2017年4月30日日曜日

「預言者ヨナのしるし」

2017年4月30
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章38節~42節

しるしを見せてください
 何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に言いました。「先生、しるしを見せてください」。――「しるし」とは証拠です。「あなたがメシアであるという証拠を見せてください」ということです。

 そのように彼らは「しるし」を求めました。それ自体はなんら特別なことではありません。パウロも手紙の中で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(1コリント1:21)と言っています。もともとユダヤ人の世界には「しるしを見て信じる」という伝統があるのです。

 例えば、モーセがイスラエルの民に遣わされた時、彼は神に遣わされたという証明として人々の前で不思議なことを行いました。しるしを見せるわけです。主がそうしなさいと言われたからです。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれているのです。

 今日の第一朗読(列王記上17:17‐24)で読まれたエリヤの物語もそうです。エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらった母親が言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。そのような言葉が当たり前のように書かれています。

 そのように、神から遣わされた者にはしるしが伴う。神が遣わされたのなら神自らが証明なさる。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに雄弁な人が「主はこう言われる」と語り出しても、どんなに有り難いことを言ってくれたとしても、それだけでやたらに信じたりはしないのです。しるしを求めるのです。本当に神から遣わされたかを確認するのです。それはそれとして大事なことなのでしょう。

 しかし、そのように律法学者とファリサイ派の人々が「しるしを見せてください」と言ってきた時、イエス様はこう答えられたのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(39節)。そのように、彼らの求めに応じて、目の前で「しるしを見せる」ことを拒否されたのです。それはどうしてか。彼らが《信じるために》しるしを求めているのではなく、《信じないために》しるしを求めていることが分かっていたからです。

 そもそも、「しるしを見せてください」と言うならば、既にしるしは見せてもらっているとも言えます。今日の聖書箇所は「すると」という言葉で始まります。これは「その時」という意味の言葉です。「その時」とはどのような時か。どのような場において、彼らは「しるしを見せてください」と言ったのか。それはこの章の22節以下に書かれています。それは彼らの目の前である奇跡が行われたという場面なのです。しるしを彼らは目にしたのです。

 その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエス様のもとに連れて来られました。いつものように、イエス様は憐れに思って彼を癒されました。ものが言え、目が見えるようになりました。長い間苦しんできた人が癒され解放されました。想像しますに、その人はどれほど嬉しかったことでしょう。いや、彼だけではありません。その人を連れてきた人たちがいるのです。彼のことをこれまで心に懸けていた人たちがいた。その人が癒されることを願っていた人たちが彼を連れてきたのです。どれほど嬉しかったことか。

 そのように、イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。そして、その喜びの出来事の中に、メシアの到来のしるしを見た人たちがいたのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)と。

 しかし、同じ出来事を目の当たりにしても、ファリサイ派の人たちはこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。彼らはこれを悪霊の頭の仕業であると宣言したのです。

 何を見せられても、何を経験しても、信じたくなければ信じないでいられます。いくらでも拒否することはできるのです。そのような人たちにイエス様は言われました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)と。しかし、彼らはその言葉をも受け入れることはありませんでした。

本当に必要なこと
 そのように先に拒絶があるのです。いやファリサイ派や律法学者の拒絶は一つの先駆けに過ぎません。やがて彼らだけでなく、民衆もまたやがて叫び始めることになるのです。「十字架につけよ!」と。

 それはメシアがこの世に来られたことにおいて必然であったとも言えます。なぜなら、メシアが来られるということは、光がもたらされるだけでなく、影もまたくっきりと現れることでもあるからです。神の救いの喜びがもたらされるだけでなく、救われなくてはならない人間の現実が明らかにされるということでもあるからです。人間の罪がいかに深いか、人間がいかに救いから遠いかが明らかにされることでもあるのです。

 ここに出て来る律法学者とファリサイ派の人々は、当時の社会においては最も尊敬されていた人々です。最も敬虔であると見なされていた人たちです。最も救われるに相応しいと見られていた人たちです。しかし、イエス様は彼らに言うのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)。今日の箇所の直前に書かれていることです。

 「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」。確かにそうです。もしあのファリサイ派の人たちが、苦しんでいる人たちの解放と癒しを願っていたならば、そのような愛と憐れみが心にあふれていたならば、心にあふれているものが口から出たことでしょう。この場面で喜びの言葉が口から出て来たことでしょう。しかし、自分より力ある者に対する妬みや敵意しか心に満ちていないなら、その心にあふれているものが口から出て来るのでしょう。彼らは冷ややかにこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。

 先にも言いましたように、表面的には敬虔そのものに見える彼らです。しかし、イエス様の存在と言葉は彼らの内に何が満ちているかを知っていたのです。その彼らの姿を明らかにしました。主は言われます。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。

 光が来ました。しかし、だからこそ影もまた現れることになるのです。イエス様と向き合うということは、その言葉に耳を傾けるということは、自分の見たくなかった暗闇とも向き合うことでもあるのです。神が赦して救ってくださるのでなければ、到底救われようのない自分自身の姿とも向き合うことでもあるのです。

 そして、そのような自分自身を見たくないならば、認めたくないならば、光の方を拒絶するしかありません。だから彼らは「その時」こう言ったのです。「先生、しるしを見せてください」。その意味合いははっきりしています。「お前がメシアだと言うならば、証拠を見せてみろ。我々はお前を神から遣わされたとは認めない。メシアとは認めない。」

 それゆえに主は言われたのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを求める」と。ならば彼らにとって本当に必要なことは、そこでしるしを与えられることではないのです。奇跡を経験することでもないのです。そうではなくて、光に照らされて既に見えてしまっている自分自身の姿を認めることなのです。本当は自分でも分かっている自分の姿を認めることなのです。明らかにされた自分自身を認めて、主の御前にひれ伏して、わたしの罪を赦してください、わたしを清めてください、わたしを癒してください、わたしを変えてください、わたしを救ってくださいと願い求めることなのです。そうでなければ、結局は光の方を拒絶して偽りの正しさの中に生きていくことになるのです。

預言者ヨナのしるしは与えられる
 だから主は彼らの求めに応じて、目の前で「しるしを見せる」ことを拒否されました。しかし、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、しるしは与えられない」とは言われなかったのです。そうです、「信じようとしないあなたたちに、しるしは与えられない」とは言われなかった。そうではなく、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われたのです。つまり、「そのようなあなたたちであってもなお預言者ヨナのしるしは与えられる」と言われたのです。

 「預言者ヨナのしるし」とは何でしょう。主は言われました。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(40節)。人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が葬られて三日目に復活することを指しています。(三日目ですので、厳密に言えば「三日三晩」ではないのですが、これはヘブライ的な表現です。)そのように、イエス様がしるしを行うのではなく、イエス様が自分の命をささげて、イエス様自身がしるしとなるのです。罪の贖いを成し遂げた上で、自分自身が神の赦しと救いのしるしとなるのです。

 そのしるしが与えられると主は言われました。そうです、律法学者とファリサイ派の人々に主はそう言われたのです。彼らにも与えられるのです。イエス様をその時拒絶していた人々にも与えられるのです。しかも、実際には彼らによって十字架にかけられて殺されることによって、彼らに「預言者ヨナのしるし」が与えられるのです。そこにあるのはただ神の憐れみです。

 そして実際、彼らにもまたキリストの復活は宣べ伝えられたのでした。初期の宣教の様子は使徒言行録に見ることができますが、拒絶されようが迫害されようが、まず福音はいつもユダヤ人の会堂において語られてきたことを思います。預言はヨナのしるしは与えられました。その時こそ、本当の意味で彼らは問われることになったのでしょう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。そして、主は言われたのです。「ここに、ヨナにまさるものがある」。そうです、「預言者ヨナのしるし」はまさに、ヨナ自身にまさるものでした。そのヨナのしるし、キリストの復活は、私たちにも与えられたのでした。それゆえに、今、私たちが信じる群れとしてここにいるのです。それは一重に神の憐れみによるのです。

2017年4月23日日曜日

「新しい天と新しい地を待ち望む」

2017年4月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 65章17節~25節

 今日は第一朗読においてイザヤ書が読まれました。最終的な神の救いが次のように表現されていました。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(17節)。イエス・キリストが「天の父よ」と呼んでおられた神は、このようなことを語られる神様です。キリストをこの世に遣わされた神は、このような神様です。

救いの描写の縮小版
 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」。――「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、被造物世界の全体、全宇宙を含めて、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われるのです。

 そのように語られた次点で事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。もはや私たちには想像することすらできない。だから「それはだれの心にも上ることはない」と書かれているのです。ここに語られていることは、要するに、私たちの想像することもできないようなことを最終的に神様はなさるのだ、ということです。

 逆に言うならば、そうでもしなかったら私たちは救われないのだ、ということです。それほどまでに救いがたいのが人間です。神が新しい天と新しい地を創造するようなことでもなければ、私たちは救われない。そして、神様はそのようなことをしてでも救ってくださる神様だということです。

 さて、そのように神が最終的に行おうとしておられることは、本質的に私たちの想像を遙かに超えた出来後です。しかし、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださるのです。それが18節以下です。「新しい天と新しい地」という途方もなく大きな事柄を縮小して縮小して、ものすごく小さくして、「新しくされたエルサレム」の描写として語り直してくださるのです。

 神様によって新たにされたエルサレムの都。そこに生きる救われた人々。神によって人々に与えられた幸福な生活。これでしたら私たちも読んでイメージできます。そのように、ここに書かれている新しいエルサレムの描写を通して、私たちは神様が最終的に行おうとしている大いなる救いの片鱗に触れることができるのです。

長寿が祝福となる世界
 そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)。

 救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは決して自明のことではありません。実際、この世における「長寿」について考えてみてください。「長寿」は単純に「救い」と結びつくでしょうか。「長寿」は単純に「祝福」と考えられますでしょうか。日本は世界一の長寿国です。だからと言って単純に日本の高齢者は幸せだ、と言えるのでしょうか。言えないだろうと思います。

 長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。

 若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われていきます。ここにあるように神が喜び楽しませてくださってこそ、長寿は祝福となるのです。いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)。つまり真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神はそのような喜びを与えると言われるのです。

狼が小羊と共に生きる世界
 そして、その喜びは21節以下に書かれていることと深いところで結びついています。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21‐22節)。

 ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住み、植えたものを他人が食べるということが意味するのは、それらを他人に奪われるということです。奪われることに怯え、労苦が無駄になることに怯えて生きざるを得ないのは、そのような奪い合う世界の中に生きているからです。小さな家庭の中の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史です。

 しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることのない世界です。害されることのない世界です。そのような恐れが取り去られた世界です。奪われる恐れがないのは、神が近くおられ、神が治めてくださるからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(24節)。それほどに神は近くにいてくださる。

 いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は奪われる者を奪う者から守ってくださり、奪われることへの恐れを取り除かれるだけではありません。奪い合う《悪そのもの》を取り除いてくださるのです。奪い合いそのものにピリオドを打たれる。害し合う悪そのものを取り除いてくださるのです。そして、皆が本当の意味で共に生きるようにしてくださるのです。

 25節に書かれているのはそういうことです。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。そのように共に生きることができる。そして、共に生きる世界にこそ、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。

キリストの十字架のゆえに
 さて、このようなエルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。しかし、これらの言葉から少なくとも神様が何を私たちに与えたいと望んでいてくださるかは分かります。

 主は、奪い合い害し合う悪そのものが取り除かれた世界を望んでおられる。私たちが共に生きる世界を望んでおられる。そして、長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちた世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。

 だからこそ、神はこの世界にキリストを遣わしてくださったのです。救いを実現するためにキリストをお遣わしくださったのです。最終的な救いを描き出すために用いられたエルサレムの都に実際、キリストは入られ、そこに立たれたのです。

 しかし、その時、あの預言者イザヤの書に書かれているようなことは実現しませんでした。そこで何が起こったのか。私たちは良く知っています。キリストは十字架にかけられて殺されてしまったのです。

 今日の第二朗読において、パウロは次のように語っていました。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」(使徒13:27‐29)。

 そのように、神が救いのために遣わされたキリストを、人間は罪に定めて十字架にかけて殺してしまったのです。そのような形において人間の罪が白日のもとに明らかにされました。あくまでも自分の正しさを主張し、神の子さえも裁いて罪に定めて殺してしまう、そんな人間の罪が明らかにされたのです。

 あの日、イザヤ書に書かれている救いの世界は実現しませんでした。むしろ、私たち人間がいかに救いから遠いか、私たちがいかに救いがたい罪深い存在かということが明らかにされたのでした。

 しかし、パウロは言うのです。そのように人間がイエス様を十字架にかけることによって、「イエスについて書かれていることがすべて実現した」と。「イエスについて書かれていること」――書かせたのは神様です。神様が書かせたこと、神様が計画しておられたことがすべて実現したのだと言うのです。

 つまり、イザヤ書65章に語られていた救いの世界が実現する前に、この地上には十字架が立てられなくてはならなかった、ということなのです。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださる前に、私たちが共に生きる世界を神が与えてくださる前に、喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださる前に、神は私たち人間の罪を赦すための十字架をこの地上に立てなくてはならなかったのです。御子イエスの血によって罪の贖いを成し遂げなくてはならなかったのです。すべては既に書かれていたことでした。神のご計画の中にあったことでした。

 だからこそ、十字架には続きがあるのです。パウロはこう続けます。「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(使徒13:30)。

 神は私たちの想像を超えたことをなさいます。キリストの復活という出来事自体が、既に私たちの思考や想像を超えています。「だれの心にも上ることはない」ようなことを神はなさいました。そして、最終的に「だれの心にも上ることはない」ような仕方で、救いを実現してくださいます。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださいます。私たちが共に生きる世界を与えてくださいます。喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださいます。「新しい天と新しい地の創造」としか表現できないような仕方において与えてくださるのです。

 いや、最終的に与えてくださるだけでなく、私たちは既にその新しい天と新しい地を味わい始めているのです。大きなデコレーションケーキの端っこのクリームをなめさせていただくような仕方で味わい始めているのです。それが信仰生活です。そのようにしていただいているのは、私たちの正しさのゆえではありません。私たちがふさわしいからでもありません。すべては十字架によるのです。

 既に罪の赦しの十字架は立てられました。十字架につけられたイエスの御名による罪の赦しが宣べ伝えられています。私たちは罪を赦していただいた者として、信仰生活の恵みにあずかります。そして、罪を赦していただいた者として、新しい天と新しい地における救いの完成を待ち望んで生きるのです。

2017年4月16日日曜日

「終わりは新しい始まりに」

2017年4月16日 復活祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節

終わりを見つめる人々
 今年もこうして復活祭を共に祝えますことを嬉しく思います。復活祭は喜びの祝祭です。その喜びの祝祭においてキリスト復活の物語が朗読されました。今年はマタイによる福音書から読まれました。それは喜びの物語です。

 しかし、先ほど読まれましたように、その物語は喜びから始まっているわけではありません。それは深い深い悲しみから始まります。こう書かれていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。

 そのように、彼女たちは「墓を見に行った」と書かれています。実際には墓を見に行ったわけではありません。他の福音書を読むと分かります。彼らは香料と油を塗って御遺体の処置をするために行ったのです。しかし、今日お読みした箇所では、単純に「墓を見に行った」と書かれているのです。

 その二日前、イエス様が葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。聖書にはこう書かれています。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(59‐61節)。

 葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。その思いは、ある意味で痛いほど分かります。彼女たちが墓を見つめていたのは、そこにイエス様が葬られたからです。それはイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。

 どれほど前かはわかりませんが、彼女たちにもイエス様との出会いの時があったのでしょう。それぞれイエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。

 しかし、そのイエス様が捕らえられてしまいました。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、彼女たちが見つめる中で、イエス様は息を引き取られました。

 イエス様の遺体は取り下ろされ、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。あの日二人はイエス様が葬られた墓を見つめて座っていました。すべては終わったという事実を見つめて座っていました。

 そして、三日目の朝、二人は再びその同じ場所に向かいました。彼女たちは「墓を見に行った」。そこに物語の終わりがあるから。終わったという事実があるから。

 また、この場面に登場してはきませんが、この二人の背後に、やはり同じように終わりを見つめている人々がいました。イエス様の弟子たちです。

 彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまいました。他の弟子たちも、イエスを残して逃げてしまいました。

 見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨てることによる絶望もあります。裏切った自分自身、見捨ててしまった自分自身に対する自責の念による絶望。それは同じように深いものだと言えるかもしれません。

 彼らにもイエス様との出会いの時がありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。しかし、そのイエス様を彼らは見捨ててしまいました。見捨てられたイエス様は十字架にかけられて死にました。墓に葬られました。

 すべては終わりました。イエス様が葬られた墓。そこにあったのはイエス様と弟子たちの物語の終わりでもありました。

終わりは新しい始まりに
 あの朝、二人の婦人たちは、そのような「墓を見に行った」のです。そこに終わりがあるから。終わったという事実があるから。その事実を彼女たちは改めて目にすることになるはずでした。

 しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見ることになりました。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあったからです。そこにイエスはおられない、ということです。

 主の御使いは彼女たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。

 二人がそこに見たのは、「終わり」ではなく、「始まり」でした。終わりであると思われたところにキリストはおられませんでした。復活されたキリストは既に墓から歩み出しておられました。キリストは既に先に進んでおられました。神によって新しいことが既に始まっていました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。御使いを通して神が見せてくださったのは、「終わり」ではなく新しい「始まり」でした。

 神は、「終わり」を「始まり」に変えることのできる神です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっていたのです。墓で終わっていたのです。弟子たちも終わっていたのです。教会が世に存在することもなく終わっていたのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、弟子たちはあそこで終わりになりませんでした。それゆえにキリスト教会が今日もなお存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。

 あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見せていただきました。いや、見せていただいただけでなく、それを伝える人になりました。神の使いは彼女たちにこう言ったのです。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。

 こうして、彼女たちは伝える人になりました。終わりではないことを伝える人になりました。彼女たちは弟子たちに伝えることを託されたのです。キリストはよみがえられた。神は終わりを始まりに変えてしまわれた。もうキリストは先に進んでおられる。先に進んで待っていてくださる。だから弟子たちもまた、そこに立ち止まっていてはいけないのだ、と。

 「もう終わりだ」と思っているところに立ち止まっていてはいけない。絶望の暗闇に座り込んでいてはいけない。後悔と自責の暗闇に座り込んでいてはいけない。そう、彼らもまたそこから歩み出さなくてはならないのです。なぜなら、キリストが先に進んで行って、そこで待っていてくださるから。神によって既に新しいことが始まっているのだから。弟子たちのところに行って言いなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。

 ガリラヤ――それは弟子たちがイエス様に出会った場所です。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。

 確かに人は過去に戻れたらと思うかもしれない。過去に戻ってやり直せたらどんなにいいだろう、と思うかもしれない。しかし、必要なのは過去に戻ることではないのです。元に戻ることではないのです。

 弟子たちはイエス様と出会った場所に戻ります。ガリラヤに戻るのです。しかし、ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みとの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。

 神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。だから必要なのは元に戻ることではないのです。そうではなくて、罪を赦していただいて新しく歩み出すことなのです。

 イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、神の恵みによって新たに生かされた者として従い始めるのです。一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから教会は始まりました。そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられ続けているのです。

 弟子たちに伝えられたキリスト復活の福音は、私たちにも伝えられています。私たちもまた、終わりを新しい始まりにしてくださる神によって、新しく歩み出すことができるのです。

2017年4月9日日曜日

「十字架につけられたキリスト」

2017年4月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 27章32節~56節

 今日の福音書朗読は、イエス様が十字架にかけられ、息を引き取られるまでのことを伝えている聖書箇所でした。

 それは世界の片隅で起こった小さな出来事でした。特殊な力をもったあるユダヤ人が宗教裁判にかけられ、後にローマ人の法廷において裁かれ、十字架刑に処せられて死んだというだけの話です。十字架刑で処刑された人などいくらでもいた時代ですから、そこで起こった出来事も、後の時代の誰からも心に留められることなく忘れ去られたとしても不思議ではなかったのです。

 しかし、現実にはそうはなりませんでした。その人の話は二千年後の遠く離れた日本においても語り継がれ、あの日の出来事はこの世界を変えた出来事として記憶されてきたゆえに、あの時用いられた死刑の道具が、二千年後の日本の教会にもこうして掲げられているのです。

 あの日、あそこで何が起こったのか。あの方が十字架の上で死んだことはいったい何を意味するのか。聖書は実に様々な仕方で、言葉を尽くして、あの出来事の意味を伝えようとしています。今日読まれた箇所も例外ではありません。

 そこには確かに今日の私たちが首をかしげてしまうようなことが書かれています。昼の十二時に全地は真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。さらには墓が開いて、死者が生き返ったという話まで出て来ます。明らかにマタイが伝えようとしているのは、人間が行った何かではありません。あの十字架の出来事は、ただ人間が人間に対して行ったことではないのだ、ということを伝えようとしているのです。そこには神がなさった特別なことがあるのです。それは何なのか。一つ一つ見ていきましょう。

全地は暗くなった
 まず書かれているのは「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(45節)ということです。

 この箇所を理解する上で重要なのは、その背景にある旧約聖書の言葉です。最も明るいはずの真昼が暗闇となることを告げている旧約聖書の言葉があるのです。アモス書に次のように書かれています。「その日が来ると、主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。

 アモスが語っているのは裁きの預言です。彼は神がこの世の罪を裁かれる「その日」について語るのです。アモスは「その日」を「主の日」と呼びます。そして、暗闇として到来する「主の日」について語っているのはアモスだけではありません。イザヤも語り、ヨエルも語っていたことです。それは繰り返し語られてきたことなのです。

 そして、マタイはついに「その日が来た」と伝えているのです。旧約聖書の預言のとおり、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。エルサレムに十字架が立てられたあの日、神の裁きの日が到来したのです。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、苦悩に満ちた日が、ついに到来したのです。

 しかし、地上に神の裁きが行われる「その日」が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていませんでした。――そうです、たった一人を除いては。

 神に見捨てられて嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけでした。イエス様だけが大声でこう叫んでおられたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫びを上げておられたのです。

 他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはいませんでした。ある人は言いました。「この人はエリヤを呼んでいる」と。他の人は言いました。「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。その時、誰も知りませんでした。本当は神の正しい裁きのもとに苦悩しながら滅びるしかなかった自分であることを誰も知ることはありませんでした。神から見捨てられた者として滅びるしかなかった自分であることを誰も知ることはありませんでした。

 自分の罪が神の裁きにおいて明らかにされていることを知ることもなく、人々はキリストに向かってあざけりの言葉を投げつけていたのです。そして、そのただ中で、罪なきキリストが、まるで避雷針のように、すべての人に代わって、罪を裁く神の怒りを一身に受けられたのです。地上に注がれた神の怒りを、受けるべき杯として、ただ一人で飲み干しておられたのです。

 そして、主は死なれました。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(50節)と書かれています。主の最後の叫び、それは「成し遂げられた」という叫びであったとヨハネによる福音書は伝えています。救い主が成すべきことは成し遂げられたのです。救い主がこの地上における目的を果たされたのです。ならば、それはまた、この地上に決定的な何かが始まった瞬間でもあるのでしょう。

 それゆえに、マタイは「そのとき」という言葉をもって、さらに神のなされた二つのことを伝えるのです。ちなみに「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。「見よ!」という言葉でその決定的な瞬間から始まった出来事に注目させているのです。そこで注目すべきは単に事柄の不思議さでも異常さでもありません。大事なのは、それが何を意味しているのかということです。先にも申しましたように、聖書は言葉を尽くして、あの日の出来事の意味を伝えようとしているのです。

垂れ幕が裂かれた
 まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。

 「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との隔てを象徴しています。人間には罪があるゆえに、罪の贖いの犠牲なくしては聖なる神に近づくことはできない。そのことを意味する垂れ幕です。

 しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。人間が裂いたら「下から上まで」となるでしょう。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。

 キリストが成し遂げてくださったことのゆえに、もはや神と人間とを隔てるものはなくなりました。神によって垂れ幕は引き裂かれた。そこにあるのは罪の赦しです。罪の赦しによって、人間が神に近づく道が永遠に開かれました。その道が神の御手によって開かれました。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のことです。

墓が開いた
 そして、さらにこう書かれております。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。

 私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。

 キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事でした。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。

 人間にとって最も確かなことは何か。それは人間が「死ぬ」ということです。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであったはずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が意味しているのは、そういうことです。

 そして、墓が開かれたことが、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。

 考えてみてください。私たちが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来れば、それが救いになるでしょうか。本当の意味で死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きして死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、ただそれだけならば、それはきっと地獄を意味するに違いありません。

 本当に必要なのは、罪の赦しであり、隔てが取り除かれた者として神との交わりが回復されることなのです。そのこと抜きにして、ただ墓から出てくるだけなら、苦悩の日々が伸びるだけなのです。

 私は、今まで病の床にて共に祈り、そして亡くなっていった方々を思い起こします。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ません。豪華なご馳走も、意味を持ちません。最終的に死が克服されるために必要なのは、キリストの十字架であり、「あなたの罪は赦された」という神の宣言であり、神と人との隔てが取り除かれることなのです。そこにこそ真の救いはあるのです。


 私たちは十字架におけるキリストの死において実現したことを見てきました。今日から受難週に入ります。イースターまでの一週間、キリストの十字架において成し遂げられた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。




2017年4月2日日曜日

「あなたの願いは何ですか」


2017年4月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 20章20節~28節

そのとき
 今日の聖書箇所は「そのとき」という言葉から始まっていました。その前を読みますと、「そのとき」とはイエス様がエルサレムへ上っていく途中でのことです。イエス様はエルサレムにおいて何が待ち受けているかを既にご存じでした。それゆえに、エルサレムに上るに当たって、改めて主は御自分の受難を予告されます。マタイによる福音書においては、これが三度目の受難予告です。そのためにイエス様は十二人の弟子だけを呼び寄せて語られます。今日お読みしたのは、まさに「そのとき」の話です。

 イエス様がエルサレムにおいて受けようとしておられた苦しみについて、今日の聖書箇所では、「仕えられるためではなく仕えるため」また「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」と主は表現しておられます。つまりイエス様が考えておられたのは、ただエルサレムにおいて受ける苦しみのことではなかったのです。ただ引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる、ということではなかったのです。ただ苦しみを甘んじて受けるということでも、運命として受容するということでもなかったのです。そうではなく、イエス様が考えておられたのは、「仕える」ということだったのです。イエス様は仕えるために来られ、仕えるためにエルサレムへと向かっておられたのです。そして、仕えるということはすなわち命を献げる(与える)ことでした。主にとって、この世の「命」は仕えるための命、与えるための命でした。主は命を与えるために来られ、命を与えるためにエルサレムへと向かっておられたのです。

 そのようなイエス様の前に彼らはいるのです。十二人の弟子がそのようなイエス様によって呼び寄せられたのです。そのようなイエス様が語っておられた「そのとき」です。まさに「そのとき」のことです。そこで一つの出来事が起こったのです。こう書かれています。「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」(20節)。

 この「ひれ伏す」という言葉はマタイによる福音書に繰り返し繰り返し出て来ます。「礼拝する」という意味の言葉です。様々に訳されます。最初に出て来るのは、イエス様がお生まれになった時、東方から来た博士たちがこう言う場面です。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:1)。最後に出て来るのは、ガリラヤにおいて復活したイエス様にお会いした弟子たちについて次のように書かれている箇所です。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)。そのようにこの福音書はイエス様を礼拝されるべき御方として描いているのです。そして、イエス様の御前にひれ伏し、礼拝する人々の姿の中に、教会の姿を見ているのです。すなわち、ここにいる私たちの姿です。

 「そのとき」、ゼベダイの息子たち、つまりヤコブとヨハネの母親がイエス様の御前に「ひれ伏した」と書かれています。すなわち、礼拝しているのです。「一緒にイエスのところに来て」と書かれていますから、この二人もイエス様の御前にひれ伏したのでしょう。そこに教会の姿が、ここにいる私たちの姿が重なってまいります。

 特に、彼らが礼拝しているのは、エルサレムへと向かわれるイエス様です。そこで御自分の受難と復活について語られたイエス様です。「そのとき」のイエス様です。ならば、なおさらレントの時を過ごしている私たちと重なってまいります。私たちもまた、主の御受難と復活を思いながら、仕えるために来られた御方、私たちのために命を献げてくださった方の御前において礼拝をしている私たちですから。そこでイエス様は言われるのです。「何が望みか」。あなたは何を願っているのか、と。そう、何を望んでいるのでしょう。何を願っているのでしょう。

十人は腹を立てた
 ゼベダイの息子たちの母親は答えました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。彼女はイエス様が王座に着いた時のことを考えています。恐らくゼベダイの息子たちも同じです。マルコによる福音書では、この二人の息子たちが直接願ったことになっています。そのように、彼らもまたイエス様が王座に着くことを信じているのです。後に見るように、他の弟子たちについても同様です。

 イエス様が王座に着かれる!彼らがそのように信じたことは理解できます。なにしろ、それまでに数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから。とてつもない神の力がこの御方を通して現実に働くことを目撃してきたのです。しかも、この御方の周りに集まってくる人たちは数千人規模に膨れあがっていたのです。しかもイエス様は大群衆と共に神の都エルサレムに向かって進んで行かれるのです。

 イスラエルが待ち望んでいたことがついに実現するのだ!イエス様を取り巻く巨大な群衆において、そのような期待が一気に膨らんでいったことは容易に想像できます。そのような彼らの期待は、この後の21章にもよく現れています。イエス様がエルサレムに入城する時には、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、前に行く者も後に従う者もこう叫んだのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。「ホサナ」とは「救ってください!」という叫びです。まさに彼らは救い主として到来した王を迎えたのです。この御方を王とした王国が実現することを信じて、彼らは叫んだのです。

 今日お読みしたのは、そのような人々の期待と興奮の中での出来事です。そのような「そのとき」でもあります。この御方が王座に着く時がやってきた!そこでヤコブとヨハネが母親を巻き込んで抜け駆けをしたのです。あるいは母親が彼らを巻き込んだのかもしれません。いずれにせよ、イエス様の前にあって、これは三人共通の思いだったはずです。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。

 しかし、これは実に異様な光景であるとも言えます。他の十人がそこにいる、まさにその前で彼らは「抜け駆け」をしているのです。いや、そこに他の十人がいるからこそ、彼らにも聞こえるように、イエス様に「おっしゃってください」と願っているのでしょう。まるで、イエス様がこの二人を特別扱いすることが当然であるかのように、そう言っているのです。そして、明らかに当のヤコブとヨハネもそれを当然のことのように思っていたのです。先にも言いましたように、マルコによる福音書では、この二人が願ったこととして書かれているのです。

 しかし、それは根拠のないことではありませんでした。イエス様がかつて高い山に登られた時、連れて行ったのはゼベダイの息子たちとペトロだけでした。後に、イエス様がゲッセマネの園で祈られる場面があるのですが、そこで一緒に連れて行ったのもヤコブとヨハネ、そしてペトロだけでした。実際に、この三人だけがイエス様にお供することは少なからずあったのだと思います。

 ですから、いよいよイエス様がエルサレムに向かおうとしておられた時、いよいよイエス様が王座に着かれると期待される時、二人の息子の母親は、当然のこととしてイエス様に願ったのです。みんなの前で!「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。それは実際的に必要なことでもありました。三人いますから。ペトロは三番目にしておいてもらわなくてはなりませんから。

 しかし、そのことに腹を立てたのはペトロだけではなかったのです。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(24節)。ただ抜け駆けをされたからではありません。先を越されたからではありません。彼らが腹を立てたのは、明らかに下に見られたからです。この母親に自分の息子たちよりも下に見られたからです。いや当のヤコブとヨハネによっても下に見られたからです。母親も息子たちも、王座の左右に座ることを当然のこととして見ていたからです。他の十人よりも自分たちを上に見ていたからです。

 これが「そのとき」の弟子たちです。その姿は身に覚えがあります。人を比較し、人から比較され、人を見下してみたり、人をねたんでみたり、高く見られて喜んでみたり、低く見られて腹を立てたり、そんなことを繰り返している私たちですから。

上下が逆の王国において
 そのような「そのとき」の弟子たちをイエス様は呼び寄せて、こう言われたのでした。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(25‐28節)。

 あの母親は主の前にひれ伏して言いました。「王座にお着きになるとき・・」と。そこから始まったのです。それは間違いではありません。イエス様はまことの王です。王座に着くべき御方です。しかし、先に見たように、王座に着くべきその御方は、エルサレムにおいて受けようとしておられた苦しみについて語っておられたのです。わざわざ十二人を呼び集めて語っておられたのです。その御方が考えておられたのは、仕えることだったのです。仕えることとは、すなわち命を献げることだったのです。

 そのように、イエス様の王国は上下が逆になっている王国なのです。「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。それがこの世の王国です。それとは全く逆の、王が民のために仕えて命まで与えてくださった、そのような王国なのです。

 そのような王国のそのような王の前に彼らは「そのとき」いたのです。その王国の王座の右と左に座りたいと願うということは何を意味するのでしょうか。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とイエス様は言われました。その主の御前において礼拝している私たちには何と言われるのでしょうか。

 今日は聖餐式が行われます。私たちは目に見える形で、確かに仕えるために来られた王、命まで与えてくださった王の御前にあるのです。王が低くなって私たちに仕えてくださいます。王がその命を私たちに与えてくださいます。その御方の語りかけを、しっかりと受け止めたいと思います。

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