日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 10章10節~17節
主の名を呼び求める者はだれでも救われる
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)と書かれていました。旧約聖書のヨエル書3章5節の引用です。これをイエス・キリストについての預言として引用しているのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。
「だれでも」です。実際、その直前には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と書かれています。私たちにはピンときませんが、当時の人にとっては驚くべき言葉です。ユダヤ人とギリシア人は、いわば異なる者の代表だったからです。幼い時から聖書を学び、宗教的な戒律を守って生きてきたユダヤ人にとって、神の律法を知らないギリシア人と一緒にされるのは耐え難いことだったでしょう。それはギリシア人にとっても同じです。自分たちを選民と見なし、他の民族をすべて汚れた民として見なす不愉快極まりないユダヤ人たちと一緒にされたいとは思わないでしょう。
しかし、パウロは「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と言ってしまうのです。なぜか。神の目には変わらないからです。神の御前においては同じだということです。それは「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、同じ人間ではないか」ということでありません。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、神の前においては同じ罪人である、ということです。既に最初の1章と2章において論じられ、まとめが次のように書かれていました。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(3:9)。言い換えるならば、どちらも救われるにふさわしくないということです。
私たちはそれぞれ違います。その違いのゆえにしばしば対立し、裁き合います。異なるお互いが上下を争います。しかし、聖書は言うのです。すべての人間は神の御前に平等だと。それは人間だから平等なのではありません。神の前に正しいとされる人間はいないという意味において平等なのです。救われるにふさわしくないという点において、すべての人間は平等なのです。
しかし、そのような私たちだからこそ、「すべての人に同じ主がおられ」と書かれているのです。その「主」とは、イエス・キリストです。すべての人の罪を代わりに負って、すべての人のために十字架におかかりくださったイエス・キリストです。そのようにすべての人のために苦しみを受けてくださった御方です。それゆえに「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と書かれているのです。
その方の前ではユダヤ人もギリシア人もありません。私たちのお互いの違いも関係ありません。その人が何者であるかは関係ありません。どこに生まれ、どのように育ってきたかは関係ありません。過去に何をしてきた人であるか、関係ありません。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
宣べ伝える人がなければ
しかし、そこでパウロはこのように続けます。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(14‐15節)。
ここで語られていることは、至極もっともなことでしょう。人がイエス・キリストを呼び求めるとするならば、それはイエス・キリストを信じるからこそ呼び求めるのでしょう。ならば、その信仰はどのようにして生じるのか。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」とパウロは言います。信仰は聞くことから始まるのです。17節にも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と書かれています。今日の説教題はここから取りました。
「信仰は聞くことによって始まる」。これも至って当然のことのように思えます。キリストについて全く聞いたことがなかったら、キリストを信じることは不可能です。キリストを信じるためには、少なくともキリストについての情報を与えられなくてはなりません。
しかし、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」と書かれているのは、そのようなキリストについての情報を与えることを言っているのでしょうか。するとその後に書かれていることはどういうことでしょう。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」。キリストについての情報を与えることならば、別に遣わされなくてもできるでしょう。知っていれば、教えることはできるのですから。そうしますと、どうもここで「宣べ伝える」というのは、単に“キリストについて”語るということでなく、「聞く」というのも、単に“キリストについて”聞くことではなさそうです。
ならば「宣べ伝える」とはどういうことなのか。「宣べ伝える」とは遣わされた者として語ることなのです。その背後に遣わしてくださった方がおられるのです。遣わすのは救うためです。救いたいからです。救いたいと思っておられる方が背後におられるのです。自らが十字架にかかってでも、なんとしてでも救いたいと思っておられる方が背後におられるのです。それほどに愛してくださっている方が背後におられるのです。その御方の思いを伝えるのです。その方に代わって語るのです。「宣べ伝える」とはそういうことです。それが教会のしてきたことであり、教会が今もしていることなのです。だから宣教の言葉は「キリストの言葉」と呼ばれているのです。教会が語っている、人間が語っている。確かにそうです。しかし、本当はキリストが語っておられるのです。
ここにいる私たちも人間の宣教を通してキリストを知ったのでしょう。誰かが語ってくれたからキリストを知ったのでしょう。しかし、本当は語っておられたのはキリストなのです。救おうとしていてくださったのはキリストなのです。愛してくださっていたのはキリストなのです。
ならば、「聞く」ということも、そのようなキリストの語りかけに耳を傾けることに他なりません。「キリストの言葉」を聞くのです。実際に語っているのは、例えば礼拝においては「牧師」なのかもしれません。しかし、牧師の言葉を聞くのではないのです。牧師の話が良かった、良くなかった、で終わらせてはならないのです。背後には遣わしてくださった方がおられるのです。救おうとしておられるのはキリストなのです。愛してくださっているのはキリストなのです。その「キリストの言葉」を聞くのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。
信仰は聞くことによる
「信仰は聞くことによる」。これは実に奥深い言葉です。信仰の本質に関わる言葉です。私たちが真に信仰に生きようと思うなら、主の御名を呼ぶ者として生きようと思うならば、聞くことを大切にしなくてはなりません。
聞くことを大切にしないとどうなるのか。信仰とは言いながら、いくらでも人間が中心の営みになっていきます。信じるも信じないも私次第。捨てるも捨てないも私次第。先に自分の考えていることがあって、それに適合するならば受け容れましょうと言う。先に望んでいることがあって、それに役立つことであるならば信じましょうと言う。あくまでもこちらは自分の持っている基準に従って正しいか正しくないかを語る側、良いか良くないかを語る側。しかし、それは信仰と呼べるのでしょうか。
少なくとも、それはパウロがここで言っている信仰とは別物です。それは人間が持つこともできるし捨てることもできる一宗教としてのキリスト教でしかありません。仮にそうやってキリストを信じたとしても、受け容れたとしても、他の何かが自分の判断基準に適合しさえすれば「なにも特にキリストでなくてもいいのです」ということにもなるのでしょう。
キリスト教という宗教の話なら、別にそれでも良いと思います。しかし、ここで語られているのは全く異なることなのです。復活して天に挙げられたキリストが人を遣わされるのです。キリストが人を遣わして宣べ伝えさせ、キリストが語られるのです。人がそのキリストの言葉に耳を傾けるときに、人はキリストの言葉によって光のもとに引き出されるのです。キリストの言葉によって揺り動かされるのです。キリストの言葉によって打ち砕かれのです。へりくだらされるのです。滅びるしかない自分であることを見いだすのです。そこにおいて、救いに値しない自分自身をただキリストの恵みにゆだねるということもまた起こるのです。そのようにして、人はキリストを呼び求めて生きる者となるのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。
ここに私たちが御言葉を聞くことを大切にする理由があります。御言葉を聞き続ける理由があります。主は福音を語り続けていてくださる。私たちのために十字架にまでおかかりくださった方が、私たちの救いのために語り続けていてくださる喜ばしい知らせがそこにあります。
そして、そこにはまた聞き続ける理由だけでなく、語り続ける理由もあるのです。教会は遣わされた者として宣べ伝え続ける。なぜか。キリストが今なお救いのために語り続けておられるからです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。パウロはこの言葉を、ある痛みをもって書いています。というのも、彼の同胞であるユダヤ人たちの多くがいまだイエスをキリストとして受け入れてはいなかったからです。彼らの多くはまだイエス・キリストを呼び求めていないのです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。そうです、「だれでも」です。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができるでしょう。そうです、宣べ伝える人がなければ、宣べ伝える教会がなければ、どうして聞くことができるでしょう。そのために自分が遣わされていることをパウロはよく知っていました。私たちもまた知っています。キリストは私たちをこの世に遣わしてくださっています。キリストの言葉がまだ聞かれていない多くの人々のただ中に、私たちは遣わされているのです。