2017年1月22日日曜日

「福音は神の力」

2017年1月22
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 1章16節~17節

わたしは福音を恥としない
 この教会には塔があってその頂には十字架が掲げられています。礼拝堂の中に入りますと正面に大きな十字架が目に飛び込んできます。いかにも教会らしいと言えるでしょう。しかし、これが十字架ではなくてギロチン台だったらどうでしょう。塔にはギロチン台が掲げられている。正面にはギロチン台が置かれている。そんな教会に来たいと思いますか。

 しかし、皆さん、十字架はもともとギロチン台と同じように死刑の道具だったのです。ですから、教会に十字架が掲げられているということは、ギロチン台が掲げてあるほどに、本来は奇妙なことなのです。そして、さらに言うならば、その死刑の道具にかけられて他の犯罪人と共に処刑された一人のユダヤ人を指さして、この方こそ神からのメシア、救い主なのだと宣べ伝えてきたのです。それは本来、とても奇妙なことなのです。この世の観点からするならば、まことに愚かなこと、馬鹿馬鹿しいことであり、受け入れがたいことであるはずなのです。

 さて、今日の第二朗読においてパウロはローマの教会に書き送っています。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と。福音というのは「良い知らせ」という意味です。グッド・ニュースです。良い知らせなら、当然、伝えたいと思うのでしょう。しかし、その良い知らせ、福音についてパウロはさらにこう言います。「わたしは福音を恥としない」(16節)と。

 「恥とする」とか「恥としない」という話題が出て来るのはなぜでしょう。考えてみてください。誰もが聞いて容易に納得できること、十人中十人が口を揃えて「本当にそのとおりですね。嬉しいことですね」と言ってくれることについては、「恥じとする」とか「恥としない」ということは問題になりません。しかし、本当は「良い知らせ」なのだけれど、簡単には受け入れがたいこと、一見愚かに見えること、バカにされたり、拒否されたりするかもしれないことであるならば話は別です。それをなおもあえて語り続けるのか、それとも引っ込めてしまうのか、「恥とするのか恥としないのか」が問題になるのです。

 そして、先にも見ましたように、死刑の道具である十字架をかかげて、十字架にかけられた救い主について語る「福音」は、明らかに後者なのです。教会は、誰もが当たり前のように受け入れることができるような話を伝えてきたのではないのです。しかし、パウロは言うのです。「わたしは福音を恥としない」と。そして、教会もそう言い続けてきたのです。教会はそれを引っ込めませんでした。語り続けたのです。そのようにして、今日もなお十字架をかかげているのです。それはなぜでしょうか。

 パウロは単純にその理由を次のように語ります。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。これが理由です。どんなに愚かに見えようとも、その福音は信ずる者に救いをもたらす神の力だからです。馬鹿にされようが笑われようが、現実にその神の力を知っているからです。

福音は救いをもたらす神の力である
 この「神の力」について考えてみましょう。「神の力」について語られているのは、ここだけではありません。聖書において繰り返し語られています。なぜ「神の力」が頻繁に話題に上るのでしょうか。――その理由ははっきりしています。それは人間が無力であるからです。聖書において「神の力」が語られる時、その背景にあるのは人間の弱さであり無力さなのです。

 パウロが「救いをもたらす神の力」について語る時もまた同様です。彼もまた、人間の弱さと徹底的に向き合うところにおいて、神の力について語っているのです。では、人間の弱さ、無力さが最も鮮明に現れるのはどこにおいてでしょうか。――それはこの手紙において明らかにされています。それは究極的には《罪と死の問題》においてなのです。人間は罪に対して、死に対して、全く無力な存在なのです。

 パウロはこの同じ手紙の中で、人間というものの現実を次のように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18‐19)。

 わたしの中に悪いものが住んでいる!それをパウロは「罪」と呼びます。この罪の力はリアルです。内に住んでいる悪いものは、様々な目に見える結果を生み出します。私たちの人生はその目に見える結果の集積です。私たちが自分で気づいていることばかりではありません。気づいていないこともまた、いくらでもあります。忘れてしまっていることもあります。確かに私たちは自分の罪深い行いを忘れることはできます。しかし、例えば借金を忘れたからと言って借金が消えないように、罪を忘れても罪の事実は消えません。罪は水に流れません。人間はそのように罪を宿したまま、そして罪の結果という負債を抱えたまま、必ず死を迎えます。人生の終わりを迎えます。そのことに関して人間はどうすることもできません。

 そのように人間は、罪と死という人生の根本問題について全く無力なのです。だからこそ、そこにおいては「神の力」が語られなくてはならないのです。本当に力ある御方が救ってくださるのでなければ、希望はないからです。そのように、自分が罪に対しても死に対しても無力であるという事実を認めるところにおいてこそ、神の力が語られ得るのです。また救いをもたらす神の力を信ずる信仰が語られ得るのです。言い換えるならば、幻想を捨てて、徹底的にリアリストになるところから、信仰は始まると言うことができるのです。

福音には神の義が啓示されている
 そのように福音は「救いをもたらす神の力」だと語られていました。では、どのような意味において、福音は「救いをもたらす神の力」なのでしょう。福音はどのように救いをもたらすのでしょうか。パウロは次のように言っています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節)。

 福音には「神の義」が啓示されている!だから福音は救いをもたらす神の力なのだと、彼は言っているのです。しかし、その「神の義」とは何でしょう。「義」という言葉を漢和辞典などで調べますと、第一の意味は「正しい、道にかなった」などと説明されています。この言葉で私たちが思い浮かべる第一の言葉は「正義」でしょう。そうしますと、「神の義」は「神の正しさ」、人間の罪を正しく裁く「神の正義」を意味することになります。

 しかし、神の義が、一面的にそのような裁きをもたらす「神の正しさ」ということだけを意味するとするならば、そのような「神の義」が啓示されることは福音にはならないはずです。罪ある私たち人間は、その御前でただ恐れおののくばかりです。ですからルターはかつて「わたしはあの『神の義』という言葉を憎んでいた」とさえ書いています。それは喜びにはなり得ないのです。

 ですから、ここで語られている「神の義」とは、単に罪人を罰する神の正しさのことではありません。もちろん、神は正しい御方です。しかし、その正しい神は、その正しさによって人間を滅ぼしてしまわれるのではなく、人間を神との正しい関係に回復しようとされたのです。そのように神が与えてくださる神との正しい関係――それこそがここで語られている「神の義」なのです。

 では、神はどのようにして、人間を御自身との正しい関係に回復してくださるのでしょう。――それは罪の赦しによってです。かつて預言者ミカは言いました。「あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。…主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:18‐19)。

 神は、私たちの罪を海の深みに投げ込んで沈めてしまうことのできる御方です。そうやって私たちは義とされるのです。実際には、神は私たちの罪を海の深みに投げ込まれたのではありませんでした。そうではなくイエス・キリストという御方の人生に投げ込まれたのです。イエス・キリストは、私たちの罪を投げ込まれた者として、たった一人で私たちすべての者の罪を背負って、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死なれたのです。

 この十字架にこそ、神の義が啓示されているのです。この十字架のゆえに、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、どんな人であろうが、罪を赦されて、義とされて、神との正しい関係に、神との交わりに生きることができるのです。もはやただ死にゆく罪人として生きる必要はないのです。罪の負債を背負ったまま、死んでいく必要はないのです。神との関わりにおいて、新しい命、永遠の命に生きることができるのです。その意味において、この福音こそ、私たちを救う神の力なのです。

 ですから、教会はこの福音を引っ込めてしまわなかったのです。十字架の言葉が、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであったとしても、それを引っ込めてしまわなかったのです。「福音を恥としない」と言い続けたのです。宣べ伝え続けたのです。そして信じることを求めたのです。

 私たちも今、十字架がかかげられている礼拝堂において、礼拝を捧げています。それはこの世に対する表明でもあります。私たちもまた、「福音を恥としない」ということを、主の日の礼拝という私たちの行動をもって示しているのです。そして、私たちは一週間の生活の場へと散らされていきます。十字架の福音を恥としないものとして、この福音をたずさえて、この世に出ていくのです。

2017年1月15日日曜日

「腹には苦く、口には甘い食べ物」

2017年1月15
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エゼキエル書 2章9節~3章4節

人の子よ
 今日は第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。預言者エゼキエルは預言者エレミヤとほぼ同時代の人です。共にユダ王国滅亡の時代を生きた預言者です。彼とエレミヤの大きな違いは、エレミヤが主にエルサレムで活動したのに対し、エゼキエルが捕囚の地において活動した預言者であったところにあります。ヨヤキン王と共に上層階級の人々がバビロンに移された第一次バビロン捕囚の際、エレミヤはエルサレムに残され、一方のエゼキエルは捕囚民と共に捕囚の地へ捕らえ移されたからです。そして、エゼキエルはその地において、預言者としての召しを受けることになるのです。その次第はエゼキエル書1章から3章にかけて記されております。今日はその一部をお読みしました。

 今日朗読された箇所には、「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか」(2:9)と書かれていました。そして、エゼキエルはこう語りかけられます。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(3:1)。

 「人の子よ」。彼はそのように語りかけられます。彼はこの書において繰り返し「人の子よ」と語りかけられることになります。その最初は2章1節です。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(2:1)。彼は神の御前にいるのです。彼は圧倒的な主の栄光の姿に触れ、その御前でひれ伏しているのです。ひれ伏すエゼキエルはいかなる意味においても神ではありません。神は神であり人は人なのです。それが誰であれ神の御前にあれば顔を上げることすらできない人間です。ひれ伏す彼に「人の子よ」と主は言われるのです。

 しかし、そこで主は「自分の足で立て」と言われるのです。遣わすためです。しかも、このように続きます。「彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」(2:2)。「自分の足で立て」と言われた神は彼を立たせるのです。立ち上がらせたのは神御自身です。「霊がわたしの中に入り」とはそういうことです。そこに働いているのは神の力です。神の力によって立ち上がった彼は、神の力によって為すべきことがあるのです。

 今日の箇所で「人の子よ」と語りかけられているのは、そのようなエゼキエルです。神の霊によって立ち上がらされたエゼキエルに巻物を差し出し、「これを食べよ」と言われる。それは神の言葉です。彼は巻物を食べてから行かなくてはなりません。確かに語るのは「人の子」であるエゼキエルです。あくまでも人間が語るのです。しかし、語られるのは神の言葉です。神の言葉を食べた彼が「行きなさい」と言われるのです。

イスラエルの家に語りなさい
 この「イスラエルの家に語りなさい」という言葉が何を意味するかは、その前に書かれています。「人の子よ、自分の足で立て」と言われた主は、彼を立ち上がらせてさらにこう言われたのです。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている」(2:3)。今日の箇所の直前にもこう書かれていました。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(2:8)。

 巻物が差し出されたのは、「反逆の家」に語るためでした。誰に反逆しているのか。神に反逆しているのです。神は御自分に背いている人々に語りかけるために、エゼキエルに巻物を食べさせるのです。御自分の言葉を与えられるのです。反逆の家に自ら語りかけるためです。

 神に反逆しているならば、神に背き、神に敵対しているならば、神と戦うことになるのでしょう。本来ならば神自らが戦われるのでしょう。そして、「反逆の家」もまた「人の子」に過ぎないのです。神が自ら力を表され、戦われるならば、彼らは滅びるしかありません。しかし、神は彼らをただちに滅ぼすのではなく、なんと「人の子」に巻物を食べさせて遣わされるのです。語りなさい、と。そのようにして神はなおも語りかけようとされるのです。

 しかし、反逆の家に語るならばどういうことが起こるのでしょう。言葉というものは受け入れることも拒絶することもできるのです。力をもって臨めばいかに反逆の家といえども受け入れるしかないかもしれませんが、言葉なら拒絶することができます。そして、それも主は分かっているのです。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ」(2:7)と。

 このように、エゼキエルにせよエレミヤにせよ、預言者という存在が示しているのは、神に逆らう者になお語り続ける神の姿です。背く者に呼びかけ続ける神の姿なのです。神はなぜ語り続けるのでしょうか。神に逆らう者として、神を失った者として、滅びて欲しくないからです。

 「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と命じられた主は、後にエゼキエルにこう語っています。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる」(18:30‐32)。

 「お前たちは立ち帰って、生きよ」。そう主は言われるのです。しかし、反逆の家が立ち帰るためには、反逆しきたことが明らかにされねばなりません。神に犯してきた罪が罪として明らかにされねばなりません。人が神に立ち帰るのは、神に背いている自分を本当の意味で悲しむ時です。罪深い自分自身に呻く時なのです。自分自身の罪を嘆く時なのです。

 彼らは祖国から捕らえ移され、捕囚となって、悲しみ、呻き、嘆いたかもしれません。しかし、本当に必要なのは自分の罪について悲しみ、呻き、嘆くことなのです。そうあってこそ、神に立ち帰ることができる。「立ち帰って、生きよ」という神の言葉が届いたことになるのです

腹には苦いが口には甘い
 ですからエゼキエルはそのような神の言葉を語らねばなりません。それゆえに、エゼキエルに差し出された巻物については、こう書かれていたのです。「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」(9‐10節)。彼はそれを食べた。そこに書かれていたのは、捕囚となって呻き、嘆いている人々の間に起こらなくてはならない、本当の意味での「哀歌と、呻きと、嘆き」だったのです。

 捕囚となった人々をただ慰め、未来への希望を与え、「必ず祖国に帰れます」と励ますだけならば人々から喜ばれるでしょう。感謝されもするでしょう。しかし、彼が遣わされるのはそのためではありません。人が神に立ち帰るために遣わされるのです。そこで語られねばならないのは、必ずしも人の耳に心地良い言葉ではありません。それはしばしば苦い言葉でもあるのです。

 本日読まれたヨハネの黙示録においても、ヨハネが巻物を食べたという話が出て来ました。それを差し出した天使がヨハネにこう言っています。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には密のように甘い」(ヨハネ10:9)。「腹には苦い」。エゼキエルが食べさせられた巻物もそうだったに違いありません。彼が語るべき言葉は、苦い言葉なのです。

 しかし、エゼキエルにせよヨハネにせよ、それは「密のように甘かった」とも書かれているのです。エゼキエルにせよヨハネにせよ、彼らは分かっているのです。それは断罪の言葉ではなく救いの言葉なのだということです。反逆の家をただちに滅ぼすのではなく、なおも語りかけようとしているのは神の愛なのだということです。


 さて、エゼキエルが反逆の家に遣わされたこの物語が今日なおも読まれているのはなぜでしょうか。それはエゼキエルに巻物を食べさせ遣わされた神はまた、神に背いたこの世界にイエス・キリストを遣わされた神であるからです。

 神は「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」と神の言葉を食べさせました。しかし、神は最終的に神の言葉そのものを人としてこの世界に送られたのです。それは腹に苦い言葉でした。ですからこの世は神の言葉であるキリストを十字架にかけて殺してしまいました。しかし、神はこのキリストを世の罪の贖いとし、キリストを復活させ、信じる者に福音の言葉を食べさせ、キリストの体を食べさせて、そして世に遣わされるのです。神は今もなお反逆の家に、この世界に語り続けておられるのです。「立ち帰って、生きよ」と。そのように救いの言葉を語り続けておられるのです。

2017年1月8日日曜日

「愛されている神の子として」

2017年1月8
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 3章13節~17節

 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)。

 「そのとき」と書かれていました。「そのとき」がどのようなときかは、今日の箇所の直前に書かれています。ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたときです。ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えていたときです。ヨハネがやってきたファリサイ派やサドカイ派の人々に対して「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7‐8節)と語っていた「そのとき」です。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(10節)。そのような神の裁きが語られていた、「そのとき」です。

 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。」そのように、イエス様はヨハネの語る神の裁きのメッセージを背景に登場して来られたのです。人間が神の裁きのもとにあるということが語られている、まさに「そのとき」イエス様が来られたのです。人間が神の裁きのもとにあるということは、人間の罪が問われているということです。そこにイエス様が救い主として登場してこられるのです。罪からの救い主として登場してこられるのです。それが本日朗読された聖書の言葉です。

正しいことをすべて行うことは
 その登場の仕方は、自らヨルダン川で洗礼を受けるという形でなされました。ヨハネのもとに来て罪を告白し、彼から洗礼を受ける人々の列に自ら加わるという形でなされたのです。そのようにして、イエス様は洗礼者ヨハネの前に立ちました。

 洗礼者ヨハネは自分の前に立っているのが誰であるかを知っていたようです。どのようにして知ったのかは分かりません。しかし、明らかにヨハネはその方を知っています。彼は言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)。そう言って、思いとどまらせようとしたと書かれています。

 ヨハネが何を知っていたのかがはっきりと現れています。ヨハネは知っていた。この方は洗礼を受ける必要はない。なぜならこの方には罪がないから。罪がないというのは、神の前において罪がないということです。神の裁きのもとにない。そのような方を目の前にしていたのです。

 真っ白な方の前に立つ時、自分の汚れを思わずにはいられなくなります。明るい光の前に立つ時、自分の内に暗闇があることを知らされます。その方の前に立ったとき、自分こそが神の裁きのもとにあることを思わずにはいられなかったのでしょう。イエス様を知るとはそういうことです。だからヨハネは言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。

 しかし、そのときイエス様はこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとに来られたのは、それが「正しいこと」だから。それが理由でした。その「正しいこと」とは神の目から見て「正しいこと」という意味です。神の御心に適うことであり、言い換えるなら「神が望んでおられること」ということです。

 いいえ、それだけではありません。イエス様は、「正しいことを《すべて》行うのは」と言われたのです。すべての「義」を満たさなくてはならない。ですから、イエス様が念頭に置いておられるのは、罪人の一人として洗礼を受けることだけではないのです。神の望んでおられる一連のことがあるのです。その《すべて》を成し遂げなくてはならないのです。

 神はまず、罪のない救い主が、罪ある人間の一人として、罪人と共に洗礼の水の中に立つことを望まれました。そして、それで終わりではないことをイエス様は分かっておられたのです。罪人と一緒に水の中に立ったら、それだけでは終わらない。続きがあるのです。その続きはこの福音書にすべて書かれています。

 既にこの福音書を読まれた方は、話はどこに向かっているかご存じでしょう。十字架です。罪人の一人として水の中に沈まれたイエス様は、やがて罪人の一人として裁かれ、十字架にかけられることになるのです。それが「正しいこと」、神が望まれたことです。神の裁きのメッセージを背景に登場された方に、そのことが起こることを神は望まれた。人間の罪が問われているこの世界のただ中で、そのことが起こることを神は望まれたのです。

 ならばそれは何を意味しますか。罪のない救い主が、罪人の一人として、すべての人の罪を代わりに背負って死んでいくということです。人々の救いのために苦しみ、そして死んでいくことです。なぜなら、あの方は、罪からの救い主だから。十字架への歩みは、洗礼において既に始まっているのです。

これはわたしの愛する子
 しかし、そこである出来事が起こりました。こう書かれています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(16‐17節)。

 天が開きました。しかし、それはあくまでも「イエスに向かって」です。イエス様御自身の体験です。また神の霊が降ってくるのを御覧になった。「御覧になった」のはもちろんイエス様です。そして、声が聞こえた。この流れからすれば、明らかにイエス様に聞こえたということでしょう。ですからマルコによる福音書では、もっとはっきりとイエス様が聞いた言葉として書かれています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエス様は確かに天から響く父の声を聴いたのです。「あなたはわたしの愛する子だ」と。

 この言葉がイエス様に必要でした。なぜなら、イエス様は十字架への道、苦しみの道を歩くことになるからです。もちろんイエス様は既に自分の苦しみが何であるかをご存じでした。イエス様は罪のない御方ですから、自分の罪の故に苦しむ必要はありませんでした。イエス様の人生には、自分の罪が招いた苦しみはありませんでした。御自分の苦しみは救い主としての苦しみであることを知っておられました。父の御心はわかっているのです。しかし、そのようなイエス様でさえなお、苦難の道を歩んで行く上でどうしても、この語りかけを必要としたのです。イエス様に必要であるからこそ、父は語られたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

愛されている子供たちとして生きる
 さて、イエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の語りかけを聞いているのは、「ヨルダン川」においてです。イエス様が、まさに人間の一人として、罪人の列の中に並んで洗礼を受けたという場面においてです。イエス様は永遠に父なる神と共におられる御子なる神として、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いているのではないのです。もしそうならば、何もこの場面でなくても良いのです。イエス様はあくまでも洗礼を受けている人間として、私たちと同じ人間として立ちながら、この声を聞いておられるのです。ならばイエス様が受けられた洗礼と、私たちが受ける洗礼とは無関係ではなくなります。

 ですからマタイによる福音書は、イエス様が受けられた洗礼の話だけで終わらないのです。この福音書の最後で弟子たちにこう命じているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18‐20)。最後には「洗礼を授けよ」とイエス様が命じたという話が出て来るのです。教会が授ける洗礼の話が出て来るのです。

 イエス様の受けた洗礼。教会が授けよと命じられている洗礼。その二つの間には何がありますか。3章と28章の間には何がありますか。十字架と復活の出来事があるのです。「洗礼を授けよ」とイエス様が命じられる前に、イエス様が「正しいこと」をすべて行ってくださったのです。神の御心に従って十字架へと歩みを全うされ、救いの御業を成し遂げてくださったのです。この救いの御業のゆえに、教会が授ける洗礼は意味を持つのです。成し遂げられた救いの御業のゆえに、あのヨルダン川で起こったことが、今日の教会において私たちの間にも起こるのです。

 あの時、「天がイエスに向かって開いた。」同じように神の裁きのもとにあった私たちにも天が開かれるのです。イエス様が罪の贖いを成し遂げてくださったからです。主の御業のゆえに、開かれた天は私たちに対してもはや決して閉ざされることはないのです。 そして、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」同じように、私たちにも神の霊が与えられるのです。私たちは洗礼において、ただ水による儀式を行っているのではありません。私たちは水と霊によって新しく生まれるのです。このことについて、パウロはこう語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。

 それゆえに神御自身が私たちにもこう言ってくださるのです。「あなたはわたしの愛する子供だ」と。そうです、私たちもまた、イエス様が耳にした神の愛の宣言を聞きながら、愛されている神の子供たちとして生きていくのです。神の裁きのもとにあって戦々恐々として生きていくのではなく、むしろたとえ苦難の中にあったとしてもなお、神の子供たちとして、神の愛を信じて生きていくのです。

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