日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブの手紙 1章2節~8節
この上ない喜びと思いなさい
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)。本日の聖書箇所はこのような言葉から始まっていました。
このような言葉に出会いますと、まず考えるのは「そんなことがいったい可能だろうか」ということだろうと思います。わたしもこれまで何度この言葉の前に立ち尽くしたことかと思います。しかし、この聖書の言葉を前にして可能か否かを考えていることは恐らく意味がないのです。なぜなら、これを書いているヤコブはそんなことを全く問題にしていないからです。「この上ない喜びと思いなさい」と彼は言うのは、そう思ってよいことを知っているからなのです。
それが何であれ、その価値を知っている人は言うことができます。「それを得たなら、喜びと思いなさい」と。例えば、家に昔からある汚い古い壺。「じゃまだな。こんなもの取っておいて何の意味があるのかな」とその家の人が思っています。しかし、それが実は室町時代の著名な作家の作品だと知っている人は言えるのです。「それを持っているなら、この上ない喜びと思いなさい」と。
ヤコブは試練の価値を知っているからこう言えるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。いや本当はあなたたちも知っているはずでしょう、と言わんばかりです。彼はこう続けるのです。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。「忍耐が生じる」。そこに彼はこの上ない価値を見出しているのです。さて、私たちはそこにどれほどの価値を見出しているでしょう。
信仰が試されて忍耐が生じる
試練の時、私たちが往々にして求めるのは私たちの外にある何かが変わることです。その試練が、例えば迫害であるならば、迫害がなくなることを求めるのでしょう。ここでは「いろいろな試練」とありますから、必ずしもヤコブが考えているのは迫害だけではありません。次から次へと襲い来る困難な状況、理不尽な仕打ち、苦しみ、悲しみ。そのような中にあったなら、やはり困難な状況がなくなるように、苦しみをもたらす人々がいなくなるようにと願うものでしょう。
しかし、試練の中にあって本当に重要なことは外なるものの変化ではなくて内なるものの変化なのです。試練の中で何が起こってくるのか。そこで「信仰が試される」のだと彼は言います。何もなければ「わたしはまったく不信仰で・・・」などと平気で言っていられるかもしれません。しかし、試練の中においては、それでもなお信じるのか、どこまでも信じるのか、信仰に留まるのかが問われます。
そこでなお信じるとするならば、真剣にならざるを得ない。そこで既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろうとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良く見えてくる。より良く聞こえてくる。信仰による希望がはっきりと見えてくる。そのようなことが試練の中で起こるのです。
それは皆さんと共に教会生活をしていると良く分かります。試練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってくる。礼拝をしている時の姿が変わってくる。そのようなことは確かに起こります。このように、信仰が試される時は、信仰が確かにされる時ともなるのです。希望が確かにされる時ともなるのです。
そこから何が生じるのでしょう。忍耐が生じるのだ、とヤコブは言うのです。「忍耐」という言葉は「留まる」という言葉に由来します。それは留まる力です。どこに留まるのか。信仰に留まるのです。ですからこれはまた「期待」とか「待望」をも意味する言葉でもあります。ただ留まるだけではない。そこから希望をもって未来に目を向けるのです。どんな時にも、どんな状況においても、信仰に留まり、希望を失わないでいられるようになること。忍耐が生じるとはそういうことです。
外なる変化ではなく、内的な変化、内側に生じる忍耐という変化の方がはるかに価値あることは明らかです。なぜなら外なるものはいずれ移り変わっていくからです。苦しみをもたらすものが取り除かれたとしても、別な苦しみがやってくるのです。やっかいな人がいなくなったとしても、別なやっかいな人が現れるのです。外なるものの変化は最終的な解決にはならないのです。
しかし、内に生じたものは、真に身に着けたものは、周りが変わっても変わらないで残ります。それはどこに行っても、どんな状況に置かれても、ついてまわります。自分の内にあるのですから。良いものが内に生じるなら、それは一生ついてまわるのです。それほどありがたいことはない。大切なことは、良いものが内に生じることです。
そして、忍耐という良いものが生じるならば、信仰に留まり続け、神との交わりに留まり続けるわけですから、忍耐だけで終わることはないのです。ヤコブはさらに言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。
「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐は働くのです。そして、さらに良きものをもたらすのです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、「それは無理です」と言わざるを得ない。しかし、これは努力目標ではなく、信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。だから感謝して信じるのです。
ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。
ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです。
それゆえヤコブは言うのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。それは価値を知る人の言葉、喜びと思って良いことを知っている人の言葉です。
知恵を求めよ
しかし、「試練」と訳されているこの言葉はまた「誘惑」とも訳される言葉でもあります。一つの苦難は既に述べたような価値ある「試練」ともなり得ます。しかし、同じ苦難が「誘惑」ともなり得るのです。それは人間を神から引き離し、罪へと引きずり込む力としても働き得るのです。だからこそ、ヤコブはさらに続けてこう語るのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。
ここで語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。問題を回避しながら上手く世渡りするための知恵でもありません。そのような知恵ならば神に求める必要はないでしょう。しかし、悪魔の欺きによって神から引き離されないためには、神からの知恵が必要です。苦難を誘惑にしないためには知恵が必要です。直面している現実の中に神が与えてくださっている価値あるものをしっかりと見て生きるためには、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。
実際、私たちの日常には「なぜ」と問わざるを得ないようなことが起こります。この世界の現実を見ていても「なぜ」と問わざるを得ないのです。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜこんな目に遭うのか」。しかし、もしただ「なぜ」を宙に向かって、あるいは人に向かって繰り返しているだけならば、それは誘惑に対して扉を開くことになります。悪魔はいくらでもそこから入ってきて人を神から引き離しにかかるでしょう。
もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問うているだけではだめなのです。詩編の中にも見るように、本気で神に向かわなくてはならないのです。本気で神に問わなくてはならない。現実を正しく見るための知恵を、本気で神に求めなくてはなりません。「神様、わたしはあなたを信じられない」などと言っている場合ではありません。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(6‐7節)と語ります。
そうです。疑ってなどいられる場合ではありません。神に求め神から受けるのでなければ、結局は粗末な人間の知恵、自分の知恵をもって生きるしかないのです。そして、苦難があれば誰かを悪者にし、挙げ句の果てには神を悪者にして生きるか、あるいはもう何も問うことなく現実に目をつぶって生きるしかないのです。そこでは何も良きものは内に生じることもないでしょう。
そのように、苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。苦難は自動的に価値ある「試練」になるわけではありません。それは誘惑としても働くのです。悪魔の力としても働くのです。そのような誘惑に陥らないためにも、必要なのは神からの知恵です。苦難の中にある時にこそ神に向かなくてはなりません。祈らなくてはなりません。ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に知恵を願い求めるべきなのです。