2015年10月25日日曜日

「目に見えない神の目に見える姿」

2015年10月25日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節


御子は、見えない神の姿
 初めに15節から17節までをお読みしましょう。この部分は当時の讃美歌の一部であろうと言われています。ここには万物の創造のみ業との関連においてキリストが語られています。実に壮大なキリスト賛歌です。当時の人たちはこの信仰を高らかに歌いあげていたのです。これこそまさにパウロ自身も知り、経験していたキリストです。私たちが信じているキリストを思い描く時、このようなキリストを思い描いているでしょうか。

 その冒頭には「御子は、見えない神の姿であり」と書かれています。「見えない神」――確かに神は本質的に人間の目には見えません。それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている言葉です。

 人と神とは絶対的に異なる存在です。神と人との間にはなんらの連続性もありません。神ならぬ偶像ならば人間との絶対的な差異を問題にしなくて良いのでしょう。人間が作った神ならば人間が知り得ること理解できることを前提で語ることができるのでしょう。しかし、まことの神であるならば、見えない、知り得ないのは当然なのです。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子・キリストなのです。「御子は、見えない神の姿であり」とはそういうことです。

 いや神が「見えない」というのは、単に人間と神の本質的な隔たりだけを意味するのではありません。それが意味するのは罪による隔たりでもあります。讃美歌66番「聖なる、聖なる」の3節において次のように歌われています。「聖なる、聖なる、聖なるかな、罪ある目には見えねども…」。そうです、罪ある目に神は見えません。罪あるゆえに、人間は神の本来の姿を知りません。そうです、私たちは神の本来の姿を知り得ないのです。

 皆さんの多くは、旧約聖書の多くの場面に描かれている神の姿に、何らかの違和感を覚えたことがあるに違いありません。怒りに満ちて皆殺しを命じる神。罪の裁きと滅びを宣言される神。しかし、それは神の本来の姿ではないのです。そのような姿として神が啓示されているのは、そのような姿としてしか神を知り得なかったのは、人間に罪があるからです。人間と神との関係が歪んでいるからです。壊れているからです。

 そのような人間に対して、人間が創造される以前にまで戻って、万物を創造し、これを良しとされたあの本来の神の姿、溢れ出る愛において天地を創造した神の本来の姿を完全に見せてくださったのは、御子なる神なのです。御子こそ、天地創造において働いた神の愛そのものだからです。ですからパウロはここでさらに筆を進めて、万物は「御子において」「御子によって」造られたのだ、と記しているのです。

 そのように万物の創造において働いた神の愛そのものである御方が、肉をとられ、人間となって、私たちが足を置いているこの同じ地上を歩まれました。それがナザレのイエスという御方です。その御方が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言ってくださったのです。その御方こそが「教会の頭」なのです。私たちはそのような方を指して、「われらの主、イエス・キリストを信ず」と言っているのです。

 「教会の頭」であり、私たちと共にいてくださる方は、そのように実に大きな御方です。はたしてそのような意識を持って信仰生活を営んでいるだろうか。そのような意識をもってキリストと共に歩んでいるだろうかと考えさせられます。私たちはしばしば見える現実の方がキリストよりも大きいと考えているのです。私たちが抱えている問題の方がキリストよりも大きいと考えているのです。この世界の存続を脅かしている諸問題は確かに大きいかもしれません。しかし、キリストよりも大きいわけではありません。所詮は被造物世界の中の事柄です。あの御方はこの被造物世界を造られた御方です。私たちはそのような御方を「われらの主」として信じているのです。

 そして、「御子において」「御子によって」だけでなく「御子のために」とも書かれています。御子は万物の目的でもあるのです。万物は御子との関わりにおいて、初めて存在の意味を得るのです。人間について言うならば、御子に向いていてこそ、人は本当の意味で生きるのです。目的を決めるのは被造物ではなく創造主だからです。

 私たちが創造主の目的とするところを離れて、どんなに「自分の人生の意味は何であるか」と問うたところで、その問いに答えが見つかるはずはありません。人間の手を離れて部屋の隅に転がっているボールペンが「わが存在の目的は何ぞや」と悩んでいる姿を想像してみてください。滑稽ではありませんか。目的は造られた側ではなく造った側が決めるのです。

 逆に言えば、私たちがどんなに自分の存在意義を見いだせないような状態になっても、大丈夫なのです。御子に向いているならば大丈夫なのです。あなたは御子のために存在しているのだよ、と神は言ってくださるからです。キリストこそ万物の目的です。

十字架の血によって
 さて、15節から17節までに、創造の御業との関連でキリストが語られているとするならば、18節以下には、更に、救いの御業との関連においてキリストが語られています。

 先ほどお読みしましたところに「御子は、見えない神の姿であり」とありましたが、19節においては「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と書かれています。つまり、御子のうちには父なる神様ご自身のあらゆる良きものが満ち満ちていたということであります。こうして、御子は父なる神を現わされたのです。

 しかし、その御子が十字架にかかられて死なれました。見えない神の姿であられる方が十字架にかかられて死なれました。万物創造の業を担われた方、万物の目的であられる方が、ただ一度この地上に人間として現れ、人間の手によって十字架にかけられて死なれたというのです。父なる神がそれをよしとされました。満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせてくださった父は、その御子が十字架の上で血を流すことをよしとされました。

 ここに記されていることを一言一言噛み締めながら読んでいきますならば、20節に書かれている「十字架の血によって」という言葉は私たちの想像を絶するような大変な出来事であることが分かります。その言葉にいつのまにか驚きも感動も覚えなくなっているとするならば、やはり私たちのキリスト理解はどこかおかしくなっているのです。小さくなってしまっているのです。

 神の目的は単に人に自らを啓示するということに留まりませんでした。万物をご自身と和解させるためでした。なぜ「人間」だけでなく「万物」と言われているかと申しますと、人間が罪を犯したため、人間のみならず全ての被造物が神のもとにある正しい秩序から外れてしまったからです。その結果、人間だけが罪の中で呻き苦しんでいるのではなくて、万物が呻いているのです。本日はそのことにはこれ以上触れません。ローマの信徒への手紙8章19節以下をお読みください。今日は特に人間、すなわち私たち自身のことのみを考えたいと思います。

 御子の血が注がれることを良しとされた神の目的は、御子によって私たちを御自分と和解させることでした。正しい関係を回復し、交わりを回復するためでした。とは言っても、もともと責任は神様にあったのではありません。人間にあったのです。人間の罪が問題でした。先にも申しましたように、私たち人間の罪が神との交わりを壊したのです。人間が神に背を向けていたのであってその逆ではありません。

 しかし、神がその交わりを回復しようとしてくださいました。交わりの回復のためには罪が処理されなくてはなりません。しかも神にふさわしい、義しい仕方で処理されなくてはなりません。それは罪をただ赦すことではなくて、罪を裁いた上で赦すことでした。これが神の義です。神は罪を裁かれました。どのようにでしょうか。御子を十字架にかけ、血を流すことによってです。「十字架の血によって」とはそういうことです。

 万物の創造に関わられた万物の目的である方が血を流して死なれるということは、私たちの理解を越えた、驚くべき出来事です。私たちの小さな頭で把握することのできないほどに大きな事です。それは、人が神と和解して共に生きるということが、決して簡単な小さなことではないことを示しています。それは、本当は人知を越えた恐ろしく大きな出来事なのです。

 実際、事柄の大きさを私たちが理解しないために、罪の赦しも、神を礼拝できることも、神に祈れることも、あたかも当然のことであるかのように考えるようになり、そして粗末にするようになってしまうのでしょう。それゆえに、私たちはキリストをどのように理解するかが、私たちの信仰生活において、決定的に重要な意味を持っているのです。

 そして、御子は、「すべてのものが造られる前に生まれた方」であるだけでなく、「死者の中から最初に生まれた方」と語られています。そこで表現されているのはキリストの復活です。キリストは復活されて今も生きておられます。私たちの救いを為し遂げてくださった方は今も、教会の頭として生きておられます。私たちはその御子の支配下に移されたのです。今もその御方のもとに生かされているのです。それが私たちに与えられている信仰生活です。

2015年10月18日日曜日

「弱いところにこそ現される神の力」

2015年10月18日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 士師記 7章1節~8節


主は共におられます
 「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。今日の朗読はそのような言葉から始まっていました。

 イスラエルの陣営とミディアンの陣営が対峙しています。ミディアンの陣営。正確に言うならば、それはミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結束した連合軍です。その数はおよそ13万5千人(8:10)。対するイスラエルの民は3万2千人です。敵の四分の一にも及びません。どう考えても圧倒的に不利です。彼らはどうして勝ち目がないような戦いに挑もうとしているのでしょう。そもそもこの民を率いているギデオンとは何者なのでしょう。

 彼らが向き合っているミディアン人やアマレク人や東方の諸民族というのは、駱駝に乗って移動しながら生活している遊牧民です。彼らは定住している他の民族から略奪することによって生活の資を得ているのです。イスラエルの民も例外ではありません。度々略奪にあったことが書かれています。種を蒔き、農作物を育て、やっと刈り入れという時期になるとミディアン人がやってくるのです。彼らは農作物だけではありません。羊や牛やろばまで奪っていくのです。6章にはこのように書かれています。「彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった」(6:4‐5)。

 そのような悲惨な時代にギデオンという男が登場してまいります。次のように書かれています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(6:11)。これがギデオンです。

 酒ぶねの中で小麦を打っていた男。酒ぶねとは岩をくり抜いて作った穴です。そこに隠れて脱穀していたのです。そんな風の通らないようなところでちまちまと小麦を打っていて、うまく脱穀できるはずがありません。しかし、そうでもせずにはいられないほど、彼はビクビクしていたということでしょう。そんなギデオンのもとに主の御使いが現れて、こう言ったというのです。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)。

 酒ぶねに隠れているギデオンに「勇者よ」と呼びかけるのは、普通に考えればたちの悪い皮肉かジョークでしょう。しかし、わざわざ御使いを遣わして語られたのですから、神様は大まじめなのです。「勇者よ」と主は彼を呼ばれる。それは彼が強いからでも勇敢であるからでもありません。主にとって重要なのは、今、彼が《何者であるか》ではないのです。彼が《何者になり得るか》ということなのです。そこで決定的に重要なのは続く一言です。「主はあなたと共におられます」。彼が何者になり得るかは、まさにこの一言にかかっているのです。

 かつて同じ言葉を聞いた一人の男がいました。彼は殺人を犯して逃亡し、人目を避けて何十年も羊を追って生活していた一人の羊飼いでした。その名をモーセというその男に主は現れて言われたのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3:10)。

 これも普通に聞けば悪い冗談以外の何ものでもありません。当時の超大国であるエジプトの支配から奴隷の民を連れ出すことなんてことを一人の羊飼いにできるはずがありません。当然モーセは言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。それはモーセでなくても言うでしょう。しかし、そこで主が言われた言葉はこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同12節)。

 「わたしは何者でしょう」とモーセは言います。しかし、何者であるかは主にとってはどうでもよいのです。主にとって重要なのは彼が《何者になり得るか》ということだからです。そこで決定的に重要なのは「わたしは必ずあなたと共にいる」という一言です。まさにこの一言にかかっているのです。そして、モーセはイスラエルの解放者となりました。そのようなモーセを通して解放され導き出された奴隷の民の歴史の中にギデオンもいるのです。そうです、同じ主の声を聞いているのです。モーセに語られた主は今、ギデオンに語られます。

主が共におられるからこそ
 ギデオンは「主はあなたと共におられます」という言葉を受け止め、立ち上がりました。そうです、主の言葉を信じて立ち上がったのです。そして、彼は《主が共におられる》とはどういうことかを知ることとなるのです。しかし、それはギデオンが予想もしなかった仕方においてでした。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。

 先にも触れましたように、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結集した陣営は13万5千人にも及びました。イズレエルの平野に広がる大軍に、イスラエルはどう考えても太刀打ちできません。しかし、ギデオンは主を信じて戦うことを決断します。彼はついに角笛を吹き鳴らしました。

 戦うためには、まず人を集めなくてはなりません。他の諸民族のように訓練された常備軍がいるわけではありません。人をかき集めて戦うのです。まずギデオンの身内であるアビエゼルの氏族が集まってきました。それだけでは足りません。ギデオンは必死でした。自分が属するマナセの部族の隅々にまで使者を送り、人々を呼び集めます。それでも足りません。さらには北方の部族であるアシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わしました。こうして戦いに備えて人々をなんとかかき集めました。その数3万2千人。よく集めたと思います。

 もちろんそれでもなお敵の数には遠く及びません。しかし、ギデオンは諦めませんでした。今日お読みした朗読の箇所にはこう書かれています。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。彼らは3万2千人しかいないのに、それでも進んで行ったのです。

 ところが共におられる主はギデオンにこう言われたのです。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」(2‐3節)。いくらなんでもあんまりではないですか!ただでさえ少ないのです。それだってギデオンが必死でかき集めた人数です。主はそれを三分の一以下にしてしまわれました。

 ところが主はさらに言われます。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない」(4節)。そして、水辺に下った時、常に戦える用意をしながら水を手にすくってすすった者だけを残したのです。戦いを忘れ、膝をついて水を飲んだ者は帰らせました。残ったのはたった3百人でした。ギデオンがせっかく3万人以上集めたのに。

 主が共におられるとはどういうことですか。全てが順調に願った通りに進むことですか。どうもそうではないらしい。主が共におられるということは、時としてこのような形となって現れてくるのです。

 ここに書かれていることは、私たちにも覚えがあります。与えられた重荷は負わなくてはならない。与えられた使命は成し遂げなくてはならない。だから一生懸命に計画を立て、工夫して努力して、なんとかやり抜こうとするのでしょう。しかし、思った通りには進みません。せっかく集めたものを散らされてしまうようなことが起こります。せっかく積み上げてきたものが崩れてしまうようなことが起こります。せっかく集めた3万2千人を3百人にされてしまうようなことが起こります。その時に、やっぱり神様がうらめしくなるのでしょう。なぜですか、今までの努力は何だったのですか、と言いたくなる。そういうこと、ありませんか。

 しかし、神様は言われるのです。「あなたが頑張って、あなたがかき集めて、あなたが積み上げて、それで乗り越えたならば、心がおごり、『自分の手で救いを勝ち取った』と言うだろう」と。そうです、人は「わたしがやった」「わたしたちがやり遂げた」と言うようになるのです。その時、自分が主と共にいるかどうかは、どうでもよくなるのです。それは人間にとって本当は最も不幸なことなのです。だからこそ、そうならないように、主は時として3万2千人を3百人にされるのです。人間の願いとは逆行するようなことが起こるのです。しかし、それが人の目には最悪の状態に向かっているように見えたとしても、それは主に見捨てられたことを意味するのではないのです。

 その3百人はどうしたのでしょう。彼らは夜中に三つの小隊に分かれ、角笛と空の水がめを持って出て行きました。松明の光を水がめで隠しながら、気付かれないように敵陣を包囲する形で近づいたのです。そして、一斉に角笛を吹き、水がめを割って大きな音を出し、松明をかざして角笛を吹き続けたのです。この奇襲攻撃に敵陣は大混乱に陥りました。そして、結局かの13万5千人の大軍は3百人の前に敗走したのです。この世の目から見るならば、ギデオンの知恵の勝利であり、ギデオンの作戦勝ちと言えるでしょう。しかし、聖書はそう言っていません。「主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ…」(22節)と書かれているのです。本当に闘われたのは主御自身でした。

 自分が一生懸命集めた人々を神様によって散らされてしまったギデオンには分かっていたはずです。これは主の知恵であり、主の勝利である。人間の願い通りに進まなかったところにおいて、最も弱くされたところにおいて、主の偉大な力が現されたのだ、と。そうです。主は確かに共にいてくださったのです。

2015年10月11日日曜日

「完成に向かって」

2015年10月11日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章1節~11節


わたしは感謝します!
 今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。

 この手紙は「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。彼は獄中にいる未決囚としてこれを書いているのです。しかも、パウロが獄中にいる間、彼に敵対する者たちが自らの勢力を拡張するために働きを進めていたのです。15節以下にはこう書かれています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言います。彼が神に感謝を捧げているのは、単に彼の為していることが順調に進み、彼が望ましい境遇にあるからではありません。感謝の言葉など出て来ようはずもない状況において、彼はフィリピの教会を思いつつ、神に感謝を捧げているのです。

 彼はフィリピの教会を思い起こしながら、感謝を捧げます。それは彼自身は望ましい境遇になくても、フィリピの教会そのものは喜ばしい状態にあったからでしょうか。平和と調和を保った理想的な教会だったからでしょうか。いいえ、どうもそうではなさそうです。例えば、2章においてパウロは次のように書いています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)。つまり、現実にはそうなっていないということです。

 また、この教会も他の教会と同じように異端の教師たちが入り込んでいました。ゆえに、パウロはこの同じ手紙の中で、実に激しい言葉でこのように語っているのです。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。このようにフィリピの教会もまた他の教会と同じように、獄中にいるパウロの心を痛め、悩ませる要素を沢山持っていたのです。

 それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言うのです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。彼はそのような状態にあってもなお喜びをもって祈ることができるのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。

 パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じました。彼らの信仰生活がスタートしました。それは彼らがスタートしたと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が始められた善き事があるということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。

 ですから、パウロはその神の御業に目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。

最初の日から今日まで
 そのように神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。その神の御業に目を向けることは重要です。しかし、もう一方において、彼らが福音を信じて実際に信仰生活をスタートし、それが継続しているという人間の側の側面に目を向けることもまた重要です。パウロはここで「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。ならばパウロの言わんとしていることは、彼らが「福音にあずかり続けている」ということでしょう。

 この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、共に集まり、共にパンを裂き、キリストの体と血とに与りつつ、その命に生きる共同体に連なっている――それがここで語られていることに他なりません。そして、大切なことは、パウロのこの言葉において、明らかに「今日まで」という言葉が「最初の日」という言葉と同じ重みを持っているという事実です。「最初の日」だけが重要なのではないのです。

 この国においてキリスト教人口はいまだ1パーセントに過ぎません。そのような社会の中で洗礼を受けてキリスト者となるということは、一般的に大きな決断を伴います。洗礼を受けるまでに大いに悩んで考えて決心する人もいるのでしょう。そして、神の御前において畏れをもって洗礼を受けるのでしょう。そのように洗礼と入信、「最初の日」は大変重く受け止められるものです。

 しかし、その「最初の日」と同じほどに重要なのが「今日まで」ということなのです。今、ここにおいてキリストを信じる者として恵みにあずかっているという事実なのです。そのように信仰生活が継続されていることなのです。繰り返し変わることなく聖餐卓を囲んで礼拝を続けていることなのです。「洗礼」だけでなく、その後に繰り返しあずかることになる「聖餐」もまた同じように重く受け止められなくてはならないのです。実際どうでしょう。洗礼を受けた時と同じ思いをもって聖餐のパンと杯を受け取っているでしょうか。

 パウロにはその重さが分かっているのです。実際には問題が山積している教会かもしれない。パウロとの関係も常に良好であったわけではないかもしれない。しかし、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きなことかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。

キリスト・イエスの日までに
 そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。6節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。神が定められた終わりの日です。私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。その日までに、善い業を始められた方がその業を成し遂げてくださると言うのです。

 神の始められた善い業が成し遂げられる。そのようにして、私たちが「キリスト・イエスの日」に向けて備えられるということです。具体的にパウロはどのようなことを考えているのでしょうか。彼が何を考えてこのように語っているのかは、その祈りの言葉によく表れています。9節以下をご覧ください。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。

 彼はフィリピの教会のために、そこに生きる信仰者のために、このように祈るのです。神に祈るということは、当然のことながら信じて祈っているのです。そうなると信じて祈っているのです。キリストの日に備えて、本当に愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられるようになり、清い者、とがめられるところのない者となり、義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れをたたえる者となる。私たちはそのような者に、本当になれるのでしょうか。他の人についてそう思えますか。信じられますか。自分自身について、そうなれると思いますか。なれると信じられますか。

 今、パウロが私たちと手紙のやりとりをしていたら、パウロは同じことを書いてくれるでしょうか。同じように祈ってくれるでしょうか。――わたしは同じように祈ってくれるに違いないと思います。なぜなら彼はこのように信じている人だからです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。ならば私たちもまたパウロと共に信じて、共に祈るべきなのでしょう。教会のために、他者のために、そして自分自身のために。

 これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださることです。ならば、大切なことは何でしょうか。福音に与り続けるということです。「最初の日から今日まで」です。そして、明日も明後日もその次の日も、キリスト・イエスの日まで。現在は救いの完成に至るプロセスに過ぎません。結論が出るのはキリスト・イエスの日です。目に映るところはどのような状態であれ、パウロのように「わたしは感謝します!」と神に感謝を捧げながら、神の成し遂げてくださる御業を信じて共に祈り求め続けましょう。

2015年10月4日日曜日

「人と人との関係を造りかえる神」

2015年10月4日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィレモンへの手紙 4節~12節


逃亡奴隷オネシモ
 今日はフィレモンへの手紙という短い手紙の一部が読まれました。パウロが獄中から書き送った手紙です。フィレモンという名前は聖書の中でここにしか出てこないので、詳しいことは分かりません。ただ「あなたの家にある教会」とあるように、彼の家が集会のために用いられていたことが分かります。初期の教会は、もちろん会堂などは無かったので、比較的裕福な信徒の家が集会のために用いられていたのです。彼の家はコロサイにありました。

 さて、フィレモンの家に一人の奴隷がおりました。その奴隷の名はオネシモと言いました。当時のローマの社会はまさに奴隷によって成り立っていると言えるほどに奴隷は多かったのです。オネシモはそのような奴隷の一人でした。

 ある日、そのオネシモがフィレモンの家から逃亡しました。フィレモンの家で盗みを働いたか、あるいは何らかの損害を与えて、逃亡したものと思われます。罪を犯した逃亡奴隷が捕まったなら、そこには厳しい処罰が待っています。だから彼は必死で逃げました。なんと1500キロ以上も離れたローマまで彼は逃げたのです。

 しかし、どのような経緯かは知りませんが、そのローマにおいて監禁中のパウロに出会うこととなりました。そして、パウロを通してイエス・キリストを知り、彼はキリスト者になりました。それゆえにこの手紙では「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と呼ばれているのです。

 オネシモはしばらくの間、監禁中のパウロの手助けをしていたようです。しかし、やがてパウロはオネシモをフィレモンのもとに帰らせる決心をします。「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」(12節)と書かれているのは、そのようなわけです。逃亡奴隷を主人のもとに送り返すことは大きな決断であったと言えます。しかし、オネシモ自身にとってはもっと大きな決断であったと言えるでしょう。彼はパウロの提案に同意したのです。逃亡者のままであることは主の御心ではない。彼もわかっていたのです。

 ちょうど「コロサイの信徒への手紙」をティキコに持たせてコロサイに送る予定でした。パウロはオネシモをティキコに託します(コロサイ4:7以下)。そして、同行するオネシモにはフィレモン宛ての手紙を持たせたのです。それがこの手紙です。今日は12節までしか読みませんでしたが、本当に言いたいことは17節にあります。「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」。そうパウロは書き送ったのです。

 オネシモを送り帰すには、このような執り成しの手紙がどうしても必要であったことは理解できます。というのも、奴隷の主人は奴隷を死刑にする権限さえも持っていたからです。また、罪を犯した奴隷を厳しく処罰することは、奴隷の主人の義務でさえあったのです。ですから、ただオネシモをそのまま送り帰すわけにはいきません。しかし、パウロが望んでいたのは、ただオネシモが赦されることだけではありませんでした。彼が奴隷としてではなく、真に兄弟として迎え入れられることをパウロは願いつつ、この手紙を書いているのです。そうです、そのことが起こるとパウロは本気で信じているのです。

人を造りかえる神の恵み
 さて、そのような手紙を私たちは今日お読みしているわけですが、この手紙はパウロの他の手紙とは明らかに趣を異にしています。教理的なことは何一つ書かれていません。信仰生活に関わる具体的な勧めが書かれているわけでもありません。このような手紙が新約聖書に含まれているということは不思議な気がいたします。

 しかし、この手紙が新約聖書に入っているのは、やはり救いに関わることが語られているからなのでしょう。そこに記されているのは救いの教理ではなく、神の救いの恵みが現実に生きて働いた実例が記され、証しされているのです。人は確かにただ神の恵みによって救われるのです。人間の行いによるのではないのです。

 先にも申しましたとおりオネシモは逃亡者でした。キリスト者であった主人のものを盗んで逃げたとするならば、キリスト者のネットワークとは絶対に接触しないようにと考えて逃避行を続けていたに違いありません。どのように居場所が知れるかもしれないからです。

 しかし、そのような彼の思惑にもかかわらず、彼が行き着いたのはパウロのもとだったのです。もちろん、パウロがオネシモを探し当てたわけではありません。パウロは監禁されていたのですから。この出会いは、ただ神によって与えられたとしか言いようがありません。ただ神の恵みの御業によるのであり、オネシモの救いのためにパウロが用いられたのです。

 オネシモはフィレモンのもとに帰ってどうなったのでしょう。オネシモは赦されたのでしょうか。この手紙が今もこうして残っているということは、パウロが願っていたとおり、オネシモが赦され、受け入れられたということでしょう。そして、それ以上のことは聖書に書かれていないのですが、実は紀元2世紀にアンティオキアの監督イグナティオスによってエフェソの教会に宛てた手紙の中にこんなことが書かれているのです。

 「オネシモス(オネシモ)は言い尽くせぬ愛の人、肉においてはあなた方の監督であり、私はあなた方がイエス・キリストに従って彼を愛し、皆彼のようになることを、お祈りしております。あなた方を恵み、こんな監督を持つにふさわしくして下さった方はほむべきかな。」

 フィレモンの手紙が諸教会において読まれるようになった頃には、既にオネシモが誰であるかは広く知られていたに違いありません。まさに罪を犯して逃げ回っていた奴隷を造り変えて神に仕える者とした神の恵みを証しする書として、この手紙は読まれたのです。

造りかえられた関係
 またこの書は、ただ人を造り変える神の恵みを証しするだけでなく、人と人との関係をも造り変えることを証ししているとも言えます。当時の常識から言えば、逃亡奴隷が主人によって受け入れられるなどということは、およそ考えられないことでした。しかも、ただ赦されるだけでなく、一人の人間として、兄弟として受け入れられるということは、どう考えてもあり得ないことだったのです。しかし、それが実現したのです。この手紙が残っているとはそういうことなのです。

 しかも、それはオネシモが償いをしたとか謝ったとか誠意を見せたということによるのではないのです。この手紙には、オネシモの反省についても謝罪の意志についても全く触れられていないのです。この和解は人間がどうしたかによってではなく、ただ神との関係において起こったのです。それは神の恵みの力によって実現したのです。

 もちろん、和解が実現するために、パウロは慎重に言葉を選び、説得するために工夫を凝らしています。こんな手紙を書かれたら、その通りにしないわけにいかないだろうとさえ思います。しかし、それでもなお、フィレモンはいやいやパウロの説得に屈したのではないのです。実は、フィレモンはパウロが願っている以上のことをしたことが、この手紙から見えてくるのです。

 今日の朗読箇所ではありませんが、この手紙においてパウロは、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(15節)と言っています。しかし、フィレモンはオネシモを自分のもとに留め置かなかったようなのです。彼は奴隷オネシモを解放して、パウロと働きを共にすることができるようにしたのです。コロサイに住むフィレモンの奴隷が後にエフェソの監督になっているとは、そういうことでしょう。フィレモンは、ただ主のためにオネシモを兄弟として受け入れ、そして主のために彼を解放したのです。

 このように、パウロが個人に宛てたこの短い執り成しの手紙は、聖書の一部として今日に生きる私たちにも、神の恵みが現実に何をもたらすのかを力強く語っているのです。それは私たちの内にも、そして私たちの間にも起こりえることなのです。

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