日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章26節~33節
覆われて見えないだけだから
「人々を恐れてはならない。」そのように書かれていました。それだけではありません。今日の福音書朗読で読まれたのは短い箇所ですが、そこに三回「恐れるな」という言葉が繰り返されています。恐れていない人に「恐れるな」と語る必要はありません。イエス様が繰り返し「恐れるな」と言われるのは、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかを知っておられるからでしょう。
特にこれはキリストの弟子たちに対する言葉として語られています。しかも、この直前には迫害の予告が語られているのです。人々から拒絶される時、どれほどの恐れが起こるのか。人々から中傷される時、どれほどの恐れが生じるのか。人々から敵意を向けられる時、憎まれる時、暴力にさらされる時、どのような恐れが起こり、どれほどの恐れに捕らわれることになるのか。そうです、イエス様は分かっておられるのです。
だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない」と。それは「恐れる必要などないのだ」ということです。なぜなら、主がそう言われる時、そこには確かな理由があり根拠があるからです。主はこう続けるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
人間の隠し事がやがては明らかになるという話ではありません。神様の話です。救いの話です。救い主が既に来られたという話です。預言者によって語られ、人々によって待ち望まれていた救い主が既に来られた。その救い主が語っておられるのです。既に救いが到来しているのです。神の完全な愛が到来しているのです。しかし、それは「覆われているもの」と表現されています。まだ覆われているのです。まだ目に見えないのです。
実際にそうでしょう。私たちの目に映っているのは、いまだに救われていない世界です。嘆きの叫びが絶えない悲惨な世界です。希望のない世界です。いまだに人間の罪が満ちている世界です。そして、人間の罪のゆえに、ただ崩壊へと、滅びへと向かっているとしか見えない世界です。その中で人は苦しみと痛みを背負いながら生きています。多くの不条理を背負いながら生きているのです。
先に触れましたように、この言葉の前には迫害の予告が書かれています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれる」、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」というようなことが書かれているのです。救い主が到来したのに、よりによって救い主を信じる者が苦しみを受けるのです。信じる者も苦しみを免れないのです。そのような世界です。救い主が到来しても、依然としてそのような世界なのです。
しかし、それにもかかわらず、主は言われるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」やがて覆いが取り除かれる時が来るからです。神の救いが完全に現れる時が来るのです。
言い換えるならば、今は単純に覆われているに過ぎないということです。やがて完全に現れるべきものが今は覆われているゆえに見えないだけなのだ、と言っているのです。見えなくても、既に決定的なことは起こっているのです。既に始まっているのです。既に救いは与えられているのです。だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない。恐れる必要はないのだ!」と。
既に起こっていることがある
既に決定的なことが起こっているという事実は、イエス様御自身の言葉の中にもよく現れています。主は言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。
さらっと読み飛ばしてしまいそうですが、実は重大な言葉がここにあります。「あなたがたの父」と主は言われるのです。天地の創造主を指して「あなたがたの父」と言っておられるのです。ここだけではありません。この福音書において繰り返し繰り返し主が発せられる言葉です。救い主が来られて、「あなたがたの父」と言われるのなら、確かに神は「私たちの父」なのです。私たちは神の子どもたちとされているのです。何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、そのような出来事が既に起こっているのです。
主が「あなたがたの父」と呼ばれる方は、いったいどのような御方なのでしょう。主は言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。ここで「あなたがたの父のお許しがなければ」と書かれているのは意訳です。直訳すれば、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と書かれているのです。
売られたとしても大した値段にならない雀。その雀が地に落ちる。つまりそれは「死ぬ」ということです。そんな雀一羽が地に落ちても誰も気に留めないし、雀は誰にも知られることなく死んでいくのでしょう。しかし、そのことは「あなたがたの父なしには起こらない」と主は言われるのです。つまりそこにも父が共におられるということです。そこで一羽の雀は父の慈愛の御手の内にあるということです。雀一羽だって孤独で死ぬことはない。父なしにそのことは起こらないのです。
もちろんイエス様は雀の話をしたいわけではありません。「ましてやあなたがたは!」ということでしょう。雀一羽さえも心にかけておられる神は、私たちの天の父なのです。そこで「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と主は言われる。私たちが自分を知る以上に、私たちのことを知っていてくださる父なのです。なにが私たちにとって良きことで、何が私たちにとって災いであるかも、私たちが知る以上に知っていてくださる御方なのです。
実際、イエス様の言われた迫害の予告は現実となっていきました。弟子たちのある者は迫害の中で死んでいったのでしょう。あるいは家の中で家族に看取られながら死んでいく人もいたのでしょう。しかし、いずれにしても「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」のです。何が起こったとしても、そこには父がおられるのです。父の慈愛の御手の中にあるのです。「だから、恐れるな」と主は言われるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。
信仰の言葉を告げ知らせよ
既にそのような天の父の子どもたちとして生きることが許されている私たちです。救い主が来られて、既に決定的なことは起こっているのです。何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、既に救われた者として生きることができるのです。
そして、既に起こっていることは、いまだに覆われているとしても、やがては現れることになるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。人間の隠し事ですら時を経て表に現れるのなら、ましてや神様がなさっていることが表に現れないはずがありません。私たちの目がはっきりと見る時が来るのです。
それゆえに、覆いが除かれるまで、私たちの目が神の救いをはっきりと見るまで、私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩むのです。信仰によって歩むとは、神の言葉によって歩むということです。私たちは、この世からの言葉ではない、この世の外からの言葉によって生きるのです。目に見えるものではなく、目に見えないものを語ってくれる信仰の言葉によって生きるのです。私たちの目には見えない、覆いの向こう側を語ってくれる主の言葉によって生きるのです。
そして、私たちに語りかけられる言葉は、ただ私たち自身が救われた者として生きるために与えられているのではないのです。私たち自身が慰めを受け、私たちの心の中に留めるために与えられているのではないのです。主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)。
実際、教会は迫害の時代にあっても、救いを宣べ伝えることをやめませんでした。主の御言葉を宣べ伝えることをやめませんでした。生きても死んでも、神の救いの中にあることを知っていたからです。父なしに地に落ちることはないと知っていたからです。父の完全な慈しみの御手の中にあることを知っていたからです。
主は言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)と。イエス様が言っておられるように、人間が出来ることはせいぜい体を殺すことまでです。神の愛の外に放り出すことはできません。神の救いの外に投げ出すことも、地獄で滅ぼすこともできません。
そのことについては、迫害の中を生きたパウロもまた、一つの手紙の中でこう語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)と。
主はここから私たちをこの世へと遣わしてくださいます。信仰の言葉、主の御言葉を携えて出て行くようにと、私たちを祝福し、送り出してくださいます。現実には、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかということを主は知っていてくださいます。だからこそ、主は今日も私たちに語っていてくださるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。