2015年3月29日日曜日

「誘惑に陥らないように祈りなさい」

2015年3月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 22章39節~53節


御心のままに
 イエス様は弟子たちとの最後の晩餐を終えると、オリーブ山へと向かわれました。こう書かれています。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」(39‐40節)。

 主は「いつものように」そこに向かわれました。「いつもの場所に」向かわれました。それが危険なことであることは分かっていたはずです。ユダが既に祭司長たちのもとに向かっていたのは分かっていましたから。ユダは祭司長たちと共に武装した人々を手引きして「いつもの場所に」連れてくることでしょう。イエス様が「いつものように」「いつもの場所に」向かうということは、「群衆に邪魔されないところでどうぞわたしを捕まえてください」と言っているようなものです。主は覚悟の上で、あえてそこに向かわれたのでした。

 イエス様は時が来たことを悟っておられたのです。天の父によって定められた時。捕らえられ、裁かれる時。十字架にかけられる時。――父から受けた杯を飲み干すべき時。主は時が来たことを悟って、「いつものように」「いつもの場所に」向かわれたのです。そして、そこで祈られたのです。いつものように。次のように書かれています。「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」(41‐42節)。

 主は祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。しかも、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と書かれています。聖書に記されているのはただ一度だけ口にされた祈りではありません。繰り返し、繰り返し、いよいよ切に祈られたのでしょう、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。

 その姿はある意味ではとても奇異に映ります。イエス様はこれまでに繰り返し御自分の受難を弟子たちに予告してこられたのですから。しかも、最後の食事において杯を手にして主はこう言われたのです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)。十字架にかけられることを既に泰然と受け止めておられるように見えるではありませんか。それなのに、この期に及んで「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と主は切々と願い求めておられるのです。

 その姿は話の流れにそぐわない。確かにそうとも言えます。しかし、この度ここを改めて読んで思いました。私たちの罪のために十字架にかかられるとは、こういうことなのだ、と。私たちの罪を代わりに背負い、十字架において私たちの罪を贖うとはこういうことなのだ、と。

 私たちはやはり、自分の罪の重さを本当の意味では知らないのだと思います。私たちがどれほど神に背いて生きてきたかを本当の意味では知らない。本来ならどれほど恐るべき裁きを受けなくてはならなかったかを私たちは知らないのです。私たちの罪が赦されるとするならば、どれほど大きな苦しみをイエス様に代わりに負わせることになるのかを知らないのです。

 そうです。私たちは知らないけれど、イエス様には分かっていたのです。あの杯が何であるかを。その真実が見えていたのはイエス様だけなのです。私たちはむしろ、父から受けた杯を手にして苦しみもだえるお姿に、私たちが主に担っていただいた罪の重さ、その恐ろしさを見るべきなのです。

 そのように「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と主は祈られました。しかし、主はさらにこう続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。主が「いつものように」「いつもの場所に」おいて祈ったのは、自分の願いを聞き入れてもらうためではありませんでした。主は自分の願いではなく父の御心に従いたいのです。救い主として御自分を世に遣わされた父の御心に従いたいのです。だからこその祈りです。父の御心に従うことができるように、主は御父に向き続けたのです。

 父に向き続け、苦しみもだえながら祈られるイエス様に、御父は何も語られませんでした。そう、ひと言も。しかし、沈黙はしばしば言葉以上に雄弁に語ります。沈黙こそがイエス様に与えられた答えでした。イエス様は父の答えを得たのです。――わかりました。あなたの御心なのですね。――イエス様の心は定まりました。イエス様は祈り終わって立ち上がりました。イエス様は弟子たちのところに戻られます。

 眠り込んでいた弟子たちに語りかけておられると、ユダに手引きされた群衆が現れました。ユダはイエスに接吻しようと近づきます。主は言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。事の成り行きを見てとった弟子の一人が大祭司の手下に剣をもって打ちかかり、その右の耳を切り落としました。しかし、主は彼を制して言います。「やめなさい。もうそれでよい」。そして、その耳を癒されました。イエス様が地上で行われた最後の癒しの奇跡でした。こうしてイエス様は捕らえられてゆきました。天の父の御心に従うために。

祈っていなさい
 さて、私たちはオリーブ山において祈られるイエス様の姿に目を向けてきました。しかし、今日の聖書箇所はイエス様の祈りの姿だけを伝えているのではありません。ちょうどイエス様の祈りを挟み込むようにして、弟子たちへの言葉が記されているのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)。

 オリーブ山におけるイエス様の祈りの姿は、弟子たちに対する「祈りなさい」という言葉と共に伝えられてきました。弟子たちは眠りこけていた自分たちの姿と共に、このイエス様の言葉を伝えてきたのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」。

 「誘惑」とは何でしょう。そう言えば、最後の晩餐の席においてイエス様がペトロに対してこんなことを言っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31‐32節)。

 サタンによってふるいにかけられる。それは具体的にはイエス様が捕らえられてしまうということです。しかし、それだけではありません。シモン・ペトロは三度イエス様を知らないと言ってしまう。そんな自分の弱さと醜さに向き合って大泣きすることになるのです。それは他の弟子たちも同じで、皆イエス様を見捨てて逃げ出すことになるのです。彼らが抱いてきた希望も、弟子としての自負も誇りもその一切が打ち砕かれてしまうのです。

 弟子たちは間もなく大きな試練を経験することになります。彼らは深い悲しみ知ることになります。深い絶望を味わうことになります。イエス様は分かっているのです。その悲しみも絶望も「誘惑」にもなるのだと。悲しみの中で、サタンはふるいにかけてくるのです。だからこそイエス様はペトロのためにも祈ったのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。その主がオリーブ山で言われたのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。それはイエス様が捕らえられる時だけのためではありません。人を神から引き離す誘惑は常にあるのです。

 「誘惑に陥らないように祈りなさい」。主はそう言われて、「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた」と書かれています。「石を投げて届くほど」の距離とはどのくらいでしょう。よく分かりませんが、少なくとも遙か彼方でないことは間違いありません。主の祈る姿が遠くに見えるところ。激しく叫び祈るイエス様の声が聞こえるところ。そこで、イエス様と共に彼らもまた祈るのです。イエス様の御苦しみを思いつつ、彼らもまた「誘惑に陥らないように祈る」ことが求められているのです。

 しかし、実際には彼らは眠ってしまいました。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)と書かれています。先にも申しましたように、弟子たちはイエス様の祈りの姿だけを伝えたのではなくて、眠り込んでいた自分たちの姿を一緒に伝えたのです。そのようなことが、あの時だけでなく常にあり得るからでしょう。

 「悲しみの果てに眠り込んでいた」と書かれていますように、試練の中にあって、悲しみの中にあって、まさに誘惑に陥らないために祈らなくてはならない時に、実際には祈ることをやめてしまうことはあるのです。眠り込んでしまったらイエス様の姿も声も聞こえないように、霊的に眠り込んでしまったならば、もはや私たちを救う父の御心に従うために苦しみもだえて祈られたイエス様の御姿を思うこともありません。

 あの弟子たちだけではありません。いつの世の信仰者の経験でもあるのでしょう。私たちも例外ではありません。しかし、眠っている弟子たちのところにイエス様は戻ってこられ、そしてもう一度言ってくださいました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と。イエス様が起こしてくださいます。ならばそこから祈り始めたらよいのでしょう。

 ここにいる私たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」という言葉が伝えられています。眠っていたらイエス様が起こして私たちに語ってくださいます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。その御言葉がオリーブ山におけるイエス様の祈りの姿、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたイエス様の祈りと共に伝えられています。この御言葉を受け止めて、受難週の歩みを進めてまいりましょう。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。

2015年3月22日日曜日

「捨てられた石が隅の親石に」

2015年3月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 20章9節~19節


力を行使できる神
 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節)とイエス様は語り始めました。この話は二つの意味で彼らに身近な話でした。一つは生活上の経験として。彼らはぶどう園を生活圏内にいくらでも目にすることができたでしょうし、オーナーが遠くに住んでいて農夫たちに管理が任されているぶどう園をいくつも知っていたことと思います。そして、もう一つは聖書の知識として。旧約聖書において、特にイザヤ書とエレミヤ書において、イスラエルが神のぶどう園として繰り返し語られていることを彼らは知っていたはずです。ですから、一方において彼らは現実にあり得る身近な話として、もう一方において神について語るお馴染みのたとえ話として、イエス様の話を聞いていたに違いありません。

 話は次のように続きます。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」(10節)。今日の私たちの感覚からするとあり得ないような話に思えますが、治安維持のシステムが確立されていない社会においてはいくらでも起こりえることなのでしょう。そこでは力関係がモノを言うのですから。

 主人がある程度の力を持っていれば問題は起こらないのです。しかし、農夫たちの集団の方が強ければ、このようなことは起こります。僕は主人から権威を与えられてこそぶどう園の収穫を納めさせることができるのです。その背後の主人が侮られてその権威が認められなければ袋だたきにされて追い返されることはあり得ます。

 さらに話は続きます。「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」(11‐12節)。こういう展開になりますと、力関係ははっきり見えてきます。明らかに農夫集団の方が強い。主人は自分が作ったぶどう園をあきらめて不当に占拠されたままにするか、それとも説得を続けるかしかありません。主人は僕を送り続けます。しかし、弱いから繰り返し侮辱されることになるのです。

 そこで主人はある決断をします。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」(13節)。これが賢い決断であったかどうかは別としまして、主人が農夫よりも弱くて、あくまでも力による解決ができないなら、これも交渉のための選択肢として考えられなくもありません。

 しかし、そこに主人の無力さを見た農夫集団はぶどう園を一気に自分たちのものにしようと目論みます。「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14‐15節)。当時の社会において、農園の持ち主が跡取りのないまま死んだ場合には、その農園が農夫のものになるということは実際にあったようです。彼らの言っていることは根拠のないことでありません。

 いずれにせよ、このような話は誰が聞いても不快なものです。力ある者たちの暴力によって正義がねじ曲げられ、正しくない者が得をして勝ち誇る。そんな結末で良いはずがないと誰もが思います。この悪い農夫たちをなんとかせねばならない!そこでイエス様は話を続けます。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(15‐16節)。

 なんと、弱いと見えた主人は、実は弱くはなかったという話です。彼は武装集団を配下に持っていた。そして、悪い農夫たちは成敗されるのです。このような話が好まれるのは古今東西変わりません。「水戸黄門」にせよ「遠山の金さん」にせよ結論は初めから分かっているのに喜んで見ますでしょう。それはイエス様の話を聞いている人たちも同じなのです。恐らくこのたとえ話、聞いている人には結論が見えているのです。農夫は滅ぼされる。悪い奴は滅ぼされなくてはならない。

 ですから人々が言った「そんなことがあってはなりません」というのは、農夫たちが成敗されたことについてではないのです。彼らに言わせればそれは「あって然るべきこと」なのです。「そんなことがあってはなりません」というのは、農夫たちが息子を殺して農園を手に入れて勝ち誇ることです。主人が侮られたままであることです。そんなことがあってはならない!絶対にあってはならない!悪い連中は皆殺しにされて当然だ!そのように彼らは義憤にかられて叫んでいるのです。

 そうです。これは「主人は侮られたままではない」という話として聞こえているのです。主人は力を行使することができる。そして、先にも言いましたように、彼らはこれを神についての「たとえ話」としても聞いているのです。ぶどう園と言えばイスラエル。ぶどう園の主人と言えば神様です。神は侮られる御方ではない。力を行使することのできる神である。実際、彼らは神をそのような神として信じているのです。例えば、神が力を行使してファラオをやっつけて、奴隷であったイスラエルを解放してくれた話などは、彼らが子どもの時から聞かされてきたお気に入りの話だったはずなのです。

力をあえて行使しない神
 しかし、「そんなことがあってはなりません」と言う彼らをイエス様は見つめて、こう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」(17節)。これは詩編118編3節の引用です。イエス様は問われます。それは何を意味するのか。イエス様の問いは、このたとえ話を前提としています。その問いに答えるためには、先のたとえ話をもう一度思い巡らす必要があるようです。

 実はあの主人は弱くなどなかった。主人は侮られたままではないという結論。そこからこの「たとえ話」をもう一度思い返してみますと、このストーリーはそもそもあり得ない話であることが見えてきます。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」。この時点で農夫たちは既に反乱を起こしているのです。そして、主人は武力をもって反乱を鎮圧することができるのです。にもかかわらず彼はほかの僕を送るのです。その僕が袋だたきにされれば、三人目を送ります。

 それはこの世においては起こりえないことです。しかし、これが神のなさってきたことだとイエス様は言われるのです。滅ぼす力を持ちながら、それでもなお力を行使せずに僕を送るのです。馬鹿にされようが、侮られようが、見くびられようが、それでもなお忍耐強く呼びかけ続けるのです。そして、実際にイスラエルの歴史において神が預言者を送り続けたことを聴衆は知っているのです。

 しかし、イエス様の話はそこに留まりませんでした。主人は言うのです。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。直ちに滅ぼすことのできる力を持っているとするならば、この主人の行動はあり得ません。この主人の行動は常軌を逸して愚かだとさえ言えます。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。

 にもかかわらず、主人は息子を送るのです。もはや結末を知りながらあえて送ったとしか言いようがありません。息子がぶどう園の外に放り出されて殺されるかも知れないことを承知の上で送ったとしか言いようがない。そうです、イエス様はそのように送られた息子としてこの「たとえ話」を語っておられるのです。「これがわたしを遣わされた父なる神だ」と。

 そうです、イエス様は分かっておられるのです。御自分がこの息子のように、外に放り出されて殺されること。御自分が詩編に歌われている「家を建てる者の捨てた石」であること。そして、確かにイエス様はそれから間もなくして十字架につけられることになるのです。私たちも知っているとおりです。

 しかし、捨てられた石はそのままでは終わらないのです。詩編は「これが隅の親石となった」と続くのです。イエス様は御自分が捨てられるところまでしか見ていないわけではありません。その先を見ておられたのです。独り子さえこの世に送られた神の忍耐と寛容は十字架によって無に帰してしまうのではありません。そこから新しいことが起こるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と書かれていることが実現するのだ、と主は言われるのです。

 そして、そのとおりになったと聖書は私たちに教えているのです。キリストを隅の親石とした新しい家が建てられました。それが教会です。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストは、無に帰したのではなくて私たちの罪を贖う犠牲となりました。キリストは復活して隅の親石となられました。そこからイエス・キリストが宣べ伝えられ、罪の赦しの福音が宣べ伝えられるようになりました。ですから、これを書いているルカは、第2巻をも書くのです。「使徒言行録」――教会の物語です。

 主は言われました。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(18節)。これは単なる裁きの言葉ではありません。その向こうに救いが見えているのです。

 教会の宣教によって、人はキリストに出会います。十字架にかけられて復活されたキリストに出会うのです。隅の親石となったキリストに出会うことになるのです。そして、そこで自分こそまさにあの農夫たちの一人であることが見えてくる。神を侮って生きてきた自分自身であること、神の忍耐も寛容も軽んじてきた自分の罪深さを知ることになるのです。

 そのようにして、ある人はキリストという石の上に落ちる。ある人はキリストという石の下敷きとなる。砕かれたり押しつぶされたりすることになる。しかし、そこにこそ人間の救いがあるのです。神を侮ったままで人が救われることはないからです。これを書いているルカは、そのように砕かれ押しつぶされ、そして救われた人を少なくとも一人、身近に知っています。ルカが宣教の旅を共にしたパウロです。隅の親石なるキリストとの出会いは、パウロの救いでした。そして、私たちの救いもそこにあるのです。

 このように、このたとえ話は、神は侮られる方でないこと、最終的な裁きを行う力をお持ちの御方であることを語っているだけではありません。その神が限りない忍耐と寛容を示していてくださること、今も私たちに呼びかけてくださっていること、そして、その神が私たちの救いのためにキリストという隅の親石をしっかりと据えてくださったことを指し示しているのです。

2015年3月8日日曜日

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」

2015年3月8日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅱ 2章8節~13節


いつも思っていなさい
 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(8節)と書かれていました。聖書協会訳では「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」となっていました。そのように、「思い起こしなさい」はただ今一度のことを言っているのではなく、ここでは継続を表す表現が用いられています。「繰り返し思い起こしなさい」あるいは「いつも思っていなさい」という意味です。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そうパウロがテモテに書き送ったのには理由がありました。この章の始めにはこう書かれているのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(1節)。強い人にはこう言う必要はありません。テモテが弱さを覚えていたからこそ、パウロはこのように語っているのです。

 テモテは小アジアのリストラの人でした。父親はギリシア人、母親は信仰深いユダヤ人でした。やがて彼の母と祖母がキリスト者になりました。その子テモテもキリスト者となり、その地域の兄弟たちの間で評判の良い人でありました。そのようなテモテを第二回伝道旅行の途中にあったパウロが見出し、彼を伝道旅行に同行させました。こうしてテモテはパウロの同労者となりました。

 やがて月日は流れ、この手紙が書かれた頃、パウロは獄中に囚われの身となっています。テモテはエフェソの教会の世話をしながら、パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっていました。しかし、テモテの働きは困難を極めていました。それはテモテに宛てられた二つの手紙を読むとよくわかります。彼は肉体的にも精神的にも弱さを覚えていました。

 この手紙の1章6節にはこう書かれています。「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」。ここで「神の賜物」と言われているのは、彼に与えられている牧者としての務めのことです。それを「再び燃え立たせるように」と勧められているということは何を意味しますか。火が消えかかっている状態だったということです。

 そのようなテモテに対してパウロは言うのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」。一見すると「そんな弱いことでどうするか。もっと強くなれ!」と叱咤激励しているように見えなくもありません。しかし、そうではないのです。「強くなりなさい」とありますが、正確には「強くされなさい」と受け身で書かれているのです。誰によってですか。何によってですか。「キリスト・イエスにおける恵みによって」です。

 弱さを覚えている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。強さを必要としている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。ですから、今日お読みした箇所においてもパウロは言っているのです。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」すなわち「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と。

死者の中から復活されたキリストを
 「いつも思っていなさい。」そうです、信仰生活とはキリストのことを繰り返し思い起こす生活です。自分に思いを向けて、ひたすら自分を振り返る生活ではありません。自分は変わったか、自分の弱さは克服されたか、自分は強くなったかをひたすら確認しながら生きる生活ではありません。キリストをいつも思っている生活です。

 その生活を具体的に表しているが週毎の礼拝です。そこで行われる「聖餐」です。私たちが行う「聖餐」は、イエス様が「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われた言葉に基づいて行われます。「記念して」とは「思い起こして」という意味です。そのように、繰り返し思い起こして、いつもキリストのことを思って生活するのです。

 しかし、「キリストのことを思い起こす」とはどういうことでしょう。キリストをどのような御方として思い起こすべきなのでしょう。今私たちは受難節の中にあります。キリストの御苦しみを思う季節です。そこで繰り返し思い起こされるのは苦しんでおられるキリストの姿でしょう。私たちは繰り返し、十字架にかけられたキリストのお姿を思い起こします。

 ところが、今日の箇所でパウロが思い起こすように言っているのは、キリストが苦しんでいる姿ではありません。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」に続けてパウロはこのように言っているのです。「わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(8節)。

 思い起こすべきはダビデの子孫として生まれたキリストです。待ち望まれたまことの王として来られたキリストです。神がすべての名の上に置かれ、権威と力を与えられたキリストです。

 その王なるキリストは「死者の中から復活された」お方です。もちろん「死者の中から」というのは十字架を前提とした言葉ですから、十字架にかけられたキリストを思い起こすことは除外されてはいません。しかし、キリストは十字架に留まってはおられないのです。墓の中に留まってもおられないのです。細かいことを申し上げますと、「死者の中から復活された」というのは、過去の出来事として語られているのではなくて、「復活されて今も生きておられる」というニュアンスの表現が用いられているのです。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そのイエス・キリストとは復活されて今も生きておられるまことの王です。そうです、パウロ自身もその御方を思いながらこの手紙を書いているのです。ですから彼はこう続けます。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(9節)。

耐え忍びつつ
 パウロは復活して今も生きて支配しておられるまことの王を告げ知らせながら、その一方においてその福音のゆえに鎖につながれています。そこにはパウロの弱さがあります。パウロの限界があります。パウロはより大きな力を持つ人々によって自由を奪われました。パウロよりも強い人間によって投獄されたら、もはや自由に語ることもできません。パウロの願いはあっても願い通りには動けない。そこには弱さがあります。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「しかし、神の言葉はつながれていません」。パウロが弱かろうが、パウロがより強い力のもとで制約を受けようが、なんら問題はないのです。パウロの願い通りに動けなかろうが、なんら問題はないのです。なぜなら、パウロは弱くてもキリストは弱くないからです。

 王なるキリストは生きておられる。ならばキリストの御業は人間の弱さにかかわらず前進していくのです。神の言葉は前進していくのです。人間を鎖につなぐことはできても、キリストの御業である神の言葉の宣教は鎖につなぐことはできないのです。実際、王なるキリストは、かつて鎖につながれるどころか、十字架に釘づけられて、殺されて、墓に葬られて、大きな石で塞がれても、そでも閉じ込められることはなかったのです。神の言葉はつながれることはなかったのです。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。テモテは弱さを覚えている時であるからこそ、キリストを思い起こし、思い続ける必要がありました。人が弱さを覚える時、必要なのは《自分の内に》強さを持つことではありません。そうではなくて、《自分の外に》強さを持つことなのです。本当に必要な強さは、キリストにこそあるのです。

 そのことを知るゆえに、パウロはある意味でたいへん不思議なことを書いているのです。「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(10節)。

 ここで「あらゆることを耐え忍んでいます」というのは、具体的には獄中生活を指しています。かつてのように各地を旅して宣教することはできません。ただ今置かれている状態を耐え忍ぶしかないのです。その状態を覆すこともできません。弱い者としてそこにいるからです。弱い者はただ耐え忍ぶことしかできないのです。

 しかし、パウロは、彼が「あらゆることを耐え忍んでいる」のは、「彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」であると言うのです。こちらにおける弱さのゆえの忍耐。あちらにおける誰かの救い。この二つは普通どう考えてもつながらないではありませんか。

 実際、何かを耐え忍んでいる時は、ただ無意味な時間ばかりが過ぎていくように思えるものです。それが何か意味あることにつながっているとは思えない。しかし、パウロはそこでキリストを思い起こしているのです。今も生きておられ治めておられるまことの王を思い起こしているのです。その御方の支配の中に、そのご計画の中に、自分が耐え忍んでいる時間も存在していることを知っているのです。その忍耐を誰かの救いのために用いることができる御方を知っているのです。この御方が、つながりようのない二つをつなげてくださることを知っているのです。

 もちろん、パウロの忍耐と誰かの救いについて、その論理的なつながりは語ろうと思えば語れなくはありません。例えば、パウロの獄中生活があったからこそ、そこから書かれた手紙が後に新約聖書の一部として読まれることになった。その人間の救いに果たした役割は計り知れない。そのようなことは語り得るでしょう。

 しかし、恐らくパウロにとって自分の忍耐と他者との救いの間の論理的なつながりなど、どうでもよかったのです。どうつながるかは主が知っておられる。主が知っておられればよいのです。パウロにとっては困難の中にあって弱さを覚える時こそ特に復活して今も生きておられる王なるキリストを思う時でした。そのように弱さを覚えるテモテにも繰り返し思い起こして欲しかったのです。私たちはただ、すべてを治めておられる王なるキリストに目を向けて生きていたらよいのです。この言葉は私たちに対しても語られています。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。

2015年3月1日日曜日

「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

2015年3月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章14節~26節


サタンとその支配
 「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」(14節)。このような言葉から今日の福音書朗読は始まりました。

 ここに書かれているのは、口の利けない人がしゃべれるようになったという話です。その人は口が利けないという苦しみから解放されました。口が利けなくなったという災いが取り除かれました。しかし、聖書はこれを単に苦しみと災いの除去として語っているのではなく、殊更に悪霊の追放として伝えています。イエス様も明らかに悪霊の追い出しを意識して事を行っているのです。

 この出来事を目撃したある人々は言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。するとイエス様は、こう言われました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。

 イエス様はここでベルゼブルを「サタン」と言い換えています。イエス様はしばしば「サタン」に言及しています。ここではサタンについて語るだけでなく、「その国」について語っています。「その国」というのは正確には「その王国」という言葉です。イエス様はサタンとその王国を見ていたのです。

 「サタン」とはもともと「敵対者」を意味する言葉です。誰に敵対しているのか。神に対してです。イエス様はその人を苦しみから解放されました。しかし、イエス様が目を向けていたのは苦しみや災いそのものではありませんでした。そうではなくて、この世界に神に敵対する力が働いていることを見ていたのです。神に敵対する王国を見ていたのです。神に敵対する勢力が人間を支配しているのを見ておられたのです。

 サタンは神の敵です。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとはその交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 サタンは古代の迷信ではありません。サタンは目に見えませんが、サタンの支配は目に見えます。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ命の喜びがあることが分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿。自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいえ、そうではありません。愛なる神の御心に敵対する力が支配しているのです。そのようなサタンの支配する世界に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、そのようにサタンの支配する世界のただ中において、イエス様はもう一つの王国について語られます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。今日の福音書朗読が伝えている悪霊の追放、福音書において繰り返し語られている悪霊の追放という行為は、まさに神の国が来ていることのしるしに他ならないということです。

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは何を意味するのでしょう。イエス様はこんな譬えを語られました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。

 もうお分かりでしょう。この喩えにおいて「強い人」とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。人間はそのままではそこから逃れることができません。強い人サタンが武装しているからです。しかし、もっと強い人が来られました。それはキリストです。もっと強い人が来て、武装しているサタンに打ち勝ってくださる。イエス様は御自分について語っておられるのです。

 そうです。既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。イエス様がこの世に来られたとはそういうことです。イエス様は単に良い教えを携えて来られたのではありません。イエス様は単に良い模範を携えて来られたのではありません。そうではなくて、イエス様は「神の国」を携えてこられたのです。私たちに神の国を与えるためです。私たちが神の国に生きるためです。

 イエス様の宣教は神の国を与えるためでした。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも神の国を与えるためでした。イエス様が復活されたのも神の国を与えるためでした。神の国を与えるために、キリストは天に上げられ、神の国を与えるために聖霊を注いでくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、主は私たちに教会を与えてくださいました。洗礼を与えてくださいました。聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、信仰生活を与えてくださいました。

 私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです。神に背を向けて生きてきた人が、神の方に向き直るのです。神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、そのサタンの力から解放されて、再び愛し合う関係と交わりへと回復されるのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、そのサタンの力から解放されて、神の像として創造された自分の尊さに目覚めるのです。そして、尊厳をもって、尊いものとして、自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。そうです、神の国は来ているのです。神の国における生活は既に始まっているのです。

空き家にしてはなりません
 しかし、私たちはまた、信仰生活において経験するのは、神の国のごく一部分でしかないことを知っています。「私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです」と申しました。そうです、これはまだ始まりに過ぎません。神の国は来ています。しかし、サタンの支配がこの世から消え去ったわけではありません。私たちはまだ戦場にいるのです。戦闘は続いているのです。最終的な勝利、完全な救いについては、私たちは未来に待ち望んでいるのです。そのように信仰生活というものは、既に与えられているものと未来に約束されているものとの間にあるのです。

 そのような私たちの生活に関わることとして、イエス様はなお一つの短い話をなさいました。こんな話です。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(24‐26節)。

 ここにはキリストによって与えられる信仰生活が《何でないか》がはっきりと現れています。この話の背景となっているのは、律法に従った清さと正しさが求められていたユダヤ人社会です。

 宗教的な生活という意味では、既に彼らの身近なところにファリサイ派の人々が実戦していた生活がありました。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちは既にいたのです。

 しかし、イエス様が与えようとしているのは、そのような生活ではないのです。ただ清さだけが求められるところには、別の汚れたものが満ちてしまうことをご存じだったのです。

 ルカによる福音書にだけ出て来るこんな話があります。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(18:10-13)。

 ファリサイ派の人が言っていることに偽りはなかったでしょう。言っているとおりに生活していたのだと思います。しかし、きれいにしたその家に別のものが満ちているではありませんか。掃除して飾り付けた空き家には、さらに悪いものが入ってくるのです。

 ですから空き家にしてはならないのです。信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくることではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることなのです。私たちの心に、そして私たちの生活に恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家をつくることなのです。

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