2015年12月27日日曜日

「違いはそれほど重要ですか」

2015年12月27日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~4章7節


キリスト・イエスに結ばれて
 今年最後の主日となりました。一年を締めくくるに当たり、私たちは自分が何者であるかをもう一度思い起こしましょう。聖書は言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。

 私たちは神の子どもたちです。この一年間、いろいろなことがありました。来る一年の間に、この世界に、私たちの人生に、何が起こるかを私たちは知りません。しかし、私たちは恐れる必要はありません。私たちは神の子どもたちです。私たちは決して寄る辺ない者となることはありません。どんなところからも呼び求めることができる、信頼に値する父親がいるのです。どんな時にも、私たちは「アッバ、父よ」と呼び求めることができるのです。

 「アッバ、父よ」とは、もともとイエス様の祈りの言葉でした。私たちはイエス・キリストが洗礼を受けた時のことを思い起こすことができます。その時、主が水から上がられると、主は聖霊が鳩のように御自分に降って来るのをご覧になりました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたのです。そのようなイエス様が、苦しみの極みにあったゲッセマネにおいても口にされた祈りの言葉でした。まさに神の子としての祈りの言葉でした。ですから、ある意味ではこれはイエス様だけが本来口にすることができる祈りであったとも言えます。

 しかし、今や聖書は私たちにこう言うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。私たちもまた、イエス様と同じように祈ることができる。「アッバ、父よ」と呼びかけて生きることができるのです。

 それは本来あり得ないことでしょう。罪のないイエス様が祈ったように、罪ある私たちが祈ることができる。それはあり得ないことです。生涯を通して神に従い通したイエス様と同じように、神に背いてばかりいた私たちが、それでもなお神の子どもたちとして、父を呼ぶことができる。それはあり得ないことです。ですから、パウロはただ「あなたがたは皆、神の子なのです」とは言いません。「あなたがたは皆、信仰により、《キリスト・イエスに結ばれて》神の子なのです」と言うのです。

 「キリスト・イエスに結ばれて」というのは、「キリスト・イエスの中にあって」というのが直訳です。私たちは、キリストの中に身を置くのです。私たちのために十字架におかかりくださったキリストを信じて、その中に身を置くのです。言い換えるならば、キリストが与えてくださった罪の赦しの恵みの中に身を置くのです。その具体的な目に見える形は洗礼です。ですから先の言葉はこのように続くのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。

 「キリストに結ばれて」「キリストの中にあって」という言葉が「キリストを着ている」と言い換えられました。意味は同じであることはすぐに分かります。しかし、「キリストを着ている」とは実に味わい深い言葉です。私たちはキリストの中に身を置きます。言い換えるならば、キリストを着せていただくのです。私たちは裸で神の前に立てないから、キリストを着せていただくのです。キリストを信じるとはそういうことです。

 キリストを着せていただいているということは、神は罪人である私たちを直接ご覧になるのではないということです。神はキリストを通して見てくださる。キリストを着ている者として、キリストにおける罪の贖いにあずかった者として、私たちを見てくださるのです。だからこそ、私たちはイエス様と同じように神の子どもたちとして父を呼ぶことができるのです。罪を赦していただいた者として、私たちは、キリストを着た神の子どもたちとして父を呼び求めることができるのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 そして、キリストを着ているということが神との関係において極めて大きな意味を持つだけでなく、これはお互いの関係においても大きな意味を持つのです。先の言葉はこのように続きます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)

 教会にはユダヤ人がおりギリシア人がいました。この両者は異なる者たちの代表です。またそこには奴隷がおり自由な身分の者がいたのです。男がおり女がいたのです。異なる者が共にいるということは、時として極めて不快な状況を作り出します。異なる者が共にいてなお一つとなるということは、往々にしてとても難しいことです。私たちも良く知っています。

 しかし、彼らは頑張って努力して違いを乗り越えて、互いに理解し合うことによって一つになるのではないのです。あるいは共通の目標を目指すことによって、あるいは強力なリーダーによって統率されることによって一つとなるのでもないのです。そうではなくて、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから」と語られているのです。決定的に重要なのは「キリスト・イエスにおいて」ということなのです。

 「キリスト・イエスにおいて」。これは先に出てきた「キリスト・イエスに結ばれて」と同じ表現です。これまでの話から、これをさらに「キリストを着て」と言い換えてもいいでしょう。そこにはキリストを着ているユダヤ人がいるのです。キリストを着ているギリシア人がいるのです。キリストを着ている奴隷がおり、キリストを着ている自由人がおり、キリストを着ている男と女がいるのです。

 そして、「キリストを着ている」ということが決定的に重要なこととなるならば、当然のことながら、その服の中にいるのがユダヤ人であるかギリシア人であるかは重要性を失うことになります。この世における様々な違いは重要性を失うのです。ここで言われているのはそういうことです。

 そのように、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、この世においていかなる立場の違いがあろうが、置かれている境遇の違いがあろうが、さらに言うならば物事の考え方の違いがあろうが、感性の違いがあろうが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と語られているのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と。

子であれば相続人でもあります
 そして、さらに今日の箇所においては5節にも「神の子とする」という言葉が出てきました。4節からお読みします。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4‐5節)。

 実は日本語では「神の子となさる」と訳されているのですが、原文では「養子とする」という言葉が用いられているのです。口語訳では「わたしたちに子たる身分を授けるためであった」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。

 ギリシア・ローマの世界には、たとえば子どものいない金持ちが、奴隷を買い取って、解放して、家族の一員として迎えるというような制度があったそうです。その奴隷は、代価を払って買い取られた時点で新しい主人のものとなるのですが、その主人が「お前はわたしの息子になるのだよ」と言うならば、もはや奴隷ではなくなるわけです。そして、息子になったと同時に、その財産の相続人ともなるのです。パウロが思い描いているのはそのようなことです。これが私たちにも起こったのだ、と。それゆえに7節ではこう書かれているのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。

 相続人であるということは、将来受け取るものがあるということです。まだ見ていないもの、手にしていないものが将来私たちを待っているということです。この手紙の5章5節にはこう書かれています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。罪人でありながら、神によって義とされました。私たちはそのままキリストを着せられて神の子とされました。ですから、その意味において、私たちは救われたと言えます。しかし、私たちが既に見ているものは、まだ本当の一部、いやまだ欠片でしかないとも言えるのです。

 私たちは自分が神の養子にされたということがどういうことかを、本当の意味で知る時が来るでしょう。私たちが神の子どもたちとして神の国の栄光を一緒に見る時、この世においてキリストを着せられていたということがどれほど大きな恵みであったかを知ることになるのでしょう。そのような同じ大きな恵みに共にあずかっていたのに、しばしばそのことを一緒に喜べず、互いの違いばかりに目を向け、互いに不平を言い合い、裁き合っていたことがどれほど愚かなことであったかを本当の意味で知ることになるのでしょう。

 今年最後の主日となりました。一年を締めくくるに当たり、私たちはもう一度、自分が何者であるかをもう一度思い起こしましょう。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」このことを共に喜び祝うことができるところにおいてこそ、そしてこの大いなる恵みを共に伝えていくところにおいてこそ、教会は一つとなることができるのです。

2015年12月20日日曜日

「キリストがこの世に来られた日」

2015年12月20日 クリスマス礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~20節


クリスマスの物語
 先ほど朗読された聖書箇所にこう書かれていました。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカによる福音書2章6節‐7節)。
その場面を想像してみてください。聖書は事も無げにさらりと書いていますが、考えてみれば、これは世にも悲惨な出産場面です。極めて不潔な場所で、出産に必要なものが何一つそろっていない場所で、もちろん助産婦などいようはずもないところで、マリアはまるで馬か牛のように赤ん坊を産み落とさなくてはならなかったのです。

 さて、これが聖画になりますと、実に美しい場面として描かれることになります。マリアは美しい顔で幼子を見つめています。しかし、どう考えてもそれはあり得ない。マリアの顔は、疲れ果てやつれた顔をしていたに違いないのです。生まれた赤ん坊の安全をなんとか確保して、ぐったりしているマリアがそこにいただろうと想像します。

 ではヨセフはどんな思いでその傍らにいたのでしょう。愛する人が汚い家畜小屋のようなところで出産することを望む人はいません。ヨセフはなんとしてでも、マリアが安全に子供を産める環境を整えたかったに違いない。ありとあらゆる手立てを尽くしたのでしょう。しかし、結局、ここまでしかできなかったのです。

 どんなに愛していたとしても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。自分の無力さを恥じながら、ただ見守るしかない。そのような時が確かにあることを私たちもまた知っています。その意味でここに描かれているのは私たちの現実でもあります。

 それはマリアにしても同じです。いったい誰が生まれてくる自分の子を飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょう。親は子供のために最善の環境を整えてあげたいと思うのでしょう。彼女は彼女なりにできる限りのことをしたに違いないのです。しかし、結局彼女は飼い葉桶に自分の子を寝かせたのです。頑張ったけれど、そこまでしかできなかったということです。親の悲しみがそこにあります。

 その悲しみは今日の私たちも知っています。子供たちが生きていくために、幸福で安全な社会を本当は備えてあげたいと誰もが思っているのでしょう。しかし、現実にはまさに飼い葉桶のようにドロドロに汚れた社会の中に、子どもたちを置かなくてはならないのです。どう考えても解決のつかない放射性廃棄物に汚染された世界に、子どもたちを置かなくてはならない。その他、ありとあらゆる問題が山積した世界の中に、子どもたちを置かざるを得ないのです。ヨセフとマリアの姿が私たちの姿と重なります。その意味でも、ここに描かれているのは、この世に生きる私たちの現実でもあります。

 それだけではありません。そもそも臨月の妻がいるのに長い旅に出なくてはならなかったこと自体が異常です。ナザレからベツレヘムまで直線距離でも120キロはあります。普段の生活を後にして、どうしてそんな長旅に出なくてはならなかったのか。それは皇帝が勅令を出したからだと聖書は伝えます。

 自分の願いや意志とは関係のないところで勅令が出る。すると旅に出ざるを得ない。自分の願いや意志とは関係なく、それまでの生活を後にしなくてはならない。ある意味では私たちも同じです。今日、勅令は皇帝が出すのではありません。ある人にとっては企業の体制再編によって、職を失うことによって、それまでの生活を後にしなくてはならない。またある場合には突然の天変地異によって、そして、ある場合には突然の病気の宣告によって、人は安定した生活を後にして、旅に出ざるを得なくなるのです。マリアとヨセフに起こった事は私たちにも起こりえることを知っています。それがこの世に生きるということです。

 これが聖書の伝えるクリスマスの物語です。クリスマスの話は美しいおとぎ話ではありません。辛く悲しい人間の現実です。マリアとヨセフが身を置いている家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴しているとも言えるでしょう。

 そのようなこの世界に生きている人が、他にも登場してまいります。羊飼いたちです。今年は、私はページェントで羊飼いの役をやらせていただきました。羊たちは教会の一番幼い子どもたちがやることになっています。それは実にかわいい羊たちです。ですから羊飼いの役は楽しい。実に楽しい。

 しかし、現実の羊飼いとなったらそうはいきません。ここに描かれているのは牧歌的なのどかな情景ではないのです。彼らは「野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれているのです。彼らは羊の所有者ではありません。雇われているのです。夜通し羊の群れの番をしているというのは、今日で言えばブラック企業による過重労働です。いや、彼らは月100時間以上の残業をしているだけではありません。獣が襲ってくることもあるのですから、所有者の羊を時としては自分の命と引き替えに守らなくてはならないのです。これは過酷な労働です。

 しかし、彼らには選択の余地はないのです。辛かろうが苦しかろうが、そうしなければ生きていけないのです。そう、どんなに苦しかろうが逃げることはできない。生きていくためには留まらなくてはならないことがある。それもまたこの世に生きる私たちの現実の描写であると言えます。

天使の賛美に加わって
 しかし、話はそれで終わりません。ここに天使が登場するのです。そのような羊飼いのところに天使が現れてこう言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10‐11節)。そして、天使の大軍が現れてこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

 天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を讃美していた。天使たちの持ち場は天の世界です。しかし、彼らは天において神を讃美しているのではありません。わざわざ辛い現実にある羊飼いたちのところに来て、現れて神を讃美したのです。どうしてですか。羊飼いたちも天使と共に賛美できるようにでしょう。そうです、人間が加わることができるように天使は歌うのです。天においてではなく地上において。

 これは何を意味するのでしょう。神を讃美する歌というのは、辛く苦しいこの世の現実の中で歌われるべきものだ、ということです。神を讃美する歌は天国に行って初めて歌うものではないのです。苦しみが取り去られて初めて歌うものではないのです。私たちがここでしているように、あるいは日曜日にしているように、苦難に満ち、悩みに満ちているこの世界において歌われるべきものだということです。

 それはどうしてか。それは、この世界に既に救い主が来てくださったからです。
 
 家畜小屋の場面を思い浮かべてみてください。先にも申しましたように、この汚い家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴していると言えます。しかし、そこにはヨセフとマリアだけがいるのではないのです。そこには幼子もいるのです。神によって与えられた幼子イエス、神が与えてくださった救い主が悪臭漂う家畜小屋の中におられるのです。

 ということは、その悪臭漂う家畜小屋の中にさえ、神が与えてくださる喜びがあるということでしょう。羊飼いにこう語られていたではありませんか。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。その喜びが家畜小屋の中にさえ与えられているのです。だからそこから神を誉め讃えるのです。そこにおいて神を礼拝するのです。


 今から五年前のちょうど今頃ですが、五十代の女性が教会を訪ねてこられました。重い病気を負った方でした。彼女は残された短い人生をどう生きたら良いのか、「生き方」を求めて聖書を学び始められました。しかし、彼女が聖書を通して知ったのは「生き方」ではなくて、生きておられる神様であり、救い主であるイエス・キリストでした。半年後、彼女はイエス・キリストを信じ、キリストに自分自身をおゆだねし、病床にて洗礼を受けられました。彼女の人生に、救い主イエス・キリストが入って来られました。

  私は当時を思い起こしながらこう思うのです。彼女が信じたキリストは、ある意味では家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスであったと言えるだろうと。

 依然として家畜小屋の現実はあります。それは彼女にとっては病気という現実でした。病気と闘い、病気と折り合いをつけながら、生きていかなくてはなりません。しかし、そこには彼女と御主人だけがいるのではない。そこには救い主がいるのです。救い主がおられるならば家畜小屋の意味は違ってくるのです。そこで人は神と共に生きることができる。神が与える喜びにあずかることができる。そこで人は神を讃美して生きることができるのです。

 彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。「いと高きところには栄光、神にあれ」。あの天使の讃美に彼女も確かに加わっていたのです。そして初めてお会いした時からちょうど一年後の12月、彼女は救われた人として、天使の歌声に加わっていた人として、天に召されていきました。毎年クリスマスが近づくと、いつでもその方のおだやかな笑顔が思い出されます。

 救い主は来られました。この世界に来られました。そして、私たちの人生の中にもおいでくださいます。私たちが身を置く家畜小屋の中にイエス様が共にいてくださいます。私たちはそれゆえに、そこから神を賛美して生きることができるのです。

2015年12月13日日曜日

「先走ってはなりません」

2015年12月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節


魅力的な言葉?恐ろしい言葉?
 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」(3節)。パウロそう語ります。これはある面、魅力的な言葉であり、同時に恐ろしい言葉でもあります。

 私たちは、往々にして人から裁かれること、ジャッジされることを恐れて行動しています。人からどう見られているのか、自分についてどう言われているのかがとても気になります。自分はこうしたいと思っても、人の目や言葉によって曲げざるを得なくなることもあります。

 ですから、人の裁きを恐れない強さ、人の目や人の言葉によって左右されない強さは、時としてとても魅力的に映ります。人の言葉によってぶれない人、人が何を言おうと自分自身を曲げない人、そのような人は時としてとても魅力的に映ります。不安の満ちる時代にはそのような指導者が求められるものですし、多くの人はそのような強さについていきます。

 そのような強さは、時としてこの世の法廷における裁きさえ恐れません。有罪とされようが投獄されようが節を曲げない人はいるものです。そのような人物によって時代が大きく動かされることもあります。記憶に新しいところでは、たとえば有罪とされ27年間も投獄されていたネルソン・マンデラ氏のような人物を思い起こすことができるでしょう。

 しかし、先の言葉は魅力的であると同時に恐ろしい言葉でもあります。人間が他の人間の裁きを全く恐れなくなることは恐ろしいことです。人間がこの世の法廷で裁かれることについて「少しも問題ではありません」と言い始めることは、ある意味ではとても恐ろしいことでもあります。

 今から6年前、アメリカにおいて、ジョージ・テイラーという医師が教会の礼拝中に射殺されるといういたましい事件がありました。射殺されたのは妊娠後期の中絶手術を行っていた医師でした。射殺したのは中絶反対の活動を熱心にしていた人でした。犯行に及んだ人物は、まさに「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と考えていた人でした。

 そのように、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という言葉は、一面において魅力的ではあるけれど、同時に恐ろしい言葉でもあります。

自分で自分を裁くことすらしません
 しかし、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」この言葉によって、意味合いは大きく違ってまいります。

 「自分で自分を裁く」ということについては、ある意味ではよく分かります。自分自身を厳しく断罪すること、自分自身を責め立てることは、確かにあるからです。断罪し責め立てるだけでなく、実際に処罰することすらあります。「自分が赦せない」と言って、自分をあえて苦しめるようなことをするのです。自分の良心が責め続ける限り、処罰を続ける。そのように自分で自分を裁くことは確かにあります。

 しかし、「自分を裁く」ということは、ただ「断罪する」ことだけを意味しません。それは事柄の一面です。ここで語られているのは自分をジャッジすることですから、断罪するだけでなく、無罪を言い渡すことも含まれます。自分を正しいと見なすことも含まれるのです。そして問題は、自分で自分を断罪することよりも、むしろ自分を正しいと見なすこと、自分を義とすることにあります。

 自分を正しいと見なす時、自分に反対する者は「正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいと見なすなら、自分に反対する者は「絶対的に正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいとジャッジした自分が、今度は他者を絶対的に正しくないとジャッジするようになるのです。その場合、さらには「絶対的に正しくない人間は存在してはならない」という裁きにすらなります。そのような人が「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言い始めるなら、先のテイラー医師射殺事件のようなことが起こります。

 パウロがそのように自分で自分を裁く人であり、しかも自分を正しい者と見なす人であったなら、先ほどの「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という発言はとても怖い発言になります。実際、彼はかつてそのような怖い人でした。パウロは、かつて教会の迫害者であった時のことを次のように語っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。彼はそのようなことを行う自分を正しい人と見なしていたのです。そのように自分で自分を裁いていたのです。

 しかし、今や彼は「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言うのです。そして、その意味するところを彼はこう続けます。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(4節)。

 「自分には何もやましいところはない」とパウロは言うのです。自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、普通は「わたしは正しい」という主張になるものです。特にパウロにとってはコリントの教会という具体的な相手があるのです。その間に生じている問題があるのです。パウロはコリントの教会から裁かれているのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと…少しも問題ではありません」と言わざるを得ない状況があるのです。そのような時に、自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、「わたしは正しい」という主張が出て来るのが当然でしょう。

 しかし、パウロは「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と言うのです。以前のパウロなら絶対に言わなかった言葉です。「義とされる」とは、主から「正しいと見なされる」ということです。つまり、自分から見たら何もやましいところはないのだけれど、主から見たら正しい人とは見なされない、とパウロは言っているのです。主から見たら罪人だということです。そして、パウロにとっては主がどう見られるかの方が重要なのです。「自分で自分を裁かない」とはそういうことです。パウロは言うのです。「わたしを裁くのは主なのです」。

 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言い、「わたしを裁くのは主なのです」と言う。信仰に生きるとはそういうことなのです。それは喜ばしいことでしょうか。どんなに正しい人であっても、それこそパウロのように「自分には何もやましいところはない」とまで言い得る人であったとしても、それでもなお主から見れば義とされない、正しいとは見なされない、ということです。「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きることは、喜ばしいことでしょうか。

 そうです。それは喜ばしいことなのです。少なくともパウロが悲しむべきこととして語っていないことは明らかです。なぜならパウロが「わたしを裁くのは主なのです」と言う時、その「主」がどのような御方であるかを知っているからです。

 それはこの世に来られて十字架にかかってくださった御方なのです。神の御前においてはどうあがいても罪人でしかない、そのような私たちを救うために来てくださった御方です。私たちの罪を代わりに負って十字架にかかって死んでくださった御方です。その方が最終的に裁いてくださると言うのです。私たちの正しさのゆえにではなく、「自分には何もやましいところはない」からではなく、ただ十字架のゆえに義としてくださるのです。主が裁いてくださるとはそういうことなのです。だからこそ喜びをもって「わたしを裁くのは主なのです」と言って、信仰者は生きていくのです。

先走ってはなりません
 それゆえにパウロは「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と勧めます。話の流れからすると、これは特に自分を裁くことについてパウロは語っているのでしょう。繰り返しますが、あくまでも「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きていくことです。最終的に主が裁いてくださるのです。それを待たずに、先走って自分を裁いてはならないのです。

 先走って自分を正しい者としてはなりません。主がすべてを明らかにされるのです。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と書かれています。闇の中に隠されていることは、時として自分の良心にさえ隠されているものです。「自分には何もやましいところはない」と言っていたとしても、最終的に主がすべてを明らかにされた時に、ただ自分が罪であると気づいていなかっただけのことだったと知ることになるのでしょう。その意味では、「先走って何も裁いてはいけません」。

 しかし、もう一方において、先走って自分を断罪して救いから除外してもなりません。キリストの血によってさえも贖われないかのように自分を断罪することをしてはならないのです。最終的に私たちを裁くのは、私たちのために十字架におかかりくださった方なのです。その方が裁かれる前に、「先走って何も裁いてはいけません」。

 「わたしを裁くのは主なのです」。このことが分かるときに、今日読まれた最後の言葉もまた意味を持つのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。普通に考えるならば、この言葉が続くのはおかしいでしょう。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおしかりを受けるでしょう」と続くのが本当でしょう。いやそれどころか、最後の一文は「そのとき、おのおのは神によって地獄の火に投げ込まれるでしょう」となるはずであるとも言えます。すべてが明るみに出されるのですから。

 しかし、そこでなお私たちはキリストによって裁かれた者として神の前に立つのです。すなわち、キリストによって贖われ、義とされた者として神の前に立つのです。その時、神は私たちをそのキリストの僕として、そのキリストに仕えてきた管理者として見てくださるのです。罪ある者であるにもかかわらず、間違いだらけの働きをしてきた者であるにもかかわらず、それでもなお僕として主人を愛して行ってきた一つ一つのことを神は見てくださるのです。表に現れなかったことも含めて一つ一つのことを神は評価してくださるのです。そして、この世の人々からのいかなる賞賛にまさる神からの賞賛をいただくことができるのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。これは主の裁きによって実現する特別な出来事です。ですから、その時を待つことなく、「先走って何も裁いてはいけません」。

2015年12月6日日曜日

「永遠の命を得るために」

2015年12月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 5章36節~40節


イエス様の自己証言
 ヨハネによる福音書において、イエス様は繰り返し御自分について語っておられます。イエス様は言われました。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10:9)。
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。

 イエス様はこのようなことを言われる御方です。単なる自己紹介ではありません。この世界にとって、そこに生きる私たちにとって御自分がどのような存在なのかを語っておられるのです。それは父なる神から遣わされた御方として、御自分のもとに招くためです。パンのもとに来るように、光のもとに来るように、救いの門のところに来るように、羊飼いのもとに来るように、復活の命のもとに来るように、神に至る道に来るように、実を結ばせるぶどうの木につながるように。そのように御自分のもとへと招くために語っておられるのです。言い換えるならば、信仰へと招くためにです。

 もちろん、このような事を語れば、つまずきも起こるのです。抵抗を覚える人、敵対する人、殺そうとする人も起こるのです。その意味において、イエスという御方は誰もが受け入れることのできる良い教えを説いた教師ではありません。イエス様が良い教えを説いていただけならば、弱い人の友となり病人を癒していただけならば、人はつまずかないのです。あるいはイエス様が「わたしが道を示そう」と言っているだけならば人はつまずかないのです。しかし、「わたしが道だ」と言うならばつまずくのです。実際、この方の言葉を聞いて多くのユダヤ人たちはつまずいたのです。

 それはイエス様の時代においてだけではありません。この御方について宣べ伝えられる時には、いつの時代においてもつまずきが起こったのです。イエス様が語っておられるのは、人がそれを聞いてつまずいても不思議ではない言葉なのです。信じなかったとしても不思議ではない言葉なのです。その言葉の前に立たされる時、私たちが問われているのです。それでもなおこの御方を信じますか。この御方のもとに行きますか。その御方に自分自身をゆだねますか、と。

 あなたはどうですか。私たちには根源的な飢え渇きを癒してくださる方がいると信じますか。どんな暗闇においても光となってくださる方がいると信じますか。私たちには開かれた救いの門があると信じますか。命を捨てるほどに愛してくださる羊飼いがいると信じますか。その方を信じるなら、死んでも生きると信じますか。その方を通って必ず父のもとに行けると信じますか。その方につながっているならば、豊かな実を結ぶことになると信じますか。――このイエスという御方は、私たちにとってそのような存在なのだと言われるのです。

ヨハネの証しにまさる証し
 これがイエスという御方です。私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしているのです。過激な言葉をもって御自分ついて語られる御方を前にしているのです。だからこそ、今日読まれた聖書の言葉は特別な意味を持つのです。

 主はこう言われました。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(36‐37節)。

 繰り返しますが、私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしています。しかし、私たちはイエス様の自己証言だけに耳を傾けていてはならないのです。

 一般的な裁判においては、事が立証されるには二人ないし三人の証人の証言が必要とされました。自分が自分について語る証言だけでは十分ではないのです。イエス様はそのことを念頭に置いて、こう言われるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。その意味合いは、自分自身について証しをしているだけならば真実と認められなくても仕方がないということです。だから他の証言にも耳を傾けなくてはならないのです。

 主は言われます。「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」(32節)。これを聞いた人々は思ったに違いありません。「ああ、洗礼者ヨハネを引き合いにだそうとしているのだな」。ヨハネは一世を風靡した説教者であり洗礼運動の指導者でした。当時の社会に大きな影響を与えた宗教家です。そのヨハネがイエスについて語っていたのです。「この方こそ神の子である」(1:34)と。

 なるほど、イエス様が自分で言っているだけでなく、ヨハネが語っていたとなれば、それはそれで大きな意味を持つでしょう。しかし、イエス様は言われたのです。「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」。イエス様が「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言われた時に意味していたのは、ヨハネのことではなかったのです。

新約聖書の証し
 イエス様はまず御自分のなさっていることに目を向けさせます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。イエス様は御自分について語られるだけではありませんでした。イエス様は行動なさったのです。イエス様は事を起こされたのです。私たちはイエス様のなさっていることに目を向けなくてはならないのです。

 「わたしの行っている業」というのは、狭い意味においてはイエス様のなさった奇跡を指します。しかし、より広い意味においては、人々との関わりにおいてイエス様のなさった数々の事を指していると言えるでしょうし、さらにはイエス様が最終的に十字架において成し遂げられた救いの御業を指していると言えるでしょう。ですから「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」という言い方がされているのです。

 そのようなイエス様の御生涯とその意味するところが新約聖書において私たちにまで伝えられているのです。そのように新約聖書に書かれているのは、書かれる以前に、イエス様のなさったことを伝えた人々がいたからです。イエス様の言葉と共に、イエス様がなさった一つ一つのことが大事なのだと思って、懸命に伝えてきた人たちがいたのです。それが後々にまで伝えられるように、福音書として書き残した人々がいたのです。なぜですか。イエス様の御生涯、特に公生涯と呼ばれる最後の三年半になさったことそのものが、この御方が誰であるかを証ししているからでしょう。

 二千年後にまで、その証言が伝えられていることはなんと驚くべき恵みでしょう。四つの福音書や新約聖書におけるその他の文書が、言葉を尽くして、イエス様のなさったこと、成し遂げられた御業とその意味するところを今日の私たちにまで伝えてくれていることは、なんと感謝すべきことでしょう。キリストの御生涯の証言である新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

旧約聖書の証し
 そして、さらに主は言われます。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」。

 細かいことを申し上げますが、実はこの「証しをしてくださる」は、「既に証しをしてくださっている」というニュアンスです。文法的には完了形で書かれているのです。どういう形で既に証しをしてくださっているのか。実は、イエス様が言っているのは「聖書」の話なのです。既にイスラエルの歴史の中において神は語ってこられ、そしてその神の証言が聖書として残されているのです。聖書において、父が既にキリストについて証ししてくださっているのです。

 ですから主はさらに聖書についてこう言われるのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39‐40節)。この場合の「聖書」とは、私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。

 ユダヤ人たちは聖書を研究していました。ラビ的解釈の細かさは現代の私たちが読んでも驚きます。本当に細かく、一語一句大切に解釈するわけです。私たちは彼らがどれほど聖書を大切にしたか、ある意味では見習わなくてはならないでしょう。しかし、残念ながら彼らは永遠の命が「聖書の中に」あると考えていたのです。聖書そのものが永遠の命を与えてくれるように思ったのです。だから、聖書の言葉、律法をどれだけ身につけるかが最大の関心だったのです。「律法の言葉を身につけたなら、来世の命を身につけたのである」とは有名なラビであるヒレルの言葉です。

 しかし、イエス様は、「そうではない」と言われるのです。聖書は、そのものが永遠の命を持つのではなくて、私たち人間に必要な救い主を指し示し、救い主に導くのが聖書なのです。私たちをイエス様のもとに行かせ、イエス様のもとにひざまずかせ、「わたしをお救い下さい」と言わしめるもの、それが聖書なのです。既に父なる神がこの世にお遣わしになるキリストを既に証ししていてくださったのです。

 そのように、私たちにキリストを証しする旧新約聖書が与えられています。日本基督教団信仰告白の中にも次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与える神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」私たちはこれからも、キリストを証しする神の言葉として、旧新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

 主はあの時、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆いておられました。それはなんとしても御自分のところに来て欲しいという主の願いの現れでもあるのでしょう。なぜなら、この御方は私たちにとって、命のパンであり、世の光であり、救いの門であり、良い羊飼いであり、死んでも生きる復活であり、父への道であり、実を結ばせるぶどうの木だからです。それを一言で表現すれば「永遠の命」となります。主はこの命へと招いておられます。与えられている父の証しを通して、イエス様のもとに行きましょう。そして、イエス様につながっていましょう。

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