2015年4月26日日曜日

「天から降ってきた命のパン」

2015年4月26日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章34節~40節


物質的な満たしでも精神的な満たしでもなく
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。そうイエス様は言われました。

 「命のパン」とは何でしょう。今日の朗読箇所の直前ではイエス様がこう仰っています。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。その天から降って来たパン。世に命を与えるパン。わたしこそが天から降ってきた「命のパン」なのだとイエス様は言っておられるのです。

 「わたしが命のパンである」。これは今日の私たちにとって決して分かりやすい言葉とは言えません。いや、当時の人々にとっても、分かりやすく受け入れやすい言葉ではなかったようです。今日の朗読箇所の直後にはこう書かれています。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか」(41‐42節)。

 人々はこのイエス様の言葉を聞いてつまずいたのです。つぶやき始めたのです。「わたしは天から降って来た」などと言ったからです。もしイエス様が「わたしが命のパンである」などと言わないで、天から降って来たなどと言わないで、ただ「わたしがパンを与えてあげよう」と言われたらなら、ずっと分かりやすかったと思います。

 もし、イエス様がそのように言われたなら、実際に人々はイエス様がパンを与えてくれるのを期待したことでしょう。というのも、イエス様は人々にパンを与えたことがあったからです。この章の初めにはイエス様が大群衆にパンを与えたという奇跡物語が記されています。恐らく彼らの多くは、この奇跡を経験したか、あるいは聞いて知っている人々なのです。だから「また、あの奇跡を行ってくれるかな」と期待したに違いないのです。

 あるいはそのような奇跡を人々が経験していなかったとしても、「わたしがパンを与えてあげよう」という言葉は、やはり受け入れやすかったと思います。というのも多くの人々はイエス様に政治的な解放者としての期待を寄せていたからです。この人こそローマの圧政からイスラエルを解放してくださるに違いない。そのようにして貧しい我々にパンを与えてくださるに違いない。人々はイエス様の言葉をそのように受け止めたことでしょう。

 あるいは、そのような物質的なパンではなく、精神的なパンの話にするならば、さらに受け入れやすかったに違いありません。今日の読者にとっても非常に受け入れやすいものとなるでしょう。「わたしが精神的なパンを与えよう。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これならば分かるではありませんか。実際、精神的な満たしこそ宗教の目的であると考えている人は少なくないと思われます。

 しかし、イエス様は物質的な意味においてであれ、精神的な意味においてであれ、「わたしがパンを与えよう」とは言われなかったのです。「わたしが命のパンである」と言われたのです。そのために「天から降って来た」と言われたのです。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(38節)と言われたのです。神の御心を行うための「命のパン」として天から降って来たというのです。

永遠の命を与えるために
 「神の御心」とは何でしょう。神は何を与えようとしておられるのでしょう。イエス様が語られたのは、人々の物質的な必要を満たすことでも、精神的な必要を満たすことでもありませんでした。イエス様は何と言っておられましたか。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(39‐40節)。これこそがイエス様の天から降ってきた目的だというのです。

 「永遠の命を得る」という表現にせよ、「終わりの日に復活させる」という表現にせよ、それが意味しているのは、神による最終的な救いです。イエス様が他の箇所で「神の国に入る」と表現しているのも同じ内容です。

 そのように、イエス様がここで話しておられるのは、人間の物質的な必要の満たしについてでも、精神的な必要の満たしについてでもないのです。「終わりの日」の話なのです。最終的な救いについての話なのです。最終的に神によって受け入れられ、救われるのか。それとも最終的に神によって退けられ、滅びるのか。そのような究極の事柄です。その関わりにおいて「命のパン」について語られているのです。

 その命のパンは「天から降って来て」、世に命を与えるものであると語られていました。問題が物質的な必要の満たしならば、必要を満たすパンは必ずしも天から降って来る必要はありません。場合によっては、天からのパンを求めるよりも、地上において互いにパンを分かち合うことの方がずっと大切であるとも言えるのでしょう。

 また、問題が精神的な必要の満たしならば、これもまた必要を満たすパンは必ずしも天から降って来る必要はないのでしょう。「精神的なパン」はこの世にいくらでも見いだせるからです。「この世が提供するものなど全てジャンク・フードです。宗教こそが唯一まともな精神的なパンです」などと言う必要はありません。イエス様の生きていた時代の高度に文化的なギリシア・ローマ世界にも、精神的なパンという意味ならば、栄養価の高いものはいくらでも存在していたのです。

 しかし、問題が物資的な必要の満たしでも、精神的な必要の満たしでもなく、最終的な救いに関すること、永遠の命にかかわることであるならば、それは人間にはどうすることもできないのです。神に背いて生きてきた人生の罪責を、私たちは処理することができないからです。私たちがそれぞれ自分の人生を省みるならば、旧約聖書におけるアダムとエバの物語が語っているように、人間は神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ない者なのです。ならば、救いは神の方から来なくてはならないのです。天から来なくてはならないのです。

 そして、救いは天から来たのです。それが私たちに伝えられている福音です。救い主が天から来られたのです。その御方は天から来られて、全ての人の罪を代わりに負って十字架にかかられて死なれたのです。その御方は、私たちが神によって罪を赦されて、神との交わりに生きることができるように、御自身を献げてくださったのです。

 その御方がこう言われたのです。「わたしが命のパンである」(35節)と。今日の朗読箇所には含まれませんが、後にもっとはっきりと次のように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。そのように主は御自身を与えて、十字架にかかってくださいました。

このパンを食べるならば
 そのように、イエス・キリストは私たちの救いのために、永遠の命を与えるために、天から降って来た「命のパン」となってくださいました。

 しかし、ここで当たり前の話ですが、パンは口に入れられ食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つことになります。ですから、先に引用したイエス様の言葉においても「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と語られていたのです。

 「食べる」という言葉によって表現されているのは「信仰」です。今日の読まれた箇所においても「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(40節)と語られていたとおりです。そのように「信じること」が「食べること」として語られていることには大きな意味があります。「信じること」と「食べること」は良く似ているからです。食べたり飲んだりすることは、信仰の本質を良く表していると言えるのです。

 私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできないのです。キリストは確かに全人類のために十字架にかかってくださいました。しかし、キリストを信じる時、私たちはそのキリストの十字架を他ならぬ「わたしの罪の贖い」として感謝して受け取るのです。ちょうどパンを食べるようにです。

 さらに言うならば、パンを食べるということは一回限りのことではありません。キリストが「命のパン」ならば、そこで考えられているのは一回だけ食べることではなく、食べ続けるということです。実際、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われた時、「来る者」も「信じる者」も継続を意味する表現が用いられているのです。そのように「入信」はある一点での出来事かもしれませんが信仰生活は継続です。それを目に見える形で表しているのが、繰り返し行われる聖餐なのです。

 そのように信仰生活は「食べ続ける」ことです。それはまた、信仰に生きるということが最終的には他の人の責任にできない、自分自身が主の御前で問われる厳粛なことであるという意味にもなります。信仰において誰かが妨げになりました。誰かが反対しました。迫害しました。あるいは誰かがつまずきになりました。それは最終的には問題ではありません。他者の責任にはできないのです。最終的には本人が食べたか、食べ続けたかということが決定的に重要なこととなるのです。そして、事実、誰が妨げようが、物質的なパンを奪われようが、精神的なパンを奪われようが、この世の命を奪われることになろうが、「命のパン」を食べ続けた人たちがいたのです。その人々によって、福音は伝えられてきたのです。

 「わたしが命のパンである」。イエス様は私たちの救いのために天から降って来てくださいました。イエス様は私たちの救いのために御自身を「命のパン」として差し出してくださいました。私たちの罪を贖い、永遠の命をもたらす「命のパン」として御自身を差し出してくださいました。そのパンを食べるのはわたしであり、あなたです。食べ続けるのはわたしであり、あなたです。

2015年4月5日日曜日

「あの方はここにはおられない」

2015年4月5日 イースター礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章1節~12節


キリストは生きておられる
 「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」(1節)と書かれていました。墓に行ったのは「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」(23:55)です。イエス様と一緒に旅をしてエルサレムまで来た婦人たちです。

 彼らについては8章において次のように書かれていました。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(8:3)。イエス様と弟子たちの一行は福音を宣べ伝えながら旅をしていたわけですが、その彼らを経済的に支えていたのが彼女たちだったということです。

 そのように持てるものを捧げながら一行と共にエルサレムにまでついて来た彼らでした。そこには大きな喜びがあったことでしょう。大きな期待があったことでしょう。しかし、そのエルサレムにおいてイエス様は捕らえられてしまいました。イエス様は鞭打たれ血まみれにされ、十字架にかけられてしまいました。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、そして、ついに息を引き取られたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。聖書にはこう書かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。

 ヨセフという人が総督ピラトのもとに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。イエス様が葬られるとき、婦人たちはただついて行くことしかできませんでした。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様を見届け」(同55節)たと書かれています。このように、イエス様と一緒に旅をしてきた彼女たちが最終的に行き着いたのは「墓」でした。

 「そして、週の初めの日の明け方早く」(1節)、婦人たちはその「墓」に向かっていたのです。彼らが行き着いた「終着点」をもう一度訪ねるためでした。そこに今もなお横たわっている死んだイエス様にお会いするためでした。

 しかし、墓に着くと入口を塞いでいたはずの大きな石が墓のわきに転がしてありました。婦人たちが中に入ると、イエス様の遺体は見当たりませんでした。すると輝く衣を着た二人の人が現れてこう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5‐6節)。そうです、イエス様は墓にはおられませんでした。なぜならイエス様は「死んだ方」のままではなかったから。復活して「生きておられる方」だからです。生きておられるから終着点に留まってはいないのです。前に向かって、その先に向かって進んでいかれました。

 私たちはそのようなイエス様を信じているのです。教会が毎年復活祭を祝っていることは、教会が今日に至るまでそのようにイエス様は「生きておられる方」だと信じてきたことを意味するのです。墓に留まっておられることなく、そこから歩み出された方であると信じているということです。

それゆえに私たちも生きる
 さて、先週の木曜日に近隣8教会の合同礼拝がありました。そこで読まれたのは、最後の晩餐におけるイエス様のこんな言葉でした。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14:19)。十字架にかかられる前の最後の食事。終わりへと向かうための食事。墓に行き着くことが既に見えているところでの食事です。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。そう、イエス様は死者の中にはおられない。イエス様は生きている。墓には留まってはいない。しかし、それはイエス様だけに関わることではないのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われたのです。イエス様が終着点に留まっておられる方でないならば、弟子たちもまたそうなのです。イエス様はあの婦人たちの「終わり」、弟子たちの「終わり」を「終わり」でなくしてしまわれたのです。

 確かに、あの婦人たちは彼らの旅の終着点にいました。弟子たちも同じでした。弟子たちの場合にはもっとはっきりしています。信じて従ってきたイエス様が死んでしまったというだけではありません。彼ら自身がイエス様を見捨てて逃げたのです。ペトロはイエス様との関係を三度も否定したのです。その意味で弟子としてイエスと共にしてきた旅は決定的に終わったのです。言わば、イエス様が死んだ時、彼らもまた死んだのです。

 しかし、イエス様は死んだ方として墓に留まってはいませんでした。イエス様が「生きておられる方」であるゆえに、彼らもまた生きることになりました。彼らの終着点はもはや終着点ではなくなりました。そこは新しい出発点となりました。彼らは死んだままではありませんでした。彼らは生きるようになりました。

 それゆえに、この福音書を書いたルカは、続く第2巻目を書いたのです。「使徒言行録」です。教会の物語です。一度死んだ彼らが、イエス様によって新しく生き始めた物語です。彼らの中に「生きておられる方」が生き生きと働かれた物語です。

 そして、その物語は今も続いているのです。教会の物語は今日に至ってもなお続いているのです。私たちは今その中にいるのです。教会が復活祭を毎年祝い続けてきたとはそういうことです。イエス様は生きておられる。だから私たちも生きるのです。

 私たちも実際、この世において、あの婦人たちが味わったような旅の終わりを幾度も経験するのでしょう。私たちもこの世において、あの弟子たちが味わったような死を幾度も経験するのでしょう。「全ては終わった」「結局、こうなってしまった」「もう二度と元には戻れない」と。そして、そこであの弟子たちのように自らの罪に涙しながら、死んだ人として「終わり」に留まろうとするのでしょう。

 しかし、イエス様は生きておられる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われる。そして、私たちの終わりを始まりに変えてくださるのです。私たちは死んだ人ではなく生きている人として前に向かって歩み始めるのです。

人生の終わりにおいても
 そして、最後に私たちは本当の意味で旅の終わりにさしかかることを知っています。本当の意味で自らの墓が見えてくるところに立つことになる。そのことについて例外はありません。しかし、そこでもなおイエス様は生きておられるのです。イエス様が生きておられるので、私たちもまた生きるのです。私たちの墓は終着点ではなくなるのです。

 この教会において一番最近天に召された方はH姉でした。彼女が重い病気と診断されたのは三年前の夏でした。そこから闘病生活が始まりました。その中でこの教会に導かれ、共に礼拝を捧げてきました。昨年の4月20日のイースター礼拝もこの場所で共に礼拝をお捧げしました。しかし、この冬に病状が悪化し、ちょうど一ヶ月前、3月5日にこの地上の人生を終えられました。

 H姉の旅は病の床において終わったように見えます。葬儀と墓が終着点であるようにも見えます。しかし、私たちと共に彼女が信じていたイエス様は生きておられるのです。ならばH姉も生きるのです。実際、わたしが最後に目にした彼女の姿は、終わりに向かう人の姿ではありませんでした。

 わたしの目に焼き付いているのは、病床において賛美を聞きながら、「うれしい」という言葉を繰り返して、うれし涙を流している姿です。そのうれしさがそのまま伝わってくる涙でした。それから数日後にH姉は召されました。人生の最後に至って、墓が見えているところにおいてなお、人は心から「うれしい」と言うことができるのです。心の底からのうれし涙を流すことができるのです。それは終着点に向かっている人の涙ではありませんでした。主は生きておられます。だからH姉も生きている。この世における終着点は新たな出発点となりました。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。今年もこの言葉を聞きながら、世界中の教会と共に主の御復活を祝いしています。イエス様は復活されて、今も生きておられると、共に信仰を言い表して礼拝を捧げています。主がよみがえられた朝、それは「週の初めの日」でありました。週の初めの日、日曜日。それゆえに私たちはこれまでと同じようにこれからも日曜日に主に礼拝をささげます。そのようにして復活され、生きておられる主、そして私たちを生かしてくださる主につながって生きていくのです。主は復活されました。イースター、おめでとうございます!

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