2017年6月25日日曜日

「不平を言わず、輝く人に」

2017年6月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

救いを達成するよう努めなさい
 今日はフィリピの信徒への手紙をお読みしました。これはパウロが獄中から書いた手紙です。さらに言うならば、獄中において殉教の死を覚悟したパウロが書いた手紙です。そのようなパウロの意識が比喩的な表現ではありますが、先ほど読まれた箇所に書かれていました。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17‐18節)。一度耳にしたら忘れることができないような強烈な表現です。殉教を覚悟したパウロは言うのです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。

 さて、そのようなパウロが今日の聖書箇所においてこのように勧めていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。

 「救いを達成するように努めなさい」とパウロは言います。パウロの姿を思う時、その意味するところは明らかです。最後まで信仰を全うしなさいということでしょう。迫害の中にあっても、諸々の試練の中にあっても、最後まで信仰を全うしなさいということです。最終的に死に直面するところにおいても、最後まで信仰を全うしなさいということです。しかも、神に信頼して、喜びをもって信仰を全うしなさいということです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」とパウロが言ったように。

 実際、パウロを失うことはフィリピの人たちにとって、どれほど大きな悲しみであるかと思うのです。「なんでこんなことに・・・」と心揺さぶられることでもあるのでしょう。しかし、そこでパウロは「わたしと一緒に喜びなさい」と言うのです。パウロが最後まで信仰を全うしようとしているように、彼らにも喜びをもって最後まで信仰に生きて欲しいのです。

 それはパウロが望んでいるだけではありません。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)と書かれています。神が私たちの内に働いておられるのです。その神が救いの望みを与えてくださったのです。神御自身が救いを達成させようとしていてくださるのです。神御自身が最終的に完全な救いを与えようとしていてくださるのです。そうです、神が救いを与えようとしていてくださるのです。

 だからパウロは「救いを達成するように努めなさい」と語ると共に、神への従順について語るのです。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。

 従順であるとは信頼して従うことです。何があったとしても信頼して従うことです。どこまでも信頼して従っていくことです。それはあくまでも神との関係においてです。神に信頼して従うのです。そこでパウロが一緒にいるかいないかは本来関係ないのです。ですから「わたしが共にいるときだけでなく」とパウロは言うのです。神への信頼と従順は人に左右されるべきものではないのです。

 先ほど見てきたように、それは最終的にはパウロがこの世にいなくなっても、ということでさえあるのです。それでもなお彼らは信仰によって生きていくのです。神に信頼し、パウロと一緒に喜びをもって、最後まで信仰を全うするのです。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するよう努める」とはそういうことです。

不安や理屈を言わずに行いなさい
 ですからそこではまた、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)と勧められているのです。神に従順であるとは、具体的にはこういうことだからです。そのように書かれているのは、この世に生きている限り、不平を言いたくなることはいくらでもあるからでしょう。人生には不平を言いたくなるようなことがいくらでもあるからでしょう。理不尽に思えることはいくらでもあるのでしょう。

 そのような時、神様が間違っているように見えることもあるのでしょう。それこそこの世を生きる時に、神を信じないための理屈、神に従わないための理屈を並べようと思えば、いくらでも並べることができるのかもしれません。しかし、そこでなお神に信頼するのです。どこまでも神に信頼して従っていくのです。諸々の試練の中にあっても、最後まで信仰を全うするとはそういうことです。

 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とパウロが言った時、恐らくパウロの心の中にあったのは旧約聖書の書かれているイスラエルの物語であったと思われます。それは出エジプト記と民数記に出てくる物語です。出エジプトの出来事と荒野の旅に関する物語です。

 イスラエルはかつてエジプトにおける奴隷でした。そのような奴隷の民が苦しみの中から神に向かって叫んだ時、神は奴隷であったイスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。神が葦の海を二つに分けてその間を歩かせられたという物語は、この救いがただ一重に神の恵みによるものだったことを示しています。それゆえに、この葦の海の奇跡は、洗礼を予表する出来事でもありました。

 そのように神の恵みによって救われた民は、神の恵みに感謝しつつ、約束の地に向かって旅をすることとなったのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれての旅でした。それは神様が共におられることのしるしでした。主が共におられるゆえ、それは確実に約束の地に向かう旅であったのです。ただ彼らに求められていたのは信頼して従っていくことでした。それこそが彼らに与えられた救いを達成することだったのです。

 しかし、聖書はなんと語っているでしょうか。彼らがすぐに不平を言い始めたことを私たちに伝えているのです。彼らは、水がない、食べ物がないと言ってつぶやき始めたのです。彼らを救ってくださった御方が真実であることを信じなかったのです。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出16:3)。

 彼らは救いの恵みを忘れて、彼らの古い生活、エジプトの肉鍋を懐かしんでいるのです。彼らは繰り返しこのように不平を言いました。そしてついには、「エジプトに引き返した方がましだ」(民13:3)とまで言い出したのです。そのようなイスラエルの不信仰と不従順を思いながら、パウロは言うのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と。

星のように輝いて
 そして、さらに彼は言います。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16節)。

 「不平や理屈を言わずに」という言葉はある意味では身近な言葉でよく分かります。しかし、続くこの言葉は、どちらかと言えば、はるか遠くに見える山の頂きのように見えなくもありません。「とがめられるところのない清い者となり」とか「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として」という言葉を聞くと、いったいそこにたどり着くことなどできるのか、と思えなくもありません。

 しかし、それが遠くに見えたとしても、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」という言葉には憧れを覚えます。よこしまな曲がった時代の中で、この世の暗さについて語るだけでなく、そこで小さくても星のように光輝く者でありたい。そして、はっきりしていることは、不平をブツブツつぶやきながら光輝いて生きることはあり得ないということでしょう。どんなに遠くに見えても、やはりここから始まるのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。

 実際、私たちはここに、かつてよこしまな曲がった時代の中で、世にあって星のように輝いて生きた人の言葉を読んでいるのです。獄中にあって、ありとあらゆる制約を課せられて、もはや何ができるわけでもない。しかし、その人は確かに命の言葉をしっかり保っているのです。彼はどんな苦しみの中にあっても神への信頼を失わない。神から離れてしまわない。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と彼は言うのです。最後まで信仰を全うし、自分の救いを達成するように努めている彼は、確かに世にあって星のように輝いていたのでしょう。その人の言葉を通して、神はここにいる私たちにも語りかけていてくださるのです。「自分の救いを達成するように努めなさい」と。

2017年6月18日日曜日

「神は遠く離れてはおられません」

2017年6月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 17章22節~27節

知られざる神に
 今日の第二朗読は、アテネにおいて語られたパウロの説教でした。それはアレオパゴスにおいて語られたものです。「アレオパゴス」とはアテネにある一つの丘の名前です。しかし、この場合はそこにあった評議所、すなわちアテネ最古の裁判と会議の場所を指しています。パウロはそのような場所に連れて行かれることとなりました。その経緯を簡単にお話ししますと、こういうことです。

 それはパウロの2回目の宣教旅行の途上での出来事でした。当初、パウロはアテネでの宣教は予定していませんでした。パウロがアテネに滞在したのは、後から来るシラスとテモテと落ち合うためでした。

 しかし、二人を待っている間に、パウロはその町の至るところに偶像があるのを目にします。その夥しい数は、当時、人の数よりも神々の数の方が多いとさえ言われたほどです。パウロはそれを見て心を動かされます。彼はアテネにおいてイエスとその復活とを宣べ伝え始めました。安息日にはユダヤ人の会堂において人々と論じ、他の日には広場で居合わせた人々と論じ合うこととなりました。

 パウロと討論をしていたエピクロス派やストア派の哲学者たちの中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた、と書かれています。「おしゃべり」と訳されているのはクズ拾いを意味するような極めて侮蔑的な言葉です。そのような人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行ったわけです。

 その際に、彼らはこう言ったと書かれています。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19‐20節)。しかし、状況的に考えて、純粋に興味関心から話を聞こうというのでないことは明らかです。パウロはそこに好意的に迎えられたわけではないのです。恐らくパウロは尋問されるためにアレオパゴスに連れて行かれたのです。新しい宗教や哲学が入ってくるのを監督するのはアレオパゴスの議員の権限であり責任でもあったからです。

 そのようなアレオパゴスの真ん中に立つこととなったパウロは口を開き語り出しました。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22‐23節)。

 先にも触れましたように、アテネの町には夥しい数の偶像がありました。それは一面において、アテネの人たちの信心深さを表していると言えるでしょう。彼らは極めて宗教的な人々でした。パウロはそのことに敬意を払いつつ語り始めます。しかし、すぐに問題の核心に迫ることになります。「知られざる神に」と刻まれている祭壇に言及することによって、彼らの信心深さの中に存在する問題を取り上げることになるのです。

 そもそも、なぜ「知られざる神に」と刻まれているような奇妙な祭壇が存在するのでしょう。そのような祭壇が存在し得るのでしょう。人々にとって、そこで拝まれているのが誰であるかは、さして重要なことではないからです。礼拝において祈っている相手を知ることは、大して重要なことではないからです。

 「知られざる神に」という祭壇が造られた背景には一説によれば紀元前六世紀に流行した疫病があるとも言われます。確かにそれは考えられることです。人間が神々を祭るとき、当然のことながら、そこには神々にして欲しいことがあるわけです。叶えて欲しい願望がある。また、その一方において、しては欲しくないこともある。免れさせて欲しい災いがある。そういうものでしょう。願望と恐れです。

 人間の願望が多岐にわたるなら、それを満たしてくれる神々の数も当然増えていきます。一つの災いが起こった。その災いが二度と起こらないように神を祭るとするならば、災いの数だけ神々の数も増えていくことになります。

 そこで必ずしもどの神に願って良いか分からないことも起こるのでしょう。ならばとりあえず「知られざる神に」願っておくのがよいでしょう。目的とすることが欲求の満たしと災いの回避しかないならば、それを実現してくれるのは別に誰であってもよいのですから。

 そのように、「何を得られるか」ということにしか関心がないならば、別に「知られざる神」でもよいのです。もし仮に神ではなくて人間でもそれを実現してくれるのであれば、別に神でなくてもよいことにもなります。「知られざる神に」という祭壇が意味しているのはそういうことです。

わたしはお知らせしましょう
 しかし、パウロはそこでこう語るのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。

 「お知らせしましょう」。パウロはそう言いました。それはアテネの人たちにとっては余計なお世話とも言えます。欲求の満たしと災いの回避については「知られざる神」で事足りているわけですから。「何を得られるか」ということについては、夥しい数の神々でもう十分なのですから。

 しかし、それでもなおパウロは「お知らせしましょう」と言うのです。ある意味では、そのために危険な宣教旅行を続けてきたとも言えます。命をかけて「お知らせしましょう」を続けてきたのです。

 それはなぜなのか。神が望んでおられるからです。神は知られることを望んでおられる神だからです。神は知られることを望んで、独り子さえもこの世界に送られる神であるからです。そのようなことをすれば罪ある人間によって十字架にかけられてしまうことも承知の上で、あえて自らを啓示するために御子を遣わされる神だからです。パウロはそのことを知るゆえに宣教旅行を続けてきたのです。

 ですからここでも「お知らせしましょう」とパウロは言って、こう続けます。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24‐25節)。

 先に触れましたように、パウロについては「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていたのです。そのような人たちが、パウロをアレオパゴスに立たせたのです。同じようにこの国においても、かつて宣教師たちは言われたのでしょう。「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と。

 しかし、そうではないのです。この国の神も外国の神もないのです。神は世界とその中の万物とを造られた神だからです。神は天地の主なのです。だからユダヤ人である彼がアテネのギリシア人にまで、このことを語るのです。命と息と、その他すべてのものを与えられていることについては、ユダヤ人もギリシア人もないからです。

 さらにパウロは続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。命を吹き入れられた多くの民族は、同じ神によって導かれ、定められた季節と定められた居住地の中に生かされているのです。神はすべての民族にかかわって治めていてくださる。それは何のためなのか。パウロは言います。「人に神を求めさせるためだ」と。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。そのようにパウロは語るのです。

 そのように神は知られることを望んでおられる神です。見いだされることを望んでおられる神なのです。人間が知らなくても、求めていなくても、神は命と息と、その他すべてのものを与えてくださっているのでしょう。私たちが生きていられるのは、すべて神から与えられるものによってなのでしょう。人はいただくものさえいただければ、それで十分と言うかもしれません。「知られざる神に」でも良いのです、と。しかし、神にとっては良くないのです。それはなぜでしょうか。神は愛によって世界を創造し、人間を創造されたからです。共に生きるために創造されたからです。ですから、神は与えるだけでなく、私たちと共に生きることを望んでおられるのです。永遠に共に生きることを望んでおられるのです。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神はそのような神です。探し求めさえすれば、神を見いだすことができるのです。


 さて、ここからは私たちの話です。パウロがアテネで目にしたのは「知られざる神に」と刻まれた祭壇でした。この礼拝堂に集められている私たちは今どのような祭壇に向かっているのでしょう。私たちが向かうべき祭壇はキリストが屠られたあの祭壇なのでしょう。愛なる神が御自身を完全に表された、あの祭壇なのでしょう。

 しかし、そこに向かっているはずの私たちが、いつの間にか「知られざる神に」という祭壇に向かって礼拝していることはあり得ることなのかもしれません。願っていることが叶うか、災いを免れることができるか、要するに「何を得られるか」ということにしか関心が向いていないということはあり得ることかもしれません。いったいどのような御方を礼拝しているのか、どのような御方に祈っているのかということには関心がないし、実際知ろうともしていない。「知られざる神に」ということで良しとしているということは、あり得ることかもしれません。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神は私たちと永遠に共に生きるために、私たちに知られることを望んでいてくださいます。主を知ることを切に求める熱心が私たちにも与えられますように。 

2017年6月11日日曜日

「休ませてあげよう」

2017年6月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 11章25節~30節 

休ませてあげよう
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。今日読まれましたイエス・キリストの言葉です。

 「疲れた者」と書かれていました。これは「労苦している者」という意味の言葉です。労苦を厭わず、力を尽くして、精一杯頑張って、やるだけやってきました。しかし、重荷を負うつもりではあるものの、負わなくてはならないと分かっているものの、もう疲れ果ててしまいました。ここに呼びかけられているのは、そのような意味での「疲れた者」です。

 また「重荷を負う者」とも書かれていました。これは正確には「重荷を負わされている者」です。受け身で書かれているのです。自ら望んだわけではありません。自分がそうすることを選んだわけでもない。しかし、否応なしに重荷を負わされました。そんな重荷というものが確かにあるものです。負わされた、強制されたと思えば思うほど辛くなる。「なんで私が!」と思えば思うほどに、重荷は重くのしかかってくるのでしょう。「重荷を負う者、負わされている者」とはそういう人々です。

 そのような「疲れた者、重荷を負う者」にイエス様は呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 考えてみれば驚くべき言葉です。「だれでもわたしのもとに来なさい」などと、普通は言わないし、言えません。しかも、原文では「《わたしが》休ませてあげよう」と、「わたし」が強調された形で書かれているのです。

 そのような言葉をイエス様は口にされるのです。そして、その言葉が残ったのです。いい加減な言葉だったら残りません。現実と結び着いていなかったら残りません。この言葉が弟子たちの心に残って伝えられたということは、要するに「本当にそうだ」と弟子たちが思ったということでしょう。どんな重荷を負う人であっても、負わされている人であっても、この方のもとで休みを得ることができる。本当の安らぎを得ることができる、と。

 そのように、この言葉は語っている「イエス・キリスト」という存在と切り離すことができないのです。イエス様が言われるからこそ意味があるのです。では、イエス様はどうしてこのような言葉を口にすることができたのでしょう。

 その直前にはこう書かれています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。そこに言い表されているのは父と子の関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。

 「父のほかに子を知る者はない」と主は言われました。確かにそれが現実だったのでしょう。そこにはある意味でキリストの深い孤独が言い表されています。

 一方において、多くの人々がイエス様を追い求めました。ある人々は病気を癒してくれるミラクル・ヒーラーを求めてイエスについてきました。ある人々は政治的な解放者を求めてイエスについてきました。そして、もう一方において多くの人々がイエスに敵対しました。ある者は妬みから、ある者は恐れから、ある者は怒りをもってイエスに敵対しました。

 イエスを追い求める人々も、敵対する人々も、そこで語っている方が誰であるかを本当の意味は知らない。弟子たちも知らない。イエス様は誰にも理解されなかったのです。主は言われます。「父のほかに子を知る者はない」。

 その悲しみは、イエス様の言葉にも表れています。今日の聖書箇所ではありませんが、20節以下にはこのようなことが書かれているのです。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない』」(20‐21節)。

 数多くの奇跡が行われたのでしょう。多くの病人が癒されたに違いない。しかし、コラジンの人々もベトサイダの人々も、悔い改めて神に立ち帰ることはなかったのです。彼らに語っていたのは、父なる神からすべてを任された御子であることを彼らは認めることはありませんでした。

 そこでイエス様が「叱った」と書かれていますが、内容は深い嘆きです。イエス様は「お前は不幸だ」と言っているのです。そう言わざるを得ないイエス様の嘆きです。また、そう言わざるを得ない時点で、イエス様のそれまでの宣教の労苦は無駄に終わったように見えなくもありません。

 しかし、驚いたことに、そこでイエス様は父なる神をたたえるのです。そこからが今日の聖書箇所です。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます』」と。これは「完全に同意します」という意味合いの言葉でもあります。無駄に終わったように見える宣教の働きの中に、それでもなお父がなさっていることがある。そのような父を知るゆえに、父のなさることに同意し、父をたたえるのです。

 「父のほかに子を知る者はない」。確かにそうなのです。そのような御子として、やがては人々に捨てられ、弟子たちにも逃げられ、十字架にかけられて死んでゆくことになるのです。しかし、それでもなお父には知られているのです。そして、その父を子もまた知っている。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と主は言われました。そこに言い表されているのは、父と子との関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。

 そのような父と子との関わりに生きていたイエス様が言われるのです。そのようなイエス様だからこそこう言われるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。

 「休ませてあげよう」――どのようにして?自分がいるところに招くことによってです。天地の主である方を「父よ」と呼ぶ、その交わりの中に招くことによってです。イエス様御自身が休みを得ていた、その交わりの中に招くことによってです。だから「わたしのもとに来なさい」と主は言われるのです。そのようにして、父を知るのは子だけでなくなるのです。「子が示そうと思う者」もまた父を知ることになるのです。

わたしの軛を負いなさい
 そのように主は私たちをも招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。そのようにして私たちはイエス様のもとに来て、「天にまします我らの父よ」と祈る集まりに身を置いているのです。

 しかし、主は「休ませてあげよう」と言われたのであって、「重荷を取り去ってあげよう」と言われたのではありませんでした。もちろん、「休ませてあげよう」には重荷を降ろすことも含まれてはいるのでしょう。私たちは主のもとに来て、降ろすことができる重荷はあります。少なくとも、罪の重荷は降ろすことができます。また私たちの思い煩いという重荷も主のもとに降ろしなさいと言われている。そのように私たちが降ろすことのできる重荷、降ろすべき重荷はあります。しかし、それでもなお負わなくてはならない重荷は残るのです。主は「休ませてあげよう」と言われたのです。

 それゆえに主は「休ませてあげよう」と言われた後、さらにこう続けるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(29‐30節)。そこでは軛について語られ、負うべき荷物について語られているのです。

 「軛」とは二頭の牛をつなげる道具です。同じくびきを負った二頭は共に荷を負い、共に働くことになるのです。そのようにイエス様は「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。イエス様のもとに来て、父との交わりに入れられた人は、そこでイエス様と同じくびきを負って歩き出すのです。そこではイエス様への従順が求められます。つながれているのですから。

 ここで「軛」について語られているということは、なおそこに負うべき荷物があることを意味します。私たちは休みを与えられてなお負うべき荷物はあるのです。しかし、それは「わたしの荷」とイエス様によって呼ばれています。それは今まで負ってきた重荷と同じものかもしれません。しかし、意味合いが違うのです。それは主につながれている者として、主に学ぶものとして、主と共に負っていく、主にとっての「わたしの荷」なのです。

 主は言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(30節)。負っているのは主の軛だから、そして重荷は主の重荷だから、そこからまた背負って歩み出すことができる。主の言葉が真実であることを代々の信仰者は経験してきたのです。だから私たちにも伝えられています。同じ御言葉が、ここにいる私たちにも語られているのです。

2017年6月4日日曜日

「それは突然はじまった」

2017年6月4日 聖霊降臨祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~11節

神のお働きに心を向けよう
 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)です。毎年この日には使徒言行録2章が読まれます。教会がどのように誕生し、その宣教の歴史がどのようにスタートしたかを伝える聖書箇所です。もう一度お読みします。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 実に奇妙な描写です。しかし、代々の教会はこの奇妙な物語を毎年繰り返し朗読しながら聖霊降臨祭を祝ってきたのです。それはなぜでしょう。それはこの物語に耳を傾けて、繰り返し思い出さなくてはならないことがあるからです。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」ということです。私たちが、まず人間がすることにではなく、まず神のお働きに思いを向けるようにと、この出来事は伝えられているのです。

 先ほどの聖書箇所を御覧ください。2節に「突然」と書かれています。それは「突然」始まったのです。つまり人間が考えて、人間が計画して、人間が準備して実現したことではない、ということです。

 続いて、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。「ような」という言葉は大事です。あくまでもその「ような」音なのであって、私たちが日常に経験する「激しい風」とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。それは、単に方向を言っているのではありません。この世界の中からではなくて、向こうから、神から来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある「炎」でもなければ「舌」でもありません。

 これらすべての表現は、この出来事が向こうから到来したことを示しています。こちらが引き起こしたのではない。人間が教会を生み出したのではないし、人間が宣教を開始したのでもないのです。教会は、誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったのではないのです。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結して教会を作ったというのでもない。共通の課題や共通の敵に対して一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもないのです。

 既に見たように、ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのものです。この風はこの世の思想の風でもないし、この炎は人間が煽って燃え上がる熱狂や情熱でもありません。そんなものとは全く関係なく教会は誕生し、教会の働きは開始したのです。

 だから代々の教会は、教会の全ての営みにおいても、天からの出来事、聖霊による出来事が起こっていると信じてきたのです。

 例えば、この後に洗礼式があります。水を用意することも、水をかけることも人間がすることです。しかし、もし洗礼式が単に人間が行うことであり、この世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。洗礼を受ける人は、水をかけられて冷たい思いをするだけです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。

 迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こるからです。神の霊による出来事が起こるからです。そこで人はキリストと一つになり、キリストによる罪の贖いにあずかり、キリストと共に死んで新しく生まれるのです。そこに天からの出来事、神による目に見えない出来事が起こるのです。

 その後の聖餐も同じです。小さなパンのかけらと小さなカップが分けられます。パンとぶどう汁を用意することも、それを分け与えることも人間がすることです。この世のことです。もし聖餐式がこの世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。

 途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。なぜなら、単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こる。神の霊による出来事が起こる。私たちがパンを目で見、この舌で味わい、食べて内に入るように、それほど確かに、キリストの十字架による罪の贖いの恵みに私たちは繰り返し与るのです。またパンがこの肉体の命を養うように、キリストの体と血とにあずかって、永遠の命の養いを受けるのです。

 いや、特に洗礼と聖餐だけに限りません。この礼拝そのものが既に神の御業なのです。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしている。毎日辛い目に遭っている人であっても日曜日にはここに来て神を誉めたたえる。当たり前のことですか。しかも、もともと全く違うところにいた私たちが、全く違うように生きてきた私たちが、今、こうして心を合わせて礼拝を捧げている。当たり前のことですか。そうではありません。そこで既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神の大きなお働きのただ中にいるのです。

神のお働きのために用いていただこう
 今年もこの奇妙な物語が読み上げられました。私たちはこれを聞いて、まず神のお働きに思いを向けてきました。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」と。

 その上で、今度は「人間」に思いを向けることにしましょう。そこには「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たことや「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たことだけが書かれていたのではありません。さらに次のように書かれていたのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。

 聖霊に満たされたのは人間です。ほかの国々の言葉で話しているのも人間です。わたしや皆さんと同じ人間です。この物語は明らかに人間についても語っているのです。「聖霊に満たされた」人間についてです。

 「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)などと意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。

 怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともある。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。

 満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことです。神の愛によって動かされる、すべての人を救いたいという神の思いによって動かされる。この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れる。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということです。

 「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。

 考えて見れば不思議なことです。この世界を救うならば、神様が直接なさった方がよいのではないでしょうか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。

 ところが、どうも神様はそのようなことを望んではおられないようです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられる。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。

 そのようにして、この下北沢に教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、いますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。

 聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、支配されて、人生を使われてしまうのは悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の救いを運ぶ器とならせていただきましょう。

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