日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章1節~14節
光は輝いている
「光は暗闇の中で輝いている」。先ほど朗読された福音書の中にそうありました。「光は暗闇の中で輝いている」。また、こうも書かれていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。
すべての人を照らす光が世に来たというのです。その光が既に輝いている。ならばもう真っ暗闇ではありません。そこに光が来て、光が既に輝いている。ならば、もう恐れる必要はありません。私たちがクリスマスを祝うのは、光が既に輝いているからです。もちろん、聖書はイエス・キリストについて語っているのです。
イエス・キリストの誕生の次第については、マタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。その物語は、先週の日曜日の礼拝後にページェント(聖誕劇)として上演されました。さらに昨夜のクリスマス・イヴ礼拝においては、キリスト誕生の物語を伝える聖書の言葉が朗読されました。
ところがこのヨハネによる福音書には、クリスマスの物語がありません。天使ガブリエルもヨセフも羊飼いたちも登場してきません。しかし、その代わりに、キリストの誕生が次のような言葉で表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。
たったこれだけ。そうとも言えます。しかし、この短い言葉の中に、キリスト誕生の物語の全てが、さらにはイエス・キリストの御生涯の全てが含まれているとも言えます。なぜこの御方が暗闇を照らす光なのか。なぜこの御方が今も輝いている光なのか。なぜ2016年の今日においてもなおクリスマスが祝われ、光が輝いていることが祝われているのか。今日はこの短い言葉を味わいながら、そのことについて思い巡らしたいと思います。
初めに言があった
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」とはこの世に来られる前のキリストです。この世に来られる前のキリストについては冒頭に次のように語られていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1‐2節)。
そのように、この世に来られる前のキリストが「言」と呼ばれています。このことについては、多くの事が語られ得ますが、ここでは一つのことだけに触れたいと思います。それはヘブライ語において、「言葉」という単語は同時に「行為」や「出来事」をも意味する、ということです。
それはある意味では、極めて現実的な物の見方であると言えるかもしれません。というのも、私たちは現実に口から発せられた言葉が良きにせよ悪しきにせよ、何かを行うということを体験的に知っているからです。一度口から出してしまったらもう手遅れで、その言葉が次々と事を引き起こしてしまうということがあるでしょう。だから「言葉」は同時に「行為」であり「出来事」でもあるのです。
そのような意味合いにおいて、キリストは「言」であると語られているのです。すなわち、イエス・キリストがこの世に生まれ、この地上に生きられたということは、この世に対する神の語りかけであると同時に、神の行為であり、神による出来事なのだ、ということです。
言は肉となって
その神による出来事を、聖書はさらに「言は肉となって」と表現しています。「肉となった」とは「人間となった」ということです。確かにキリストは私たちと全く変わらぬ人間として産まれました。私たちと同じ人間として生きられました。その意味で言は肉となりました。
しかし、聖書はあえて「人間となった」と言わずに「肉となった」と語るのです。「肉となった」とは実に強烈な表現です。「人間」であることが「肉」と表現される時、そこには肯定的な喜ばしい響きはありません。しかし、そこには私たち自身がしばしば感じていることが表現されているとも言えるでしょう。
私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの社会の諸相に目を留める時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。この世に生きている自分の有様を正直に見つめる時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることができなくなります。
私たちは繰り返し、人間であることは悲しいことだと思い知らされます。人間として生きていることは醜いことだと思い知らされます。私たちが繰り返し向き合わされる現実、それが「肉」であるということです。
それはあたかも深い穴の底でもがいているようなものです。穴から這い上がれば良いことは分かります。泥水の中に沈んでいてはならないことも分かります。壁をよじ登れば良いことも分かります。しかし、手をかけても、足をかけても、すぐにまた泥水の中に落ちてしまう。穴の外までよじ登ることができない。私たちが「肉」であるとはそういうことです。
しかし、そこで聖書は言うのです。「言は肉となった」と。「言」である方は、いわばその深い穴の中に自ら降りてきてくださったのです。穴の外から「上がってきなさい」と叫んでいるのではなく、自ら穴の中に飛び込んできてくださったのです。そして、穴の底で泥だらけになっている私たちと一緒に、泥だらけになってくださったのです。そのように「言は肉となった」のです。
さらに言うならば、それはただ単に「肉」であることの悲しみや苦しみを私たちと共有してくださったというだけではありません。それだけならば、イエス様は人間としてこの地上を生きるだけで良かったのです。しかし、福音書はイエス・キリストの御生涯のほとんどの部分に関して沈黙しています。むしろその大きな部分を、最後の一週間を伝えるために割いているのです。キリストは十字架にかけられて死なれたのです。言が「肉」となったのは十字架の上で死ぬためだったのです。
それは私たち「肉」である者すべての罪を代わりにその身に負うためでした。「肉」である私たちの罪が赦され、神と共に生きる者となるためでした。そうです、私たちが神と共に生きるようになるためでした。
私たちがそのことを望んだからではありません。神がそのことを望んでくださった。第二朗読において語られていたように、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。そして、自ら語り、行動してくださったのです。神が私たちを愛して、神が肉なる私たちの方に手を差し伸べてくださったのです。「言は肉となった」。それこそがまさに暗闇の中にいる私たちにとって、光の到来なのです。まことの光は人間からは来ない。それは神から来て、既に暗闇の中で輝いているのです。
わたしたちの間に宿られた
しかし、言は肉となって「わたしたちの間に宿られた」と語られていることに私たちは耳を傾けなくてはなりません。
「宿られた」というのは「テントを張って住む」という意味の言葉です。「言」は権威を振りかざして入り込んできたのではありませんでした。「テントを張って住む」のは寄留者の姿です。それは実につつましやかな宿りです。
そのように人々が見た最初の姿は、汚い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤ん坊でした。人々が見た最後の姿は、むち打たれ、嘲られ、ぼろぼろにされて十字架にかけられて死んでいく惨めな男の姿でした。それはまことに寄留者の姿でした。
ですからそのように宿られた「言」を人間は受け入れることもできれば、拒否することもできるのです。「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)と書かれている通りです。
「言は肉となった」。神が私たちを愛して、語られ、行動されました。しかし、それがたとえ神の全き愛から出た行為であり出来事であっても、神は人間に無理強いしようとはなさいません。受け入れるか拒否するかを人間に委ねられるのです。そうです、神は強制なさらない。神との交わりは、命の交わりは力ずくの強制によっては生み出されないからです。交わりとはそういうものでしょう。
「光は暗闇の中に輝いている」(5節)。「輝いていた」――ではありません。闇が今もってなお闇であるように、その中に輝く光も変わることなく輝いているのです。今もなおキリストが宣べ伝えられているとはそういうことです。今もなお主の日ごとに私たちが礼拝へと招かれ、今もなお洗礼が授けられ、聖餐が行われているとはそういうことです。そして、神は今もなお全ての人が「言」である方を受け入れ、神と共に生きることを、光の中を生きることを望んでいてくださるのです。「光は暗闇の中に輝いている」とはそういうことです。