2016年9月25日日曜日

「この世の体が滅びても」

2016年9月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節~10節

地上の幕屋が滅びても
 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(1‐2節)。ここでパウロがたとえを用いて表現しているのは、この世における信仰者の生活です。

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋」「この地上の幕屋」について語られていました。幕屋とはテントのことです。テントにたとえられているのは、私たちのこの体です。私たちのこの体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活にたとえられているのです。それは感覚的に良く分かります。テントは暫定的な一時的な住まいです。私たちはこの体というテントが何百年も持たないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活することになります。やがてはこのテントは役目を終わることも知っています。

 私たちの生活は、そのようなテント住まいの生活です。そして、「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。そのことについても私たちは良く知っています。この体をもって生きることは、苦しいことです。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、この体を持っているがゆえに、他者の罪によって苦しめられるという苦しみもあるでしょう。

 あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、他者の罪によって苦しめられるだけでなく、自分の罪によって苦しむということでもあるのでしょう。

 そのように、私たちのこの世の生活は「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と表現することができます。しかし、私たちには既に知らされており、信じていることがあるのです。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」とパウロが言っているとおりです。この世の体は「幕屋」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださる。テントのように綻びない、弱らない。一時的なものでもない。それは「永遠の住みか」です。

 だからパウロはただ「苦しみもだえている」とだけ言っているのではないのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って…」と言い添えているのです。苦しみもだえているとしても、それは「願いつつ」の苦しみなのです。そして、願うことができるのは、既に備えられていることを知っているからです。

 そうです。それは備えられている。ですから、やがてはその願いが実現する時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それはいわば、最終的な救いの完成に他なりません。私たちは罪と死から完全に解放された体を着せられるのです。そのことを4節では「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」と表現しています。そのことを願いつつ、待ち望みつつ、「天から与えられる住みかを上に着たい」と彼は言うのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たい」と切に願いつつのテント住まい――それがこの世における信仰者の生活です。

 そのすべては神の恵みに基づきます。「人の手で造られたものではない」と書かれていましたでしょう。天にあるものが人の手で造られたものでないのは当然です。しかし、あえてそう書かれているのは、それが純粋に神の恵みとして備えられたものだからでしょう。5節にもこう書かれています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」。どのようにして「ふさわしい者としてくださった」のでしょう。この手紙を受け取った人にもわかったはずです。それはキリストの十字架によってだと。

 もともと「天にある永遠の住みか」は私たちにはふさわしくはなかったのです。神に背いて生きてきた私たちにふさわしいのは、地上の幕屋と共に滅びていくことだったのでしょう。しかし、神はそのような私たちを憐れんで、キリストを与えてくださいました。罪の赦しを与えてくださいました。そして、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうようにと、永遠の住みかを備えてくださったのです。天から与えられる住みかを上に着たいと願うことができるようにしてくださったのです。

 「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」とパウロは言います。聖霊を与えられ、信仰を与えられ、今、私たちがこうして共に礼拝を捧げているということは、まさにふさわしくない者がただ神によってふさわしい者としていただいたということを物語っているのです。

主に喜ばれる者に
 「それで、わたしたちはいつも心強い」とパウロは言います。すべてが私たちによるのなら、なんと心許ないことかと思います。すべてを私たちが備えなくてはならないとするならば、それこそ天幕が滅びた後のことについては、私たちはどうすることもできないのですから、このテント住まいの生活はなんと心許ないことかと思います。

 しかし、そうではないのです。「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」が備えられ、神御自身が「ふさわしい者として」くださったのです。それは私たちの手によるのではなく、キリストにおいて成し遂げられた救いによるのです。ですからテント住まいでありながら、「わたしたちはいつも心強い」と言うことができる。それがこの世における信仰者の生活です。

 しかし、もう一方で「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とパウロは言います。ここにパウロが何を一番大事に考えていたかということがよく表れていると言えるでしょう。

 先ほど見たように、パウロは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言っていました。迫害の時代です。現実に彼は多くの苦しみを負っていたのでしょう。そうです、「体を住みかとしているかぎり」その苦しみを負わなくてはならないのです。

 しかし、パウロがそこで考えていたのは、単純に苦しみから解放されることではなかったのです。彼が天から与えられる住みかを上に着たいと願っていたのは、最終的な救いを待ち望んでいたのは、ただ苦しみから救われることを待ち望んでいたのではないのです。彼の心を占めていたのは、「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」ということだったのです。

 もちろん目に見えずとも、信仰において主と共にあるのです。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまた幕屋住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と彼は言うのです。苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むためなのです。

 そのように彼にとって最も重要なのは、主と共にあること、主との関係、主との交わりでした。ですから彼の一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であることだと言うのです。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)と。

 そして、そこにテント住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるかもしれません。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場に他ならないのです。

 だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのでしょう。私たちがこの地上における人生をどう生きるかは主にとっての重大な関心事なのです。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

 キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪を十字架において贖ってくださった御方です。そして、信仰によって私たちの罪を赦し、義としてくださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。そうではなく、私たちの報いに関わる裁きです。

 主は私たちのこの地上の人生を、関心をもって見ていてくださいます。ですから「悪」もまたその御前にあるのです。それゆえに、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言って、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。

 しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。「善であれ悪であれ」と書かれていましたでしょう。主の目に善しとされること。それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍びながら愛を示して仕えることかもしれません。そこには、この世において報われないことはたくさんあるかもしれません。しかし、気に病む必要はないのです。主が報いてくださるからです。報いを受けるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを考えて生きたらよいのです。それがこの世における信仰者の生活です。

2016年9月18日日曜日

「理解を超えた神の道」

2016年9月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章33節~36節

ああ、深きかな!
 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)。パウロが感嘆の声を上げています。このような手紙は口述筆記で書かれていますから、実際に大きな声で「ああ!」と叫んでいたに違いありません。それは何を思ってのことでしょう。それは神の富と知恵と知識の深さを思っての叫びでした。

 神の富。神の豊かさ。豊かな神。もちろん、パウロにとって神様は常に豊かな神であったに違いありません。神は創造主であって、すべてのものは神のものですから。また、パウロは神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐(慈愛と寛容と忍耐の富)」(2:4)について語ります。また、パウロは神の「豊かな栄光(栄光の富)」(9:23)について語ります。そのように、パウロにとって神の豊かさはある意味では自明のことであって、ここで初めて気づいたわけでも考えたわけでもありません。

 神の知恵と知識についても同じことが言えます。「神の知恵」についても「神の知識」についても、既に旧約聖書において繰り返し語られていることです。パウロはこれまで耳にタコができるくらい聞いてきたことに違いないのです。パウロ自身、繰り返し神の知恵、神の知識について語っています。ここで初めて気づいたわけではありません。

 しかし、そのように神が豊かであることも、知恵ある御方であることも、果てしない知識をお持ちであることもパウロにとっては当然のことであり、分かりきっていることであるはずなのに、改めてここで感動の叫びを上げているのです。「ああ、ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。いったい何が彼をしてそうさせているのでしょう。そう叫ぶパウロの眼差しの先には何があるのでしょう。

 この直前には次のように書かれています。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)。パウロが見ているのはすべての人に向けられた神の憐れみなのです。すべての人を憐れむために、神がしていることがある。言い換えるならば、すべての人を救おうとして、神がしていることがある。そのために神御自身がこの歴史のただ中に生きて働いておられる。パウロが目を向けているのはそのことなのです。

 そのように「すべての人を憐れむため」に、神はどうされたのでしょうか。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められた」というのです。それが何を意味するのかについては、今日は触れません。9章から11章までをじっくりとお読みください。

 それが何を意味するにせよ、「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は「神の憐れみ」と直接結び着きますか。結び着かないでしょう。それはどう見ても、神の救いとは真逆のことに見えるではありませんか。

 しかし、人間の目には救いとは真逆に見えることが、実は「すべての人を憐れむためだった」とパウロは言うのです。そのことをパウロは知ったのです。そこでパウロは「ああ、深きかな!」と叫ばずにはいられなかったのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

だれが神の道を理解し尽くせよう
 さて、二千年の時を経て、あの時のパウロの感動の叫びを文字として私たちは目にしています。また朗読として耳にしています。私たちはパウロが見ているものが同じように見えているのでしょうか。「ああ、深きかな!」という彼の叫びに、同じ感動をもって「アーメン!」と言えるでしょうか。もしかしたら、私たちにはおぼろげにしか見えていないかもしれません。あるいは彼が指さす方向に目を向けても、私たちには何も見えないかもしれません。

 しかし、少なくともパウロの言葉から私たちは一つのことを心に留めておく必要があるのでしょう。神はすべての人を憐れむために動いておられるということです。すべての人を救うために、その計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、動いておられ、また、この世界を動かしておられるということです。しかも、人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるということです。

 実際、神が知恵を尽くし、知識を尽くして動いていてくださったからこそ、私たちが今ここにいるのでしょう。神がそのような神であるからこそ、憐れみを受けた者として、救いに招かれた者として、ここにいるのだと思うのです。私たちが憐れんでくださいと言う前に、私たちが救ってくださいと言う前に、限りなく豊かな神様が、知恵を尽くして、知識を尽くして、私たちを憐れむために動いていてくださったのです。そして、今もそのように憐れもうとしていてくださるのです。

 もちろん、その知恵も知識も私たちにとってはあまりにも深いのです。ですから、パウロはこう続けます。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)。「究め尽くし」というのは「底まで計る」という意味です。あまりに深くて底まで届かない。ですから神様が何をどう判断しておられるのか分らないとしても、それは当然のことなのです。

 また神の道は理解し尽くせない。神には神の道があるのです。しかし、それは私たちの道とは異なるのです。かつて主は預言者を通して言われました。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8‐9)。

 だからこそ、神の富、神の知恵、神の知識に対する畏敬をもって神を信じるということが大切になってくるのでしょう。私たちには分からない。それはあまりにも深い。だからこそ信じるのです。神がすべての人を憐れもうとしていてくださることを、畏れをもって信じるのです。神の定めは極め尽くせないこと、神の道は理解し尽くせない。その上で、彼は神をたたえるのです。この章は最終的に「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という賛美の言葉にいたるのです。

ただ神を讃える者として
 しかし、現実の私たちの生活においては、往々にしてそのような神の知恵、神の父期への畏敬が失われているのでしょう。するとどうなりますか。私たちの方が知恵ある者であるかのように、私たちの方が知るべきことを知っている者であるかのように振る舞うようになってしまうのですそれゆえに、パウロがイザヤ書を引用して語る次の言葉は私たちの心に刺さります。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか」(34節)。

 「相談相手」とは「助言者」とも訳せます。そうです、私たちは神様に助言したくなるのです。「あなたのしていることはおかしい。あなたのしていることは間違っている。なぜこんなことをなさるのですか。あなたはこのようにすべきでしょう」と。何が最善であるかを私たちの方が知っているかのように。しかし、実際、知らないのは私たちの方なのです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか」。そう、私たちはすべての人を憐れもうとしておられる主の心を知ることなく、「助言者」として主に向かってしまうものです。

 あるいは、神の富、神の知恵、神の知識に対する畏敬を失った私たちは、助言ではなく取引を始めようとするかもしれません。私たちが何かを差し出すことによって、神から何かを引きだそうとするのです。私はこのようにしますから、神様はわたしが願っているとおりにしてください。そのようにして、神をコントロールしようとするのでしょう。

 しかし、聖書は言うのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)。実は、新共同訳では若干言葉が異なりますが、これはヨブ記41章3節の引用なのです。そして、この言葉は次のように続くのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」。私たちが何かを主に差し出したとしても、それはもともと主のものなのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。ならば、私たちは神と取引をする者としてではなく、ただ神をたたえる者として御前に立つべきなのでしょう。「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と。

 そうです。私たちは神に助言する者としてではなく、神に何か差し出して取引をする者としてでもなく、ただ神をたたえる者としてここに集められているのです。主の日に礼拝堂に身を置いているとはそういうことでしょう。私たちが何をするまでもなく、何かを差し出すまでもなく、既に圧倒的な神の憐れみのもとにあるのです。

 神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。その御方は、私たちを救うために独り子さえ惜しまず与えてくださった御方なのです。その神がその計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、すべての人を救うために動いておられます。この世界を動かしておられます。人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるのです。その神の憐れみの中にある者として、パウロと共に感動の叫びを上げる者とならせていただきましょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

2016年9月11日日曜日

「神の満ち溢れる豊かさによって満たされるように」

2016年9月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節

愛に根ざし、愛を土台とし
 今日お読みしたのはパウロが獄中からエフェソの教会に書き送った手紙です。そこに祈りの言葉が記されていました。獄中にて祈られた祈りの言葉です。今日の箇所の直前には「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(12節)と書かれています。だから彼は祈ります。どこに置かれても祈ります。投獄されても祈ります。牢獄の壁も、彼をつなぐ鎖も、父なる神に近づくことを妨げることはできません。

 しかし、もう一方で彼が投獄され、苦難を受けていることは、エフェソの教会にとっても試練となることを知っています。彼らは信仰者として揺さぶられることになるでしょう。ですから彼はこう続けます。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(13節)。だからこそ、パウロは祈ります。彼らのために祈ります。

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(14節)。獄中にはひざまずくパウロの姿がありました。彼はエフェソの信徒たちのために何を祈っているのでしょう。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16‐17)。これが彼らのためのパウロの祈りです。

 「内なる人を強めてくださるように」。この「内なる人」とは精神のことではありません。「精神的に強くしてください」という祈りではありません。「内なる人」とは信仰によって生まれた新しい人のことです。エフェソの信徒たちは、福音を信じて神の子どもたちとして生き始めたのです。その神の子どもたちとしての「内なる人」が強められなくてはなりません。信仰者として強められなくてはならない、強い信仰者にならなくてはなりません。そのことをパウロは祈るのです。

 強い信仰者とはどういう人を言うのでしょう。どんな人を思い描きますか。パウロは二つのイメージを心に抱いて祈っています。その一つは植物です。植物が強くあるためには何が必要でしょう。根が深く地中に張っていることではありませんか。そのように、しっかりと根を張った植物のような信仰生活。パウロはこれを「愛に根ざし」と表現しています。

 もう一つは建物です。建物が強くあるためにはしっかりした土台が不可欠です。しっかりと土台の据えられた建物のような信仰生活。パウロはこれを「愛にしっかりと立つ」と表現しています。そこに用いられているのは(建物の)基礎を置くことを意味する言葉なのです。

 そのように愛に深く根を下ろし、愛という土台の上にしっかりと立っている人になるようにとパウロは祈り願います。強い信仰者であるとは、まさにそういうことでしょう。しかし、その前にこう書かれています。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」。そうしますと「愛に根ざし」「愛にしっかりと立つ」というその愛とは「キリストの愛」であるということが分かります。

 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」。この「住む」という言葉は一時的に滞在することではなく、永住すること、定住することを意味する言葉です。いつも心の中にキリストがいてくださる。何をするにしても、何を語るにしても、いつも心の中にキリストがいてくださる。そうあってこそ、キリストの愛に根ざし、キリストの愛を土台とした生活が形づくられていくのでしょう。

 これが「内なる人が強められる」ということです。そして、パウロはただ「内なる人を強めてください」と言っているのではなく、「その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように」と祈っているのです。それは神の豊かさから来るのであり、神の霊によるのであり、神の力によるのです。それは神のなせる業です。だからパウロは「そうなりなさい」と命じているのではなく、祈っているのです。それはエフェソの教会もまた共に祈るべき祈りなのです。

キリストの似姿にまで
 そして、さらにパウロはこう祈りを続けます。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18‐19節)。

 キリストがいつも心の中にいてくださる。そのキリストの愛に深く根を下ろすためには、またそのキリストの愛を土台として据えて生きるためには、その愛がどれほど大きな愛であるかを知っていく必要があるのでしょう。それをパウロは「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表現します。

 ただ単に「キリストの愛の大きさ」と言わずに「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」と言い表すその言葉には、その愛の中に立った者の感動が込められているようにも思います。そこに立って見渡しても果てが見えない。前を向いても後ろを見ても果てが見えない。上を見ても下を見ても、果てが見えない。そんな思いが言い表されているのでしょう。

 それはまた、そのようなキリストの愛だからこそ、こんな自分もまたその中にいるという感動でもあるのでしょう。本当ならばキリストの愛の外に放り出されていても不思議ではない私なのに、それでもなお私はその中にいる。その驚きと感動です。それはさらに「人の知識をはるかに超えるこの愛」という表現にまで至るのです。人の知識を超えているのですから、それを知るとするならば、それは神の御業です。だから祈るのです。御父の御前にひざまずいて祈るのです。

 そして、その愛を知るだけでなく、彼が祈り求めるところはついにここに至ります。「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(19節)。キリストを信じる生活、新しく生まれた神の子どもとしての生活、「内なる人」の生活、私たちの信仰生活はついにここにまで至るのです。

 計り知れない愛の広さ。計り知れない愛の長さ。計り知れない愛の高さ、深さ。人の知識をはるかに超える愛。その愛そのものであるイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださる。一時的にではなく、いつでもいてくださる。その愛に深く根を下ろした生活。その愛を土台として建てあげられた生活。それはどのようなものとなるのでしょう。それはまさにキリストの似姿となるのでしょう。パウロは別の書簡でもこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 それこそまさに「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りの成就ではありませんか。それは主の霊の働きによることです。だから祈るのです。

 しかし、これはあまりにも現実離れした祈りではないでしょうか。パウロは本当にこのようなことを信じて祈っているのでしょうか。――そうです、信じて祈っているのです。彼は今、呼び求めている天の父をたたえてこう加えます。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20‐21節)。

 天の父はかなえることがおできになる。私たちが求めることを遙かに超えて。しかし、それは「わたしたちの内に働く御力によって」なのです。神が変えたいと思っておられるのは、わたしたちなのです。

 パウロの祈りの言葉を読んできました。変わらなくてはならないのは周りの人々であり、この世界だと考えている人にとっては、この祈りの言葉は大して意味を持たなかったに違いありません。しかし、変わらなくてはならないのは私だ、他ならぬ私だと思っている人にとっては、この祈りの言葉は大きな意味を持ったことでしょうし、この祈りをわが祈りとして祈り続けたに違いありません。そして、天の父はそのような私たちの祈りに対して、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方なのです。教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

2016年9月4日日曜日

「キリストに倣いて」

2016年9月4
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 2章18節~25節

それは恵みなのです
 今日の礼拝では小アジアの諸教会に宛てて書かれたペトロの手紙が読まれました。今日の箇所では、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)と勧められていました。

 「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをしている奴隷たちです。当時のギリシャ・ローマ世界には六千万人もの奴隷がいたと言われます。その中には職人や教師や医師もおり、また家庭に仕える「召し使いたち」もいたのです。必ずしも今日私たちが「奴隷」という言葉からイメージするほど悲惨な生活をしていたわけではありません。 

 ですから、中には「善良で寛大な主人」のもとで幸福に暮らしていた奴隷たちもいたことでしょう。しかし、もう一方で「無慈悲な主人」のもとにいる奴隷たちも確かにいたに違いありません。そのような主人に仕えるならば、不当な扱いを受け、理不尽な苦しみを味わうことにもなるのでしょう。

 そのような辛い境遇にある人々もまた教会の中にはいることを重々承知の上で、ペトロはなおこう語りかけるのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。

 ペトロがそのように勧めるのはどうしてでしょうか。彼はこう続けます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(19節)。これが理由です。

 どう思われますか。無慈悲な主人から受ける不当な苦しみを耐えることを神はお望みであると言います。だから苦痛を耐え忍ぶのだ。それが御心に適うことなのだ、と言うのです。ここを読んで何を感じましたか。どのような神の姿が思い描かれますか。

 これだけを読みますと、人間が苦しみを耐えているのを楽しんで眺めている、それこそ「無慈悲な主人」としての神様の姿を思い描く人がいるかもしれません。わたしはかつてここを読んだ時、そんな神様のイメージを抱いてしまったことがありました。

 しかし、ここは日本語にするのがいささか難しい箇所でもあるのです。19節の「御心に適うこと」と訳されている「カリス」という言葉は、様々に訳し得る言葉だからです。他の箇所では通常「恵み」と訳されます。ですから、ここには「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは《恵み》なのです」と書かれているのです。神様は意地悪をしているのではありません。そこで目にしているのは「恵み」なのです。「御心に適うこと」であるとは、そういうことなのです。しかし、不当な苦しみを耐えることがなぜ「恵み」なのでしょう。

 ペトロはこう続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)。実は、ここにも「恵み」という言葉が出て来ます。「神の御心に適うことです」は「神の御前にある恵みです」とも訳せるのです。

 そのように、ペトロはただ単に「不当な苦しみを耐えること」が「恵み」だと言っているのではないのです。ペトロが思い描いているのは、ただ不当な苦しみを耐えている人の姿ではないのです。そうではなくて、ここに書かれているように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」人の姿なのです。

 言い換えるならば、善を行っても苦しみを受けることが分かっているのに、耐え忍ばなくてはならないことが分かっているのに、それでもなおあえて善を行う方を選ぶ人の姿なのです。そこに現れているのは「恵み」だ。それは「神の御前にある恵み」だ。そうペトロは言っているのです。

 「神の恵み」。それはただ人に与えられてそこに留まるものではありません。人に与えられた恵みは、人を通って他者へと向かうものなのです。言い換えるならば、他者へと向かって現れる時に、与えられた恵みはこの世界に目に見えるものとなるのです。

 ここに恵みを与えられた人がいます。その人は無慈悲な主人に仕える人です。無慈悲な主人なのに、不当に扱うことしかしない主人なのに、それでもなお主人を愛して、心から主人を愛して、心から畏れ敬って、忠実に仕えようとする召し使いの姿がそこにあります。そこに現れているのは何か。神の恵みが形を取って現れているのです。まさに、憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっていることの世界に、この世界からではない天から来る恵み、神の恵みが形を取って現れているのです。

主の模範に従う
 そのために彼らは召されてキリスト者とされました。そのために私たちもまた召されてここにいるのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そして、ペトロは召してくださった方を指し示すのです。「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)。

 イエス様が模範を残してくださいました。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。そう書かれています。ならば、本来苦しみを受ける理由はありませんでした。しかし、その御方はののしられました。苦しめられました。それは明らかに不当な苦しみでした。しかし、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。そのように主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。その意味でイエス様は父なる神に裁きをゆだねて忍耐することの模範であったと言えます。

 しかし、イエス様は忍耐の模範である以上に、恵みの現れとしての模範でした。ペトロはこう続けるのです。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。

 イエス様が担ってくださったのは「わたしたちの罪」だったのだとペトロは言います。この24節はイザヤ書53章をもとにした当時の讃美歌であったろうと言われます。これを読んでいる人たちがこれまでに幾度となく歌ってきた歌かもしれません。そこに歌われているのは、繰り返し聞いてきた福音の言葉です。それを今、不当な苦しみを受けている人たちに、不当な苦しみを受けているからこそ、改めて語って思い起こさせるのです。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。そう、主が担ってくださったのは、他ならぬ「わたしたちの罪」でした、と。

 そのように、イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためだった。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは私たちだった、ということです。あの方に傷を負わせたのは私たちだったということです。あの方を傷だらけにして十字架にかけたのは私たちだったということです。その私たちが負わせた傷に対して、あの方が私たちに返したのは――癒しでした。そのつもりであの方は傷を負われたのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあるとおりです。そこに見るのは「恵み」です。天からの恵み以外の何ものでもありません。

 その御方のもとに今、あなたがたはいるのだとペトロは語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(25節)。主の日の集まりにおいて、主の晩餐を共に食する集まりにおいて、この手紙は繰り返し読まれたに違いありません。

 主の裂かれた体、主の流された血をいただきながら、主が受けられた傷、そして与えられた癒しを思いつつ、この手紙の言葉を思い巡らしたことでしょう。恵みの現れそのものである御方と共にいる幸いを思いつつ、この手紙の言葉を一つ一つ受け取ったことでしょう。

 もはやさまよっている羊ではないのです。そうです、私たちもまた、主の食卓を囲みながら、この言葉を聞いているのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

 その魂の牧者である御方が、今日もその足跡に続くようにと招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」と。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

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