2017年3月26日日曜日

「このままでは終わらない」

2017年3月26
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 17章1節~8節

キリストの復活の輝き
 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(1節)と書かれていました。六日前に何があったかは16章に書かれています。ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と信仰を言い表しました。またその日を境に、イエス様は御自分の受難について語り始められました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(同21節)。それから六日の後のことでした。

 イエス様に連れられて高い山に登ったペトロとヤコブとヨハネは、そこで不思議な光景を目にすることになりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。しかし、彼らが目にしたのは一緒にいるイエス様の姿が変化したことだけではありませんでした。彼らはそこに二人の人物を見たのです。一人はモーセ。もう一人はエリヤでした。モーセは律法を代表する人物です。エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言えます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。

 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは何を意味するのか。イエス様が受けることになる苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということです。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていたということです。聖書の預言の言葉によって指し示されていた。言い換えるなら、それはすべて神の御心によるのだ、神の御計画によるのだ、ということです。

 ならば苦難は苦難で終わらない。十字架で終わらない。人間の罪がキリストを十字架にかけて、それで終わりではない。全てが成し遂げられたなら、その先があるのです。イエス様は言われました。「三日目に復活することになっている」と。

 あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。

 彼らはやがてキリストが捕らえられるのを見ることになるのでしょう。この御方が不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのでしょう。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのでしょう。しかし、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを。ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。

 とはいえ、その意味はあの山の上にいた時には分からなかったに違いありません。イエス様が実際に十字架にかけられ、そして復活されるまでは、この山の上の出来事の意味も分からないのです。ですから、今日の箇所の直後にはこう書かれているのです。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)。

 そのように、あの山の上の出来事は一旦封印されたのでした。しかし、そのように封印された出来事が、今やこうして福音書に記されているのです。やがて後の日に、口止めされていた彼らが語り出したのです。キリストが復活したからです。その意味を知った彼らが語り出したのです。キリストの受難の前に、既に彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出したのです。今日の第二朗読においてもペトロが書いていましたでしょう。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ1:16)。

私たちもまた変えられる
 そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を指し示す出来事でした。しかし、それだけではありません。彼らが目にしたのは、彼ら自身の復活、そしてここにいる私たちの復活をも指し示す出来事だったのです。

 今日お読みした箇所において、特に「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていることを見落としてはなりません。この福音書は単にペトロたちが栄光に輝くキリストを見たことを語り伝えてきたのではないのです。キリストがペトロたちの目の前で《変化したこと》を伝えてきたのです。

 実はこの「変わる」という言葉ですが、それは例えば芋虫が蝶になるような変化を表すような言葉です。しかも、厳密に言いますと、それは「変わる」と書かれているのではなくて、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違います。イエス様は神の御子でありながら、神の側にいる者としてではなく、私たちと同じ人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」と書かれているのです。この御方は一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。

 ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。主は一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちもまた変えられるのだ、という希望を与えるためでしょう。

 先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。彼の言っていることは明らかに変でしょう。簡単な幕屋であったとしても、にわかにそんな仮小屋など作れるはずないのですから。しかし、その気持ちは分かります。そこにいつまでも留まりたかったのでしょう。栄光に輝くキリスト、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたい。天の栄光に触れたその甘美な恍惚感の中に少しでも長く留まりたかったのでしょう。

 しかし、ペトロたちは山の上に留まるために連れて来られたのではないのです。ですからペトロの提案は却下されました。光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのです。神自らペトロたちにこう語られました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

 父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と言われました。その「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。山の下へと向かわれるのです。そして、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われるのです。

 ならば弟子たちは山の上に留まっていることはできません。キリスト教信仰は、山の上のようなところ、非日常的な神秘の世界に逃げ込むためにあるのではありません。キリスト教信仰は、現実から逃避するためのものではありません。そうではなくて、現実としっかりと向き合うことができるために、信仰は与えられているのです。まさにキリストが遣わされたこの世界のただ中で、日常生活のただ中で、イエス様に従っていくのです。

 そして私たちが山の上ではなく、現実の世界のただ中に身を置いて、そこでキリストに従って生きようとするならば、そこで初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのでしょう。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるか、いかに自分が醜いエゴイストであるかが分かります。そう、わが内にこそ罪の暗闇がある。その時、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるのです。

 そして、もう一つ――自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになるのでしょう。自分の醜さを知るゆえに、変えられたいと切に願う。自分が芋虫の姿であると知るゆえに、変えられたいと切に願う。それは自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従おうとする時にこそ、切実な願いとなるのです。

 その時、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままじゃない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。

 後にパウロが次のように語っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。この「造りかえられる」という言葉は、先ほどイエス様に用いられていた「変えられる」という言葉と同じです。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちが垣間見た復活の栄光の姿のことです。

 そのように私たちに、驚くべきことが起こります。天の御国において実現します。芋虫はいつまでも芋虫のままではありません。私たちは、いつまでも芋虫のままではないのです。やがて復活の栄光の姿に変えられるのです。そして、それは既に信仰生活において、主の霊の働きによって始まっているのです。この世において味わうのは一部分に過ぎないかもしれませんが、確かに始まっているのです。だからこのままでは終わらない。だから私たちは絶望しません。絶望しないで現実と向き合うことができます。絶望しないで自分とも向き合うことができます。天の御国において完成する私たちの姿を主が既に見せてくださったからです。

2017年3月19日日曜日

「試練は喜びに」

2017年3月19
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章12節~19節

ペトロの手紙Ⅰ 4:12-19

驚き怪しんではなりません
 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。そのように聖書は語ります。それは、実際に試練が身にふりかかる時に、「思いがけないこと」が生じたように思う人がかつても今も、少なくないからでしょう。

 考えてみれば不思議です。この手紙が宛てられているのは、今日の私たちよりも迫害がずっと身近であった教会です。キリストを信じたならば苦しみに遭うことになるだろう、と覚悟して洗礼を受けた人たちです。そのような人たちでさえ、実際に試練が身にふりかかってきた時には「思いがけないこと」が生じたように思うことがあり得た。だからこのような言葉を聴かなくてはならなかったのでしょう。ならば、今日の私たちにおいてはなおさらです。その意味では、私たちこそ心に留めなくてはならない御言葉であるとも言えます。

 もしキリストを信じるということが、ただ自分の平安を得るため、ただより良い幸福な生活を手に入れるためであるならば、キリストを信じたゆえに平安を失うような出来事に遭遇したり、「火のような試練」と表現されるような出来事に直面したりするならば、「キリストを信じているのに、いったいどうして?」ということになるでしょう。

 しかし、キリストを信じるということが、ただ自分の平安や幸いを得る手段ではなくて、キリストに従うということであるならば、そしてこの世の救いのために仕えるということであるならば、キリスト者が苦しむことは、ある意味では当然のことなのです。それはなぜか。キリストは私たちを救うために苦しんでくださったからです。キリストを信じて神に立ち帰った者として、今度はキリストの体として救いの御業に参画していくということならば、だれかが神に立ち帰ることを願って生きるならば、キリストの苦しみにも与るのはある意味では当然のことなのです。

むしろ喜びなさい
 とはいえ、ペトロはただ歯を食いしばって試練を耐え抜けと言っているのではありません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど《喜びなさい》」と彼は言うのです。それはむしろ喜ぶべきことだということが分かっているからです。どのような意味において、それは「喜ぶべきこと」なのでしょう。

 試練を喜びとすることについて語っているのはペトロだけではありません。ヤコブもまた次のように言っています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコブ1:2‐4)。またパウロも言っています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。このように試練は一つのプロセスとして理解されているのです。イメージとしては、金属の精錬のようなものでしょう。それは迫害が身近であった教会においては共通の理解だったのだと思われます。そのような意味で、確かに試練は喜ぶべきものと言うことができます。

 しかし、今日の箇所において語られているのはもう一つの別なことです。先ほどお読みした「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」という言葉は次のように続きます。「それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(13節)。ペトロは、「キリストの栄光が現れる時」のことを考えているのです。すなわちキリストが再び来られる終わりの時、私たちの救いが完成するその時のことを考えているのです。神の御国において満ち溢れるであろう喜びのことを考えているのです。

 喩えて言うならば、私たちはちょうどプレゼントを手渡されようとしているところにいるのです。プレゼントが差し出されます。相手の手から自分の手に渡るのに、ある程度の時間がかかるでしょう。そのような場面で、皆さんは自分の手にプレゼントが移って初めて喜びますか。そうではないでしょう。まだ自分が手にしていない時に、既に喜んでいるはずです。

 私たちはキリストと結ばれて完全な救いというプレゼントを既に差し出されているのです。それはまだ手にしていなくても既に私たちのものなのです。その差し出されたプレゼントをやがて自分の手に受け取るための「現在」なのです。それは信仰が試される「現在」であるかもしれません。しかし、それはその時を迎えるためのプロセスなのです。

栄光の霊がとどまってくださるから
 そして、もう一つ喜べる理由をペトロは示しています。その喜びは終末に関わるだけではありません。現在にも関わるのです。彼は言います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節)。「とどまってくださる。」これは将来のことではなく、現在のことです。

 ここで神の霊について、あえて「栄光の霊がとどまる」と表現されているのには理由があります。ペトロがイメージしているのは、例えば列王記上8章のような場面なのです。ソロモンが神殿を建て、その至聖所に主の契約の箱が運び入れられた時の話です。そこにはこう書かれています。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王上8:10‐11)。

 パウロはギリシアの詩人のこのような言葉を引用していました。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。それは間違いではありません。確かに神はどこにでもおられます。しかし、今読んだ箇所に書かれているのは別のことです。どこにでも神はおられる、というのではなく、まさに神がここに現臨してくださり、栄光を現してくださる。そのような神の臨在をイスラエルの民は「シェキーナー」と呼びました。

 そして、あの神殿で起こったことが、あなたたちに起こるのだ、とペトロは言っているのです。人はどこで神の臨在に触れるのか、そして、人はどこで神の栄光を輝かせることになるのか。それは試練の中においてなのだ、ということです。人がキリストのゆえに非難される時、その人は栄光を失うのではなくて、むしろそこで神のリアリティに触れ、神の栄光を輝かせるのです。ならば、それは喜びにつながるのでしょう。

キリスト者として苦しみを受けるのなら
 それゆえにペトロは言います。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(15‐16節)。

 「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が出て来ました。原文では「クリスティアノス」。「キリストに属する者」という意味です。もともとアンティオキアにおいて始まった、いわば《蔑称》です。キリストを信じる者をバカにする呼び名でした。いわば「キリスト馬鹿」といったところでしょうか。キリストを信じた人たちが、年がら年中「キリスト」と言って、キリストを愛し、キリストを喜んでいる姿がはたから見たら滑稽だったのでしょう。

 しかし、ペトロはそう呼ばれて馬鹿にされても気にするな。むしろ「神をあがめなさい」と言うのです。このような初期のキリスト者の姿を思います時、改めて考えさせられます。私たちは、馬鹿にされるほど、あるいはそのゆえに苦しめられるほどクリスティアノスだろうか。むしろ単なる善人であるように思われているほうがおかしいのではないか、と。

 私は学生時代に出会った一人の友人を思い起こします。彼は同じ研究室の後輩でした。学部4年の時には完全にアンチ・キリストで、研究室でも下品な冗談ばかりを言っていた男でした。ところがその彼が修士1年目の時にキリスト者となり、一転して毎日口を開けばキリストの話をするようになったのです。

 研究室の皆は彼を馬鹿にしました。彼は陰口をたたかれ、中傷されました。確かにキリストを伝えるのに、もう少し馬鹿にされない工夫はできたかもしれません。しかし、今思い起こすと、まさに彼はクリスティアノスでありました。そして、馬鹿にされても神をあがめていたのです。今日の箇所を読みますと、馬鹿にもされなければ気にもかけられない、もしかしたら信じていることすら知られてもいないキリスト者とは、いったい何なのかと改めて思わせられます。

福音に従わない者たちの行く末を案じて
 そして、さらにペトロは言います。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(17節)。まず神の御前において問われるのはこの世ではありません。裁きは神の家から始まるのです。キリスト者が受ける苦難は、ある意味においてはまずキリスト者から神の御前に裁かれるということを指し示している出来事であるとも言えるでしょう。

 そこで私たちが救われるとするならば、それはただ一重にキリストの十字架による贖いのゆえです。キリストの十字架がなければ、私たちの内いったい誰が救われると言えるでしょう。間違ってはなりません。私たちが救われるとするならば、それは当然のことなのではないのであって、まさに「正しい人がやっと救われる」のです。そのあのノアの時に、ノアとその家族が、かろうじて救われたようにです。もちろん私たちにおいてその「正しさ」というのは、信仰による義です。そのように十字架のゆえに「やっと救われる」ならば、確かにペトロが言うごとく「神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」と案じるのが当たり前ではありませんか。

 ならば自分の平安と幸福の事だけ考えて、試練が降りかかれば「思いがけないこと」のように思うようなキリスト者であってよいはずがありません。私たちが福音を証ししながらこの世をクリスティアノスとして生き抜くということは、この世に対する私たちの大きな責任なのです。ですからペトロは言うのです。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。

2017年3月12日日曜日

「嘆きと悲しみが逃げ去る時」

2017年3月12
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書35章1節~10節

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る
 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」(1節)。今日の第一朗読でそのような言葉が読まれました。

 荒れ野は、突然荒れ野になったわけではありません。荒れ野は荒れ野であり続けた過去があり、その結果として荒れ野である現在があるのです。砂漠は突然砂漠になったわけではありません。砂漠であり続けた過去があり、その結果として砂漠である現在があるのです。

 荒れ野の過去と現在を思う時、その先に喜び躍るべき未来があるとは思えません。砂漠の過去と現在を思う時、その先に花が咲き乱れている未来があるとは思えません。荒れ野は荒れ野なのであって何も変わらない。砂漠は砂漠なのであって何も変わらない。そこに期待すべき新しいことなど何もないのです。

 しかし、ここに全く異なる見方でこの世界を見ている人がいます。人は彼を預言者と呼びます。預言者は荒れ野に命じるのです。「喜び躍れ」と。砂漠に命じるのです。「喜び、花を咲かせよ」と。「野バラの花を一面に咲かせよ」と。これは一つの翻訳です。多くの翻訳はこれを、確信をもった断言として訳し出します。「荒れ野と荒れ地は喜び躍る。砂漠は喜び花を咲かせる」。

 いずれに訳しても明らかなことがあります。この人は、過去から現在への延長上に未来を見てはいない。過去は砂漠であり現在は砂漠であっても、彼は未来に砂漠を見てはいないのです。預言者はそこに、バラの花が咲き乱れている未来を見ているのです。

 さらに彼は言葉を続けます。「花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(2節)。レバノンはレバノン杉で有名な森林を有する地域です。レバノン杉は砂漠には生えません。過去に生えたことはないし、現在も生えてはいないのです。しかし、この人は砂漠がレバノン杉の森林になった姿を見ているのです。「砂漠はレバノンの栄光を与えられる」と。

 そのように彼は、過去から現在の延長上に未来を見てはいません。それはなぜなのか。彼が目を向けているのは荒れ野や砂漠だけではないからです。また、そこで人間が何を為し得るかということでもないからです。この人は神がなさることに目を向けているのです。

 荒れ野が喜び躍り、砂漠に花が咲き乱れるとするならば、それは神がなさることです。砂漠がレバノン杉の森林になるとするならば、それは神がなさることです。それゆえに、そこで人々が見るのは人間の栄光ではなく、主の栄光なのです。「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と彼は言うのです。

 私たちが耳にしているのは希望の言葉です。神に思いを向けるところから来る希望の言葉です。それは信仰から来る希望の言葉です。人が荒れ野の過去を思い、荒れ野の現在を思い、そして、そこで自分の手を見つめている限り、そこには希望はありません。自分の為し得るところを見つめている限り、荒れ野は未来も荒れ野なのでしょう。しかし、預言者は本当に求めるべきことを語るのです。それは人々が主の栄光を見ることなのです。私たちの神の輝きを見ることなのです。

見よ、あなたたちの神を
 これは信仰の言葉です。信仰に基づく希望の言葉です。そして、預言者がそのように語るのには理由があります。そこには「弱った手」を持つ人々がいるからです。本当はなさなくてはならないことがあるのに、できなくなっている人々がいるからです。そこには「よろめく膝」を持つ人々がいるからです。本当は立ち上がって前に進んでいかなくてはならないのに、それができなくなっている人々がいるからです。そして、そこには「心おののく人々」がいるからです。本当は心を向けなくてはならないことがあるのに、恐れと思い煩いで心がいっぱいになっている人々がいるからです。

 それゆえに、彼らに向かって預言者は語ります。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ」と。さらに彼は言います。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(3‐4節)。

 弱った手。よろめく膝。心おののく人々。具体的にどのような状況がそこにあるのか、この預言の言葉がどのような時代背景において誰に対して語られたのかは定かではありません。いや、むしろあえて特定の時代状況や人々と結びつかないような書き方がされているとも言えます。実際、弱った手やよろめく膝、心おののく人々の存在は、ある特定の時代背景に限定されているわけではありませんから。それは今日、ここにいる私たちの話であるかもしれません。

 まさに荒れ野としか言いようのない過去があり、現在も変わらず荒れ野であるときに、人はもはや何も未来に期待することができなくなってしまうのでしょう。もはやそこには待ち望むべき何ものもない。本当は為すべきことがあるのに手は弱り、本当は進まなくてはならないのに膝はよろめく。そのようなことが起こるのでしょう。なぜですか。希望がないからです。

 だからこそ預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。そうです、だからこそ目を向けなくてはならない御方がいるのです。その御方は他ならぬあなたたちの神だと預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。それは信仰への招きです。神が来られるのです。私たちの目には永遠に荒れ野としか思えないところに入って来られるのです。そして、神が行動を起こされるのです。「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」とはそういうことです。

 ここもまた、あえて特定の歴史的状況とは切り離して書かれています。敵が誰であるかは語られていません。「悪」が具体的にどのような悪なのかは語られていません。それは大して重要なことではありませんから。それがいつの時代であれ、どのような状況であれ、苦しめる敵が何であれ、苦しめる悪がなんであれ、大切なことは「神は来て、あなたたちを救われる」という信仰だからです。

そのとき
 「見よ、あなたたちの神を」。そこに目を向けないならば、荒れ野の未来は荒れ野です。砂漠の未来は砂漠です。「見よ、あなたたちの神を」。そこに目を向けるとき、そこには異なる未来が見えてきます。いや、神が見せてくださると言う方が正確かもしれません。神は預言者を通して「そのとき」について語ってくださるのです。神が来て、救ってくださる「そのとき」について語ってくださる。私たちの想像を超えた仕方で神が救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。

 彼はこう続けます。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる」(5‐7節)。

 神様は預言者を通して、実に様々な表現を用いて、「そのとき」について語られます。それらの表現は全て、神様御自身が、神様にしかできないことを、神様の仕方において実現することを語っているのです。神が介入され行動されるとはこういうことなのです。「神は来て、あなたたちを救われる」とはこういうことなのです。

 しかし、あくまで神様は「そのとき」としか言われません。主は「いつであるか」については語られないのです。明日であるとも十年後であるとも千年後であるとも語られない。あくまでも「そのとき」です。その意味では、「そのとき」というのは「いつか必ず」と言っているのに近いと言えます。あるいは「最終的には」と言い換えることができるかもしれません。

 実際、神様がここで語っていることは、単に私たちの人生における一つの出来事として実現するようなことではありません。ただ単に歴史上の出来事として実現するようなことを語っているのでもなさそうです。

 荒れ野に水が湧きいでるだけではありません。荒れ地に川が流れるだけではありません。「そこに大路が敷かれる」(8節)と言うのです。大きな道が通る。それは何のための道でしょうか。10節にこう書かれています。「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(10節)。

 私たちの人生には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。この世の歴史には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。しかし、「そのとき」が来るのです。主に贖われた者たちが本当の喜びと楽しみによって迎えられる「そのとき」が来るのです。嘆きと悲しみが完全に永遠に逃げ去る「そのとき」が来るのです。

 ヨハネの黙示録は「そのとき」について次のように描いています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21:3‐4)。

 明らかに「そのとき」はまだ来ていません。それは「終わりの日」についての預言です。それはまだ未来に属することです。

 しかし、ある時、イエス様がこんなことを言われました。洗礼者ヨハネが二人の弟子たちをイエス様のもとに遣わして、こう尋ねさせた時のことでした。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」するとイエス様は二人にこう答えられたのです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(ルカ7:22‐23)。

 「来るべき方は、あなたでしょうか」。そう、来るべき方は、その御方でした。イエス様の到来において、いったい何が起こっていたのか。メシアの到来において人々は何を見たのか。「そのとき」について語る聖書の言葉が、私たちが今日朗読した聖書の言葉が、生きた現実となっているのを見たのです。主は言われました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」と。そうです、それは生きた現実となっているのです。

 聖書が語る救いの約束は、私たちにとって待ち望むべき究極の希望です。私たちは「そのとき」を信じて待ち望みます。しかし、同時に、聖書が語る救いの約束を、私たちは生きた現実として味わい始めているのです。そのような信仰の歩みの中において、私たちは今日も再び呼びかけられているのです。「見よ、あなたたちの神を」と。

2017年3月5日日曜日

「神の言葉によって生きる」

2017年3月5
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節~11節

 3月1日は「灰の水曜日」と呼ばれる特別な日でした。レント(受難節)の最初の日です。灰の水曜日から始まってレントの期間はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間のレントに入りまして最初の主日に与えられていますのが、イエス様が40日間荒野で断食したという話です。その荒野においてイエス様が悪魔から誘惑を受けられました。このレントの期間、まず私たちに語りかけられていますテーマは「誘惑」についてです。このテーマはここにいる私たち全ての人に関わっています。「誘惑」に無関係な人間などいないからです。

「誘惑」について
 そのような「誘惑」について、今日の箇所には少なくとも四つのことが語られています。

 第一に、誘惑を受けること自体は罪ではない、ということです。言い換えるならば、誘惑を受けることと罪を犯すことは別のこととして区別されなくてはならない、ということです。今日の箇所ではキリストが誘惑を受けているのです。そして、もう一方において聖書は繰り返し、キリストは罪を犯さなかった、と語っているのです。

 ヘブライ人への手紙にも、キリストについてこう書かれています。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。この「試練に遭う」という言葉は、今日の聖書箇所に出て来た「誘惑を受ける」という言葉と同じ言葉です。

 キリストはわたしたちと同様に試練を受けられ誘惑を受けられましたが、罪を犯しませんでした。宗教改革者マルティン・ルターがこんなことを言っていました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。

 また、キリストが洗礼を受けた話の直後に悪魔から誘惑を受けた話が続いていることは注目に値します。洗礼の時にキリストは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。今日の箇所で悪魔は言います、「神の子なら」と。

 「誘惑」につい語られている第二のことは、神の子であるゆえに受ける誘惑がある、ということです。信仰者となったら、洗礼を受けたら、誘惑を受けることはなくなるか。あるいはせめて少なくなるのか。――そんなことはありません。私たちが神を天の父と呼んで生き始めるならば、神の子供として生き始めるならば、悪魔にとっては敵になるでしょう。悪魔に憎まれることになるでしょう。だからこそ、主は弟子たちにそのことに関する祈りを教えられたのです。「天におられるわたしたちの父よ、…わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。「悪い者」とは悪魔のことです。ご存じ、「主の祈り」の六番目の祈りです。神を「天におられるわたしたちの父」として祈るなら、絶対に必要な祈りです。

 しかし、悪魔が私たちを憎んでいるとしても、必ずしも苦しみや災いを持ってくると思ってはなりません。いや、むしろ悪魔は親切な顔をしてやってくるのです。今日の箇所もそうでしょう。悪魔は、空腹に苦しむイエス様に助言を持ってきたのです。

 「誘惑」について語られている第三のことは、「誘惑」はしばしば「助け」の顔をしてやってくるということです。悪魔はしばしば助言を持ってくるのです。窮乏を切り抜ける助言、必要が満たされるためのアドバイスを持ってくるのです。「こうすればあなたの今の窮乏は切り抜けられるよ。そのためにあなたの持っている力を使いなさい。できるでしょう」と。

 そうです、そのように「誘惑」は力のあるところに働くのです。それが「誘惑」について語られている第四のことです。誘惑は弱い部分に働くのではなく、むしろ人間の強い部分に働くのです。どうですか。皆さんに「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑が来ると思いますか。思わないでしょう。そのような誘惑は来ない。なぜならできないからです。できないところには誘惑は働きません。

 しかし、他のことだったら私たちにもできるかも知れません。自分の窮乏を救うために、あるいは誰かの窮乏を救うためにできることがあるかもしれない。その力がある時に、神の望むとおりにその力を使うのではなく、悪魔の望むとおりにその力を使わせようとする誘惑は働くのです。できるからこそ人は罪を犯すのであり、できるからこそ罪への誘惑が働くのです。

神の言葉から引き離す誘惑
 さて、今日の箇所にはイエス様が三つの誘惑を受けたことが書かれていますが、今日は特にその第一の誘惑に注目したいと思います。3節をもう一度お読みします。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。

 それにしても、不思議な話です。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」がどうして「誘惑」なのでしょう。空腹であるならばパンを盗んできなさい、という話ならなるほど誰が聞いても悪魔の誘惑らしいと言えます。先ほど、できるからこそ罪への誘惑が働くと申しました。例えば、「自分の能力や立場を利用して、たとえ不正な手段であっても窮乏を救え」という言葉なら、なるほど「悪魔の誘惑」らしいと言えるでしょう。「誰かを踏みつけてでも自分の必要を満たせ」と言うならば、どう見ても悪魔の望むとおりに自分の力を使わせようとする誘惑だと言うことができます。しかし、イエス様が石をパンになるように命じることは、どう見ても不正な手段云々の話ではありません。他者を害するものでもなさそうです。どうしてこれが誘惑なのでしょうか。

 この誘惑の意味を理解するには、誘惑する者を退けるイエス様の言葉から考えるのがよいと思います。主は次のような言葉をもって悪魔を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と。

 このイエス様の言葉から考えますと、この悪魔の誘惑は「人をパンだけで生きるものにしてしまう」という誘惑であるようです。それはまた「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ところから引き離してしまう誘惑であると言えるでしょう。要するに、そのような神との生ける関係から引き離してしまう誘惑です。

 そもそも「誘惑」と言いますと、すぐに連想されるのは犯罪への誘惑や、不正や不道徳への誘惑でしょう。しかし、悪魔のねらいはどうもそのような表面的なことにあるのではなさそうです。もっと深いところにある。もっと根源的な問題へと誘って行くのです。

 それは何か。神とその言葉から引き離すことです。「神の言葉によって生きる」という神との生きた交わりから引き離すことなのです。そのようにして神から引き離し、まことの命から引き離すことなのです。

 あえて言うならば、悪魔にとっては私たちが法律にひっかかる罪を犯すかどうかはどうでも良いことなのです。刑務所に入るようなことをするかどうかは、どうでもよいことなのです。悪魔にとっては人間を神から引き離してしまえれば、それで良いのです。神とその言葉から引き離すことができれば、それでよいのです。

 実際、そのような誘惑は今も私たちの間に働いているではありませんか。不正を行ったわけではない。誰かを傷つけたわけでもない。この世的に見ても不道徳を咎められるようなことをしたわけではない。窮乏の救いをただひたすら求めてそれを得ただけ。自らの必要を満たしただけ。空腹だからパンを求めてパンを得ただけ。そのような場合、それ自体はいかなる悪とも見えません。しかし、「パンさえ得られればよいのだ」としか思っていなければ、そして、神を求めることもその手段でしかないならば、窮乏が解決された途端に、もはや神を求めることもなく、神の御言葉を求めることもなくなってしまうことは起こりえます。神との交わりなんてどうでも良くなってしまって、神を天の父と呼ぶことも礼拝することもなく歩み始めてしまう。そのようなことはいくらでも起こると思いませんか。そうなれば、悪魔は誘惑に成功したことになるのでしょう。

人は神の言葉で生きる
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。窮乏を解決するパンが与えられるならば、それは本来、神との関係を深めるものとならなくてはならないのです。それは神の言葉によって生きる生活を確かにするものとならなくてはならないのです。そのことをイエス様の言葉は示しているのです。

 イエス様が誘惑を退ける時に用いた言葉は旧約聖書の申命記からの引用です。もとの聖書箇所には次のように書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2‐3)。

 もとになっているのは、イスラエルが荒れ野を旅していた時の話です。荒れ野で食料が無くなり、彼らが飢えた。その時に、神は「マナ」という食べ物を与えてくださったのです。しかし、それはただ単に彼らを空腹から救うためではありませんでした。「マナ」が与えられたのは、彼らが神への信頼と従順に生きるようになるためだったのです。ですから、神様はマナを集めることについて条件を与えられました。「毎日必要な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。ただし、安息日の前日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集めようとしてはならない。それが条件でした。

 「明日の分まで集めてはならない」ということは、要するに、「明日のことは神に信頼し、今日を神に従順に生きる」ということでしょう。そのようにして、窮乏から救われた今もなお、いや窮乏から救われた今だからこそ、いよいよ神に信頼し、神に従順に生きていくわけでしょう。しかし、実際にはそうならなかった。イスラエルの人たちは、二日分集めたり、安息日に集めたりしたのです。

 ここに書かれている第一の誘惑というのは、実は、旧約聖書においてイスラエルの民が繰り返し陥ってきた誘惑に他ならないのです。そしてまた、私たちが陥ってきた誘惑に他なりません。そこにイエス様は人間として身を置いてくださっているのです。そして、主はその誘惑に打ち勝ってくださった。私たちに代わって悪魔に宣言してくださっているのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と。

 そのようなイエス様と共に生きるように私たちは招かれているのです。この主の御言葉が読まれる受難節のこの時、私たちは神の言葉によって生きる生活へと立ち帰り、悪魔に打ち勝ちたもう主に従って行くようにと招かれているのです。

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