2016年1月31日日曜日

「試練がこの上ない喜びに」

2016年1月31日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブの手紙 1章2節~8節


この上ない喜びと思いなさい
 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)。本日の聖書箇所はこのような言葉から始まっていました。

 このような言葉に出会いますと、まず考えるのは「そんなことがいったい可能だろうか」ということだろうと思います。わたしもこれまで何度この言葉の前に立ち尽くしたことかと思います。しかし、この聖書の言葉を前にして可能か否かを考えていることは恐らく意味がないのです。なぜなら、これを書いているヤコブはそんなことを全く問題にしていないからです。「この上ない喜びと思いなさい」と彼は言うのは、そう思ってよいことを知っているからなのです。

 それが何であれ、その価値を知っている人は言うことができます。「それを得たなら、喜びと思いなさい」と。例えば、家に昔からある汚い古い壺。「じゃまだな。こんなもの取っておいて何の意味があるのかな」とその家の人が思っています。しかし、それが実は室町時代の著名な作家の作品だと知っている人は言えるのです。「それを持っているなら、この上ない喜びと思いなさい」と。

 ヤコブは試練の価値を知っているからこう言えるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。いや本当はあなたたちも知っているはずでしょう、と言わんばかりです。彼はこう続けるのです。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。「忍耐が生じる」。そこに彼はこの上ない価値を見出しているのです。さて、私たちはそこにどれほどの価値を見出しているでしょう。

信仰が試されて忍耐が生じる
 試練の時、私たちが往々にして求めるのは私たちの外にある何かが変わることです。その試練が、例えば迫害であるならば、迫害がなくなることを求めるのでしょう。ここでは「いろいろな試練」とありますから、必ずしもヤコブが考えているのは迫害だけではありません。次から次へと襲い来る困難な状況、理不尽な仕打ち、苦しみ、悲しみ。そのような中にあったなら、やはり困難な状況がなくなるように、苦しみをもたらす人々がいなくなるようにと願うものでしょう。

 しかし、試練の中にあって本当に重要なことは外なるものの変化ではなくて内なるものの変化なのです。試練の中で何が起こってくるのか。そこで「信仰が試される」のだと彼は言います。何もなければ「わたしはまったく不信仰で・・・」などと平気で言っていられるかもしれません。しかし、試練の中においては、それでもなお信じるのか、どこまでも信じるのか、信仰に留まるのかが問われます。
 そこでなお信じるとするならば、真剣にならざるを得ない。そこで既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろうとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良く見えてくる。より良く聞こえてくる。信仰による希望がはっきりと見えてくる。そのようなことが試練の中で起こるのです。

 それは皆さんと共に教会生活をしていると良く分かります。試練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってくる。礼拝をしている時の姿が変わってくる。そのようなことは確かに起こります。このように、信仰が試される時は、信仰が確かにされる時ともなるのです。希望が確かにされる時ともなるのです。

 そこから何が生じるのでしょう。忍耐が生じるのだ、とヤコブは言うのです。「忍耐」という言葉は「留まる」という言葉に由来します。それは留まる力です。どこに留まるのか。信仰に留まるのです。ですからこれはまた「期待」とか「待望」をも意味する言葉でもあります。ただ留まるだけではない。そこから希望をもって未来に目を向けるのです。どんな時にも、どんな状況においても、信仰に留まり、希望を失わないでいられるようになること。忍耐が生じるとはそういうことです。

 外なる変化ではなく、内的な変化、内側に生じる忍耐という変化の方がはるかに価値あることは明らかです。なぜなら外なるものはいずれ移り変わっていくからです。苦しみをもたらすものが取り除かれたとしても、別な苦しみがやってくるのです。やっかいな人がいなくなったとしても、別なやっかいな人が現れるのです。外なるものの変化は最終的な解決にはならないのです。

 しかし、内に生じたものは、真に身に着けたものは、周りが変わっても変わらないで残ります。それはどこに行っても、どんな状況に置かれても、ついてまわります。自分の内にあるのですから。良いものが内に生じるなら、それは一生ついてまわるのです。それほどありがたいことはない。大切なことは、良いものが内に生じることです。

 そして、忍耐という良いものが生じるならば、信仰に留まり続け、神との交わりに留まり続けるわけですから、忍耐だけで終わることはないのです。ヤコブはさらに言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。

 「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐は働くのです。そして、さらに良きものをもたらすのです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、「それは無理です」と言わざるを得ない。しかし、これは努力目標ではなく、信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。だから感謝して信じるのです。

 ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。

 ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです。

 それゆえヤコブは言うのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。それは価値を知る人の言葉、喜びと思って良いことを知っている人の言葉です。

知恵を求めよ
 しかし、「試練」と訳されているこの言葉はまた「誘惑」とも訳される言葉でもあります。一つの苦難は既に述べたような価値ある「試練」ともなり得ます。しかし、同じ苦難が「誘惑」ともなり得るのです。それは人間を神から引き離し、罪へと引きずり込む力としても働き得るのです。だからこそ、ヤコブはさらに続けてこう語るのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。

 ここで語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。問題を回避しながら上手く世渡りするための知恵でもありません。そのような知恵ならば神に求める必要はないでしょう。しかし、悪魔の欺きによって神から引き離されないためには、神からの知恵が必要です。苦難を誘惑にしないためには知恵が必要です。直面している現実の中に神が与えてくださっている価値あるものをしっかりと見て生きるためには、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。

 実際、私たちの日常には「なぜ」と問わざるを得ないようなことが起こります。この世界の現実を見ていても「なぜ」と問わざるを得ないのです。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜこんな目に遭うのか」。しかし、もしただ「なぜ」を宙に向かって、あるいは人に向かって繰り返しているだけならば、それは誘惑に対して扉を開くことになります。悪魔はいくらでもそこから入ってきて人を神から引き離しにかかるでしょう。

 もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問うているだけではだめなのです。詩編の中にも見るように、本気で神に向かわなくてはならないのです。本気で神に問わなくてはならない。現実を正しく見るための知恵を、本気で神に求めなくてはなりません。「神様、わたしはあなたを信じられない」などと言っている場合ではありません。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(6‐7節)と語ります。

 そうです。疑ってなどいられる場合ではありません。神に求め神から受けるのでなければ、結局は粗末な人間の知恵、自分の知恵をもって生きるしかないのです。そして、苦難があれば誰かを悪者にし、挙げ句の果てには神を悪者にして生きるか、あるいはもう何も問うことなく現実に目をつぶって生きるしかないのです。そこでは何も良きものは内に生じることもないでしょう。

 そのように、苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。苦難は自動的に価値ある「試練」になるわけではありません。それは誘惑としても働くのです。悪魔の力としても働くのです。そのような誘惑に陥らないためにも、必要なのは神からの知恵です。苦難の中にある時にこそ神に向かなくてはなりません。祈らなくてはなりません。ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に知恵を願い求めるべきなのです。

2016年1月24日日曜日

「あなたは、いったい、どなたですか」

2016年1月24日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 8章21節~30節


罪のうちに死ぬことになる
 イエス様は言われました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。

 このときイエス様は神殿の境内で教えておられました。宝物殿の近くでなされたファリサイ派のユダヤ人たちとのやりとりが直前に記されております。この言葉も直接的にはファリサイ派の人々に対して語られたものと見てよいでしょう。それにしても「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とは激しい言葉です。辛辣な言葉です。こんなことを言えば誰であれ腹を立てるでしょう。

 しかし、考えてみるとイエス様は何も特別なことを言っているわけではないとも言えます。当たり前のことを言っているに過ぎない。それは彼らがファリサイ派だからというわけではなく、イエス様に敵意を向けているからでもなく、ある意味では全ての人について言えることでもあるのです。

 というのも神から見て罪のない人間など一人もいないからです。人生には人の目に触れていることと人の目からは隠されていることがあります。そのような人生を終える時に、「わたしは罪を犯しませんでした」と言える人はいないでしょう。その意味では人間は誰しも罪人として死ぬことになるのです。「罪のうちに死ぬことになる」。そのとおりです。

 それは死に際してでなくても、人生の途上においても分かっていることなのです。私たちは後戻りできない日々を生きています。元に戻ってやり直すことができない。神に背いたことをしたならば、その事実は残るのです。後戻りして消すことができない。その意味でイエス様がある時、人間の罪を借金に喩えたのは適切だと言えます。借金は忘れても残る。罪の負い目も忘れても残ります。人は罪の負債を抱えたまま最後の日を迎えることになるのです。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。それはあの時、あの場所にいたファリサイ派の人たちだけの話ではありません。

 だからこそ人間には救いが必要なのです。自分ではどうすることもできないからです。また、他の人間によってはどうすることもできないからです。他の人間は救いを与えることはできません。なぜなら他の人間もまた自分の罪の負債を抱えている者だからです。自分自身について救いが必要だからです。人間同士はこの世のことについて助け合うことはできるかもしれません。しかし、人は他の人に救いを与えることはできません。自分の罪のうちに死ぬことになるという事実については一切手を出すことができません。だからこそ人間からではない、天からの救いが必要なのです。

わたしは上のものに属している
 そして、天からの救いは来たのだと聖書は伝えているのです。イエス・キリストという御方として。その方は自分自身についてこう語ります。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(23節)。イエス・キリストという方は、こういうことを大まじめに語られる方なのです。どう思いますか。このような方を世々の教会は信じてきたし、私たちも信じているのです。

 この御方を信じるということは、自分がもともと「下のものに属している」ということを認めることでもあります。自分たちはもともと「この世に属している」存在なのだと認めることです。そこに「上のものに属している」という御方が来なかったならば、私たちはもともと上のものには無縁なのです。下のものに属している者として、この世に属している者として、この世のことだけを考えて、下のものに属していることばかりを考えて、下のものに属していることに振り回され生きるしかなかったのです。下のものに属していることに動かされて罪を犯して、下のものに属している者として死んでいくしかなかったのです。罪のうちに死んでいくしかなかったのです。そのことを徹底的に認めてこそ、「わたしは上のものに属している」というイエス様の言葉を救いの言葉として聞くことができるのです。

 その御方がさらにこう言われます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)。「わたしはある」ということを信じないなら――明らかにぎこちない翻訳です。しかし、この言葉はユダヤ人ならばピンと来るのです。よく分かる。なぜなら誰もが知っている物語があるからです。

 その昔、イスラエルがエジプトの奴隷であったとき、解放者として神から選ばれたのはモーセという人物でした。彼はミディアンの羊飼いでした。その日も彼は羊の群れを荒れ野の奥へ追っていき、ホレブという山まで来たのでした。すると彼は柴が火に燃えているのを見た。燃えているのに燃え尽きない。この不思議な光景に誘われて近づくと柴の中から声がした。神の声でした。

 神はモーセに命じました。「今、生きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。当然、モーセは尻込みします。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださねばならないのですか」。すると神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 モーセは「共にいる」と言われる神に名前を尋ねました。人々から聞かれた時に何と答えましょうか、と。その時に神はモーセにこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。そして、さらにこう言われたのでした。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト記3:14)。

 このように聖書の神は「わたしはある」という名前なのです。それは「わたしはいる」と言い換えてもいいでしょう。神が「わたしはいる」と言われるなら、ただ一般的に神は存在する、ということではなくて、それは「あなたと共にいる」ということです。モーセに言われたとおりです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。それが聖書の神の名なのです。共にいてくださる神を意味する名前です。

 そして、今日の箇所ではイエス様が御自分を指して「わたしはある」と言われるのです。イエス様が共におられるということは、かつてモーセを遣わした救いの神が共におられるということなのだ、と主は言っておられるのです。「上のものに属している」方が来られた。救いのために来られた。この方を通して父なる神が語られるのです。父が働かれるのです。人間は人間を救うことができないから、天から独り子なる神が来られたのです。そのことを信じないならば、「わたしはある」ということを信じないならば、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と主は言われるのです。それはある意味では当たり前のことです。天の救いを退けるならば、もはや救いはどこにもないからです。

あなたは、いったい、どなたですか
 さて、ここまで聞いて、彼らはイエス様に問いました。「あなたは、いったい、どなたですか」。これに対してイエス様は答えます。「それは初めから話しているではないか」と。そうです。イエス様がこのようなことを語っているのは、ここだけではありません。ヨハネによる福音書全体を貫いていると言ってもよいでしょう。一度じっくりとイエス様の言葉一つ一つを改めて読んでみてください。イエス様が御自分について何と言っているか、読んでみてください。この御方が、いわゆる立派な教師であるとか偉大な宗教家という範疇にくくれないことが分かります。「あなたは、いったい、どなたですか」。

 私たちはいったいどなただと思っているのでしょうか。繰り返しますが、イエス・キリストとはこのようなことを大まじめに語られる方なのです。そして、世々の教会はそのような御方をその御言葉と共に大まじめに信じてきたのです。二千年の長きにわたって信じてきたのです。時に迫害を耐え忍びながら、命さえも脅かされながら、それでもなお信じてきたのです。この御方は「上のものに属している」御方であると。下のものに属していた私たちが救われるために、この世に属していた私たちが救われるために、罪のうちに生きて、そして死んでいくしかなかった私たちが救われるために、滅びるしかなかった私たちが救われるために、この世に来てくださった御方であると。

 イエス様は今日の箇所で人々にこう言っておられました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。その言葉のとおり、イエス様は確かにこの地上を去られました。父のもとに帰られました。その意味で「わたしは去って行く」と言われたとおりになったと言えます。しかし、もう一方において、イエス様はまだ去ってはおられないとも言えます。今もなおキリストの体である教会がこの地上に存在しているとはそういうことです。イエス様は今もこの世において生きて働いておられます。「上のものに属している」御方が、今もこの地上において永遠の救いを与えるために働いておられるのです。

 教会とはそのようなところです。私たちはここで天に属する方を信じ、その方につながって生きるのです。教会の営みはただこの世のことに関わっているのではありません。天に関わっているのです。バプテスマも天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なる水遊びでしかないでしょう。聖餐も天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なるままごとでしかないでしょう。

 会堂建築もそうです。単にこの世における必要を満たすためのこの世の建物を建てることしか考えないなら、会堂建築はできないと思います。私たちは天に関わること、永遠の救いに関わることに取り組もうとしているのです。天を思わずして行うなら、ただ人間のことしか考えていないなら、この世のことしか考えていないなら、本当の意味で教会の営みとはなりません。私たちが信じるイエス・キリストは「わたしは上のものに属している」と宣言される御方ですから。

2016年1月17日日曜日

「メシアに出会った人々」

2016年1月17日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章35節~42節


何を求めているのか
 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」(35‐36節)。今日の福音書朗読はこのような言葉から始まります。

 「見よ、神の小羊だ」という言葉を二人の弟子がどのように理解していたかはわかりません。しかし、明らかに彼らは従うべき方を指し示す言葉としてこれを聞いたようです。話はこのように続きます。「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(37節)。

 もともと彼らはヨハネの弟子であったわけですが、なぜヨハネの弟子となったのかその理由を私たちは知りません。彼らがヨハネの弟子となった経緯も知りません。ただ知っているのは洗礼者ヨハネが当時の社会において大きな影響力を持っていたということです。

 他の福音書は次のように伝えています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:4‐5)。

 エルサレムの当局者たちもこの運動を無視することはできなかったのでしょう。いや、脅威すら感じていたのかもしれません。彼らがエルサレムから調査団を派遣せざるを得なかった様子がヨハネによる福音書にも記されています。

 そのような影響力ある人物に、ある時からこの二人は従い始め、ヨハネの弟子となりました。その直接的な理由は分かりませんが、少なくともそこには何らかの求めがあったでしょうし、何らかの期待があったはずです。

 しかし、彼らが期待をかけて従っていた当のヨハネは自分ではなく他の人物を指し示していたのです。先週読まれた箇所にもこう書かれていました。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(29‐30節)。

 今日読まれたのは、そのまた翌日の出来事です。そこで二人は再びイエスを指し示す洗礼者ヨハネの言葉を聞くことになりました。「見よ、神の小羊だ」と。彼らは意を決してその方に従い始めます。洗礼者ヨハネの弟子からイエスの弟子へ。それは大きな決断であったに違いありません。

 しかし、彼らが洗礼者ヨハネではなくイエスに従い始めるとするならば、そこで改めて問われることになるでしょう。――それは何を求めてのことなのか。何を期待してのことなのか。実際、彼らはイエス御自身から問われることになりました。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた」(38節)。これがヨハネによる福音書に記されているイエス様の第一声です。

 私たちもまた、他の誰かではなく、他の何かでもなく、イエス様について行こうとしています。私たちが今、教会にいるということはそういうことでしょう。主の日にイエスの御名によって集まって礼拝を捧げているとはそういうことでしょう。その私たちにイエス様が振り返って「何を求めているのか」と問われたら、あなたなら何と答えるでしょうか。

 この福音書が書かれた頃の人々にとっても、この問いは大きな意味をもっていたはずです。というのも、その頃、キリスト教会はある一つの危機を迎えていたからです。それまでキリスト教会はユダヤ教の一派として認識されていました。「ナザレ派」などと呼ばれていました。しかし、紀元一世紀も終わり近くにさしかかった頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。イエスがメシアであると公に言い表す者は、会堂から追放されることになりました。ユダヤ人から迫害の対象となることが確実になっただけではありません。ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象にもなり得ることを意味していました。

 そのような試練の中で、この福音書は書かれ、読まれたのです。その時、そこで最初に聞くイエス様の言葉は、「何を求めているのか」でした。他の誰かではなく、他の何かでもなく、イエス様に従っていくとするならば、困難に直面しても、それでもなおこの御方に従うとするならば、改めて問われことになるでしょう。「何を求めているのか」。そこで求めているものが命よりも大事ならば、命の危機にさらされてもイエス様に従っていくことになるのでしょう。そうでなければ、イエスのもとから去ることになるでしょう。「何を求めているのか」――私たちは何と答えるでしょうか。

来なさい。そして、見なさい
 さて、「何を求めているのか」というイエス様の問いから始まるやり取りを、福音書は次のように伝えています。「彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(38‐39節)。

 表面的に見るならば、たいした会話でもたいした出来事でもありません。イエス様がどこに宿泊しているのかを聞いた。イエス様は、「来たら分かるよ」と言った。彼らはついていって宿泊している場所を見た。そして自分たちも泊まることになった。それだけの話です。「何を求めているのか」という問いに対しては、答えたとも言えるし、それこそ表面的にしか答えていないと言えます。

 しかし、もう一方において、この他愛の無いやり取りから始まる弟子たちとイエス様との物語そのものが、「何を求めているのか」という主の問いに対する答えであったとも言えるのです。事実、今日の箇所には、この物語全体にわたって現れるキーワードが繰り返されています。それは「泊まる」という言葉です。他のところでは「留まる」あるいは「つながる」と訳されている言葉です。例えば15章のぶどうの木のたとえで、「わたしにつながっていなさい」と主は言われるところに繰り返されているのがこの言葉です。そのように「留まる」という言葉は後々まで大きな意味をもって繰り返し現れます。その意味で今日お読みしたやり取りは事の発端に過ぎないのです。

 彼らは尋ねました。「どこに泊まっておられるのですか。あなたはどこに留まっておられるのですか」。さて、イエス様はどこに留まっておられるのでしょう。イエス様は言われました。「来なさい。そうすれば分かる」と。原文では「来なさい。そうすれば見るだろう」となります。「来なさい、そして、見なさい」とする写本もあります。意味としては同じです。

 「来なさい」。だから彼らはついて行きました。その日だけではありません。この福音書を読みますと、彼らはついて行って、ついには約三年半もの間、イエス様と生活を共にすることになるのです。そして、さらについて行って、ついにイエス様は捕らえられて十字架にかけられて殺されることになる。さらにその三日後、復活されたイエス様が彼らの中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われるのを見ることになる。「来なさい。見なさい」と主は言われました。これらすべてを通して、彼らはいったい何を見たのでしょう。

 彼らは、イエス様がどこに留まっているのかを確かに見たのです。彼らはついて行って、見たのです。イエス様はどこに留まっているのか。どこに?――父の愛の中に。父なる神との愛に満ちた交わりの中にです。彼らはいつでも父なる神の愛の中あり、決して失われることのない交わりの中にあるイエス様を見たのでした。父の名を呼び、父を愛し、父に信頼し、父の御心ならば十字架にさえ向かうその姿。そこに親子の揺るぎない交わりを見たのです。さらに復活したキリストの姿の中に、もはや何ものも奪うことのできない、死さえも奪うことのできない父との交わりを見たのです。彼らは永遠の命を見たのです。

 そして、イエス様についていった彼ら自身はどうなったのでしょうか。イエス様がおられるところに、父なる神との交わりに、父なる神の愛の中に、彼らもまた留まる者となりました。あの日、あの最初の日に、イエス様と一緒に泊まったように。それが本当の意味で現実となったのです。 あの最後の晩餐において、イエス様は彼らにこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:2‐3)。そうです、イエス様がいるところに、彼らもまたいることになりました。永遠に!

 そして、そのことが実現するために、イエス様はヨハネが言ったとおり、「神の小羊」すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」ともなられたのです。アンデレはあの翌日、言いました。「わたしたちはメシアに出会った!」そのメシアは、洗礼者ヨハネが最初に言ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」に他なりませんでした。それは彼らもまた父の愛の中に留まるためでした。

 罪のないイエス様が父なる神との愛の交わりの中に留まれることは、ある意味で当然のことです。しかし、罪人である私たちが、なおも神を父と呼び、父の愛の内に留まることができるとするならば、それは決して当たり前のことではありません。特別な恵みによるのです。私たちの罪が赦され、罪の負い目が取り除かれてこそ、私たちはイエス様のいるところにイエス様と共に留まることができるのです。だからこそ、イエス様は父なる神との交わりを見せてくださっただけでなく、自ら「世の罪を取り除く神の小羊」となり、私たちの罪を贖う犠牲となってくださったのです。私たちに見せてくださったものを私たちに与えるためです。
神との永遠の交わり、永遠の命です。

 主は問われます、「何を求めているのか」。

2016年1月10日日曜日

「世の罪を取り除く神の小羊」

2016年1月10日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章29節~34節


聖霊によって洗礼を授ける方
 今日は教会の暦によりますとイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日です。その出来事は、マルコによる福音書においては次のように記されています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:9‐11)。

 ヨハネによる福音書には、イエス様が洗礼を受けられた場面そのものは出てきません。その代わりに、「わたしは見た」という洗礼者ヨハネの証言が記されています。「そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た』」(32節)。これによると、イエス様に見えただけでなく、一番近くにいたヨハネにも見えたようです。

 しかし、重要なのは不思議な出来事を目撃したということではありません。ヨハネはそれを見たことによって、イエスという御方がどのような方かをはっきりと知ったのです。ヨハネはこう言っています。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(33‐34節)。

 「この方こそ聖霊によって洗礼を授ける人である!」それがヨハネの確信でした。イエス様は「あなたはわたしの愛する子」という言葉と共に聖霊を受けました。そして、イエス様は神の愛する子として、今度は私たちに聖霊を与えてくださるのです。「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を与えてくださるのです。聖霊によって新しく生まれさせ、神の子としてくださるのです。

 私たちは水を用いて洗礼を授けますが、人を新しく生まれさせるのは水そのものではありません。それは聖霊によるのです。「この方こそ聖霊によって洗礼を授ける人である」。それがヨハネの確信であり、それゆえに彼は「この方こそ神の子である」と証ししたのです。

 さて、そのようにイエス様について証ししていたヨハネが、ある時、自分の方へイエス様が来られるのを目にします。そのとき、ヨハネはイエス様を指してこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)。今日の説教題はここから取りました。ヨハネは何を思ってそう言ったのか。それを知るためには、千二百年ほど時代を遡らなくてはなりません。

過越の小羊
 紀元前13世紀のエジプト。イスラエルの民はエジプト人に追い使われていた奴隷でした。その奴隷の民がモーセに率いられてエジプトを脱出する物語が旧約聖書の「出エジプト記」に記されています。神がエジプトに災いを下し、イスラエルを解放するという話です。

 イスラエルとエジプト。弱い者と強い者。支配される側と支配する側。さて、このような構造の物語を読みますと、私たちはともすると単純にこれを善と悪の対立に置き換えてしまうものです。イスラエルは善、エジプトは悪。イスラエルは神に従う者、エジプトは神に逆らう者。するとこの物語は、悪なるエジプトを神が撃って善なるイスラエルを救われたという話になります。

 しかし、聖書にはイスラエルが善であるから救われた、イスラエルはエジプト人に支配されていたけれども正しい人々だったから救われたなどということは一言も書かれておりません。、エジプトの偶像ではなく主に従う人々だったから主によって救われたのでもありません。聖書はエジプト人に抑圧されていたイスラエルの民についてなんと言っているか。神は後に預言者エゼキエルを通してこう語っています。

 「その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかった」(エゼキエル20:5‐8)。

 つまり抑圧する側のエジプト人が神に逆らう者たちだったとするならば、抑圧される側のイスラエルの民もまた神に逆らう者たちだったということです。つまり出エジプトの話は、イスラエルの民が救われるにふさわしいから救われたという話ではないのです。救われるにふさわしくないにもかかわらず救われたという物語なのです。

 それゆえに、彼らがエジプトから脱出する時が来たとき、神はただ単純にエジプトを裁いてイスラエルの民を導き出すということはなさらなかったのです。神はモーセを通してとても不思議なことを求められました。モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せて彼らにこう命じたのです。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(出エジプト記12:21‐23)。

 確かに主はエジプトの罪を裁かれます。エジプト人を撃つために巡られるというのです。それはエジプト人にとっての危機でしょう。しかし、それはまたイスラエルの民にとっての危機でもあるのです。神がエジプト全土を正しく裁かれるなら、そこでイスラエルの民だけが裁きを免れる根拠は、もともとどこにもないからです。先にも言いましたように、イスラエルの民はエジプト人に比べてなんら正しい人々ではなかったのです。

 ならば、救いを求める彼らが救われるとするならば、それは神の特別な憐れみと赦しによるのです。そうです、救いを求める者には、神の赦しが必要なのです。その人が救いを当然の報いとして主張できる正しい人でない限り、神の赦しが必要なのです。それゆえ、神はモーセを通して、神の憐れみと赦しの内に留まる道を示されたのです。

 先ほど読みましたように、主が求められたのは、極めて単純なことでした。過越の犠牲である小羊を屠り、その血を鴨居と入口の二本の柱に塗ることでした。そして、その家に信じて留まることです。その時に、神の裁きは「イスラエルの民を見て」過ぎ越すのではありません。血を見て過ぎ越すのです。「血を御覧になって」と書かれているのです。それは彼らが赦され救われるために、彼らのために屠られた小羊の血だからです。彼らが救われるとするならば、それはひとえに彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血によるのです。

屠られた小羊なるキリスト
 過越の羊が屠られたこの出来事を記念して、毎年過越祭が行われてきました。そう、あの時もまた、過越祭が近づいていた頃でした(2:13)。ヨハネは自分の方に来られるイエス様を指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。ヨハネは屠られるためにこの世に来られた小羊を見たのです。あの時、イスラエルの人たちが神の憐れみと赦しとを受けて救われるために、彼らのために小羊が屠られて血を流したように、この世において私たちの救いのために屠られ血を流して死んでいく小羊をヨハネは見たのです。

 そして、やがてイエス様は屠られて血を流して死んでいく小羊のように、十字架の上で血を流して死ぬことになります。そして、それはちょうど過越の小羊が屠られる過越祭の準備の日(19:14)であったとヨハネによる福音書は伝えているのです。

 イエス様は私たちの救いのために屠られた小羊です。私たちの救いはこの御方の血によるのです。そして、最初に触れたことに戻りますが、ヨハネはこの「世の罪を取り除く神の小羊」こそがまた、聖霊によって洗礼を授ける御方だと証ししているのです。

 イエス様が「あなたはわたしの愛する子」という言葉と共に聖霊を受けたように、今度は私たちが聖霊を受けるとするならば、それは私たちが正しいからではありません。私たちが、新しく生まれて神の子どもたちとして生きることができるとするならば、それは私たちが神の子どもとなるにふさわしいからではありません。私たちが御子の霊を受けて「アッバ、父よ」と祈ることができるとするならば、私たちにその資格があるからではありません。すべてはその御方が「世の罪を取り除く神の小羊」であるからです。その流された血によるのです。

 イエス様が十字架にかかって血を流してくださったのは、ただ私たちの罪が赦されるためではありません。私たちが最終的な裁きを免れるためではありません。それは私たちが聖霊によってバプテスマを授けられるためです。聖霊によって新しく生まれ、神の子どもたちとして生き、神の国を受け継ぐためです。私たちが神の子どもたちとしての生活を既に与えられているのは、イエス・キリストの流された血によるのです。

 私たちが十字架ではなく、自分自身を根拠としてこれを受けたのなら、いつまでもふさわしくな自分自身を見つめて「わたしなどふさわしくない」と言い続けなくてはならないでしょう。しかし、そうではないのです。すべてはイエス・キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」であるゆえなのです。その流された血によるのです。

 それゆえに私たちは安心して天の父を呼び、神の子どもたちとして生きたらよいのです。私たちが聖霊を与えられ、聖霊によって新たに生まれさせていただいたということがどういうことなのか、また神の子どもたちとしてこの世界に遣わされ、生かされているということがどういうことなのか、私たちはまだまだ十分に知っているとは言えないでしょう。共に天の父を呼び、共に祈りつつ、既に与えられているとてつもなく豊かな恵みを味わい知る者となることを求めていきたいと思います。

2016年1月3日日曜日

「弱ることなく、疲れることなく」

2016年1月3日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 40章25節~31節


 新年最初の主日礼拝をこうして共に捧げることができますことを嬉しく思います。この礼拝において、私たちは次のような御言葉を与えられています。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31節)。今日の説教題はここから取りました。私たちは主に望みをおく人として、この新しい年を歩み出したいと思います。

待てなくなるとき
 さて、「望みをおく」と訳されていますが、原文の意味は「待つ」です。主を「待つ」のです。「待つ」ということは信仰生活の大事な要素です。私たちは諦めないで、望みを捨てないで、「待つ」ことのできる人になりたいものです。そのような人こそ、天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。

 しかし、このような預言者の言葉が伝えられているというのは、もう一方で「待つ」ということが時として非常に困難だからでしょう。確かに苦しみが長く続くとき、待つことが困難になります。祈り続け、訴え続けてもなお事態が一向に変わらないとき、待つことが困難になるのです。

 時は紀元前6世紀、イスラエルの民がバビロニアにて捕囚となっていた時代。既に捕囚生活が一世代以上続いていたときでした。すぐにも祖国に帰還することができるという希望に燃えていた熱狂の炎もすっかり消えてしまいました。期待をもって未来を見つめる熱いまなざしはもはやそこにはありませんでした。もはや待ち望むべきものなど何もありませんでした。27節に引用されているのは、当時の人々の口に上っていた嘆きの言葉です。「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」。

 「わたしの道は主に隠されている」とは、わたしがどんな苦しく辛い道を歩んでいても、主とはもはや無関係だということです。すなわち、主は関心をもって見ていてはくれない、ということです。それは長く続く捕囚生活における実感だったのでしょう。天高いところに鎮座ましましてそっぽを向いている神。もしかしたら私たちもそのような神のイメージを思い描いてしまう時があるかもしれません。

 「わたしの裁きは神に忘れられた」も同じことです。「わたしの裁き」は他の訳では「わたしの訴え」「わたしの権利」などと訳されています。その方が分かりやすいでしょう。どんなに神様に訴えても、どんなに権利が侵害されていても、全く神様は関心をもってくださらない。まさに忘れ去られているとしか思えない。そのように感じる時はありませんか。

 そのように神への不信がつのり、待ち望むことができなくなってきますと、内側から弱ってくるのです。29節には「疲れた者」が出てきます。「勢いを失っている者」が出てきます。必ずしも病弱な人や年老いた人の話ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」ということが書かれています。

 長引く捕囚生活の中で、「待つこと」ことができなくなる。未来に何の新しいことをも期待できなくなる。そのような時、年若い者さえも倦み、疲れ、つまずき倒れるようになります。それは私たちも良く知っていることです。本当の疲れは置かれている状況から来るのではありません。待ち望むものを失った心の状態から来るのです。

「なぜ」という神の問いかけ
 しかし、そのような者たちに対して、預言者が語るのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。

 この「なぜ」という言葉は聖書に繰り返し出てきます。人間の言葉として、祈りの言葉として出て来るのです。「なぜですか」という神への問いかけとしてです。これは詩編の中の「嘆きの歌」と呼ばれるものに特徴的な言葉です。例えば、良く知られているのは詩編22編でしょう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22:2)という言葉から始まる詩編です。イエス様が十字架の上で口にされた詩編の言葉です。恐らく人々が口にしていた嘆きの言葉も完全な形に再現するならば、こうなるのでしょう。「神よ、なぜわたしの道はあなたに隠され、顧みられないのか」「神よ、なぜわたしの裁きは忘れられたのか」。

 そのように嘆きの中で「なぜですか」と問いかけることは私たちにもあると思いますけれど、それは大昔の信仰者たちも皆、経験してきたことです。私たちがそのような思いを抱いたとしても、それは何ら特別なことではないとも言えます。そして、嘆きを嘆きとして口に出し、「なぜ」という問いを神に向けることは、時として大事なことのようです。

 しかし、私たちの側から神に向かって「なぜ」と問うだけで終わらせてはならないのです。嘆くときは大いに嘆いたらよいと思いますが、「なぜですか」と言ってその嘆きの中に留まっていてはならないのです。そこに留まるならば、力を失っていくだけなのです。弱っていくだけなのです。神の前に嘆きを注ぎ出したなら、今度はそこから向こうからの問いかけを聞かなくてはなりません。主は問い返されるのです。「なぜ」と。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。嘆きの中にあって、さらには不信仰に陥ってしまっている時に、この主が問いかけられる「なぜ」を聞くことはとても大事なことなのです。

 主の問いかけは恵みです。主の「なぜ」は私たちを不信仰と嘆きの穴から引き上げるための問いであるからです。主が「なぜそうしているのか」と問われるのは、そうする必要がないことを主は知っておられるからです。「なぜ嘆いているのか」という問いは、「もう嘆く必要はないではないか」という語りかけでもあるのです。

 「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と」(27節)。ならば、もはやそのように語り、断言し、嘆き続けている必要はないのです。どうしてか。主は預言者を通してさらにこう語られるのです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)。

聞いたことはないのか
 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と主は問い続けます。そうです。既に知らされていることがあるのです。聞いてきたことがあるはずなのです。私たちの主がどのような御方であるかを既に知らされているのです。聞いてきたことを思い起こさなくてはならないのです。

 今自分が感じていることに留まっている限り、嘆きの中に留まり続けることになるでしょう。「わたしの道は主に隠されている」と感じているのですから、そこに留まっているかぎり、嘆き続けることになるのです。

 しかし、主が既に預言者を通して御自身について語ってこられたことがあるのです。例えば26節。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」(26節)。その他、多くの言葉をもって、既に主が「とこしえにいます神」であり、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」であることを主は既に語っていてくださるのです。今こそ何を聞いてきたのか、何を知らされてきたのかを思い起こさなくてはならないのです。

 「主は、とこしえにいます神」(文字通りには「永遠の神」)とありますが、そこで重要なのは「永遠の昔」でも「永遠の未来」でもありません。「永遠から永遠まで常に」ということです。すなわち、「今ここにおいても」ということです。すなわち、「わたしの道は主に隠されている」と思える今この時も、「わたしの裁きは神に忘れられた」と思える今この時も、ということです。

 神不在と思える現実においても、実は不在などではなく、「その英知は究めがたい」と語られているその英知をもって神は支配しておられます。実際、あの時もそうでした。キリストが不当な裁きによって十字架にかけられたその時においてさえ、全地が暗黒に包まれたあの時でさえ、神は全てを支配しておられたのです。そして、実はその時においてこそ、最も大いなる救いの御業が成し遂げられていたのです。確かに「主は、とこしえにいます神」です。

 そして、神は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」です。実はこれは意訳であって、もともとは「地の果ての造り主」と書かれているのです。しかし、もちろん地の果てを問題にしているのではありません。どこか遠いところにおいてではなく、今ここにおいても、ということです。地の果ての造り主であるならば、今目にしている目の前の世界もまた、主の手によるのだということです。この世界の諸々の問題も、人間の手に負えない諸々の課題も、全て被造物世界の中でのことです。主の手が及ばないことは何一つないのです。

 そして、私たちが知らされていること、聞かされていることは、さらには既に救い主が到来したこと、そして救いの御業を成し遂げて、復活されて、やがて完全な救いをもたらすために再びおいでになることにまで及んでいるのでしょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と問われるなら、私たちは答えることができるはずです。「主よ、確かに知らされております。聞いております」と。

 ならば、私たちはそこから再びその御方に思いを向けることができるはずです。私たちが知らされている御方、聞かされている御方に心の目をしっかりと向けることができるはずです。私たちは待ち望むべき未来を持っているのです。

 私たちが不信と嘆きの中から再び立ち上がり、主に望みをおくならば、与えられている約束の言葉はこれです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神は私たちに力を与えてくださいます。私たちは天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。私たちは主に望みをおく人として、この新しい年を歩み出したいと思います。

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