2015年11月29日日曜日

「すべては神の慈しみによるのです」

2015年11月29日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章13節~24節


「ねたみ」が起こるように
 今日の聖書朗読は次の言葉から始まっていました。「では、あなたがた異邦人に言います」。ここで「異邦人」とはユダヤ人以外を指します。その意味ではここにいる私たちもまた「異邦人」です。

 イエス様はユダヤ人でした。イエス様の弟子たちもユダヤ人でした。最初の教会のメンバーは皆、ユダヤ人でした。教会で用いられていた聖書も、もともとはユダヤ人が伝えてきたユダヤ人の書物でした。メシアの到来の希望も、神の救いの約束も、もともとユダヤ人に与えられたものでした。

 しかし、使徒言行録に見るように、教会が宣べ伝える福音の言葉を多くのユダヤ人は受け入れませんでした。むしろ福音の言葉を受け入れたのは、聖書も知らなかった、メシアの到来の希望も救いの約束も知らなかった異邦人でした。自分の罪を認めて、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れ、神の赦しに与って、喜びと感謝をもって神と共に生き始めたのは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。

 そのようにして、もともとユダヤ人だけで構成されていた教会に異邦人が加わることになりました。そのようにして、もともとユダヤ人だけに伝えられていた福音が異邦人にも伝えられることになりました。そのような教会の歴史の延長上に異邦人である私たちもいるのです。

 異邦人に福音が伝えられる上で大きな働きをしたのは、この手紙を書いているパウロでした。パウロは自らを「異邦人のための使徒」と呼んでいます。ここに彼の自覚が現れています。自分は異邦人に遣わされた者であり、異邦人に福音を伝えることは神から与えられた使命であるとパウロは考えていました。実際多くの異邦人がパウロを通してキリストを信じたのです。

 しかし、パウロ自身は、異邦人がキリスト者となることを自分の働きのゴールとは考えませんでした。パウロはその先を見ていたのです。その先に起こるべきことを、彼はこう表現しています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(14節)。パウロは同胞であるユダヤ人のことを考えているのです。今はまだ福音を拒絶している人たちのことを考えているのです。パウロは彼らもまた救われることを願っているのです。福音を拒絶している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。迫害している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。

 そのことを異邦人であるキリスト者に話します。「では、あなたがた異邦人に言います」と。なぜでしょう。彼らにも、自分たちの救いがゴールだと思っては欲しくないからです。異邦人が福音を信じて、キリストを信じて、それで終わりだと思って欲しくないからです。自分たちがキリストを信じたのは、まだ信じていない人々のためだということを理解して欲しいからです。異邦人である彼らがキリスト者とされたのは、福音を拒絶している人々の救いのためだということを理解して欲しいからです。

 先に信じた異邦人キリスト者たちに、パウロが切に願っていることがありました。それは信じていない人々の中に「ねたみを起こして欲しい」ということでした。キリストを信じた彼らによって同胞にねたみを起こしたいということでした。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と。

 救いのために「ねたみ」を起こさせたい。なんとも不思議な表現です。しかし、キリスト者の証しとは元来そのようなものなのでしょう。異邦人キリスト者が神を信じ、神と共に生き、神の恵みに与り、神への感謝と喜びに溢れている姿によって、ユダヤ人に「ねたみ」が起こる。自分の先祖が伝えてきた神であるのに、その神から異邦人たちが豊かに恵みを受けている姿を見て、ユダヤ人の中に「ねたみ」が起こることこそ必要とされていたのです。

 それは立派な姿を見て「見習いたくなる」ということとは意味合いが異なります。尊敬できる人を見て「あの人のようになりたい」と思うのとも意味合いが異なります。パウロが異邦人キリスト者の存在によって起こって欲しいのはそういうことではなかったのです。もしそうならばパウロは「ねたみ」という表現は使わなかったでしょう。起こって欲しいのは「ねたみ」なのです。そして、「彼らが与えられているならば、わたしもそれが欲しい」という思いなのです。そのために異邦人である彼らが先に信じる者とされたのです。

慈しみにとどまるなら
 しかし、このようにパウロが語っているのは、そのように理解していない人たちが少なくなかったからでもあったのでしょう。今日読んだ箇所から、おぼろげながら実際に何が起こっていたかが見えてきます。

 異邦人でキリスト者となった人たちは、身近に福音を拒否したユダヤ人たちを見ていました。敵意を向け、迫害をしてくる彼らを見ていました。そこで異邦人キリスト者はこう思うのです。ユダヤ人たちは確かに聖書を良く知っているかもしれない。聖書に書かれている戒律も守ってきた。しかし、本当に大事なことについては無知なのだ。イエス・キリストによる罪の赦しも、救いの喜びも知らないままでいるのだ。そして、異邦人キリスト者たちはこのような言葉を口にするのです。「彼らは不信仰のゆえに折り取られた枝だ。彼らは折り取られて、異邦人である私たちが接ぎ木されたのだ。私たちは根から豊かな養分を受けて実を結ぶようになるけれど、彼らは折り取られて枯れ枝になるだけだ」と。

 だからこそ異邦人キリスト者に対して、パウロはこう言うのです。17節以下を御覧ください。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(17‐18節)。

 確かに彼らが接ぎ木された枝であることは事実かもしれません。根から豊かな養分を受け取っていることも事実でしょう。それは大いに喜ぶべきことです。しかし、そのゆえに、折り取られた枝、根につながっていない枝に対して誇るようになったり、見下すような思いを抱くようになったら、それはやはり間違ったことでしょう。接ぎ木された枝は根を支えているわけではないのです。根によって百パーセント支えられているのです。それは何ら誇るべきことではないのです。

 しかし、信仰者の中に誤った誇りや思い上がりが宿ってしまうことは確かにあります。今日の異邦人キリスト者である私たちにおいてもしばしば起こることです。今日の聖書箇所の直後には「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように…」(25節)と書かれています。そうです、信仰を持ったことが、何か賢い者にでもなったかのように思ってしまうのです。一段上に上がったかのように思い上がってしまうのです。そして、信仰のない世界に対してただ批判者として立つことになる。また、教会の中にある不信仰に対しても、ただ批判者として立つことになるのです。

 それゆえにパウロは言います。「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい」(20節)。そして、こう続けます。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。

 「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。

 私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみを思うのです。ここでパウロは「神の慈しみにとどまる」という表現を用いています。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と。

 そのように「神の慈しみにとどまる」ことこそが大事なのです。野生のオリーブであった私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。本来ならばここにいるはずのない私たちが、私たちが今こうしていられるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。すべてはただ神の慈しみによるのだということを思いつつ、神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。

 そのように神の慈しみにとどまってこそ、私たちは受けているものの大きさを指し示して生きることができるのです。誇って信仰者の自分を指し示すのではなく、ただ不信仰な世界や不信仰な他者を批判するでもなく、慈しみの神から与えられた大いなる救いを指し示して生きることができるのです。そこにおいてこそ、良い意味での「ねたみ」もまた起こるのです。

2015年11月22日日曜日

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」

2015年11月22日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 1章4節~8節


今おられる御方
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるための手紙です。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。そして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉が続きます。これはもう一度8節で繰り返されます。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。

 主なる神は、「やがて来られる方」として語られています。「やがて」という言葉は原文にはありません。ですからこれは「いつか遠い未来に来られる」という意味ではありません。いわば刻々とこちらに向かって近づいて来ているということです。神の足音が近づいて来るというイメージでしょうか。もちろん救いのために近づいて来られるのです。

 迫害の中にある教会にとって、この言葉がどれほど大きな慰めであったかを思わされます。彼らの集まりは常に脅かされていました。いつでも近づいて来るものに脅かされていました。それこそ誰かが近づいて来る足音に脅かされていたでしょう。さらに言うならば常に死の足音が近づいて来るのが聞こえるということでもある。しかし、そのような教会に対して、本当に意識すべきは死が迫り来ることではなくて、「神が近づいて来られる」ということだとヨハネは語るのです。そちらの方が死の迫りよりも重要なのだということです。

 そして、そこには不思議なことが書かれているのです。「やがて来られる」ならば、論理的に考えるならば「それまではいない」ということになるではありませんか。しかし、その前には「今おられ、かつておられ」と書かれているのです。

 艱難の時は永遠に続くのではありません。死の迫り来る足音に怯える時は永遠に続くのではありません。神が到来するのです。救いの時が来るのです。まさに神が神として御自身を現される時が来るのです。しかし、救いが実現した時になって初めて主なる神が共にいてくださるのではないのです。そうではなくて、実はその神が「かつておられ」たと知ることになるのです。すなわち過去もまた神と共にあったと知ることになるのです。

 想像して見てください。迫害の中にあって、仲間が捕らえられて殺されてしまったとなったらどうですか。それこそ、まさに神が不在であったとしか人間の目には映らないではありませんか。この世の悪の力だけ、死の力だけが支配している。神はおられなかった、と。しかし、そうではないのです。「かつておられ」とヨハネは言うのです。

 私たちもそうでしょう。過去の悲しい出来事。なんであんなことになったのか、と思うこと。神様はあの時おられなかった。そう思えるようなことがあるでしょう。しかし、そうではなかったと知る時が来るのです。確かに神はおられた。そして、その時には見えなかったけれど、確かにわたしは神の愛の支配の内にあった。そう知る時が来るのです。「かつておられ」とはそういうことです。

 だからそれを信じて、今を生きるのです。それゆえに最初に「今おられ」と書かれているのです。ヨハネは苦難の中にある教会に、まず「今おられ」と宣言するのです。神である主は、やがて来られるだけでない。かつておられただけでない。そうです、「今おられる!」。このヨハネの黙示録は、ただ未来についての予告を書き記したような手紙ではありません。そうではなくて、大事なことは、最後を握っておられる方、その御方が「今おられ」と信じて生きるための手紙なのです。

真実な証人
 そのように私たちは主なる神が「今おられる」と信じて、共に集まって礼拝し、その御子イエス・キリストを主として生きていくのです。その御支配の中にあると信じて生きていくのです。その御方についてはこう書かれています。「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト(から恵みと平和があなたがたにあるように)」(5節前半)。

 私たちが仰ぐその御方こそ「証人」です。「証人、誠実な方」はまた「真実な証人」とも訳せます。またヨハネの黙示録が書かれた頃、「証人」という言葉はまた「殉教者」という意味をも持っていました。命をかけた証人です。その意味では、イエス様こそ、命をかけた第一の証人でしょう。

 イエス・キリストこそ、私たちに「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なる神を証ししてくださった御方です。神が不在と思えるような苦難の中にあってなお、この御方は命をかけて、「神はおられるよ、あなたを愛しておられるよ、あなたと共におられるよ」と身をもって証ししてくださった御方です。

 その御方は「死者の中から最初に復活した方」だと語られています。そう訳されていますが、本当は「死者の中から最初に生まれた方」あるいは「死者の中からの長子」と書かれているのです。同じ表現はコロサイ書にもあります。これは実は重要な言葉なのです。イエス様は死んで葬られたのだけれど、そこに閉じ込められてはいませんでした。死の中に閉じ込められていませんでした。ちょうど母の胎から生まれるように、そこから出て来られたのです。そのようにして、イエス様は死の意味を変えてしまいました。イエス様によって、死は新しい誕生をもたらす母の胎とされたのです。

 考えてみてください。「神はおられない」という叫びが最も悲痛なものとなるのは人の死に際してではありませんか。死に直面するときに、特に悲惨な死に直面する時に、「ああ、神なんておられない。あるいはおられたとしても、わたしと共にはいてくださらない」と思うわけでしょう。それこそ肉の目から見れば、イエス・キリストの死こそ、あの理不尽な死こそ、神不在のしるし以外の何ものでもないでしょう。しかし、イエス様は死を新しい誕生にしてしまって、「神は共にいるよ」と証ししてくださったのです。「神はあなたと共にいるよ。そして、死を新しい命への誕生に変えてしまわれたよ」と。

王として、祭司として
 そのような御方を私たちは信じているのです。そのような御方に栄光を帰し、共に礼拝を捧げているのです。ヨハネも次のような言葉をもってキリストを讃えます。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

 まず、キリストは「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。私たちは愛されているのです。救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。迫害さえもある。そのような現在において、私たちは既に愛されているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。私たちは罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかしやがて私たちは完全な勝利の中で完全に罪の力から解放された自分自身を見ることになるのです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。

 しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは王として、キリスト以外の何ものにも支配されない王として生きたらよいのです。真に畏れ従うべき御方を知るとはそういうことなのです。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは他者の上に罪の赦しを求めることができる。この世の上に罪の赦しを求めることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことでしょう。そして、なんと光栄に満ちた務めを与えられていることでしょう。それはただキリストのゆえなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

 これが私たちの信じるキリストです。私たちが礼拝を捧げている御方です。私たちもヨハネに声を合わせて主を讃えたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

2015年11月8日日曜日

「祝福を受け、祝福となる」

2015年11月8日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 12章1節~9節


あなたは祝福となれ
 今日は「子ども祝福礼拝」です。私たちは皆、心を合わせて子どもたちの上に神の祝福を祈り求めます。「祝福」とは何か。それは命の満ち溢れた状態です。命が満ち溢れ、溢れ流れて未来を開くのです。ですから、旧約聖書においては、例えば農作物の豊作、家畜の多産、一族の子孫が増え広がることが神の祝福の現れとして語られます。もちろんそれらが神の祝福の全てではありません。神様が人間に与えようとしているのは、目に見えるものを越えて限りなく豊かなものです。

 新約聖書においてパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)と言っています。神が与えようとしている祝福は、神の命の満たしは私たちの思いを越えて豊かなものとして、万物を与えられるに等しいものとして与えられるのです。それは最終的には神の国における救いの完成にまで至ります。そのような未来を開く命の満たしを神からのものとして求める。それが祝福を祈り求めるということです。

 今日の聖書箇所には、神御自身から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人物が登場してきます。アブラハムです。その時点ではまだ名前はアブラムでした。主はアブラムにこのような約束の言葉を与えられたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神は開かれるべきアブラハムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。しかし、神には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。イスラエルの民が見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない開かれた未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源となるように」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「あなたは祝福となれ」と書いてあるのです。祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は他者にとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためだけではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 そのように神が子どもたちを祝福するとするならば、それは子どもたちがこの世界の祝福となるためです。祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となるような未来が開かれることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

信仰によって
 そのように、神はアブラムを祝福するとの約束を与え、その目的はアブラムが祝福となるためでした。しかし、私たちはその前に主が次のように語られたことを心に留めなくてはなりません。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。

 アブラムの生まれ故郷はどこでしょう。アブラムが生まれたのはカルデアのウルでした。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこからアブラムの父テラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移住しました。アブラムが主の呼びかけを聞いたのは、そのハランにおいてでした。ですから、厳密に言えば、アブラムは既に生まれ故郷は離れていることになります。

 実は、「生まれ故郷」と訳されているこの言葉は、「あなたの地、あなたの親族」というのが直訳なのです。ですから、必ずしもウルのことではないのです。「あなたの地」と言われているのは、寄留者ではないということです。彼には「わたしの地」と言えるものがあるのです。そこでは安心して生活できるのです。しかし、主はそこから旅立つようにと言われたのです。

 それは父テラがウルからハランに移住した時のように、ただ別の地が「あなたの地」になるということではありません。ここにはいわゆる転勤族の方々もおられますが、生活の場所が変わるということは、必ずしも人生の根本的な転換を意味するわけではありません。ここで語られているのは、そのようなことではないのです。アブラムはここで、「あなたの地を離れ…わたしが示す地に行きなさい」と言われているのです。

 ここからは主に導かれ、主に従って生きていくのです。主に信頼して生きていくのです。ただ別の地を「わたしの地」として生きることではないのです。それは人生の根本的な転換です。それを「信仰」と呼ぶことができるでしょう。アブラムは「わたしの地」から踏み出して信仰によって生きる新しい生活へと招かれたのです。

 その招きに続いて先に読んだ祝福の約束は語られているのです。祝福を与えてくださるのは神ですが、祝福には受け取り方があるからです。4節には何と書いてありますか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。実際に、神に信頼し、現実に一歩を踏み出したのです。旅立ったのです。彼は信仰によって生き始めたのです。そのようにして祝福の約束を受け取ったのです。これが受け取り方です。

 アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単に善い人間になることでも有能な人間となることでもないのです。私たちは「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と思うのでしょう。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かった。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

祭壇を築いた
 その具体的な姿は「旅立った」と表現されていますが、それだけではありません。その続きがあります。旅立ったアブラムはどうしたでしょう。アブラムはハランからカナン地方に向かって旅立ち、やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先住民がいるということは、そこで寄留者になるということです。「わたしの地」に住んでいた時にはなかった困難がそこにはあったことでしょう。しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」。

 彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。祭壇とは礼拝の場所であり祈りの場所です。祭壇を築きつつ旅をするということは祈りながら生きていくということに他なりません。信仰生活とは祈りの生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように信仰は観念ではありません。ただ神について考えることではありません。信仰は具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、私たちにとっても目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があるのです。今日、私たちが祝福を祈り求めた子どもたちが、そして、私たち自身が、そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、祝福を受けて祝福となることを信じて、これからも主と共に歩み続けてまいりましょう。

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