2016年10月23日日曜日

「恐れることなく、救いの言葉を告げ知らせなさい」

2016年10月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章26節~33節

覆われて見えないだけだから
 「人々を恐れてはならない。」そのように書かれていました。それだけではありません。今日の福音書朗読で読まれたのは短い箇所ですが、そこに三回「恐れるな」という言葉が繰り返されています。恐れていない人に「恐れるな」と語る必要はありません。イエス様が繰り返し「恐れるな」と言われるのは、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかを知っておられるからでしょう。

 特にこれはキリストの弟子たちに対する言葉として語られています。しかも、この直前には迫害の予告が語られているのです。人々から拒絶される時、どれほどの恐れが起こるのか。人々から中傷される時、どれほどの恐れが生じるのか。人々から敵意を向けられる時、憎まれる時、暴力にさらされる時、どのような恐れが起こり、どれほどの恐れに捕らわれることになるのか。そうです、イエス様は分かっておられるのです。

 だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない」と。それは「恐れる必要などないのだ」ということです。なぜなら、主がそう言われる時、そこには確かな理由があり根拠があるからです。主はこう続けるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

 人間の隠し事がやがては明らかになるという話ではありません。神様の話です。救いの話です。救い主が既に来られたという話です。預言者によって語られ、人々によって待ち望まれていた救い主が既に来られた。その救い主が語っておられるのです。既に救いが到来しているのです。神の完全な愛が到来しているのです。しかし、それは「覆われているもの」と表現されています。まだ覆われているのです。まだ目に見えないのです。

 実際にそうでしょう。私たちの目に映っているのは、いまだに救われていない世界です。嘆きの叫びが絶えない悲惨な世界です。希望のない世界です。いまだに人間の罪が満ちている世界です。そして、人間の罪のゆえに、ただ崩壊へと、滅びへと向かっているとしか見えない世界です。その中で人は苦しみと痛みを背負いながら生きています。多くの不条理を背負いながら生きているのです。

 先に触れましたように、この言葉の前には迫害の予告が書かれています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれる」、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」というようなことが書かれているのです。救い主が到来したのに、よりによって救い主を信じる者が苦しみを受けるのです。信じる者も苦しみを免れないのです。そのような世界です。救い主が到来しても、依然としてそのような世界なのです。

 しかし、それにもかかわらず、主は言われるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」やがて覆いが取り除かれる時が来るからです。神の救いが完全に現れる時が来るのです。

 言い換えるならば、今は単純に覆われているに過ぎないということです。やがて完全に現れるべきものが今は覆われているゆえに見えないだけなのだ、と言っているのです。見えなくても、既に決定的なことは起こっているのです。既に始まっているのです。既に救いは与えられているのです。だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない。恐れる必要はないのだ!」と。

既に起こっていることがある
 既に決定的なことが起こっているという事実は、イエス様御自身の言葉の中にもよく現れています。主は言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。

 さらっと読み飛ばしてしまいそうですが、実は重大な言葉がここにあります。「あなたがたの父」と主は言われるのです。天地の創造主を指して「あなたがたの父」と言っておられるのです。ここだけではありません。この福音書において繰り返し繰り返し主が発せられる言葉です。救い主が来られて、「あなたがたの父」と言われるのなら、確かに神は「私たちの父」なのです。私たちは神の子どもたちとされているのです。何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、そのような出来事が既に起こっているのです。

 主が「あなたがたの父」と呼ばれる方は、いったいどのような御方なのでしょう。主は言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。ここで「あなたがたの父のお許しがなければ」と書かれているのは意訳です。直訳すれば、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と書かれているのです。

 売られたとしても大した値段にならない雀。その雀が地に落ちる。つまりそれは「死ぬ」ということです。そんな雀一羽が地に落ちても誰も気に留めないし、雀は誰にも知られることなく死んでいくのでしょう。しかし、そのことは「あなたがたの父なしには起こらない」と主は言われるのです。つまりそこにも父が共におられるということです。そこで一羽の雀は父の慈愛の御手の内にあるということです。雀一羽だって孤独で死ぬことはない。父なしにそのことは起こらないのです。

 もちろんイエス様は雀の話をしたいわけではありません。「ましてやあなたがたは!」ということでしょう。雀一羽さえも心にかけておられる神は、私たちの天の父なのです。そこで「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と主は言われる。私たちが自分を知る以上に、私たちのことを知っていてくださる父なのです。なにが私たちにとって良きことで、何が私たちにとって災いであるかも、私たちが知る以上に知っていてくださる御方なのです。

 実際、イエス様の言われた迫害の予告は現実となっていきました。弟子たちのある者は迫害の中で死んでいったのでしょう。あるいは家の中で家族に看取られながら死んでいく人もいたのでしょう。しかし、いずれにしても「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」のです。何が起こったとしても、そこには父がおられるのです。父の慈愛の御手の中にあるのです。「だから、恐れるな」と主は言われるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

信仰の言葉を告げ知らせよ
 既にそのような天の父の子どもたちとして生きることが許されている私たちです。救い主が来られて、既に決定的なことは起こっているのです。何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、既に救われた者として生きることができるのです。

 そして、既に起こっていることは、いまだに覆われているとしても、やがては現れることになるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。人間の隠し事ですら時を経て表に現れるのなら、ましてや神様がなさっていることが表に現れないはずがありません。私たちの目がはっきりと見る時が来るのです。

 それゆえに、覆いが除かれるまで、私たちの目が神の救いをはっきりと見るまで、私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩むのです。信仰によって歩むとは、神の言葉によって歩むということです。私たちは、この世からの言葉ではない、この世の外からの言葉によって生きるのです。目に見えるものではなく、目に見えないものを語ってくれる信仰の言葉によって生きるのです。私たちの目には見えない、覆いの向こう側を語ってくれる主の言葉によって生きるのです。

 そして、私たちに語りかけられる言葉は、ただ私たち自身が救われた者として生きるために与えられているのではないのです。私たち自身が慰めを受け、私たちの心の中に留めるために与えられているのではないのです。主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)。

 実際、教会は迫害の時代にあっても、救いを宣べ伝えることをやめませんでした。主の御言葉を宣べ伝えることをやめませんでした。生きても死んでも、神の救いの中にあることを知っていたからです。父なしに地に落ちることはないと知っていたからです。父の完全な慈しみの御手の中にあることを知っていたからです。

 主は言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)と。イエス様が言っておられるように、人間が出来ることはせいぜい体を殺すことまでです。神の愛の外に放り出すことはできません。神の救いの外に投げ出すことも、地獄で滅ぼすこともできません。

 そのことについては、迫害の中を生きたパウロもまた、一つの手紙の中でこう語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)と。

 主はここから私たちをこの世へと遣わしてくださいます。信仰の言葉、主の御言葉を携えて出て行くようにと、私たちを祝福し、送り出してくださいます。現実には、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかということを主は知っていてくださいます。だからこそ、主は今日も私たちに語っていてくださるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

2016年10月16日日曜日

「すべての人を一つにしてください」

2016年10月16
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章20節~26節

 今日の福音書朗読ではキリストの祈りの言葉が読まれました。場面は最後の晩餐です。この祈りを捧げて、イエス様は弟子たちと共に外に出て行きます。その先に何が待っているかを主はご存じでした。向かった先のゲッセマネの園において、主はユダが率いてきた一隊の兵士たちによって捕らえられることになります。そして、裁きを受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられることになります。主はすべてをご存じでした。その意味で、今日お読みした祈りの言葉は死を前にした祈りの言葉であると言えるでしょう。

 しかし、イエス様にとってその時は、この世から父なる神のもとに帰る時に他なりませんでした。最後の晩餐の場面はこのような言葉をもって始まっているのです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。

 そのように、父のもとに帰ろうとしている御子なるイエス様が、この上なく愛し抜かれた弟子たちと食事を共にされました。そこで最後に語っておくべきことを彼らの心に深く刻みつけられました。そして、その締めくくりとして父なる神に捧げた祈り――それが今日お読みしたキリストの祈りです。

 その祈りは17章全体に及んでいますが、はっきりと三つの部分に分かれます。第一は1節から5節までです。そこで主は御自分のために祈ります。第二は6節から19節までです。そこで主は弟子たちのために祈ります。第三は20節から26節までです。そこで主は、教会の宣教によって御自分を信じるようになる人々のために祈ります。今日の朗読箇所はこの第三の部分です。

彼らもわたしたちの内にいるように
 そこで主はこう祈り始められます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。彼らというのはキリストの弟子たちです。

 イエス様は御自分の弟子たちのことをよくご存じでした。彼らの弱さもご存じでした。彼らが御自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。ペトロについては既にこう言っておられたのです。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:3)。

 しかし、主はそのような弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。そして、彼らに宣教の言葉を託されました。主は、彼らの言葉を通してキリストを信じる人々の群れを既に心の目で見ておられたのです。主はやがて主を信じることになる多くの人々のために祈っているのです。

 そして、主の心の内にあったことは現実となりました。弟子たちの言葉によってキリストを信じる人々がこの世に存在することとなったのです。なんと、それから二千年後、この日本にも存在することとなりました。ここに確かにキリストを信じる私たちがいるのです。あのときのイエス様の祈りは、ここにいる私たちのための祈りでもあったのです。

 主は私たちのために何を祈ってくださっているのでしょう。キリストの祈りは次のように続きます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。

 キリストは私たちが一つとなることを願い、祈っておられます。「すべての人を」と主は言われました。この言葉はあらゆる範囲に及びます。主はこの地球上のすべての教会が一つとなることを願っておられます。主はこの日本のすべての教会が、すべてのキリスト者が一つとなることを願っておられます。主はこの頌栄教会が一つとなることを願っておられます。主は異なるお互いが一つとなることを願っておられます。

 一つとなるとはどういうことでしょうか。主は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われます。単に分裂がないように、仲たがいしないようにということではなさそうです。

 父は子の内に、子は父の内に。そこに言い表されているのは、イエス様と父なる神との交わりです。愛と信頼の絆で結ばれた神との関係をイエス様は見せてくださいました。そして、その交わりの中に私たちもまた加えられることを主は願っておられるのです。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とはそういうことです。イエス様が見せてくださった親子の関係の中に、神の家族の中に、私たちもまたいるようにしてくださいと主は祈っていてくださる。それこそが、「一つとなる」ということなのです。

 「すべての人を一つにしてください」。それは単に分裂がないようにということではありません。仲たがいしないようにということではありません。共に神の家族として生きるように、ということです。共に天の父の子供たちとして生きるように、ということです。そのように一つとなるのです。

 ですからそのように一つとなっている目に見える姿は、単にお互い仲良くしている姿ではないのです。同じ父に向かって一緒に祈る姿なのです。一緒に礼拝する姿なのです。互いに異なる者たちが、互いに相容れぬものを持っているかもしれない者たちが、それにもかかわらず同じ父の子供たちとして、共に祈りつつ愛し合う一つの家族となっていく。それこそが「一つにしてください」というイエス様の祈りの答えなのです。 

完全に一つになるために
 そして、主はこのことを別な言葉をもって次のように表現しています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(22‐23節)。

 「あなたがくださった栄光」とは神の子としての栄光です。イエス様はその栄光を私たちにも分かち与えてくださいました。私たちもまた、神の子どもたちとして生きることができるようにしてくださいました。「天にまします我らの父よ」と共に祈って生きる者としてくださいました。それは「彼らも一つになるためです」と主は言われます。

 そうです。私たちに与えられている信仰生活は「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」と表現されていますが、それは「彼らが完全に一つになるためです」と主は言われるのです。主はただ私たち個人の救いのために信仰へと招いてくださったのではありません。私たちが同じ父を持つ神の家族として一つとなるために招いてくださったのです。

 そして、そのように同じ父を仰いで一つとなっている姿こそが、キリストをこの世界に証しするものとなるのです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と主は言われました。また、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)と主は言われるのです。

 確かに、異なる者たちが同じ天の父を仰いで祈る姿を通して福音は伝えられてきたのです。共に礼拝する姿が今日に至るまで途絶えることがなかったからこそ、私たちもまたキリストを知ることができたのでしょう。そして、神に愛されている子どもたちの生活をも知ることができたのでしょう。その意味で、私たちがここに存在していること自体が、既にキリストの祈りの答えであるとも言えるのです。

彼らも共におらせてください
 さらにキリストの祈りはこのように続きます。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。

 最初に申しましたように、この祈りは、死を前にしたキリストの祈りです。この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟っておられるキリストの祈りです。主は父のもとに帰り、父と共にいることになる。しかし、主はこう祈られるのです。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」

 私たちは、この世において、同じ父に祈る者とされました。この世において、同じ父の子どもたちとして、共に礼拝する者とされました。この世においてイエス様の兄弟姉妹とされ、互いに兄弟姉妹とされました。そして、その絆がこの世の生を終えた後も続くことをイエス様は願っていてくださいます。「わたしのいる所に、共におらせてください」と。

 私たちが願う以前に、イエス様が願っていてくださいます。私たちが祈る前にイエス様が祈っていてくださいます。そして、こう祈られたイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれたのです。そこに死を越えた希望を私たちが持ち得る根拠があります。私たちもまた、「この世において共に祈りを捧げてきた父のもとに帰るのだ。イエス様がおられるところに私たちもまたいることになるのだ」と言い得る根拠があるのです。

 「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と主は言われました。主は見せてくださいます。そこにおいて、私たちは神の子の栄光を目の当たりにすることになるのです。栄光に輝く主の姿を見せていただくことになるのですそして、その時私たちは知ることになるのでしょう。その御方の兄弟とされているということ、神の家族に迎え入れられているということが、どれほど栄光に満ちたことであるのかということを。

 この祈りの直前に、主は「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。確かにそうなのでしょう。しかし、この世のただ中において既に愛されている神の子どもたちとして共に礼拝を捧げる者とされているのです。既にどれほど大きな恵みにあずかっていることか。私たちはまだ本当のところを知らないのでしょう。しかし、やがて知ることになるのです。神の子の栄光を見ることになるのですから。

2016年10月9日日曜日

「身代わりの十字架」

2016年10月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 11章45節~57節

損か得か
 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれていました。「イエスのなさったこと」はこの直前に書かれています。死んで四日経ったラザロを生き返らせたという奇跡です。

 奇跡を見てイエスを信じた人はいた。確かにいました。しかし、奇跡は必ずしも信仰をもたらすとは限りません。同じように奇跡を見ても、なお信じようとしない人たちはいたのです。むしろ危険人物として密告する人たちがいたのです。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(46節)と書かれているとおりです。

 さて、イエス様のなさったことについての密告を受けた祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47、48節)。

 彼らはイエス様が「多くのしるしを行っている」ということを認めています。イエス様がなさった数々の御業に目を留めてはいるのです。しかし、彼らの関心はどこにあるのでしょう。彼らは、このイエスという方が真にメシアであるのか否かには関心がありません。イエスという方が本当に神様から遣わされた方であるかどうか、神の子であるかどうかということには関心がありません。信ずべき御方であるのか、そうではないのかということには関心がありません。なぜなら、彼らの関心は別のところにあるからです。

 彼らの関心はどこにあるのか。それはナザレのイエスというひとりの人物の存在が彼らにとって《得になるか損になるのか》ということでした。そして、彼らの結論は《損になる》ということだったのです。イエスが存在することは、彼らにとって決定的な損失になる。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と。

 これは最高法院が招集された時の発言であったと書かれています。このことを懸念していたのは特に祭司長たちだったと思われます。彼らは貴族的な特権階級に属します。彼らが望んでいるのは一にも二にも現状維持です。平穏無事であることです。騒ぎは起きて欲しくないのです。メシアが到来したの何だのと言って騒いで欲しくないのです。

 実際エルサレムにおいて騒ぎが起こるなら、ローマの軍隊が情け容赦なく介入してくることが予想されました。それは決定的な損失となります。だからそのような事態を恐れたのです。「イエスという男が奇跡を用いて民衆の支持を得るならば、まずは自分たちの立場が危ない。いや、それどころか、そのような危険な動きをローマ当局が察知したならば、必ず軍隊を送り込んで来るに違いない。その結果、彼らは神殿をたたき壊し、イスラエルの民を滅ぼしにかかるかもしれない」と。

 ですから、その後に大祭司カイアファが発した言葉も十分理解できます。彼は言うのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49、50節)。要するにカイアファが言いたいのは、「あいつには死んでもらうことにしよう」ということです。その方が「好都合」だからです。これは「得である」という意味の言葉です。

 彼らにとって最も大事なこととされているのは、何が真理かということではないのです。何が神に従うことなのか、ということでもないのです。そうではなくて、どちらの方が人間にとって、我々にとって都合が良いのかということなのです。どちらが得かということなのです。

 やがてこの同じ最高法院において、キリストが裁かれることになります。処刑が決定されるのです。その罪状は表面的には「イエスが神を冒涜した」ということでした。しかし、それは建前に過ぎなかったと聖書は言うのです。本音は別のところにありました。イエスに死んでもらうことは、彼らにとって「好都合」だったからだ、彼らにとって得だったからだと聖書は言っているのです。

 今日の聖書箇所が伝えているように、キリストの十字架は彼らの打算によってもたらされました。彼らはイエス様の言葉を聞き、イエス様のなさったことを見ていました。その御方が数々のしるしを行っていることも知っていました。しかし、イエス様を信じるに至りませんでした。彼らの打算がそれを阻んだからです。損得勘定が信仰を阻んだからです。自分にとって得になるか損になるかということからしかキリストを見ることができなかったからです。

わたしたちのために
 このように損得勘定とキリスト教信仰とは本質的に相容れないもののようです。打算から近づく限り、キリストを信じるには至らない。それはある意味では必然であるとも言えます。なぜなら、神がキリストにおいて私たちにしてくださったこと、キリストが私たちのためにしてくださったこと自体が、そもそも打算からはずれたことだからです。それは人間的に見るならば、はなはだ愚かなことに他ならないことだったからです。

 カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言いました。しかし、聖書は大変不思議な説明を加えています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」(51節)。

 カイアファは損得の話をしていたのです。都合が良いか悪いかの話をしていたのです。しかし、彼の考えとは全く関係なく、図らずもそれがキリストについての預言となっていたというのです。神様がカイアファの言葉をさえ用いて真理を示しておられたのです。それは何か。それはキリストの死は確かに「身代わり」としての死であったということです。

 カイアファは「国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だ」と言いました。しかし、人を最終的に滅ぼすのは、本当は人の力ではないのです。彼らを滅ぼすのはローマの軍隊ではないのです。人の力は人を最終的に滅ぼすことはできないのです。人を本当に滅ぼすのは何か。それは神との断絶なのです。人間にとって本当に絶望的な状況はただ一つのことによってもたらされるのです。神に立ち帰ることもなく、神の赦しを求めることもなく、神の愛と憐れみを信じることもなく、神から離れたままである現実によってもたらされるのです。神というまことの光を失うならば、本当の暗闇となってしまうのです。

 祭司長たちはローマの軍隊を見ていました。キリストの目は人間の罪を見ていました。祭司長たちは自分たちの特権の危機を見ていました。キリストは神から離れた人々の危機を見ていました。祭司長たちは自分たちの都合のためにキリストを殺そうとしていました。キリストは救いのために十字架に向かっておられました。これが人間の罪とキリストの愛のコントラストです。

 キリストは愛によって十字架に向かわれました。それは人間的に見るならば愚かなことでした。しかし、愛するということは、あえて愚かになることなのでしょう。あえて損をするという選択なのでしょう。キリストはあえて損をすることを選び、身代わりの十字架を選ばれたのです。

 それゆえに、その方を信じようとするならば、打算によって信じることはできません。キリストを信じることが損になるか得になるかで信じることはできません。キリストの十字架の愛に目を向け、その愛に応えていくこと、それがキリストを信じることであり、キリストに従うことなのでしょう。そこでは打算が沈黙するのです。キリストの愛によって、そこでは打算を越える決断が起こるのです。

 今から300年ほど前のこと、デュッセルドルフの美術館にあった一つの絵の前に長い時間立ち尽くしていた青年がいました。彼の名はニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ。後にモラビア兄弟団の創立者となり、霊的指導者として後世に大きな影響を与えることとなった人物です。彼が見つめていたのは、「この人を見よ」と題されたキリストの十字架の絵でした。茨の冠をかぶせられ十字架に釘づけられているキリストの姿。その絵のもとにはラテン語でこう記されていました。「わたしはあなたのためにこのことをなした。あなたはわたしのために何をするのか。」彼はそこで確かにキリストの語りかけを聞いたのだと思います。そして、そこにおいてはもはや何が得であるか何が損であるかなどということは、どうでもよいことだったに違いありません。彼は自らの人生を、そのままキリストに差し出したのでした。

 私たちのための身代わりの十字架。その姿は私たちに向かっても同じことを語っているのでしょう。「わたしはあなたのためにこのことをなした」と。私たちはどうお応えするのでしょう。

2016年10月2日日曜日

「口実であっても、真実であっても」

2016年10月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章12節~21節

福音の前進に役立った
 今日はパウロが獄中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙をお読みしました。彼はフィリピの信徒たちにこう語りかけます。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。

 「わたしの身に起こったこと」とは投獄されたことです。自由を奪われたことです。これまで三回に渡る宣教旅行を繰り返し、多くの人々に福音を宣べ伝え、数多くの教会を生み出してきたパウロが、もはや自由に動くことも語ることもできなくなったということです。

 いや、自由を奪われただけでなく、彼は今、命までも脅かされているのです。今日の朗読の最後の言葉は「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉でした。パウロは処刑されることも覚悟の上でこの手紙を書いているのです。

 そのように伝道者パウロの自由が奪われること、さらにはその命が脅かされること、それは誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし、パウロは言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。

 ここでパウロが使っている「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくことになったのだ、とパウロは言って言うのです。

 その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。

 福音を阻むと思える出来事によって、新しい出会いが生まれました。パウロに与えられたのは、ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
 
 「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことのでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。そのようにして、やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。

 この箇所を読みますときに、一人の牧師を思い出します。昨年11月に震災後のネパールを訪れまして、その時にマンジャ・タマングという牧師の家に泊まらせていただきました。彼は40代の牧師で、伝道者となって二十年になりますが、実はその内約半分の9年間を獄中で過ごしていました。まったくの冤罪のために家族とも分かれ、投獄されていたわけです。どんなに辛かったことかと思います。しかし、彼はその時のことを、顔を輝かせて語ってくれました。その時、主は彼を通して、多くの人と出会ってくださった。そうでなければ、出会うことのなかった獄中の人々との出会いの中で、多くの人がキリストを信じるに至りました、と。

 そのように福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させてくださる。そのことを主は見せてくださいました。パウロもまた、その事実をフィリピの教会の人々に証ししているのです。

 いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。

 「わたしの捕らわれているのを見て」と彼は言います。人々はそこに何を見たのでしょう。捕らえられた人。自由を奪われた人。風前の灯火である命。――いや、それだけではありませんでした。この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」なのです。人々が見たのは喜びだったのです。

 自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロ。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。それは、この世の命よりも大切な、この世の命よりもはるかに価値ある、神の救いでありました。キリストによる永遠の救いだったのです。

 星野富弘さんという方をご存じの方は多いことでしょう。重度の障害を負いながらも、口で絵筆をくわえて絵を描く詩人であり画家である方です。彼の作品の中にこんな詩があります。

 「いのちが一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが
  苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった」

 星野さんが知った「いのちよりも大切なもの」。代々の殉教者たちが、そのために喜んでこの世の命を差し出した「いのちよりも大切なもの」。人々は獄中にあるパウロがなおも喜びをもって生きている姿の中に、その「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのです。

 先週、大変重い病気と診断された人と話をし、一緒に祈りました。その方が心に留めておられる聖書の言葉は、今日お読みした「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という御言葉でした。わたしはその人が確かに「いのちよりも大切なもの」をしっかりと持っていることを私もまた見せていただきました。

 そのように人々は、パウロの捕らわれている姿の中に、「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのでした。それゆえに、「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言っているのです。そのようにして、福音を阻むとしか思えない出来事のただ中にある人を神は用いられたのです。そのようにして周りの人々を励まされ、なおも福音を前進させてくださっていたのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」

キリストが宣べ伝えられているのだから
 さて、私たちはパウロの投獄が、どのように福音の前進となったかを見てきました。しかし、パウロの身に起こったのは、ただ投獄だけではありませんでした。パウロはさらにこう続けます。

 「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者」がどのような人々であったのか、詳しいことは分かりません。しかし、福音宣教が必ずしも「愛の動機」からなされるとは限らないということは分かります。人間の罪は最も聖なる営みにも入り込みます。獄中のパウロをいっそう苦しめようという不純な動機からもなされ得る。事実、そのようなことが起こっていたのでした。

 パウロはそのために苦しんできたのでしょう。心を痛めてきたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。

 それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。

 パウロは、キリストが告げ知らされているなら、それでよいではないかと言うのです。そもそも人間のやることなすこと、純粋に愛から出ていないことばかりではないですか。しかし、それでもなお神の救いの業は進んでいくのです。

 考えてみれば、そのようにして、教会は今日に至っているのではないでしょうか。神が純粋さだけを問うならば、とうの昔に教会など無くなっているはずなのです。実際には、神の憐れみによって、人間の罪にもかかわらず、人間の悪意にもかかわらず、不純な動機にもかかわらず、福音は前進してきたのです。

 人間が捕らえようが、投獄しようが、鎖につなごうが、命を奪おうが、あるいは悪意と不純な動機によって動こうが、人間がすることがすべてなのではありません。人間が何をしようが、神は生きておられるのです。神は神のなさろうとしておられることを進められるのです。神がこの世界のことにも、死の向こうの永遠の救いに関わることにも関わっておられるのです。

 そのような神の御業の中にあることをパウロはよくよく分かっているのです。だから彼は喜んでいるのです。投獄されようが、妬みに駆られた人間が何をしようが喜んでいるのです。そして、こう言うのです。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」(19節)。

 悪意によって動いている人がいたとしても、もう一方ではパウロのために祈っている人もいるのです。神は生きておられます。だから祈られた祈りは無駄に消えていくことはありません。

 そして、もう一方でイエス・キリストの霊は生きて働いておられる。私たちの救いのために十字架にまでおかかりくださった方は、今も生きて働いておられる。

 だから人間の悪意はパウロを損なうことはないのです。害を与えることはできないのです。人がどんなにパウロを苦しめようとも、本当の意味では苦しめることなどできないと彼は知っているのです。むしろ、「このことはわたしの救いとなるのだ!」とさえ、パウロは言うのです。パウロ個人の救いに関しても、確かに福音は前進しているのです。救いをもたらす神の御業を誰も妨げることはできないからです。

 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。そうです、私たちも知らなくてはなりません。私たちは福音を携えてここから出て行きます。そして、私たちの身に起こるすべてのことを通して、福音は前進して行くのです。

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