2015年5月31日日曜日

「人間の罪深さよりも深い神の恵み深さ」

2015年5月31日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章22節~36節


 先週は聖霊降臨祭でした。聖霊降臨祭は今から約二千年前に教会が誕生したことの祝いであり、教会の宣教が開始されたことを覚えての祝祭です。教会の誕生の次第は使徒言行録2章の冒頭に次のように記されています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 この摩訶不思議な描写には聖書の強烈な主張が込められています。教会はただ人間の必要を満たすために人間が集まって作ったものではない、ということです。人間が始めたのではなく神が始めたのだと聖書は語っているのです。それは天から神の霊が降って、集まっていた弟子たちが聖霊に満たされたところから始まったのだ、と。

 始まりがあるからこそ今があります。あの時、教会が誕生したからこそ、今、ここにも教会があるのです。あの時、教会の宣教が開始したからこそ、遠いこの国にも教会が存在しているのです。始まりが聖霊によるならば、今もまた聖霊によるのです。今の時代にこの国に教会が存在するのは聖霊によるのです。

 しかし、聖霊は何の脈絡もなく天から注がれたのではありません。あの五旬祭に起こった出来事は、それだけで単独に語られ得る神秘体験の類いではありませんでした。聖霊の降臨にはそれまでの経緯があるのです。教会が誕生し、宣教が開始したのには、それまでの経緯があるのです。今日お読みした聖書箇所にはその経緯がペトロの口によって語られているのです。そして、そこにこそ聖霊が天から地上に注がれたことの意味、教会が誕生して今日に至るまで存在していることの意味がはっきりと表されているのです。

あなたがたは十字架につけて殺した
 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」(22節)。物音を聞いて集まってきた人々にペトロは呼びかけます。そして、イエス様のことから語り始めます。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」。

 ペトロはイエス様のおよそ三年半に渡る宣教活動を要約します。ペトロはここではイエス様の人となりについては語りません。イエス様がどれほど優れた教師であったということについても語りません。ただ一点に集中して語ります。神がこの御方を遣わされたということです。そして、神が超自然的な仕方でこの御方を通して働かれたということです。そのようにして、確かにこのナザレのイエスを神が遣わされたことをはっきりと示された。ペトロは何よりもそのことを語ります。

 しかし、人間はどうしたか。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(23節)とペトロは言います。神はイエスを遣わされた。それはもちろん救うためです。愛するためです。神が人間の方に愛をもって手を差し出された。手を伸ばされた。神はそのようにイエスを遣わされた。しかし、人間はそのイエスを十字架につけて殺してしまいました。

 イエスを十字架につけて殺してしまったのは、けっしてこの世の悪人でも、極悪非道な人たちでもありませんでした。むしろこの世において正しいと見なされる人たちでした。サドカイ派の人たちがいました。彼らは神殿祭司を中心とした一派でした。彼らは神殿に関わっているのです。祭儀に関わっているのです。彼らは伝統的な祭儀的な宗教の担い手でした。

 またそこにはファリサイ派の人たちがいました。彼らは生活のすべての領域に律法を適用して生きようとした真面目な人たちでした。律法を解釈し詳細な規則を遵守して生きようとしていた人たちでした。また、そこには熱心党の人たちがいました。ローマからの解放を求めて闘おうとしていた人たちがいました。彼らは抑圧された民衆のために命を献げようとしていた人たちです。

 あの日、ピラトの官邸の前に集まった多くの群衆もまた、そのような三通りに人たちの持っているいくばくかを共有している人たちでした。彼らの内にもまた多かれ少なかれ宗教的な伝統と儀式を重んじる敬虔さ、定められたことを遵守して生きようとする真面目さ、社会の不正に怒り、正義のために命をかけて闘おうとする情熱があったことでしょう。しかし、その彼らが叫んだのです。「十字架につけろ」と。神への敵対は、人間の真の罪深さは、必ずしもあからさまな悪として表に現れているわけではありません。むしろ、宗教性の中に、真面目さの中に、正義の主張の中に、この世においては賞賛されるもの、美しいものの中に隠れてしまっているのです。人間の内なる暗闇は必ずしも外からは見えません。

 しかし、その内にかくれた人間の罪深さがイエスとの出会いにおいて表に現れることとなりました。イエス様が来られることによって、外に吹き出したのです。神はイエスを遣わされた。人間はそのイエスを十字架にかけました。しかし、それは神にとって意外なことではありませんでした。ペトロは「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが」と言っているのです。この世に御子を遣わしたら人間は十字架につけることになるだろうということを神は分かっておられたというのです。「お定めになった計画により」と。

 神はイエスに対する憎しみとして怒りとして、殺意として、人間の罪が表に現れることを良しとされたのです。それはどんなに美しく装ったとしても内にあるのですから。人間とはこういうものなのだ、ということを明らかにされたのです。神はイエスを遣わされました。人間はそのイエスを十字架にかけました。

そのイエスを神は復活させられた
 しかし、「あなたがたは十字架につけて殺してしまったのです」というところでペトロの話は終わりませんでした。それはまだ、聖霊が注がれるまでの経緯の一部です。彼は続けます。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(24節)。

 その後に旧約聖書が引用されています。それをもって何が言いたいのか。旧約聖書において、既にキリストの復活について語られていた、ということです。「彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない」と。既に預言されていたということはどういうことですか。初めから神は十字架で終わらせるつもりはなかった、ということです。人間の罪深さが明らかにされて、それで終わりではないのです。神はなおも先に進めるつもりであったということです。

 「あなたがたは十字架につけて殺してしまったのです」。しかし、その「あなたがたは」で終わらないのです。人間がどうであるかということで全てが決まるのではありません。さらに「神は」と続くのです。人間の罪は神が遣わされたイエスを十字架にかけました。しかし、神はその御力をもってキリストを復活させられました。人間の内には確かに何をしてしまうか分からないものがあります。神の独り子をさえ十字架につけてしまうものがある。しかし、神がなされることは人間の罪がなしえることよりも大きいのです。神の恵み深さは、人間の罪深さより深いのです。キリストの復活において神はそのことをはっきり示してくださいました。

 そして、さらにこのように続きます。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(23節)。

 「聖霊を注いでくださいました」。その主語は誰ですか。イエスです。あの時、人間の手によって十字架にかけられたイエス様です。人間によって拒絶され殺されたイエス様です。そのイエス様が聖霊を注いでくださったのです。しかも、「御父から受けて注いでくださいました」と書かれているのです。その源は父なる神です。遣わした独り子を十字架にかけられるという仕方で、究極の仕方でその愛を拒絶されたあの父なる神です。その神が御子を通して聖霊を注いでくださったのです。「あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」とペトロは言っているのです。

 聖霊を注いでくださった。聖霊は神の霊です。内にいてくださる神の霊、共にいてくださる神の霊です。そして、上よりの力を与えてキリストの証人としてくださる神の霊です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と語られていたことが実現するのです。

 私たちの罪は、イエス様を十字架につけて殺しました。しかし、神はそれでもなお私たちと共にあろうとしてくださった。さらには、私たちを用いようとしていてくださる。キリストの証人とし、世界に向かって神の偉大な御業を語り伝える者にしてくださるのです。「あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」。そうです、私たちもその事実を見聞きしているのです。教会が誕生したとはそういうことです。宣教が開始したとはそういうことです。今ここに教会があるとはそういうことなのです。私たちもまたその事実を見聞きしているのです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。

2015年5月24日日曜日

「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」

2015年5月24日  ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章5節~13節


聖霊の満たしを
 今年も聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えました。毎年祝うこの日は今から約二千年前の教会の誕生、そして教会の宣教の開始を記念した祝祭です。教会がどのように誕生したのか、そして宣教の歴史がどのようにスタートしたのかは、使徒言行録2章に記されています。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 そこには大変不思議なことが書かれていました。明らかに私たちの日常の経験とはかけ離れています。しかし、毎年、聖霊降臨祭にはこの箇所が読まれます。そこには私たちが毎年思い起こさなくてはならない大切なことが書かれているからです。それは教会が神の霊の働きによって始まったということです。教会の宣教は聖霊のお働きなのです。教会が今日に至るまで、しかもエルサレムから遠く離れた日本にまで存在しているのは、聖霊のお働きなのです。ただ人間の知恵と力によるのではないのです。ただ人間の営みによるのではないのです。神は今この時代においても生きて働いておられます。聖霊は今もなお変わることなく働いておられるのです。

 教会はあの時弟子たちが聖霊に満たされたところから始まりました。ならば大切なことは、あの時弟子たちが聖霊に満たされたように、私たち自身もまた聖霊に満たされることなのでしょう。聖霊に満たされるために必要なことは、ただ求めることです。今日の福音書朗読の中で、イエス様がこう言っておられました。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。

 そうです。必要なことは求めることです。私たちの信仰生活においても、教会を形づくることにおいても、往々にして欠けているのは努力ではないのです。頑張りでもないのです。求めることなのです。恐らく頑張り過ぎるくらい頑張っているのです。努力は十分なのです。それでも上手くいかない時に、「ガンバレ、ガンバレ」と言って思うようにならない自分を鞭打っても仕方ないのです。本当に欠けているのは求めることだからです。

 ですから、イエス様はもっと頑張れと言っているのではなく、求めるようにと励ましていてくださるのです。主は言われました。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。今日の説教題はここから取りました。今年の聖霊降臨祭においては、このイエス様の励ましの言葉をしっかり受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。

求めなさい
 イエス様は「求めなさい」と言われました。しかし、これは一回求めてそれで終わり、という意味合いではありません。イエス様が用いているのは継続を意味する表現です。「求めていなさい」あるいは「求め続けなさい」という意味です。それはその直前のたとえ話からも分かります。真夜中に友人の家に行きパン三つを求め続けた人の話をイエス様はなさったのです。その他のところでも、イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを教えています(18:1)。

 どうして、イエス様はこのようなたとえ話をされたのでしょう。それは求め続けるということが現実には難しいからです。もしそれが容易なことならば、イエス様がそんなことを言わなくても人は求めるでしょうし、求め続けるのです。ここにいる私たちも、あえて「ここから新たに求め始めましょう」などと言わなくても、求め続けているはずなのです。しかし、現実にはそういきません。真剣に祈り求めたことのある人は知っています。祈り求めることを阻むようなことが時として起こるということを。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエス様は言われます。しかし、時として「求めても与えられないではないか」と思えるようなこともあるのです。このたとえ話のように「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と言われているかのように感じることがあるのです。拒絶されているように思えるようなことが起こるのです。信じたのに裏切られたように感じるようなこと、信じたのに騙されたように感じるような出来事に直面することは時としてあるのです。

 もちろん、求めて与えられるということもまた私たちの祈りの経験ではあります。求めて与えられる時、私たちの心は喜びで満たされます。しかし、祈りにおいて失望や落胆を経験する時、もはやかつて求めて与えられたことなど、すっかり忘れ去られているのです。

 そのように失望と落胆は祈りを遠ざけます。それゆえにイエス様はわざわざこの話をなさって「求め続けなさい」と言われたのです。そして、人間の経験には失望や落胆がいくらでもあることを重々承知に上で、なおもこう言われたのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と。そう言って求め続けるよう、励ましていてくださるのです。

探しなさい。門をたたきなさい
 それゆえにまた、イエス様はさらにこう続けられたのでした。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。かつて預言者エレミヤは言いました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。

 求めにおいて失望落胆する時、拒絶を感じる時、神がどのような御方であるか見えなくなってくるのでしょう。その意味において、神に求め続けることは大事ですが、神を尋ね求め続けることはもっと大事なことです。

 イエス様はその御方を「天の父」と呼ばれました。そして、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」と言われました。 子供たちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父、その天の父を探すのです。尋ね求めるのです。そうするならば「見いだす」とかつてエレミヤを通して語られ、そして、父を本当の意味で知る独り子もまた「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われたのです。

 そして、さらにイエス様は「門をたたく者には開かれる」と言われました。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。閉ざされた扉を開いてくださる。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉が、向こう側から開かれるのです。イエス様は言われるのです。こちらのすべきことはたたくこと。たたき続けること。扉をこじ開けることができなくても、たたき続けることならばだれでもできます。

 そのように、だれでもできることを信じて続けたらよいのです。尋ね求めて、見いだすべき御方を見いだしたなら、それができるのでしょう。良きものを与えてくださる天の父を見いだしたなら、諦めないで、「こんなことして何になる」などと言わないで、安心してたたき続けることができるのでしょう。

一つになって
 そのように、イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。そして、弟子たちに何よりも求め続けて欲しかったのは聖霊に満たされることだったのでしょう。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と主は言われたのです。

 だから弟子たちは求め続けたのです。さらに言うならば、彼らは一つとなって求め続けたのでした。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…」(使徒言行録2:1)と書かれていたとおりです。そして、「すると、一同は聖霊に満たされ」と書かれているのです。

 かつて「誰が一番偉いのか」と競い合い、争っていたあの弟子たちもまた、一つになって集まっていたのです。それはある意味では当然のことでしょう。人間の姿にしか目がいかなければ、人間が行うことにしか目が向かなければ、互いの違いばかりが気になります。互いを比較し、あるいは互いを批判しあい、互いを斥け合うことも起こります。共に聖霊を求めるならば、共に神のなさることを求めるならば、そこで初めて一同は一つになることができるのでしょう。

 そのようにして、弟子たちが共に聖霊を求め、聖霊に満たされることによって教会は始まりました。その教会が、試練と迫害の中にあっても常に「良きものを与えてくださる天の父」を常に見いだし、門をたたきつづけ、そして、その御方によって開かれ得ないと思われた扉が次々に開かれていった。それが使徒言行録の伝える教会の歩みです。そして、その教会の歴史の中に、ここにいる私たちもまた集められているのです。

 私たちも共に、この時代に生きて働いておられる神の御業に思いを向けましょう。今も生きて働いておられる神の霊に満たされることを共に求めましょう。求め続けましょう。主は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉をしっかりと受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。

2015年5月17日日曜日

「キリストによって招かれて、キリストによって遣わされる」

2015年5月17日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章16節~20節


キリストによって招かれて
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。イエス様が十字架にかけられて死んだ後、自分たちも同じ目に遭わないようにと逃げ隠れしていたあの弟子たちに、イエス様は婦人たちを遣わして言われたのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

 もはや「わたしはイエスの兄弟である」などと口が裂けても言えない弟子たちなのでしょう。弟子であることを自らの行動で否定してしまったのですから。イエス様に会わせる顔もない。しかし、イエス様はそんな彼らを弟子として見ていてくださいました。「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、彼らの兄弟としてガリラヤで待っていてくださると言うのです。彼らをみもとに招いていてくださるのです。「そこでわたしに会うことになる」と。

 だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。ただイエス様に会いたいからではありません。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が弟子たちとして迎えてくださるから。イエス様が計り知れない赦しをもって兄弟として迎えてくださるから。

 イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)。彼らはイエス様にまみえることができただけでなく、そこには彼らが「ひれ伏した」と書かれています。それは「礼拝した」という言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となったのです。

 イエス様が招いてくださった山において礼拝している十一人の弟子たち。そこに見るのは教会の姿です。ここにいる私たちの姿です。招いてくだっているのは復活されたキリストです。私たちの罪のために十字架にかかられ、私たちが義とされるために復活されたキリストです。その御方によってまことに弟子に相応しくないような者たちが礼拝の山へと招かれている――それが教会です。

 しかし、そこにはまた小さくこう書き添えられています。「しかし、疑う者もいた」。「疑う者もいた」というのは一つの意訳です。そこには「彼らは疑った」と書かれているのです。ですから、礼拝をしていながら全員がいくばくかの不信仰を抱えていた、と見ることもできるのです。

 いずれにせよ、彼らの中には信仰と不信仰が混在していたということです。彼らの礼拝の中には不信仰と疑いがあったのです。それはとてもよく分かります。私たちの礼拝もまたそうですから。ここには信仰があり不信仰がある。しかし、キリストはその不信仰のゆえに彼らから離れたかというと、そうではありませんでした。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)と書かれているのです。イエス様は近づいてきてくださる。不信仰のあるところに近づいてきてくださるのです。そして、彼らの疑いと不信仰について語られたのではなく、御自分について語られたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。

 そして、「天と地の一切の権能を授かっている」御方が最終的に信仰と不信仰が混在する彼らに対してこう言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。「いつも」というのは「すべての日々」という言葉です。昨日も今日も明日も、ということです。礼拝を捧げている時だけではありません。明日も明後日もその次の日も。いつまでですか?「世の終わりまで」です。ここに語られているのは、まさにあの弟子たちもまたここにいる私たちも受けるに値しない恵みです。礼拝へと招いてくださる復活の主の恵みです。

キリストによって遣わされる
 そして、今日朗読された箇所においては、ちょうどその恵みに包み込まれるようにして、主が弟子たちに命じられる言葉が語られているのです。それはしばしば「大宣教命令」と呼ばれます。19節以下をお読みします。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19‐20節)。

 主は礼拝の山に招いてくださいました。その御方は、そこから弟子たちを遣わされます。「あなたがたは行きなさい」と。何のために?「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と主は言われるのです。これがイエス様の命じられた言葉の中心です。

 イエス様はすべての民がイエス様の弟子となることを望んでおられます。それはとてつもない話のように思えます。しかし、代々の教会はその言葉を文字通りに受け止めてきたのです。だから極東の日本にまで教会があるのです。ここまで伝えられてきたのです。

 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。その具体的な内容は「洗礼を授けること」と「教えること」でした。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。

 イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われます。教会が洗礼を授けることを主は望んでおられます。すべての民が洗礼を受けることを主は望んでおられます。信仰をもって生きる上で洗礼が必要であるか、あるいは必要でないか。そのような話題を耳にすることがあります。しかし、大して意味ある話題とは思えません。洗礼を授けることはイエス様御自身が命じておられることだからです。イエス様は教会が洗礼を代々に渡って全ての国々において授けられることを望まれたのです。

 洗礼についてはパウロが次のように語っています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3‐4)。

 洗礼において何が起こるのか。「洗礼によってキリストと共に葬られ」とあります。誰によって葬られるのですか。神様です。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのようにそれまでの自分が死んだ者とされ、葬られるのは何のためでしょう。「新しい命に生きるため」なのだ、とパウロは言うのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味で洗礼は新しい自分の誕生の式でもあります。

 この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。その子はこの世での生活の仕方を覚えていくことでしょう。同じように、霊的に新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方、イエス様が見せてくださった天の父と共に生きる生活の仕方、イエス様の弟子として、また兄弟として生きる生活の仕方を伝えられねばなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。

 主は言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。実際、このマタイによる福音書は、そのようにイエス様が教えられたことを伝えるために書かれたと言っても良いでしょう。また、パウロの手紙などにおいても具体的な信仰生活に関する勧めが書かれているのも、そのような理由です。イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。その言葉を二千年の時を経て、私たちもまたここにおいて聞いております。最初に「だから」という言葉があります。この命令が意味を持つのは、その御方が「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるからです。そうでなければ「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は意味を持ちません。それこそ他の民のところにまで行って「イエス様の弟子になるように」と伝えることは余計なお世話でしかないでしょう。

 しかし、あの御方は「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるのです。その御方はいかなる意味においても相対化できない存在だということです。そのような御方を私たちは礼拝し、そのような御方の語りかけを聞いて、そのような御方によってこの世に遣わされるのです。そのことを本気で信じているのでしょうか。確かに代々の教会がそのことを信じてきたからこそ、今の私たちがここにいるのです。私たちはどうなのでしょう。

 その意味においても、私たちが礼拝するこの礼拝の山には、信仰と不信仰が混在しているのでしょう。しかし、それでもイエス様は私たちに近寄ってきてくださいます。ここに招いてくださった御方は、私たちに近づいてきてくださいます。そして、なおもここから私たちを遣わしてくださるのです。「行きなさい」と言って。礼拝の最後が「派遣」となってとはそういうことです。そして、主は私たちにも約束してくださるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

2015年5月10日日曜日

「信じるだけで十分です」

2015年5月10日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書7章1節~10節


そうしていただく資格があります
 今日お読みしましたのは、カファルナウムにおける出来事です。登場するのは「百人隊長」です。ガリラヤに駐留していたローマ軍の下士官です。その彼についてこう書かれていました。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(2‐3節)と書かれています。ここに彼の人となりがよく現れています。

 「重んじられている部下」とありますが、これは「彼にとって大切な奴隷」というのが直訳です。もしかしたら家の奴隷の話かもしれません。7節では「僕」と訳されています。それが家の奴隷であれ、あるいは軍隊の部下であれ、いずれにせよ彼はその人を一人の人間として大切にしていたことが伺えます。その僕が病気になったとき、彼はイエスの助けを求めたのです。ローマの軍人が占領下にあるユダヤ人の一人に助けを求めたのです。自分のためではなく僕の癒しのために。

 しかもその際に、彼は自分の部下を送ったのではなく、ユダヤ人の長老たちに取り次ぎお願いしたのです。「ユダヤ人の長老たちを使いにやって」という表現になっていますが、内容的にはローマ人である百人隊長がユダヤ人の長老たちに頭を下げてイエスとの仲立ちをお願いしたということでしょう。そこで、頼まれた長老たちは頼まれた以上のことをするのです。そのローマの軍人のためにイエス様に熱心に願うのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4‐5節)。

 「自ら会堂を建ててくれたのです」とありますが、それは単に会堂建築の費用をまかなってくれたという話ではありません。ただお金を出してくれたぐらいで、ユダヤ人が異邦人について「そうしていただくのにふさわしい人」などと言うことはないのです。ユダヤ人はローマ人を汚れた「犬」と呼び、ローマ人はユダヤ人を被占領民族として見下していたような社会です。しかし、そのような中にあって、この百人隊長はまさに「そうしていただくのにふさわしい人」と言われているのです。ただ会堂建ててくれただけでなく、その人となり、その人の生活、すべてが評価されていたということなのでしょう。もしかしたら使徒言行録に出て来るコルネリウス(使徒10:1)のように、自ら会堂に出入りし、律法を学び、主なる神を愛する「神を畏れる人々」の一人だったのかもしれません。

 先ほどお読みしたように、百人隊長が願ったのは「部下を助けに来てくださるように」ということでした。そう長老たちに言付けたのです。しかし、当然のことながら、そこで本当に求めているのは神の癒しです。長老たちもそれは分かっているはずです。ですから、ここで「ふさわしい人」というのは、神に願いを聞き入れられるのにふさわしい人という意味合いでもあるのです。さらに言うならばそれは「資格がある」という言葉です。恩恵にあずかる「資格がある」と言われているのです。なるほど、彼の人となりを考えるならば、長老たちの言葉にもうなずけます。

資格があるからではなく
 実際、私たちがその場にいても同じことを言ったかもしれません。それは通常私たちが考えていることでもあるのでしょう。わたしに神に何かを願う資格があるか。資格がないか。神に何かをしていただく資格があるか。資格がないか。――ところが、この物語では百人隊長がそのように人間性においても生き方においても《資格があるから》神は願いを聞き入れて僕を癒したという話になっていないのです。

 話は次のように続きます。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』」(6‐7節)。

 ユダヤ人の長老たちは百人隊長について「ふさわしい人、資格のある人」と言いましたが、この百人隊長自身は「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言うのです。百人隊長自身は自らを「ふさわしくない、資格がない」と言うのです。屋根の下に迎えられない。お伺いするのもふさわしくない。そう彼は言います。イエス様が単なる有能な医者だったら彼はそう言わなかったかもしれません。しかし、そこに働いているのは神であることを知っているのです。それゆえに、彼はふさわしくないと言うのです。

 しかし、「ふさわしくない」と言う彼が、この物語においてイエス様から異例とも言える言葉をもって賞賛されるのです。明らかにこの物語の中心はそこにあるのです。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」(9節)。この言葉から分かるように、イエス様が賞賛しているのは、彼の人となりでも行動でもないのです。「ふさわしくない」というへりくだった姿ですらないのです。そうではなくてイエス様が賞賛しているのは彼の「信仰」なのです。

 ではイエス様はどこに彼の「信仰」を見たのでしょう。彼はこう言いました。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。そこに言い表されているのは、イエス様の語られる言葉に対する信頼です。イエス様が語られるならば、その言葉は必ず事を成すと信じているのです。なぜでしょうか。彼がそう言った理由は次のように説明されています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8節)。

 彼は「言葉」の背後にある「権威」について語っているのです。イエス様の言葉が事を成すとするならば、そこに「権威」が伴っているからです。それは言うまでもなく神の権威です。言い換えるならば、イエス様は「神の言葉」を語っておられるということです。

 そのことについて、ヨハネによる福音書は次のようなイエス様の言葉を伝えています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14:10‐11)。今日の箇所でルカが伝えているのは、イエス様がそう言ったとおりにした人がいたという話です。要するに、先に信仰へと招かれていたはずのユダヤ人が信じない中で、それを信じたのが異邦人であったあの百人隊長だったということなのです。

ただ信仰によって
 事を成し遂げられる権威ある神の言葉ということで思い起こされるのは聖書の最初に書かれている物語です。天地創造の物語です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)。そのように神の言葉によって、この世界が一つ一つ形づくられていくという物語です。

 この素朴な物語が教えているのは、今日の私たちにとっても極めて重要な事柄です。神はそれまでになかったものを創り出されるということです。無から有を創り出されるということです。過去を前提とせず現在と未来を創り出されるということです。それまでが暗闇であるならば、これからもずっと暗闇であろうと私たちは考えるかもしれません。しかし、神が「光あれ」と言われるならば、それまでになかった光がもたらされるのです。神は人間が想像することができないような新しいことをなされるのです。

 そのような神の言葉が、全く新しいことをなされる神の言葉が、イエス・キリストを通してこの世界に与えられたのです。私たちが救われるとするならば、それは天地創造がそうであったように、それまでの私たちを前提としたことではなく、全く新しい神の創造の御業です。そのような神の言葉がこの世界に与えられたのです。そして、今もイエス・キリストが宣べ伝えられ、神の言葉が宣べ伝えられているのです。神は今も御言葉によって、この世界に、私たちの人生に、新しい創造が起こるのです。そこにおいて私たちに求められているのは信仰なのです。この百人隊長がそうであったように、ただ信じることなのです。

 そのことについてパウロも次のように語っているとおりです。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(1テサロニケ2:13)。

 私たちはどうしても先に「ふさわしい」あるいは「ふさわしくない」といったこちら側の事柄に目が行ってしまいます。しかし、本当に重要なのは向こう側から来るものをどう受け取るかということなのでしょう。必要とされているのは神の言葉への信頼です。イエス様はこの百人隊長の信仰を賞賛されました。しかし、それをあえて人々に聞こえるように語られたのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と言っていた人たちにも聞こえるようにこう言われたのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。本当に目を向けるべきところはどこにあるのか、主は彼らに、そしてここにいる私たちに指し示しておられるのです。

2015年5月3日日曜日

「キリストの喜びが共に」

2015年5月3日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章11節~17節


あなたがたを友と呼ぶ
 イエス様は弟子たちに言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。イエス様は弟子たちに対して心の内にあったものを全て開いて示されました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われた主は、人がその友に心を開くように、弟子たちにその心を開いて語られたのです。

 イエス様の心の内にあったのは「父から聞いたこと」でした。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と主は言われました。それは父なる神から聞いたこの世の救いの計画でした。この世が救われるためにイエス様が十字架にかからなくてはならないことでした。世の罪が赦されるために「世の罪を取り除く神の小羊」」として死ななくてはならないことでした。そのようにして多くの実を結ぶために「一粒の麦」として地に落ちて死ななくてはならないことでした。イエス様は御自身に関わるすべてを弟子たちに語られました。そう、友として。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」。だから主は言われるのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。

 あの弟子たちに語られた言葉が、代々の教会によって伝えられてきました。それは、代々の教会もまた、このイエス様の御言葉を、自らへの語りかけとして聞いてきたからに他なりません。父の救いの計画が私たちにも伝えられた。イエス様の十字架の意味が私たちにも伝えられた。それはとりもなおさず、イエス様が私たちを友と見てくださった、ということなのだ。そのように、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という語りかけを、福音が宣べ伝えられたという事実の中に聞いてきたのです。

 その言葉を私たちもまた聞いています。私たちがこうして毎週呼び集められていること、私たちにキリストの福音が宣べ伝えられていること、私たちがあの弟子たちと同じように主の食卓の周りにいて御言葉を聞いていること――それらすべては、私たちがキリストの友とされていることの目に見えるしるしです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と主は私たちにも語っておられるのです。

あなたがたのために命を捨てた
 そして、細かいことですが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と訳されていますが、意味合いとしては「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」という表現が使われているのです。既に友と呼んでいるのです。その前に書かれている13節、14節の御言葉もまた、既に友と呼ばれている者に対して語られている言葉です。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエス様は愛についての一般論を語っているのではありません。これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉なのです。イエス様はまさに「友のために」命を捨てようとしておられたのです。そのようなイエス様の言葉です。「これ以上に大きな愛はない」とはどういうことですか。これ以上愛しようがないということでしょう。イエス様は友をこれ以上愛しようがないほどに愛されたのです。そして、イエス様は言われたのです。「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」。――あなたがたこそ、わたしが愛している友、命を捨てるほどに愛している友なのだ、と。

 そしてその翌日、弟子たちはイエス様が十字架にかけられた姿を見ることになりました。さらに、やがて十字架の意味を知ることになりました。イエス様が心開いて語ってくださった父のご計画を本当の意味で知ることになりました。その時に、あたかも外から眺めるかのように、「イエス・キリストは全人類の罪のために死んだのだ」と言えなかったことは明らかです。言えるわけないでしょう。「あなたがたはわたしの友だ」と言われてしまったのですから。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われてしまったのですから。キリストの十字架の出来事は、自分に対する直接的な語りかけとして聞かざるを得なかったはずなのです。「友よ、わたしはあなたのために命を捨てた。これ以上愛しようがないほどにあなたを愛しているから。あなたはわたしの友だから」と。

あなたがたは友である
 そして主はさらにこう言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。イエス様の命じることとは、12節と17節に語られていることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。つまり、「あなたがたが互いに愛し合うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われたのです。

 「友と呼ぶ」ことは一方通行でも成り立ちます。友としてかかわることも、友として心を打ち明けることも、一方通行でも成り立ちます。仮に相手が友達だと思っていなくても、こちらが友達として接することは可能でしょう。しかし、友達同士という関係は、一方通行では成り立ちません。友としての交わりは、一方通行では成り立たないのです。わたしが誰かを「友と呼ぶ」ことと、その人が本当に友であるかどうかは、別な話です。その人は友だちだと思っていないかもしれませんから。

 イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。ならば、私たちも本当の意味でイエス様の「友」になりたい。イエス様も、ただ一方的に友と呼ぶだけでなく、私たちが本当に友であって欲しいと願っておられるのです。

 イエス様の友であるとはどういうことでしょう。イエス様を愛するということでしょう。イエス様が私たちを友として愛してくださった。その愛に応えて私たちもイエス様を愛することでしょう。それがイエス様の友であり、イエス様の友として生きるということであるに違いありません。ではどのようにしてイエス様を愛するのか。イエス様が願っていることを行うことによってです。相手の願いに無頓着であるなら、本当の友とは言えません。では、イエス様は何を望んでおられるのか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そう主は言われるのです。そのようにして、私たちはイエス様の友として生きるのです。

あなたがたが実を結ぶために
 そして、私たちがイエス様の友とされ、イエス様の友として生きるということは、ただ私たち自身にのみ関わることではないのです。主はこう言われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 イエス様の関心は、ここにいる私たちに対してだけでなく、広くこの世界に向けられています。イエス様は私たちがこの世界に出て行って実を結ぶことを望んでおられます。そのために私たちを友としてくださり、またイエス様の御名によって父に祈ることができるようにもしてくださったのです。出て行って、実を結ぶためです。

 「わたしには何もできません。わたしはそのような者ではありません」などと言う必要はありません。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とイエス様は言われるのですから。「そんなあなたをわたしは選んだのだ。そんなあなたを友にしたいと思ったのだ」と言われるのです。わたしたちに能力があるかないか、関係ありません。わたしたちが強いか弱いか、関係ありません。わたしたちが若いか年老いているか、関係ありません。男か女か、関係ありません。わたしがイエス様を友にしたのではなく、イエス様が私たちを友と呼んでくださったのです。わたしたちが実を結ぶために!

わたしの喜びがあなたがたの内にあるように
 さて、これらのことを語られたのは、先にも述べましたように、最後の晩餐においてでした。イエス様は間もなく自分が捕らえられることを知っていました。弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまうことを知っていました。見捨てられた者として、不当な裁きを受け、鞭打たれ、辱められ、十字架にかけられて殺されることを知っているのです。しかし、イエス様は悲しみながらこれらのことを語っておられるのではありません。そうではなくて、大きな喜びをもって弟子たちに語っておられるのです。今日の朗読の冒頭はこのような言葉でした。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。

 そう、確かにイエス様は「わたしの喜び」について語っておられるのです。人々の憎しみも敵意も裏切りも、そして迫って来る死の力さえも、イエス様の喜びを奪うことはできませんでした。いや、イエス様は喜びを失わなかったどころか、それを弟子たちにも与えようとしておられたのです。「あなたがたの喜びが満たされるために」と。

 イエス様は弟子たちもまた奪われることのない喜びに生きて欲しいと願われました。満ち溢れる喜びに生きて欲しいと願われました。なぜですか。イエス様の友だから。イエス様はそのように、私たちにもイエス様の喜びが宿るように、喜びが満ちるようにと願っておられます。イエス様の友だから。

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