日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~25節
肉である「わたし」
「他人を変えようとせず、まず自分が変わりなさい」。「相手を変えようと思ったら、まず自分が変わることです」。問題が持ち上がった時に、よく耳にする勧めです。そう言われると、なるほどもっともだと思います。しかし問題は、変わるべき「自分」がそうやすやすと変わってはくれないということなのでしょう。それは時として他人を変える以上に難しい。かえって「変わらない自分」という問題を一つ余計に抱えて悩みを深くするということも起こってまいります。
あるいはそのような時、「良き教師」、「良き模範」、「良き教え」が必要なのだ、と考えるかもしれません。そう単純な話ではなさそうです。「良き教師」「良き模範」と言うならば、イエス様以上に良き教師、良き模範はいないとも言えます。そして、そこには良き教えもありました。しかし、弟子たちはどうだったでしょう。イエス様と寝食を共にした弟子たちが、本質的にはさほど変わってはいなかったことを聖書は正直に伝えています。
彼らは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えられていたのでしょう。また「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられていたのでしょう。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられていたのでしょう。またイエス様御自身がその模範でもあったのでしょう。ところが、なんと最後の晩餐において、イエス様が間もなく捕らえられようとしている緊迫した場面において、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかと彼らは議論していたと言うのです(ルカ22:24)。三年半イエス様と寝食を共にした弟子たちの姿です。そして、彼らは皆、イエス様を見捨てて散り散りに逃げてしまいます。なるほど人間が変わるのは、良い教師がいても難しい。
あるいは、具体的に自分を律する生活が必要なのだと人は考えるかもしれません。そして、あえて厳しい規律のある生活に身を置くことを考える人もいるのでしょう。そのような人を私たちも知っています。規律ある生活の中で自らを律して生きていた人として、恐らくこの人の右に出る人はいないと言えるような人。パウロです。
彼は厳格なユダヤ人の家庭に生まれました。後にガマリエルという有名なラビのもとで律法を学びました。その律法に従って生きようとしました。徹底的に神の前に正しく生きようとしたのです。そして彼は「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と言ってのけます。非のうちどころのないほどに律法を遵守して生きたのです。
しかし、そのように徹底的に自らを律して生きた結果はどうだったでしょう。彼はこう言っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか」(ローマ7:18‐20、24)。
確かに彼は自分を律し、律法の規定は守ってきたかも知れません。しかし、そのようにすればするほど、自分の内にある変わらざるものが見えてくるのです。いかんともしがたい惨めな自分自身を知ることになるのです。外側を繕うことは出来るのでしょう。彼は誰にもまして正しい人間として評価されていたに違いない。しかし、内側が変わらないのです。本質的に変わらないのです。
人間にとって最大の問題は、この「わたし」という存在です。罪が宿ったこの「わたし」です。変わりたいとは思います。新しくなりたいとも思います。しかし、私たちの内には自身の手に負えない古い「わたし」が居座っているのです。聖書はその古い生まれながらの「わたし」を「肉」と呼びます。今日お読みした聖書箇所に繰り返し出てきた言葉です。
この「肉」という表現は、確かに分かりにくいかもしれません。ですから、「罪深い性質(Sinful Nature)」などと意訳している聖書もあります。しかし、もう一方において自分自身の事として捉えるとき、「肉」という強烈な表現はある意味ではピンときます。そう、問題は「肉」なのです。この「肉」は外側から圧力をかけたぐらいでは変わらない。私たちの頑張りでは対処できないこの「肉」をどうしたらよいのでしょう。
神の霊が共に
そこで今日の聖書箇所を読んでみますと、そこには「肉」について語られていると共に、「霊」について語られているのを見ることになります。この「霊」とは人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊を意味しています。ここで神の霊の話が出て来るのはある意味では当然です。これは教会に宛てた手紙であり、内容は信仰生活に関することだからです。「肉」についてだけではなく「霊」について語ることができる。「肉」についてだけでなく「神」について語ることができる。それが信仰生活です。そして、「霊」について語ることができるところに、私たちの希望もあるのです。
次のように書かれていました。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(16‐17節)。
「肉と霊とが対立し合っている」と聖書は言います。肉だけが支配するのではないのです。肉だけが好きなように引っ張っていくのではないのです。肉が野放しにされた猛獣のように好き勝手に振る舞うならば、そこに何が起こってくるのか。「肉の業は明らかです」と言って、パウロは次々に「肉の業」を挙げていきます。「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19‐21節)。それらが人間の幸いと結び着くとは思えないでしょう。さらに言えば、その先に神の国があるとも思えない。しかし、ありがたいことに、肉だけが支配するのではないのです。信仰生活においては、神の霊が入ってきてくださって、肉に対立してくださるのです。
「肉と霊とが対立し合っている」ということは、そこで葛藤が起こるということでもあります。肉が望むことを行おうとする時に、肉が「肉の業」を行おうとする時に、私たちの内に葛藤が起こるのです。なぜなら「肉に反する」ことを望んでいる「霊」が対立しているからです。そこで私たちの内に葛藤が起こります。かつては苦しみでも悲しみでもなかった「肉の業」が、苦しみとなり悲しみとなります。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」ということも起こってきます。
信仰生活がスタートした後に、自分の罪深さに悩んだり、涙を流すようになったとしても、そのことに驚いてはなりません。まさに問題は肉なる自分自身だということと向き合うこととなったとしても、それは起こるべくして起こることなのです。肉に対立する聖霊が来られたのですから。それは通らざるを得ないプロセスなのです。
葛藤を避けて、葛藤から逃げて、そこで信仰生活を放棄してはなりません。既に義とされているのです。既にキリストにあって神の子どもとされているのです。聖霊を与えられているのです。だからこそ、あくまでも「霊の導きに従って歩みなさい」と聖書は言うのです。そのような時こそ、自分の内に働いておられる聖霊を意識して生きるべきなのでしょう。
そうしてこそ、聖霊が望むところが実現していくのです。それを聖書は「霊の結ぶ実」と表現しています。それは律法のように外側から課せられた変化ではありません。神が聖霊によって内側から起こされる変化です。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22‐23節)。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。実は私たちが作るべきものではなくて、実るものです。実りは神から来るのです。
「霊の結ぶ実は愛である」と書かれています。私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることはできません。さらに「喜び、平和」と続きます。人間の力によって喜びと平和に満ちた人になることはできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。これらは努力して獲得すべき徳目ではなくて、聖霊が支配するところに永遠の命の現れとして生じるものなのです。聖霊が私たちの内に結んでくださる実なのです。
リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実を「作ろう」とするならば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るのです。ですからリンゴの木を大切に育てることが大事なのでしょう。同じように、私たちにとって大事なことは、私たちの決意や努力によって肉を克服して「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうとすることではないのです。そうではなくて与えられている信仰を大切にし、いわば信仰生活という木を丁寧に育てていくことなのです。私たちは「肉」について語るだけでなく「霊」について語ることができるのですから。罪を赦され、神の子どもとされたことを喜び、聖霊に導かれて生活していくことです。