2015年8月30日日曜日

「報いを受けなくても幸いです」

2015年8月30日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 14章7節~14節


お返しができない人を招きなさい
 ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は招いてくれた人にこんな話をなさいました。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。

 これを聞いた人たちはどう思ったでしょう。もしかしたら、イエス様を招いた議員は多少不愉快になったかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反対しなかっただろうと思います。ファリサイ派の人たちは、決して自分たちのことしか考えない我利我利亡者ではありません。彼らの大切にしている善行の中には「施し」も含まれているのです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには同意したと思うのです。

 さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。ファリサイ派の人たちは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においてサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したと思うのです。

 それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人も恐らくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて「神の国」を思ったのです。イエス様の話を聞いて、神の国における神からの報いを思ったのです。

 そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではとても分かりやすい。ファリサイ派の人がそのまま聞いても理解できて「なんと幸いなことでしょう」と声を上げるような話だったのです。

上席を選ぶ様子を見て
 しかし、私たちはイエス様の教えだけでなく、それが語られた場所、そこに集まっていた人々にも目を向けたいと思うのです。イエス様はどのような場面においてこのことを語られたのでしょう。

 最初に申しましたように、イエス様は食事のためにファリサイ派の議員の家にお入りになりました。食事に招かれたのはイエス様だけではなかったようです。他にも招待客がおりました。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子だったのです。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。

 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。

 イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。しかし、たかが食事の席の話ではないかとも思えます。イエス様があえて食事の場で戒めることでもないでしょうに、と。そんなことは昔からイスラエルで言われてきたことでもあるのです。旧約聖書の箴言に、「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と書かれているとおりです。

 にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、「たかが食事の席の話」ではないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさったのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。遠回しにあてつけたのではありません。ことさらに「婚宴」あるいは「祝宴」と訳しても良いのですが、そのような「祝いの宴」のたとえ話をしたのは、「祝宴」が神の国を表す表象でもあるからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。

 上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありませんでした。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。招待客の一人は言っていました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。

 そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。

罪人のわたしを憐れんでください
 そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、神との関係における話です。実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてまいります。次のように書かれているのです。

 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。

 高ぶったり卑下したり、人をほめそやしたり見下したり、自分と人との比較、人と人との比較の意識、「上席・末席」の意識は神との関係においてこそ入ってきやすいものです。しかし、徴税人は人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。

神の国への招きとは
 そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われました。そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。それは単なる分かち合いの勧めでも善行の勧めでもないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話しでもないのです。

 イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた宴会こそが、神の国を映し出すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す宴となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招いてくださるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。

 お返しができない人の招かれた宴会。その意味するところは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人の姿をさげすんで、見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。

 そこから、お返しができない人たちの招かれた宴会を見るならば、そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。

 実際、イエス・キリストによって救われるというのはそういうことでしょう。私たちが既に神によって受け入れられ、神の国に招かれているとは、そういうことではありませんか。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれる。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。

 やがて神の国において、私たちはその事実に驚くことになるでしょう。まったくふさわしくない、全くお返しのできないような私たちを神は招いてくださった。その恵みの大きさを目の当たりにして愕然とすることでしょう。そして、改めて、人から報いを求める必要などなかったのだ、ということを知るでしょう。そう、すべてが完全に報われている。ただこんな自分が神の国に招かれていたという一事をもって、完全に報われていることを知るでしょう。「あなたは報われる」とイエス様の言われたように。そうです。誰から報いを受けずとも、本当は既に幸いなのです。

2015年8月16日日曜日

「神の御業を見て共に喜ぶ」

2015年8月16日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 13章10節~17節


 ある安息日の会堂に、ひときわ喜びに溢れて神を賛美している女性がいました。その人は、つい先ほどまで腰が曲がったまま伸ばすことができませんでした。そのような姿で18年間も暮らしてきた人でした。「病の霊に取りつかれている女」と表現されていますから、高齢によって腰が曲がったのではなく、病的なほど極度に腰が曲がっていたのでしょう。しかし、その日会堂に来られたイエス様が側に呼び寄せてくださいました。そして、「婦人よ、病気は治った」と言って手を置いてくださったのです。するとたちどころに腰がまっすぐになり、まっすぐになった体をもって喜びに溢れて神を賛美していたのでした。

 しかし、そこにはまた、腹を立てている人もいました。会堂長です。彼はイエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。この人の怒りもこの人の言葉も、ある意味では私たちにピンと来るものではありません。ユダヤ人ではない私たちには安息日律法そのものが馴染みのないものですから。しかし、怒っているこの人の姿を見つめていると、だんだん私たち自身の姿がそこに見えてまいります。そして、イエス様がなさったことの意味も見えてくるのです。今日お読みしたのは、そのような聖書箇所です。

安息日の律法の意味
 会堂の中で怒っていた会堂長。彼の怒りには正当な理由がありました。安息日については十戒に定められていることがあるからです。聖書には次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8‐10)。これが安息日の規定です。ですから、会堂長は「働くべき日は六日ある」と言ったのです。七日目は、働いてはならないのだ、と。

 実際、この「いかなる仕事もしてはならない」という部分については細かい議論がありました。何がこの「仕事」に当たるのか。例えば、火を焚くことも「仕事」に当たると考えられました。医療行為も、この「仕事」に当たります。ですから、会堂長からすれば、イエスのしたことは律法違反なのです。ところが当の本人はいささかも悪びれた様子もない。反省の色もない。しかもその横には違反行為によって癒されて喜んでいる女がいる。しかも群衆もまたイエスのしたことを見て喜んでいる。だから怒ったのです。責任感に駆られて怒ったとも言えます。こんなことが野放しにされてはならない、と。

 そのように彼が怒るのには正当な理由がありました。しかし、そもそも安息日に《働くこと》がなぜ問題なのでしょう。もともとイスラエルの民はエジプトの奴隷でした。「働け」という命令は死ぬほど耳にしていたでしょう。その意味で「仕事をしてはならない」という命令は当初十戒が与えられた時には実に奇妙に響いたに違いありません。なぜ神様はそんなことを命じられたのでしょうか。

 実は、先ほどお読みした安息日の規定には続きがあるのです。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、云々」の後に、こう書かれているのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。六日の間にこの世界を造られたというのは、創世記に記されている天地創造物語です。神様がこの世界をお造りになった。神様が全部成し遂げられた。七日目というのは、その次の日です。つまり、一から十まで神様がしてくださった。その神様の御業を思う日、それが安息日なのです。

立ち止まらねば神の御業は見えない
 私たちは実際、神様の御業に包まれて存在しているのです。しかし、私たちが動き続け、働き続けているとそのことが分からなくなります。人間のしていること、人間の成し遂げることがすべてを支えているかのように思ってしまう。人間がしなくてはならないことで頭がいっぱいになってしまいます。だからこそ、あえて人間の業を中断して、立ち止まって、休むことが必要なのです。そして、意識的に神の御業に思いを向けるのです。そこに神様への讃美、神様への感謝が生まれます。それゆえに安息日は礼拝の日ともなるのです。

 そのような安息日に、一人の女性が癒されました。この癒された女の人は、もちろんイエス様に感謝したことでしょうが、これを単にイエス様の医療行為とは見ていなかったことは明らかです。この人は腰が伸びてまっすぐになった体をもって、まず神を賛美したのです。その意味では、イエス様のなさったことは、律法違反どころか、まさに安息日に起こるべきことを引き起こしていると言えるでしょう。彼女は確かに神の御業を見て喜んでいるのです。

 そして、同じことを会堂長も見ているはずなのです。しかし、彼は神の御業を見て喜ぶことはありませんでした。どんなに奇跡を経験しても、神様の御業を見ない人は見ない。本当は神の創造の御業の中に存在しているのですから、私たちの人生もまた神の奇跡に満ちているのでしょう。しかし、見ない人は見ない。会堂長はどうして見ることができなかったのでしょう。――立ち止まっていないからです。休んでいないからです。自分がしなくてはならないことで頭がいっぱいだからです。人間がすべきことで頭がいっぱいだからです。

立ち止まらねば隣の人も見えない
 いや、立ち止まることがなければ、休むことがなければ、神の御業が見えなくなるだけでなく、一緒にいる人間、隣人も目に入らなくなります。

 安息日の律法には、先ほどお読みしましたように、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と書かれています。「あなた」だけではないのです。息子、娘のみならず、男女の奴隷も、家畜までも入っているのです。男女の奴隷は勝手に休むわけにはいかないでしょう。休ませなくてはならないのです。つまり安息日は、他の人をも視野に入れ、心にかけ、休ませ、共に神の御業を喜ぶ日なのです。家畜のことまで心にかけて休ませる日なのです。

 このようなことは、自分が神の御業の中に憩うことがなければできないことです。神の御業を思い、一から十までただ神の恵みの御業によって支えられ、生かされていることに感謝しなかったら、できないことなのです。神の御業の内に安らぐことがないと、隣人もまた見えなくなってくるのです。

 18年間腰が曲がっていた人は、たまたまこの日だけ会堂にいたのでしょうか。そんなことはないでしょう。この会堂長は初めてこの女性を見かけたのでしょうか。そんなことはないでしょう。恐らくそこに集っていた人も、この会堂長も、もう長い間、その曲がった体を目にしていたはずなのです。前を向くことも困難な、ましてや天を仰ぐことはとうていできない、そんな姿をもって礼拝している姿をいつも目にしていたはずなのです。

 「安息日ではなくて、他の日に治してもらえ。安息日はだめだ」と彼は言いました。確かに一日待てば律法違反にはなりません。正論です。しかし、彼の言葉からはっきり分かることがあります。この人は少なくとも、長い間病的に腰の曲がったこの人を見ても、「かわいそうに。辛いだろうな。いやされるといいのに」と思ってきた人ではない、ということです。その曲がった体は目に映っても、本当の意味で苦しみや痛みを背負った生身の人間が見えていない。だから、彼女が解放されて喜んで神をほめたたえていても、それが自分の喜びにならないのです。

キリストは束縛から解いてくださる
 このように会堂長の姿を見つめていると、そこに私たち自身の姿が見えてきます。神の御業を見て喜ぶべき時に喜べない。また神の御業を喜んでいる人と共に喜べない。むしろ怒りに燃えてそこにいる人。身に覚えがあります。身につまされます。しかし、だからこそイエス様があえてこの癒しの業を安息日に行った意味も見えてまいります。

 イエス様は今日の箇所において、ただ癒し主としてではなく解放者として御自分を現されました。イエス様があの女性に「婦人よ、病気は治った」と言われましたが、本当は「解放された」という言葉が使われているのです。そして、後にイエス様はこう言われています。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と。

 確かに、この女性は不自由な体をもってサタンに縛られていたと言えます。そして、イエス様は彼女をその束縛から解放されました。しかし、縛られていたのは彼女だけだったのでしょうか。解放されなくてはならなかったのは彼女だけだったのでしょうか。そうではないでしょう。まさに縛られている不自由な姿をさらしていたのはあの会堂長ではありませんか。そして、それは私たちの姿でもあるのでしょう。

 だからこそ解放してくださる方が必要なのです。この女性に起こった解放は実に象徴的な出来事であったと言えます。体が極度に曲がっているならば、その目の先にあるのは自分の足もとです。まず目に入ってくるのは自分自身です。前の人や隣にいる人を見るのは難しい。ましてや、天を仰ぐことは困難です。しかし、彼女はイエス様によって解放され、その体はまっすぐになりました。彼女はまっすぐになった体をもって神を誉め讃えているのです。彼女は神の御業の中に安らぎ、前の人とも、隣の人とも一緒に神を誉め讃えて生きていくのでしょう。

 そのように解放されてまっすぐになった姿をあの会堂長も必要としていたし、私たちも必要としているのです。そのような私たちのためにイエス様は来てくださいました。イエス様はサタンに縛られている者を解放してくださる御方として来てくださいました。イエス様が真の安息日を私たちに与えてくださいます。事実、彼女において現された解放の御業は、既に私たちの内にも始まっているのです。私たちが礼拝の場所に共に集められているとはそういうことです。主の霊による全き解放、神の御業を隣人と共に喜ぶことのできる真の自由、サタンから解き放たれてまっすぐにされた姿を求めてまいりましょう。

2015年8月10日月曜日

「信仰と愛と希望」

2015年8月9日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章1節~10節




神とキリストとに結ばれて
 今日はパウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の冒頭部分をお読みしました。テサロニケの教会はパウロの第2回伝道旅行において誕生した教会です。パウロのテサロニケ滞在については使徒言行録17章をお読みください。使徒言行録によるならば、パウロとシラスがテサロニケに滞在したのはわずか四週間たらずでした。しかし、そのわずかな期間に、神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちが福音を信じるに至ったのです。彼らがテサロニケの教会の礎となりました。一方、このことをねたんだユダヤ人たちが騒動を起こし、パウロとシラスはテサロニケを去らざるを得なくなりました。

 生まれたばかりのテサロニケの教会は、指導者を失い、しかもユダヤ人たちの敵意の中に置かれることになりました。パウロはどれほど彼らのことを心配したことでしょう。生まれたばかりの信仰者である彼らはどうしているだろうか。どんな迫害を耐え忍んでいることだろうか。信仰をしっかりと保っているだろうか。――彼らを案ずるパウロは幾度かテサロニケに行くことを試みたようです。しかし、その願い叶わず、代わりにテモテを遣わすこととなりました。

 テモテはテサロニケにしばらく滞在し、やがて再びパウロのもとに戻ってきてテサロニケの教会の様子を伝えます。彼がもたらしたのは実に喜ばしい知らせでした。テサロニケの信徒たちはしっかりと主に結ばれている(3:8)とテモテはパウロに伝えたのです。パウロはどれほど喜んだことでしょう。大きな喜びをもって彼は手紙をテサロニケに書き送りました。それがこの手紙です。

 そのような事情を考えますと、この1節の単純な挨拶に込められたパウロの思いが迫ってまいります。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」――パウロは万感の思いを込めてこの言葉を記したに違いありません。まさにテモテのもたらした喜ばしい報告は、この事実を明らかにしていたのです。

 なぜ指導者を失った教会が多くの苦難の中においてなおもしっかりと立つことができたのか。それはその共同体がただ伝道者パウロとの関係で成り立っていたのではないからです。もしそうであったなら、パウロが去ったら簡単に崩壊していたに違いありません。あるいはただ彼らが自分たちのために集まって教会を作ったのではないからです。もしそうであったなら、苦難の中において集まることが困難になり不都合が生じたら、簡単に消滅してしまっていたことでしょう。テサロニケの教会はそうではなかった。それは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」に他ならなかったのです。

 これは「父である神と主イエス・キリストの中にある」というのが直訳です。これは父なる神とイエス・キリストにおける救いの御業の中にある、ということでもあるでしょう。教会は神の御業において初めて教会となるのです。ですから、教会の伝道の働きにおいて問われるのは、福音が真に伝えられ、一人一人が神の救いにあずかり、信仰によってキリストとしっかり結ばれているかどうか、というところにおいてなのです。言い換えるならば、教会がまことの教会として、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」として残るかどうかなのです。そして、テサロニケにはまさにそのような教会が残った。そのことをパウロは心から喜んで、その教会に書き送っているのです。

信仰と愛と希望
 さらにパウロは感謝の言葉を続けます。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」ということで、パウロが具体的に何を考えていたかが、その言葉から分かります。2節以下の言葉は、私たちが教会を考える上でも、非常に重要なことを語っているように思います。パウロが感謝しているのは、次のことでした。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。教会がただ人間に結ばれた人間の集まりではなく、神の救いの御業によってなるまことの教会であるということの現れを、パウロは「信仰」と「愛」と「希望」に見ているのです。

 では「信仰」と「愛」と「希望」があるとは、具体的にどのようなことなのでしょう。パウロはここで、それぞれに対して三つの言葉を結びつけています。「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」です。「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではありません。それは具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。一つ一つ見てみましょう。

 第一は、「信仰によって働き」ということです。「働き」とは「行い」とも訳せる言葉です。直訳すれば「信仰の行い」です。

 これを書いているのはパウロです。そして、そのパウロが別の手紙において、人は行いによって救われるのではないことを語っていることを私たちは知っています。例えば、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)と彼は書いているのです。また彼の名による別の手紙にはこう書かれています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、確かに私たちが義とされ救われるのは、私たちの行いによるのではありません。救いはイエス・キリストの十字架において現された神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、そのように私たちの行いによって救われるのでなく、一方的な恵みによって救われるゆえに、そこにはまた人間の誇りではなく、神への感謝が生まれるのです。そして、神への感謝が行動を生み出すのです。それこそパウロが「信仰の行い」と呼んでいるものです。

 私たちが生きているこの世界はギブ・アンド・テイクの世界です。信仰によらなければ、神に対してもギブ・アンド・テイクで関わろうとするのが人間です。自分の行いを差し出して、神様に「与えてください」と願うのです。神様と取引を始めるのです。また信仰によらなければ「行い」は常に比較の対象となってくるのでしょう。自分の「行い」と他人の「行い」を比較して、誇ってみたり卑下してみたり。あるいはある人の「行い」と別な人の「行い」を比較して褒めそやしてみたり軽蔑してみたり。

 取引や比較とは無関係な「行い」はただ一方的な神の恵みに対する応答として生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。その「信仰の行い」こそがまことの教会の原動力となるのです。そのような「信仰の行い」をパウロはテサロニケの教会に見たのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 次に挙げられているのは「愛の労苦」です。「愛」は単に「好きになること」ではありません。愛するとは隣人になることです。共に生きることです。この世の関係は、常に「私のための誰か」を求めることによって成っています。そのように自分が中心ですから、共に生きることもまた自分次第です。「私のためにならない」と思った時に関係は崩壊するのです。

 愛とは「私のための誰か」を求めることではなく、「誰かのための私」になることです。ですから、そこにはしばしば労苦が伴います。強いられてではない、自発的に愛のゆえに労苦を引き受けること、それが「愛の労苦」です。その愛の労苦は、まずキリストが私を愛してくださった、という事実から生まれます。キリストが隣人になってくださった。キリストが私のために労苦してくださった。キリストが、御自分のすべてを与えてくださった。このキリストの愛に押し出されて生まれるもの、それが「愛の労苦」です。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「愛の労苦」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 最後は、「希望の忍耐」です。その希望については、特に「わたしたちの主イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。その意味するところは10節に書かれています。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(10節)。

 ここに語られているのは、「キリストの再臨」というテーマです。そして実はそれこそがこの手紙で展開されている主要なテーマなのです。それは要するに、完全な救いはまだ実現していないけれど、それは必ず向こう側から来る、という信仰です。向こうから必ず来ると信じる人だけが、本当の意味で忍耐をもって待ち望むことができるのです。苦しくても、辛くても、待ち望むことができるのです。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「希望の忍耐」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 さて、そのようにテサロニケの教会のことを見てきました。たった四週間たらずの伝道によってでさえ、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」は形成されます。教会を真に教会たらしめるのは、神の御業だからです。ですから、私たちもまた求めることができるのです。それは神の御業だからです。私たち自身、父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会」として、「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」に生きられるよう祈り求めましょう。

2015年8月2日日曜日

「善をもって悪に勝ちなさい」

2015年8月2日 平和主日礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節~21節


せめてあなたがたは
 今日は平和主日です。平和を祈るために私たちはここに集まりました。後で私たちは「すべての人の平和を願い、すべての人の平和を祈る」(*)という歌を共にうたって祈ります。

 私たちが平和を願い、祈るのは、平和が失われている現実があるからです。国家的な規模においても、身近な人間関係においても、平和が失われている現実があるからです。そこで私たちが平和を願い、平和を祈るとき、私たちの念頭を去らないのは平和を妨げている人々の存在でしょう。平和を壊している人々の存在なのでしょう。

 平和を願い、平和を祈る時、私たちは《そのような人々がいなくなるように》と願い、祈っているのかもしれません。しかし、そのような私たちに今日の聖書朗読では次のような御言葉が与えられていました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)。

 「せめてあなたがたは」と言われているのです。まずは私たち自身なのです。平和を壊し、あるいは妨げる他の誰かではないのです。まず私たち自身について考えなくてはならないのです。平和を願い、祈る私たち自身が、まずすべての人と平和に生きようとしているのかどうか。それは私たちが日々接している人々との間における話です。あるいは今ここに集まっている教会の中での話です。

 もちろん、そこで聖書は「できれば」と言うのです。それは難しいことを知っているからです。また、私たちはそのつもりでも、私たちの側からはどうにもならないことがあることを知っているからです。実際、この箇所には「あなたがたを迫害する者」(14節)ということも書かれています。迫害する者に対しては、どんなにこちら側としては「平和に暮らしたい」と思っていても、そうできないことはあるでしょう。

 しかし、「できれば」という言葉はそのような消極的な側面のみにおいて語られるべきではありません。もう一方において、それは「できるかぎり」という意味でもあるのです。そうしようと思わなければ、そして、実際にやってみなければ、そして最善を尽くしてみなければ、聖書が「できれば」というその限界は見えてこないからです。ですから実際、ある翻訳聖書では「あなたがたは最善を尽くしなさい」と訳されているのです。

善をもって悪に勝ちなさい
 それでは、どのように最善を尽くすのでしょう。こちら側からできる最善はなんでしょう。続けてこう書かれています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)。まずは自分で復讐しようとしないことです。仕返しをしようとしないということです。

 しかし、聖書が語ることはそれに留まりません。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)というのです。相手に対して復讐を放棄するだけでなく、むしろ積極的に善を行いなさいと言うのです。その目指すべきところは非常にシンプルに次のように表現されています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。今日の説教題はここから取りました。

 ここに至って、「すべての人と平和に暮らしなさい」と言われていたことの内容が見えてきます。さらに言うならば、私たちがすべての人のために平和を願い、平和を祈るということが何を意味するのかが見えてくるように思えるのです。

 平和とは何でしょうか。平和を願い、平和を祈るとき、私たちは何を求めているのでしょう。それはただ争いのない状態でしょうか。戦いを回避することによって実現される状態でしょうか。いや、今日の箇所を読む限り、平和とはそのようなものではなさそうです。先にも見たように、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉は、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉に行き着くのです。

 「悪に勝ちなさい」ということは、そこには勝つか負けるかの戦いがあるということです。平和を願い、平和を祈るということは、戦いを極力回避することではありません。ある意味では戦いの中に入って行くということです。それは悪との戦いです。悪に打ち勝つための戦いです。

イエス様の戦いに加えられて
 それはいかなる戦いであるのか。「善をもって悪に勝つ」とはどういうことなのか。その戦いを身をもって見せてくださった方がおられます。イエス様です。パウロがイエス・キリストを念頭に置いてこれを書いていることは明らかです。今日の朗読の中に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」という勧めがありましたが、これはイエス様が、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43‐44)と言われたことを思い起こさせます。

 最終的に重要なのは人間との戦いではないのです。悪そのものとの戦いなのです。どのようにして悪そのものと戦うのですか。どのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。悪を行う人間を憎んで、悪を行う人間と戦って、悪を行う人間を力によって支配して、あるいは悪を行う人間を取り除いて、そのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。そのようにして悪を取り除けるならば、敵を憎んだら良いのです。敵と戦ったらよいのです。人間相手の戦いを勝利するまで繰り広げたらよいのです。

 しかし、イエス様はそうは見ていませんでした。イエス様は明らかに敵を滅ぼす力を持っていたのでしょう。にもかかわらず、イエス様は敵を滅ぼすどころか、御自分を守ることにさえ、御自分の力を用いようとはされませんでした。悪が取り除かれるのは人間との戦いによるのではないことをご存じだったからです。悪が取り除かれるのは悔い改めによるのです。人間が謙って神に立ち帰ることによるのです。

 そして、明らかなことは、悔い改めは人間との戦いによっては起こらないということです。相手を叩きのめしても悔い改めは起こらないということです。相手を力づくで支配しても、悔い改めは起こらないのです。悔い改めが起こるとするならば、それは愛によってなのです。

 ですからイエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。そして、本当の意味で敵を愛されたのはイエス様御自身です。その敵とは誰ですか。わたしでありあなたです。もしイエス様が私たちの内にある悪ではなく、私たち自身を憎まれたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの悪にそのまま悪をもって返されていたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの内にある悪が明らかにされ、そのまま断罪されたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。

 しかし、イエス様は私たちを愛してくださいました。私たちを滅ぼすのではなく、私たちのために十字架にかかってくださいました。イエス様御自身が私たちの内にある悪と戦ってくださいました。私たちが形づくっているこの世界の悪と戦ってくださいました。血みどろの戦いをしてくださいました。悪を取り除くために。真の平和をもたらすために。

 そのようにイエス様によって愛され、赦された私たちです。その私たちがイエス様の戦いの中に招かれたのです。人間相手の戦いを繰り広げてきた私たちが、悪との戦いへと招かれたのです。私たちは人間相手に憎しみをもって戦っている時点で既に悪に負けていたのです。そのような私たちが、本当の意味で悪そのものに勝つために、キリストによって立ち上がらせていただいたのです。

 そのような戦いの中で私たちは語られているのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。そして、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。キリストの勝利に共にあずかるために。そのような私たちとして、今私たちはここにいます。そのような私たちとして全ての人の平和を願い、全ての人の平和を祈りましょう。


*この礼拝では、「とりなしの祈り」の時間に皆で共に「すべての人の平和を」をうたいました。

「すべての人の平和を」(詞・曲Sr.山本きくよ) 

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