2016年8月28日日曜日

「御心にかなった祈り」

2016年8月28
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章13節~15節

永遠の命を得ている
 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と書かれていました。ヨハネは既に神の子イエス・キリストを信じている人々に書いています。それは「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」だと言います。キリストを信じていても、永遠の命を得ているとは考えていないことがあり得るからでしょう。

 かつてある金持ちの青年がイエス様のところにやって来て、こう尋ねたことがありました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。明らかに彼が尋ねているのは来世の命についてです。来世の救いについてです。それを得るためには、今の世においてどんな善いことをしたらよいのかと尋ねているのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「あなたがたは既に永遠の命を得ているのだ」と。それはイエス様御自身も言っておられたことでした。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。そうです、既に得ているのです。そのことを悟らせるために「これらのことを書き送る」のだと言っているのです。

 「これらのことを書き送る」。それはこの手紙全体を指すと読むこともできますが、話の流れからすると、まずは直前に書かれていることを指しているのでしょう。そこには「神の証し」について書かれているのです。少し遡って9節を見ますとそこにはこう書かれております。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。

 「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が自分の見たことを語ったとき、それを聞いた人がたとえ自分は見ていないとしても、「そうだったのですね」と言って受け入れる。「人の証しを受け入れる」とはそういうことです。また、イスラエルの裁判では、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけですが、実際に裁判官が事実を見ていなくても確定されるのです。そのように「人の証しを受け入れる」ということは身近なところでなされていることです。

 それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があるとヨハネは語ります。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)です。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節にこうあります。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです」(11節)。

 この部分は前後をひっくり返して見るとわかりやすいでしょう。神さまは御子について「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」を語っています。それは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。

 永遠の命が御子の内にあることを、神ははっきりとこの世界に向かって語られました。証言されました。どのようにでしょうか。御子イエス・キリストの御生涯、そして十字架による死と復活によってです。神はイエス・キリストという存在によって語っておられたのです。ここに永遠の命がある、と。イエス・キリストによって、この世界は確かに永遠の命を見せていただいたのです。

永遠の命とは
 神が語られた永遠の命、この世界がキリストにおいて見せていただいた永遠の命とはなんでしょう。それは永遠なる神との愛の交わりでした。それは父と子との交わりでした。この世界を愛して救おうとしておられる圧倒的な父なる神の愛。その愛に応えて、その愛に信頼して、自らの全てを捧げ尽くそうとしておられた御子の愛。その愛の交わりこそ永遠なのです。この世界はその御子の姿の中に「永遠の命」が何であるかを見せていただいたのです。

 そして、神はその父と子の交わりの中に、私たちをも招いてくださいました。イエス・キリストとは全く異なる姿で、神に背き続けてきた私たちをも、永遠なる神との交わりの中へと招いてくださったのです。どのようにして。神がどこまでも私たちを愛して、私たちの罪を赦すことによってです。

 この手紙の4章にはこのように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。そのようにして私たちにも永遠の命を差し出してくださったのです。

 その意味においても、御子の内には永遠の命がありました。私たちのための永遠の命がありました。罪の赦しと共に永遠の命がありました。そうです、そのように神は既に永遠の命を与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではありません。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。

 私たちは御子と共に永遠の命を受け取ります。永遠の命は御子の内にあるからです。私たちは御子と共に、罪を償ういけにえとしての御子と共に、永遠の命を受け取ります。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)と書かれているとおりです。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。

 そのように、御子を持つ者はいのちを持つのです。だからこそ、ヨハネは教会に対してこう書いているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)。

神の御心に適うことを願うなら
 さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。

 「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。既に見てきたように、永遠の命とは永遠なる神との交わりに他ならないからです。
それは言い換えるならば神の子供たちとして生きることです。そして、神の子供たちとして生きている具体的な一つの姿は、大胆に父である神に近づいて祈る姿です。

 今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉なのです。

 私たちははばかることなく大胆に父である神に近づいて祈ることができます。なぜなら御子が与えられているからです。罪を償ういけにえとなってくださった御子を持っているからです。だから神に近づくことができる。永遠の命を与えられているとはそういうことです。

 そのように神に近づいて捧げる祈りについて、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」と語られているのです。その姿を見せてくださったのは他ならぬイエス・キリストでした。福音書の中に見るキリストの祈りの姿に、私たちにも与えられている永遠の命が何であるかを見ることができます。

 例えば、ヨハネによる福音書11章に書かれている話です。イエス様は死んで葬られて四日目になるラザロの墓の前でこう祈りました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:42‐43)。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。

 このエピソードは、イエス・キリストを信じる者にとって、もはや問題は可能か不可能かではないことを示しています。永遠の命を得ているならば、可能か不可能かはもはや問題ではないのです。そうではなく、私たちが心を向けなくてはならないのは、神の御心に適っているか否かなのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。

 これはまた、私たちがこの世にあって永遠の命を生きる上で大事なことは、神に《語ること》以上に《聞くこと》であることを示しています。何が御心に適うことかに耳を傾けること。そのようにして神の願いと私たちの願いが一つになること。御言葉を聞くことによって神の願いを私たちの内に宿していただくこと。先週朗読されたエフェソの信徒への手紙においてもパウロがこう言っていました。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)。

 そのように御言葉に耳を傾け、神の御心と一つになって与えられた永遠の命を生きるなら、ヨハネと共にさらに大胆にこう続けることもできるのです。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」。

2016年8月21日日曜日

「感謝に満ちた生活」

2016年8月21
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章11節~20節

愚かな者としてではなく、賢い者として
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(15節)と書かれていました。処世術の話ではありません。この部分は新共同訳では「光の子として生きる」と小見出しがついています。信仰生活の話です。信仰生活においては、愚かな者としてではなく、賢い者として歩む必要があります。「歩む」とは具体的な日々の生活を意味します。与えられた場所で、与えられた関わりの中で、具体的にどう生きていくのか、ということです。そこで愚かな者として生きることもできるし、賢い者として生きることもできるのです。

 では賢い者として生きるとはどういうことでしょう。実は原文において16節は独立した一文ではなく、15節の続きとして「時をよく用いながら」と書かれているのです。賢い者として歩むとは、「時をよく用いる」ことのようです。

 「時をよく用いる」と言いますと、「時間を無駄にせず有効に使うこと」を意味するように聞こえます。確かに時間を有効に用いることは賢い生活かもしれません。しかし、ここで言う「時」とは、誰にも等しく与えられている一日24時間のことではなく、ある特定の「時」、与えられた特別な「時」を表す言葉です。それゆえに多くの翻訳では「機会(opportunity)」と訳されています。これは「与えられた機会を十分に生かして用いなさい」という勧めなのです。それこそが賢い者として歩むということなのです。

 では十分に生かすべき「機会」とは何のための機会でしょう。それは神の御心を行う機会です。この世にあって神の望んでおられることを行う機会です。ですから17節にも「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と勧められているのです。このことについては、今日の箇所の直前にも書かれています。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(10節)と。

 主の御心を行うチャンスが与えられているのです。主に喜ばれることを行うチャンスが与えられているのです。そのチャンスを無駄にしない。与えられた機会を十分に生かして用いて、賢い者として歩むように、細かく気を配って歩むようにと勧められているのです。

 それはどうしてでしょうか。パウロは言います、「今は悪い時代なのです」と。「時代」と仰々しく訳されていますが、ここで用いられているのは「日々」という言葉です。パウロは悪い日々を見ているのです。

 実際そうでしょう。パウロはこの手紙を獄中で書いているのです。伝道者が投獄されてしまうような時代、そのような日々をパウロは経験しているのです。それはエフェソの信徒にとっても同じです。イエスを信じているというだけで、いわれのない中傷を受け、不当な扱いを受けることもあるのでしょう。そのような悪い日々を見てきたに違いありません。そして、自分の日々だけでなく、この世界そのものが悪い日々を重ねながら歴史を刻んでいるのを見ていたのです。その意味では私たちが見ている日々も変わらないかもしれません。「今は悪い時代なのです。悪い日々です」と言わざるを得ない。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい」と。そのような時代であるからこそ、そのような日々であるからこそ、そこに与えられた機会もまたあるのです。御心を行う機会もあるのです。

 苦しみを与えられたなら、それは赦しを与える機会ともなるのでしょう。相手に愛を示し、その人のために祈る機会ともなるのでしょう。隔ての壁があるところにこそ、キリストによる和解を実現する機会は与えられているのでしょう。その意味では、チャンスはありとあらゆる場面で与えられているのだと思います。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と聖書は言います。そうです、今目にしている日々においてこそ、主の御心が何であるかを悟らなくてはなりません。そうでなければ、機会を生かして用いることができません。

霊に満たされなさい
 そのことが信仰生活において実現するために、パウロはさらにこう続けます。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18‐19節)。

 「賢い者としての歩み」「時をよく用いた生活」は、ただ人間の決意や努力から生まれるものではなさそうです。涸れ井戸から水を無理に汲み出せば泥水をまき散らすことになります。清い水が満たされている井戸からこそ、清い水を汲み出すことができるのです。それゆえにパウロは言うのです。「霊に満たされなさい」と。

 しかし、その勧めが「酒に酔いしれてはなりません」という言葉から始まっているのは興味深いことです。これは単なる禁酒の勧めではありません。「それは身を持ち崩すもと」であることは、誰もが良く知っているのであって、そのようなことは聖書がわざわざ語らなくても、他の人が言ってくれることです。ここで大切なことは、あくまでもこの言葉が、「霊」すなわち神の霊、聖霊に満たされることと対比されているということです。つまり問題の中心は聖霊が満たすべきところを酒が満たしているということなのです。神が支配すべきところを、酒が支配しているということなのです。

 「今は悪い時代なのです。悪い日々です」。そのような日々を見ている時に、神を求めるのではなく酒を求めることは起こり得ることです。神の霊に満たされることではなく、酒に満たされることを求めてしまうことはあり得ることです。何か他のもので満たされることを求めてしまうのです。そのようにして現実逃避へと流れてしまう。だからこそパウロは言うのです。「むしろ、霊に満たされなさい」と。そして具体的なこととして「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と続けるのです。礼拝について話を進めるのです。

 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」という言葉は、ある意味では奇妙な分かりにくい言葉とも言えます。これについては「交唱」という形で賛美を捧げていたことを指すという理解があります。あるいはコロサイの信徒への手紙には「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)とありますから、賛美を捧げるだけでなく互いに教え合うことも含めて語っているのだ、という理解もあります。そうなのかもしれません。

 いずれにせよ、少なくとも「語り合い」と言うのですから、その言葉は共に集まっていることを前提としています。しかも、「皆それぞれ神様には向いてはいますが、お互いは関係ありません」という集まり方ではありません。「語り合い」というのですから。一緒に神様を賛美しながら、神様の恵みを共有し、喜びを共有し、互いに心が通じ合っている。そういう集まり方を意味するのでしょう。

 そのように集まることが大事なのです。あのペンテコステの日に最初に聖霊が降って一同が聖霊に満たされたのは、皆が集まっていた時でした。初めて異邦人に聖霊が降ったのも、百人隊長コルネリウスの家で皆が集まっていた時でした。今、私たちがこうしているように、集まることは大事です。そして、頌栄教会がもっともっと「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合っている」と言える教会になっていくは大事なことです。

 しかし、大事なのは集まっている時間だけではありません。集まっている時間そのものは決して長くはありません。ほとんどの時は、それぞれの場所に散らされているわけです。それは当然、エフェソの信徒たちにしても同じでした。ですから、このように続くのです。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。これは毎日の生活の話です。

 細かいことを言いますと、日本語ですと19節と20節は切れていますが、原文では繋がった一つの文です。19節は集まっている時について。20節は毎日の生活の話です。そして、この二つは切り離せないのです。

 「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。霊に満たされて、日曜日の礼拝での賛美がさらには毎日の生活へと広がっていくのです。霊に満たされて、私たちの毎日は感謝の生活へと変えられていくのです。

 それは「父である神」への感謝の生活です。独り子をさえ惜しまず与えてくださった父である神。独り子によって成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちをも父の子どもたちとしてくださった神。その愛と慈しみを、いつも、あらゆることについて、私たちに注いでくださっている父である神。その神を礼拝する中で、その神への感謝の生活が、霊に満たされて、形づくられていくのです。

 そのような生活においてこそ、時をよく用いることもできるのでしょう。賢い者として歩むこともできるのでしょう。今が悪い時代であっても、目にしているのが悪い日々であっても、そこに与えられている機会を十分に生かして用いることができるのでしょう。主の御心を行う機会として。

2016年8月7日日曜日

「神のために力を合わせて働く者」

2016年8月7
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章1節~9節

パウロ派とアポロ派の争い
 「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節)。そのように、パウロはコリントの信徒たちに語りかけます。

 「肉の人」という言い方はずいぶん辛辣です。パウロは彼らがクリスチャンではないとは言いません。信仰の失格者だと言っているのでもありません。あくまでも「兄弟たち」と呼びかけているのです。そして、「キリストとの関係では乳飲み子である」と見ているのです。キリストとの関係を失っているわけではない。成長していないだけです。しかし、それでもなお「肉の人」とは辛辣な表現です。

 「肉の人」。この言葉からどんなキリスト者の姿を想像しますか。コリントは大都市です。それは退廃的な町としても知られていました。そのような町に誕生した教会は、当初から様々な問題を抱えていました。深刻な道徳的混乱もありました。そのようなコリントの信徒たちが「肉の人」と呼ばれています。ならば、それが堕落した世俗的クリスチャン、入信前の悪習慣から抜け出せないクリスチャンを意味したとしても不思議ではありません。

 しかし、パウロが真っ先に挙げているのは別のことでした。コリントの信徒たちを「肉の人」と呼んだ時、パウロが見ていたのは互いの間の「ねたみや争い」だったのです。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)。

 そして、さらに具体的に指摘します。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)。なんと分派を作って争っていたというのです。実は分派争いについては、この手紙の一章において既に言及されております。それがこの手紙を書いた一つの理由でもあったようです。

 さて、「パウロ派」と「アポロ派」の争いですが具体的なことは何も書かれていません。しかし、少なくともはっきりしていることはあります。もともとパウロとアポロの対立から生じたものではない、ということです。その意味では、どこかの企業の「社長派」と「会長派」の争いとは異なります。

 パウロは今日の箇所でも言っています。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」(5節)。そして、9節では「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」だと言っているのです。ですから、パウロとアポロが対立していたのでパウロにつく人とアポロにつく人が生じたというわけではありません。

異なるタイプの伝道者
 ならば、どうして「パウロにつく」「アポロにつく」という人々が起こってきたのか。そこで考えられることがもう一つあります。パウロとアポロは様々な点において際だって異なっていたのだろう、ということです。対立してもいない似たもの同士の二人ならば、「パウロにつく」「アポロにつく」という話は起こりようがありませんから。

 使徒言行録によりますと、コリントの町で最初にイエス・キリストの福音を伝えたのはパウロでした。使徒言行録18章にその様子が書かれております。コリントの教会は、パウロの開拓伝道によって生まれた教会でした。パウロは一年半そこに留まって伝道した後、コリントを後にしました。

 パウロが去った後にコリントを訪れたのがアポロでした。使徒言行録には「アポロはそこ(コリント)へ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた」(使徒18:27)と書かれています。そのようなことから、今日お読みした箇所でも「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(6節)と書かれていたのです。

 さて、「植えた」方のパウロですが、もともと彼はガマリエルという高名な教師のもとでユダヤ教のラビとしての訓練を受けた、まさにユダヤ人の中のユダヤ人という人でした。それゆえに熱心な教会の迫害者でもありました。しかし、その彼が復活したキリストに出会い、劇的な回心をして伝道者となったのです。

 そのような人でありますから、キリストのためにまさに命がけで伝道してまわりました。その激しい熱情は使徒言行録からも書かれた手紙からも伝わってまいります。リストラという町では、石を投げつけられ半殺しにされて町の外に引きずり出されました。しかし、彼は起き上がってもう一度その町に入って行く。パウロとはそういう男でした。

 しかし、その一方で第二の手紙には「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる」(2コリント10:10)とも書かれています。決して雄弁な人ではなかったようです。

 一方、「水を注いだ」アポロについては、使徒言行録において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリア出身であることを書いているのは、それが彼の人となりの一端を示しているからでしょう。

 アレクサンドリアは当時ローマに次ぐ世界第2の大都市であり、また七十万巻にものぼる蔵書を有するアレクサンドリア図書館の存在に見るように、学問の一大中心地でもありました。そこから出てきたアポロは「雄弁家」であったと書かれていますが、その言葉は「学識ある人」という含みをも持っています。恐らくは、旧約聖書のみならずギリシア哲学にも精通した知識と言葉の人だったのでしょう。 

 そのように様々な点において異なる二人の教師について、ある人がパウロに惹かれ、ある人がアポロに惹かれたとしても、それは無理ないことかも知れません。しかし、それが互いに分派争いに発展してしまうなら、それは何かがおかしいと言わざるを得ません。

成長させてくださったのは神です
 何が問題なのでしょう。パウロは言うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6‐7節)。

 パウロがそう書かなくてはならなかったのは、明らかにコリントの教会では「大切なのは、植える者であり水を注ぐ者です」となっていたからでしょう。つまり、植える者、水を注ぐ者にしか目が向いていないのです。目に見える人間のことにしか思いが向いていない教会です。人間の能力、人間の行為、人間の生き様、優れた点、劣っている点、その人が何をしてくれたか、何をしてくれなかったか、云々。そのように人間に関することにしか思いが向かなくなっているならば、人間に関することが自分にとって絶対的に重要なこととなってくるでしょう。人間に関することで争いも起こります。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と。彼らの間の違いが絶対的に重要にもなってきますから。

 しかし、パウロは言うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。そうです、彼らがどのような者であれ、そこで神様がしてくださっていることがあるのです。神様がコリントの信徒たちに関わってくださっていたのです。

 細かいことですが、この「成長させてくださった」というのは原文では継続を意味する表現で書かれています。今もそのような御方として関わり続けていてくださるという意味合いです。ならば「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言い合って、ねたんだり争ったりしている間にも、神様は関わり続けていてくださっているのでしょう。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(9節)とはそういうことではありませんか。

 そのように神様がなさっていることがある。神の畑として実り豊かにしようとしていてくださるのです。神の建物として建てあげようとしていてくださるのです。それは完成へと向かう神の救いの御業です。本来ならば、とうの昔に裁かれて滅ぼされていても不思議ではないような者なのに、神は人を用いて植え、人を用いて水をやり、成長させようとしていてくださる。そこにあるのは神の恵みです。

 皆さん、教会に来て、教会生活を始めるならば、そこには植える人がおり、水をやる人がおり、あるいは様々な形でお互いに関わりあいながら生きていくことになります。その人間の姿はどうしたって目に入るし、気にもなるものでしょう。しかし、そこに見ているのはすべて「神のために力を合わせて働く者」なのです。

 大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。私たちの救いを誰よりも願い、そのために独り子をさえ惜しまず与えてくださった御方、そして、今もなお私たちの救いの完成のために尽力してくださっている御方がおられることを忘れてはなりません。その御方にこそ思いを向け、今日も心を合わせて祈りましょう。そこからこそ、大切な方を共に仰ぐお互いのあるべき関わり方もまた見えてくるのです。

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