日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 4章43節~54節
人生の土台が大きく揺さぶられる時があります。今日の聖書箇所にはそのように揺さぶられた一人の人が出てきます。彼は「王の役人」であったと書かれています(46節)。そこで用いられているのは宮廷の高官を意味する言葉です。領主ヘロデ・アンティパスに直接仕えていた有力な高官のようです。彼が裕福であったことは、後に「僕たち」が彼を迎えに来ることからも分かります。しかし、その「王の役人」の人生が根底から揺さぶられることになりました。
それが彼にとってどれほど大きな危機であったかは、カファルナウムから直線距離で30キロは離れているカナまで自ら旅をし、ユダヤ人当局からは危険視され始めていたイエスのもとに来て、見得もプライドもかなぐり捨てて、すがりつくようにして助けを求めたことからわかります。彼をそこまで揺るがしたのは子供の病気というたった一つの出来事でした。その時、地位であれ財産であれ、彼の持っているおよそすべてのものは彼を支え得ませんでした。
実際、「王の役人」に限らず、人間がその土台としているものは何ともろいものかと思います。たった一つの病、たった一つの失敗、たった一つの事件、いやそれどころか、誰かが偶然発したたった一言の言葉によってさえ、揺さぶられ、もろくも崩れていくことが起こります。
しかし、人生の土台が大きく揺らいだ時に、彼は救い主のもとに赴き、神との出会いを経験することになりました。「人間のピンチは神のチャンスである」と言われます。揺らいだ時こそ、揺るぎない御方に出会うチャンスでもあるのです。
しるしを見て信じた人々
この出会いが起こった背景をまず見ておきましょう。「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」(43節)と書かれていました。イエス様は故郷のガリラヤへと向かっていました。ユダヤを去ってガリラヤへと向かわれた理由については、この章の初めに次のように書かれていました。「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、…ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」(1、3節)。そのように、もともとガリラヤへと向かわれた一つの理由は、ファリサイ派の人々との不要な衝突を避けたかったことにありました。
しかし、それだけではありません。イエス様が向かったガリラヤについて、先の言葉の続きはこうなっています。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」(44節)。翻訳では分からないのですが、実は文頭に「なぜなら」という言葉があるのです。それが理由だというのです。つまりイエス様は御自分が敬われないであろうことを予期しながら、それだからこそあえて故郷に行かれたということなのです。
それはなぜなのか。――イエス様が王の役人に語った言葉から見えてくることがあります。主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。このようなことが語られるということは、もう一方において、《しるしや不思議な業を見たから》信じた人が少なからずいたということを意味します。
実は既に2章にこう書かれているのです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。多くの人がイエス様を信じたのです。それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、聖書はこう続けるのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(同24‐25節)。
イエス様のなさるしるし、不思議な業、奇跡を見て信じた人たちがいた。具体的には病気の癒しなどでしょう。それが「しるし」と呼ばれているのは、それが指し示しているものがあるからです。神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。それは神の救いを指し示す「しるし」でした。
しかし、しるしを見て信じた人々の心の内に何があるかをイエス様はご存じだったというのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。すなわち、人々が求めているのは奇跡なのであって神ではないこと。奇跡を起こすイエス様の力を求めているのであって、イエス様を遣わされた父なる神ではないこと。救いをもたらす神の言葉ではないこと。
ある人々は病気を癒すイエスの力を求めてきました。ある人々は彼らを政治的にローマの支配から解放してくれるイエスの力を求めてきました。後にイエスを王にしようとする人たちまで出てきます。だから彼らが求めているものが与えられなければ、期待どおりにならなければ、やがては「十字架につけよ」と叫び出すことにもなるのです。人間の心の内にあるものをイエス様はご存じでした。
だからこそ、そのような人間的な歓迎と熱狂が拡大することを避けて、むしろ歓迎を期待できない故郷へと向かったのです。むしろ歓迎されないことの方がはるかに望ましかったということです。
しかし、予想に反して、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。なぜか。こう書かれています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。
残念ながら、ここにもしるしを見て信じた人々がたくさんいたのです。そして、イエス様のしるしと奇跡を期待して待っていたのです。これが本日の聖書箇所が記している場面であり、その背景です。そこにおいて、先ほど申し上げました宮廷の高官とイエス様との出会いが起こったのです。
御言葉を信じて帰って行った
47節からお読みします。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(47‐48節)。
この人は必死でした。しかし、イエス様のもとに来たその心の内にあったものは、基本的にはユダヤにおいて「しるしを見て信じた」人々となんら変わるものではありませんでした。彼はイエス様が病気を癒してくださる方だということを聞いたのでしょう。だから、その癒しの力が必要だと思った。病気である彼の息子にその癒しの奇跡が必要だと思ったのです。
確かに彼の息子には癒しが必要なのでしょう。しかし、彼は重大なことを見落としていました。それは、救いを必要としているのは自分自身なのだ、という事実です。人生が根底から揺さぶられているのは彼自身なのです。たった一つの出来事で容易に崩れてしまうような人生の土台しか持っていないことを突きつけられているのは彼自身なのです。死を越えた真の拠り所がないままに生きてきたのは彼自身なのです。本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身なのだということに彼は気づいていないのです。
そう、この役人は気付いていません。だから、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と問題を指摘しても、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願うのです。彼はなおもイエスの持っている癒しの力を息子のために求めます。そのような父親にイエス様はそのようなこう言われたのでした。
「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。イエス様はその父親に信じることを求めたのでした。イエス様の御言葉を信じることを求めたのです。御言葉を信じるということは、イエス様御自身を信じるということでもあります。それはイエス様を父なる神から遣わされた御方として信じることでもあります。それは遣わしてくださった父を信じることでもあります。そのように先の見えない現実について、神とキリストとその御言葉に全幅の信頼を置くことです。
そして、イエス様は信じたように行動することを求めました。信じたのなら、そこから立ち上がって実際に一歩を踏み出さねばなりません。主は言われます。「帰りなさい」と。「あなたの息子は生きる」と言われる主を信じるなら、彼は立ち上がって、カファルナウムに向かって一歩を踏み出さなくてはならないのです。
彼はそうしました。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)とあります。そして、奇跡が起こりました。息子は癒されました。そうです、奇跡は起こります。しかしそれは、ただ奇跡を求め、癒しをもたらす力を求めてそれを得たからではありませんでした。信頼すべき御方とその御言葉に信頼して生きたときに、奇跡は賜物として与えられたのです。
だから、奇跡が起こり、癒しが起こって、「ああ、よかった」で終わりませんでした。ただ次なる奇跡や癒しを求めるようになったのでもありませんでした。そうではなく、この出来事はまさに「しるし」となったのです。神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との信頼に満ちた交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。それは神の救いを指し示す「しるし」となりました。
そして、「彼もその家族もこぞって信じた」と書かれています。イエス様は「あなたの息子は生きる」と言いましたが、今や、家族すべてが「生きる」ものとなりました。そう、本当の意味で生きたのは息子だけではありませんでした。なぜなら、後に主がこう言っておられるからです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)。あの父親も家族も命にあずかることとなりました。