2017年2月26日日曜日

「安らかに信頼していることにこそ力がある」

2017年2月26
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 14章22節~32節

安心しなさい
 弟子たちはガリラヤ湖の上で漕ぎ悩んでいました。何時間もの間、吹き付ける激しい逆風と打ち付ける激しい波に翻弄されて、既に明け方近くになっていました。どんなにか疲れていたことでしょう。どんなにか怖かったことでしょう。しかし、彼らの舟の中にイエス様はおられないのです。目に見える姿でそこにはおられないのです。

 そこに見る弟子たちの姿は、ある意味で後の教会の姿を表していると言えます。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れました。しかし、復活したキリストの顕現は、その後ずっと続いたわけではありません。使徒言行録によるならば、その期間は四十日であったと伝えられています。その期間の終わりを、聖書は「キリストの昇天」として伝えています。その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で共にいることはありませんでした。

 教会が迫害の嵐の中にあった時にも、キリストは見える姿では教会にはおられませんでした。教会がこの世の様々な外部からの力に翻弄されている時、悪魔の力によって内側からかき乱されている時、キリストは目に見える姿で共にはおられませんでした。信仰者が涙を流し、叫び声を上げている時、キリストは、目に見える姿において共にはおられませんでした。漕ぎ悩むキリスト不在の舟。それは一面においてこの世の教会の姿です。

 しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。物語は次のように続きます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。

 「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りなのです。ここで重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。人の思いを超えた仕方で、キリストが近づいて来られ、そして語りかけてくださったのです。

 そのように、目に見える姿ではキリストのおられない教会に、目に見える姿ではキリストのおられない信仰者の生活に、キリストが近づいてきてくださいます。そして、語りかけてくださるのです。しかし、それは人間の思考を超えた現実であり、神の霊による出来事なのです。それこそが、代々の教会の経験してきたことでありますし、私たちに与えられている経験でもあるのです。

 そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に湖の上を「歩いて」来られた、と表現されているということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、当時の人々にとっては、人間が支配することのできない恐るべき混沌の力を象徴するものに他ならなかったのです。まさに舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき混沌の力を踏みつけて近づいて来られるのです。湖の上を歩いて来られたとはそういうことです。

 この箇所を読んでいますと、ヨハネによる福音書に記されているキリストの言葉、最後の晩餐における言葉が思い起こされます。主は弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。まさに漕ぎ悩む弟子たちに近づいて来られたのは、そのような勝利者キリストの姿に他なりませんでした。

 だからこそ、近づいて来られたキリストはこう言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この「安心しなさい」という言葉は、先ほど引用しましたヨハネによる福音書の「勇気を出しなさい」というのと同じ言葉です。ですから、ここで言われているのは単に「幽霊ではないよ。わたしだよ」と言っているのではありません。「わたしだ」というのは、「わたしがいる」という意味でもあります。つまり、イエス様は御言葉によって御自分を示して、「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」そう言ってくださるのです。

なぜ疑ったのか
 そう言ってくださる方がおられるなら、こちら側として重要なのは信頼することなのでしょう。今日の第一朗読においても、次のような言葉が読まれました。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」(イザヤ30:15)。今日の説教題はここから取りました。問題は私たちの側の信頼です。

 そこで福音書においても具体的に「信頼」を表した一人の男の話をするのです。ペトロの話です。「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」(28‐29節)。

 「わたしだ。わたしがいる」。海を踏みつけて歩かれるキリストがおられる。ペトロはそのことを知って、自分自身も海の上に立ち、キリストのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのキリストの言葉を聞いたのです。それゆえに、彼は海の上をキリストのもとへ歩んでいきます。一歩、また一歩と。キリストの言葉を聞き、その御方に信頼するときに、彼もまた海を足の下に踏んで歩くことができたのです。もはや闇の力に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。信じる者はキリストと共に海の上に立つのです。

 しかし、話はそれで終わりません。次のように続きます。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(30‐31節)。

 しばらく行くとペトロは強い風が吹いていることに気付きます。恐れに捕らわれます。そして海に沈み始めます。キリストはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったのか」とキリストは言われるのです。「疑い」とは何でしょうか。これはもともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近いかもしれません。ペトロの心は分かれてしまったのです。

 先ほどのイザヤ書の言葉にも続きがありました。主は「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と言われます。しかし、こう続くのです。「しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない」(イザヤ30:15‐16)。

 主は「信頼せよ」と言われる。しかし、人は言うのです。「そうしてはいられない」と。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と言うのです。だから逃げなければならなくなるのだ、と主は言われるのです。

 ペトロもそうでした。一方において、キリストとその御言葉への信頼へと向かいます。しかし、もう一方で彼の心は、風が吹いている中で海の上にいるという現実に向かうのです。そして思うのです。「こうしてはいられない」と。このままでは沈んでしまう、と。だから沈み始めるのです。

 主はそんなペトロに言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。この言葉は身につまされます。実に痛い言葉です。強い風に気がついて怖くなって沈み始めたペトロの姿は人ごとではないからです。「そうしてはいられない」と言って馬に乗って逃げようとする姿も人ごとではないからです。

 しかし、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というこの言葉は私たちにとって慰めでもあります。イエス様は海に沈み行くペトロを海の底に見送りながらそう言ったのではないからです。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロに向かって、イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえて、そして言った言葉です。「すぐに」です。そして、イエス様がペトロを捕まえたのであって、ペトロが必死で手を伸ばしてイエス様をつかんだのではないのです。

 「主よ、助けてください」は字義通りには「主よ、お救いください」という言葉です。「お救いください」と叫ぶペトロをイエス様は沈むままにはさせない。そうです、イエス様は沈むままにはさせないのです。つかんでおられるのは、海の上を歩いて来られた方なのです。「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」と言われる方なのです。

 ならば、そのイエス様の言われる「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」は、ただ不信仰をとがめているのではありません。もう一度信じることへの招きに他ならないのでしょう。なぜ疑ったのか。信じなさい。信じなさい。そう主は呼びかけておられるのです。

 漕ぎ悩む弟子たちに海を踏みつけて近づかれ、沈み行くペトロの手をつかんで引き上げられたイエス様は今も生きておられます。今日も私たちのところに近づいて来られて語りかけていてくださいます。何度でも私たちを引き上げて語りかけていてくださいます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ここからもう一度、主に信頼し、従ってまいりましょう。

2017年2月19日日曜日

「弱いときにこそ強い」

2017年2月19
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1節~10節

わたしも誇ることにしよう
 「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」(1節)。誇ることは無益だと分かっています。わかった上で、パウロはあえて誇ってみせるのです。それは今日お読みした12章から始まっているのではありません。既に11章から始まっています。パウロはあえて多くの言葉を費やして誇ってみせるのです。

 それはなぜなのか。前の章にこう書かれています。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」(11:18)。それだけ聞くならば、「みんなが自慢話をするならば、わたしだってできなくはないぞ」と言っているだけに聞こえなくもありません。しかし、もちろんパウロはそんな理由で自分を誇ったりはしません。

 問題はこの「多くの者」が誰かということなのです。それは異なる教えを宣べ伝える教師たちのことなのです。パウロが11章で「偽使徒」(11:13)と呼んでいる人々です。彼らはパウロがコリントの教会を去った後に入ってきた教師たちです。彼らが教会にもたらした混乱が、コリントの教会に宛てたパウロの手紙の背景となっているのです。

 既に彼らはコリントの教会において大きな影響力を持つようになっていました。彼らがいかに強力な支配力をもっていたかは、「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています」(11:20)という言葉にも現れております。これだけ読むとまるで今日のカルト教団のようです。そのような教師たちに、コリントの教会はついて行ったのです。

 なぜ彼らについて行ったのか。「多くの者が肉に従って誇っている」とありました。誇っているのは、誇れるものを持っていたからです。その一つとして考えられるのは神秘体験です。ですから、パウロも今日の箇所において神秘体験について語るのです。他にも誇り得る特別な何かを持っている教師たちだったのでしょう。

 そのような教師たちにコリントの人たちはついて行きました。誇り得る特別なものを持っている彼らについていきました。それは明らかに、自分もまたそれを得たいからでしょう。誇り得る何かを得たいからでしょう。自分には誇り得る何もないと思っている人ならば、なおさらではありませんか。誇り得る何かを持っている人は魅力的に見える。「あなたも持てるよ」と言われればついていきたくもなる。

 しかし、問題は彼らについていっても、キリストのもとにはたどり着かないということにあるのです。彼らに支配に徹底的に従ったとしても、神に従って生きることにはならない。たとえ彼らのように自らを誇れる人間になれたとしても、キリストと共に生きる人にはなれないということなのです。

 そこでパウロは一緒に誇ってみせるのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってみせるのです。先にも言いましたように、彼らの誇りの一つは神秘体験でした。だから今日の箇所ではパウロも自らの体験を語り出すのです。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」と。

弱さ以外に誇るつもりはありません
 しかし、そのようにあえて誇ってみせるのは、自分を優位に見せるためではないのです。「私の方が偽使徒の彼らより優れているのだから、わたしに従いなさい」という意味ではないのです。パウロは「誇っても無益だ」ということは分かっているのです。どちらが誇るべきものを持っているかを比較することも、どちらが優位にあるかを競うことも、全く無益だということを知っているのです。

 ですから、パウロは「主が見せてくださった事と啓示してくださった事について」語るのですが、それを全く他人事として語るのです。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(2‐4節)。

 「十四年前」。パウロはそれがいつ起こったかもはっきりと覚えていました。彼は天の楽園にまで引き上げられた。それが実際に起こったことか幻であったのかは分かりません。本人にも分からないのです。しかし、それは主が見せてくださった事、啓示してくださった事として強烈に記憶に刻まれたことなのでしょう。

 そのような体験は、コリントの教会の人たちが、それこそ喉から手が出るほどに欲しかったものだったのだと思います。それはまさに他の人の持っていないものを持つことになるから。自らを優位に置くものを持つことになるから。宗教的な世界においては、他の人に誇り得るものを持つことになるから。

 しかし、パウロはそれを自分が誇るべきこととしては語らないのです。「キリストに結ばれていた一人の人」のこととして語るのです。そして、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と言うのです。つまり偽使徒たちが肉に従って誇っているようなことならパウロにもないわけではない。しかし、パウロはあえて自分のこととして誇らない、というのです。それは本当に誇るべきものは別にあるからです。「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)。

 すべてはこのことを語るためだったのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってきたのはこのためだったのです。「誇っても無益だ」と分かっていながら、あえて誇ってきたのはこのためだったのです。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」。それは11章で誇った後においても、既に語られていたことでした。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(11:30)。

キリストの力が宿るように
 そこでパウロは自分の身に与えられた「とげ」の話を始めるのです。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)。この「とげ」が具体的に何を意味するのかは語られていません。古くから様々な推測がなされてきました。ある人は、パウロはてんかんであったかもしれないと言います。パウロは目の病気であったのかもしれないと言う人もあります。いずれにせよ、それは何らかの苦しみが続いていたということなのでしょう。

 そして、それはいかなる意味においても、誇りとは結び着かないものとして語られています。それは「思い上がることのないように」と与えられたものだ、と。しかも、その苦しみによって人間が磨かれたという意味合いもない。「艱難汝を玉にす」というものでもない。それは「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」だと言うのです。そこには、この「とげ」が少なからず宣教の妨げになったという意味合いも含まれているのかもしれません。

 いずれにせよ、その「とげ」自体が誇りとなり得る要素は完全に排除されているのです。純粋な意味で「弱さ」。誇りとは対極にある「弱さ」です。

 しかし、パウロはそのような「弱さを誇る」と言うのです。それはなぜか。パウロは話を続けます。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(8‐9節)。

 誇り得る何かを持つこと、そのようにして自らを誇り得る人間になることよりも、もっともっと大事なことがあることをパウロは示しているのです。キリストの力が宿ること。キリストの力が弱さの中において現れること。私たちの人生が私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなること。教会の働きが、私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなることです。

 私たちにおいて、どう考えても誇りとは結び着かない弱さはどこにありますか。キリストの力の現れを必要としている弱さはどこにありますか。「サタンから送られた使い」としか言いようのない「とげ」はどこに刺さっていますか。

 そこにこそキリストの力が現れるのだと信じるのでなければ、弱さを嘆いて、弱さを卑下して生きるだけのことでしょう。しかし、そこにこそキリストの力が現れるのだと信じる人は、弱さをもった自分をそのまま差し出して祈るのでしょう。人は卑下して生きることもあり得るし、だからこそキリストを求める人となることもできるのです。

 主は私たちにも言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この言葉を、信仰によって私たちへの言葉として受け止めますか。そうならば、パウロと共に信仰をもって言い表しましょう。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

2017年2月12日日曜日

「心の貧しい人々は幸いだ」 

2017年2月12
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章1節~3節

弟子たちへの言葉
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1‐2節)と書かれていました。ちなみに原文では「そこで、イエスは口を開き、《彼らに》教えられた」となっています。つまり近くに寄って来た「弟子たち」に教えられたと書かれているのです。

 もちろん、そこには群衆もまたいるのです。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:25)と書かれていますから。この大群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。もちろん群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこで主は群衆全体に語りかけるのではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語られた。それがこの5章から7章の山上の説教です。

 ですから構図的にはそこに二重の輪があることを心に留めなくてはなりません。内側には弟子たちがいます。外側には群衆がいます。内側にはイエス様の語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている人々がいます。外側には、いわば外からそれを見ている人々がいる。彼らはイエス様が弟子たちに語りかけるのを見ています。その「教え」について外側から評価します。その評価は彼らの反応として現れます。山上の説教の最後にはこう書かれています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(7:28)。その教えはまことに驚くべきものであった。それは外側からなされた評価です。

 さて、そこで問題は「では私たちはどこにいるのか」ということです。もしかしたら群衆がいる外側の輪であるかもしれません。外から見て、外から聞いて、外から評価して、判断を下して、それで終わり、ということは起こり得ます。しかし、福音書に記されている言葉は、明らかに群衆の位置から読まれることを意図されてはいないのです。今日お読みした言葉もそうです。それは《私への語りかけ》として聞くように書かれているのです。

幸いなるかな!
 そこで今日読まれたイエス様の第一声はこのような言葉でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。ぜひとも、私たちは内側の輪に入って、私たち自身への語りかけとして、この言葉を聞こうではありませんか。

 イエス様のこの言葉は文語訳の聖書ではこうなっていました。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」この方が語順としては原文に忠実です。イエス様の言葉は「幸福なるかな!」という叫びから始まります。聞いている者たちに「あなたたちはなんて幸せなんだ」と言うのです。この言葉を自分自身への語りかけとして聞いていますか。

 イエス様は私たちに対して「幸いなるかな!」と言った上で、さらに私たちを「心の貧しき者」と呼ぶのです。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。」一度聞いたら忘れられないような強烈な言葉です。それが強烈なのは、あまりにも意外な組み合わせだからでしょう。

 それはその場で直接この言葉を耳にした人にしても同じだったろうと思います。むしろ私たちが考える以上にインパクトが強かったはずです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、少々不足しているとか何かが足りないというレベルの話ではないからです。これは「物乞い」とさえ表現できる言葉なのです。いわば何も持っていない。そのような極度の貧しさを意味する言葉なのです。そのような極度の貧しさと「幸いなるかな!」という叫びはどうしたってリンクしないのです。

 しかも、イエス様はここで「心の貧しい人々は」と言っているのです。実は、ルカによる福音書では単純に「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)となっています。それはそれで意外な組み合わせと言えなくもありません。しかし、この福音書ではわざわざ「心の貧しい人々は」と言っているのです。この「心」というのは一般的には「霊」と訳される言葉なのです。それはいわば人間存在の最も深い本質的部分と言っていい。その「霊」における貧しさについて語られているのです。ただ物質的に困窮しているというだけでないのです。本質的に根源的に「貧しい人々」と言われているのです。

極度の貧しさ
 そこで私たちはまず私たちの「貧しさ」に目を向けなくてはならないのでしょう。そもそも私たちは本質的に根源的に「貧しい人々」なのでしょうか。いや、ここで言う「貧しさ」を知るためには、「私たちは貧しいのだろうか」と問うよりも、「私たちは本当に貧しくないのだろうか」と問う方が良いのかもしれません。私たちは何かを持っているのでしょうか。持っているとするならば、それはいったい何なのでしょう。

 それが財産であれ、健康であれ、愛する人であれ、何かが失われる時、それは私たちの意志とは無関係に失われることを私たちは知っています。本質的には何一つ私たちの支配下にはないということです。言い換えるならば、本当の意味で私たちが所有するものは何一つないということです。

 実際、自分の「命」ほど、「これは私のものだ」と思いたいものはないでしょう。「私のもの」と主張したい。他の誰の手にも渡したくない。しっかりと自分の手で握りしめていたい。最後まで自分の思い通りになるものであって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。この世における「命」。この世における人生。絶対に思い通りにはならない。そうです「命」ですら、本当は「私のもの」ではないのです。

 その一方で、間違いなく私たち自身に属するものはあります。私たちが確実に持っているものがある。何でしょう。あえて言うならば、私たちに本質的に属するのは「罪」と「死」です。

 私たちが人に対して負っている「負い目」、そして神に対して負っている「負い目」は、間違いなく《私たち自身》が人生において行ってきたことに由来します。それは間違いなく私たち自身の「罪」であり、私たちが神の御前において支払うべき負債なのであって、それは間違いなく「私たちのもの」です。

 そして、「死」もまた「私たちのもの」です。「死」は未来のどこかにあるのではありません。私たちは常に死を背負いながら生きているのです。私たちは生きながらにして「死」を負った存在ですから、それゆえに誕生した時から私たちは常に「死につつある(dying)」存在なのです。

 そのように、私たちが確実に持っているのは「罪」と「死」だけだと言うことができます。いわば借用証書だけを所有しているようなものです。それは本質的、根源的な貧しさです。その根源的な貧しさの中から、ただ「憐れんでください」と叫ぶしかない。物乞いがそうするように、神に向かって「憐れんでください」と叫ぶしかない。救ってもらうしかない。それが聖書の教える私たち人間の現実なのです。

天の御国は彼らのもの
 しかし、そのような貧しい者として、憐れんでもらうしかない、救ってもらうしかない者として、ともかく彼らはイエス様の元にたどり着いたのです。私たちもまた、こうしてイエス様のもとにたどり着いたのです。そして、イエス様の弟子として、イエス様の語りかけを私自身への語りかけとして聞いて生きていこうとしているのです。そのような彼らに対して、そしてここにいる私たちに対して、イエス様は言われるのです。「幸いなるかな!」と。

 それはなぜなのか。主はこう続けられます。「天の国はその人たちのものである」。貧しいならば与えていただくしかありません。憐れんでいただくしかありません。救っていただくしかありません。しかし、それでも幸いなのです。なぜなら「天の国はその人たちのものである」と宣言することのできる御方のもとにいるからです。天の国とは神の救いです。神による完全な救いです。主はその救いを宣言してくださるのです。なぜなら、イエス様こそがその救いを与えるために来られた御方だからです。

 ここで「幸いなるかな」と叫んでおられる方について、使徒パウロはコリントの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)。

 豊かであった主が貧しくなってくださいました。罪の負債のない方が、私たちの負債を肩代わりしてくださいました。死に支配されない御方が私たちの死を引き受けてくださいました。そのようにして、私たちを貧しさの極みから救ってくださいました。そのようにして、天の国から限りなく遠かった私たちに天の国を与えてくださいました。

 「天の国はその人たちのものである」と主は言ってくださったのです。「天の国はいつかその人たちのものとなるだろう」と言われたのではないのです。キリストのもとにあって、既に「幸いなるかな!」という宣言を聞いているのです。天の国は既に私たちのものなのです。既に天の国の生活が始まっているのです。キリストのもとにあって、救われた者として神と共に生きる生活が既に始まっているのです。外の輪から眺めているのではなくて、主の言葉を、私たち自身への語りかけとして聞こうとしているのなら、それは私たちに語りかけられている言葉なのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。

2017年2月5日日曜日

「聞いているあなたがたは幸いだ」

2017年2月5
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章10節~17節

悟らせないために?
 弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(10節)。

 なぜたとえを用いるのか。普通は話をわかりやすくするためでしょう。しかし、イエス様がそのようにたとえ話を用いていたならば、このような弟子たちの質問は出てこなかったはずです。弟子たちが尋ねたのは明らかにイエス様の意図がわからなかったからでしょう。というのも、イエス様のたとえ話は決して分かりやすくはなかったからです。

 一つのたとえ話が今日の箇所の直前に出ています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(3‐8節)。

 なるほど話としては誰にでも理解できます。難しい言葉は出て来ません。しかし、何を言わんとしているのかは、誰にでも理解できるという話ではありません。実際、他の福音書では弟子たちがイエス様に説明を求めています(マルコ4:10)。何を言わんとしているかが分からなかったからです。

 だからこそ、ここでも弟子たちは尋ねているのです。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか。どうして分かりにくい話をなさるのですか。謎でしかないような話をするのはなぜですか」と。するとイエス様はこうお答えになりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(11節)。

 びっくりするようなイエス様の答えです。悟ることが許されていない人たちに天の国の秘密を悟られないためだと言うのです。どう思いますか。イエス様は全ての人に天の国のことを伝えたくて宣教しておられたのではないのでしょうか。全ての人が悟ることを望んでおられたのではないのでしょうか。

 いや、それどころかさらにイエス様はこんなことまで言われるのです。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(12節)。分かる人はもっと分かるようになる。分からない人はますます分からなくなる。そういうことでしょう。どう思いますか。あまりにも意地の悪い答えに聞こえませんか。

見ても見ず、聞いても聞かず
 しかし、その続きを読みますと、イエス様がどうしてそう言われたのかが少しずつ見えてまいります。主はこう続けられました。「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(13節)。

 イエス様がどのような人たちを念頭に置いて語っているのか、ここにはっきりと現れています。「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちです。イエス様が「彼ら」と言っているのは、そのような人たちのことなのです。では「見ても見ず、聞いても聞かず」とはどのような人たちを意味するのでしょう。

 イエス様はさらにイザヤ書を引用してこう言います。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』」(14‐15節)。

 これはギリシア語訳旧約聖書からの引用なので若干言葉は違いますが、本日の第一朗読で読まれたイザヤ書6章からの引用です。それはイザヤが預言者として神に召され、立てられた時のことを伝えている箇所です。

 イザヤは「誰を遣わすべきか」という神の声を聞きました。そこでイザヤが応えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。そこで神様は言うのです。「行け」。イザヤは神の言葉を人々に伝えに行くことになります。しかし、そこで神様は奇妙なことを言われるのです。行って人々にこう語れと言うのです。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」。

 つまりこういうことです。神様はイザヤを人々のもとに遣わすのですが、もう初めから分かっているのです。そこには見ようとしない、聞こうとしない人々がいるのです。理解して悔い改めることもない人々がいるのです。イザヤがどんなに神の言葉を伝えても、受け入れようとしない人たちがいるのです。彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。イザヤはそのことを覚悟の上で、なお神の言葉を語らなくてはならないということなのです。

 そして、イエス様もまた、かつてのイザヤと同じところに立たされていることをご存じなのです。かつてイザヤが語った預言の言葉が、御自分の前でも実現しているのを見ておられるのです。「イザヤの預言は、彼らによって実現した」と。実際、イエス様の前にも「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちがいるのです。受け入れようとしない人たちがいるのです。だから「彼らにはたとえを用いて話すのだ」と主は言われるのです。

 実は、イエス様は最初から「たとえ」を用いて話していたわけではありません。イエス様がガリラヤにおいて宣教を開始された頃の様子は4章に記されています。その時のメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。実に明快なメッセージです。そこから始まりまして、この13章に至るまで、「たとえ話」はほとんど出てきません。イエス様は神の権威をもって伝えるべき内容をはっきりと語られたのです。

 いや、語られただけではありません。イエス様は見せてくださいました。イエス様のなさること全てが「天の国は近づいた」ということのしるしでした。かつて洗礼者ヨハネが捕らえられている牢獄から使いを遣わしてイエス様に尋ねさせたことがあります。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。その時イエス様は答えて言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(11:4‐6)。

 そのようにイエス様の言葉だけでなく、なさること全てが語っていたのです。天の国は近づいた、と。今こそ神に立ち帰るべき時である、と。

 しかし、そのような言葉と行いによるイエス様の宣教によって、次第に人々は二通りに分かれていきました。一方では、イエス様に従っていく人たちがおりました。しかし、もう一方においては、イエス様の言葉を批判的に聞いている人たち、さらにはあからさまに敵対する人たちもまた起こってきたのです。既に12章において「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)という物騒な話が書かれていました。まさに「見ても見ず、聞いても聞かず」という人々です。

 だからこそイエス様はたとえを用いて語り始めたのです。「たとえ話」は、冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして聞いていても、何を言わんとしているのか、さっぱり分からないような話です。外に身を置く限り、種蒔きの話は農業の話でしかないのです。しかし、イエス様に従おうとして、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、見えてくることがある、聞こえてくることがある――それがたとえ話しというものです。その中に身を置かなかったら分からない。だからイエス様に対するあり方によって、悟る者と悟らない者に分かれていくのです。イエス様は、それを意図して語っておられるのです。

 それは最終的には、たとえ話だけでなく、イエス様という御方そのものが、そのような存在だからでしょう。冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして見ていても、イエス様という御方はわからない。しかし、その御方の弟子として耳を傾け従い始める時に、聞こえるべきことが聞こえてくる。見えるべきものが見えてくるのです。その時には、もはやイエス様にとって「あの人たち(彼ら)」ではなく、「あなたがた」になっているのです。

あなたがた、幸いな者たちよ!
 そうです、私たちがイエス様にとって「あの人たち」ではなく、「あなたがた」になるならば、弟子たちに語られた16節以下もまた私たちについての言葉となるのです。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(16‐17節)。

 イエス様を救い主として見ることができる。イエス様の言葉を神の言葉として聞くことができる。そのような者として、イエス様から「あなたがたは」と呼ばれる者として生きることができる。それがどれほど幸いなことかを本当の意味で知っているのはイエス様だけなのでしょう。イエス様の言葉は、原文においては「あなたがた、幸いな者たちよ!」という言葉から始まるのです。溢れる感動をもってイエス様は語っておられるのです。

 この言葉を代々のキリスト者たちは、迫害の中にあろうが、いかなる困難の中にあろうが、殉教を目の前にしようが、聞き続けてきたのです。「あなたがた、幸いな者たちよ!」と言われるイエス様の言葉を。なぜ幸いなのか。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているのだ」と主は言われます。なぜ幸いなのか。私たちが見ていること、聞いていることは、「天の国」に関わることだからです。永遠の命に関わることだからです。永遠の救いに関わることだからです。過ぎゆくことのない、朽ちてしまうこともないからです。それこそ死んでもそれで終わりではない、神の完全な救いに関わることだからです。

 それを拒絶することはどれほど不幸なことか。信じ従う者として見て、聞いていることがどれほど幸いなことか。本当の意味で知っているのはイエス様です。その御方が今日も私たちに語っておられます。「あなたがた、幸いな者たちよ!」「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と。そうです、幸いな私たちがここにいます。幸いな者としてここから再び出て行くのです。

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