2015年5月17日日曜日

「キリストによって招かれて、キリストによって遣わされる」

2015年5月17日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章16節~20節


キリストによって招かれて
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。イエス様が十字架にかけられて死んだ後、自分たちも同じ目に遭わないようにと逃げ隠れしていたあの弟子たちに、イエス様は婦人たちを遣わして言われたのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

 もはや「わたしはイエスの兄弟である」などと口が裂けても言えない弟子たちなのでしょう。弟子であることを自らの行動で否定してしまったのですから。イエス様に会わせる顔もない。しかし、イエス様はそんな彼らを弟子として見ていてくださいました。「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、彼らの兄弟としてガリラヤで待っていてくださると言うのです。彼らをみもとに招いていてくださるのです。「そこでわたしに会うことになる」と。

 だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。ただイエス様に会いたいからではありません。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が弟子たちとして迎えてくださるから。イエス様が計り知れない赦しをもって兄弟として迎えてくださるから。

 イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)。彼らはイエス様にまみえることができただけでなく、そこには彼らが「ひれ伏した」と書かれています。それは「礼拝した」という言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となったのです。

 イエス様が招いてくださった山において礼拝している十一人の弟子たち。そこに見るのは教会の姿です。ここにいる私たちの姿です。招いてくだっているのは復活されたキリストです。私たちの罪のために十字架にかかられ、私たちが義とされるために復活されたキリストです。その御方によってまことに弟子に相応しくないような者たちが礼拝の山へと招かれている――それが教会です。

 しかし、そこにはまた小さくこう書き添えられています。「しかし、疑う者もいた」。「疑う者もいた」というのは一つの意訳です。そこには「彼らは疑った」と書かれているのです。ですから、礼拝をしていながら全員がいくばくかの不信仰を抱えていた、と見ることもできるのです。

 いずれにせよ、彼らの中には信仰と不信仰が混在していたということです。彼らの礼拝の中には不信仰と疑いがあったのです。それはとてもよく分かります。私たちの礼拝もまたそうですから。ここには信仰があり不信仰がある。しかし、キリストはその不信仰のゆえに彼らから離れたかというと、そうではありませんでした。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)と書かれているのです。イエス様は近づいてきてくださる。不信仰のあるところに近づいてきてくださるのです。そして、彼らの疑いと不信仰について語られたのではなく、御自分について語られたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。

 そして、「天と地の一切の権能を授かっている」御方が最終的に信仰と不信仰が混在する彼らに対してこう言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。「いつも」というのは「すべての日々」という言葉です。昨日も今日も明日も、ということです。礼拝を捧げている時だけではありません。明日も明後日もその次の日も。いつまでですか?「世の終わりまで」です。ここに語られているのは、まさにあの弟子たちもまたここにいる私たちも受けるに値しない恵みです。礼拝へと招いてくださる復活の主の恵みです。

キリストによって遣わされる
 そして、今日朗読された箇所においては、ちょうどその恵みに包み込まれるようにして、主が弟子たちに命じられる言葉が語られているのです。それはしばしば「大宣教命令」と呼ばれます。19節以下をお読みします。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19‐20節)。

 主は礼拝の山に招いてくださいました。その御方は、そこから弟子たちを遣わされます。「あなたがたは行きなさい」と。何のために?「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と主は言われるのです。これがイエス様の命じられた言葉の中心です。

 イエス様はすべての民がイエス様の弟子となることを望んでおられます。それはとてつもない話のように思えます。しかし、代々の教会はその言葉を文字通りに受け止めてきたのです。だから極東の日本にまで教会があるのです。ここまで伝えられてきたのです。

 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。その具体的な内容は「洗礼を授けること」と「教えること」でした。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。

 イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われます。教会が洗礼を授けることを主は望んでおられます。すべての民が洗礼を受けることを主は望んでおられます。信仰をもって生きる上で洗礼が必要であるか、あるいは必要でないか。そのような話題を耳にすることがあります。しかし、大して意味ある話題とは思えません。洗礼を授けることはイエス様御自身が命じておられることだからです。イエス様は教会が洗礼を代々に渡って全ての国々において授けられることを望まれたのです。

 洗礼についてはパウロが次のように語っています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3‐4)。

 洗礼において何が起こるのか。「洗礼によってキリストと共に葬られ」とあります。誰によって葬られるのですか。神様です。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのようにそれまでの自分が死んだ者とされ、葬られるのは何のためでしょう。「新しい命に生きるため」なのだ、とパウロは言うのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味で洗礼は新しい自分の誕生の式でもあります。

 この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。その子はこの世での生活の仕方を覚えていくことでしょう。同じように、霊的に新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方、イエス様が見せてくださった天の父と共に生きる生活の仕方、イエス様の弟子として、また兄弟として生きる生活の仕方を伝えられねばなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。

 主は言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。実際、このマタイによる福音書は、そのようにイエス様が教えられたことを伝えるために書かれたと言っても良いでしょう。また、パウロの手紙などにおいても具体的な信仰生活に関する勧めが書かれているのも、そのような理由です。イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。その言葉を二千年の時を経て、私たちもまたここにおいて聞いております。最初に「だから」という言葉があります。この命令が意味を持つのは、その御方が「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるからです。そうでなければ「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は意味を持ちません。それこそ他の民のところにまで行って「イエス様の弟子になるように」と伝えることは余計なお世話でしかないでしょう。

 しかし、あの御方は「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるのです。その御方はいかなる意味においても相対化できない存在だということです。そのような御方を私たちは礼拝し、そのような御方の語りかけを聞いて、そのような御方によってこの世に遣わされるのです。そのことを本気で信じているのでしょうか。確かに代々の教会がそのことを信じてきたからこそ、今の私たちがここにいるのです。私たちはどうなのでしょう。

 その意味においても、私たちが礼拝するこの礼拝の山には、信仰と不信仰が混在しているのでしょう。しかし、それでもイエス様は私たちに近寄ってきてくださいます。ここに招いてくださった御方は、私たちに近づいてきてくださいます。そして、なおもここから私たちを遣わしてくださるのです。「行きなさい」と言って。礼拝の最後が「派遣」となってとはそういうことです。そして、主は私たちにも約束してくださるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

2015年5月10日日曜日

「信じるだけで十分です」

2015年5月10日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書7章1節~10節


そうしていただく資格があります
 今日お読みしましたのは、カファルナウムにおける出来事です。登場するのは「百人隊長」です。ガリラヤに駐留していたローマ軍の下士官です。その彼についてこう書かれていました。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(2‐3節)と書かれています。ここに彼の人となりがよく現れています。

 「重んじられている部下」とありますが、これは「彼にとって大切な奴隷」というのが直訳です。もしかしたら家の奴隷の話かもしれません。7節では「僕」と訳されています。それが家の奴隷であれ、あるいは軍隊の部下であれ、いずれにせよ彼はその人を一人の人間として大切にしていたことが伺えます。その僕が病気になったとき、彼はイエスの助けを求めたのです。ローマの軍人が占領下にあるユダヤ人の一人に助けを求めたのです。自分のためではなく僕の癒しのために。

 しかもその際に、彼は自分の部下を送ったのではなく、ユダヤ人の長老たちに取り次ぎお願いしたのです。「ユダヤ人の長老たちを使いにやって」という表現になっていますが、内容的にはローマ人である百人隊長がユダヤ人の長老たちに頭を下げてイエスとの仲立ちをお願いしたということでしょう。そこで、頼まれた長老たちは頼まれた以上のことをするのです。そのローマの軍人のためにイエス様に熱心に願うのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4‐5節)。

 「自ら会堂を建ててくれたのです」とありますが、それは単に会堂建築の費用をまかなってくれたという話ではありません。ただお金を出してくれたぐらいで、ユダヤ人が異邦人について「そうしていただくのにふさわしい人」などと言うことはないのです。ユダヤ人はローマ人を汚れた「犬」と呼び、ローマ人はユダヤ人を被占領民族として見下していたような社会です。しかし、そのような中にあって、この百人隊長はまさに「そうしていただくのにふさわしい人」と言われているのです。ただ会堂建ててくれただけでなく、その人となり、その人の生活、すべてが評価されていたということなのでしょう。もしかしたら使徒言行録に出て来るコルネリウス(使徒10:1)のように、自ら会堂に出入りし、律法を学び、主なる神を愛する「神を畏れる人々」の一人だったのかもしれません。

 先ほどお読みしたように、百人隊長が願ったのは「部下を助けに来てくださるように」ということでした。そう長老たちに言付けたのです。しかし、当然のことながら、そこで本当に求めているのは神の癒しです。長老たちもそれは分かっているはずです。ですから、ここで「ふさわしい人」というのは、神に願いを聞き入れられるのにふさわしい人という意味合いでもあるのです。さらに言うならばそれは「資格がある」という言葉です。恩恵にあずかる「資格がある」と言われているのです。なるほど、彼の人となりを考えるならば、長老たちの言葉にもうなずけます。

資格があるからではなく
 実際、私たちがその場にいても同じことを言ったかもしれません。それは通常私たちが考えていることでもあるのでしょう。わたしに神に何かを願う資格があるか。資格がないか。神に何かをしていただく資格があるか。資格がないか。――ところが、この物語では百人隊長がそのように人間性においても生き方においても《資格があるから》神は願いを聞き入れて僕を癒したという話になっていないのです。

 話は次のように続きます。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』」(6‐7節)。

 ユダヤ人の長老たちは百人隊長について「ふさわしい人、資格のある人」と言いましたが、この百人隊長自身は「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言うのです。百人隊長自身は自らを「ふさわしくない、資格がない」と言うのです。屋根の下に迎えられない。お伺いするのもふさわしくない。そう彼は言います。イエス様が単なる有能な医者だったら彼はそう言わなかったかもしれません。しかし、そこに働いているのは神であることを知っているのです。それゆえに、彼はふさわしくないと言うのです。

 しかし、「ふさわしくない」と言う彼が、この物語においてイエス様から異例とも言える言葉をもって賞賛されるのです。明らかにこの物語の中心はそこにあるのです。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」(9節)。この言葉から分かるように、イエス様が賞賛しているのは、彼の人となりでも行動でもないのです。「ふさわしくない」というへりくだった姿ですらないのです。そうではなくてイエス様が賞賛しているのは彼の「信仰」なのです。

 ではイエス様はどこに彼の「信仰」を見たのでしょう。彼はこう言いました。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。そこに言い表されているのは、イエス様の語られる言葉に対する信頼です。イエス様が語られるならば、その言葉は必ず事を成すと信じているのです。なぜでしょうか。彼がそう言った理由は次のように説明されています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8節)。

 彼は「言葉」の背後にある「権威」について語っているのです。イエス様の言葉が事を成すとするならば、そこに「権威」が伴っているからです。それは言うまでもなく神の権威です。言い換えるならば、イエス様は「神の言葉」を語っておられるということです。

 そのことについて、ヨハネによる福音書は次のようなイエス様の言葉を伝えています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14:10‐11)。今日の箇所でルカが伝えているのは、イエス様がそう言ったとおりにした人がいたという話です。要するに、先に信仰へと招かれていたはずのユダヤ人が信じない中で、それを信じたのが異邦人であったあの百人隊長だったということなのです。

ただ信仰によって
 事を成し遂げられる権威ある神の言葉ということで思い起こされるのは聖書の最初に書かれている物語です。天地創造の物語です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)。そのように神の言葉によって、この世界が一つ一つ形づくられていくという物語です。

 この素朴な物語が教えているのは、今日の私たちにとっても極めて重要な事柄です。神はそれまでになかったものを創り出されるということです。無から有を創り出されるということです。過去を前提とせず現在と未来を創り出されるということです。それまでが暗闇であるならば、これからもずっと暗闇であろうと私たちは考えるかもしれません。しかし、神が「光あれ」と言われるならば、それまでになかった光がもたらされるのです。神は人間が想像することができないような新しいことをなされるのです。

 そのような神の言葉が、全く新しいことをなされる神の言葉が、イエス・キリストを通してこの世界に与えられたのです。私たちが救われるとするならば、それは天地創造がそうであったように、それまでの私たちを前提としたことではなく、全く新しい神の創造の御業です。そのような神の言葉がこの世界に与えられたのです。そして、今もイエス・キリストが宣べ伝えられ、神の言葉が宣べ伝えられているのです。神は今も御言葉によって、この世界に、私たちの人生に、新しい創造が起こるのです。そこにおいて私たちに求められているのは信仰なのです。この百人隊長がそうであったように、ただ信じることなのです。

 そのことについてパウロも次のように語っているとおりです。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(1テサロニケ2:13)。

 私たちはどうしても先に「ふさわしい」あるいは「ふさわしくない」といったこちら側の事柄に目が行ってしまいます。しかし、本当に重要なのは向こう側から来るものをどう受け取るかということなのでしょう。必要とされているのは神の言葉への信頼です。イエス様はこの百人隊長の信仰を賞賛されました。しかし、それをあえて人々に聞こえるように語られたのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と言っていた人たちにも聞こえるようにこう言われたのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。本当に目を向けるべきところはどこにあるのか、主は彼らに、そしてここにいる私たちに指し示しておられるのです。

2015年5月3日日曜日

「キリストの喜びが共に」

2015年5月3日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章11節~17節


あなたがたを友と呼ぶ
 イエス様は弟子たちに言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。イエス様は弟子たちに対して心の内にあったものを全て開いて示されました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われた主は、人がその友に心を開くように、弟子たちにその心を開いて語られたのです。

 イエス様の心の内にあったのは「父から聞いたこと」でした。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と主は言われました。それは父なる神から聞いたこの世の救いの計画でした。この世が救われるためにイエス様が十字架にかからなくてはならないことでした。世の罪が赦されるために「世の罪を取り除く神の小羊」」として死ななくてはならないことでした。そのようにして多くの実を結ぶために「一粒の麦」として地に落ちて死ななくてはならないことでした。イエス様は御自身に関わるすべてを弟子たちに語られました。そう、友として。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」。だから主は言われるのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。

 あの弟子たちに語られた言葉が、代々の教会によって伝えられてきました。それは、代々の教会もまた、このイエス様の御言葉を、自らへの語りかけとして聞いてきたからに他なりません。父の救いの計画が私たちにも伝えられた。イエス様の十字架の意味が私たちにも伝えられた。それはとりもなおさず、イエス様が私たちを友と見てくださった、ということなのだ。そのように、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という語りかけを、福音が宣べ伝えられたという事実の中に聞いてきたのです。

 その言葉を私たちもまた聞いています。私たちがこうして毎週呼び集められていること、私たちにキリストの福音が宣べ伝えられていること、私たちがあの弟子たちと同じように主の食卓の周りにいて御言葉を聞いていること――それらすべては、私たちがキリストの友とされていることの目に見えるしるしです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と主は私たちにも語っておられるのです。

あなたがたのために命を捨てた
 そして、細かいことですが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と訳されていますが、意味合いとしては「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」という表現が使われているのです。既に友と呼んでいるのです。その前に書かれている13節、14節の御言葉もまた、既に友と呼ばれている者に対して語られている言葉です。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエス様は愛についての一般論を語っているのではありません。これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉なのです。イエス様はまさに「友のために」命を捨てようとしておられたのです。そのようなイエス様の言葉です。「これ以上に大きな愛はない」とはどういうことですか。これ以上愛しようがないということでしょう。イエス様は友をこれ以上愛しようがないほどに愛されたのです。そして、イエス様は言われたのです。「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」。――あなたがたこそ、わたしが愛している友、命を捨てるほどに愛している友なのだ、と。

 そしてその翌日、弟子たちはイエス様が十字架にかけられた姿を見ることになりました。さらに、やがて十字架の意味を知ることになりました。イエス様が心開いて語ってくださった父のご計画を本当の意味で知ることになりました。その時に、あたかも外から眺めるかのように、「イエス・キリストは全人類の罪のために死んだのだ」と言えなかったことは明らかです。言えるわけないでしょう。「あなたがたはわたしの友だ」と言われてしまったのですから。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われてしまったのですから。キリストの十字架の出来事は、自分に対する直接的な語りかけとして聞かざるを得なかったはずなのです。「友よ、わたしはあなたのために命を捨てた。これ以上愛しようがないほどにあなたを愛しているから。あなたはわたしの友だから」と。

あなたがたは友である
 そして主はさらにこう言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。イエス様の命じることとは、12節と17節に語られていることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。つまり、「あなたがたが互いに愛し合うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われたのです。

 「友と呼ぶ」ことは一方通行でも成り立ちます。友としてかかわることも、友として心を打ち明けることも、一方通行でも成り立ちます。仮に相手が友達だと思っていなくても、こちらが友達として接することは可能でしょう。しかし、友達同士という関係は、一方通行では成り立ちません。友としての交わりは、一方通行では成り立たないのです。わたしが誰かを「友と呼ぶ」ことと、その人が本当に友であるかどうかは、別な話です。その人は友だちだと思っていないかもしれませんから。

 イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。ならば、私たちも本当の意味でイエス様の「友」になりたい。イエス様も、ただ一方的に友と呼ぶだけでなく、私たちが本当に友であって欲しいと願っておられるのです。

 イエス様の友であるとはどういうことでしょう。イエス様を愛するということでしょう。イエス様が私たちを友として愛してくださった。その愛に応えて私たちもイエス様を愛することでしょう。それがイエス様の友であり、イエス様の友として生きるということであるに違いありません。ではどのようにしてイエス様を愛するのか。イエス様が願っていることを行うことによってです。相手の願いに無頓着であるなら、本当の友とは言えません。では、イエス様は何を望んでおられるのか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そう主は言われるのです。そのようにして、私たちはイエス様の友として生きるのです。

あなたがたが実を結ぶために
 そして、私たちがイエス様の友とされ、イエス様の友として生きるということは、ただ私たち自身にのみ関わることではないのです。主はこう言われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 イエス様の関心は、ここにいる私たちに対してだけでなく、広くこの世界に向けられています。イエス様は私たちがこの世界に出て行って実を結ぶことを望んでおられます。そのために私たちを友としてくださり、またイエス様の御名によって父に祈ることができるようにもしてくださったのです。出て行って、実を結ぶためです。

 「わたしには何もできません。わたしはそのような者ではありません」などと言う必要はありません。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とイエス様は言われるのですから。「そんなあなたをわたしは選んだのだ。そんなあなたを友にしたいと思ったのだ」と言われるのです。わたしたちに能力があるかないか、関係ありません。わたしたちが強いか弱いか、関係ありません。わたしたちが若いか年老いているか、関係ありません。男か女か、関係ありません。わたしがイエス様を友にしたのではなく、イエス様が私たちを友と呼んでくださったのです。わたしたちが実を結ぶために!

わたしの喜びがあなたがたの内にあるように
 さて、これらのことを語られたのは、先にも述べましたように、最後の晩餐においてでした。イエス様は間もなく自分が捕らえられることを知っていました。弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまうことを知っていました。見捨てられた者として、不当な裁きを受け、鞭打たれ、辱められ、十字架にかけられて殺されることを知っているのです。しかし、イエス様は悲しみながらこれらのことを語っておられるのではありません。そうではなくて、大きな喜びをもって弟子たちに語っておられるのです。今日の朗読の冒頭はこのような言葉でした。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。

 そう、確かにイエス様は「わたしの喜び」について語っておられるのです。人々の憎しみも敵意も裏切りも、そして迫って来る死の力さえも、イエス様の喜びを奪うことはできませんでした。いや、イエス様は喜びを失わなかったどころか、それを弟子たちにも与えようとしておられたのです。「あなたがたの喜びが満たされるために」と。

 イエス様は弟子たちもまた奪われることのない喜びに生きて欲しいと願われました。満ち溢れる喜びに生きて欲しいと願われました。なぜですか。イエス様の友だから。イエス様はそのように、私たちにもイエス様の喜びが宿るように、喜びが満ちるようにと願っておられます。イエス様の友だから。

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