2015年4月26日日曜日

「天から降ってきた命のパン」

2015年4月26日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章34節~40節


物質的な満たしでも精神的な満たしでもなく
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。そうイエス様は言われました。

 「命のパン」とは何でしょう。今日の朗読箇所の直前ではイエス様がこう仰っています。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。その天から降って来たパン。世に命を与えるパン。わたしこそが天から降ってきた「命のパン」なのだとイエス様は言っておられるのです。

 「わたしが命のパンである」。これは今日の私たちにとって決して分かりやすい言葉とは言えません。いや、当時の人々にとっても、分かりやすく受け入れやすい言葉ではなかったようです。今日の朗読箇所の直後にはこう書かれています。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか」(41‐42節)。

 人々はこのイエス様の言葉を聞いてつまずいたのです。つぶやき始めたのです。「わたしは天から降って来た」などと言ったからです。もしイエス様が「わたしが命のパンである」などと言わないで、天から降って来たなどと言わないで、ただ「わたしがパンを与えてあげよう」と言われたらなら、ずっと分かりやすかったと思います。

 もし、イエス様がそのように言われたなら、実際に人々はイエス様がパンを与えてくれるのを期待したことでしょう。というのも、イエス様は人々にパンを与えたことがあったからです。この章の初めにはイエス様が大群衆にパンを与えたという奇跡物語が記されています。恐らく彼らの多くは、この奇跡を経験したか、あるいは聞いて知っている人々なのです。だから「また、あの奇跡を行ってくれるかな」と期待したに違いないのです。

 あるいはそのような奇跡を人々が経験していなかったとしても、「わたしがパンを与えてあげよう」という言葉は、やはり受け入れやすかったと思います。というのも多くの人々はイエス様に政治的な解放者としての期待を寄せていたからです。この人こそローマの圧政からイスラエルを解放してくださるに違いない。そのようにして貧しい我々にパンを与えてくださるに違いない。人々はイエス様の言葉をそのように受け止めたことでしょう。

 あるいは、そのような物質的なパンではなく、精神的なパンの話にするならば、さらに受け入れやすかったに違いありません。今日の読者にとっても非常に受け入れやすいものとなるでしょう。「わたしが精神的なパンを与えよう。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これならば分かるではありませんか。実際、精神的な満たしこそ宗教の目的であると考えている人は少なくないと思われます。

 しかし、イエス様は物質的な意味においてであれ、精神的な意味においてであれ、「わたしがパンを与えよう」とは言われなかったのです。「わたしが命のパンである」と言われたのです。そのために「天から降って来た」と言われたのです。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(38節)と言われたのです。神の御心を行うための「命のパン」として天から降って来たというのです。

永遠の命を与えるために
 「神の御心」とは何でしょう。神は何を与えようとしておられるのでしょう。イエス様が語られたのは、人々の物質的な必要を満たすことでも、精神的な必要を満たすことでもありませんでした。イエス様は何と言っておられましたか。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(39‐40節)。これこそがイエス様の天から降ってきた目的だというのです。

 「永遠の命を得る」という表現にせよ、「終わりの日に復活させる」という表現にせよ、それが意味しているのは、神による最終的な救いです。イエス様が他の箇所で「神の国に入る」と表現しているのも同じ内容です。

 そのように、イエス様がここで話しておられるのは、人間の物質的な必要の満たしについてでも、精神的な必要の満たしについてでもないのです。「終わりの日」の話なのです。最終的な救いについての話なのです。最終的に神によって受け入れられ、救われるのか。それとも最終的に神によって退けられ、滅びるのか。そのような究極の事柄です。その関わりにおいて「命のパン」について語られているのです。

 その命のパンは「天から降って来て」、世に命を与えるものであると語られていました。問題が物質的な必要の満たしならば、必要を満たすパンは必ずしも天から降って来る必要はありません。場合によっては、天からのパンを求めるよりも、地上において互いにパンを分かち合うことの方がずっと大切であるとも言えるのでしょう。

 また、問題が精神的な必要の満たしならば、これもまた必要を満たすパンは必ずしも天から降って来る必要はないのでしょう。「精神的なパン」はこの世にいくらでも見いだせるからです。「この世が提供するものなど全てジャンク・フードです。宗教こそが唯一まともな精神的なパンです」などと言う必要はありません。イエス様の生きていた時代の高度に文化的なギリシア・ローマ世界にも、精神的なパンという意味ならば、栄養価の高いものはいくらでも存在していたのです。

 しかし、問題が物資的な必要の満たしでも、精神的な必要の満たしでもなく、最終的な救いに関すること、永遠の命にかかわることであるならば、それは人間にはどうすることもできないのです。神に背いて生きてきた人生の罪責を、私たちは処理することができないからです。私たちがそれぞれ自分の人生を省みるならば、旧約聖書におけるアダムとエバの物語が語っているように、人間は神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ない者なのです。ならば、救いは神の方から来なくてはならないのです。天から来なくてはならないのです。

 そして、救いは天から来たのです。それが私たちに伝えられている福音です。救い主が天から来られたのです。その御方は天から来られて、全ての人の罪を代わりに負って十字架にかかられて死なれたのです。その御方は、私たちが神によって罪を赦されて、神との交わりに生きることができるように、御自身を献げてくださったのです。

 その御方がこう言われたのです。「わたしが命のパンである」(35節)と。今日の朗読箇所には含まれませんが、後にもっとはっきりと次のように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。そのように主は御自身を与えて、十字架にかかってくださいました。

このパンを食べるならば
 そのように、イエス・キリストは私たちの救いのために、永遠の命を与えるために、天から降って来た「命のパン」となってくださいました。

 しかし、ここで当たり前の話ですが、パンは口に入れられ食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つことになります。ですから、先に引用したイエス様の言葉においても「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と語られていたのです。

 「食べる」という言葉によって表現されているのは「信仰」です。今日の読まれた箇所においても「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(40節)と語られていたとおりです。そのように「信じること」が「食べること」として語られていることには大きな意味があります。「信じること」と「食べること」は良く似ているからです。食べたり飲んだりすることは、信仰の本質を良く表していると言えるのです。

 私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできないのです。キリストは確かに全人類のために十字架にかかってくださいました。しかし、キリストを信じる時、私たちはそのキリストの十字架を他ならぬ「わたしの罪の贖い」として感謝して受け取るのです。ちょうどパンを食べるようにです。

 さらに言うならば、パンを食べるということは一回限りのことではありません。キリストが「命のパン」ならば、そこで考えられているのは一回だけ食べることではなく、食べ続けるということです。実際、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われた時、「来る者」も「信じる者」も継続を意味する表現が用いられているのです。そのように「入信」はある一点での出来事かもしれませんが信仰生活は継続です。それを目に見える形で表しているのが、繰り返し行われる聖餐なのです。

 そのように信仰生活は「食べ続ける」ことです。それはまた、信仰に生きるということが最終的には他の人の責任にできない、自分自身が主の御前で問われる厳粛なことであるという意味にもなります。信仰において誰かが妨げになりました。誰かが反対しました。迫害しました。あるいは誰かがつまずきになりました。それは最終的には問題ではありません。他者の責任にはできないのです。最終的には本人が食べたか、食べ続けたかということが決定的に重要なこととなるのです。そして、事実、誰が妨げようが、物質的なパンを奪われようが、精神的なパンを奪われようが、この世の命を奪われることになろうが、「命のパン」を食べ続けた人たちがいたのです。その人々によって、福音は伝えられてきたのです。

 「わたしが命のパンである」。イエス様は私たちの救いのために天から降って来てくださいました。イエス様は私たちの救いのために御自身を「命のパン」として差し出してくださいました。私たちの罪を贖い、永遠の命をもたらす「命のパン」として御自身を差し出してくださいました。そのパンを食べるのはわたしであり、あなたです。食べ続けるのはわたしであり、あなたです。

2015年4月19日日曜日

「決して無駄にはなりません」

2015年4月19日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章36節~43節


主に結ばれているならば
 「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(1コリント15:58)。本日の第2朗読において読まれた言葉です。

 私たちはこのような言葉に励まされます。力づけられます。しかし、このような言葉が手紙に書かれているのは、これが必ずしも自明なことではないからとも言えます。普通に考えれば無駄に潰えたとしか思えない苦労はいくらでもあるのでしょう。意味があるとは思えない苦しみを負わなくてはならないことはいくらでもあるのでしょう。

 ですから、時として「動かされないようにしっかり立つ」ということは困難になります。重荷を背負おうにも、その足元が揺らぐのです。主に仕えることですら、足元が揺らぐのです。しっかり立てなくなるのです。こんなことして何になるのか。いったい何の意味があるのか、と。そう言えば、かつて旧約の預言者も言っていました。「わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と」(イザヤ49:4)。そのようにただ空しく「疲れた、疲れ果てた」とつぶやくことは誰にでもあることなのでしょう。

 だからこそ、パウロは書いているのです。そのような人間の弱さも、しばしば味わう人間の悲哀も重々承知の上で書いているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

 「知っているはずです」。パウロは何を思って「知っているはずです」と言っているのでしょう。それはキリストです。「主に結ばれているならば」と彼は言うのです。また、この直前にパウロはこう言っているのです。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(同57節)。そのように、パウロが思いを向けているのはキリストなのです。さらに言うならば、十字架にかけられて死んで三日目に復活されたキリストなのです。

霊魂の不滅ではなく
 今日の福音書朗読では、復活されたキリストが弟子たちに現れたことを伝えている箇所が読まれました。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)。そう書かれていました。明らかにドアをノックして入ってきたのではありません。彼らの真ん中に忽然と現れたという書き方です。ですから皆は亡霊を見ているのだと思いました。彼らは恐れおののきます。

 するとイエス様はこう言われたのです。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38‐39節)。

 このような言葉はまことに今日の読者には飲み込みにくい言葉であろうと思います。しかも、この後に復活したキリストが焼き魚を食べたという話が続くのです。そこまでいくと滑稽とすら映ります。しかし、この言葉が受け入れ難いとするならば、それは現代人にとってだけでなく、当時のギリシア・ローマ世界の人々にとってもそうだったのです。これがイエス様の亡霊であったならば、ずっと受け入れやすかったのです。イエス様の肉体は死んでも霊魂は生き続けていましたという話なら、ずっと伝えやすかったし受け入れやすかったに違いないのです。

 しかし、どれほど奇妙に思われようが、滑稽に思われようが、教会はそれが単なる霊魂不滅ではなかったことにこだわったのです。そうではなく、キリストは体をもって復活したのだということにこだわったのです。キリストの体の復活を伝えるために、弟子たちはこのようなイエス様の言葉をあえて伝えたのです。それはなぜなのか。霊魂不滅と体の復活では意味するところが決定的に異なるからです。《体の復活》でしか表現できない信仰的な内容があるからなのです。

 そこで重要なのは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」という言葉です。私たちは普通こういうことは言いません。自分であることを示すのには、「わたしの顔を見なさい」と言うでしょう。手や足は誰のものであっても、それほど違わないからです。しかし、イエス様は「手や足を見なさい」と言われました。キリストの手や足には釘の跡があるからです。それは十字架上で死んだしるしです。つまり、キリストの体の復活は、《十字架で死んだ体》の復活なのです。十字架で終わった生涯を生きた体の復活なのです。

 十字架上での最期。それは人の目から見るならば、全てが無に帰した最期であったと言えます。それは全ての愛の労苦も報われることなく、無駄に潰えてしまったとしか見えない最期でした。しかし、十字架の死は終わりではありませんでした。そのような一生を生きたその体を、計り知れない苦しみを背負って生き、そして死んだその体を、まさに《その体が》神は復活させてくださったのです。栄光の姿によみがえらせてくださったのです。

 そのようにして人ではなく神が報いてくださいました。十字架をもって終わったその一生も、神が生かしてくださいました。そのすべての働きも愛の労苦も十字架上の苦しみもすべて、神が生かしてくださいました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」。そうです、復活されて栄光の姿で現れたキリストの手足には釘跡がありました。それは十字架における苦しみも死でさえも決して無駄ではなかったことをはっきりと物語っていたのです。

罪の贖いにより
 しかし、私たちは単純にキリストと私たちを重ね合わせて考えることができないことをも知っています。キリストに起こったことが単純に私たちの希望とはなりません。キリストと私たちは違うからです。決定的な違いは、キリストには罪がなかったけれど、私たちは罪人であるという事実です。キリストは神への完全なる従順をもって生きられた御方であるけれど、私たちはしばしば心においても行いにおいても神に背いて生きてきた者だ、ということです。神が復活させたキリストの体は苦難を負った体ではありましたが罪のない体でした。私たちの体は罪が宿った体です。神がキリストを復活させたからと言って、どうして神が罪人である私たちをも復活させてくださると言えるでしょう。

 先ほど、キリストについて「人ではなく神が報いてくださった」と言いました。しかし、「神が報いてくださる」という言葉は、決して単純ではありません。もし、キリストにではなく、罪ある私たちの一生に神が正しく「報いてくださる」ならばどうなるでしょう。むしろそれは私たちにとって救いではなく、裁きと滅びしか意味しないでしょう。このように、キリストの復活は、単純に私たちの希望とはならないのです。

 しかし、私たちはここでもう一度、キリストの復活が十字架にかけられて死んだ体の復活であったことを思い起こさねばなりません。キリストは復活して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。十字架の釘の跡を示して、「まさしくわたしだ」と言われたのです。あの釘の跡はイエス様が負った苦しみの傷跡ですが、それはただの苦しみではなく、私たちの罪の贖いのために苦しみだったのです。あの十字架の死は、私たちの罪を贖うための死であり、苦難のメシアの死に他ならないのです。

 罪を贖うために私たちに苦しみを背負われたあの御方の体を、あの釘の跡と共に、神は復活させられました。神はキリストの苦難と死を、罪の贖いの犠牲として完全に受け入れてくださったのです。ある人は「キリスト者にとって、復活は十字架におけるイエスのわざに貼られた神の証印なのである」と表現しました。このように、キリストの体の復活が示しているのは、キリストによる罪の贖いの御業が完全に有効であるという事実なのです。

 ですから、復活されたキリスト御自身、ただ御自分の苦難について語られたのではなくて、罪の赦しについて語られるのです。傷跡のある手をもって魚を食べられた主は、さらにこう続けられたのでした。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(44‐48節)。

 そのとおり、罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス・キリストの名によって宣べ伝えられました。パウロにも宣べ伝えられました。そして、パウロを通してコリントの人たちにも宣べ伝えられました。パウロは共に罪を赦された者として、キリストの復活を私たちすべての者の復活の希望として語るのです。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(1コリント15:20)。キリストの復活は「初穂」なのです。その復活に私たちの復活が続くのです。

 キリストにおいて十字架が終わりでなかったように、その先に栄光の姿があったように、私たちにおいてもこの体をもって生きた一生は死をもって終わるのではありません。神が栄光の姿によみがえらせてくださいます。救いが完成した姿において復活させてくださいます。すべては神によって生かされるのです。それゆえに私たちにもこう語られているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

2015年4月12日日曜日

「主よ、共に宿りませ」

2015年4月12日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章13節~35節


エマオへと向かう二人の弟子たち
 二人の弟子が、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。もうエルサレムに用はありません。留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしました。

 こんな風にエルサレムを去ることになろうとは、一週間前には夢にも思いませんでした。そう、つい一週間前の日曜日、イエス様は歓呼の声に包まれて、エルサレムに入城されたのです。オリーブ山からエルサレムへと向かう道は、人々の熱狂と興奮で沸き返っておりました。人々は自分の服を道に敷いて、ロバに乗ったイエス様を迎えました。夥しい群衆と弟子の群れは、声高らかに神を賛美していました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と。

 それはまさに、王の入城でした。偉大なる預言者であり王である御方、イスラエルの待ち望んでいたメシアの入城に他なりませんでした。人々の胸は期待と興奮ではち切れんばかりでした。あの御方の弟子として、誇らしかった。嬉しかった。そして、自分たちの内にも期待が大きく膨らんでいくのがわかった。「この方こそイスラエルを解放してくださる!」彼らの心は、まさに熱く燃え上がっていたのです。

 つい一週間前のことです。しかし、今や、すべては過ぎ去ってしまいました。興奮が過ぎ去ってしまえば、残るのは虚しさだけです。《あれはいったい何だったのだろう。燃え上がったあの炎は、いったい何だったのだろう》。いずれにせよ、もうそれはどうでも良いことでした。イエス様は殺されてしまいました。すべては過ぎ去りました。もはやエルサレムに用はありません。留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしたのです。

 彼らは「この一切の出来事」について話し合っていました。それはあまりにも辛く悲しい、またあまりにも悔しいできごとでした。しかし、その痛みを分かち合うことのできる仲間はいたのです。一緒に語り合いながら歩ける道連れはいたのです。一人はクレオパという名前だったようです。もう一人の名前はありません。ですので、ある人はこの二人が親子であっただろうと考えます。ある人は夫婦であったと考えます。いずれにせよ、このような時に語り合える誰かが一緒にいるということは、それだけでも有り難いことです。私たちも良く知っています。私たちもそのような誰かを求めているものですから。

 しかし、ただ人と人とが語り合っているだけならば、先は見えているとも言えます。「二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」その先にどういう話が続き得るか、私たちには分かっているのです。「そうこうするうちに、村に着いた。彼らは悲しみながらも、虚しさを抱えながらも、元の生活に戻っていった」。これで終わりです。それだけの話です。

 ところが、今日お読みした話はそのような展開にはなりませんでした。まったく別の方向に進んでいきました。どうしてか。もう一人加わったからです。そこにこそ、私たちが今日教会においてこの話を読んでいる意味があるのです。

共に歩かれるイエス様
 15節を御覧ください。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。イエス様が静かに近づいて来られました。そして、彼らと共に歩まれました。二人の弟子たちは、暗い顔をしてなおエマオへと歩き続けます。彼らはその御方が復活されたキリストであることに気づきません。なぜでしょうか。ただ「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とだけ説明されています。

 彼らは気づかなかった。知らなかった。しかし、既にキリストは共に歩んでくださっていました。私たちが分かった時に、気づいた時に、初めてキリストが共におられるわけではないのです。

 彼らがキリストに気づく前に、主は既に彼らに働きかけておられました。主は何をしてくださったのでしょう。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と主は尋ねられました。彼らは暗い顔をして立ち止まりました。クレオパが答えます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。

 イエス様は「どんなことですか」と問われますと、彼はイエス様に語り始めました。その御方は力ある預言者であったこと。彼らはその御方に望みをかけていたこと。しかし、十字架につけられ殺されてしまったこと。その遺体が無くなってしまったこと。これらが、暗い顔をして立ち止まった彼らが語ったことでした。

 イエス様はそれを聞いてどうされたでしょう。暗い顔をしていた彼らを慰めてくださったのでしょうか。いいえ、イエス様はこう言われたのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(25‐26節)。

 イエス様は彼らの不信仰を嘆かれます。しかし、それだけではありませんでした。彼らが信じられるように、語り始められるのです。こう書かれています。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)。聖書を解き明かしてくださった。聖書が分かるようにしてくださった。これがイエス様のされたことでした。一緒に歩いてくださっているイエス様がしてくださったことでした。

 やがて、彼らは目指す村に近づきました。二人はなおも先へ行こうとされるイエスを引き止めて言います。「一緒にお泊まりください」。そこでイエス様は共に泊まるため家に入られました。そして、次のように書かれています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。この言葉で何を思い出しますか。最後の晩餐でしょう。丁度、あの最後の晩餐で起こったことが、その小さなテーブルにおいても起こりました。すると、突然、二人の目が開けたのです。

 「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれている。この描写は面白いと思います。目が開け、「見えるようになった」のではない。その姿は見えなくなったのです。私たちが今、復活したキリストの姿が見えないように、彼らにもイエス様は見えなくなりました。しかし、それでも良かったのです。もっと重要なことがあるからです。ここまでイエス様が共に歩んでくださっていたのだ、という事実に気づいたということです。彼らが気づく前から主が共にいてくださった。そのことに気づいた。目が開かれて「見えた」のはそのことでした。

 そして、彼らはもう一つのことに気づきます。死んでいたような彼らの心に、いつしか火が燃え始めていることに気づいたのです。その炎は、彼らがかつて興奮し熱狂していた時に燃えていた炎とは違います。大きく燃え上がっていたあの炎は消えてしまいました。しかし、今、それとは異なる、キリストが与えてくださった炎が、静かに、しかし確かに、彼の内に燃え初めているのです。

 彼らは言いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。彼らの内に燃えている炎は、他のどこからでもない、キリストが聖書を解き明かしてくださったところから来たことに彼らは気づいたのです。

主よ、共に宿りませ
 さて、最初のようにただ二人だけで語り合うのではない、そこにもう一人、キリストが加わってくださる。そして、聖書を悟らせてくださる。それこそが私たちに与えられている信仰の経験です。

 物語の最初はこうでした。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。しかし、同じ話し合うのでも、一人加わった後ではこうなっています。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(32節)。同じ語り合うのでも、大きな違いではありませんか。

 キリストは今も聖書を解き明かしてくださいます。キリストは今も十字架と復活の意味を悟らせてくださいます。キリストは今もパンと杯を分けてくださいます。そして、私たちの心に、この世の熱狂や興奮ではない、本当の命の炎を与えてくださるのです。本当の意味で、「燃える心」を与えてくださるのです。そして、そこには、燃える心を分かち合い、主の恵みを語り合う交わりが生まれるのです。

 しかし、そのためにも大事な一つのことを心に留めたいと思います。28節以下を御覧ください。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28‐29節)。

 彼らの内に起こった全ての良きことは、すべてイエス様の一方的な恵みの御業でした。イエス様がしてくださったことです。しかし、その恵みを経験するために、彼らが行った唯一のことがありました。それは彼らがキリストを引き止めた、ということです。「一緒にお泊まりください。」これは復活のキリストに対する祈りです。祈りについて多くを語るルカが、その福音書の最後に記したキリストへの祈りです。私たちが礼拝に集う、聖餐を求めるということは、まさにこの祈りの具体的な表現なのです。

 今日の説教題を見た時に、すぐに讃美歌39番を思い起こした人も多いことでしょう。「主よ、ともに宿りませ」が繰り返されるこの歌。これは私たちの祈りです。あの復活の日の夕、弟子たちが主に語ったように、私たちも今、この歌をもって主に向かって共に祈りたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」。そして、彼らがイエス様と共に食卓に着いて味わった幸いを、私たちもまた共有したいと思うのです。

2015年4月5日日曜日

「あの方はここにはおられない」

2015年4月5日 イースター礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章1節~12節


キリストは生きておられる
 「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」(1節)と書かれていました。墓に行ったのは「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」(23:55)です。イエス様と一緒に旅をしてエルサレムまで来た婦人たちです。

 彼らについては8章において次のように書かれていました。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(8:3)。イエス様と弟子たちの一行は福音を宣べ伝えながら旅をしていたわけですが、その彼らを経済的に支えていたのが彼女たちだったということです。

 そのように持てるものを捧げながら一行と共にエルサレムにまでついて来た彼らでした。そこには大きな喜びがあったことでしょう。大きな期待があったことでしょう。しかし、そのエルサレムにおいてイエス様は捕らえられてしまいました。イエス様は鞭打たれ血まみれにされ、十字架にかけられてしまいました。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、そして、ついに息を引き取られたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。聖書にはこう書かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。

 ヨセフという人が総督ピラトのもとに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。イエス様が葬られるとき、婦人たちはただついて行くことしかできませんでした。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様を見届け」(同55節)たと書かれています。このように、イエス様と一緒に旅をしてきた彼女たちが最終的に行き着いたのは「墓」でした。

 「そして、週の初めの日の明け方早く」(1節)、婦人たちはその「墓」に向かっていたのです。彼らが行き着いた「終着点」をもう一度訪ねるためでした。そこに今もなお横たわっている死んだイエス様にお会いするためでした。

 しかし、墓に着くと入口を塞いでいたはずの大きな石が墓のわきに転がしてありました。婦人たちが中に入ると、イエス様の遺体は見当たりませんでした。すると輝く衣を着た二人の人が現れてこう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5‐6節)。そうです、イエス様は墓にはおられませんでした。なぜならイエス様は「死んだ方」のままではなかったから。復活して「生きておられる方」だからです。生きておられるから終着点に留まってはいないのです。前に向かって、その先に向かって進んでいかれました。

 私たちはそのようなイエス様を信じているのです。教会が毎年復活祭を祝っていることは、教会が今日に至るまでそのようにイエス様は「生きておられる方」だと信じてきたことを意味するのです。墓に留まっておられることなく、そこから歩み出された方であると信じているということです。

それゆえに私たちも生きる
 さて、先週の木曜日に近隣8教会の合同礼拝がありました。そこで読まれたのは、最後の晩餐におけるイエス様のこんな言葉でした。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14:19)。十字架にかかられる前の最後の食事。終わりへと向かうための食事。墓に行き着くことが既に見えているところでの食事です。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。そう、イエス様は死者の中にはおられない。イエス様は生きている。墓には留まってはいない。しかし、それはイエス様だけに関わることではないのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われたのです。イエス様が終着点に留まっておられる方でないならば、弟子たちもまたそうなのです。イエス様はあの婦人たちの「終わり」、弟子たちの「終わり」を「終わり」でなくしてしまわれたのです。

 確かに、あの婦人たちは彼らの旅の終着点にいました。弟子たちも同じでした。弟子たちの場合にはもっとはっきりしています。信じて従ってきたイエス様が死んでしまったというだけではありません。彼ら自身がイエス様を見捨てて逃げたのです。ペトロはイエス様との関係を三度も否定したのです。その意味で弟子としてイエスと共にしてきた旅は決定的に終わったのです。言わば、イエス様が死んだ時、彼らもまた死んだのです。

 しかし、イエス様は死んだ方として墓に留まってはいませんでした。イエス様が「生きておられる方」であるゆえに、彼らもまた生きることになりました。彼らの終着点はもはや終着点ではなくなりました。そこは新しい出発点となりました。彼らは死んだままではありませんでした。彼らは生きるようになりました。

 それゆえに、この福音書を書いたルカは、続く第2巻目を書いたのです。「使徒言行録」です。教会の物語です。一度死んだ彼らが、イエス様によって新しく生き始めた物語です。彼らの中に「生きておられる方」が生き生きと働かれた物語です。

 そして、その物語は今も続いているのです。教会の物語は今日に至ってもなお続いているのです。私たちは今その中にいるのです。教会が復活祭を毎年祝い続けてきたとはそういうことです。イエス様は生きておられる。だから私たちも生きるのです。

 私たちも実際、この世において、あの婦人たちが味わったような旅の終わりを幾度も経験するのでしょう。私たちもこの世において、あの弟子たちが味わったような死を幾度も経験するのでしょう。「全ては終わった」「結局、こうなってしまった」「もう二度と元には戻れない」と。そして、そこであの弟子たちのように自らの罪に涙しながら、死んだ人として「終わり」に留まろうとするのでしょう。

 しかし、イエス様は生きておられる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われる。そして、私たちの終わりを始まりに変えてくださるのです。私たちは死んだ人ではなく生きている人として前に向かって歩み始めるのです。

人生の終わりにおいても
 そして、最後に私たちは本当の意味で旅の終わりにさしかかることを知っています。本当の意味で自らの墓が見えてくるところに立つことになる。そのことについて例外はありません。しかし、そこでもなおイエス様は生きておられるのです。イエス様が生きておられるので、私たちもまた生きるのです。私たちの墓は終着点ではなくなるのです。

 この教会において一番最近天に召された方はH姉でした。彼女が重い病気と診断されたのは三年前の夏でした。そこから闘病生活が始まりました。その中でこの教会に導かれ、共に礼拝を捧げてきました。昨年の4月20日のイースター礼拝もこの場所で共に礼拝をお捧げしました。しかし、この冬に病状が悪化し、ちょうど一ヶ月前、3月5日にこの地上の人生を終えられました。

 H姉の旅は病の床において終わったように見えます。葬儀と墓が終着点であるようにも見えます。しかし、私たちと共に彼女が信じていたイエス様は生きておられるのです。ならばH姉も生きるのです。実際、わたしが最後に目にした彼女の姿は、終わりに向かう人の姿ではありませんでした。

 わたしの目に焼き付いているのは、病床において賛美を聞きながら、「うれしい」という言葉を繰り返して、うれし涙を流している姿です。そのうれしさがそのまま伝わってくる涙でした。それから数日後にH姉は召されました。人生の最後に至って、墓が見えているところにおいてなお、人は心から「うれしい」と言うことができるのです。心の底からのうれし涙を流すことができるのです。それは終着点に向かっている人の涙ではありませんでした。主は生きておられます。だからH姉も生きている。この世における終着点は新たな出発点となりました。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。今年もこの言葉を聞きながら、世界中の教会と共に主の御復活を祝いしています。イエス様は復活されて、今も生きておられると、共に信仰を言い表して礼拝を捧げています。主がよみがえられた朝、それは「週の初めの日」でありました。週の初めの日、日曜日。それゆえに私たちはこれまでと同じようにこれからも日曜日に主に礼拝をささげます。そのようにして復活され、生きておられる主、そして私たちを生かしてくださる主につながって生きていくのです。主は復活されました。イースター、おめでとうございます!

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