2015年9月27日日曜日

「関心を向けておられる神」

2015年9月27日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 16章19節~31節


人間の無関心・神の関心
 今日の福音書朗読で読まれましたのはイエス様のたとえ話でした。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」その金持ちが死んで葬られた後、死後の世界で苦しみ苛まれることになったという話しです。

 何のためにイエス様はこのような話をなさったのでしょう。実はこの類いの話はユダヤ人社会においては珍しくなかったと言われます。似たような話がいくつも知られていたのです。恐らくイエス様はそのような中から題材を取られたと思われます。何のためだったのでしょう。金持ちの贅沢を戒めるためでしょうか?金持ちに対する施しの勧めでしょうか?

 実は、イエス様が語りかけている相手は金持ちではないのです。この話を聞いているのはファリサイ派のユダヤ人です。少し前を見ると「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)と書かれています。これは実に微妙な表現です。ファリサイ派の人ならば金に執着しているとは思われたくないはずです。金に執着して阿漕なことをしている徴税人たちがもう一方にいるからです。彼らは金持ちです。ファリサイ派の人たちは、そんな金持ちを軽蔑しているのです。だから彼らと我々は違う、と言いたい。でも本心を言えば、金は欲しい。そんな感じでしょうか。

 実際、表向きにはファリサイ派の人は金に執着などしていないのです。律法にかなった正しい生活をしているので悪い金は入ってこない。だから一般的には貧しいのです。その貧しさの中から、敬虔な業として施しもするのです。イエス様の話を聞いているのは、そんな人たちです。そんなファリサイ派の人たちに「金持ちに対する戒め」を語っても意味がありません。「施しの勧め」などしなくても、既に彼らはしているのです。

 ではイエス様がこの話をなさったのは何のためでしょう。これを聞いているファリサイ派の人たちに、イエス様は先にこんなことを言っておられます。「あなたたちは自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」(15節)。そうです、イエス様が問題にしているのは「心」なのです。このたとえ話においても大事なのはその「心」なのです。

 金持ちなのが問題なのではありません。毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのが問題なのではありません。問題はその「無関心」にあります。この金持ちはラザロが門前にいたことは知っているのでしょう。「ラザロ」の名前さえ知っているのですから。しかし、その苦しみに関心を寄せることはありませんでした。その存在に関心を寄せることはありませんでした。ラザロという人は誰にも心にかけられることはなかった。このラザロに関心を持ったのは犬だけだったと語られているのです。

 これが「無関心」の話ならば、それは私たち全ての人に関わっている話です。金持ちであろうがなかろうが関係ありません。貧しい人が他の貧しい人に無関心ということもあり得ますから。マザー・テレサがしばしば口にしておられたように、愛の反対は憎しみではなく「無関心」なのです。罪の本質が愛の欠如にあるとするならば、この金持ちの描写は極端に描かれてはいますけれど、実は誰の内にもある罪深さの描写であると言えるでしょう。その意味でこの金持ちの姿は私たちと重なります。

 しかし、ここに語られているのは人間の愛の欠如と無関心だけではありません。そうではなく、神の関心と憐れみもまた語られているのです。犬にしか顧みられなかったラザロ。ひとりぼっちで死んでいき、葬られることすらなかったラザロ。誰からも関心を向けられなかったラザロ。しかし、そのラザロに関心を寄せている方がおられたのです。神様です。「天使たちによって…連れて行かれた」と書かれていますでしょう。それは、要するに神様によって連れて行かれたということなのです。

 死の手前までしか見なければ、ラザロは誰からも顧みられず神からも見捨てられて死んでいった惨めな人と見えるでしょう。しかし、そうではなかったと言うのです。神はラザロを知っておられた。そして、その神が憐れんでくださった。報いてくださった。ラザロは正しい人であったからではありません。貧しかったけれど敬虔な人であった、罪のない人であったなどと、どこにも書かれていません。これはラザロがどうであったかではないのです。そこにあるのは人間の苦しみに関心を寄せておられる神の憐れみなのです。

 ここにおいて、金持ちの姿が私たちに重なるだけでなく、ラザロの姿もまた私たちと重なってくるのです。私たちの中に、ラザロのように死んでいく人はいないかもしれません。しかし、誰からも関心を向けられることのない私たちの苦しみ、生きている間には誰からも分かってはもらえない、誰からも顧みられることのない私たちの痛みというものは、人それぞれ違えどもあろうかと思うのです。しかし、神は関心を向けていてくださる。そして、神は憐れんでくださる。報いてくださるのです。

聖書に耳を傾けよ
 しかし、このたとえ話は人間の無関心と神の関心を描き出すに留まりません。さらに話は続きます。そして、イエス様が本当に伝えたかったことは後半部分にあるのです。

 27節以下を御覧ください。金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに向かって叫びます。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」モーセの律法の書と預言者の書を彼らは持っている。つまり彼らは聖書を持っているではないか。聖書の言葉が既に与えられているではないか、ということです。

 これに対して、金持ちはなおも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。しかし、これを聞いたアブラハムは彼に言いました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の裁きと苦しみを語るなら、それを聞いて人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではないとアブラハムは言っているのであり、このたとえ話をしているイエス様もそう言っておられるのです。

 そもそも死後の世界から誰かが生き返って語らなくても、この話を聞いているファリサイ派の人たちは死後の世界を既に信じているのです。最初に申し上げたとおり、イエス様は彼らにとっても馴染み深いような話をあえて題材として用いているのです。ここに語られているように、神の裁きがあること、人によって死後に行く場所が分かれるというのは、他ならぬファリサイ派の人たちが信じていたことなのです。だから、正しい人間が行くところに行きたくて、アブラハムがいるところに行きたくて、宗教的な義務である施しも実践していたのです。

 しかし、そのようなところから他者への関心、他者への愛は生まれたのでしょうか。いいえ、そうならなかったのです。宗教的な義務として施しをしたとしても、その他の善行を積んだとしても、考えているのは自分の救いのことだけだったのです。ですから、救われるために宗教的な義務は果たすのですけれど、例えば、病気で長い間苦しんできた人がイエス様によって癒されても一緒に喜べないのです。悪霊に憑かれていた人がイエス様によって解放されても一緒に喜べないのです。神に背いて生きてきた人が神に立ち帰っても、そこで一緒に喜べないのです。彼らの苦しみにも彼らの救いにも関心がないからです。

 他者への関心や愛は、死後の世界に対する恐怖などから生まれることはありません。たとえ死後の世界から人が戻っても、死後の世界をリアルに語ったとしても、それによって真の悔い改めが起こることはないのです。イエス様がなさっているこの話にしても、イエス様は恐怖を煽るために話しているのではないのです。死後の苦しみをどんなに描き出しても、それによって悔い改めが起こらないことは、イエス様が一番ご存じだからです。せいぜいそこから起こるのは、死後の苦しみをどうしたら免れるかという利己的な関心ぐらいなのです。

 では大事なことは何でしょう。この話の中でアブラハムは言っていました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。聖書を持っているではないか。聖書に耳を傾けよと言うのです。

 聖書が語っているのは、死後の世界の話ではありません。「死んだらどうなる」という話は全くと言っていいほど書かれておりません。そうではなくて、聖書が語っているのは人間の罪と神の愛なのです。人間がどれほど神に背いているのか。そして、それにもかかわらず神がどれほど人間を愛し、赦して救おうとしておられるのかということです。その神は、最終的には独り子さえもこの世に遣わして、私たちを赦して救うために御子を十字架にかけられたのです。その神の救いの御業を指し示しているのが聖書なのです。

 聖書に耳を傾けなさい。イエス様はこのたとえを通してそう語っておられます。それはさらに言うならば、その聖書の語っていることが私において実現していることを知りなさい、罪人を憐れんでくださる神の愛が私において完全に現れされていることを知りなさい、ということでしょう。

 そのイエス様の思いは、弟子たちにしっかりと手渡されたのでした。この福音書の最後の部分にこう書かれています。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(24:44‐48)。

2015年9月20日日曜日

「大きな利得の道」

2015年9月20日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅰ 6章1節~12節


愛する機会に
 初期の教会には奴隷の身分の人たちが少なくありませんでした。新約聖書に度々奴隷の身分の人たちへの勧めが記されているのはそのような事情によります。今日お読みしたのもそのような箇所の一つです。

 ここでパウロは、まず1節において、主人が信者でない場合について、次のように勧めています。「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」(1節)。

 もともと尊敬できる主人の下にいるなら何の問題もありません。こんな勧めも必要ないのです。しかし、往々にしてそうはならない。自分を不当に扱う主人にも仕えねばなりません。粗野で教養のかけらもないような主人であっても仕えねばなりません。するとどうなるか。表面的には恭しく主人に仕えているように見えながら、その心の内において主人を軽蔑するということが起こります。そのような心情は私たちも経験することがありますから、よく分かります。

 ただでさえそうなのですから、そのような奴隷がキリスト者になった場合、不信心な主人をいよいよ見下すようになるということは起こり得ることでした。私は救いの真理を知った。主人は偉そうにしているけれど、最も大切な真理を知らない。私はキリストによって救われた。主人は救いのなんたるかを知らない。神の国も永遠の命も知らない、と。

 しかし、そのように人を見下す思いがあると、それは行動の端々に出てしまうものです。鼻持ちならない態度として出てしまうものなのです。主人は思うでしょう。「この教えは人を生意気にさせる教えだ。この教えは実に鼻持ちならぬ人間を作り出す教えだ」と。そして、キリストを罵るようになるかもしれません。どうでしょう。すると本来は福音を証しするはずのキリスト者が、このようにして人に神の御名と教えとを冒涜する機会を与えてしまうことになるのです。

 だからパウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」(1節)と言っているのです。

 さらに2節において、主人がキリスト者の場合について書いています。そこでは別の問題が起こってまいります。主人と奴隷は主の食卓においてはまったく平等な兄弟となるのです。主人がキリスト者となるまでは、打ち叩かれることを恐れて働いていたかもしれません。主人はもう打ち叩かなくなるでしょう。すると、恐れが従順に働くことの動機であった人は、その動機を失うことになります。彼はもはや従順に働かなくなるかもしれません。

 だからパウロは言うのです。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」(2節)。そうです、むしろ今こそ主人を重んじて熱心に仕えるべきだというのです。なぜでしょうか。主人は「神に愛されている者だから」だとパウロは言うのです。

 つまり主人に仕えることの意味が変わったのです。かつては恐れのゆえに渋々と不平を心に抱きながら仕えていたかもしれません。しかし、今は違うのです。今や仕えることは「神に愛されている者」である信仰の兄弟に、神の愛を現す機会となるのです。奴隷が主人を愛して仕える時、その奴隷はいわば通路となるのです。兄弟となったその主人を神が愛するための通路となるのです。同じ仕えるにしても、そのような存在として仕えることができるのです。

 信仰を持ったからと言って、キリスト者になったからと言って、この世における立場が変わらないことはいくらでもあります。いや、通常はそうなのでしょう。置かれている環境が全く変わらないこともあります。しかし、その意味が変わるということは起こり得るのです。そこで何かを行うことの意味は変わり得るのです。人は置かれている環境に不満を抱き、不平を言いながら生きることもできます。しかし、神はその時と場所を神の愛を現す機会に変えることができるのです。

利得の道としての信心なら
 そして、パウロは言います。「これらのことを教え、勧めなさい」と。「これらのこと」が何を指しているのかは必ずしも明確ではありません。しかし、そう語る理由ははっきりしています。3節にありますように「異なる教え」を説いている教師たちがいるからです。彼らは5節では「信心を利得の道と考える者」と表現されています。すなわち、彼らは信心を「自分が何かを得る手段」としか考えていなかったということです。

 恐らくパウロが具体的に念頭に置いていたのは「お金」の話です。9節以下に語られているようにです。「金持ちになろうとする者は」と彼は言います。そこにあるのは「金銭の欲」です。実際に彼らは信心を金持ちになる手段と考え、そして教えていたのかもしれません。あるいはもっと広い意味での「利得の道」として教えていたのかもしれません。

 いずれにせよ、「利得の道」は多くの人々の心を惹きつけたと思います。特に先に触れた奴隷の身分の人たちや様々な形で社会において抑圧されている人、不当に扱われている人の心を惹きつけたに違いないのです。小さいから、弱いから、持っていないから軽んじられるのだ。大きくなれたなら、強くなったなら、持っている側の人間になれたなら、仕えるのではなくて仕えさせる側の人間になれたなら、支配する側の人間になれたなら――。見下されていた人たちならば、なんとしてでもこの「利得の道」によって、いつか見返してやりたいとも思ったに違いありません。

 しかし、そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。もしかしたら、本当に儲かるかもしれません。豊かになれるかもしれません。強者の側になれるかもしれません。それはあり得ることなのです。現代においても成功の道を説く多くの人が語っているように、人間の強烈な願望が成功や富をもたらすことはあり得ることなのです。実際に彼らの語る「利得の道」が結果を出していなかったら、放っておいても消えていったことでしょう。恐らくは結果を出していたのです。しかし、改めて問います。そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。

 パウロはこう書きました。「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです」(4‐5節)。これが彼の見ていた現実です。確かに、自分が何を得るかということにしか関心がなければ、そして、その欲望が果てしなく増大していくだけの「利得の道」であるならば、そうなるのも無理はないと言えます。少なくとも、先に見た「奴隷の身分の人」に対する勧めは絶対に出てこないでしょう。

真の利得の道
 そこでパウロは言います。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)。パウロは信心が利得の道であることを否定しないのです。彼は言います。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」(7節)。

 それは誰もが知っていることです。確かに何も持っていくことはできません。ならば残るものは何かということも明らかです。それは裸のわたし自身です。この世の命を生きてきたわたし自身です。神との関わり、そして人との関わりの中に生きてきたわたし自身です。ならば、この世に置いていくものをどれだけ得たかということよりも、どう生きてきたかということの方が遙かに重要なことなのでしょう。神と共にどう生きてきたのか。人と共にどう生きてきたのか。それだけが残るのです。

 そして、もう一つのことも明らかです。何も持っていくことができないならば、本当に得なくてはならないものは、向こう側にあるということです。こちら側で得るものは全て置いていかなくてはならないのですから。私たちが本当に求めなくてはならないもの、得なくてはならないもの、それを聖書は「永遠の命」と表現します。そうとしか表現できない、しかしまたそれでもなお表現できてはいない、私たちが思い描くことさえできない、神が与えてくださる最終的な救いです。それこそが、それだけが人間にとって真の利得なのです。だからこそパウロは「大きな利得の道です」と言うのです。

 そこでパウロはテモテに言います。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(11‐12節)。

 「永遠の命を手に入れよ」とパウロは言います。自分の行為や努力と引き替えに「永遠の命を手に入れよ」と言われているわけではありません。永遠の命は、私たちが差し出せる何かと引き替えにできるような、安っぽいものではありません。それはただイエス・キリストの十字架のゆえに、成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。代価を払ってくださったのはキリストであって、私たちが支払うのではありません。私たちはただ神に召され、「命を得よ」と語られたのです。そのようにして、備えられている永遠の命に向かってスタートしたのです。

 しかし、恵みによって備えられている命を獲得するに至るまでには、それを妨げようとする力が働くのです。競技をする者の完走を妨げる諸々の力が働くのと同様です。それは迫害であるかもしれませんし、罪の誘惑であるかもしれません。それゆえに、なおも走り抜こうとするならば、そこには戦いがあるのです。

 だからこそ、この世においても追い求めるべきものがあるのです。それはあの教師たちが追い求めていた利得とは異なります。それとは異なるものを追い求める必要があるのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と語られているのはそういうわけです。それこそが、信仰の戦いを戦い抜くために必要だからです。

 そして、私たちがひたすら求めていくときに、誰が与えてくださるかも知っています。それは永遠の命を与えてくださる神御自身です。その意味においても、信心は大きな利得の道なのです。

2015年9月13日日曜日

「どうしてそんなに怒るのか」

2015年9月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 15章11節~32節


お兄さんのところに身を置いて
 今日はイエス様のなさった「放蕩息子」のたとえ話をお読みしました。イエス様がこのたとえ話をなさったのには理由があります。その事情が15章の冒頭に記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1‐2節)。そこでイエス様は三つのたとえ話をされました。今日お読みしたのは三番目のたとえ話です。

 このたとえ話はもちろんそこにいる全ての人が聞いていました。しかし、明らかに第一の聴衆はきっかけを作ったファリサイ派の人々と律法学者たちです。イエス様は彼らを念頭に置いて語っているのです。ならば、このたとえ話を聞く上でまず私たちが身を置かなくてはならないのはファリサイ派の人たちのところです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちとはどのような人々であったか。改めて細かく説明する必要はなさそうです。たとえ話によってイエス様が説明してくださっているからです。要するにこの話に出て来るお兄さんのような人々です。

 これは通常「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるのですが、私たちがまず身を置かなくてはならないのはお兄さんの方なのです。イエス様はこのお兄さんのような人たちを意識して語っているのですから。

 このお兄さんの位置に身を置くことは難しいことではありません。このお兄さんの気持ちが分からない人はまずいないからです。お兄さんは怒っています。ちなみに、今日の説教題は「どうしてそんなに怒るのか」です。しかし、恐らくそんな質問はいらないのです。私たちには怒る理由はよく分かるからです。そんなことをもしお兄さんに尋ねたら火に油を注ぐことになるでしょう。

 そこで私たちはまずお兄さんのところに身を置いてこのたとえ話を聞いてみます。そこで何が聞こえてくるでしょう。このお兄さんが最後に耳にしたのはこのような言葉でした。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。これが聞いている私たちにとっても最後に耳に残る言葉です。

 どういうつもりでお父さんはこう言っているのでしょう。「嫌だったらお前は参加しなくていいんだよ。とりあえず理解しておくれよ」という意味ではないでしょう。そうではなくて、お父さんはお兄さんに加わって欲しいのです。家に入ってきて、祝宴に加わって、一緒に楽しみ喜んで欲しいのです。「一緒に喜んでくれ」。この父親の心が、お兄さんのところに身を置くと聞こえてくるのです。

 この声がはっきりと聞こえるように、イエス様は準備しています。そのために二つのたとえ話を先にしているのです。百匹の羊のたとえ話、そして十枚の銀貨のたとえ話です。

 羊を見つけた羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。銀貨を見つけた女も友達や近所の女たちを呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。そして、息子が帰ってきたことを喜ぶ父親が、怒り狂っている兄息子に言うのです。「一緒に喜んでください」。そうです、この三つのたとえ話を通して、天の父は私たちに呼びかけているのです。「一緒に喜んでください」と。

腹立たしい父親の喜び
 それにしてもイエス様のたとえ話は極端です。友達や近所の人々まで呼び集める羊飼いや女の喜び方は常軌を逸しているとも言えます。三番目のたとえ話の場合、父親の喜び方は異常を通り越して腹立たしくさえある。少なくともあのお兄さんにとってはそうでしょう。

 しかし、その喜び方が極端で異常なだけにまたはっきりと分かることもあります。失われた一匹の羊が羊飼いにとってどれほど大事な存在かということ。失われた一枚の銀貨があの女にとってどれほど大事であったかということ。帰ってきたあの息子が父親にとってどれほど大切な存在であったかということです。あの息子は共にいるだけでその存在そのものが父親の喜びであることは明らかでした。そうです、あのお兄さんにもよく分かったはずです。

 だからこそ腹が立ったのです。怒ったのです。あのろくでもない息子がどうしてそんなに大事なんだ!帰ってきただけでどうしてあんなに喜ばれているんだ!あんな奴がどうしてそんなに大きな喜びなんだ!と。

 帰ってきた弟は、兄にとって喜びではないのです。しかし、父親にとっては喜びなのです。自分にとっては大切な弟などではないのです。しかし、明らかに父親にとっては大切な息子なのです。そうです、父親にとっては大切な息子。それは認めざるを得ない。だから兄は言うのです。「あなたのあの息子が」(30節)と。「自分の弟が」とは言いたくないのです。けれど、父親にとっては喜びである息子らしい。そして、それは実に腹立たしいことです。

 さて、これは私たちにとって実に身近な話かもしれません。神様にとって大切な存在が、私たちにとって大切な存在とは限らない。神様にとって大きな喜びが、私たちにとって大きな喜びであるとは限らないからです。私たちにとって共にいる人が常に大きな喜びであったらどんなに良いかと思います。そうありたいと願います。しかし、現実にはそうならないこともあるのでしょう。お兄さんが弟を見るように、他の人を見てしまうことがあるのでしょう。

 あの人が神に愛されているなんて思いたくもない。あの人が神にとって大切な存在だなどと思いたくもない。あの人が神にとって大きな喜びだと言われるならば、それは何にもまして腹立たしい。神様御自身がたとえそう言ったとしても腹立たしい。「あなたのあの息子が!!」と言ったお兄さんの気持ちはとてもよく分かる。そのような時もあるのでしょう。

子よ、と呼びかける父
 しかし、「あなたのあの息子が!」と毒づくこのお兄さんに対して、父親はこう語りかけるのです。「子よ」と。わかりますか。このお兄さんもまた、父親にとって大切な息子なのです。苦々しい思いを込めて「あなたのあの息子が!」と兄は言う。しかし、その父親の《大切なもう一人の息子》が父親の目の前にいるのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語りかけられている、大切な息子がここにいるのです。

 思い返してみれば、あの弟が帰ってきたとき、走り寄って距離を縮めたのは息子の方ではありませんでした。父が駆け寄ったのです。彼は父の大切な息子であり大きな喜びだからです。では、兄に対してはどうでしょう。兄もまた離れていたのです。家の外にいたのです。入ろうとはしなかったのです。その離れていた兄のところまで来たのは父親の方でした。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた」(28節)と書かれているとおりです。

 「なだめた」とありますけれど、これは「慰める」とも訳せる言葉です。「傍らに呼ぶ」というのが原意です。父親は外に歩み出て怒る兄に近づきます。自ら傍らに立たれるのです。そして、彼に呼びかけます。「子よ」と。そうです、兄もまた大切な息子なのです。

 お兄さんは怒ってこう言っていました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)。実際、そのように生きてきたのだと思います。このお兄さんは頑張ってきたのでしょう。何年も一生懸命仕えてきた。下僕のように仕えてきた。言いつけに背くこともなかった。お父さんに認めてもらいたくて、大切な息子として認めてもらいたくて、お父さんの喜びになりたくて、喜ばれる息子になりたくて、一生懸命に仕えてきたのでしょう。

 しかし、そこにろくでもないもう一人の息子が帰ってきた。その息子が大切にされるのを見た。その息子が喜ばれるのを見た。だから腹が立った。怒ったのです。しかし、本当はそこでお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。彼は息子であるとはどういうことなのかを目の当たりにしているのです。そのことをお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。

 下僕のように仕えるから息子と認められるのではないのです。言いつけに背くことがないから大切な存在となるのではないのです。息子は息子なのです。何があっても大切な存在なのです。既に大きな喜びなのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。本当はそのように見てくれている父が既に一緒にいたのです。

一緒に喜び祝おう
 その父親が言うのです。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。兄はこの言葉を聞いています。兄のところに身を置いた私たちもまたこの言葉を聞いているのです。

 父親は言います、「お前のあの弟」と。兄はそこに「弟」を見なくてはならない。死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった「弟」を見なくてはならないのです。彼を「弟」として見る時に、自分をその「兄」としても見ることになるのでしょう。どちらも同じ父親の息子として見ることになるのです。

 その父は言うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と。弟が共にいることを一緒に喜んでくれ、見つかった弟が共にいることを一緒に楽しみ喜ぼう、と言われているのです。そうです、父と一緒に弟の存在を楽しみ喜ぶことができるなら、兄もまた父の子として、自分がそのような父の喜びであることを楽しみ喜ぶことができるのです。「どうしてそんなに怒るのか。」そう、本当は怒る必要はない、全く怒る必要はないのです。

 それはここにいる私たちにも言えることです。私たちが身を置いているのは、立ち帰った者たちの祝いです。主の日の礼拝とはそういうものです。ここでは一緒に喜び祝ったらよいのです。他の誰かの存在を父なる神が喜んでおられるなら、父と一緒に喜び祝ったらいいのです。そして、同じように自分の存在をも大いに喜び祝ったらよいのです。父が祝宴を開いて、とにかく一緒にいることを喜び祝っていてくださるのですから。

2015年9月6日日曜日

「キリストの十字架こそが誇り」

2015年9月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章14節~18節


誇りたいため
 今日はパウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の最後の部分をお読みしました。手紙の最後に至って、パウロはこう言っているのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)。言い換えるならば、キリストの十字架こそがわたしの誇りだ、ということです。あくまでも「このわたしには」という話です。一般論ではありません。他の人に押しつける言葉でも、普遍的な戒めでもありません。

 そのように、あくまでもパウロ自身の話なのですが、このような言葉をガツンと言われますと、やはり考えざるを得なくなります。では「このわたしには」何が誇りなのだろう。何を誇りとして生きているのだろう。今日、私たちには改めてそのことが問われているようにも思います。

 何を誇りとして生きているのか。実は、別の誇りに生きる人たちのことがこの直前に書かれています。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(13節)。それに対して「しかし、このわたしには…」とパウロは語り初めているのです。

 「あなたがたにも割礼を望んでいます」。ガラテヤの信徒たちが割礼を受けることを望んでいる人たちがいました。その前には「あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」という言葉もあります。ガラテヤの信徒たちのほとんどはユダヤ人ではなかったと思われます。割礼を受けていない人たちです。異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて信じてキリスト者となりました。その彼らに割礼を受けさせ、ユダヤ人にしようとしていた人たちがいたというのです。

 彼らがガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとしていたのは「誇りたいため」だと言います。自分たちが誇るために、彼らをユダヤ人にしようとしていた。もちろん「私たちが誇れるように、あなたがたは割礼を受けなさい」などと露骨に言う人はいないでしょう。彼らは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた教師たちなのです。そうです、救われるために「割礼を受けなさい」と言っていたのです。

 しかし、彼らは「あなたがたの肉について誇りたい」だけだとパウロは言うのです。パウロ自身はユダヤ人です。だから分かるのです。かつて彼もそのように生きていましたから。そうです、誇りたいのです。「誇りたい」というのは誰に対してですか。他の人に対してです。どうして人に対して誇りたいのか。他の人ががどのように自分を見なすかが重要だからです。だから人に対して自分の価値ある行いを示したいのです。そのようにして自分の価値を示したいのです。誇りたいとはそういうことです。

 紀元一世紀の頃のユダヤ教世界においては、異邦人への伝道が盛んに行われていたことが知られています。イエス様も改宗者を得ようと努力している教師たちに言及していました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」(マタイ23:15)。

 実際、ユダヤ人の世界に惹かれて会堂に出入りする異邦人は少なくなかったようです。使徒言行録にも、会堂に出入りする「神を畏れる人たち」の中にはコルネリウスのようなローマの百人隊長までいたことが伝えられています。そのような異邦人が改宗して割礼を受けることは、しばしば教師やその門下の誇りとなったことは十分理解できます。パウロ自身もそのような誇りを知っていた人だったのでしょう。

 そもそも、そのように異邦人が改宗することが誇りとなったのは、それが、自分たちが律法にかなった生き方をしていることの証しでもあったからです。私たちこそ律法を知り、神の民として守り行っていることがある。その生活を異邦人がそれを見て、自分たちも割礼を受けるようになるということは、まさに異邦人に対しても、他のユダヤ人たちに対しても、誇れることだったのです。

 宗教的な世界には、そのような「誇りたい」思いがついてまわります。それは常に人に対してです。人に対して誇りたいのは、人からどう見なされるかが極めて重要なことだからです。人に対して自分の価値ある行いを示したいのです。そのようにして自分の価値を示したいのです。誇りたいとはそういうことです。

十字架こそが誇り
 しかし、ここでパウロは言うのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。そこでパウロはイエス・キリストを指し示すのです。しかも、惨めな、無残な、十字架にかかっている姿を指し示すのです。そして言うのです。この十字架こそわたしの誇りだ、と。

 パウロが指し示す、イエス・キリストの十字架に目を向けてみましょう。そこには何が見えてくるでしょう。まず、そこに見えてくるのは神の正しい裁きです。神が正しく裁かれるとは、こういうことだということです。

 十字架にかけられているキリスト。なぜキリストは十字架にかけられているのか。なぜそこで血を流し、苦しんでいるのか。なぜキリストは呪われた姿で死んだのか。聖書は言います。それは私たちの罪を代わりに負われたからだ、と。私たちに代わってキリストは死なれたのだ、と。それは何を意味しますか。キリストが身代わりになってくださらなければ、そこにいるのはわたしであり、あなただということです。神が正しく裁かれるならば、十字架の上で呪われた者として滅びていくのは、わたしであり、あなただということです。

 その意味で、私たちのつまらない誇りなどは十字架の前では吹っ飛んでしまいます。そこで向き合うことになるのは、私の全てをご存じであり、全てが見えておられる方だからです。何が本当に善なることであり、何が本当に悪であるのかを分かっておられる方だからです。その御方を前にして、他の人に対して、わたしはこれをしてきました、わたしはあのことをしてきましたと誇ることがどれほど意味あることでしょうか。

 わたしがしてきたこと、あなたがしてきたことが正しく裁かれるならば、本来いるべきところは十字架の上ではないか。十字架が示しているのは、そういうことです。十字架の前において、神の正しい裁きの前において、人に対していくら何を誇っても、意味がないのです。そこにおいては、ただ裁かれるべき一人の罪人に過ぎないからです。

 しかし、イエス・キリストの十字架をさらに見つめているときに、正しい神の裁きの向こうに見えてくるのは神の愛です。そこに釘づけられているのは、わたしではないのです。あなたではないのです。そうではなくて、神の独り子なのです。流されているのは、その尊い血潮なのです。注ぎ出されているのは、この上なく価値ある命なのです。この上なく尊い御方は、十字架にかけられています。わたしの代わりとして、あなたの代わりとして。

 キリストの十字架はわたしの代わりであり、あなたの代わりなのです。キリストは全人類のために十字架にかかられた、ということではないのです。十字架を通して語られるメッセージは、わたしに対しての言葉であり、あなたに対しての言葉なのです。そのことをパウロは良く知っていました。ですから、この手紙の中にはこういう言葉が出て来るのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:20)。そうです、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」と彼は言うのです。

 そのように、イエス様はわたしの代わり、あなたの代わりになってくださった。言い換えるならば、わたしが救われるためには、あなたが救われるためには、独り子を十字架にかけても良い、御子を身代わりにしても良いと神は思われたということです。私たちが罪を赦されて、神の子として生きるようになるためには、どれほど大きな犠牲を払っても厭わない。そう神は思われたということです。それほどに価値ある存在として見てくださったということです。

 だからこそ、イエス・キリストの十字架こそがわたしの誇りだとパウロは言うのです。人に対する誇りではありません。もはや人に誇る必要はないからです。人がどう見なすかは関係ないからです。そうです。人がどう扱うか、人が何を言うか、人がどう見なすかによって、自分の価値を決めさせてはなりません。人間の価値は神が決めるのです。神が価値ある存在として見てくださったなら、人が何を言おうと、どう扱おうと関係ないのです。

 ですからパウロは言います。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。世はわたしに対しては死んだもの、わたしは世に対しては死んだもの。だから、世が何を言おうが、世がどう見なそうが、どう扱おうが関係ないのです。その意味で「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(12節)と語られている人々とは対極にいるのです。

 実際、パウロは迫害の中にいるのでしょう。世は彼を忌み嫌い、世のクズのように扱い、お前などいないほうがよい、と言うのでしょう。しかし、それで何が変わるわけでもありません。何も損なわれることはない。パウロにとっては十字架こそが誇りだからです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。

 この言葉の前に、改めて問われています。私たちは何を誇りとして生きているのでしょう。人に対して一生懸命に誇りながらこれからも生きていくのでしょうか。人の言葉や扱いによって自分を値踏みしながら生きていくのでしょうか。私たちも、パウロと同じように言い表して生きていくように導かれているのでしょう。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と。

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