2017年9月3日日曜日

「ソロモンの知恵」

2017年9月3
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 列王記上 3章4節~15節

 本日の第一朗読ではダビデの子ソロモン王の物語が読まれました。この書の2章を読みますと、ソロモンが即位して既に3年が経過していることが分かります。また今日の箇所の直前には、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)と書かれていました。ソロモン王が神殿の建築に着手したのは、即位して4年目の第二の月のことですから(6:1)、今日お読みしたのは、神殿の建築が始まる直前の出来事であることが分かります。

主を愛するソロモン
 今日の聖書箇所は次のような言葉から始まっていました。「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「聖なる高台」とは、先に引用した2節にありましたように、神殿が建設される前に祭儀が行われていた地方聖所のことです。それは歴史を遡るならば、イスラエルがカナンの地に定住する以前、カナンの神々に犠牲がささげられていた場所です。

 カナンの神々はバアルと呼ばれていました。「主人」という意味です。各地の聖なる高台ではその地域ごとのバアルに礼拝がささげられてきました。そこで行われてきたのは、今日の日本においても見ることができるような、豊穣多産を願っての祭儀でした。人々は繁栄を願って犠牲をささげました。富と栄光を願って、戦いがあるならば勝利を願って、犠牲をささげました。聖なる高台とは、もともとそのような場所でした。

 そのような繁栄を願っていけにえをささげる習慣は、イスラエルの定住後も根強く残ることになりました。それどころか、エルサレムに神殿が建造されて後にも、延々と残ることになりました。それは列王記を読むと良く分かります。人々は豊作を願い、家畜が殖えることを願う礼拝を続けたのです。富と栄光を求めての礼拝を続けたのです。御利益を求めての犠牲をささげ続けたのです。

 今日の聖書箇所に出て来る「聖なる高台」とはそのような場所です。そのような数ある聖なる高台の中でも、特に重要な聖なる高台があるギブオンにソロモンが行って犠牲をささげたというのが今日の話です。「ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)と書かれていました。「一千頭」というのは極端です。これは文字通りの意味ではなく、「非常に多くの」という意味でしょう。ともかくソロモンは多くの犠牲を祭壇にささげました。

 豊穣多産を願い、御利益を願っての礼拝であるならば、そこで犠牲をささげるのは願っているものを与えてもらうためでしょう。その意味では、神々との取り引きであると言うことができます。得るものがあるからこそ献げるのです。バアル(主人)とは呼んでいますが、彼らが愛しているのは主人ではなく、結果として得られる繁栄です。

 ソロモンもまた聖なる高台で莫大な量の犠牲をささげました。外から見れば、豊穣多産を願っての祭儀と変わらないかもしれません。しかし、実はギブオンに上った今日の話の直前にこう書かれているのです。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)。それは主を愛する者の礼拝であり、献げ物だったのです。

 そのことが明らかに示されているのが、続くエピソードです。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた」(5節)。そこでソロモンは知恵を求めたという有名な話です。

ソロモンの願い
 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。そのように主なる神は「与えてくださる方」として御自身を表されました。確かに聖書が私たちに伝えている神様はそのような御方です。聖書は、人間が願い求め、神が与えてくださった、という話に満ちています。

 それゆえに、イエス・キリストも言っておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7‐8)。さらには「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)とまで言われたのです。

 神は与えてくださる御方です。しかし、だからこそ、その御前で何を願うかが大事になってくるのでしょう。いったい神に何を願うのか。いや、個々の願いというよりも、そもそも神の御前においてどのような願いを持って生きるのか、ということです。与えてくださる神の御前に生きているからこそ、私たちの生き方そのものが問われるのでしょう。

 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたソロモンは答えました。

 「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」(6‐9節)。

 ソロモンの答えに繰り返されている言葉があります。「僕」という言葉です。日本語訳では分かりにくいのですが、実はすべて「あなたの僕」と書かれているのです。ソロモンの父、先代の王ダビデがまず「あなたの僕、わたしの父ダビデ」と呼ばれています。ダビデ王は、忠実に、憐れみ深く正しい心をもって、主の僕として歩んだ。そのような王座をソロモンは引き継いだのです。それがソロモンの自覚でした。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(あなたの僕)をお立てになりました」と。

 そしてもう一つ繰り返されている言葉があります。「あなたの民」という言葉です。「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが」(8節)とありますが、これも原文では「僕はあなたのお選びになったあなたの民の中にいますが」と書かれているのです。ソロモン王にとって国民は「あなたの民」なのです。「わたしの民」ではないのです。つまりソロモンが王であるということは、主の民を託されたのであって、ソロモンは僕としてその務めに携わっているのです。

 ソロモンの願いはそのような文脈で理解する必要があります。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」。何のためですか。主の僕として生きるためです。主により良くお仕えするためです。主の僕として、主から託されたことを全うするためです。「そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。そう言ってソロモンは求めたのです。

 それは夢の中での出来事でした。しかし、夢の中でそのように答えたということは、それが常日頃の願いであったことを意味するのでしょう。主により良くお仕えするためには何が必要なのだろう。主から託された務めを果たすためには、わたしに何が必要なのだろう。そのことをソロモンは常に考え続けてきたのでしょう。あるいは、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と主から言われる以前から、それは彼の絶えざる祈りでもあったのかもしれません。

神の応え
 このソロモンの願いを主は喜ばれ、こう言われました。

 「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(11‐14節)。

 ソロモンが献げた犠牲は、かつて同じ聖なる高台で富と栄光を求めてバアルの神にささげられたものと同じではありませんでした。ギブオンにおいてソロモンが夥しい焼き尽くす献げ物をささげた時、彼が願い求めていたのは長寿でも富でも敵の命でもなかったのです。繰り返しますが、王であるソロモンが願い求めていたのは主の僕として主に仕えて生きることだったのです。主の僕として主から託された務めを全うすることだったのです。ソロモンの献げ物、それは主を愛する者の献げ物でした。ソロモンが捧げたのは主を愛する者の礼拝でした。

 かくしてソロモンは願い求めたとおり「知恵に満ちた賢明な心」を与えると約束されました。さらには、願い求めなかったもの、富と栄光をも与えると約束されました。そして物語は、主が約束されたとおりに豊かにソロモンに与えられたことを伝えています。

 もちろん聖書はいかなる意味においても人間を理想化しないのであって、このソロモンもまた老境に入った時に主の道から外れてしまったことを正直に伝えております。しかし、それにもかかわらず、その物語の大きな部分は、主がいかに豊かにソロモンを恵まれたかを伝えることに割かれているのです。主は豊かに与えてくださる神です。

 そして、その御方は私たちの神、私たちの天の父でもあります。かつて夢の中において「何事でも願うがよい」と言われた神は、ここにいる私たちには、夢によってではなく、イエス・キリストを通して、また使徒たちを通して、願いなさい、求めなさい、祈りなさいと言ってくださいました。だからこそその御方の御前で何を願うかが大事になってくるのでしょう。何を願って生きるかが大事になってくるのでしょう。その神の御前において、私たちはいかなる願いを持って生きているのでしょうか。

「毒麦を抜いてはなりません」

2017年9月3
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章24節~30節、36節~43節

畑は世界、敵は悪魔
 今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。「毒麦のたとえ」です。これはマタイによる福音書だけに記されている話です。たとえ話そのものは至って単純な話です。ある人がよい種を畑に蒔きました。麦の種を蒔いたのです。すると人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いて行きました。毒麦とよい麦は、ある程度成長しなければ見分けがつきません。実る頃になって、僕たちが異変に気づきます。偶然雑草が混ざったという程度ではありません。明らかに異常な量の毒麦が生えているのです。僕たちは主人に報告して言いました。「どこから毒麦が入ったのでしょう」。主人は、「敵の仕業だ」と言いました。

 毒麦は有害な植物です。ですから僕たちは一刻も早く抜き集めようとしました。ところが主人は言うのです。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(29‐30節)。これがイエス様の語られたたとえ話です。

 次にイエス様の説明を聞いてみましょう。38節に「畑は世界」と語られています。そして、39節には「毒麦を蒔いた敵は悪魔」であると語られています。悪魔がこの世界に毒麦を蒔いている。――なるほど、言われてみれば、その通りでしょう。誰の目にも明らかなことは、この世界には良い麦と呼べるものだけが成長しているのではない、ということです。確かに毒麦が存在しているのです。しかも力強く成長しているのです。

 実際、悪魔の仕業としか思えないような事が起こります。なぜこんなことが起こるのか?なぜこんな人々が野放しにされているのか?なぜ不正を行う者が繁栄し、正直者が馬鹿を見るようなことが起こるのか?実際、毒麦は良い麦以上に成長するものです。

 しかし、聖書が語っているのは、蒔かれた種とその成長だけではありません。刈り入れの時についても語っているのです。39節を御覧ください。「刈り入れは世の終わりのこと」と語られています。つまり、この世界がこのままで永遠に続くのではない、ということです。刈り入れの時が来るのです。結論が出る時が来るのです。毒麦は集められ、火で焼かれることになる。すなわち、最終的に神様が正しく裁かれるということです。神様が正義を行われるのです。イエス様が語っておられるのはその意味で世界全体に関わる話です。

抜き集めておきましょうか

 しかし、私たちはこれを特に「教会の話」として聞くこともできるでしょう。ここで「良い種を蒔く者は人の子」(37節)と書かれていますから。「人の子」というのは、キリストのことです。キリストの種蒔きについて語られているのです。確かに「畑は世界」と言われていますが、キリストの種蒔きが関わっているのは、世界の中でも特に「教会」です。そうしますと、この話は一気に身近な話になってまいります。

 ある人はこの「毒麦」と自分を重ね合わせて聞くかもしれません。「わたしは、教会に来てはいるけれど、本当は毒麦かもしれない。わたしは洗礼を受けているけれど、毒麦かもしれない。こうして教会生活をしていても、最終的には毒麦として集められ、火で焼かれてしまうのではないだろうか。」そのように、「毒麦」と自分が重なってくる時、このたとえ話はたいへん恐ろしい話としてとして聞こえてくるでしょう。

 あるいは、この「毒麦」の話を、自分ではなく他の人と重ね合わせて聞く人もいるかもしれません。「確かにこのたとえ話のとおりだ。良い麦だけではなく、毒麦もいるというのは本当だ。あの人とこの人は、ぜったいに毒麦に違いない。今は、教会でいい顔しているけれど、最後には絶対に火で焼かれることでしょう。」

 いや、他の人を毒麦と見なすだけではありません。このたとえ話には「僕たち」が出て来るのです。彼らは言うのです。「では行って抜き集めておきましょうか!」この僕たちと自分が重なってくるかもしれません。僕たちからすれば、毒麦は一刻も早く抜き取ってしまわなくてはならないのです。それは良い麦に害を及ぼすからです。黙ってなどいられない。じっとしてなどいられない。とにかく早く対処しなくては!そのように、私たちも同じように考えていることがあるかもしれません。「教会の中に毒麦が放置されていてはならない。抜き集めてしまわなくてはならない。教会は良い麦だけの教会でなくてはならないのだ!」と。

 実際、そのような考えは、教会の歴史の中に繰り返し現れてまいりました。ですから、ある時には毒麦と見える人たちを追い出してしまう。あるいはそれができなければ、自分たちが出ていって、純粋な《良い麦教会》を作ろうとするのです。

刈り入れまで育つままに
 そのように、「毒麦」の話を聞いて、自分を思うか、他の人を思うかは人それぞれでしょう。しかし、大事なことはその「毒麦」について、「主人」が何と言っているかです。この話の中心はあくまでも「毒麦」ではなく「主人」だからです。

 主人は何と言っているでしょう。「では行って抜き集めておきましょうか」と言う僕たちに、主人は答えます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。その理由は何ですか。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」――これが理由です。

 恐らく常識的なセンスを持っているのは、この「僕たち」の方なのだと思います。毒麦は雑草です。成長すれば良い麦に根がからみもします。影響が小さいうちに、早いところ引っこ抜いてしまうのが良いのでしょう。その時に、多少良い麦が抜かれてしまっても仕方ないではありませんか。

 しかし、主人はそれがいやなのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」。そのように、この主人は異常なほどに、あくまでも一本一本の麦が正しく扱われることにこだわるのです。それゆえに途中でではなく、最終的にすべてが正しく扱われる時まで待ちなさいと言うのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と。

 そして、もちろんイエス様は天の父の話をしておられるのです。神様は十把一絡げではなく、私たち《一人ひとり》が正しく扱われることを望んでおられるのです。一人ひとりに異常なほどに関心を向けられるのです。どうでもよい存在ではないのです。真剣に取り扱われるのです。

 だから刈り入れの時まで待つのです。終わりの時まで待つのです。神様はそのような御方なのだ、というのです。神様は、早急に裁くことをされないのです。終わりの時までは、純粋に良い麦だけの畑を求められないのです。じっくりと忍耐をもって、時が来るまで待たれるのです。聖書が「終末における神の裁き」について語っているということは、言い換えるならば、その終わりの時までは、神は忍耐強く待たれる、ということなのです。

毒麦は良い麦に
 このように、このたとえ話の中心は「主人」であり、最も大事なのは主人が語られた言葉です。しかし、実はもっと大事なことがあるのです。それは、このたとえを《イエス・キリストが語られた》ということです。教会は、このたとえを、「イエス・キリストが語られたたとえ話」として伝えてきたのです。そのイエス・キリストとは、私たちの罪を贖うために十字架にかけられて死なれたイエス・キリストです。

 確かに神は良い麦と毒麦を一緒くたにはされません。「どちらであっても良いのだよ」とは言われません。最終的に、良い麦と毒麦は区別されます。「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と主人は言うのです。そのような、ある意味でとても恐ろしい話でもあります。

 しかし、このたとえ話はイエス・キリストの語られたたとえ話なのです。救い主が語られたたとえ話です。救い主によって罪の赦しの扉が開かれているところで語られているたとえ話なのです。

 罪の赦しの扉が開かれているということは、言い換えるならば、本来ならば滅びるはずの毒麦が、良い麦として倉に取り入れられる可能性があるということです。自然の農業においては、毒麦はあくまでも毒麦です。良い麦にはなりません。しかし、神の農業においては、毒麦が良い麦になり得るのです。良い麦としてスタートできるのです。罪の赦しがあるならば、そこには悔い改めと、新しいスタートもあり得るのです。毒麦に留まっている必要はない。毒麦であり続ける必要はないのです。

 どうでしょう。もし神様という主人が、あの僕たちの提案に従って、「今すぐ毒麦を抜き集めてしまいなさい」と言われる御方なら、私は、とうの昔に抜き集められ滅ぼされていたに違いありません。それは皆さんにしても同じであろうと思います。しかし、神はそのような主人ではありませんでした。神は終わりの日まで待たれます。結論を出さずに待たれます。人がイエス・キリストを通して与えられた恵みを受け取り、罪の赦しにあずかって、良い麦として生き始めることを待たれます。そして、良い麦として生き続け、失敗したとしても何度でもやり直し、最終的に良い麦として刈り入れられることを神様は望んでおられるのです。そのことのために、神様はどこまでも忍耐強く私たちに関わってくださるのです。

 「行って毒麦を抜き集めておきましょうか」――神はその提案に対して「ノー」と言われます。神は忍耐強い御方です。それゆえに、私たちは他の人に対して、早急に結論を出すのではなくて、断罪するのではなくて、神様の忍耐と寛容とを思いつつ関わっていくことが求められているのです。

 いや、他の人に対してだけではありません。私たちが本当に忍耐強く寛容をもって関わらなくてはならないのは、自分自身に対してであるかもしれません。自分をも「毒麦だ。抜いてしまおう」と言って早急に断罪してしまわないことです。本当に大事なことは、毒麦が発見されることでも、毒麦が抜き集められることでもないからです。大事なことは、毒麦が良い麦に変えられていくことだからです。

2017年8月27日日曜日

「心をきれいにすることよりも大事なこと」

2017年8月27
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章45節~50節 
     コロサイの信徒への手紙 3章18節~4章1節
 
汚れた霊が出て行くと
 今日の福音書朗読の前半は、イエス様が群衆になさった、こんな話でした。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(43‐45節)。

 汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をうろついてみたり、友達連れて戻ってきたりということは、今日の私たちにはほとんど馴染みのない話題です。しかし、もう一方において、イエス様が言わんとしていることは分かるような気もします。悪いものが出て行って、一時的に状態が良くなる。しかし、長続きしない。気がついてみると元の木阿弥になっている。いや元に戻るどころか、以前よりもっと悪くなっている。それは様々な意味合いにおいてありそうな話ですから。

 例えば、心に悪意を抱いている人は、こんなことではいけないと思って、誰かに対して抱いている悪意を心の中から追い出そうとする。心に嫉妬心を抱いている人は、こんなことではいけないと思って、嫉妬心を追い出そうとする。淫らな思いを抱いている人は、こんなことを考えていてはいけないと思って、淫らな思いを追い出そうとする。いつも先のことを思い煩ってばかりいる人は、こんなことではいけないと思って、不安や思い煩いを一生懸命に追い出そうとする。あるいは心の中に留まらず、生活の中から悪習慣を追い出して、きれいな生活を実現しようとすることもあるのでしょう。

 悪いものを追い出して、きれいな心や生活を実現しようとする努力は、ある程度は成功するようにも思います。しかし、どうも長続きしない。そんな経験をしたことがある人は少なくないのでしょう。気づいて見ると元の木阿弥になっている。いや、結局は努力してもダメだった自分を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ちてきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまうことも起こります。その意味において、汚れた霊が友達を連れて帰って来るという奇妙な話は、案外誰にとっても身近な経験なのかもしれません。

 イエス様は、こんな話をした上で、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」と言われました。イエス様が見ていた当時のユダヤ人の社会も、同じようなものだったようです。確かにイエス様の時代のユダヤ人たちは、特にこの直前に出て来るようなファリサイ派の人たちは、皆、自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていたのです。とにかく汚れたものは大嫌い。汚れた生活をしている異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶対に一緒に食事などしない。そのように、清い者となることは、一大関心事だったのです。しかし、イエス様は言われます。そのように汚れたものを追い出して、お掃除したって、あいつらは自分より悪い友達を連れて帰ってくるものだ、と。

 実際、福音書を読んでいますと、イエス様の言われることは本当だと思わずにはいられません。汚れたものを追い出して、遠ざけて、清くあろうとした人たちの内側には、実は彼らも気付かない内に、汚れた霊の友達が一杯住み着いていたのです。例えば、妬み、憎しみ、敵意、殺意などなど。結局それら全てがイエス様に対して噴出することとなりました。既に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)などとも書かれています。清さを求めた人たちの内に殺意が満ちていたのです。

 皆さん、汚れたものを一生懸命に追い出すこと、そのために努力することは、良いことのように思えるではありませんか。しかも、追い出すだけでなく、掃除をして、整えるのです。そのように努力することはとても良いことのように思えるではありませんか。しかし、イエス様はそれでは掃除をして整えられた空き家のようなものだというのです。そのままでは、そこに悪いものがさらに満ちて、より悪いものになってしまうのです。

心を空き家にしないため
 そこでこの福音書はさらに46節以下の話を続けるのです。今日の朗読の後半部分です。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(46‐50節)。

 「汚れた霊が戻ってくる」という話とこのエピソードは一見関係なさそうに見えるかもしれません。実際、ルカによる福音書ではそれぞれ別の章に記されています。しかし、マタイは「イエスがなお群衆に話しておられるとき」という言葉をもって、あえて関連づけて書。そこで私たちは今日、43節から50節までを一つのまとまりとして読んだのです。

 イエス様は言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。まるで、外に立っているのは母親でも兄弟でも何でもない、と言わんばかりです。しかし、イエス様はこれを母マリアや兄弟たちに向かって言ったのではありません。そうではなくて、彼らが外に立っていることを伝えにきた人に言ったのです。さらに言うならば、ただその人に聞かせるためでもありません。それは弟子たちに聞かせるためでもあったのでしょう。そこには何人かの律法学者たちとファリサイ派の人たちもいたのです。あえて「弟子たちの方を指して言われた」と書かれているのです。その彼らの面前で、弟子たちを指して、イエス様はこう言われたのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(49‐50節)。

 そのようにイエス様は「ここにいるのはわたしの家族だ」と言われたのです。「わたしにとって外にいる肉親と同じくらい、いやそれ以上に大事なわたしの家族だ。わたしの天の父の御心を共に行っていく家族なのだ」と主は言われたのです。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と。

弟子たちは、このイエス様の言葉を忘れることができなかったに違いありません。そして、その意味するところを後に深く悟ったことでしょう。まさにそのために、イエス様が十字架にかかり命を献げてくださったのだ、ということを。

 私たちにとっても、何よりも重要なのは、イエス様から「あなたたちはわたしの家族だ」と言われているのだという認識です。そして、イエス様の家族として、イエス様と共に、イエス様が示してくださった天の父の御心を行おうとして生きていくことなのです。そのようにイエス様の家族として、イエス様のことを思い、天の父のことを思って生きることなのです。そして、父の御心を行うために、聖霊に満たされて生きることを求めることです。

それは心をきれいにすることよりも、ずっと大事なことなのです。追い出してきれいに整えることよりも、良きものに満たされていることの方が大事なのです。イエス様の兄弟として天の父の御心を行おうとしている限り、心は空き家にはなりません。そこにはキリストと天の父がおられ、聖なる霊が満たしてくださるから。だから汚れた霊が出て行くならば、友達を連れて戻ってきて、より悪いものが住み着く余地がなくなるのです。

身近な人間関係においても
 さて、本日の第二朗読においては、私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられていました。「家庭訓」と呼ばれます。ユダヤ人の間においては古くからしばしば論じられてきた事柄です。ここでは夫婦の関係、親子の関係、そして奴隷と主人との関係が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきか、具体的な勧めを与えている聖書箇所です。

しかし、ここに書かれていることは、単に身近な人間関係から悪いものを追い出して、より良いものにするための知恵ではありません。ここで大事なのはその直前に書かれていることなのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ 3:16‐17)。

 そのように、ここに書かれている勧めの大前提となっているのは共に御言葉を聞き、心に宿し、共に神を礼拝し、感謝して生きる生活なのです。つまりは生活のあらゆる領域においてイエス様を思い、天の父を思い、聖霊に満たされて生きる生活です。きれいに整えられた空き家ではなく、良きものに満たされ、良き御方によって治められている生活です。

 だからこそ、そこには妻については「主を信じる者にふさわしく」と書かれ、親については「それは主に喜ばれることです」と書かれているのです。奴隷については、「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい」と語られ、主人については「知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです」と語られているのです。明らかに、そこでまず大事になってくるのは、主との関係なのです。主が家の外ではなく、家の中に、しかも中心にいてくださることなのです。

2017年8月20日日曜日

「希望を捨ててはなりません」

2017年8月20
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章16節~25節  

 今日の聖書箇所の直前には、イエス様が十二弟子を周辺の町々村々に遣わされたことが書かれています。ですから今日お読みした言葉は、イエス様が弟子たちを派遣するに当たって語られた言葉として読むことができます。しかし、その内容を読みます時に、イエス様はただ目の前の十二人のことだけを考えて語っておられるのではなさそうです。ここに語られていることが実際に起こるのは後の教会においてだからです。

 やがてこの弟子たちは、また後のキリスト者は、迫害を受けるようになります。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることにもなります。総督や王の前に引き出されることにもなります。十二人を派遣する時には「異邦人の道に行ってはならない」と主は言われましたが、後の時代においては、否応なくこの世の法廷に引き出され、総督や王や異邦人たちにキリストのことを語ることになるのです。そのように、イエス様は未来の弟子たち、未来の教会を念頭において語っておられるのです。

蛇のように賢く、鳩のように素直に
 そのようにキリストが弟子たちを世に遣わすこと、教会を宣教のために世に遣わすことを、主は「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と表現しました。狼の群れに羊が送り込まれたら、羊はたちまち困難に直面することになるのでしょう。しかし、それが主によって遣わされるということであり、宣教するということなのだと主は言われるのです。ならば、宣教は決して容易なことではありません。

 日本の宣教は難しいと言われてきました。しかし、難しくない宣教などないのです。初めから困難を伴うものであることを主は語っておられたのです。それは今日においては必ずしも迫害という形ではないかもしれません。しかし、教会が宣教の使命を果たしていこうとするならば、必ず困難に直面するのです。キリスト者が信仰をもってこの世に生き、キリストを証しして生きようとするならば、必ず困難に直面するのです。

 「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)と主は言われるのです。一度聞いたら忘れることができないほどに印象的な言葉です。これが「鳩のように素直に」だけならば、恐らく記憶に残らないでしょう。それはある意味で信仰者のイメージに合致するからです。違和感を覚えるのは前半です。主は「蛇のように賢く」と言われたのです。

 「蛇のように賢く」という言葉の元になっているのは、恐らく創世記の物語です。エバが蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったという話です。その蛇が聖書に登場する際に、こう書かれているのです。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。

 確かに創世記に出て来る蛇の誘惑は実に巧妙です。確かに賢い。ずる賢い。しかし、この世の悪の誘惑はまさにそのように忍び寄ってくるのでしょう。悪魔の誘惑とはそういうものではありませんか。しかし、悪魔が人間を誘惑するほどに、それほどに私たちは賢くあろうとしているのでしょうか。教会はこの世界にキリストを宣べ伝えるために、それほどに賢くあろうとしているのでしょうか。主は言われるのです。「蛇のように賢くなりなさい」と。

 実際、もしこれが迫害の時代ならば、集会を一つ行うにしても知恵が必要だったことでしょう。誰に、いつ、どのようにしてキリストのことを証するのか。そのことにも知恵が必要だったことでしょう。イエス様が言われたことの意味は、身に染みてよくわかったと思います。ともすると私たちには主が言われるほどに「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」という意識がないものですから、「蛇のように賢くなりなさい」という主の言葉の重要性を切実には感じていないかもしれません。しかし、異なる時代を生きる私たちにとっても、直面しなくてはならない困難の形が違うだけで、本当は同じことなのでしょう。主は言われるのです。「蛇のように賢くなりなさい」と。

 しかし、たとえ「蛇のように賢く」あったとしても、それでも捕らえられる時は捕らえられるし、地方法院に引き渡されるようなことも起こります。鞭打たれるようなことも起こります。だから、蛇のように賢いだけでなく、「鳩のように素直になりなさい」と主は言われるのです。

 「素直に」というのは「混じり気のない」とか「純真な」という意味合いの言葉です。それはただひたすら神に依り素朴な信仰を意味するのでしょう。主は具体的にこう言われるのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19‐20節)。

 たとえ地方法院に引き渡されるようなことになったとしても、そこで父の霊が語ろうとしていることがあるのです。総督の前に引き出されるようなことになったとしても、そこで父なる神がしようとしていることがあるのです。そのように、人間の目には最悪の事態が訪れたように見えたとしても、それでもなおそこで神がなさろうとしていることがあるのです。神の計画は進んでいるのです。人はただ鳩のように素直に、純真素朴に信頼したらよいのです。

最後まで耐え忍ぶ者は救われる
 そして、さらにイエス様は言われました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(21‐22節)。

 すでに見てきたように、主は教会の宣教について、初めから困難を伴うものとして語っておられました。繰り返しますが、教会が宣教の使命を果たしていこうとするならば、必ず困難に直面するのです。キリスト者が信仰をもってこの世に生き、キリストを証しして生きようとするならば、必ず困難に直面するのです。

 しかし、迫害の時代のキリスト者が経験していた最も大きな困難は、恐らく宗教的な権威や国家権力により苦しめられることではなく、家族との間に生じる軋轢や断絶だっただろうと想像いたします。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」。家族に限らず、愛する者から理解されないこと、憎まれるようになることほど、辛いことはないでしょう。しかも救いを証しすればするほど、かえって憎まれることになるのです。

 そこで主が語られた言葉はどれほど大きな励ましであったかと思います。主は言われました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。実は、この福音書の24章にもそっくり同じ形でこの言葉が出て来ます。語順も全く同じままマルコによる福音書にも出て来る。恐らく昔の教会において、このままの形で記憶され、皆がしばしば口にしていたイエス様の言葉だったのだと思います。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。互いにそう言い交わしながら励まし合ったのだと思います。

 「最後まで」と言われているということは、すなわち「最後がある」ということです。終わりがある。永遠じゃないということです。迫害は永遠ではありません。いかなる苦しみも永遠ではありません。それは限られた期間です。必ず最後がある。トンネルに必ず出口があるように、夜明けは必ず訪れるように、必ず「最後」があるのです。だから「耐える」こともできる。「耐え忍ぶ」のです。

 その「耐え忍ぶ」という言葉は、もともと「留まる」という言葉に由来するものです。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。どこに留まるのでしょう。信仰に留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはそういうことです。信仰に留まることです。

 実はこれと同じ言葉が詩編に何度も何度も出て来るのです。詩編はもともとヘブライ語で書かれているのですが、そのギリシャ語訳聖書にこの言葉が何度も使われているのです。興味深いことに、ほとんどの場合、「待ち望む」という意味の訳語として用いられているのです。主を待ち望むということです。例えば、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)というように。この「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉です。

 そのように、「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことなのです。主を待ち望むことです。どこまでも待ち望むことです。希望を放棄しないことです。絶望しないことです。信仰に留まって、希望に生きる、どこまでも希望に生きることです。「忍耐する」とはそういうことです。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と主は言われました。そして、その上で主が与えられた約束の言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」そうです。希望を捨ててはなりません。

2017年8月13日日曜日

 「天の国を宣べ伝えるために」

2017年8月13
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章1節~15節 


 今日の聖書箇所はイエス様が十二人の弟子を呼び寄せたところから始まります。弟子と呼ばれる者たちは、この時点で既に数多くいたに違いありません。しかし、ここで特に十二人が他の者と区別されて呼び寄せられたのです。彼らは後に復活したキリストにお会いし、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)というキリストの言葉を聞くことになる人たちです。

 今日の聖書箇所では、そのような十二人の弟子たちが、生前のキリストによって周辺の町々村々に遣わされた次第を伝えています。これは、後に復活のキリストによって派遣される前の、いわば予行演習であると言ってもよいでしょう。当然のことながら、この出来事は、そこにいた弟子たちだけでなく、後の教会にも関係することとして伝えられたに違いありません。

 今日、私たちはこの聖書箇所において、特に三つのことに心を留めたいと思います。

キリストによって遣わされて
 その第一は、主が十二弟子を派遣するに当たり、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」と語られた、ということです。

 彼らは「十二使徒」(2節)と呼ばれています。「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。「遣された者」であるということは、自らのために存在しているのではない、ということを意味します。ですから、使徒の派遣から始まる教会は、それ自体のために存在しているのではありません。派遣する主のために、また、その対象であるこの世界のために存在するのです。

 私たちは教会の形成に心を注ぎ、教会が成熟し成長することを願います。しかし、それは教会自身のためではありません。教会が神とこの世界に仕えるためです。私たちが信仰を与えられ、キリスト者とされているのは、ただ単に私たちの救いのためではありません。この世に遣わされるためなのです。

 「世に仕える教会」ということが語られる時、《主によって派遣されたものとして》仕えるのだということを十分に理解することは重要です。派遣された者にとって重要なことは、派遣する御方の御心を行うことです。その意味において、教会の働きの動機は、人道的な使命感とは一線を画します。教会は人道的な使命感によって動いていくのではないのです。

 それは今日の箇所においても良く現れています。5節後半以下を御覧ください。キリストは弟子たちに次のようなことを命じられました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(5b‐6節)。これは極めて排他的な言葉です。差別的な響きをもっているとも言えます。しかし、私たちは、異邦人やサマリア人を排除し、差別するかのように聞こえるこの言葉を、後の教会が大切に伝えてきたことを良く考えねばなりません。

 「後の教会」とは異邦人にも伝道している教会です。異邦人もいる教会の礼拝において、このようなイエス様の言葉は伝えられてきたのです。《今》はそうではないけれど、《あの時には》異邦人ではなくイスラエルの失われた羊のところへ行けとキリストは言われたのだ。そして弟子たちはその命令に従ったのだ。その事実を、重要なこととして教会は伝えたのです。それが「派遣される」ということだからです。

 この世の中には為した方が良いと思えることがたくさんあります。また為すべきであると思えることもたくさんあります。しかし、一般的な意味で《為した方が良いこと》《為すべきであると思えること》が、必ずしも遣わされている者にとって《その時に為すべきこと》であるとは限りません。

 繰り返しますが、遣わされている者にとって重要なことは、遣わす御方の御心に従うことであって、自分の使命感に従うことではないからです。その意味において、教会がこの世の声に耳を傾ける《前に》、キリストの言葉に耳を傾けることは正しいことです。その順序を間違えてはならないのです。

天の国を宣べ伝えるために
 そして、注目すべき第二は、主が十二弟子を派遣するに当たり、為すべきこととして、まず「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じられた、ということです。

 キリストは弟子たちにこう言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(7‐8節)。

 教会が遣わされている世界は、病気のある世界です。死のある世界です。具体的な様々な苦悩に満ちている世界です。教会はその病気や死に代表される様々な具体的な苦悩に関わります。その癒しのために仕えます。「病人をいやし、死者を生き返らせる」ということは文字通り起こるのでしょうか。文字通りの仕方で起こるかもしれませんし、文字通りの仕方では起こらないかもしれません。しかし、いかなる形にせよ、主が私たちを遣わし、私たちを用いられる時、そこでは広い意味での癒しが起こります。

 しかし、重要なことは、そこで起こることは天の国を指し示すしるしである、ということです。それは神の恵み深い支配を指し示すしるしとなるのです。ですから、ただ癒しのために仕えるのではなく、その前に告げ知らせるべき言葉があると語られているのです。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と。

 「天の国は近づいた」――これはキリスト自身が宣べ伝えていた言葉です。すでに4章17節に出てきました。そこではこう書かれております。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)。そのように、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけることでもあります。「悔い改める」とは、ただ「悪い行いを改める」ということではなく、「神に立ち帰る」ということです。

 神が恵み深く近づいてきてくださいました。天の国は近づきました。しかし、そこに入るには、人間が方向を変えて神に立ち帰らなくてはなりません。弟子たちは、そのことを告げるために送り出されたのです。そのように教会もこの世に遣わされているのです。

 ですから、そこにはまた、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられております。悪霊は人を神から引き離そうとする力です。悪霊は人間を罪の縄目に捕らえて離そうとしません。「悪霊」と聞いて、オカルト的な憑依現象のようなものだけを考えてはなりません。そのような現象などは片鱗に過ぎません。まさに神から引き離されたこの世界のありとあらゆる悲惨さが、悪しき霊の支配を現しているのです。

 主は、その悪霊を追い払え、と命じられました。それは悪霊の支配から、神の恵みの支配のもとへと人を回復することに他なりません。ですから、悪霊を追い払うことと、天の国を宣べ伝え、悔い改めを宣べ伝えることは、別々のことではなく一つのことなのです。


キリストの権威によって
 そして、注目すべき第三は、主が十二弟子を派遣するに当たり、彼らの持ち物のほとんどを没収してしまわれた、ということです。

 イエス様は言われました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9‐10節)。このように、弟子たちは大きな務めを与えられて遣わされるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを、彼らは何一つ持っていくことは許されませんでした。

 しかし、彼らには何も無かったのではありません。もう一度1節を御覧ください。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)と書いてあるのです。この権威・権能は、もともとキリスト御自身の権威・権能です。彼らは、そのキリストの権威を受け取って、その権威を携えて出て行くことが許されていたのです。

 これは彼らに恵みの賜物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)と命じられているのです。彼らの働きは、このただで与えられもの、恵みの賜物として与えられたものによって成し遂げられるのであって、彼らが携えていける他の何かによるのではないのです。

 さて、私たちには、この話はあまりにも極端に思えます。何も無かったら、宣教の働きはおろか、旅を続けることさえ不可能ではないか――。そう思ってしまいます。

 一方、今日の教会は状況がずいぶん違います。私たちの教会は経済的に自立していると言えます。教会にはまた、多種多様な才能を持った人もいます。それぞれが受けてきた教育もあります。積んできた経験もあります。なので、往々にして、私たちはそのように自分たちが持っているものによって、自分たちが能力的にできることによって、教会の宣教の働きが続けられると考えてしまいます。私たちは持っているから、与えることができるのだ、と。

 あるいは逆のことも起こり得ます。自分たちは豊かでもないし、能力も乏しく、教育もなく、知識も経験もないから、与えることのできる何をも持っていない。教会として、あるいは個人として、そのように考えてしまうことがあるかもしれません。

 実際、古代の教会にしても、すべての教会が常に履物も杖も下着もないような状態ではなかったでしょう。教会にせよ個人にせよ、置かれている状況は時と共に変わります。豊かにもなれば貧しくもなります。

 しかし、だからこそ、イエス様があの時弟子たちに語られたこの言葉を、教会は大切に伝えてきたのです。宣教の働きというものは、恵みによって賜物として、ただで与えられたものによるのだ、ということを忘れないためです。すなわち、私たちと共にいてくださるキリストの権威と私たちに与えられている福音そのものの力です。

 それゆえにまた、宣教の業は主に依り頼むこと、そして祈ることと不可分なのです。実際、あの弟子たちにしても、手元に何もないならば、天を仰ぐしかなかったでしょう。そして、何も携えずに出ていったあの弟子たちは、それでも確かに天の御国を宣べ伝え、悪霊を追い払うことができたのです。そのことを私たちは忘れてはならないのです。

2017年8月6日日曜日

「罪人を招いてくださる神」

2017年8月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 9章9節~15節

わたしに従いなさい
 今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから始まります。その人の名は「マタイ」です。彼は十二弟子の一人でありまして、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされています。既にシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが主の弟子とされた経緯が四章に書かれていました。次第に弟子の群れが形成されつつありました。その弟子の群れにマタイが加えられたというのがここに書かれている出来事です。

 ところで、「弟子」という言葉が繰り返し出てくるのですが、これはユダヤ人の言葉では「タルミード」と言います。そして、「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ生徒を指します。ラビの言葉に耳を傾け、質問をし、聞いたことを復唱し暗記する。また、ラビの生活を倣い、律法に従った生活を学ぶ。それが弟子(タルミード)です。

 実際、イエス様の弟子たちも、そのような一般的なタルミードの生活していたのだと思います。イエス様の言葉に耳を傾け、復唱し暗記する。またイエス様の生活を良く見て倣う。弟子たちがそのようにしてくれたおかげで、イエス様の言葉、イエス様の物語が今日に至るまで残っているのです。

 そのように、外から見るならば、明らかにイエス様は一人のラビであり、シモンやアンデレたちはタルミードでありました。ですから福音書において、イエス様がしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、イエス様はユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在であったことも事実です。その故に、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。

 そもそも、弟子の取り方からして、イエス様は通常のラビと決定的に違っていました。その違いが今日の聖書箇所に良く表れています。一般的には、タルミード(弟子)になりたい人がラビを選び、弟子入りするのです。そのような世界は、私たちの身近な習い事などにもあるので、容易に理解できるでしょう。そこには当然のことながら、弟子入りする者の求道心が前提とされているのです。

 しかし、イエス様の場合、そうではありませんでした。他の福音書においてイエス様はこんなことを言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。普通のラビはそんなことは言わないのです。しかし、イエス様の言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエス様を教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを招いて弟子としたのです。

 この場面のマタイも同じです。「イエスはそこをたち」(9節)と書かれています。つまり、これは前の場面の続きなのです。イエス様が自分の町、カファルナウムに帰って来た。その事が知れると、大勢の群衆がイエス様の周りに集まってきました。中風の人を床に寝かせたまま連れて来るような人たちもいたのです。しかし、もちろんすべての人がイエス様のもとに集まったわけではないでしょう。そんなことに関心のない人もいたのです。事実、マタイは行かなかったのです。収税所に座って仕事をしていたのです。ナザレのイエスがカファルナウムに帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。

 彼は「収税所に座って」いました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありましたし、不正な利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示しているのです。

 しかし、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められたのでした。そして、彼に言ったのです。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。

 この「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味で用いられる言葉でもあります。立ち上がったマタイ、復活したマタイ――確かにそうでした。罪の生活の中にどっかりと腰をおろしていた彼が、神との関わりに新しく生き始めた。それは確かに《復活》と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではないでしょう。しかし、ともかく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめました。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことなのです。

わたしが来たのは罪人を招くため
 そのようにイエス様がマタイを招かれたこと、そしてマタイが立ち上がったことを念頭に置きますと、その後の食事の場面の意味が見えてまいります。10節を御覧ください。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)と書かれています。イエス様は、ここにおいてマタイの仲間と一緒に食事をしているのです。

 このような箇所を読みますときに、ともするとこれを単純に「イエス様は誰をも分け隔てしなかった」という話にしてしまいやすいものです。社会から排斥されていた人たちを、イエス様は差別しなかった。彼らとも一緒に食事をしたのだ、と。そんなイエス様に倣いなさいという話にしてしまいやすい。しかし、これはそのような話ではないのです。

 ファリサイ派の人たちは「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに言いました。その時、イエス様は「誰をも分け隔てしてはならないからだ」とは答えなかった。そうではなくて、イエス様はこう答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエス様が引用された言葉は、お気づきと思いますが第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」となっていました。そうです、イエス様は父なる神が望んでおられることをしておられたのです。父なる神が喜ぶことをしておられたのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それは徴税人や罪人を愛しておられたからです。そこにあったのは、神に背を向けて生きてきた人たちに対する、深い深い憐れみだったのです。

 この福音書を書いたマタイには、その意味することが良く分かっていたに違いありません。なぜなら、にマタイもまたイエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、イエス様によって生き返らせていただいた一人であったからです。

 イエス様が罪人を招くのは、罪から救うためです。イエス様が自らを医者にたとえたように、イエス様が罪人を招くのは罪の病を癒すためです。罪の病とは神との断絶です。永遠の命の源である神から離れてしまっていることです。そのままでは死んでしまうから、罪によって滅びてしまうから、イエス様は罪人を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキリストに、このように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる私を憐れんでください。」と。

 そして、事実イエス様はこの地上において、罪人に対する憐れみを目に見える姿で現してくださいました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そうです、主は罪人を招くために来てくださいました。そして、その罪を全て代わりに負って、十字架にかかって死んでくださったのです。

 そして、三日目に復活された憐れみの主が、今も食事の席に私たちを招いてくださっているのです。その意味において、私たちは皆、マタイの家において主と共に食事をする徴税人であり罪人です。この礼拝堂はマタイの家です。罪人たちがイエス様と共に囲んでいる食卓こそ、この聖餐卓なのです。

2017年7月30日日曜日

「神は聞いていてくださる」

2017年7月30
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

イシュマエルの誕生
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。

 イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。

 ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。

 アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。

 そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。

 さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。

 当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。

もう苦しまなくてよい
 やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。

 しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。

 そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。

 どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。

 「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。

 その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。

 しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。

 神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。

 そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。

神は聞いていてくださる
 そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。

 「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。

 しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。

 もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

2017年7月23日日曜日

「賢い人と愚かな人」

2017年7月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節

この御方はだれですか
 今日は「山上の説教」の最後の部分をお読みしました。次のように締めくくられていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28‐29節)。

 イエス様の語り方は、ユダヤ人の律法学者たちとは明らかに異なっていました。それは「山上の説教」だけを読んでもわかります。律法学者なら、あくまでも「律法」を権威あるものとして語ります。律法学者はどんなに高名なラビであっても権威ある律法を解釈する者に過ぎません。そのような者として語ります。しかし、イエス様の語り方はそうではありませんでした。律法が命じていることを引き合いに出した上で、「しかし、わたしは言っておく」と続けるのです。

 イエス様は律法のもとに自らを置いて語るのではなく、律法を与えた神の位置に身を置いて語るのです。神の権威をもって神の言葉を語るのです。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とはそういうことです。だから群衆は驚いたのです。

 もちろんそれは群衆の驚きだけでは済みません。そんなことをしていれば、やがては律法を重んじる人々の怒りを引き起こすことにもなるのでしょう。律法学者から神を冒涜する者と見なされることにもなるのでしょう。

 しかし、そのようなことは百も承知の上で、イエス様は大胆にもこのように語られるのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)と。

 「わたしのこれらの言葉」とは、神の位置に身を置いて語ってきた言葉です。ならばそれを「聞いて行う者」というのは、ただ「教えを実践する者」という意味ではありません。そうです。ここには「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」が出て来るのですが、ここで問題になっているのは単に「教えを聞いて実践するか否か」ということではないのです。聞くだけで実践しなかったら意味がありませんよ、といった表面的なことではないのです。

 ここで問題とされているのは、そもそも主の御言葉をどのように受け止めているか、ということなのです。イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取っているか、そうでないのか。「しかし、わたしは言っておく」と語られるその言葉に神の権威を認めて、その権威に服して生きようとしているのか、そうでないのか、ということなのです。

 それは直接その場でイエス様の言葉を聞いた人に対してだけでなく、この福音書を通してイエス様の言葉を聞いている私たちにも問われていることでもあります。そのつもりでマタイは書いているのです。私たちは本当にその御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取っているのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われるその御方は、わたしにとって、あなたにとって、いったいどのような御方なのでしょうか。

権威ある者として
 「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。そのようにイエス様は「権威ある者」として語られました。それが「神の権威」であるならば、それは第一に人間に命じることのできる権威を意味するのでしょう。

 神は創造者です。人間は造られた者です。神がそのような神ならば、神は本質的に人間に対して「命じる権威」を持っています。神の律法を与える権威を持っているのです。従順を求める権威を持っているのです。ですから、その権威をもって語られるイエス様も命じるのです。「しかし、わたしは言っておく」と語り、「聞いて行うこと」を求めるのです。従順を求められるのです。

 それゆえに、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様が命じる権威を持っていることを認めることでもあります。私たちに対するそのような絶対的な権威を認めるということです。私たちに従順を求めることのできる絶対的な権威を認めて、その権威に服するということです。

 そして、当然のことながら、命ずることができるということは、裁くこともできるといことでもあります。命ずることのできる権威は、命じたことに従わない者を罪に定めることのできる権威でもあるからです。

 神はすべての人間に命じる権威を持っています。神は律法を与える権威を持っています。それゆえに、律法違反を裁く権威を持っています。イエス様に神の権威を認め、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様に絶対的な裁きの権威を認めるということでもあります。人間を裁いて罪に定める権威を認めるということです。私たちに対する最後の言葉を持っている御方として、イエス様を見るということです。

 それは恐ろしいことでしょうか。いいえ、そうではありません。罪に定める権威を持っているということは、罪を赦す権威を持っているということでもあるからです。最終的に人間を罪に定めることができるのは神です。それゆえに、最終的に人間の罪を赦すことができるのも神なのです。イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くといことは、この御方に罪を赦す絶対的な権威を認めるということでもあるのです。

 実際、そのことが問われる場面が後の9章に出て来ます。イエス様のもとに連れて来られた中風の人を主が癒された場面です。イエス様はその人を癒される前に、中風の人にこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)。山上の説教において、権威ある者として教えられたイエス様は、同じ権威をもって、神の権威をもって罪の赦しを宣言されるのです。

 しかし、それを見ていた律法学者が心の中でつぶやくのです。「この男は神を冒涜している」と。イエス様に神の権威を認めなければ、当然そうなるのです。ですから、山上の説教におけるのと同じ事がそこで問われているのです。その御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取るのかどうかということです。

 イエス様は律法学者たちの心を見抜いてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人にこう命じたのです。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」。そのように、命じる権威と罪に定める権威、罪を赦す権威は一つなのです。

 そのような権威をもって語られているからこそ、山上の説教において繰り返し語られる「あなたがたの天の父は」という言葉もまた意味を持つのです。先週読まれました「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉も意味を持つのです。このような言葉は神の権威を持たない者が語ったとしても、意味がないからです。それは辛い時の気休め程度にはなるかもしれませんが、本質的には無意味でしょう。

 しかし、その御方は権威ある者として語っておられるのです。神の権威をもって語っておられるのです。最終的に罪に定めることのできる権威をもって、それゆえに罪を赦すことのできる絶対的な権威をもって語っておられるのです。「あなたがたの天の父は」と。そのように、私たちを神の子どもたちとして語るのです。そして、今この世にいる時から、神の子どもたちとして生き始めるようにと命じられるのです。神の絶対的な権威をもって「わたしは言っておく」と語られるのです。

嵐が来ても倒れないように
 さて、今日の聖書箇所は岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚かな人について語ります。そこで問題となっているのは土台です。そして、このように語られる神の権威、キリストにおいて現されたこの神の権威こそが、人生を支える揺るぎない土台となるのだということです。それゆえに、イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取るか否か、語られるその御方に神の権威を認めて、その権威に服するか否かということが決定的に重要な意味を持つのです。

 もう一度お読みします。イエス様は言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(24‐27節)。

 「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取ることができます。それはこの世における様々な試練を意味するとも言えます。最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えます。あるいは、終わりの日の裁きを意味するとも言えるでしょう。いずれにせよ、洪水や風に象徴されるのは、人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。その時に私たちは岩の上に立っているのでしょうか。それとも砂の上に立っているのでしょうか。

 もちろん、キリスト教との関わり方は幾通りもあるのでしょう。教養としてのキリスト教、生活指針としてのキリスト教、文化としてのキリスト教・・・そのような関わり方もあろうかと思います。「イエス様の言葉は知っています。毎週聞いています」という程度の関わり方もあろうかと思います。

 しかし、どこに家を建ててきたかが問われる時は来るのです。岩の上にあるのか砂の上にあるのかが問われるのです。嵐の中で問われるのです。神の権威をもって語られる御方とどう関わってきたか。神の権威によって裁かれ、神の権威によって罪を赦された者として、神の権威をもって語られた神の言葉をどう受け止めてきたか。どのように従ってきたか。砂の上に建ててきたのか。岩の上に建ててきたのか。それが問われるのです。

 それゆえにこのたとえ話は私たちに対する招きの言葉でもあります。この御方は神の言葉を語られます。神の言葉に聞き従いなさい。あなたの人生という家を、神の権威という揺るぎない岩の上に建てなさい。嵐が来ても倒れないように、と。

2017年7月16日日曜日

「良いものをくださる天の父」

2017年7月16
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章1節~14節 

求めなさい
 イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。大変良く知られた言葉です。一般的には「求めよ、さらば与えられん」という文語で引用されることが多いように思います。そして、文語で使われる時には、一般に、「何であれ熱心に追い求めてこそ得られるものだ」という意味で使われていることが多いようです。「求めよ、さらば与えられん」。世の中、そういうものですよ、と。

 しかし、「求めなさい」というこの言葉は、「追い求めなさい」という意味ではなく、「願い求めなさい」という意味の言葉なのです。イエス様は、「一生懸命に追い求めなさい」と言っているのではなく、「お願いしなさい」と言っているのです。お願いするって、誰にでしょう?それは天の父なる神様にです。ですから、これは言い換えるならば「お祈りしなさい」ということです。

 そのように、「お祈り」とは、単純に「お願いすること」です。子どもが親に願い求めるように、天の父に必要なものを願い求めることです。「お祈り」が何であるかを知りたかったら、まずは小さな子どものようになることです。「最終的には自分だけが頼り」なんて寂しいことを言わないで、いつも天の父のことを思いながら生活し、事々に天の父にお願いすることです。

 パウロという人も、フィリピの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。私たちには、いつでもどんな時でも、困っていること、必要としていることを何でも打ち明けて、お話しすることのできる天のお父さんがいるのです。

 だから、私たちは天の父に何でもお願いすべきなのです。求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主は言われるのですから。問題は私たちが求めるべき方に求めないところにあるのです。お願いしないところにあるのです。私たちの身の回りの問題についても、この世の様々な問題についても、あれこれと論じているばかりで、あるいは他の人を責めるばかりで、私たち自身が一向に父なる神に真剣に求めようとはしない。祈ろうとしない。本当の問題は私たちの無力さにあるのではありません。努力が足りないということでもありません。信じて祈ろうとはしない。求めない。そこにこそ私たちの本当の問題があるのです。

 そして、さらに言うならば、イエス様が言っておられる「求めなさい」という言葉は、「求め続けなさい」という意味合いの言葉です。諦めないで祈り続けることです。失望することなく、倦むことなく祈り続けることです。

 イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを弟子たちに繰り返し教えられました。なぜでしょう。私たちは祈ることをやめてしまうことがあるからです。神様に向くこともやめてしまうことがあるからです。

 私たちには神様のなさる全てが見えているわけではありません。ですから私たちが願い求めても、神の御業は全く進んでいないように見える時があります。逆行しているかのように見える時もあります。神様のなさることが全くわからない時があります。しかし、そのようなことについて、イエス様は説明してはくださいません。ただ父を信頼して祈り続けるようにと教えられたのです。

探しなさい、たたきなさい
 それゆえにまた、イエス様はこう続けられました。「探しなさい。そうすれば、見つかる」。何か無くしたモノを探しなさいと言っているのではありません。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。「尋ね求める」のです。誰を尋ね求めるのでしょう。神様御自身です。

 かつて預言者エレミヤはこのように語りました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。

 私たちが祈ることをやめてしまう時、祈り続けることが困難になる時――それは、神様がどのような御方であるかが見えなくなっている時なのでしょう。ならば、「神に求める」とことは大事ですが、「神を求める」ことはもっと大事なことであるに違いありません。神様がどのような方であるかを知るために、神様を尋ね求めるのです。「わたしを尋ね求めるなら、あなたはわたしを見いだす」と神様は言われるのですから。

 イエス様は言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(9‐11節)と。

 イエス様は天の父がどのような方を知っておられました。子どもたちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父だということを。だから私たちもまた、その天の父を尋ね求めるのです。天の父を知ることを切に求めるのです。そうするならば「見いだす」と主は言ってくださったのです。

 さらにイエス様は言われました。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。求めること、探すことだけでなく、「門をたたきなさい」と主は言われます。門をたたくことは具体的な行動です。

 門は神様が開いてくださいます。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉を神様が開いてくださるのです。

 こちらのすべきことは、ただ、たたくことです。たたき続けることです。扉をこじ開けることができなくても、たたくことなら誰にでもできます。そのように、私たちは為し得ることを行うのです。勇気をもって具体的な小さな一歩を踏み出すのです。そして、諦めないで続けていくのです。たたき続けるのです。

 どんなに動かしがたく見えようとも、どんな重く大きな扉であっても、神様が開いてくださると信じるならば、私たちの無力さは問題ではありません。私たちに求められているのはただ門をたたくことなのだと知るならば、その具体的な行動に伴うのは苛立ちと焦燥感ではなくなるのでしょう。イエス様の御言葉によって門をたたく者に
与えられるのは期待と喜びです。

キリストの十字架によって
 そして、私たちは最後に、最も重要な事実に目を向けなくてはなりません。「求めなさい」と言われたイエス様は、自らを献げて十字架へと向かっておられたということです。

 「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエス様は言われました。これは本来驚くべき言葉なのです。どうして神様が私たちの「天の父」なのか。どうして「天の父」と呼べるのか。この地上において、神様をないがしろにし、御心に逆らって生きてきた私たちが、どうして恥ずかしげもなくその神様を「天の父」と呼べるのか。本来ならば、「良い物をくださるにちがいない」ではなくて、「あなたたちは自分自身の罪の報いを受けるに違いない」と言われても仕方がない私たちなのでしょう。

 そのような私たちが、安心して神を「天の父」と呼ぶことができるとするならば、それは一重にキリストが私たちの罪を贖ってくださったゆえなのです。そのキリストが言ってくださったのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」これはキリストの命の重さをもった言葉です。この御言葉をしっかり受け止めて、信じて祈り続ける私たちでありたいと思います。

2017年7月9日日曜日

「思い悩むな」

2017年7月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章25節~34節

思い悩むな
 「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」そう主は言われました。実際に空を飛び回る鳥たちを見ながら、野に咲き乱れる花々を見ながら、主はこの言葉を語られたのでしょう。その言葉だけを聞くならば、思い描かれるのは実にのどかな風景です。

 しかし、実際にはどうだったのでしょうか。恐らくは、のどかさと呼ぶにはほど遠い光景が目の前に広がっていたに違いありません。4章には次のように書かれていました。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:24‐25)。

 イエス様が語っているところに集まっていたのは、そのような群衆だったのです。多くの苦しみを負って生きてきた人たちです。たとえそこで病気が癒されたとしても、それで生活がすぐに楽になるわけではありません。まさに命のことで思い悩み、体のことで思い悩まざるを得なかった人たちなのです。生きていくことは苦しい。明日のことを考えると苦しい。今日も不安であり、明日を思えばさらに不安で一杯だ。そんな人たちが目の前にいるのです。

 もちろんそのような人々の中に弟子たちもいるのです。イエス様から「わたしについてきなさい」と言われて、網を捨ててイエス様に従ったペトロとアンデレもいるのです。同じように、漁師の舟を捨ててイエス様に従ったヤコブとヨハネもいるのです。彼らに生活上の不安がなかったかと言えば嘘になるでしょう。

 そのような人々を目の前にして主は言われるのです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

 主は思い悩んでいる人々に「思い悩むな」と言われます。私たちも同じような言葉を口にすることはあるかもしれません。「そんなに思い悩まなくても大丈夫だよ」「そう心配しなさんな。大丈夫だから」などなど。そうです、「大丈夫だから」と言うのです。

 しかし、そう言う時に、実際には何を根拠にそう言っているのでしょう。事情が変われば、そう言っていた人もまた心配で一杯になり、思い悩みで頭を抱えることにもなることを、本当は私たち自身分かっているのでしょう。未来は人の手の内になどない。そのことを嫌というほど身に染みて知っているのではありませんか。

 いざとなったら我が身一つどうすることもできない私たちなのです。ましてや他人様に「思い悩むな」などと言える者ではないのでしょう。そのような私たちが口にするのと、主が「思い悩むな」と言われるのでは意味合いが明らかに違うのです。その言葉はイエス様が口にするからこそ意味があるのです。なぜなら、イエス様は人々にそう語られるだけでなく、自らそのように生きておられたからです。

あなたがたの天の父は
 主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」(26節)。

 「空の鳥をよく見なさい」。実際に飛び回っている鳥たちを指さして主は語られたのでしょう。彼らもまた厳しい自然の中に生きています。その自然の中で鳥たちは種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。明日に備えるわけでもない。明日をも知れぬ命でありながら、鳥たちは少しも思い悩んでいるようには見えません。

 しかし、「だから、あの鳥たちのように生きなさい。鳥たちを模範にしなさい」と言われたら、少々反論もしたくなるかもしれません。鳥たちは確かに倉には入れないけれど、食料を巣に蓄える鳥もいるでしょうに。そもそも、鳥が思い悩んでいないって、どうして言えますか。もしかしたら明日のことを真剣に悩んでいるかも知れないではありませんか。

 実は、イエス様が本当に指し示したいのは鳥たちではないのです。鳥たちのように思い悩まないで生きろと言っているのではないのです。イエス様が指し示したいのは鳥ではなく天の父なのです。だから「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」という話はこう続くのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。これこそイエス様の仰りたいことなのです。

 それは衣服の話においてはもっと分かりやすくなっています。主は言われました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(28‐29節)。これはとっても分かりやすい。「花は思い悩んでいないでしょう。花を模範として生きなさい」と言いたいのではありません。

 明らかに重点は次に来る言葉にあります。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(30節)。本当に指し示したいのは花ではないのです。装ってくださる神なのです。そして、そのような神こそ先に主が言われた「あなたがたの天の父だ」ということなのです。

 そのように、イエス様は「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」と言いながら、その背後にいて養ってくださっている「天の父」、装ってくださる「天の父」を指し示すのです。そして、大事なことは、イエス様が「あなたがたの天の父」と語る前に、自らが神を「わたしの父」として生きておられた、ということなのです。「アッバ、父よ」と神を呼びながら、神の子として生きておられた。そのような親子の交わりの中に生きておられたのです。だからイエス様自身は、命のことで、体のことで思い悩む必要はなかったのです。

 その御方が「思い悩むな」と言われるのです。神の子であるイエス様が言われるのです。そのイエス様が「思い悩むな」と言われる時、それはイエス様が持っているものを分かち与えてくださるということを意味するのです。イエス様の持っておられた父との交わり、平和に満ちた父との交わりを私たちにも分かち与えてくださるということなのです。その意味における「思い悩むな」なのです。

 それゆえに、イエス様はあえて、「あなたがたの天の父は」と繰り返し語られるのです。あなたがたの天の父!なんと喜ばしい言葉でしょう。その一言に、私たちにとっての完全な救いが言い表されています。イエス様が「わたしの父」と呼んでおられた方を指して、「あなたがたの天の父は」と語ってくださるのです。

神の国と神の義を求めなさい
 先にも言いましたように、イエス様の目の前には、人生の厳しい現実の中を生きていた人々がいたのです。苦しみ、疲れ果て、思い悩んでいた人々がいたのです。しかし、彼らがその思い悩みから解放されるために必要なのは、彼らが追い求めていたものではないのです。

 食べ物のことで思い悩んでいたならば、食べ物さえ与えられれば、思い悩みから解放されるのに、と思うのでしょう。衣服のことで思い悩んでいた人は、着るものが十分に与えられれば、思い悩みから解放されるのに、と思うのでしょう。そのように、私たちもまた思い悩んでいる時に、「これさえあれば」と思っているものがあるのでしょう。しかし、そうではないのです。「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と主は言われるのです。本当に追い求めるべきものは別にあるということです。

 本当に必要なのは、イエスが持っていたものなのです。イエス様が見せてくださったものなのです。それはイエス様が「わたしの父よ」と呼んでおられた、天の父なる神との関係であり交わりなのです。だから、主は言われるのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」何を求めるべきなのか。それは「神の国と神の義」であると主は言われます。これこそイエス様が身をもって示してくださったことでした。

 「神の国」とは神が治めておられる救いの世界です。イエス様は神の国の到来を確信しておられました。救いの世界の到来を確信していました。いや、確信していただけではありません。人間の罪の織りなす悲惨な世界の中にありながら、既に神の国に生きておられたのです。思い悩みに満ちているこの世界のただ中で、神の国に生きておられたのです。父なる神との豊かな交わりの中に自ら生き、神の子として生きておられたとはそういうことです。そのような神の国をあなたがたもまず求めなさいと主は言われるのです。続く「神の義」はこの場合、「神の国」を言い換えたものと見てよいでしょう。

 そのように、神の国と神の義とを求めなさいと主は言われました。そうすれば、「これらのもの」すなわち、思い悩みの原因である目の前の必要はすべて「加えて与えられる」と言われるのです。これが正しい順番です。天の父と共に生きること。すなわち信仰によって神と共に生きること、それこそ第一に求めるべきことなのです。そのことをイエス様自らが見せてくださり、私たちにも求めるようにと言われたのです。

 そして最後に、私たちはこれらの言葉を語られたイエス様は、苦難の道を歩まれ、十字架へと向かっておられた方であるということを忘れてはなりません。「思い悩むな」という言葉も、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」という言葉も、これはキリストの命の重さを持った言葉なのです。

 イエス様の耐え忍ばれた苦難も、十字架において流された血も、注ぎ出された命も、すべては私たちが神を「私たちの父」として生きるようになるためでした。私たちがまず神の国を求めて、そして神の国を与えられるためでした。私たちに「あなたがたの天の父は」と語られた御方は、また、私たちが父の子として生きるために必要な全てを成し遂げるつもりでおられたのです。なぜなら、私たちが神の国に生きるためにはまず罪が赦されなくてはならないからです。キリストは苦難を受け、十字架にかかられ、私たちに罪の赦しをもたらしてくださったのです。

 その御方がここにおいても私たちに語っておられます。「思い悩むな」と。そう語られた御方は、その命をかけて御自身が持っておられたものを私たちに分かち与えてくださったのです。

2017年7月2日日曜日

「恵みを知った豊かな人に」

2017年7月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1節~15節

人間臭い話ですか?
 今日の第二朗読ではコリントの信徒への手紙(二)の8章が読まれました。この8章と9章には募金の話が書かれています。貧しいエルサレムの教会を助け支えるための募金です。もちろんパウロの内には、貧しいエルサレムの信徒たちを助けたいという熱烈な思いがあったことでしょう。しかし、実はこの募金にはもう一つの大きな目的がありました。この募金を通して、主にユダヤ人から成るエルサレムの教会と主に異邦人から成る各地の教会を結びつけることでした。異邦人伝道が始まって各地に教会が形成されるに当たり、諸教会が一つとなるためにこの募金は大きな意味を持っていたのです。

 そのような中、アカイア州の大都市であるコリントにある教会では、他の教会に先駆けていち早くこの募金が始まったようです。今日お読みした10節もこう書かれていました。「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました」(10節)。

 しかし、パウロはこう続けています。「だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです」(11節)。そこには「やり遂げなさい」と繰り返し語らざるを得ない事情があったようです。この手紙を読みますと、パウロとの関係に困難が生じていたこともわかります。いずれにせよ、募金活動は停滞していたのでしょう。8章から9章に渡る募金に関する長い記述は、そのような事情のもとに書かれたのです。

 そこでパウロはまず他の諸教会の話を持ち出します。マケドニア州の諸教会、すなわちフィリピの教会ややテサロニケの教会の話を始めるのです。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」(1‐4節)。

 「神の恵みについて知らせましょう」と言っていますが内容は募金の話です。実は4節で「慈善の業」と訳されているのも同じ「恵み」という言葉です。6節にも同じ「恵み」が出て来ます。なぜ「恵み」という言葉を用いているのかについては後で触れますが、それはともかく、激しい試練と極度の貧しさの中にあったマケドニアの諸教会においても募金が始まった話をパウロは書いています。そのようなマケドニアの諸教会が、強いられてではなく、自分から進んで「参加させて欲しい」としきりに願い出たという話を、コリントの教会にしているのです。

 実は、9章を読むと分かるのですが、パウロは逆のこともしているのです。マケドニアの諸教会にコリントの教会の話をしているのです。こう書かれています。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです」(9:2)。

 そして、さらにはこんなことまで書いています。「そうでないと(つまり、募金を完了して支援金の用意ができていないと)、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです」(同4節)。

 さて、このような話を読んでどう思いましたでしょうか。「募金」と言いましたけれど、これは教会の中での話しですから、意識としては当然神に献げる「献金」なのです。そのような「献金」を勧めるに当たって、他の人たちの熱心について語る。あるいは既に他の人に言ってしまった手前、できなかったら恥をかくことになるという話をする。どうも「献金」の話にしては、一面において、とても人間臭い話に思えなくもありません。

 しかし、パウロはそのような人間臭い話をするのです。つまり、そのような面を否定しないのです。確かに、募金にせよ献金にせよ、横を見ながら献げるという一面はあるのでしょう。実際、そうではありませんか。それでは純粋な献金にならない。そのようなものは偽善だ不純な行為だと言うこともできるのでしょう。しかし、パウロはそうは言いません。大まじめに他の人の話を持ち出すのです。

 ここでは募金の話ですが、それは募金や献金に留まらないのでしょう。人間の行うあらゆる善き行いについて言えるのだと思います。そこには他の人に影響されたり、あるいは他の人の姿に触発されて「わたしも!」と言って行ったりする面は必ずあるのでしょう。人間の行為である限り、人間の間の相互作用は必ずあるのです。パウロはそれが分かっている。私たちも認める必要があるのでしょう。

 だからこそ、大事なポイントをきっちりと押さえておく必要があるのです。パウロは一面において人間臭い勧め方するのですが、だからこそ大事なポイントを外さないのです。それが8章9節です。パウロはここでキリストについて語るのです。いささか唐突にも思えるような仕方で、しかしここではやはりキリストについて語っておく必要があるのです。

キリストの恵みを知っている
 パウロは言います。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。

 「主は豊かであったのに」とはどういうことでしょうか。イエス様が生まれたところは馬小屋でした。主が育った家庭は決して豊かではありませんでした。主が弟子たちとともに宣教の働きをしていたときでさえ、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言っていました。この世的に見るかぎり、主が豊かであったことは一度もありませんでした。それでもなお、聖書は「主は豊かであった」と語るのです。

 なぜでしょう。聖書はキリストの生涯を馬小屋から始まったものと見てはいないからです。その前があるのです。主は父なる神と共におられた御子なる神なのです。御子なる神があえて天の栄光を捨てて貧しくなり、この世に来られたのです。ですから、「貧しくなった」というのは、単にこの世において貧しい生活をされたという意味ではないのです。神が人間になられたということです。人間となられてこの世に来られるということは、神にとって究極の貧しさを意味するのです。

 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。その意味するところは、フィリピの信徒への手紙に次のように言い表されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6‐8)。

 これは当時の讃美歌だと言われます。コリントの信徒たちが知っていたなら、パウロの言葉を聞いてきっとピンときたに違いありません。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とはこういうことだと。

 キリストにとって人間となるということは究極の貧しさを意味すると申しました。それは人間としての様々な制約のもとに置かれるということだけではありません。人間となることの貧しさは、人間が罪ある存在だということに関わっているのです。

 聖書は人間の罪を借金に喩えて語ります(マタイ18:23以下)。私たちは皆、償いきれないものを負っているのです。償いきれない罪の数々を神に対しても人に対しても負っているのです。それは返済しきれない借金を負っているようなものなのです。人間であるとはそういうことなのです。

 キリストはこの世に来られ、そのような人間の一人になられました。キリストは罪のない方ですから唯一負債のない人間であったと言えるでしょう。しかし、そのキリストが私たちすべての人間の罪を代わりに負ってくださったのです。「十字架の死に至るまで」と語られていたのは、まさにそのことです。キリストは私たちの負債を代わりに負って死なれたのです。そこまで貧しくなってくださった。それは私たちのためでした。だから「あなたがたのために貧しくなられた」と語られているのです。

 それは私たちが罪を赦され、救われるためでした。罪を赦された者として神の子供たちとして生き、神の国を受け継ぐ者とされるためだったのです。それは私たちの考え得る究極の豊かさです。それは私たちにとって計り知れないほどに豊かな者となることを意味するのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。

 これが「主イエス・キリストの恵み」です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」とパウロは言います。そうです、コリントの人たちはこの恵みを知っていたはずです。ここにいる私たちもまた知っているはずです。それがここに語られているすべての大前提なのです。

 すべての善き業はそこから始まるのです。募金も献金もそうです。まずはキリストの恵みに目を向け、その恵みによって生きることです。パウロが紹介していたマケドニアの諸教会の募金活動の源もそこにあったのです。それは恵みから生まれたものです。だから「神の恵みについて知らせましょう」と語るのです。そして、先ほど申しましたとおり、「慈善の業」を意味するものとして「恵み」という言葉を用いるのです。あえてパウロは「恵み」と表現しているのです。それは恵みから生まれたものであり、その恵みに応えて募金できること自体が「恵み」だからです。

 実際この箇所を改めて読むと不思議な書き方がされていましたでしょう。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(1節)。このようなことが実際に起こってくる。それは「恵み」だからです。

 私たちの献げ物にしても、横を見て献げるという面もある。他の人に触発されてということもある。それはそれでよいのです。自分のことにしても、他の人のことにしても、それを不純であるとして否定する必要はありません。しかし、だからこそキリストの恵みからは目をそらしてはならないのです。その一点だけは外してはなりません。主は私たちのために何をしてくださったのか。私たちは何ものとされているのか。そのことさえ私たちが忘れていない限り「キリストの恵み」を忘れていない限り、私たちの極めて人間臭い行為もまた、キリストの恵みから生じた、キリストの恵みの現れとなるのです。

2017年6月25日日曜日

「不平を言わず、輝く人に」

2017年6月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

救いを達成するよう努めなさい
 今日はフィリピの信徒への手紙をお読みしました。これはパウロが獄中から書いた手紙です。さらに言うならば、獄中において殉教の死を覚悟したパウロが書いた手紙です。そのようなパウロの意識が比喩的な表現ではありますが、先ほど読まれた箇所に書かれていました。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17‐18節)。一度耳にしたら忘れることができないような強烈な表現です。殉教を覚悟したパウロは言うのです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。

 さて、そのようなパウロが今日の聖書箇所においてこのように勧めていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。

 「救いを達成するように努めなさい」とパウロは言います。パウロの姿を思う時、その意味するところは明らかです。最後まで信仰を全うしなさいということでしょう。迫害の中にあっても、諸々の試練の中にあっても、最後まで信仰を全うしなさいということです。最終的に死に直面するところにおいても、最後まで信仰を全うしなさいということです。しかも、神に信頼して、喜びをもって信仰を全うしなさいということです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」とパウロが言ったように。

 実際、パウロを失うことはフィリピの人たちにとって、どれほど大きな悲しみであるかと思うのです。「なんでこんなことに・・・」と心揺さぶられることでもあるのでしょう。しかし、そこでパウロは「わたしと一緒に喜びなさい」と言うのです。パウロが最後まで信仰を全うしようとしているように、彼らにも喜びをもって最後まで信仰に生きて欲しいのです。

 それはパウロが望んでいるだけではありません。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)と書かれています。神が私たちの内に働いておられるのです。その神が救いの望みを与えてくださったのです。神御自身が救いを達成させようとしていてくださるのです。神御自身が最終的に完全な救いを与えようとしていてくださるのです。そうです、神が救いを与えようとしていてくださるのです。

 だからパウロは「救いを達成するように努めなさい」と語ると共に、神への従順について語るのです。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。

 従順であるとは信頼して従うことです。何があったとしても信頼して従うことです。どこまでも信頼して従っていくことです。それはあくまでも神との関係においてです。神に信頼して従うのです。そこでパウロが一緒にいるかいないかは本来関係ないのです。ですから「わたしが共にいるときだけでなく」とパウロは言うのです。神への信頼と従順は人に左右されるべきものではないのです。

 先ほど見てきたように、それは最終的にはパウロがこの世にいなくなっても、ということでさえあるのです。それでもなお彼らは信仰によって生きていくのです。神に信頼し、パウロと一緒に喜びをもって、最後まで信仰を全うするのです。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するよう努める」とはそういうことです。

不安や理屈を言わずに行いなさい
 ですからそこではまた、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)と勧められているのです。神に従順であるとは、具体的にはこういうことだからです。そのように書かれているのは、この世に生きている限り、不平を言いたくなることはいくらでもあるからでしょう。人生には不平を言いたくなるようなことがいくらでもあるからでしょう。理不尽に思えることはいくらでもあるのでしょう。

 そのような時、神様が間違っているように見えることもあるのでしょう。それこそこの世を生きる時に、神を信じないための理屈、神に従わないための理屈を並べようと思えば、いくらでも並べることができるのかもしれません。しかし、そこでなお神に信頼するのです。どこまでも神に信頼して従っていくのです。諸々の試練の中にあっても、最後まで信仰を全うするとはそういうことです。

 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とパウロが言った時、恐らくパウロの心の中にあったのは旧約聖書の書かれているイスラエルの物語であったと思われます。それは出エジプト記と民数記に出てくる物語です。出エジプトの出来事と荒野の旅に関する物語です。

 イスラエルはかつてエジプトにおける奴隷でした。そのような奴隷の民が苦しみの中から神に向かって叫んだ時、神は奴隷であったイスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。神が葦の海を二つに分けてその間を歩かせられたという物語は、この救いがただ一重に神の恵みによるものだったことを示しています。それゆえに、この葦の海の奇跡は、洗礼を予表する出来事でもありました。

 そのように神の恵みによって救われた民は、神の恵みに感謝しつつ、約束の地に向かって旅をすることとなったのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれての旅でした。それは神様が共におられることのしるしでした。主が共におられるゆえ、それは確実に約束の地に向かう旅であったのです。ただ彼らに求められていたのは信頼して従っていくことでした。それこそが彼らに与えられた救いを達成することだったのです。

 しかし、聖書はなんと語っているでしょうか。彼らがすぐに不平を言い始めたことを私たちに伝えているのです。彼らは、水がない、食べ物がないと言ってつぶやき始めたのです。彼らを救ってくださった御方が真実であることを信じなかったのです。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出16:3)。

 彼らは救いの恵みを忘れて、彼らの古い生活、エジプトの肉鍋を懐かしんでいるのです。彼らは繰り返しこのように不平を言いました。そしてついには、「エジプトに引き返した方がましだ」(民13:3)とまで言い出したのです。そのようなイスラエルの不信仰と不従順を思いながら、パウロは言うのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と。

星のように輝いて
 そして、さらに彼は言います。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16節)。

 「不平や理屈を言わずに」という言葉はある意味では身近な言葉でよく分かります。しかし、続くこの言葉は、どちらかと言えば、はるか遠くに見える山の頂きのように見えなくもありません。「とがめられるところのない清い者となり」とか「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として」という言葉を聞くと、いったいそこにたどり着くことなどできるのか、と思えなくもありません。

 しかし、それが遠くに見えたとしても、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」という言葉には憧れを覚えます。よこしまな曲がった時代の中で、この世の暗さについて語るだけでなく、そこで小さくても星のように光輝く者でありたい。そして、はっきりしていることは、不平をブツブツつぶやきながら光輝いて生きることはあり得ないということでしょう。どんなに遠くに見えても、やはりここから始まるのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。

 実際、私たちはここに、かつてよこしまな曲がった時代の中で、世にあって星のように輝いて生きた人の言葉を読んでいるのです。獄中にあって、ありとあらゆる制約を課せられて、もはや何ができるわけでもない。しかし、その人は確かに命の言葉をしっかり保っているのです。彼はどんな苦しみの中にあっても神への信頼を失わない。神から離れてしまわない。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と彼は言うのです。最後まで信仰を全うし、自分の救いを達成するように努めている彼は、確かに世にあって星のように輝いていたのでしょう。その人の言葉を通して、神はここにいる私たちにも語りかけていてくださるのです。「自分の救いを達成するように努めなさい」と。

2017年6月18日日曜日

「神は遠く離れてはおられません」

2017年6月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 17章22節~27節

知られざる神に
 今日の第二朗読は、アテネにおいて語られたパウロの説教でした。それはアレオパゴスにおいて語られたものです。「アレオパゴス」とはアテネにある一つの丘の名前です。しかし、この場合はそこにあった評議所、すなわちアテネ最古の裁判と会議の場所を指しています。パウロはそのような場所に連れて行かれることとなりました。その経緯を簡単にお話ししますと、こういうことです。

 それはパウロの2回目の宣教旅行の途上での出来事でした。当初、パウロはアテネでの宣教は予定していませんでした。パウロがアテネに滞在したのは、後から来るシラスとテモテと落ち合うためでした。

 しかし、二人を待っている間に、パウロはその町の至るところに偶像があるのを目にします。その夥しい数は、当時、人の数よりも神々の数の方が多いとさえ言われたほどです。パウロはそれを見て心を動かされます。彼はアテネにおいてイエスとその復活とを宣べ伝え始めました。安息日にはユダヤ人の会堂において人々と論じ、他の日には広場で居合わせた人々と論じ合うこととなりました。

 パウロと討論をしていたエピクロス派やストア派の哲学者たちの中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた、と書かれています。「おしゃべり」と訳されているのはクズ拾いを意味するような極めて侮蔑的な言葉です。そのような人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行ったわけです。

 その際に、彼らはこう言ったと書かれています。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19‐20節)。しかし、状況的に考えて、純粋に興味関心から話を聞こうというのでないことは明らかです。パウロはそこに好意的に迎えられたわけではないのです。恐らくパウロは尋問されるためにアレオパゴスに連れて行かれたのです。新しい宗教や哲学が入ってくるのを監督するのはアレオパゴスの議員の権限であり責任でもあったからです。

 そのようなアレオパゴスの真ん中に立つこととなったパウロは口を開き語り出しました。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22‐23節)。

 先にも触れましたように、アテネの町には夥しい数の偶像がありました。それは一面において、アテネの人たちの信心深さを表していると言えるでしょう。彼らは極めて宗教的な人々でした。パウロはそのことに敬意を払いつつ語り始めます。しかし、すぐに問題の核心に迫ることになります。「知られざる神に」と刻まれている祭壇に言及することによって、彼らの信心深さの中に存在する問題を取り上げることになるのです。

 そもそも、なぜ「知られざる神に」と刻まれているような奇妙な祭壇が存在するのでしょう。そのような祭壇が存在し得るのでしょう。人々にとって、そこで拝まれているのが誰であるかは、さして重要なことではないからです。礼拝において祈っている相手を知ることは、大して重要なことではないからです。

 「知られざる神に」という祭壇が造られた背景には一説によれば紀元前六世紀に流行した疫病があるとも言われます。確かにそれは考えられることです。人間が神々を祭るとき、当然のことながら、そこには神々にして欲しいことがあるわけです。叶えて欲しい願望がある。また、その一方において、しては欲しくないこともある。免れさせて欲しい災いがある。そういうものでしょう。願望と恐れです。

 人間の願望が多岐にわたるなら、それを満たしてくれる神々の数も当然増えていきます。一つの災いが起こった。その災いが二度と起こらないように神を祭るとするならば、災いの数だけ神々の数も増えていくことになります。

 そこで必ずしもどの神に願って良いか分からないことも起こるのでしょう。ならばとりあえず「知られざる神に」願っておくのがよいでしょう。目的とすることが欲求の満たしと災いの回避しかないならば、それを実現してくれるのは別に誰であってもよいのですから。

 そのように、「何を得られるか」ということにしか関心がないならば、別に「知られざる神」でもよいのです。もし仮に神ではなくて人間でもそれを実現してくれるのであれば、別に神でなくてもよいことにもなります。「知られざる神に」という祭壇が意味しているのはそういうことです。

わたしはお知らせしましょう
 しかし、パウロはそこでこう語るのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。

 「お知らせしましょう」。パウロはそう言いました。それはアテネの人たちにとっては余計なお世話とも言えます。欲求の満たしと災いの回避については「知られざる神」で事足りているわけですから。「何を得られるか」ということについては、夥しい数の神々でもう十分なのですから。

 しかし、それでもなおパウロは「お知らせしましょう」と言うのです。ある意味では、そのために危険な宣教旅行を続けてきたとも言えます。命をかけて「お知らせしましょう」を続けてきたのです。

 それはなぜなのか。神が望んでおられるからです。神は知られることを望んでおられる神だからです。神は知られることを望んで、独り子さえもこの世界に送られる神であるからです。そのようなことをすれば罪ある人間によって十字架にかけられてしまうことも承知の上で、あえて自らを啓示するために御子を遣わされる神だからです。パウロはそのことを知るゆえに宣教旅行を続けてきたのです。

 ですからここでも「お知らせしましょう」とパウロは言って、こう続けます。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24‐25節)。

 先に触れましたように、パウロについては「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていたのです。そのような人たちが、パウロをアレオパゴスに立たせたのです。同じようにこの国においても、かつて宣教師たちは言われたのでしょう。「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と。

 しかし、そうではないのです。この国の神も外国の神もないのです。神は世界とその中の万物とを造られた神だからです。神は天地の主なのです。だからユダヤ人である彼がアテネのギリシア人にまで、このことを語るのです。命と息と、その他すべてのものを与えられていることについては、ユダヤ人もギリシア人もないからです。

 さらにパウロは続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。命を吹き入れられた多くの民族は、同じ神によって導かれ、定められた季節と定められた居住地の中に生かされているのです。神はすべての民族にかかわって治めていてくださる。それは何のためなのか。パウロは言います。「人に神を求めさせるためだ」と。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。そのようにパウロは語るのです。

 そのように神は知られることを望んでおられる神です。見いだされることを望んでおられる神なのです。人間が知らなくても、求めていなくても、神は命と息と、その他すべてのものを与えてくださっているのでしょう。私たちが生きていられるのは、すべて神から与えられるものによってなのでしょう。人はいただくものさえいただければ、それで十分と言うかもしれません。「知られざる神に」でも良いのです、と。しかし、神にとっては良くないのです。それはなぜでしょうか。神は愛によって世界を創造し、人間を創造されたからです。共に生きるために創造されたからです。ですから、神は与えるだけでなく、私たちと共に生きることを望んでおられるのです。永遠に共に生きることを望んでおられるのです。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神はそのような神です。探し求めさえすれば、神を見いだすことができるのです。


 さて、ここからは私たちの話です。パウロがアテネで目にしたのは「知られざる神に」と刻まれた祭壇でした。この礼拝堂に集められている私たちは今どのような祭壇に向かっているのでしょう。私たちが向かうべき祭壇はキリストが屠られたあの祭壇なのでしょう。愛なる神が御自身を完全に表された、あの祭壇なのでしょう。

 しかし、そこに向かっているはずの私たちが、いつの間にか「知られざる神に」という祭壇に向かって礼拝していることはあり得ることなのかもしれません。願っていることが叶うか、災いを免れることができるか、要するに「何を得られるか」ということにしか関心が向いていないということはあり得ることかもしれません。いったいどのような御方を礼拝しているのか、どのような御方に祈っているのかということには関心がないし、実際知ろうともしていない。「知られざる神に」ということで良しとしているということは、あり得ることかもしれません。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神は私たちと永遠に共に生きるために、私たちに知られることを望んでいてくださいます。主を知ることを切に求める熱心が私たちにも与えられますように。 

2017年6月11日日曜日

「休ませてあげよう」

2017年6月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 11章25節~30節 

休ませてあげよう
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。今日読まれましたイエス・キリストの言葉です。

 「疲れた者」と書かれていました。これは「労苦している者」という意味の言葉です。労苦を厭わず、力を尽くして、精一杯頑張って、やるだけやってきました。しかし、重荷を負うつもりではあるものの、負わなくてはならないと分かっているものの、もう疲れ果ててしまいました。ここに呼びかけられているのは、そのような意味での「疲れた者」です。

 また「重荷を負う者」とも書かれていました。これは正確には「重荷を負わされている者」です。受け身で書かれているのです。自ら望んだわけではありません。自分がそうすることを選んだわけでもない。しかし、否応なしに重荷を負わされました。そんな重荷というものが確かにあるものです。負わされた、強制されたと思えば思うほど辛くなる。「なんで私が!」と思えば思うほどに、重荷は重くのしかかってくるのでしょう。「重荷を負う者、負わされている者」とはそういう人々です。

 そのような「疲れた者、重荷を負う者」にイエス様は呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 考えてみれば驚くべき言葉です。「だれでもわたしのもとに来なさい」などと、普通は言わないし、言えません。しかも、原文では「《わたしが》休ませてあげよう」と、「わたし」が強調された形で書かれているのです。

 そのような言葉をイエス様は口にされるのです。そして、その言葉が残ったのです。いい加減な言葉だったら残りません。現実と結び着いていなかったら残りません。この言葉が弟子たちの心に残って伝えられたということは、要するに「本当にそうだ」と弟子たちが思ったということでしょう。どんな重荷を負う人であっても、負わされている人であっても、この方のもとで休みを得ることができる。本当の安らぎを得ることができる、と。

 そのように、この言葉は語っている「イエス・キリスト」という存在と切り離すことができないのです。イエス様が言われるからこそ意味があるのです。では、イエス様はどうしてこのような言葉を口にすることができたのでしょう。

 その直前にはこう書かれています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。そこに言い表されているのは父と子の関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。

 「父のほかに子を知る者はない」と主は言われました。確かにそれが現実だったのでしょう。そこにはある意味でキリストの深い孤独が言い表されています。

 一方において、多くの人々がイエス様を追い求めました。ある人々は病気を癒してくれるミラクル・ヒーラーを求めてイエスについてきました。ある人々は政治的な解放者を求めてイエスについてきました。そして、もう一方において多くの人々がイエスに敵対しました。ある者は妬みから、ある者は恐れから、ある者は怒りをもってイエスに敵対しました。

 イエスを追い求める人々も、敵対する人々も、そこで語っている方が誰であるかを本当の意味は知らない。弟子たちも知らない。イエス様は誰にも理解されなかったのです。主は言われます。「父のほかに子を知る者はない」。

 その悲しみは、イエス様の言葉にも表れています。今日の聖書箇所ではありませんが、20節以下にはこのようなことが書かれているのです。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない』」(20‐21節)。

 数多くの奇跡が行われたのでしょう。多くの病人が癒されたに違いない。しかし、コラジンの人々もベトサイダの人々も、悔い改めて神に立ち帰ることはなかったのです。彼らに語っていたのは、父なる神からすべてを任された御子であることを彼らは認めることはありませんでした。

 そこでイエス様が「叱った」と書かれていますが、内容は深い嘆きです。イエス様は「お前は不幸だ」と言っているのです。そう言わざるを得ないイエス様の嘆きです。また、そう言わざるを得ない時点で、イエス様のそれまでの宣教の労苦は無駄に終わったように見えなくもありません。

 しかし、驚いたことに、そこでイエス様は父なる神をたたえるのです。そこからが今日の聖書箇所です。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます』」と。これは「完全に同意します」という意味合いの言葉でもあります。無駄に終わったように見える宣教の働きの中に、それでもなお父がなさっていることがある。そのような父を知るゆえに、父のなさることに同意し、父をたたえるのです。

 「父のほかに子を知る者はない」。確かにそうなのです。そのような御子として、やがては人々に捨てられ、弟子たちにも逃げられ、十字架にかけられて死んでゆくことになるのです。しかし、それでもなお父には知られているのです。そして、その父を子もまた知っている。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と主は言われました。そこに言い表されているのは、父と子との関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。

 そのような父と子との関わりに生きていたイエス様が言われるのです。そのようなイエス様だからこそこう言われるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。

 「休ませてあげよう」――どのようにして?自分がいるところに招くことによってです。天地の主である方を「父よ」と呼ぶ、その交わりの中に招くことによってです。イエス様御自身が休みを得ていた、その交わりの中に招くことによってです。だから「わたしのもとに来なさい」と主は言われるのです。そのようにして、父を知るのは子だけでなくなるのです。「子が示そうと思う者」もまた父を知ることになるのです。

わたしの軛を負いなさい
 そのように主は私たちをも招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。そのようにして私たちはイエス様のもとに来て、「天にまします我らの父よ」と祈る集まりに身を置いているのです。

 しかし、主は「休ませてあげよう」と言われたのであって、「重荷を取り去ってあげよう」と言われたのではありませんでした。もちろん、「休ませてあげよう」には重荷を降ろすことも含まれてはいるのでしょう。私たちは主のもとに来て、降ろすことができる重荷はあります。少なくとも、罪の重荷は降ろすことができます。また私たちの思い煩いという重荷も主のもとに降ろしなさいと言われている。そのように私たちが降ろすことのできる重荷、降ろすべき重荷はあります。しかし、それでもなお負わなくてはならない重荷は残るのです。主は「休ませてあげよう」と言われたのです。

 それゆえに主は「休ませてあげよう」と言われた後、さらにこう続けるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(29‐30節)。そこでは軛について語られ、負うべき荷物について語られているのです。

 「軛」とは二頭の牛をつなげる道具です。同じくびきを負った二頭は共に荷を負い、共に働くことになるのです。そのようにイエス様は「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。イエス様のもとに来て、父との交わりに入れられた人は、そこでイエス様と同じくびきを負って歩き出すのです。そこではイエス様への従順が求められます。つながれているのですから。

 ここで「軛」について語られているということは、なおそこに負うべき荷物があることを意味します。私たちは休みを与えられてなお負うべき荷物はあるのです。しかし、それは「わたしの荷」とイエス様によって呼ばれています。それは今まで負ってきた重荷と同じものかもしれません。しかし、意味合いが違うのです。それは主につながれている者として、主に学ぶものとして、主と共に負っていく、主にとっての「わたしの荷」なのです。

 主は言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(30節)。負っているのは主の軛だから、そして重荷は主の重荷だから、そこからまた背負って歩み出すことができる。主の言葉が真実であることを代々の信仰者は経験してきたのです。だから私たちにも伝えられています。同じ御言葉が、ここにいる私たちにも語られているのです。

2017年6月4日日曜日

「それは突然はじまった」

2017年6月4日 聖霊降臨祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~11節

神のお働きに心を向けよう
 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)です。毎年この日には使徒言行録2章が読まれます。教会がどのように誕生し、その宣教の歴史がどのようにスタートしたかを伝える聖書箇所です。もう一度お読みします。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 実に奇妙な描写です。しかし、代々の教会はこの奇妙な物語を毎年繰り返し朗読しながら聖霊降臨祭を祝ってきたのです。それはなぜでしょう。それはこの物語に耳を傾けて、繰り返し思い出さなくてはならないことがあるからです。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」ということです。私たちが、まず人間がすることにではなく、まず神のお働きに思いを向けるようにと、この出来事は伝えられているのです。

 先ほどの聖書箇所を御覧ください。2節に「突然」と書かれています。それは「突然」始まったのです。つまり人間が考えて、人間が計画して、人間が準備して実現したことではない、ということです。

 続いて、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。「ような」という言葉は大事です。あくまでもその「ような」音なのであって、私たちが日常に経験する「激しい風」とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。それは、単に方向を言っているのではありません。この世界の中からではなくて、向こうから、神から来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある「炎」でもなければ「舌」でもありません。

 これらすべての表現は、この出来事が向こうから到来したことを示しています。こちらが引き起こしたのではない。人間が教会を生み出したのではないし、人間が宣教を開始したのでもないのです。教会は、誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったのではないのです。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結して教会を作ったというのでもない。共通の課題や共通の敵に対して一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもないのです。

 既に見たように、ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのものです。この風はこの世の思想の風でもないし、この炎は人間が煽って燃え上がる熱狂や情熱でもありません。そんなものとは全く関係なく教会は誕生し、教会の働きは開始したのです。

 だから代々の教会は、教会の全ての営みにおいても、天からの出来事、聖霊による出来事が起こっていると信じてきたのです。

 例えば、この後に洗礼式があります。水を用意することも、水をかけることも人間がすることです。しかし、もし洗礼式が単に人間が行うことであり、この世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。洗礼を受ける人は、水をかけられて冷たい思いをするだけです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。

 迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こるからです。神の霊による出来事が起こるからです。そこで人はキリストと一つになり、キリストによる罪の贖いにあずかり、キリストと共に死んで新しく生まれるのです。そこに天からの出来事、神による目に見えない出来事が起こるのです。

 その後の聖餐も同じです。小さなパンのかけらと小さなカップが分けられます。パンとぶどう汁を用意することも、それを分け与えることも人間がすることです。この世のことです。もし聖餐式がこの世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。

 途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。なぜなら、単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こる。神の霊による出来事が起こる。私たちがパンを目で見、この舌で味わい、食べて内に入るように、それほど確かに、キリストの十字架による罪の贖いの恵みに私たちは繰り返し与るのです。またパンがこの肉体の命を養うように、キリストの体と血とにあずかって、永遠の命の養いを受けるのです。

 いや、特に洗礼と聖餐だけに限りません。この礼拝そのものが既に神の御業なのです。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしている。毎日辛い目に遭っている人であっても日曜日にはここに来て神を誉めたたえる。当たり前のことですか。しかも、もともと全く違うところにいた私たちが、全く違うように生きてきた私たちが、今、こうして心を合わせて礼拝を捧げている。当たり前のことですか。そうではありません。そこで既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神の大きなお働きのただ中にいるのです。

神のお働きのために用いていただこう
 今年もこの奇妙な物語が読み上げられました。私たちはこれを聞いて、まず神のお働きに思いを向けてきました。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」と。

 その上で、今度は「人間」に思いを向けることにしましょう。そこには「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たことや「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たことだけが書かれていたのではありません。さらに次のように書かれていたのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。

 聖霊に満たされたのは人間です。ほかの国々の言葉で話しているのも人間です。わたしや皆さんと同じ人間です。この物語は明らかに人間についても語っているのです。「聖霊に満たされた」人間についてです。

 「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)などと意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。

 怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともある。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。

 満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことです。神の愛によって動かされる、すべての人を救いたいという神の思いによって動かされる。この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れる。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということです。

 「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。

 考えて見れば不思議なことです。この世界を救うならば、神様が直接なさった方がよいのではないでしょうか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。

 ところが、どうも神様はそのようなことを望んではおられないようです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられる。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。

 そのようにして、この下北沢に教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、いますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。

 聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、支配されて、人生を使われてしまうのは悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の救いを運ぶ器とならせていただきましょう。

2017年5月28日日曜日

「平和のきずなで結ばれて」 

2017年5月28
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節

神から招かれたのですから
 今日の聖書箇所には「神から招かれたのですから」と書かれていました。そのように聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。

 教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。思い起こしてみてください。それらは私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあって、初めて実現したことです。それらはすべて向こうからやってきたものです。

 向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださった。そうして、私たちは集められたのです。ですからそのような集まりは初めの頃から「エクレーシア」と呼ばれていました。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味です。神に呼び集められた共同体、それが教会です。

 神が私たちを集めたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性です。本来ならば、そちらの方の可能性が高いとも言えます。

 しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。神からの断罪の言葉ではなく、神に呼び集められて、赦しの言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたのです。

 「神から招かれたのですから」。私たちを招き、呼び集めてくださったのは、イエス・キリストの神でした。私たちを救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神でした。私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださいました。それゆえに、今、私たちはここにいるのです。

ふさわしく歩みなさい
 そのように、聖書は「神の招き」について語ります。ならば、そこには「招かれた者」としてのふさわしい生活があるはずです。それゆえに「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。

 「神の招きにふさわしい歩み」とはどのような生活を意味するのでしょう。神に招かれ、救いの恵みにあずかった人々に、神どのような生活を期待しておられるのでしょうか。先ほどの言葉はこう続くのです。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1‐3節)。

 神が望んでおられるのは、神に招かれた者たちが一つになることです。単に個々の人間がそれぞれ優れた徳を身に着けることを望んでおられるのではありません。一つになることです。ですから、パウロは「一つ」という言葉を連呼するのです。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4節)。「体」とはこの場合、教会のことです。私たちは神に招かれた者として、一つの希望、神の国の希望を共有しているのです。

 さらに続けます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(5‐6節)。

 そのように神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。引き裂かれたこの世界のただ中で、分かれ争い憎み合っているこの世界のただ中で、招かれた私たちが一つになることです。そのようにして神の国を指し示すしるしとなることです。

 そこで大事になってくるのが「一切高ぶることなく、柔和で・・・」と続く部分なのです。「高ぶることなく」と訳されているのは「謙遜」という意味の言葉です。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。これらはすべて人と人との関わりに関係しています。招かれ、呼び集められた者たちが一つとなるために必要とされるものなのです。

 そして、それらはすべて「こちら側」のことなのです。人と人とが一つになれない時、私たちは相手側を問題にしてしまうものでしょう。他者を問題にしてしまうものでしょう。しかし、まず省みなくてはならないのは自分自身なのです。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。他者がどうであるかではなく、まずはこちら側のことなのです。

 その上で「共に」ということが語られます。「平和のきずなで結ばれて」。この「きずな」というのは「共に結びつけるもの」という意味の言葉です。きずなというのは自分一人が結ばれていても意味がありません。共に結ばれてこそ「一つにする」という意味を持つのです。

 共に結びつける「平和のきずな」は自分たちが造り出したものではありません。それは与えられたものです。「神から招かれたのですから」。そのように神から招かれて、与えられたのはキリストでした。

 キリストこそが、私たちに与えられた「平和のきずな」です。最初の弟子たちが、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたとき、復活したイエス様が真ん中に立ってこう言われました。「あなたがたに平和があるように」。そして、聖書にはこう書かれているのです。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20:20)。手とわき腹には傷跡があるのです。十字架にかけられた傷跡があるのです。十字架にかけられたキリストこそが、私たちの平和です。私たちに与えられた「平和のきずな」です。

 私たちは、あの御方の十字架のゆえに罪を赦され、あの御方によって共に結びあわされているのです。ならば大事なのは、私たちそれぞれが平和のきずなであるイエス様にしっかりとつながって生きていることでしょう。そうあってこそ、「霊による一致を保つ」ことができるのです。それは神の霊による一致です。 

異なる者たちが信仰において一つに
 そのように、神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。それが神の招きにふさわしく歩むということです。そして、既に述べたように、それは平和のきずなで結ばれた、神の霊による一致です。人為的に造り出されたような全体主義的な一致ではありません。多様性が否定され、皆が同じであることを強要され、個が全体の中に解消されてしまうような一致ではありません。

 ですからパウロはさらにこう続けるのです。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。今度は「一人一人」の話が出てくるのです。

 一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものです。いずれにせよ、ここで言いたい最も大事なことは、主が異なる働きを各自に与えているということです。

 私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。与えられている賜物が異なるのは、務めが異なるからなのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありませんし、他の人に同じことを同じようにすることを要求してはならないのです。大事なことは、12節にあるように、互いに異なる者が一緒に「キリストの体を造り上げ」ていくことなのです。

 パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。

 それはどのように造り上げられていくのでしょう。今年の年度聖句は今日の聖書箇所から取られました。毎週の週報に書かれています。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。

 私たちは「神から招かれました」。そして、これが招きにふさわしく歩んで一つとなっていくという具体的な姿です。キリストにあって、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされるとは私たちそれぞれにとって何を意味するのか。おのおのの部分が分に応じて働いて体を成長させるということは、この教会にとってどのようなことなのか。自ら愛によって造り上げられていく教会とはいかなる教会であるのか。この課題に今年度じっくり取り組んでいきたいと思います。

2017年5月21日日曜日

「天にまします我らの父よ」

2017年5月21
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章5節~15節

奥まった部屋に入りなさい
 今日の福音書朗読はイエス様が祈りについて教えてくださった箇所です。主は言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(5節)。

 ユダヤ人の祈りは基本的に定型文を唱えるという形で行われます。そのような定まった祈りの中に「シェモネ・エスレ」という祈りの言葉があります。「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神・・・・」という呼びかけから始まります。両手を挙げ、立って祈ります。その祈りは日に三回、定まった時間に唱えられることになっていました。

 ユダヤ人にとって、祈りの立ち姿は敬虔さの証しでもありました。ですから、祈りの時間にちょうど人が集まっている会堂にいること、あるいは大通りの角にいることを好む人も出て来ます。自分が経験なユダヤ教徒であることを人々に示すことができるからです。

 そのような人々をイエス様は「偽善者」と呼びました。もっとも「偽善者」というのは意訳です。もともとは「役者」を意味する言葉です。役者は人々に見せるために舞台に立ち、人々の拍手によって報われます。敬虔さを示すために祈るなら、賞賛された時点で目的は達せられたことになります。だからイエス様は言われるのです。「彼らは既に報いを受けている」と。

 しかし、それでは祈りにはなりません。主は言われます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6節)。

 もちろん、イエス様はこの言葉をもって、「共に祈ること」を否定しているわけではありません。後にイエス様はこのように語っておられます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(20:22)。イエス様が教えてくださった「主の祈り」においても、私たちは「天にまします《われらの》父よ」と祈るように教えられているのです。

 しかし、ここではあえて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言うのです。つまり「隠れなさい」ということです。ここで大事なことは何でしょう。「人の目から自由になること」です。実は、この話はそもそも次のような言葉から始まっていたのです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)。

 人の目ばかりを気にして、人の言葉と評価に振り回されて生きることは実に不自由なことです。それは私たちもある程度経験して知っています。特に、イエス様が生きていたのはユダヤ人の戒律社会でしたから、なおさらです。戒律が支配している社会というものは監視社会でもあります。互いの目が非常に厳しい社会です。人は他の人を厳しい目で見ます。すると、今度は自分がどう見られているかが気になります。だから外側だけを一生懸命に繕うようになります。「見てもらおうとして」何かを行うようになります。

 それは私たちの社会生活においてもある程度起こっていることなので、よく分かることだとも言えます。しかし、信仰生活において本当に大事な部分というのは、人の目からは隠されているところにあるのでしょう。人の目ばかりを気にして、「見てもらおうとして」、外側ばかりを取り繕うことに意識を奪われてしまったら、本来の信仰生活が営めなくなってしまいます。

 だからこそ、「人の目から自由になる時間」が必要なのです。そのために主は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われたのです。これは当時どの家にもあった貯蔵室のことです。窓のない小部屋です。まさに奥まった隠れた部屋。そこに入るのです。窓がないから人目から全く隔絶されることになる。そこに隠れるのです。

 そのように私たちには人の目から自由になる時間が必要です。そのように奥まった場所に身を置く時間が必要なのです。

あなたの父に祈りなさい
 そのように主は、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われました。そして、こう続けます。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。

 この「隠れたところ」がまず意味するのは、祈る者が隠れて身を置いた密室であると言えます。隠れたところに入ると、「隠れたところにおられるあなたの父」がそこにおられるのです。人々の目から解き放たれ、人々の求めからも身を引き離して、隠れたところに一人で入ると、そこには先に待っていてくださる「あなたの父」がいるのです。アンドリュー・マーレーという人はこう勧めています。「御父は隠れたところにおられ、そこで私を待っておられます。心が冷えて祈れなくなっているからこそ、愛の御父の御前に出なさい。」

 そこにおいて「祈り」は、隠れたところにおける親子の対話となります。他の誰も入り込めない、親密な交わりがそこにあります。イエス様はここであえて「あなたの父」という言葉を使われました。イエス様が「あなたの父」と言うのは実は珍しいのです。ほとんどの場合「あなたがたの(天の)父」です。しかし、密室の祈りにおいて向き合うことになるのは「あなたの父」なのです。他の誰も入り込めない、父と子の交わりがそこにあるのです。

 そのように、イエス様は「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。そして、「隠れたところ」がもう一つ意味するのは、肉の目に隠されているということでもあります。隠れたところにおいて待っていてくださる父は、そこで祈る者に対しても身を隠しておられるのです。

 「隠れたところ」におられるゆえに、祈る人には見えない。それゆえに、時として祈りは独り言のように感じられるかもしれません。しかし、こちらからは見えないのだけれど、そのお方は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言われているのです。ここで「隠れたこと」が示しているのは第一には隠れたところにおける祈りでしょう。こちらからは見えないけれど、見えない神の側からは見えている。ならば本当はこちらから見えないことは問題ではないのです。ちゃんと見ていてくださるのです。

 そして、さらに主はこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6‐7節)。

 「くどくどと述べてはならない」とは、「長い祈りをしてはならない」ということではありません。イエス様がある時には夜を徹して祈られたことを福音書は伝えています(ルカ6:12)。では何が問題なのでしょう。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」ということです。

 それは要するに説得の対象だということです。こちらの必要を知らしめ、説得し、アピールし、なんとかして聞き入れさせねばならない相手となります。それはもはやイエス様が言われる「あなたの父」ではありません。「あなたの父」については、その必要はないのだと主は言われるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。

すべてをご存じであるから
 願う前から必要なものをご存じの神であるならば、なぜ祈る必要があるのか。そう疑問を抱く人がいるかもしれません。願う前から知っているならば祈る必要はないではないかと考えるのでしょう。

 しかし、このイエス様の言葉は、祈ることが「何でないか」をはっきりと示していると言えます。私たちは、神が知らないので教えてあげるのではありません。必要をご存じない神に、私たちの必要を教えて神を動かすのではありません。私たちにどれだけ必要かを認識していない神に、「必要なんだ」とアピールことでもありません。それらは異邦人がしていることだと主は言われるのです。

 私たちは、本当に必要なことがなんであるかをご存じである方に祈るのです。むしろ本当に必要なことがなんであるかを知らないのは私たちの方なのです。

 それはこの世の親子を考えればある程度分かります。まともな大人である親ならば、幼子に何が必要なのか、少なくとも幼子よりは分かっているのでしょう。確かに親の方が分かっている。しかし、だからといって子供に「何も求めるな。わかっているんだから」とは言いません。むしろ幼子の求めに、より大きな知識をもって答えようとするのです。

 子供は子供なりに、必要と思えるものがあるのです。それは時として絶対に必要なのであり、それは泣き叫ぶほどのものなのです。そのように、私たちには、「私たちに絶対に必要と思われるもの」があるのです。時として、私たちもまた求めてもがいて泣き叫ぶのです。様々な必要は、時として私たちを苦しめ、焦らせ、悲しませます。しかし、そのような苦しみや焦りや悲しみを、私たちはどこにも持って行きようがないのではなく、それを安心して持っていくことができる父がおられるのです。なぜならその御方は、私たち以上に必要なものをご存じであるからです。

 その必要を、私たちは隠れたところにおいて、他のだれも介入できないところにおいて、神に打ち明けることができるのです。何も知らない人に一から説明するように祈る必要はありません。神は事の詳細をすでにご存じです。だから、必要と思えることだけを話すことができる。信頼して話すことができるのです。

 パウロは後にこう書いています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

 そして、「隠れたところにおられるあなたの父は報いてくださる」とイエス様は言われるのです。その祈りは、隠れたところにおられる父に語られます。それはときとして壁に向かって語っているように、カーテンに向かって語っているように感じるかもしれません。しかし、そこには見ていてくださり、聞いていてくださる方がおられる。祈りは「報いられる」のです。

 そのような祈りの時間を、教会は昔から「密室の祈り」と呼んで大切にしてきました。後に私たちは「主の祈り」を祈ります。「天にまします我らの父よ」と。その父は、隠れたところであなたと共に時を過ごそうと、あなたを待っていてくださいます。 

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