2015年9月13日日曜日

「どうしてそんなに怒るのか」

2015年9月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 15章11節~32節


お兄さんのところに身を置いて
 今日はイエス様のなさった「放蕩息子」のたとえ話をお読みしました。イエス様がこのたとえ話をなさったのには理由があります。その事情が15章の冒頭に記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1‐2節)。そこでイエス様は三つのたとえ話をされました。今日お読みしたのは三番目のたとえ話です。

 このたとえ話はもちろんそこにいる全ての人が聞いていました。しかし、明らかに第一の聴衆はきっかけを作ったファリサイ派の人々と律法学者たちです。イエス様は彼らを念頭に置いて語っているのです。ならば、このたとえ話を聞く上でまず私たちが身を置かなくてはならないのはファリサイ派の人たちのところです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちとはどのような人々であったか。改めて細かく説明する必要はなさそうです。たとえ話によってイエス様が説明してくださっているからです。要するにこの話に出て来るお兄さんのような人々です。

 これは通常「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるのですが、私たちがまず身を置かなくてはならないのはお兄さんの方なのです。イエス様はこのお兄さんのような人たちを意識して語っているのですから。

 このお兄さんの位置に身を置くことは難しいことではありません。このお兄さんの気持ちが分からない人はまずいないからです。お兄さんは怒っています。ちなみに、今日の説教題は「どうしてそんなに怒るのか」です。しかし、恐らくそんな質問はいらないのです。私たちには怒る理由はよく分かるからです。そんなことをもしお兄さんに尋ねたら火に油を注ぐことになるでしょう。

 そこで私たちはまずお兄さんのところに身を置いてこのたとえ話を聞いてみます。そこで何が聞こえてくるでしょう。このお兄さんが最後に耳にしたのはこのような言葉でした。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。これが聞いている私たちにとっても最後に耳に残る言葉です。

 どういうつもりでお父さんはこう言っているのでしょう。「嫌だったらお前は参加しなくていいんだよ。とりあえず理解しておくれよ」という意味ではないでしょう。そうではなくて、お父さんはお兄さんに加わって欲しいのです。家に入ってきて、祝宴に加わって、一緒に楽しみ喜んで欲しいのです。「一緒に喜んでくれ」。この父親の心が、お兄さんのところに身を置くと聞こえてくるのです。

 この声がはっきりと聞こえるように、イエス様は準備しています。そのために二つのたとえ話を先にしているのです。百匹の羊のたとえ話、そして十枚の銀貨のたとえ話です。

 羊を見つけた羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。銀貨を見つけた女も友達や近所の女たちを呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。そして、息子が帰ってきたことを喜ぶ父親が、怒り狂っている兄息子に言うのです。「一緒に喜んでください」。そうです、この三つのたとえ話を通して、天の父は私たちに呼びかけているのです。「一緒に喜んでください」と。

腹立たしい父親の喜び
 それにしてもイエス様のたとえ話は極端です。友達や近所の人々まで呼び集める羊飼いや女の喜び方は常軌を逸しているとも言えます。三番目のたとえ話の場合、父親の喜び方は異常を通り越して腹立たしくさえある。少なくともあのお兄さんにとってはそうでしょう。

 しかし、その喜び方が極端で異常なだけにまたはっきりと分かることもあります。失われた一匹の羊が羊飼いにとってどれほど大事な存在かということ。失われた一枚の銀貨があの女にとってどれほど大事であったかということ。帰ってきたあの息子が父親にとってどれほど大切な存在であったかということです。あの息子は共にいるだけでその存在そのものが父親の喜びであることは明らかでした。そうです、あのお兄さんにもよく分かったはずです。

 だからこそ腹が立ったのです。怒ったのです。あのろくでもない息子がどうしてそんなに大事なんだ!帰ってきただけでどうしてあんなに喜ばれているんだ!あんな奴がどうしてそんなに大きな喜びなんだ!と。

 帰ってきた弟は、兄にとって喜びではないのです。しかし、父親にとっては喜びなのです。自分にとっては大切な弟などではないのです。しかし、明らかに父親にとっては大切な息子なのです。そうです、父親にとっては大切な息子。それは認めざるを得ない。だから兄は言うのです。「あなたのあの息子が」(30節)と。「自分の弟が」とは言いたくないのです。けれど、父親にとっては喜びである息子らしい。そして、それは実に腹立たしいことです。

 さて、これは私たちにとって実に身近な話かもしれません。神様にとって大切な存在が、私たちにとって大切な存在とは限らない。神様にとって大きな喜びが、私たちにとって大きな喜びであるとは限らないからです。私たちにとって共にいる人が常に大きな喜びであったらどんなに良いかと思います。そうありたいと願います。しかし、現実にはそうならないこともあるのでしょう。お兄さんが弟を見るように、他の人を見てしまうことがあるのでしょう。

 あの人が神に愛されているなんて思いたくもない。あの人が神にとって大切な存在だなどと思いたくもない。あの人が神にとって大きな喜びだと言われるならば、それは何にもまして腹立たしい。神様御自身がたとえそう言ったとしても腹立たしい。「あなたのあの息子が!!」と言ったお兄さんの気持ちはとてもよく分かる。そのような時もあるのでしょう。

子よ、と呼びかける父
 しかし、「あなたのあの息子が!」と毒づくこのお兄さんに対して、父親はこう語りかけるのです。「子よ」と。わかりますか。このお兄さんもまた、父親にとって大切な息子なのです。苦々しい思いを込めて「あなたのあの息子が!」と兄は言う。しかし、その父親の《大切なもう一人の息子》が父親の目の前にいるのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語りかけられている、大切な息子がここにいるのです。

 思い返してみれば、あの弟が帰ってきたとき、走り寄って距離を縮めたのは息子の方ではありませんでした。父が駆け寄ったのです。彼は父の大切な息子であり大きな喜びだからです。では、兄に対してはどうでしょう。兄もまた離れていたのです。家の外にいたのです。入ろうとはしなかったのです。その離れていた兄のところまで来たのは父親の方でした。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた」(28節)と書かれているとおりです。

 「なだめた」とありますけれど、これは「慰める」とも訳せる言葉です。「傍らに呼ぶ」というのが原意です。父親は外に歩み出て怒る兄に近づきます。自ら傍らに立たれるのです。そして、彼に呼びかけます。「子よ」と。そうです、兄もまた大切な息子なのです。

 お兄さんは怒ってこう言っていました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)。実際、そのように生きてきたのだと思います。このお兄さんは頑張ってきたのでしょう。何年も一生懸命仕えてきた。下僕のように仕えてきた。言いつけに背くこともなかった。お父さんに認めてもらいたくて、大切な息子として認めてもらいたくて、お父さんの喜びになりたくて、喜ばれる息子になりたくて、一生懸命に仕えてきたのでしょう。

 しかし、そこにろくでもないもう一人の息子が帰ってきた。その息子が大切にされるのを見た。その息子が喜ばれるのを見た。だから腹が立った。怒ったのです。しかし、本当はそこでお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。彼は息子であるとはどういうことなのかを目の当たりにしているのです。そのことをお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。

 下僕のように仕えるから息子と認められるのではないのです。言いつけに背くことがないから大切な存在となるのではないのです。息子は息子なのです。何があっても大切な存在なのです。既に大きな喜びなのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。本当はそのように見てくれている父が既に一緒にいたのです。

一緒に喜び祝おう
 その父親が言うのです。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。兄はこの言葉を聞いています。兄のところに身を置いた私たちもまたこの言葉を聞いているのです。

 父親は言います、「お前のあの弟」と。兄はそこに「弟」を見なくてはならない。死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった「弟」を見なくてはならないのです。彼を「弟」として見る時に、自分をその「兄」としても見ることになるのでしょう。どちらも同じ父親の息子として見ることになるのです。

 その父は言うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と。弟が共にいることを一緒に喜んでくれ、見つかった弟が共にいることを一緒に楽しみ喜ぼう、と言われているのです。そうです、父と一緒に弟の存在を楽しみ喜ぶことができるなら、兄もまた父の子として、自分がそのような父の喜びであることを楽しみ喜ぶことができるのです。「どうしてそんなに怒るのか。」そう、本当は怒る必要はない、全く怒る必要はないのです。

 それはここにいる私たちにも言えることです。私たちが身を置いているのは、立ち帰った者たちの祝いです。主の日の礼拝とはそういうものです。ここでは一緒に喜び祝ったらよいのです。他の誰かの存在を父なる神が喜んでおられるなら、父と一緒に喜び祝ったらいいのです。そして、同じように自分の存在をも大いに喜び祝ったらよいのです。父が祝宴を開いて、とにかく一緒にいることを喜び祝っていてくださるのですから。

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