日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章13節~15節
永遠の命を得ている
「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と書かれていました。ヨハネは既に神の子イエス・キリストを信じている人々に書いています。それは「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」だと言います。キリストを信じていても、永遠の命を得ているとは考えていないことがあり得るからでしょう。
かつてある金持ちの青年がイエス様のところにやって来て、こう尋ねたことがありました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。明らかに彼が尋ねているのは来世の命についてです。来世の救いについてです。それを得るためには、今の世においてどんな善いことをしたらよいのかと尋ねているのです。
しかし、ヨハネは言うのです。「あなたがたは既に永遠の命を得ているのだ」と。それはイエス様御自身も言っておられたことでした。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。そうです、既に得ているのです。そのことを悟らせるために「これらのことを書き送る」のだと言っているのです。
「これらのことを書き送る」。それはこの手紙全体を指すと読むこともできますが、話の流れからすると、まずは直前に書かれていることを指しているのでしょう。そこには「神の証し」について書かれているのです。少し遡って9節を見ますとそこにはこう書かれております。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。
「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が自分の見たことを語ったとき、それを聞いた人がたとえ自分は見ていないとしても、「そうだったのですね」と言って受け入れる。「人の証しを受け入れる」とはそういうことです。また、イスラエルの裁判では、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけですが、実際に裁判官が事実を見ていなくても確定されるのです。そのように「人の証しを受け入れる」ということは身近なところでなされていることです。
それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があるとヨハネは語ります。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)です。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節にこうあります。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです」(11節)。
この部分は前後をひっくり返して見るとわかりやすいでしょう。神さまは御子について「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」を語っています。それは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。
永遠の命が御子の内にあることを、神ははっきりとこの世界に向かって語られました。証言されました。どのようにでしょうか。御子イエス・キリストの御生涯、そして十字架による死と復活によってです。神はイエス・キリストという存在によって語っておられたのです。ここに永遠の命がある、と。イエス・キリストによって、この世界は確かに永遠の命を見せていただいたのです。
永遠の命とは
神が語られた永遠の命、この世界がキリストにおいて見せていただいた永遠の命とはなんでしょう。それは永遠なる神との愛の交わりでした。それは父と子との交わりでした。この世界を愛して救おうとしておられる圧倒的な父なる神の愛。その愛に応えて、その愛に信頼して、自らの全てを捧げ尽くそうとしておられた御子の愛。その愛の交わりこそ永遠なのです。この世界はその御子の姿の中に「永遠の命」が何であるかを見せていただいたのです。
そして、神はその父と子の交わりの中に、私たちをも招いてくださいました。イエス・キリストとは全く異なる姿で、神に背き続けてきた私たちをも、永遠なる神との交わりの中へと招いてくださったのです。どのようにして。神がどこまでも私たちを愛して、私たちの罪を赦すことによってです。
この手紙の4章にはこのように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。そのようにして私たちにも永遠の命を差し出してくださったのです。
その意味においても、御子の内には永遠の命がありました。私たちのための永遠の命がありました。罪の赦しと共に永遠の命がありました。そうです、そのように神は既に永遠の命を与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではありません。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。
私たちは御子と共に永遠の命を受け取ります。永遠の命は御子の内にあるからです。私たちは御子と共に、罪を償ういけにえとしての御子と共に、永遠の命を受け取ります。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)と書かれているとおりです。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。
そのように、御子を持つ者はいのちを持つのです。だからこそ、ヨハネは教会に対してこう書いているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)。
神の御心に適うことを願うなら
さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。
「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。既に見てきたように、永遠の命とは永遠なる神との交わりに他ならないからです。
それは言い換えるならば神の子供たちとして生きることです。そして、神の子供たちとして生きている具体的な一つの姿は、大胆に父である神に近づいて祈る姿です。
今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉なのです。
私たちははばかることなく大胆に父である神に近づいて祈ることができます。なぜなら御子が与えられているからです。罪を償ういけにえとなってくださった御子を持っているからです。だから神に近づくことができる。永遠の命を与えられているとはそういうことです。
そのように神に近づいて捧げる祈りについて、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」と語られているのです。その姿を見せてくださったのは他ならぬイエス・キリストでした。福音書の中に見るキリストの祈りの姿に、私たちにも与えられている永遠の命が何であるかを見ることができます。
例えば、ヨハネによる福音書11章に書かれている話です。イエス様は死んで葬られて四日目になるラザロの墓の前でこう祈りました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:42‐43)。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。
このエピソードは、イエス・キリストを信じる者にとって、もはや問題は可能か不可能かではないことを示しています。永遠の命を得ているならば、可能か不可能かはもはや問題ではないのです。そうではなく、私たちが心を向けなくてはならないのは、神の御心に適っているか否かなのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。
これはまた、私たちがこの世にあって永遠の命を生きる上で大事なことは、神に《語ること》以上に《聞くこと》であることを示しています。何が御心に適うことかに耳を傾けること。そのようにして神の願いと私たちの願いが一つになること。御言葉を聞くことによって神の願いを私たちの内に宿していただくこと。先週朗読されたエフェソの信徒への手紙においてもパウロがこう言っていました。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)。
そのように御言葉に耳を傾け、神の御心と一つになって与えられた永遠の命を生きるなら、ヨハネと共にさらに大胆にこう続けることもできるのです。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」。