私たちが互いに相手を受け入れ、一つとなっていくことを求めておられる。そのような神様であるからこそ、神様はまた私たちに対して、「忍耐と慰めの源である神」となってくださるのです。今日の説教題は「希望の源である神」です。13節に書かれています。しかし、その「希望の源である神」は、「忍耐と慰めの源である神」なのです。そのような神だからこそ「希望の源である神」でもあるのです。

 ちなみに「忍耐と慰めの源である神」というのは意訳です。原文には「忍耐と慰めの神」と書かれているのです。その第一の意味は、確かに新共同訳にあるように、「忍耐と慰めの源である神」ということなのでしょう。私たちに必要な慰め(励まし)を与え、忍耐を与えてくださる神様であるということです。神様が望んでいることの実現に必要なものは、神様が与えてくださるのです。だからその御方にパウロは祈り求めているのです。

 しかし、「忍耐と慰めの神」とは、「忍耐強く慰めに満ちた神」という意味でもあります。実際、聖書には神が忍耐強い御方であることが繰り返し語られています。そして、私たちたちがキリストを通して見いだす神は、まさに「忍耐強く慰めに満ちた神」であると言えるでしょう。神がまず私たちを耐え忍んでくださいました。神がキリストにおいて、私たちを赦してくださいました。神がキリストにおいて、私たちを受け入れてくださいました。私たちは当たり前のように今ここにいますけれど、ここに私たちが集まっていること自体、まさに神の忍耐と慰めの賜物なのでしょう。本来ならば、遠の昔に打たれて滅ぼされていても不思議でない私たちです。しかし、神は確かに私たちに対して「忍耐と慰めの神」でした。

 この「忍耐と慰めの神」への祈りがあってこその、今日の勧めの言葉です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。そのようにあろうとするならば、「忍耐と慰めの神」こそが源泉です。水源から切り離された川は涸れてしまいます。私たちの忍耐が神から切り離されるならば、それは干乾びた「やせ我慢」にしかなりません。干乾びた我慢は対立を克服する力を持ちません。むしろ怨念を増大させ亀裂を深めます。干乾びた我慢ではなく、命に満ちた、真に力に満ちた忍耐と慰めを神に求めましょう。神は「忍耐と慰めの神」なのですから。

希望の神
 そして、この「忍耐と慰めの神」こそが、「希望の神」でもあるのです。この「希望の神」にパウロはこう祈っています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(13節)。この祈りに見られる「喜び」にしても「平和」にしても「希望」にしても、私たちが生きるために不可欠なものでしょう。それらを与えてくださるのは「希望の神」です。そして、「希望の神」は「忍耐と慰めの神」なのです。

 「忍耐」と「希望」。この二つは切り離すことができません。実は、この二つが切り離せないことは、この同じ15章において既に語られているのです。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。「かつて書かれた事柄」とは「聖書に書かれている事柄」ということです。この聖書から「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と言うのです。「忍耐と慰めを学ぶ」とは、既に語ってきた「忍耐と慰めの神」を知るということでしょう。その神を知ってこそ、「希望の神」をも知ることができるのです。

 先にも申しましたように、神は互いに異なる者が共に生きることを望んでおられます。互いに異なる者たちが心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望んでおられるのです。パウロの時代において、互いに異なる者たちの代表は「ユダヤ人」と「異邦人」でした。最初の教会にはユダヤ人しかいませんでした。しかし、神のビジョンの中には初めからユダヤ人以外、すなわち異邦人たちも含まれていたのです。神はその両者が共に心を一つにして礼拝することを望んでおられたのです。それは既に旧約聖書において語られていたことでした。

 パウロはここで次のような旧約聖書の言葉を引用しています。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(10節)、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」(11節)。それら旧約聖書の言葉が描き出しているのは、まさに全世界が心を合わせ声をそろえて主を礼拝している姿です。キリストが来られたのは、まさにそのためであったとも言えるのです。「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」(8‐9節)と書かれているとおりです。

 一方、私たちが現実に周りを見回せば、それとは正反対の世界があります。そこには人間の罪のゆえにズタズタに引き裂かれた世界があります。互いに傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている世界があります。最も小さな単位であるはずの家族でさえ喜びをもって共に生きることはしばしば困難です。親と子は引き裂かれ、夫婦の関係も引き裂かれている。それがこの世界の姿です。そして、残念なことに、それはまたこの世界に存在する現在の教会の姿でもあります。

 しかし、私たちはもう絶望しなくてよいのです。もう諦めたり、逃げ出したり、投げ出したりしなくてよいのです。この世界はキリストの血潮が流された世界だからです。神が御子の血を流してまで、赦し、受け入れ、忍耐をもって担おうとしておられる世界だからです。そのように、私たちをも赦し、受け入れ、忍耐をもって担っていてくださるのです。だから私たちは、神のビジョンの中に既にあるように、身近な人間関係においても、さらには全世界についても、一つとなって心を合わせ声をそろえて礼拝するその時を希望をもって待ち望んでよいのです。私たちは、希望をもって喜んで生きてよいのです。「忍耐と慰めの神」は「希望の神」でもあるからです。

 私たちが身近な小さな対立を乗り越え、互いに受け入れ合うことなど、ある意味では世界の片隅における本当にちっぽけなことかもしれません。しかし、その小さな現実の中で私たちが「忍耐と慰めの神」と共に生きていくことは、この世界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。「忍耐と慰めの神」に祈りつつ、教会が心を合わせ声をそろえて礼拝しようとしていることは、この世界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。私たちは「忍耐と慰めの神」に、命に満ちた、真に力に満ちた忍耐と慰めを祈り求めましょう。そのようにして、「希望の神」をも知る者とならせていただきましょう。そして、「希望の神」をこの世界に指し示す教会にならせていただきましょう。
(祈り)

2018年12月2日日曜日

「解放の時は近づいている」

ルカ21:25-33

身を起こして頭を上げなさい
 今日読まれましたのは「世の終わり」に関するイエス様の言葉です。ところで「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」や「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。一般的に「世の終わり」という言葉が用いられる時に人がイメージするのはどちらでしょうか。どちらかと言えば、「破局」としての「終わり」ではないかと思います。

 今日の聖書箇所の直前には、一つの「破局」としての「終わり」について語られています。エルサレムの滅亡です。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20節)という言葉から始まり「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」と続きます。

 主が語られた「エルサレムの滅亡」はそれから約40年後に、予告どおり実現することとなりました。エルサレムはローマの軍隊に囲まれ、破壊されてしまうのです。それは決して「世の終わり」ではありませんが、ユダヤ人にとってはある一つの決定的な「終わり」に他なりませんでした。それはまさに「破局」としての「終わり」だったのです。

 イエス様はやがて実現する「エルサレムの滅亡」の描写に続いて、今日の箇所の話をされたのです。ユダヤ人だけでなく、他の諸国民にとっても破局としか思えないような「世の終わり」について語り始めたのです。そのありさまは、極めて象徴的な言語を用いてですが、次のように語られています。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(25‐26節)。

 「天体が揺り動かされる」というのは、いわば最も確かに見えるものさえも揺り動かされるということです。古代の人々にとって天体は不変の法則と秩序を代表するものだったからです。たとえ国家が滅びるようなことがあったとしても、社会の体制が崩壊するようなことがあったとしても、それでも変わることなく太陽は昇るのです。そして、また沈むのです。人の世に何が起ころうとも、月と星は定められたとおりに動きます。それは最後まで信頼できる秩序として残るように見えます。しかし、その天体さえも揺り動かされると主は言われたのです。つまり世の信頼できる秩序はもはや何も残らないということです。そこで人は「なすすべを知らず、不安に陥る」と書かれています。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえるのです。主はこのような表現を用いて、すべてが崩壊し、すべての希望が失われる、「破局としての終わり」について語っているように見えます。――そう、そのように見えるのです。

 ところが、ここで話がひっくり返ります。イエス様はこう続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(27‐28節)。

 崩壊と絶望に向かっているとしか見えなかったこの世界が、実はそうではなかったことが明らかになるのです。未来に待っていたのは破局ではなかったのです。主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近い」と。すなわち、救いの時は近い、ということです。なぜなら人の望みが断たれたところにおいて、神の救いが向こうからやってくるからです。「人の子が…雲に乗って来るのを、人々は見る」とはそういうことです。

 ここに書かれている「人の子」とは、この場合、世の終わりに再び来られるキリストです。解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。「雲に乗って」という表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7:13)。「雲に乗って」ということは、要するに人間が普通考えるような仕方では来ないということです。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で救いは来るのだ、ということです。

 考えて見れば、最終的な救いの話に限らず、聖書に書かれている神の御業の物語は、そんな話ばかりではありませんか。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で救いは来る。だから、私たちは不安と恐れに支配されてはならないのです。「その時こそ、あなたがたは身を起こして、頭を上げなさい」と主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

わたしの言葉は決して滅びない
 そしてイエス様は、このことについて、さらにたとえを用いて教えられます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(29‐31節)。

 このイエス様の言葉も、普通に読むならば、とても変な話だと言えます。葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。それは聴いている人たちが経験から知っていることでした。「葉が出始めたこと」から「夏が近づいたこと」は自然に連想できることなのです。これはわかります。問題はその先です。「それと同じように」と主は言われるのです。「それと同じように」と言うならば、どういう言葉が続くのが自然でしょうか。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」となるのでしょう。不安や恐れを抱かせる出来事が起こるのを見たら、それこそが自然に連想できることでしょうから。しかし、イエス様はそう言われないのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われるのです。

 「神の国が近づいている」ということは、言い換えるならば「神の救いが近づいている」ということです。ということは、自然な連想とは、まったく逆のことを考えなさいということです。それはどうしてでしょうか。ここで重要なのは「あなたがたは」という言葉です。先に語られた言葉も含め、イエス様は弟子たちに語っているのです。ならば、「あなたがたは」とは、「わたしを信じるあなたがたは」という意味に他なりません。イエス様を信じるのならば、この世と同じように考えてはならない、ということです。

 イエス様を信じるのならば、新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から救いの到来を思うべきなのです。そこで「神の国」の到来を思うべきなのです。「イエス様を信じるのならば」と言いました。そこで求められているのは、イエス様とその御言葉への信頼です。ですから主はさらに御自分の言葉について次のように宣言されるのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32‐33節)。

 イエス様はこういうことを言われる御方なのです。「天地は滅びるが――」と主は言われる。エルサレムが滅びるどころの話ではありません。天体が揺り動かされるどころの話ではありません。イエス様はこれまでの話を究極にまで押し進めます。「天地は滅びるが――」。しかし、たとえそのようなことが起こったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」と宣言されるのです。天地が滅びても、イエス様の言葉が最終的に残るのです。主が言われたとおりになるのです。主が言われるとおり、そこになお救いがあるのです。人の子は雲に乗って来るのです。救いは向こうから来るのです。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で救いは来るのです。

御言葉を信じて今を生きる
 さて、主が語っておられるのは「世の終わり」についての話です。しかし、「世の終わり」についての話は、ただ「世の終わり」にのみ関わるのではありません。「世の終わり」をどう見るかが、現在の生き方を方向付けるのです。既にイエス様の言葉を聞いて感じておられると思いますが、イエス様がここで語っておられることは、世の終わりにではなく、「今」私たちがどのように生きるのかということと深く関わっているのです。

 私たちは今、エルサレムの滅亡に相当するような、破局的な出来事に巻き込まれているわけではありません。現在この世界が多くの困難に直面しているとはいえ、天体が揺り動かされるような事態に置かれているわけではありません。しかし、私たちが今、直面しているのは終末的な事態ではないにせよ、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくようなこと、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくような経験をすることはあるのでしょう。何をしても、どうあがいても、事態が悪くなっていく一方で、ただ自分の無力さに苛まれながら時を過ごすこともあるのでしょう。そのような時、人は何を考えるのでしょう。どこに向かっていると考えるのでしょう。どのような「終わり」を思い描くのでしょう。それは破局としての終わりでしょうか。

 しかし、私たちが依り頼み、信じている主は、私たちがこうして礼拝している主は、たとえ天体が揺り動かされるような世の終わりであっても、「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われる御方なのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われる御方なのです。そして、そのような御自分の言葉について、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される御方なのです。イエス様とはそういう御方なのです。

 私たちはそのような主とその御言葉に信頼して生きる者とされたのです。信仰生活を与えられているとはそういうことです。ならばただ私たちの目に映ることによって、未来を推し量ってはなりません。今目にしていることによって、未来の望みを奪われてはなりません。神の救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で救いは来るのです。人の子は雲に乗って来られるのです。それゆえに、私たちはいかなる状況にあっても、待ち望む者として、待望する民として、今を生きるのです。たとえ天地が滅んでも、決して滅びることのない主の御言葉に依り頼んで!

(祈り)

2018年11月25日日曜日

「後戻りしない神の計画」

サムエル記下5:1-5

全イスラエルの王となったダビデ
 「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした」(3節)。

 ダビデはイスラエル12部族の内、ユダ族の出身です。この時点でダビデは既にユダ族の王となっていました。そこに「イスラエルの長老たち」がやってきます。この場合、「イスラエル」というのは、ユダを除いたイスラエル諸部族のことです。この少し前まで、イスラエルはユダ族と他の諸部族に分裂し、内戦状態にありました。しかし、今日の聖書箇所に至って、ついに他の諸部族の長老たちがやってきてダビデに油を注ぎ、「イスラエルの王」としたというのです。

 このことにより、ダビデは晴れて全イスラエルの王となりました。それが今日の箇所の伝えるところです。ですから、ダビデの統治についてのまとめとして、次のように書かれているのです。「ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した」(4‐5節)。

 このダビデ王家は、その後400年以上にわたり、イスラエルとユダ王国を治めることになります。このダビデ王朝という背景なくしてメシア待望はありません。そして、キリストはまさにこの章で誕生するダビデ王家の末裔として、この世に来られることになるのです。その意味において、ここに書かれていることは人類の歴史において決定的な意味をもった出来事であると言えるでしょう。

人の知恵と力によらず
 さて、今日朗読されましたこの箇所を理解するためには、ここに至るまでの流れを見ておく必要があります。そこで理解の鍵となるのは「アブネル」という人物です。彼はサウルの軍隊の司令官でした。血筋においてはサウルの従兄弟に当たります。

 今日はサムエル記下5章をお読みしましたが、このサムエル記下は「サウルが死んだ後のことである」という言葉から始まります。イスラエルの王サウルの軍隊はペリシテ人との戦いに敗れました。サウル王もその息子のヨナタンも戦死してしまいました。ペリシテ人の支配は一気に拡大し、イスラエルの王国は崩壊の危機に直面することとなりました。

 そこで立ち上がったのが軍の司令官アブネルでした。彼は生き残っていたサウルの息子であるイシュ・ボシェトを王として擁立し、敗戦後のイスラエルの再建に着手しました。いったんヨルダンの東に退いて、人々をまとめ上げながら時を待ったのです。

 しかし、その矢先、イスラエルの一部族であるユダ族が単独でダビデに油を注いで彼らの王とするということが起こりました。先ほども触れましたように、ダビデはまずユダ族の王となったのです。それは一面においては、ダビデが王となるという神の約束が、まずユダにおいて実現した出来事であったと言えます。しかし、アブネルからすれば、それはサウル王家に対する反逆以外の何ものでもありません。ユダ族が正統な王家に逆らった、と。この結果、イスラエルは内戦状態に陥ることになりました。アブネルは将軍ヨアブが率いるダビデの軍隊と戦うこととなりました。

 しかし、もとよりこれはアブネルが望んでいたことではありませんでした。アブネルの望みはあくまでもイスラエル全体の再建なのです。この事態は望ましくないと思いました。アブネルは停戦を呼びかけました。そして、停戦が実現しました。ところが、今度はアブネルが擁立したイシュ・ボシェトとアブネルの間に亀裂が生じます。イシュ・ボシェトは擁立された王ではありましたが、彼にはこの難局を乗り切る実力はありませんでした。アブネルからすれば傀儡に過ぎなかったのです。しかし、イシュ・ボシェトはそれを良しとしませんでした。

 イシュ・ボシェトと決裂したアブネルは、サウル家に見切りをつけ、大きな方向転換を決断します。彼は今まで敵であったダビデを、全イスラエルの王とすべく動き始めるのです。ダビデを中心に、イスラエルをまとめあげようとしたのです。アブネルはイスラエルの中でダビデに好意的であった長老たちを取りまとめるために奔走しました。しかし、困難なのはベニヤミン族でし。サウルのお膝元ですから。しかし、反対するベニヤミン族を説得し、ついにダビデとの直接交渉に至りました。そのようなことが3章に書かれています。

 ダビデとの会談は終始和やかな雰囲気のもとに進められました。アブネルがそこでダビデに約束した言葉がこう記されています。「わたしは立って行き、全イスラエルを主君である王のもとに集めましょう。彼らがあなたと契約を結べば、あなたはお望みのままに治めることができます」(3:21)。原文ではもっとあからさまな表現です。「私が立ち上がり、私が行き、私が全イスラエルを主君である王のもとに集めましょう」と。お分かりになりますか。アブネルは、「ダビデよ、あなたを全イスラエルの王にできるのは私だ!」と言っているのです。これはまことに有能な人が言いそうな言葉です。しかし、残念なことに、その有能さが彼の身を滅ぼすことになりました。彼はこの直後に、ダビデの軍の司令官、ヨアブに暗殺されることになるのです。

 その暗殺の場面は極めて奇妙です。ヨアブがアブネルに「静かなところで話したい」と申し出るのです。彼は二十人の部下を連れていたはずなのに、一人でヨアブと城門の中に入っていくのです。まるで暗殺してくれと言っているようなものです。そこにアブネルの驕りがあったと言わざるを得ません。それはダビデを統一王国の王にできるのは私以外にはいないという驕りです。そこにはダビデとその家臣たちの未来にとって自分は無くてはならぬ存在だという自負があったのです。

 それはある意味で無理からぬことでした。実際、ユダ族の大多数は他の諸部族との和平推進派であったのです。兵士たちは皆、アブネルの提示したプランが実現することを望んでいました。イスラエルとユダの和平が成立して、ダビデが統一王国の王となることを皆が望んでいたのです。そこで誰の目から見ても、その鍵を握っていたのはアブネルという人物なのです。

 しかし、その自負が、その驕りが、まことに皮肉なことですが、彼の身に滅びを招いたのです。そして、これもまた皮肉なことに、彼がいなくても、いずれにせよダビデは統一王国の王となったのです。実権を握っていたアブネルがいなくなったことで、サウル王家が崩壊することになったからです。そのように人間の策略が無に帰したところで、それでもなおダビデは王となったのです。誰によってですか。神によってです。それが今日の聖書箇所の伝えているところなのです。

成就する主の約束
 今日の箇所に戻ります。アブネルが暗殺され、サウル王家のもとにあった体制が崩壊した時、イスラエルの長老たちはダビデのもとに来て、ダビデと契約を結び、彼に油を注いでイスラエルの王としました。ここで注目に値するのは、彼らがダビデに語った言葉です。「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と」(2節)。

 これは恐らくかつてアブネルが言って回っていた言葉に由来するのでしょう。アブネルがダビデ擁立に向けてイスラエルの長老たちを取りまとめようとしていた時に、彼が長老たちに届けた言葉はこうでした。「あなたがたは、これまでもダビデを王にいただきたいと願っていた。それを実現させるべき時だ。主はダビデに、『わたしは僕ダビデの手によって、わたしの民イスラエルをペリシテ人の手から、またすべての敵の手から救う』と仰せになったのだ」(3:17‐18)。このようにアブネルはイスラエルの長老を説得するに当たって主の約束の言葉を用いたのです。そして、長老もまたその約束の言葉を引き合いに出して、ダビデを王としたのです。

 アブネルが実際には、ダビデを王とするのは自分の実力によると信じて疑わなかったことは既に見て来たとおりです。また、イスラエルの長老たちが、主の約束を本当に信じていたのかどうか、それも疑わしいと言えなくもありません。実際に彼らが注目していたのは指導者としてのダビデの実力でしょうし、単に政治的な理由からダビデ擁立に賛同したのかもしれません。

 しかし、人間が信じようと信じまいと、そんなこととは無関係に神は約束の実現に向けて事を進められるのです。イスラエルの長老たちが信じようが信じまいが、とにかく彼らの言葉を通して、この油注ぎが確かに主の約束の成就であることを、聖書は私たちに伝えているのです。

 主の約束――それは元を辿れば遠い昔、ダビデがまだ少年であった時に与えられたものでした。サムエルがダビデの住んでいた町を訪れ、羊を飼っていた末の子であるダビデに油を注いだのです(サムエル上16章)。サムエルはこの世に対して公にダビデの即位を宣言したわけではありませんでした。それはこの世からは隠された油注ぎでした。その後、ダビデは当時の王であったサウルに妬まれ、命を狙われ、荒れ野を逃げ回れる厳しい期間を過ごすことになりました。しかし、隠された油注ぎは、時満ちて公の油注ぎとして人々の前に現されることになったのです。

 その時、ダビデは37歳、既に最初の油注ぎから二十年を経過しておりました。この二十年間、少なくともユダの王であった7年半を除いた期間、ダビデは王の姿ではありませんでした。否、むしろ人の目から見るならば、神の約束が反故になったかのように見える期間があったのでしょう。しかし、神の計画はあの最初の油注ぎの時から、人の目に隠れたところで確実に進んでいたのです。人間の力や思惑とは全く関係なく!

 このことは、ダビデの子孫として来られるメシアについて予表となるような出来事であったとも言えます。ナザレのイエスというお方は、来るべき真の王として神に油注がれたお方でした。しかし、その最初の到来の時、主は十字架の上で死なれたのであって、その十字架に掲げられた「ユダヤ人の王」という言葉は嘲笑の材料にしかならなかったのです。その王なることは肉の目には隠されたままでした。今日もなおキリストはこの世においては全被造物世界の王として認められてはいない。今日もなお侮られているのです。しかし、やがてその覆いが取り除かれる時が来るのです。後の日にダビデの公の油注ぎがあったように、やがてキリストが真の王であることが明らかにされる時が来るのです。そして、今、人の目には隠されていますが、確実に歴史はその時へと向かっているのです。それがキリストの再臨です。

(祈り)

2018年11月4日日曜日

「神の憐れみの物語」

創世記9:8‐17

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。先に召された方々のご関係の方々が、今日は大勢お見えになっています。こうして共に礼拝できますことを嬉しく思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

神の憐れみによって
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、旧約聖書の中のたいへん有名な話です。残念ながら全部を読むことができないので、最後の部分だけお読みしました。「ノアの箱船」の話です。神様がこの地上に大洪水を起こされたという話です。その時に箱船を乗り込んだノアとその家族、動物たちが救われたという話です。

 「ノアの箱船」の物語は、創世記の6章から始まります。事の発端は次のように描かれております。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:5‐6)。そして「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(同12節)。この「肉なる者」というのは、この場合、人間のことです。さらに言うならば、聖書に書かれているように「常に悪いことばかりを心に思い計っている」人類のことです。これは何千年も前に書かれた物語ですが、神様が御覧になっている世界の有様は昔も今も少しも変わらないものだと改めて思わされます。

 それにしましても、神様が「後悔し」たり、「心を痛められ」たりするのは、ある意味ではとても不思議な表現でもあると思います。当然のことながら、このような疑問は起こるでしょう。「どうして神は後悔するような事態を未然に防ぎ得なかったのか。どうして神は堕落しないように人間を造らなかったのか。造れなかったのか。」しかし、当然起こるであろうそのような疑問に対して、聖書には全く説明も弁明もありません。どうも聖書はそのような「なぜ」に直接答えることには、あまり関心を持っていないようです。

 聖書の関心は、《どうしてそうなったのか》ということよりも、《現実はどうであるか》ということに向かっているようです。分からないことについて「なぜ」と問い続けていることより、現実と向き合うことの方が大事だからです。確かにこの地上には人の悪が満ちている。人間は常に悪いことばかりを心に思い計っている。そのような現実があるのです。「地は堕落し」とありましたが、肉なる者が神の前に堕落しているという現実があるのです。どうしてそうなったかはさておき、聖書が描き出しているこの世界のありさま、否定しようのない現実があるのです。

 そこで物語は次のように展開していきます。そのような世界を御覧になった神様は、悪に満ちたこの世界を神は滅ぼすと宣言します。聖書には次のように書かれています。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。(ちなみに、「地は堕落し」とありましたが「堕落し」という言葉と「滅ぼす」という言葉は、日本語ではずいぶん違いますが、原文ではもともとは言葉なのです。「滅びる」というのは、神様が滅ぼして滅びるのではなくて、「堕落している」ということ自体、神に背いているところにおいて、既に滅びは始まっているのだという理解があります。)

 ともあれ、いずれにしても、この物語においては神様が「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と言われて、この言葉を実現するために、神は洪水を起こされたという話が続くのです。

 さて、この話は一面においては大変恐ろしい話です。災いをもってこの世界を滅ぼされる神。そのような神の厳しさを示して、読者に恐れを抱かせ、改悛を促すという、いわゆる教訓物語としてこの話を読むこともできるのでしょう。そのような話は古今東西、様々な形で存在していますから。

 しかし、このノアの物語について言うならば、洪水という「災いの話」は、恐らくは物語の中心ではないのです。神の恐ろしさ、神の裁きを示すことが目的ならば、ずっと短い話で済むからです。実際にはそうではなくて、この物語は今日お読みした9章まで続くのです。それはなぜなのでしょうか。

 注目すべきは、神の言葉と神の行動の間の奇妙な矛盾です。神は「《すべて》肉なる者を終わらせる」と言われたのです。にもかかわらず、「箱船を造りなさい」(6:14)とノアに命じるのです。《すべて》を滅ぼすと言いながら、明らかに《すべて》を滅ぼすつもりはないのです。

 そもそも「すべて肉なるものを終わらせる時が来ている」という言葉を、当の「肉なるもの」の一人であるノアに話していること自体、おかしいではありませんか。その上で「箱船を造れ」と言われる。結果的には、箱船を造ったノアが残されるのです。いや、ノアだけならまだ分かります。実際には、ノアだけでなく、その家族も残されるのです。さらには箱船に乗り込んだ地上の動物たちも残されるのです。

 洪水が起こって5ヶ月ほどすると、水が引き始めます。箱舟はアララト山という山の上にひっかかりました。そして、洪水が始まって一年後、完全に水がひきました。ノアと家族と動物たちは船を出て、神を礼拝します。その時、神はこう言われるのです。「人のために大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(8:21)。洪水によって良い人間だけが残ったから「大地を呪うことはしない。もう滅ぼすことはしない」と言っているのではありません、人間が悪くなくなったから「滅ぼさない」と言っているのではないのです。これからも多分悪いに違いない。「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」と神は言われるのです。しかし、それでもなお神は地を呪わない、神は滅ぼさないと言われたのです。

 この物語は私たちに何を伝えているのでしょう。神の憐れみです。この洪水の物語は、「神の裁きの物語」ではなく、結論から言いますならば、これは「神の憐れみの物語」なのです。少なくとも、これを大切に伝えたイスラエルの民にとって、これは単なる過去の話ではありませんでした。なぜなら、彼らは憐れみによって残されるということを経験してきた人々だからです。特に、国家の滅亡と捕囚を経験した人々にとっては過去の話ではなかった。残されたノアとその家族と動物たち――そこに彼らは自分の姿を見たのです。これは神の憐れみの物語なのです。

 聖書の物語を読む時に、そこに自分自身を見いだすということは、聖書を読む上で大切なことなのでしょう。私たちが神の裁きによって滅ぼされるのではなく、今なお神の恵みの中に残されています。この世界もまだ残されています。それは、本当は当たり前のことではないのです。この世界は神の憐れみによって成り立っている世界なのであり、その上に営まれている私たちの生活は、まさに神の憐れみによって与えられている生活なのです。

神によって立てられた契約
 本日朗読されたのは、そのような物語の最後の部分です。注目すべき言葉は、今日の朗読においてくどいほどに繰り返されている「契約を立てる」という言葉です。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:9‐11)。

 私たちは通常「契約を立てる」という言い方はいたしません。「契約を結ぶ」と言います。聖書には「契約を結ぶ」と訳される言葉が別にあります。日本語では契約を「結ぶ」ですが、もともとのヘブライ語では契約を「切る」と表現します。実際の行為としては、契約を結ぶ時、当事者たちは二つに切り裂かれた動物の間を通るということをいたします。そうすることによって、契約を破ることは死を意味することを承認するのです。こうして契約が結ばれます。そのように、契約を「切る」と表現する時には、両者が関わるのであり、両者の真実が問われるのです。

 ところが、ここでは神が「契約を立てる」と言っているのです。立てるのは神です。立てることに関わっているのは神だけです。その意味では一方的に結ばれる関係です。

 先にも見ましたように、裁きの対象となっていたのは「すべて肉なるもの」でありました。ノアもその家族も、その「すべて肉なるもの」の内にありました。そして、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」と言われていたように、本来、すべて肉なるものと神との関係は終わっているのです。それはノアとその家族、残された動物たちも同じなのです。にもかかわらず、ただ一方的な神の憐れみによって残されたのです。そして、神の側から、まったく一方的に、神とすべて肉なるものとの間に、契約が立てられたのだというのです。

 そして、その契約のしるしは「虹」であると語られていることも重要です。虹は代々にわたって現れます。そのように神は代々にわたってこの契約に心を留めてくださるのです。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(9:16)と主は言われるのです。

 私たちはいったいこの世界をどのように見ているのでしょう。そこに生きる私たち自身をどのように見ているのでしょう。この世界の中にある私たちの人生をどう見ているのでしょう。この世界もそこに生きるすべてのものも、ただ滅びに向かっているだけの意味のない存在なのでしょうか。いいえ、そうではないと聖書は教えているのです。

 この世界は、神によって立てられた永遠の契約の対象なのです。この世界はそのような世界なのです。すべて肉なるものはそのような存在なのです。そのゆえに神は、すべて肉なるもののために壮大な救いの計画を立てられ、そのひとり子をこの世界に遣わされたのです。神はひとり子を「肉なる者」の一人とすることさえ厭われなかったのです。

 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8:21)と主は言われました。確かに主の言われるとおりです。この被造物世界は今もなお、そのような人間の罪のゆえに、苦しみと嘆きの声が絶えることのない世界です。確かにそのような世界の中に私たちは生きています。しかし、そのような世界にも、繰り返し虹が立つのです。これは繰り返し虹の立つ世界です。すなわち、今もなお神の愛と憐れみの対象とされている世界です。

 そしてこの大地は罪の贖いの十字架が立てられた大地であることを私たちは知っています。そのような大地の上に私たちは生かされているのです。神の憐れみの中に生かされているのです。そして、神の憐れみによって語りかけられ、神の憐れみによって呼びかけられているのです。

(祈り)

2018年10月28日日曜日

「嵐の中からの答え」

ヨブ38:1‐11

 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:1‐3)。そのように主は確かにヨブに答えられました。しかし、ヨブに対する説明をもって答えたのではありませんでした。主は自ら問いかけることによってヨブに答えたのです。「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」と。

正しい人、ヨブ
 ヨブという人物についてはヨブ記の最初にこう語られています。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(1:1)。しかし、この正しい人ヨブが大きな苦しみを負うことになりました。彼は息子たち娘たち、そして財産を失います。しかし、ヨブは地にひれ伏してこう口にしました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)。ヨブの苦難に伴うこの言葉はたいへん良く知られた言葉です。

 さらにヨブは家族や財産だけでなく、自らの健康をも失いました。ヨブは全身ひどい皮膚病にかかり、素焼きのかけらで体中をかきむしったと書かれています。その凄惨なありさまを見てヨブの妻は言いました。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。しかし、ヨブは答えます。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)。

 これがこの物語に登場してくるヨブという人物です。まさにその言葉を聞いても、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と書かれて然るべき人物だと思います。そのような正しい人、だれよりも敬虔な人が、なぜ苦しみを負うことになったのか。聖書は、その背後に神とサタンとのやり取りがあったのだと語ります。

 神はサタンに言います。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」それに対してサタンは言うのです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。…ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」そこで主は言われるのです、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい」と。ヨブ記1章に書かれているやり取りです。その結果は先に述べたとおりです。ヨブは面と向かって神を呪うことはありませんでした。

 しかし、そこでサタンはさらに言うのです。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(2:4‐5)。そこで主は言われます。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」というわけで、ヨブは皮膚病に冒されることになるのです。しかし、そこでもヨブは神を呪うことはありませんでした。

 さて、これがヨブ記1章と2章に見る、ヨブの苦難の説明です。さらに言うならば、ヨブだけではありません、この世において多くの正しい人が負っている苦しみについての説明であるとも言えるでしょう。つまり苦しみにおいて神に対するあり方を試されているのだ、信仰を試されているのだというのが一つの説明です。それはそれで分かるような気はします。私たちが苦しみを「試練」と呼ぶときに考えているのはこういうことでしょう。

 しかし、ヨブ記が語ろうとしているのは、「神の与えた試練と人間の敬虔な応答」ということに留まりません。それだけなら、ヨブ記は数章で終わる短い話になるでしょう。しかし、実際にはそうなっていないのです。

 神とサタンのやり取りによる説明もさることながら、本当に重要なことは、このやり取りが《ヨブの全く知らないところでなされた》ということです。「主の前に神の使いたちが集まり」というのですから、これは天における出来事です。つまり人間の苦しみについては天に関わる領域があるということです。それゆえに人間の知り得ないことがあるのです。物語ですから私たちはこのやり取りの内容を読んでいるわけですが、その内容も、本来は、私たちにも知り得ないことのはずなのです。

 それゆえに、ヨブ記は「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」というヨブの敬虔な言葉で終わらないのです。単に苦難を試練して説明する話に終わらないのです。その試練の中において敬虔であることを勧める話に終わらないのです。ヨブ記の大部分は「論争の言葉」なのです。

友人との論争
 その論争とは、ヨブと友人たちの論争です。友人たちは、もともとヨブを慰めに来たのです。こう書かれています。「さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(2:11‐13)。

 そのように、3人の友人たちは、ヨブの苦しみを自らの苦しみとして嘆いていたのです。ところが、ヨブが嘆きの言葉を口にし、自分の生まれた日を呪い始め、「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と口にし始めると、友人たちは次第にヨブを諭し始めるようになります。そして、ヨブとの対話は論争に発展していくことになるのです。その論争が延々と27章まで続きます。ヨブが語り、三人のうちの一人が語り、ヨブが答え、別の一人が語り、さらにヨブが答え、もう一人が語る。そのようなやり取りを3ラウンド繰り返してヨブ記の前半が終わります。

 ヨブと友人たちの論争については、実際に時間をかけて読んでみていただきたいと思いますが、ここであえて大まかに要約するならば、ヨブの友人たちの主張は要するに、「ヨブよ、お前は罪を犯した。だから苦しみを受けているのだ」ということです。それに対してヨブの主張は「わたしはこんな苦しみを受けるような罪を犯してはいない。間違っているのは神だ」と言っているのです。そして、ストーリーからするとヨブの言うとおりなのです。別にヨブが悪いから神は罰として苦しみを与えたわけではないのです。ともあれ、友人たちは「ヨブが悪い」と言い、ヨブは「神が悪い」と言って論争しているのです。

 さて、真っ向から対立しているこの二つの主張ですが、実はヨブと友人たちには共通点があります。どちらも「自分は分かっている」と思っているという点です。「わたしは知るべきことは知っているし、分かるべきことは分かっている」。それが共通点なのです。

 彼らが共通に身を置いているのは、例えば旧約聖書の「箴言」に見られる伝統的な考え方です。「箴言」というのは格言集ですが、そこでは「神に従う人」と「神に逆らう人」とが対比されて語られています。そして、「神に従う人」と「神に逆らう人」はそれぞれふさわしい報いを受けることになっています。例えば、典型的なのはこのような格言です。「神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる」(箴言10:7)。ヨブも友人たちもこのような伝統の中に生きているのです。

 そのように、ヨブも友人たちも、箴言に書かれているようなことは知っていたし、学んできたのです。また自らの人生においても、その経験を積み重ねてきたのです。その意味ではどちらも「物事が分かっている人間」なのです。そして、その自分が分かっていることに従って言うならば、友人たちによれば「ヨブよ、苦難を受けているとするならばお前が悪い。お前が神に逆らったからだ」ということになるのでしょう。しかし、ヨブからすれば「いいや、神に従う者がなお苦しむとするならば、神が悪い」ということになるのです。

嵐の中からの答え
 そして、この論争を経て、29章以下からはヨブのモノローグが始まります。それは嘆きの言葉から始まり、次第に神に対する激しい訴えの言葉へと変わっていきます。「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」(30:20)。彼は法廷に立っているかのように、自らの潔白を主張し始めるのです。そして、ついに彼は神と対決するに至るのです。

 ヨブは言います。「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状をわたしはしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」(31:35‐37)。

 神様に対する言葉なので丁寧に訳されていますけれど、内容的には「どうか、わたしの言うことを聞いてください」ではありません。「私の言うことを聞け!」と言っているのです。「神が告訴状を書いてくると言うなら上等だ。受けて立とうじゃないか。私の歩みの一歩一歩を示して、対決してやる!」そう言ってヨブが息巻いているのです。

 さて、今日の聖書箇所は、直接はその31章に続くのです。その時、嵐の中から主は答えられたのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:2‐3)。神は天上におけるサタンとのやり取りについて語りませんでした。すなわち、苦難について、その意味についても目的についても、一言も説明なさらなかったのです。苦難については、あくまでも人間の知り得ないことがあるのです。それは明らかにはされないのです。

 その代わりに主はヨブに問いかけたのです。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)。それは無茶な話です。大地を据えたとき、ヨブはおろか、最初の人間すらそこにはいなかったのです。すなわち、この世界は人間のいないところで造られた世界だということです。なるほど言われてみればそうでしょう。人類の出現はこの世界の成り立ちにおいて最も歴史の浅いところに属するのですから。この世界のほとんどは人間のいないところで成立したのです。そのような世界のただ中に生きているのです。人間はこの世界についてすらほとんど何も知らないのです。ましてや神が天上において定めたことの意味や目的を知り得るはずがありません。

 この世界には知り得ないことがある。苦難についても知り得ないことがある。ならば大事なことは、「すべてを知っておられる方」の前に膝をかがめることなのでしょう。その御方に信頼して生きることなのでしょう。それこそが神を畏れ敬うということなのです。そして、全く逆説的なのですが、それこそが私たちが本当に知らなくてはならないことなのです。それを聖書は「知恵」と呼びます。聖書にはこう書かれています。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と。ヨブ記という書物はまことの知恵をもって生きるための書物であると言えるでしょう。

 そして、このまことの知恵は、言葉としてだけでなく、一人の御方として形をとってこの地上に来られました。神の愛を指し示し、神への信頼を目に見える姿をもって現してくださった神の独り子、イエス・キリストこそがその御方です。その御方により、私たちはまことの知恵をもって生きるようにと招かれているのです。

(祈り)

2018年10月14日日曜日

「ペトロの涙」

マルコ14:66-72

強い人ペトロ
 イエスの一番弟子ペトロは、もともとガリラヤの漁師でした。当時の主な職業は一般的に世襲です。彼は漁師の家に生まれたので、漁師の子どもとして育てられたのでしょう。一人前の漁師になるために、親のもとで厳しい訓練を受けてきたのだと思います。漁に出たならば、舟の上ではそれぞれが自分の責任をしっかりと果たさねばなりません。そこでは自分の責任を担う強さが要求されます。舟の上で弱さをさらけ出したり、狼狽えたりして、仲間の足手まといになるわけにはいきません。それは一人前の漁師として恥ずべきことです。

 また、彼の家が通常のユダヤ人の家庭なら、彼もまたユダヤ人の子どもとして律法の教育を受けてきたことでしょう。ユダヤ人の子どもは一三歳になると成人を迎えます。「バル・ミツヴァ(律法の子)」と呼ばれるようになります。すなわち、ユダヤ人の共同体に属する者として、律法の義務が科せられるようになるのです。彼は責任ある大人として、定められたことをきちんと果たす強さを要求されることになります。律法を守ることができないということは、律法違反を咎められるだけではなく、一人前の大人として、実に恥ずべきことだったのです。

 もちろん、子供が大人となっていくプロセスにおいて、そのような自立した強さを要求されるということは、何もユダヤ人や漁師の家に固有なことではありません。この国に生きる私たちにもある程度身に覚えがあります。この国の子供たちの多くは「人様に迷惑をかけないように」と言って育てられます。人の手を借りずに自分のことはきちんと自分で出来る子が《しっかりした良い子》と呼ばれます。この国においても、やはり賞賛されるのは自立した強い人です。弱いこと、人に頼ることは、しばしば恥ずかしいことと見なされます。ですから、人生の最後まで、「子どもや孫の世話になどならない!」と言い張る人もいるのでしょう。

 しかし、現実はなかなか思い通りにはいきません。人の助けを得なくてはどうにもならない時はあります。自分の弱さをさらけ出してしまう時はあるのでしょう。一生の間には幾度も、狼狽えたり、取り乱したり、恥をかいたりということを繰り返すものです。しかし、本来は強いことが良いことだと思っているならば、弱さを覆い隠して、対面を取り繕おうとするのでしょう。いや、他の人に対して弱さを覆い隠そうとするだけでなく、自分自身に対しても覆い隠そうとすることもあります。弱い自分だと思いたくない。できるだけ自分の弱さを見ないようにしたい。恥ずかしいことは、それこそ心の箪笥の一番奥の方にしまい込んでしまいたい、と。

 どうもペトロという人物もそうだったようです。福音書を読みますと、彼はしばしば自分の弱さをさらけ出しています。例えばこんなことがありました。ある日、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖畔におりました時、主は「湖の向こう岸に渡ろう」と言い出されました。そこでイエス様と弟子たちは船出いたします。ところが突風が湖に吹き下ろしてきて、彼らは水をかぶり、危なくなりました。弟子たちは狼狽えます。見るとイエス様は嵐の中で舟が沈みそうだというのに、安らかにスヤスヤと眠っているではありませんか。彼らは主を起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」。すると、主は風と荒波とを叱って静め、弟子たちにこう言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8:25)と。嵐の中で落ち着いていたのは漁師でもないイエス様おひとりでした。全くもってプロの漁師としての面目丸つぶれです。それはペトロにとって実に恥ずかしい経験だったに違いありません。

 どんなに訓練を積んできたとしても、どれほど経験を積んでいたとしても、いざ命が危険にさらされる時、自分の心の内に何が起こるかわからない。そういうものなのでしょう。しかし、弱さをさらけだしたこの失態はペトロの心の箪笥の奥深くに仕舞い込まれてしまったようです。最後の晩餐を終えてイエス様と弟子たちがゲツセマネの園に向かっていた時、すなわちイエス様が捕らえられるその時が刻一刻と近づいていたその時に、イエス様はこう言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と。それは弟子たちがイエス様を見捨てて逃げていくことを意味しました。もちろん、それはペトロをも含めてイエス様は言われたのです。しかし、その時、ペトロはかつて弱さをさらけ出した自分であることを思い起こすことはありませんでした。彼は言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)。その思いは他の弟子たちにしても同じでした。

 これまで主日の礼拝においてマルコによる福音書が毎週朗読されてきました。そこにはイエス様と多くの人々との出会いの物語がありました。汚れた霊に憑かれた男が解放されました。重い皮膚病を患っていた人が清められ、社会に復帰していきました。友人たちに連れて来られた中風の者が罪の赦しの宣言を受け、癒されました。お腹をすかしていた五千人以上の人々にパンが与えられました。盲人の物乞いの目が癒されました。多くの人々が救いを求めて集まってきました。

 そのような人々との関わりの中で、あの十二人はどこにいたのでしょう。彼らは主に癒された人々をどのように見ていたのでしょうか。彼らはいつでも、イエス様の側近くにいたのです。癒される人々の側ではなく、癒すイエス様の側にいたのです。助けられる側ではなく、助ける側に身を置いていたのです。彼らは、癒された盲人の物乞いと自分たちとの間に、明らかに一線を引いていたと思います。少なくとも、彼らはそのような癒しを必要としてはいなかったからです。彼らはイエスに従う者であることを自認する「弟子たち」であり「使徒たち」です。そして、それぞれが死に至るまで弟子であり続けると思っていたに違いありません。

 しかし、イエス様は「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロにこう言われたのです。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)。しかし、それでもなおペトロは自分の弱さを認めようとはしませんでした。ペトロはあの舟の中で取り乱していた自分の姿を思い起こすことはありませんでした。ペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)。彼だけではありません。皆の者も同じように言ったのです。

涙を流すペトロ
 さて、実際にはどうなったのでしょうか。先々週の礼拝において朗読されたように、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。ペトロだけは、イエス様が捕えられ、大祭司の家に連れていかれましたとき、遠くからついて行ったようです。そして屋敷の中庭まで入り込み、人々と共に火にあたりながら、事の成り行きを見守っていました。そして、今日の福音書朗読において私たちが耳にしたことが起こりました。

 大祭司に仕える女中のひとりが、火にあたっているペトロをじっと見つめていました。そして、こう言ったのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロは女の一言に震え上がりました。そして、とっさにこれを打ち消します。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」。そう言って出口の方へ出ていきました。

 しかし、屋敷に連れてこられたイエス様の事が気になって、出て行くことはできません。彼はなおも中庭に留まります。するとまた、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に言い出します。「この人は、あの人たちの仲間です」。ペトロは再びこれを打ち消しました。そして、しばらくすると、そばに立っていた人たちがまたペトロに言い始めます。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」おそらく、ペトロが答えているときに彼のガリラヤ訛りを耳にしたのでしょう。

 ペトロはこれを強く打ち消します。「呪いの言葉さえ口にしながら」と書かれています。「もし偽りを語っていたら神に呪われても良い」と言って激しく誓い始めたということです。彼はそのように神にかけて誓ってこう言ったのです。「あなたがたの言っているそんな人は知らない」。そのようなことを自分が口にするとは、夢にも思っていなかったに違いありません。しかし、その時、二度目に鶏が鳴きました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」イエス様の言葉をペトロは思い出したのでした。

 ペトロがその時に思い出したように、イエス様は弟子たちが御自分を見捨てて逃げてしまうことをご存じでした。ペトロが三度も御自分を否んでしまうことをご存じでした。ペトロを含め、弟子たちの内にあるものをご存じでした。それが外に現れてしまうことをご存じでした。しかし、ただ内にあるものが外に現れることをイエス様が望んでおられたわけではありません。そこには、実は絶対に聞き落としてはならない言葉がありました。イエス様はあの時、こう言われたのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく。…しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(27‐28節)。

 「あなたがたより先にガリラヤへ行く」ということは、イエス様はガリラヤで再び弟子たちに会うことを考えておられたということです。イエス様は先に行って待っていてくださるということです。イエス様を裏切り、イエス様を見捨てて逃げていくその弟子たちを、イエス様は先にガリラヤに行って待っていてくださる。「あなたがたは散らされる。わたしを見捨てて逃げていく。そこであなたがたは徹底的に自分自身の弱さと惨めさを知り、自らの罪深さを思い知ることだろう。しかし、私は先にガリラヤに行って待っている。ボロボロになった惨めなおまえたちが私のもとに来るのを待っている。」――「あなたがたより先にガリラヤへ行く」とはそういうことです。

 イエス様は「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とペトロに言われました。しかし、その時、イエス様の内にあったのは、ペトロに向けられた、そして弟子たちに向けられた憐れみであり慈しみだったのです。ペトロはイエス様の言葉を思い出しました。しかし、そこでペトロの心に浮かんできたのは、「わたしの言ったとおりになったではないか」と言って責めているイエス様の眼差しではなかっただろうと思います。そうではなくて、憐れみに満ちたイエス様の眼差しであったはずなのです。

 だからペトロは泣いたのです。あたりはばかることなく激しく大声を上げて泣いたのです。彼は弱い自分を悲しみ、罪深い自分を悲しんで、激しく泣いた。泣くことができたのです。それまで彼は、漁師として、ユダヤ人として、そして十二弟子の一人として、また将来はメシアの王国のナンバー2になるべき人間として、強くなくてはなりませんでした。他の人々のために泣くことはあっても、自分の弱さと罪深さを泣いているわけにはいかなかったのです。しかし、もういいのです。イエス様は何もかもご存じだった。どんなに強がって見せたって、虚勢を張って見せたって、イエス様はすべてご存じだということが分かったから。だからペトロは泣きました。自分自身のありのままの姿を認めて激しく泣いたのです。

 これがペトロです。後に教会の指導者となる使徒ペトロです。この物語は四つの福音書すべてに記されています。恐らく後の使徒ペトロは、この出来事を繰り返し人々に語ったに違いありません。だからこの物語が残っているのでしょう。ペトロははばかることなく、自分の弱さを語り続けた。なぜなら、あの時の涙なくして、後のペトロはなかったからです。私たちも、同じです。神様に仕えて生きようとする時に、本当に必要なのは私たち自身の強さではないのです。そうではなくて、主は全てをご存知であることを知ることなのです。その上で、私たちをこの上なく愛してくださっている主が共にいてくださることを知ることなのです。
(祈り)

2018年10月7日日曜日

「信仰の成熟を目指して」

ヘブライ6:1-12

キリストの教えの初歩を離れて
 今日の第二朗読は「だから」という言葉で始まっていました。今日は6章の初めから読まれたのですが、話は前から続いています。そして、実はこの直前には、非常に厳しいことが書かれているのです。

 この手紙の著者は読者に対してこう言っています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(5:12)。ある程度信仰生活の長い人に対して彼は言うのです。「今ではもう教師となっているはずなのに」。この「教師」というのは職制としての教師ではありません。ある程度信仰生活が長ければ本当はもう信仰について「教える側」になっているはずだ、と言っているのです。しかし、実際には「固い食物の代わりに、乳を必要とする始末」だと言うのです。

 「乳」とはそこに書かれているように「神の言葉の初歩」のことです。そして、「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子です」と言うのです。だから「固い食物」は食べることができない。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」(同14節)。もちろん、意味合いとしては「あなたたちはまだ一人前の大人ではない」ということです。「乳を飲んでいる幼子だ」と。これが今日の箇所の直前に書かれている言葉です。

 そのような極めて辛辣な言葉に続いて、「だから」と言って今日の箇所に入るのです。そう考えると話の流れとしては変なのです。固い食べ物を食べられない幼子だから、「だからあなたがたにはまだまだ乳を与えることが必要だ」と続くのではなく、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と続くのです。

 これを読みますと、既に述べられたことは、いわば多分に挑発的な言葉であったことが分かります。「そのとおりです。私たちは確かに、まだ乳を必要としている幼子です」と言って欲しいわけではないのです。読者に発奮して欲しいのです。幼子であることに甘んじて欲しくないのです。読んでいる教会の人に、とにかく成長したい、成熟したいという願いを持って欲しいのでしょう。

 ここには「キリストの教えの初歩を離れて」と書かれています。その「キリストの教えの初歩」の例として、ここでは「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」が挙げられています。

 「死んだ行いの悔い改め」とありました。命の源は神様です。その神に背を向けた生き方とそこから生まれる行い。それが「死んだ行い」です。そこから方向転換をすること、それが悔い改めです。そして、神に立ち帰り、神と共に生きていく。それが「神への信仰」です。それは確かに基本的な教えと言えるでしょう。

 しかし、そこに「種々の洗礼についての教え」と続きます。「種々の洗礼」と複数になっているのは、「洗礼(バプテスマ)」そのものは、必ずしもキリスト教会だけが行っていたのではないからです。異邦人がユダヤ教へと改宗する時に洗礼が行われました。またヨハネの授けていたバプテスマがありました。そのような中において、教会において主の御名によって授けられる洗礼はいかなるものか。主イエスが授けてくださる「聖霊によるバプテスマ」とは何であるか。そのことについての教えが「種々の洗礼についての教え」です。

 「手を置く儀式」とは、教会がその初めから今日に至るまで様々な場面において行ってきたものです。それは洗礼式においても行われますし、病気の癒しの場面においても行われてきました。しかし、最も典型的な場面は、牧師など教職の任職であると言えるかもしれません。

 「死者の復活」は死を越えた最終的な救いについての教えです。それはまた、「永遠の審判」と共に語られています。最終的にこの世界と私たち一人ひとりを裁くことができるのは神様です。最終的に罪を裁くことができるのは神様ですから、最終的に罪を赦すことができるのも神様なのです。そして、それは神様のなさることですから、永遠の救いに関わっているのです。

 どうでしょう。これらが「基本的な教え」と呼ばれ「キリストの教えの初歩」と呼ばれているものです。どれ一つ取っても、大変な内容を持つものです。しかし、聖書の標準からすれば、これはまだ幼子の飲む「乳」に過ぎないのです。そう考えると、私たちもまた、確かにまだ乳を必要とする幼子だと言わざるを得ないかもしれません。しかし、そこに留まっていてはならないのです。目指すべきはその先にあるのです。乳離れして、固い食べ物も食べられる信仰者になることです。彼は言うのです。「成熟を目指して進みましょう」と。

最後まで希望を持ち続けるために
 それはなぜなのでしょう。なぜそこまで言うのでしょう。それはこの手紙が、試練の中にある教会に宛てて書かれた手紙だからです。これを読んでいるのは、既に迫害を経験していた人たちです。そして、さらに大きな迫害が近づいていた。そのような困難の中で、どのように信仰生活を保っていくかという死活問題があるのです。

 試練によって信仰が揺さぶられる時、その土台として信仰に関わる基本的な事柄が身についていることは確かに必要なことです。しかし、この著者に言わせるならば、それでも十分ではないのです。それはなぜなのか。この人には、分かっているからです。試練の中において信仰を捨てるということ、すなわち棄教するということがどういうことか、ということを。

 彼はここで、極めて厳しい語り口をもって、次のように語り始めます。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(4‐6節)。

 信仰者として、この言葉を読んで恐れを抱かない人はいないでしょう。もっとも、「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」のはあくまでも人間の側としてのことであって、人にはできなくても神にはできるということが留保されていると言うことはできます。しかし、それは神の恵みとしての留保なのであって、神が立ち帰らせてくださることを当然のこととすることはできません。私たちが「恐れ」を抱くことは、ある意味ではとても健全なことなのです。神を離れて堕落しても、後で立ち帰ることができるなどと安易に考えてはならない。信仰を捨てても、また後で持つことができると安易に考えてはならない。そういうことです。

 当然のことながら、彼は棄教した人を断罪するためにこれを書いているのではありません。そうではなくて、あくまでも彼は信仰を保っている人々に対して語りかけているのです。これは警告として語られているのであって、願いはもちろん、どんな試練があっても信仰に留まって欲しい、何としても信仰に留まって欲しいということです。

 ですからさらにこう続けるのです。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」(9節)。そして、神様がこれまでの信仰生活を見ていてくださって、決して忘れることはないのだと励ましているのです。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」(10節)と。

 信仰の実りとしての行いが、必ずしも人の目に留まるわけではないし、また覚えられているわけではありません。また自分でも覚えていないことがあるかもしれません。しかし、神様は覚えていてくださる。なぜなら神様は不義な方ではないから。

 この手紙の著者は読者に対して、あなたがたは乳を飲んでいる幼子だと語りました。確かにそうだったのでしょう。しかし、そうであっても信仰をもってここまで生きてきたことは、神の御前において決して小さなことではないのです。それは私たちについても同じです。依然として今なお乳を必要としている幼子かもしれません。しかし、それでもなお神様はその信仰生活に目を留め、心にかけ、覚えていてくださるのです。だから私たちは卑下する必要はないのです。安心して、「成熟を目指して進みましょう」という言葉を受け止めたらよいのです。

 そして、11節に至って、厳しいことを語ってきたこの人の真意が次のように語られています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。

 「怠け者」と訳されているのは、別の箇所で「鈍くなっている」(5:11)と訳されている言葉です。本当に大事なことについて鈍くなって欲しくない。むしろ信仰の先達たちを見倣って、その後に続く者となって欲しい。それが願いです。そのような信仰の先達たちの代表として挙げられるのはアブラハムです。彼についてはこの直後に言及されていますし、また後に11章に登場します。

 創世記を読むとよく分かりますが、アブラハムは人間としては完全な人と言うにほど遠い人でした。またその信仰は度々試練に遭い、振るわれました。しかし、彼は最後まで忍耐強く信仰を全うし、希望を失いませんでした。そのようにわたしたちも最後まで希望を持ち続けることができるようにとこの著者は願っているのです。私たちはそうありたい。そのためにも、信仰の基本的なことがらはもとより、そこからさらに進んで、常に成熟を目指して歩みたいと思うのです。

(祈り)

2018年9月23日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

コロサイ1:21-29

キリストの死によって

 私たちはここに神を礼拝するために集まっています。私たちは神に祈りながら生活しています。しかし、そのような生活はこの国においては一般的ではないことを知っています。日曜日に教会に集まる人は、この国においては圧倒的に少数です。ですから、ともすると私たちは何か特別なことをしているかのように思ってしまいます。しかし、聖書の見方は違います。私たちは何も特別なことをしているわけではありません。本来の姿に戻って、本来のしているはずのことをしているだけなのです。

 今日の聖書箇所にはこう書かれていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)。本来無関係であるならば、「離れていた」ことが語られる必要はありません。「神から離れていた」と語られているのは、人間が本来神と無関係ではないからです。人間が本来神と共にあるべき存在だからです。しかし、離れてしまっていた。いやそれだけではありません。「敵対していた」というのです。言い換えるならば、神に背いていたということです。

 遠ざけていたのは神の方ではありません。人間が、その行いによって、そして、その心において、神を遠ざけていたのです。イエス様はそんな私たちの姿を、父のもとから去って行った放蕩息子に喩えました。

 しかし、そのように神から離れていた私たちに対して、神がしてくださったことを聖書は次のように語っています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(22節)。

 まず書かれているのは、神が和解してくださったということです。背いている者と和解してくださったというのですから、それは言い換えるならば「赦してくださった」ということです。しかし、そこにはただ「和解してくださった」「赦してくださった」ということだけが書かれているのではありません。「御子の肉の体において、その死によって」と書かれているのです。

 「御子の肉の体において」とは、御子が人となられたことを指しています。イエス・キリストという御方の話です。「その死によって」とは、そのイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。そのことによって、そのことのゆえに、神は「赦してくださった」というのです。

 赦していただくとするならば、本来は赦していただく方が犠牲を払うのでしょう。これだけのことをしますから。これだけの苦しみを負いますから。だから赦してください、と。そして、償いきれなければ、赦しを求めることはできなくなるのでしょう。しかし、神は人間の側に償いの犠牲を求めることはしなかったのです。ただ「御子の肉の体において、その死によって和解してくださった」というのです。今日の福音書朗読に聞いたように、和解のために受けるべき杯は、私たちではなく、イエス様が苦しんで受けてくださいました。

 そして、「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と続きます。「してくださいました」と訳されていますが、原文では「立たせてくださいました」という言葉が使われています。「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として、御自分の前に立たせてくださった」と書かれているのです。

 私たちは「きずのない者」でも「とがめるところのない者」でもないことをよく知っています。「聖なる者」が私たちの完全であることを意味するならば、とても自分についてそのように語ることはできないでしょう。私たちは神から離れ、神に背いて生きていたというだけでなく、神から離れ、神に背いてきた私たちの罪は私たちの現在の生活の深いところにまで及んでいるのです。神に立ち帰った今もなお、罪との戦いは続いているのです。

 しかし、そのような私たちを、神は「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのです。神はそのような者として私たちを見ていてくださる。それは私たちが何をしたかではなく、ただ「御子の肉の体において、その死によって」なのです。それが「和解してくださった」「赦してくださった」ということです。だからこそ、私たちはこうして神の御前において礼拝しているのです。だからこそ、私たちははばかることなく神に顏を上げて祈ることができるのです。

 そして、そこにこそ私たちの希望があるのです。神が今、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのならば、やがて神がそのような者としてくださるからです。神の始められた救いは必ず完成するからです。そのような者として立たせてくださったのなら、終わりの日には、文字通り、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として立つことになるのです。

希望から離れてはなりません

 それゆえに、このように勧められています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。必要なことは多くはありません。信仰に踏みとどまり、希望から離れないことです。

 ここで「揺るぐことなく踏みとどまる」と訳されているのは、「土台の上にしっかりと立ち続ける」という意味の言葉です。既に述べてきたように、すべてはキリストによるのです。信仰の土台はキリストです。その土台の上に立ち続け、キリストを信じる信仰に踏みとどまるのです。そして、すべての希望はキリストによるのです。

 私たち自身をどれだけ見つめていても、そこに希望が見えてきません。キリストこそが私たちの希望なのです。福音の希望から離れないということは、このキリストから離れないということです。

 それゆえに、今日の朗読の後半にはこのような言葉が出て来ます。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」。今日の説教題はここから取りました。27節全体はこうなっています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)。

 「秘められた計画」という言葉がありました。この「秘められた計画」は、以前の口語訳では「奥義」と訳されていました。日本語では通常「おうぎ」と読まれます。さて、「おくぎ」にせよ「おうぎ」にせよ、そのような表現から連想されるのは、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものでしょう。実際、この「奥義」とも訳される言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは「代々にわたって隠されていた」けれど、今や神によって明らかにされた神のご計画です。そして、それは特別な人に留められるのではなく、全ての人に宣べ伝えられねばならないものとして語らえているのです。

 すべての人に宣べ伝えられるべきその「奥義」とは何か。いや、この問いは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。その奥義、その「秘められた計画」こそ、キリストなのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 先にも読みましたように、「神は御子の肉の体において、その死によって和解し」てくださいました。神は人間の側に償いの犠牲を求めることはせず、ただ「御子の肉の体において、その死によって」私たちを赦そうとされました。言い換えるならば、その奥義が、その「秘められた計画」が、「御子の肉の体において、その死によって」現されたのです。苦しみを厭わず十字架へと向かわれたあの御方を通して現されたのです。すなわち、このキリストによって、罪を赦して救われる神の愛が明らかにされたのです。神に背いたこの世界を、この私たちを、それでもなお愛される神の愛が明らかにされたのです。だからこそ28節においてパウロは「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだと言っているのです。そして、そのキリストが宣べ伝えられる時、それはもはや過去の人キリストではないのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と。

 この「あなたがたの内におられるキリスト」は二通りに理解することができます。一つは「あなたがたの共同体の内に」という意味合い。その意味では「あなたがたの間に」とも訳すことができます。もう一つは「あなたがた一人ひとりの内に」という意味合いです。内住されるキリストです。実際、他の手紙を読んでみますと、パウロその両方を考えているように思います。いずれにしても、キリストとの関わりは現在における関わりです。

 それゆえに、キリストは私たちにとって、過去において屠られた和解のための犠牲に留まらないのです。もう一度27節と28節を続けてお読みします。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(27‐28節)。

 「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」。そう書かれていました。この「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。そこにおいて想定されているのは子どもから大人への成長です。

 先に見たように、神は既に私たちを「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として、御自分の前に立たせてくださいました。神は既に私たちをそのような者として見ていてくださいます。キリストの故に罪を赦し、そのような者として御前に立たせてくださっています。そして、私たちはその救いの完成へと向かっているのです。それが栄光の希望です。私たちはまだ子どもであるかもしれません。躓いたり、子どもじみた失敗を繰り返しているかもしれません。しかし、私たちはやがて成熟した大人になるのです。神から見ても、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」になるのです。

 そのためにキリストに結ばれているのです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この御方こそ「栄光の希望」です。ならば大事なことは多くはありません。もう一度23節の前半をお読みします。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」。

 たとえ自分や世の中に絶望することがあっても、キリストに絶望してはなりません。宣べ伝えられたキリスト、私たちの内にいてくださるキリストにしっかりと踏みとどまり、キリストから離れてはなりません。
(祈り)

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