日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章13節~24節
「ねたみ」が起こるように
今日の聖書朗読は次の言葉から始まっていました。「では、あなたがた異邦人に言います」。ここで「異邦人」とはユダヤ人以外を指します。その意味ではここにいる私たちもまた「異邦人」です。
イエス様はユダヤ人でした。イエス様の弟子たちもユダヤ人でした。最初の教会のメンバーは皆、ユダヤ人でした。教会で用いられていた聖書も、もともとはユダヤ人が伝えてきたユダヤ人の書物でした。メシアの到来の希望も、神の救いの約束も、もともとユダヤ人に与えられたものでした。
しかし、使徒言行録に見るように、教会が宣べ伝える福音の言葉を多くのユダヤ人は受け入れませんでした。むしろ福音の言葉を受け入れたのは、聖書も知らなかった、メシアの到来の希望も救いの約束も知らなかった異邦人でした。自分の罪を認めて、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れ、神の赦しに与って、喜びと感謝をもって神と共に生き始めたのは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。
そのようにして、もともとユダヤ人だけで構成されていた教会に異邦人が加わることになりました。そのようにして、もともとユダヤ人だけに伝えられていた福音が異邦人にも伝えられることになりました。そのような教会の歴史の延長上に異邦人である私たちもいるのです。
異邦人に福音が伝えられる上で大きな働きをしたのは、この手紙を書いているパウロでした。パウロは自らを「異邦人のための使徒」と呼んでいます。ここに彼の自覚が現れています。自分は異邦人に遣わされた者であり、異邦人に福音を伝えることは神から与えられた使命であるとパウロは考えていました。実際多くの異邦人がパウロを通してキリストを信じたのです。
しかし、パウロ自身は、異邦人がキリスト者となることを自分の働きのゴールとは考えませんでした。パウロはその先を見ていたのです。その先に起こるべきことを、彼はこう表現しています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(14節)。パウロは同胞であるユダヤ人のことを考えているのです。今はまだ福音を拒絶している人たちのことを考えているのです。パウロは彼らもまた救われることを願っているのです。福音を拒絶している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。迫害している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。
そのことを異邦人であるキリスト者に話します。「では、あなたがた異邦人に言います」と。なぜでしょう。彼らにも、自分たちの救いがゴールだと思っては欲しくないからです。異邦人が福音を信じて、キリストを信じて、それで終わりだと思って欲しくないからです。自分たちがキリストを信じたのは、まだ信じていない人々のためだということを理解して欲しいからです。異邦人である彼らがキリスト者とされたのは、福音を拒絶している人々の救いのためだということを理解して欲しいからです。
先に信じた異邦人キリスト者たちに、パウロが切に願っていることがありました。それは信じていない人々の中に「ねたみを起こして欲しい」ということでした。キリストを信じた彼らによって同胞にねたみを起こしたいということでした。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と。
救いのために「ねたみ」を起こさせたい。なんとも不思議な表現です。しかし、キリスト者の証しとは元来そのようなものなのでしょう。異邦人キリスト者が神を信じ、神と共に生き、神の恵みに与り、神への感謝と喜びに溢れている姿によって、ユダヤ人に「ねたみ」が起こる。自分の先祖が伝えてきた神であるのに、その神から異邦人たちが豊かに恵みを受けている姿を見て、ユダヤ人の中に「ねたみ」が起こることこそ必要とされていたのです。
それは立派な姿を見て「見習いたくなる」ということとは意味合いが異なります。尊敬できる人を見て「あの人のようになりたい」と思うのとも意味合いが異なります。パウロが異邦人キリスト者の存在によって起こって欲しいのはそういうことではなかったのです。もしそうならばパウロは「ねたみ」という表現は使わなかったでしょう。起こって欲しいのは「ねたみ」なのです。そして、「彼らが与えられているならば、わたしもそれが欲しい」という思いなのです。そのために異邦人である彼らが先に信じる者とされたのです。
慈しみにとどまるなら
しかし、このようにパウロが語っているのは、そのように理解していない人たちが少なくなかったからでもあったのでしょう。今日読んだ箇所から、おぼろげながら実際に何が起こっていたかが見えてきます。
異邦人でキリスト者となった人たちは、身近に福音を拒否したユダヤ人たちを見ていました。敵意を向け、迫害をしてくる彼らを見ていました。そこで異邦人キリスト者はこう思うのです。ユダヤ人たちは確かに聖書を良く知っているかもしれない。聖書に書かれている戒律も守ってきた。しかし、本当に大事なことについては無知なのだ。イエス・キリストによる罪の赦しも、救いの喜びも知らないままでいるのだ。そして、異邦人キリスト者たちはこのような言葉を口にするのです。「彼らは不信仰のゆえに折り取られた枝だ。彼らは折り取られて、異邦人である私たちが接ぎ木されたのだ。私たちは根から豊かな養分を受けて実を結ぶようになるけれど、彼らは折り取られて枯れ枝になるだけだ」と。
だからこそ異邦人キリスト者に対して、パウロはこう言うのです。17節以下を御覧ください。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(17‐18節)。
確かに彼らが接ぎ木された枝であることは事実かもしれません。根から豊かな養分を受け取っていることも事実でしょう。それは大いに喜ぶべきことです。しかし、そのゆえに、折り取られた枝、根につながっていない枝に対して誇るようになったり、見下すような思いを抱くようになったら、それはやはり間違ったことでしょう。接ぎ木された枝は根を支えているわけではないのです。根によって百パーセント支えられているのです。それは何ら誇るべきことではないのです。
しかし、信仰者の中に誤った誇りや思い上がりが宿ってしまうことは確かにあります。今日の異邦人キリスト者である私たちにおいてもしばしば起こることです。今日の聖書箇所の直後には「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように…」(25節)と書かれています。そうです、信仰を持ったことが、何か賢い者にでもなったかのように思ってしまうのです。一段上に上がったかのように思い上がってしまうのです。そして、信仰のない世界に対してただ批判者として立つことになる。また、教会の中にある不信仰に対しても、ただ批判者として立つことになるのです。
それゆえにパウロは言います。「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい」(20節)。そして、こう続けます。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。
「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。
私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみを思うのです。ここでパウロは「神の慈しみにとどまる」という表現を用いています。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と。
そのように「神の慈しみにとどまる」ことこそが大事なのです。野生のオリーブであった私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。本来ならばここにいるはずのない私たちが、私たちが今こうしていられるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。すべてはただ神の慈しみによるのだということを思いつつ、神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。
そのように神の慈しみにとどまってこそ、私たちは受けているものの大きさを指し示して生きることができるのです。誇って信仰者の自分を指し示すのではなく、ただ不信仰な世界や不信仰な他者を批判するでもなく、慈しみの神から与えられた大いなる救いを指し示して生きることができるのです。そこにおいてこそ、良い意味での「ねたみ」もまた起こるのです。