日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章38節~42節
しるしを見せてください
何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に言いました。「先生、しるしを見せてください」。――「しるし」とは証拠です。「あなたがメシアであるという証拠を見せてください」ということです。
そのように彼らは「しるし」を求めました。それ自体はなんら特別なことではありません。パウロも手紙の中で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(1コリント1:21)と言っています。もともとユダヤ人の世界には「しるしを見て信じる」という伝統があるのです。
例えば、モーセがイスラエルの民に遣わされた時、彼は神に遣わされたという証明として人々の前で不思議なことを行いました。しるしを見せるわけです。主がそうしなさいと言われたからです。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれているのです。
今日の第一朗読(列王記上17:17‐24)で読まれたエリヤの物語もそうです。エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらった母親が言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。そのような言葉が当たり前のように書かれています。
そのように、神から遣わされた者にはしるしが伴う。神が遣わされたのなら神自らが証明なさる。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに雄弁な人が「主はこう言われる」と語り出しても、どんなに有り難いことを言ってくれたとしても、それだけでやたらに信じたりはしないのです。しるしを求めるのです。本当に神から遣わされたかを確認するのです。それはそれとして大事なことなのでしょう。
しかし、そのように律法学者とファリサイ派の人々が「しるしを見せてください」と言ってきた時、イエス様はこう答えられたのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(39節)。そのように、彼らの求めに応じて、目の前で「しるしを見せる」ことを拒否されたのです。それはどうしてか。彼らが《信じるために》しるしを求めているのではなく、《信じないために》しるしを求めていることが分かっていたからです。
そもそも、「しるしを見せてください」と言うならば、既にしるしは見せてもらっているとも言えます。今日の聖書箇所は「すると」という言葉で始まります。これは「その時」という意味の言葉です。「その時」とはどのような時か。どのような場において、彼らは「しるしを見せてください」と言ったのか。それはこの章の22節以下に書かれています。それは彼らの目の前である奇跡が行われたという場面なのです。しるしを彼らは目にしたのです。
その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエス様のもとに連れて来られました。いつものように、イエス様は憐れに思って彼を癒されました。ものが言え、目が見えるようになりました。長い間苦しんできた人が癒され解放されました。想像しますに、その人はどれほど嬉しかったことでしょう。いや、彼だけではありません。その人を連れてきた人たちがいるのです。彼のことをこれまで心に懸けていた人たちがいた。その人が癒されることを願っていた人たちが彼を連れてきたのです。どれほど嬉しかったことか。
そのように、イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。そして、その喜びの出来事の中に、メシアの到来のしるしを見た人たちがいたのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)と。
しかし、同じ出来事を目の当たりにしても、ファリサイ派の人たちはこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。彼らはこれを悪霊の頭の仕業であると宣言したのです。
何を見せられても、何を経験しても、信じたくなければ信じないでいられます。いくらでも拒否することはできるのです。そのような人たちにイエス様は言われました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)と。しかし、彼らはその言葉をも受け入れることはありませんでした。
本当に必要なこと
そのように先に拒絶があるのです。いやファリサイ派や律法学者の拒絶は一つの先駆けに過ぎません。やがて彼らだけでなく、民衆もまたやがて叫び始めることになるのです。「十字架につけよ!」と。
それはメシアがこの世に来られたことにおいて必然であったとも言えます。なぜなら、メシアが来られるということは、光がもたらされるだけでなく、影もまたくっきりと現れることでもあるからです。神の救いの喜びがもたらされるだけでなく、救われなくてはならない人間の現実が明らかにされるということでもあるからです。人間の罪がいかに深いか、人間がいかに救いから遠いかが明らかにされることでもあるのです。
ここに出て来る律法学者とファリサイ派の人々は、当時の社会においては最も尊敬されていた人々です。最も敬虔であると見なされていた人たちです。最も救われるに相応しいと見られていた人たちです。しかし、イエス様は彼らに言うのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)。今日の箇所の直前に書かれていることです。
「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」。確かにそうです。もしあのファリサイ派の人たちが、苦しんでいる人たちの解放と癒しを願っていたならば、そのような愛と憐れみが心にあふれていたならば、心にあふれているものが口から出たことでしょう。この場面で喜びの言葉が口から出て来たことでしょう。しかし、自分より力ある者に対する妬みや敵意しか心に満ちていないなら、その心にあふれているものが口から出て来るのでしょう。彼らは冷ややかにこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。
先にも言いましたように、表面的には敬虔そのものに見える彼らです。しかし、イエス様の存在と言葉は彼らの内に何が満ちているかを知っていたのです。その彼らの姿を明らかにしました。主は言われます。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。
光が来ました。しかし、だからこそ影もまた現れることになるのです。イエス様と向き合うということは、その言葉に耳を傾けるということは、自分の見たくなかった暗闇とも向き合うことでもあるのです。神が赦して救ってくださるのでなければ、到底救われようのない自分自身の姿とも向き合うことでもあるのです。
そして、そのような自分自身を見たくないならば、認めたくないならば、光の方を拒絶するしかありません。だから彼らは「その時」こう言ったのです。「先生、しるしを見せてください」。その意味合いははっきりしています。「お前がメシアだと言うならば、証拠を見せてみろ。我々はお前を神から遣わされたとは認めない。メシアとは認めない。」
それゆえに主は言われたのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを求める」と。ならば彼らにとって本当に必要なことは、そこでしるしを与えられることではないのです。奇跡を経験することでもないのです。そうではなくて、光に照らされて既に見えてしまっている自分自身の姿を認めることなのです。本当は自分でも分かっている自分の姿を認めることなのです。明らかにされた自分自身を認めて、主の御前にひれ伏して、わたしの罪を赦してください、わたしを清めてください、わたしを癒してください、わたしを変えてください、わたしを救ってくださいと願い求めることなのです。そうでなければ、結局は光の方を拒絶して偽りの正しさの中に生きていくことになるのです。
預言者ヨナのしるしは与えられる
だから主は彼らの求めに応じて、目の前で「しるしを見せる」ことを拒否されました。しかし、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、しるしは与えられない」とは言われなかったのです。そうです、「信じようとしないあなたたちに、しるしは与えられない」とは言われなかった。そうではなく、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われたのです。つまり、「そのようなあなたたちであってもなお預言者ヨナのしるしは与えられる」と言われたのです。
「預言者ヨナのしるし」とは何でしょう。主は言われました。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(40節)。人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が葬られて三日目に復活することを指しています。(三日目ですので、厳密に言えば「三日三晩」ではないのですが、これはヘブライ的な表現です。)そのように、イエス様がしるしを行うのではなく、イエス様が自分の命をささげて、イエス様自身がしるしとなるのです。罪の贖いを成し遂げた上で、自分自身が神の赦しと救いのしるしとなるのです。
そのしるしが与えられると主は言われました。そうです、律法学者とファリサイ派の人々に主はそう言われたのです。彼らにも与えられるのです。イエス様をその時拒絶していた人々にも与えられるのです。しかも、実際には彼らによって十字架にかけられて殺されることによって、彼らに「預言者ヨナのしるし」が与えられるのです。そこにあるのはただ神の憐れみです。
そして実際、彼らにもまたキリストの復活は宣べ伝えられたのでした。初期の宣教の様子は使徒言行録に見ることができますが、拒絶されようが迫害されようが、まず福音はいつもユダヤ人の会堂において語られてきたことを思います。預言はヨナのしるしは与えられました。その時こそ、本当の意味で彼らは問われることになったのでしょう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。そして、主は言われたのです。「ここに、ヨナにまさるものがある」。そうです、「預言者ヨナのしるし」はまさに、ヨナ自身にまさるものでした。そのヨナのしるし、キリストの復活は、私たちにも与えられたのでした。それゆえに、今、私たちが信じる群れとしてここにいるのです。それは一重に神の憐れみによるのです。