2015年6月28日日曜日

「神によって一つとされて」

2015年6月28日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 11章4節~18節


異邦人のいる教会
 イエス・キリストの地上における最後の言葉は、使徒言行録によれば次のような言葉でした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。そして、イエス様の言葉の通り、弟子たちの上に聖霊が降り、教会が誕生しました。その出来事を記念して毎年聖霊降臨祭を私たちは祝います。

 イエス様の言葉によれば、そのように誕生した教会はエルサレムに留まることなく、ユダヤとサマリアの全土に、さらには地の果てにまで広がっていきます。最初の教会のメンバーは全員ユダヤ人でした。しかし、サマリアにまで広がっていくならば、そこにはサマリア人がいます。地の果てにまで広がっていくならば当然異邦人の中に入っていくことになります。つまりイエス様は初めからサマリア人のいる教会、異邦人のいる教会を想定していたということです。

 さて、今日は使徒言行録11章をお読みしましたが、その直前の10章は異邦人の集団が洗礼を受けたという話で終わっています。つまり教会に異邦人が加わってきたのです。それはすなわちイエス様の想定通りに事が進んでいたことを意味します。聖霊の力によって進められるべき神の計画が進んでいたのです。神の御業が進んでいたのです。それは実に喜ばしい事ではありませんか。

 しかし、そのことを喜べなかった人たちがいたのです。ですから今日の箇所は「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」(4節)という言葉から始まっていたのです。喜べなかった人たちに説明しているのです。

 それまでユダヤ人しかいなかった教会に異邦人が加わるということはどういうことですか。異邦人と一緒に聖餐を行うようになるということです。今日のような小さなパンを食べる聖餐ではありません。通常の食事の形で行います。つまり異邦人と一緒に食事をするということです。

 ユダヤ人には異邦人と一緒に食事をするという習慣はありませんでした。ユダヤ人には食べて良いものと食べてはいけないものを定めた食物規定があるからです。ユダヤ人からすれば、異邦人は食べてはならぬ汚れたものを食べる人々なのです。律法に厳格な人々は異邦人の家にすら入りません。ですから、異邦人と一緒に食事をするということは、全く自分たちの習慣にないことをするということです。それは違和感を覚えることであり、さらには極めて忌むべきことですらあるのです。

 しかし、異なるものが一緒になるとはそういうことなのでしょう。そこにはこれまでの慣習にないこと、違和感を覚えるようなことが起こります。そこには葛藤が生じます。他の人のしていることは非難すべきこと、赦しがたいことに映ります。ですから異なるものが一緒になることは往々にして喜ばしくはない。そうです、彼らは異邦人がいる教会を喜べなかったのです。そこに起こっていた出来事のゆえにペトロを非難したのです。彼らは言いました。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(3節)と。

 そこでペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。それが今日の箇所に書かれていたことです。

 ペトロはまず自分がどうして異邦人の家に行ったのかを説明します。それはコルネリウスという百人隊長の家でした。ペトロはヤッファの町に滞在しており、一方コルネリウスの家はカイサリアにありました。直線距離で60キロ近く離れています。ペトロがそんな遠くに住んでいる異邦人やその親類、友人たちを訪ねる理由はもともと全くありませんでした。

 その彼らがなぜ出会ったのか。ペトロの説明で語られているのは、「幻を見ました」とか「“霊”がわたしに…言われました」とか「自分の家に天使が立っているのを見たこと」など、おおよそ私たちの多くには馴染みのないことばかりです。しかし、何を伝えたいかは分かります。要するに、これらは全て神によるのだということです。神がペトロたちユダヤ人とコルネリウスたち異邦人を出会わせられたのです。異なる者たちがその場に一緒にいることを他ならぬ神が望まれたのです。

 そして、ペトロは次のように話を続けます。「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」(15節)。ここで「最初わたしたちの上に降ったように」というのは、ペンテコステの出来事です。使徒言行録二章に記されている事です。その時とまったく同じように、今度は異邦人の上に聖霊が降ったのです。

 その時にペトロは何を考えたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」(16節)。ここでペトロがこのイエス様の言葉を思い出したということは実に大きな意味を持っています。というのも、当初イエス様が「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」と言われた時、その「あなたがた」とはペトロにとっては「ユダヤ人」以外の何ものでもなかったからです。そこにはユダヤ人しか入っていないと思っていた。ところが、ここでもう一度その言葉を思い起こすのです。そして気づくのです。イエス様が言われる「あなたがた」に入っているのはユダヤ人だけではない。そこには異邦人も入っているのだ、と。

 神がそのことをはっきりと示されたのです。異邦人たちの上にはっきりと分かる形で聖霊が降ったのは、いわば神のデモンストレーションでありました。神は異邦人のいる教会を望んでおられること、神はそのように異なる者が同じ霊を受け、共に食卓を囲む教会であることを望んでおられることを、ペトロははっきりと示されたのです。そこでペトロは言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17節)。

神の御業に目を向けて
 神の計画が進んでいること、神の御業が進んでいることを喜べなかった人々は、このペトロの言葉に心動かされました。次のように書かれています。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(18節)。

 彼らは喜べなかったことを喜べるようになりました。かつて喜べなかった出来事について、神を賛美できるようになりました。どうしてですか。神の御業に目を向けることができたからです。神のなさっていることを見ることができたからです。

 「異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」。「悔い改め」とは神に立ち帰るということです。彼らが神に立ち帰り、神を賛美し、礼拝する者とされている。神との永遠の交わりに入れられ、神の命に与っている。当初ペトロを非難していた人たちも、そこに神の御業を認めざるを得ませんでした。少なくとも彼らは自分自身について、「悔い改め」ということが神の賜物であることを知っていたからです。ならば、それがたとえ異邦人であっても、神に立ち帰り、神を礼拝している人々がいるならば、それは神から出たことであると認めざるを得なかったのです。だから神を賛美したのです。

 私たちもまた、同じ神の御業に目を向ける必要があるのでしょう。自分が今ここに身を置いて礼拝しているということ自体が神の奇跡であり神の驚くべき御業なのだと思える人は、他の人の中にも同じ驚くべき神の御業を見ることができるのでしょう。それは初代の教会においてユダヤ人も異邦人もいる教会が一つとなるために必要不可欠なことでした。それは今日の教会においても同じです。

 実際、教会には異なる背景を持ち、異なる感性を持ち、異なる価値観を持つお互いが集められています。ですから他の人について「なぜあんな人が教会に来ているのか」「なぜあんな人がクリスチャンなのか」と思うことは起こり得ることなのでしょう。だから一緒に礼拝などできない、だから一緒に教会生活はできない、と思ってしまうことはあり得ることです。

 しかし、「あんな人が教会に来ている」と言うならば、本当はそこに神の御業を見るべきなのでしょう。「あんな人が一緒に礼拝しているなんて、ほんとありえない!」と苦々しく思うなら、その「ありえない」ことが起こっていることに神の奇跡を見るべきなのでしょう。

 神はユダヤ人と異邦人とが共にいる教会を望まれました。神は異なる者たちが共にいる教会を望んでおられます。なぜなら神はキリストを通して「地の果てまでも」と言われた神ですから。実際、神がそのような神であり続けていたからこそ、異邦人であり距離的にも遠く離れており、文化的にも全く異なるこの国にも教会が存在しているのでしょう。

 確かに異なる者たちが共にいれば違和感た生じ、葛藤が生じ、時として極めて深刻な困難に直面することもあるのでしょう。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の問題も、この11章で解決したわけではありませんでした。使徒言行録では15章においてもっと深刻な形で現れてきます。後々まで問題を引きずることになりました。しかし、それでもなお神がなさっていることがそこにあるなら、それは良いことなのです。

2015年6月21日日曜日

「喜びに溢れて道を行く」

2015年5月21日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 8章26節~40節


サマリアから寂しい道へ
 「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」(26節)。そう書かれていました。不思議なことが書かれています。天使が現れたことではありません。神がフィリポを南の寂しい道へと導かれたということです。

 なぜこれが不思議なことかは、そこまでの経緯を考えると分かります。事の発端はエルサレムの教会に対して起こった大迫害でした。まだ形づくられたばかりのエルサレムの教会は散らされることになりました。しかし、そこには「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(4節)と書かれています。彼らは散らされたことを嘆いていませんでした。むしろそれを福音宣教の契機として受け止めたのです。

 散らされた人々のひとりであったフィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えました。もともとユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲ですから、迫害で散らされることでもなければ、サマリアに下っていくことはなかったでしょう。その意味では神様によって隔ての壁の向こうに押し出されたとも言えます。ともあれ、下っていったフィリポによってキリストが宣べ伝えられ、そこに新しく教会が生まれました。「(しかし)、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」(12節)と書かれているとおりです。

 フィリポの宣教によって救われた人々です。フィリポの働きによってできた教会です。彼らはまだまだフィリポを必要としていたに違いありません。フィリポがなすべきことはまだ山ほどあったはずです。ところが神様はそこでフィリポの働きを中断させられるのです。彼をサマリアから出発させるのです。南へと向かわせます。わざわざ「そこは寂しい道である」と書かれていました。要するに荒れ野を通る道です。人の住んでいないところです。伝道者を人のいない所に送ってどうするのでしょう。聞く人間がいてこその宣教でしょう。

 神様のなさっていることは道理に合わないように見えます。サマリアに置いておけばより多くの人が救われるでしょうに。働きの絶頂において中断させて荒れ野へと向かわせるというのは宣教の効率から考えてもおかしい。その意味で、ここには不思議なことが書かれていると申し上げたのです。

 しかし、もう一方において、このようなことは違った形で私たちにも覚えがあるとも言えます。有意義と見えることが順風満帆に進んでいる時に思いがけなく中断させられることは確かにある。「神様、なぜですか?」と問いたくなるような回り道をさせられることがあるのです。それこそ伝道者が人のいない荒れ野の道へと向かわされるというような、どう考えても無意味としか思えない回り道をさせられることは確かにあるのでしょう。

 そこでフィリポはどうしたか。サマリアを発って南に行くのです。神の導きに身をゆだねるのです。なぜ有意義と思われることを中断させられるのか、なぜ無意味と見えることを強いられるのか。フィリポにはその時、分からなかったに違いありません。しかし、神の僕として神の導きを受け入れ、神に従うのです。人には分からなくても、神は分かっておられるから。そして、それで十分なのです。

 そして、神には分かっておられたのです。その時、その道をエチオピアの高官が通過することを。「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」(27‐28節)。その人こそ、フィリポが出会うべき人でした。人の目に無意味と思えても、神が備えていてくださっている出会いがあるのです。出会うべき人がいるのです。そこで神が望んでおられる、為すべきことがあるのです。

それは誰ですか?
 その人は馬車の上で預言者イザヤの書を読んでいました。聖霊はフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。フィリピが走り寄ると、朗読する声が聞こえました。「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、宦官は言いました。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。そして、馬車に一緒に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みます。フィリポは馬車に乗り込みました。

 その人が朗読していたのはイザヤ書53章でした。7節と8節がギリシャ語訳で引用されています。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」(32‐33節)。宦官はフィリポに尋ねました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)。

 羊のように屠り場に引かれていく人。卑しめられても、小羊のように口を開かない人。命を取り去られるところへと黙々と向かう人。その人の名前は聖書に書かれていません。ですから、確かに誰のことを言っているのか不明のまま残ります。しかし、その人がただ黙って死んでいく一人の人というだけならば、それが誰であるかはさして重要な問題ではないでしょう。世の中にそのような人はいくらでもいるのでしょうから。あの宦官は、どうして見ず知らずの人を馬車に乗り込ませてまで、それが誰であるかを尋ねたいと思ったのでしょう。どうしてあの宦官はそれほどまでにその答えが気になったのでしょう。

 それはイザヤ書53章を通して読むと分かるのです。預言者はただ黙々と死んでいく一人の人について語っているのではないからなのです。彼が読んでいたイザヤ書において、その直前にはこう書かれているのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)。神は私たちの罪をすべて彼に負わせられた。彼は私たちの罪をすべて背負って死んでいくのです。預言者はそのような人について語っているのです。

 彼が読んでいたのは、私たちが持っているような聖書ではありません。当時書き物として主流であったのは「巻物」の形態です。恐らく彼はイザヤ書の巻物を読んでいたのです。たまたまそこを開いて読んでいたということではないのです。そこを読んでいるならば、その前も当然読んでいるはずなのです。イザヤ書に何が書かれているかを知っているはずなのです。

 そこには罪に対する神の裁きが書かれているのです。神は聖なる神であり、罪を罪とされる神であることが書かれているのです。神は罪を正しく裁かれる神であることが書かれているのです。預言者イザヤが神と向き合った時、彼は恐れおののいてこう言ったのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5節)。

 この宦官はエルサレムの帰りでした。エルサレムには礼拝のために訪れたのです。遠くエチオピアから礼拝のためにエルサレムにまで来た人。その人がどれほど神を求め、信仰を求めていたかがうかがい知れます。しかし、礼拝して戻る彼は考えざるを得なかったに違いないのです。自分は聖なる神を礼拝できる者なのだろうか。自分は神の御前に出られる者なのだろうか。自分は神に祈れる者なのだろうか。むしろ罪を罪とされる神から退けられ、捨てられ、罪を裁かれ、滅ぼされるべき者ではないだろうか。聖なる神を求めれば求めるほど、自らの罪を思わざるを得なかったと思うのです。

 しかし、そのイザヤ書にこう書かれていたのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」。そして、その人は私たちの罪を黙々と背負い、死んでいくのです。その「彼」とはいったい誰なのだ!本当にそのような人がいるのか。わたしの罪を代わりに背負ってくれる人が本当にいるのか。いるとしたら、それはいったい誰なのだ!

 その思いの丈を宦官はフィリポにぶつけました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。

喜びにあふれて
 フィリポはそれが誰であるかを知っていました。私たちの罪を代わりに背負ってくださった方。卑しめられても、小羊のように口を開かなかった方。命を取り去られるところへと黙々と向かわれた方。そして、十字架にかかって死なれた方。ナザレのイエス。そうです、フィリポはつい先日までサマリアにおいて、その御方について宣べ伝えていたのです。

 フィリポはなぜ神がサマリアから荒れ野の道へ導かれたのか、そのわけを知りました。既に福音に向けて心を備えられた人がそこにいたのです。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(35節)。

 この人は預言者が誰について語っていたのかを知りました。私たちが罪の赦しを受けるため、代わりに罪を背負って死んでくださった方を知りました。神の備えてくださった出会いの中で、あとは感謝して受け取るだけでした。罪の赦しと救いとを受け取るだけでした。宦官とフィリポは水の流れているところを通りかかりました。宦官は言います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」(36節)。

 彼は洗礼を受けました。神の前に立つことのできる正しい人間になったからではありません。神を礼拝するにふさわしい人間になったからではありません。そうではありません。人は神の御前に出るにふさわしくない自分であることを認めて、救われるにふさわしくない自分であることを認めて、神の国にふさわしくない自分であることを認めて、ただキリストに依り頼んで洗礼を受けるのです。私たちの罪のために死んでくださったキリストに依り頼み、罪を赦された人として主と共に生きていくのです。「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(39節)。

 主は私たちをどこに導いていかれるのでしょうか。私たちが望んでいないような、意味を見いだせないような道へと導かれるのでしょうか。それは起こりえることです。今、自分自身がいるところをそのように感じている人がいるかもしれません。しかし、主を信じましょう。主は既に出会うべき人々を備えていてくださいます。主が出会わせてくださる人々にも、このエチオピアの宦官と同じことが起こりますように。キリストと出会い、喜びにあふれて旅を続ける人となりますように。

2015年6月14日日曜日

「ただ一つの御名、ただ一つの救い」

2015年6月14日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章5節~14節


聖霊に満たされて
 「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」(5‐6節)と書かれていました。サンヘドリンと呼ばれる最高法院が招集されました。なんのためにでしょう。ペトロとヨハネを尋問するためでした。「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(7節)。

 アンナスとカイアファという名前には見覚えがあります。イエス・キリストが裁かれた時に出てきました。彼らはイエス様を尋問した人々です。イエス様を断罪し、死に定めた人々です。その同じ場にペトロとヨハネは立たされることとなりました。それは重大な危機を意味しました。それだけではありません。まだ教会は産声を上げたばかりなのです。その大事な時に柱ともいうべきペトロとヨハネが捕らえられたということは、教会にとっても重大な危機を意味ました。

 なぜそのようなことが起こったのか。その次第を簡単に振り返っておきましょう。

 その前の日、午後三時の祈りの時にペトロとヨハネは神殿に上っていきました。するとそこに生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました。毎日、神殿の門のそばで物乞いをしていたのです。彼はペトロとヨハネに施しを乞いました。ペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼は癒されて、躍り上がって立ち、ペトロたちと共に神殿に入っていったのです。

 民衆はかつて神殿の門で物乞いをしていた男が、歩き回って神を賛美しているのを見て大いに驚き、ペトロたちのところに集まってきました。ペトロはその大群衆にイエス・キリストを宣べ伝えます。ペトロは復活して今も生きておられる救い主を伝え、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」(3:19)と勧めたのでした。

 そのようにペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきました。彼らは二人がイエスの復活を宣べ伝えているのにいらだって、彼らを捕らえて牢に入れました。そして、翌日、最高法院が招集されたのです。

 これが簡単な話の流れです。しかし、考えてみれば、ただ神殿で話をしていただけで、翌日に最高法院が招集されるというのはあまりにも大げさです。普通では考えられないことでしょう。なぜこんなことになったのか。一つ考えられることは、群衆がペトロたちの予期せぬほどに巨大化したということです。「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)と書かれているとおりです。

 それほどにペトロたちの影響力が大きくなっていった。それはかつてイエス・キリストを十字架にかけた人々にとってはまことに恐るべきことだったのです。やっとのことでイエスを抹殺して全て終わったと思っていたのに、そのイエスの復活を宣べ伝える人々の群れが見過ごせぬほど膨れあがりつつあった。その結果、彼らは最高法院まで招集せざるを得なかったのです。なんとしてもこの動きを封じなくてはならないと思ったからです。

 ユダヤの最高法院が動き出しました。イエスが捕らえられたあの時と同じです。今度は使徒たちを、教会を、この世の巨大な権力が支配するために動き出しました。この世においては力関係がものを言います。力ない者は力ある者に支配される。弱い者は強い者に支配されることになるのでしょう。この場面においてはこの世において何の権威も力もない二人が、権威と力を持つ人々のただ中に立たされています。ペトロとヨハネは支配される側の人間として立たされているのです。

 しかし、そこで聖書は次のように語ります。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」(8節)。「満たし」が意味するのは支配です。ペトロを支配しているのはアンナスやカイアファではありません。「聖霊」なのです。神の霊なのです。

 私たちの肉の目にはこの世の力しか映りません。この社会においては、人間が行うことしか見えないのです。そうです、この世界は人間が動かしているように見える。人間の支配関係がすべてを決定しているように見えるのです。

 しかし、もう一つの支配があるのです。それは神の支配です。目に見えるところにおいては、ペトロとヨハネは圧倒的に大きな人間の力のもとにあるのでしょう。しかし、今日の聖書箇所が伝えているのは支配された人間の姿ではありません。ペトロはこの世の力に支配されてはいません。この世の力によって生じた悪い状況にも支配されてはいません。そうではなく、ペトロは聖霊に満たされていたのです。ペトロを支配しているのは「聖霊」なのです。

 信仰に生きるとはこういうことなのでしょう。あの時、ペトロを満たした聖霊は、私たちの内にも働いておられます。私たちもまた、もう一つの支配のもとに生きているのです。共に集まって礼拝をささげる場は、まさにその事実が目に見える形で現れている場だとも言えます。私たちは今ここにいます。私たちがここに集まっているのは、人間の支配によるのではありません。神の支配によるのです。神の霊の働きによるのです。だから私たちは人間の権威や力、人間の行いを誉め讃えるのではなく、目に見えない御方に向かって一緒に歌をうたって賛美をささげているのです。それはこの世の目からは滑稽に見えるかもしれません。しかし、私たちは目に見えない御方の支配を信じているのです。そして、目に見えない御方に自分自身を献げて、新しくここから歩み出すのです。

神の愛の支配が内に
 そして、この世界に厳然として目に見えない御方の支配があるならば、その御方のなさることは必ず現れてくるのです。目に見える形で現れてくるのです。力ある者は力ない者を支配し、自分の思い通りにコントロールしようとするのですが、人間の思ったとおりにはならないのです。それよりももっと大きな支配があるのですから。

 ペトロとヨハネには何が起こりましたか。アンナスやカイアファたちは、ペトロとヨハネのために尋問と断罪の場所を用意しました。その中にペトロとヨハネを置きました。彼らは二人をその中に強制的に置くことができました。しかし、聖霊はそこでペトロとヨハネに神の言葉を語る大胆さと、福音宣教の機会を与えられました。目に見えない神の霊は、尋問と断罪の場所を福音宣教の場所に変えてしまいました。

 聖霊に満たされたペトロは言いました。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(10‐12節)。そのように、救いのために与えられた一人の御方、ただ一つの御名について語るのです。

 その姿を見て議員や他の者たちは驚いたと書かれています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。そこに現れたのは聖霊の支配であり、聖霊の御業でした。

 いや、聖霊は彼らに大胆さを与えただけではありません。聖霊の支配はまた神の愛の支配でもありました。アンナスやカイアファをはじめ、ペトロとヨハネをとりまく人々は、かつてイエス・キリストを死に定めた人々です。ペトロははっきりと彼らに対しても「あなたがたが十字架につけて殺し」たのだと語っているのです。しかし、その上でペトロは彼らに対する神の裁きについて語るのではないのです。そうではなく、救いについて語るのです。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)。このような言葉は極めて排他的に聞こえなくはありません。抵抗を覚える人もあるいはいるかもしれません。しかし、ペトロは他を「排する」ために語っているのではないのです。宗教論争として語っているのではないのです。彼は「わたしたちが救われるべき名」と言うのです。彼らはペトロたちに敵意の目を向けているのでしょう。彼らはかつてキリストを十字架にかけただけでなく、あわよくばペトロたちをも亡き者にしてしまおうと思っているのでしょう。しかし、その彼らに対して「わたしたちが救われるべき名」と言って語っているのです。そこにはアンナスも含まれているのです。カイアファも含まれているのです。

 聖霊に満たされたペトロの内にあったのは神の愛です。御自分を十字架につけた者をも救おうとされるキリストの愛です。ペトロはその愛によって自分もまた救われたことを知っているのです。自分もまたアンナスやカイアファと変わらない。ただイエス・キリストによって救われた罪人であることを知っているのです。だから「わたしたちが救われるべき名」として語っているのでしょう。

 そのように彼らはもはや支配者たちの敵意の中にもいないのです。敵意や憎しみにさえも支配されていないのです。もう一つの支配のもとにあるからです。もっと大きな権威と力をもった一つの御名のもとにあることを知っているからです。その御名によって救われていることを知っているからです。そして、その御名は私たちにも与えられているのです。私たちもまた同じ御名のもとにあり、同じ救いにあずかっているのです。

2015年6月7日日曜日

「心を一つに」

2015年6月7日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章37節~47節


聖霊によって
 今日お読みした箇所には、最初の教会の実に麗しい姿が描き出されていました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(44‐47節)。

 「一つ」という言葉が繰り返されています。そこに見るのは一つとなっている教会の姿です。彼らはなんと「全ての物を共有に」するほどに一つとなっていたのでした。それが単純化された極端な表現だとしても、それは驚くべきことでしょう。最初に洗礼を受けた人たちは、聖書の記述によれば約三千人です。裕福な人がいれば貧しい人もいる。様々な立場の人がいる。その彼らがそこまで一つとなっていたというのです。また、そこには恐らくファリサイ派もいればサドカイ派もいたでしょうし、物音を聞いて集まってきたのですから、そこには徴税人や罪人たちもいたかもしれません。しかし、そのような人々が、神殿での礼拝でも、家ごとの集まりにおいても、一つとなって礼拝し賛美を捧げていたというのです。

 明らかにそれは、「人間とはこうあるべき」「教会とはこうあるべき」という主義や理想から生じたものではありませんでした。誰かが「一つになるべきだ」と主張して一つになったのではありませんでした。ですからその前に「すべての人に恐れが生じた」ということが書かれていたのです。「恐れ」とは恐怖のことではなく、生ける神の御前にあるという自己認識です。また「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」ということもあえて記されているのです。彼らは力強い神のお働きの中にあったのです。彼らは聖霊によって一つとされていたのです。

 このことは特に強調されねばならないでしょう。聖霊によらずとも、人間は一体性を実現することはできます。「心を一つに」することができるのです。実際に世の支配者たちはそのような一体性を作ってきたのです。人間は共通の必要があるときに一体となります。共通の関心において一体となります。共通の敵によって、共通の恐れによって、一体となることもあるでしょう。恐らく人為的に一体性を造り上げるのに一番容易な方法は共通の敵と想定される恐れを提示することです。しかし、共通の敵と恐れによって作られた一体性ほど恐ろしい集団を造り上げるものはありません。歴史に見るとおりです。

 それゆえに、聖書はまた、人為的な一体性を神があえて破壊された実例を示しています。創世記11章に書かれている「バベルの塔の物語」です。人々はこう言いました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)。「有名になる」と訳されているのは「名を造る」いう表現です。つまり彼らは巨大な塔を建て上げているのですが、それは彼らの名前を偉大なものとして強大ものとして建て上げることを意味していたのです。それはもう一方に恐れがあるからです。だからこそ散らされる側ではなく支配する側に立たなくてはならない。そのために一致団結したのです。しかし、神は彼らの言葉を混乱させ、互いに通じなくされました。神はそのような一致団結を望まれなかったのです。

 神が教会に望んでおられるのは人為的に造り出された一体性ではありません。人間の必要を満たすために人間が造り出す一致団結などではありません。そうではなく神の霊による一体性です。それゆえに、そこでは「人と人との関係」だけでなく「人と神との関係」が重要になってくるのです。

めいめいが洗礼を受け
 そのことを今日の聖書箇所ははっきりと示しています。本日の朗読は37節からでした。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(37節)。そう書かれていました。ペトロの説教を聴いて心を動かされた人々は具体的な指示を求めたのです。ペトロの答えは明快でした。「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」(38節)。

 ペトロは「悔い改めなさい」と言いました。それは自分の悪いところを悔いて改めることではありません。それは根源的な生の方向転換を意味します。どちらからどちらへ方向を転換するのでしょう。ペトロの説教の最後の言葉はこうでした。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。十字架につけて殺したのは、イエスが彼らにとって主ではなく、メシアでもなかったからです。そのような彼らにとって方向転換とは、イエスを主として、メシアとして受け入れるということに他なりませんでした。

 これこそがまず求められていたのです。イエスを主として、メシアとして受け入れるということです。そして、ペトロは言いました。「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。ここで注目すべきは、あえて「めいめい」と書かれていることです。個々の人間が強調されているのです。

 洗礼を受けるのは「めいめい」です。そこに三千人がいたとしても洗礼を受けるのは「めいめい」なのです。他の人がどうこうではありません。他の人が洗礼を受けたか受けないか、それは関係ありません。洗礼においては、神の御前において一人で立たなくてはなりません。

 そして、罪を赦していただくのも「めいめい」です。それは個々の人間において起こらなくてはならないのです。個々の人間が自らの罪を神の前に認め、個々の人間が罪を赦していただくのです。そこでは他の人の罪を問題にすることはできません。神の御前において一人の人間として罪が問われ、罪の赦しを受けるのです。そして、そのようにして罪を赦された者としてイエスを主として生き始める。イエスを「わたしの主、わたしの救い主」として生き始めるのです。その意味において、先の「悔い改め」もまた「めいめい」です。

 最初に一つとなってすべての物を共有している教会の姿、一つとなって礼拝を捧げている教会の姿を見ました。しかし、彼らは「めいめい」イエスを主として受け入れ、主と共に生き始めた人々なのです。そこには極めて個人的なイエスとの関係が生きているのです。後にパウロがこのイエス・キリストとの関係を次のような言葉で表現しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。

 神の子は「わたしを愛し」てくださったのです。全人類のためではなく、この「わたしのために」身を献げてくださったのです。この「めいめい」を抜きにして、先に見た一つとなった教会の姿は語り得ません。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わりました。先にも触れましたように、そこには種々雑多な人々がいたことでしょう。しかし、その「めいめい」が明確に同じイエスを主として受け入れたのです。そうです、彼らには同じ主がいるというはっきりとした事実があるのです。その同じ主から同じ霊をいただいているのです。そこにおいて彼らは一つとされているのです。同じ霊によって一つとされたのです。そのように各個人の悔い改めと信仰を抜きにして、先に見た一つとなった教会の姿は語り得ません。各個人とキリストとの関係に目を向けず、ただ全体だけを問題にして一つとなることを求めるならば、それは極めて人為的な人間的な一致を求めることになるでしょう。

一つとされるために
 しかし、もう一方で逆のことも起こりえます。私たちが「めいめい」のことしか考えず、そこに終始してしまうということもあるのでしょう。悔い改めと洗礼と罪の赦しは「めいめい」のことに留まるために与えられているのではないのです。何と書かれていますか。洗礼を受けた人々は「仲間に加わった」と書かれているのです。

 彼らはそれぞれ各自としてイエス様と共に生きていくのではないのです。彼らは仲間に加わった人々として「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)と書かれているのです。彼らは交わりの中に身を置き、共に祈ることを大切にしたのです。そこからあの最初の教会の姿が生み出されていったのです。

 今日の朗読の最後にもこう書かれていました。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(47節)。主は個々の人を救われます。主はあなたのため、わたしのため、一人一人のために十字架におかかりくださいました。赦しも救いも他ならぬあなたのためでありわたしのためです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」とパウロが言っていたとおりです。しかし、主は救われる人を仲間に「加えられる」のです。私たちは自分自身をそのように見、また新たに主を信じる人をそのように見なくてはなりません。バラバラではないのです。主は私たちが一つとなることを望んでおられます。

 「ひとりでいることのできない者は交わりに入ることを用心しなさい」「交わりの中にいない者はひとりでいることを用心しなさい」。そう言ったのはボンヘッファーでした。私たちはそれぞれ一人の人間として主に問われ、主に応え、主との関わりの中に生きるのです。そして、同時に私たちは一人ではなく交わりの中へと召されたのであり、聖霊によって一つとされることを求めていくのです。そのどちらが失われても、それは本来の姿とはならないのです。

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