2015年2月22日日曜日

「人はパンだけで生きるものではない」

2015年2月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 4章1節~13節


 今日の聖書箇所は、イエス様が悪魔から誘惑を受けられたという話です。このような「悪魔」が出て来る話にリアリティを感じられないという人はいるかもしれません。しかし、「誘惑」の話を身近なことと考えられない人はいないでしょう。罪への誘惑を受けたことのない人はいないはずですから。今日は「誘惑」について聖書の語ることに耳を傾けたいと思います。

理に適った善いアドバイス?
 今日の箇所は「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(1節)というところから始まります。悪魔から誘惑を受けられたのは、そのような御方だったということです。

 「誘惑を受けたことのない人はいないはず」と申しました。今、誘惑を受けている人、誘惑と格闘している人もいることでしょう。そのこと自体を恥ずべきことと考える必要はありません。キリストでさえ誘惑を受けられたのです。

 また、「誘惑を受けるのは信仰が弱いからだ」と考える必要もありません。聖霊に満ちていたイエス様は誘惑を受けられたのです。神から愛されていないから悪魔から誘惑されるのだと考える必要もありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22節)と言われた方が誘惑を受けたのです。むしろ神の子として愛されているゆえに神の子として悪魔から誘惑されたのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは言いました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。キリストは誘惑を受けられましたが罪を犯すことはありませんでした。

 今日の箇所では特に三つの誘惑について語られています。今日は特に最初の誘惑に注目しましょう。悪魔が言った言葉はこうでした。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。

 これが語られたのは、荒れ野での期間も四十日となるときでした。その間、何も食べなかったと書かれています。イエス様は空腹を覚えられた。そこで悪魔が語りかけたのが先の言葉です。

 空腹を覚えておられるイエス様に対するとても親切なアドバイスです。悪魔が私たちを憎んでいたとしても、必ずしも災いや苦しみを持ってくるわけではありません。むしろ親切なアドバイスをもってやってくるのです。「こうすれば苦しみから逃れられますよ」と。

 もっともキリストに対して悪魔がただ個人的な苦しみから解放されるためのアドバイスをもってきたとは思えません。救い主であることを知っているのですから。個人的な飢えを解消するためならば、石をパンにしなくても、町に戻ってパンを買って食べたらよいのです。しかし、世の中の飢えた人すべての問題を解決しようとするならば、多くの石をパンにするというのは実に魅力的なアイデアです。

 さて、ここに至ってもう一つのことが見えてきます。「この石にパンになるように命じたらどうだ」という言葉は、イエス様に対してだからこそ誘惑になるのです。私にとっては誘惑になりません。石をパンにする誘惑を受けたことは未だかつて一度もありません。できないからです。できない人にとっては誘惑にならないのです。

 悪魔の誘惑はできることについて受けるのです。私たちはしばしば自分の弱さについて誘惑を受けるのではなく、自分の強さについて誘惑を受けるのです。力にせよ、立場にせよ、モノにせよ、持っていないものについて誘惑を受けるのではなく、持っているものについて誘惑を受けるのです。悪魔は「それを用いなさい」というアドバイスを持ってくるのです。

 そこで「悪いことのために用いなさい」というならば、悪魔らしいので誘惑だとすぐにわかります。「自分の立場を利用して公金を横領しなさい」というのなら、悪魔らしいのですぐにわかります。しかし、悪魔は必ずしも悪いことのために用いよとは言いません。「この石にパンになるように命じたらどうだ」。そうすればイエス様自身の飢えを満たすことができるばかりでなく、多くの人の飢えを満たすことができるのです。それは善いことではありませんか。

 このように、「この石にパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の言葉は、その能力を持っているイエス様に対して語られるならば、極めて理に適った勧めでありますし、しかも善なる目的に向かった非常に良いアドバイスに見えるのです。そうです、やっかいなことに悪魔の誘惑は必ずしも悪には見えないのです。

人はパンだけで生きるものではない
 だからこそ、イエス様がなぜこの言葉を退けられたのかを知ることが重要になるのです。続きをお読みします。「イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(4節)。「書いてある」というのは「聖書に書いてある」という意味です。イエス様が引用しているのは申命記8章3節の言葉です。

 「人はパンだけで生きるものではない」。それをここにいる私かあるいは他の誰かが無前提で語ったら、「それはパンを持っている人の言い草だよ」と言われるかもしれません。あるいは「それは現実から遊離した精神主義だ」と言われるかもしれません。しかし、聖書を引用してこれを語っているのはイエス様なのです。イエス様の言葉として聞かなくてはならないのです。

 これは私たちと同じように体を持つ人間として、飢えることがどういうことかを知っている方の言葉です。これは飢えている人々の間に生きられた方の言葉です。そして、その飢えを現実的に満たす力を持っている方の言葉です。 先週朗読された聖書箇所にもありましたけれど、男だけを数えても五千人にのぼる大群衆にイエス様がパンを与えられたという話が四つの福音書すべてに書かれているのです。

 そのことはまた、そのような物語を伝えてきた教会が、現実的に人間の必要が満たされることを決して小さなこととは考えなかったことを意味します。パンは必要なのです。実際、イエス様も「パンは必要ない」とは言っていないのです。イエス様はパンを与えてくださったのです。

 しかし、そのイエス様が申命記を引用して言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない」と。そこには悪魔の誘惑があることを知っていたからです。「人はパンだけでも生きられる」と思ってしまう誘惑があるからなのです。「パンさえあれば」と思ってしまう誘惑がある。あるいは「パンさえ与えることができたなら」と思ってしまう誘惑があるからなのです。

 実際、私たちは人間の様々な具体的なニーズさえ満たされればよいと思ってしまうものです。飢えている時にはパンのことしか考えられないように、何かを必死に求めているときには、その求めが満たされることしか考えられなくなります。具体的な欠乏のために苦しんでいる人を見たら、その求めを満たすことの重要性しか考えられなくなります。しかし、イエス様は言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない」。そう言って、悪魔の誘惑を退けられたのです。

 では「パンだけで生きるものではない」ならば、何が必要なのでしょう。イエス様が引用した申命記のもとの言葉はこうなっています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。

 イエス様が思い起こしていたのは、かつて荒れ野において同じように飢えていたイスラエルの人々のことでした。イスラエルが荒れ野を旅していた時のことです。そのとき、神は「マナ」という食べ物を与えてくださいました。それはただ彼らの飢えを満たすためではありませんでした。そうではなくて、彼らが「マナ」を与えてくださった神と共に生きるためだったのです。神に信頼し、神に従って生きるようになるためだったのです。主の口から出るすべての言葉によって生きるためだったのです。

 目に見える人間のニーズが満たされることは大事です。しかし、目に見える人間のニーズの満たしのことしか考えられなくなるところには誘惑があります。悪魔は私たちに石をパンに変えろとは言いません。できませんから。しかし、できることについて「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」と勧めてくるかもしれません。

 しかし、そこで必要の満たしのことしか考えられなくなったら、誘惑に陥っていないか省みる必要があります。いつの間にか神とその御言葉から引き離されているかもしれないからです。レントに入りました。私たちにまず与えられているのは、「人はパンだけで生きるものではない」という主の言葉です。

2015年2月15日日曜日

「五つのパンと二匹の魚」

2015年2月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 9章10節~17節


主が迎えられるなら
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。そうイエス様は弟子たちに言われました。「彼ら」とは集まっていた大群衆です。男だけでも五千人はいたと言います。女性と子どもを合わせたら一万人を越えていたことでしょう。

 なぜそのような大群衆がそこにいたのか。イエス様がベトサイダにいることが知れてしまったからです。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」と書かれています。しかし、それだけではありません。なぜそこに大群衆がいたのか。イエス様が彼らを「迎え」たからです。「イエスはこの人々を迎え」と書かれている。11節に使われているのは「喜んで迎える」という意味の言葉です。

 弟子たちからすれば想定外のことでした。予定では彼らとイエス様だけで静かに過ごすはずでしたから。イエス様はどうして「予定がある」って言って断ってくれなかったのでしょう。「弟子たちも宣教旅行の後で疲れているのだから」とどうして言ってくれなかったのでしょう。

 ともあれイエス様はそうなさいませんでした。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。もちろんスケジュールはイエス様がお決めになるのです。仕方ありません。イエス様がお働きを終えたら、ともかく群衆を早々に解散させたらよいと弟子たちは考えていたのでしょう。

 次第に日も傾きかけてきました。十二人の弟子たちはそばに来てイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。

 ユダヤ人の社会では旅人をもてなすことが美徳と考えられていました。あの大群衆も個々人については旅人ですから、それぞれ散り散りに村々に行くならば、彼らを迎え入れてくれる家もあるでしょう。食事を出してくれる家もあるでしょう。なければお金を出して宿を取り、食べ物を買うまでのことです。

 ところがイエス様は弟子たちにこう言われたのです。「《あなたがたが》彼らに食べ物を与えなさい」。「彼ら」とはイエス様が迎えた人々です。そうです、イエス様が迎えたのです。しかし、今度は弟子たちがこの大群衆を迎えなくてはならなくなりました。「あなたがたが食べるものを整えて、彼らを迎えてもてなしなさい」と主は言われるのです。そうです。イエス様が彼らを迎えたのなら、弟子たちもまた彼らを迎えることになるのです。

 私たちはしばしば喜びをもって、どんな人をも受け入れてくださるイエス様について語ります。「イエス様は全ての人を愛しておられます」「イエス様は全ての人を招いておられるのですよ」と口にします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の言葉を嬉しく受け止めます。しかし、私たちもまた考えなくてはなりません。イエス様が招かれるのなら、私たちもまた招き迎えることになるのです。

 来週、私たちは教会総会を行います。そこにおいて来年度の計画案も審議されます。今年度の年度主題は「伝えよう!神の愛!」でした。来年度掲げようとしている年度主題は「共に捧げる礼拝への招き」です。この礼拝への「招き」という言葉は「招かれること」と「招くこと」の両者を意味します。共に捧げる礼拝に招かれていることについて考える。それが一つ。そして、もう一つは、共に捧げる礼拝に招くことについて考える、ということです。

 そこで問題は、礼拝に招く主体は誰かということです。第一に、それは主御自身である。主が礼拝へと招いて迎えられる。それは間違いないでしょう。しかし、主が招いて迎えられるならば、それはまた私たちが礼拝へと招いて迎えるということでもあるのです。群衆を喜んで迎えられたイエス様が言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と。

天からの恵みを分かち合う
 さて、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた弟子たちは、すぐさま「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)と答えました。もちろん弟子たちはすべての人々のために食べ物を買いに行くつもりなどありません。要するに「無理です」ということです。パン五つと魚二匹しかないのに、彼らに食べ物を与えるのは絶対に無理です、と。

 しかし、彼らが持っているもので足りないことなど、イエス様は重々ご承知なのです。その上で彼らを人々に向かわせられたのです。

 そう言えば似たような場面がありました。十二人が村々へと遣わされた時のことです。遣わすに当たり、主はこう言われたのです。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)。こんなことをすれば人々に何かを差し出したくても出すものがありません。「わたしたちには何もありません」と言わざるを得ない。しかし、そんなことは重々承知の上でイエス様は遣わされたのです。なぜか。彼らがそこで宣教の旅において手渡すのは、単に自分が持っているものではないからです。

 イエス様は五つのパンと二匹の魚を手にして途方に暮れている弟子たちにこう命じられました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)。弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。その後に起こった出来事は、次のように記されています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16‐17節)。

 いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得ようか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、そこで何が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語が伝えようとしているメッセージそのものは明瞭です。群衆が満たされたとするならば、それは弟子たちの持っていたものによってではなかった、ということです。

 弟子たちは群衆を満たすだけのものは持っていませんでした。しかし、それを弟子たちはイエス様に差し出した。イエス様がそれを受け取られた。そして、イエス様が祝福し、裂いて弟子たちに渡してくださった。弟子たちはそれを汗水流して人々のもとに運んだのです。そうです、それがキリストの意味した、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」ということだったのです。

 では、そこで弟子たちがキリストから受け、群衆に手渡したものはいったい何だったのでしょうか。群衆が受けたものはいったい何だったのでしょうか。パンと魚。食べる物。確かにそうです。しかし、群衆がただパンと魚を食べて満腹したというだけならば、本質的には私たちがバイキングに行って受けるものと変わりません。そんなことを伝えるためにこの物語が四つの福音書に記されているのではないのです。

 彼らは単にパンと魚によって満たされたのではありません。そうではなくて、天の恵みを共に分かち合う喜びによって満たされたのです。そのパンが弟子たちの懐からではなく天から与えられていることは明らかだったからです。彼らの多くは、かつてイスラエルが荒れ野において「マナ」と呼ばれる天からのパンによって養われたことを思い起こしたことでしょう。あるいは詩編において「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23:1)と歌われていることを思い起こしたことでしょう。そして、メシアの王国が到来する時に、そこで祝宴が行われるという人々が抱き続けてきた希望を思い起こしたことでしょう。群衆が味わっていたのは、まさに神と人とが共にあり、人と人とが共にあって恵みを分かち合う神の国の喜びだったのです。

これはわたしの体である
 考えてみれば、それは本来、集まっていた群衆と全く無縁のものではなかったはずです。というのもイエス様がそこで口にした賛美の祈りの言葉は、恐らくユダヤ人なら誰でも知っている祈りの言葉であったに違いないからです。食事において捧げられる讃美の祈りがある。それは本来食事というものが、天から与えられて分かち合われるものであることを意味します。それは神と人との交わり、人と人との交わりを指し示しているものであるはずなのです。

 そのように食事というものが本来持っているはずの喜びが、ここで改めてリアルに手渡されることになりました。天の恵みを共に分かち合う喜びがとてつもなく豊かに手渡されることになりました。なぜでしょうか。その食卓の主として賛美の祈りを捧げてパンを手渡しているのが、他ならぬイエス・キリストだからです。神と人とが共に住み、人と人とが共に住む神の国をもたらすために、私たちの救いのためにこの世に来られたメシアだからなのです。

 この福音書を読んでいきますと、この場面と同じように、食卓の主人として祈りを捧げるキリストの姿に行き当たります。22章に記されている最後の晩餐の場面です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。

 そして私たちは、その主の言葉どおりに事が進んでいったことを知っています。「これはわたしの体である」と言われた主は、その言葉のとおり、パンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりでした。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれたのです。イエス様は私たちの罪の贖いのために、自らの体を、自らの命を裂いて渡してくださいました。私たちが罪を赦された者として、神と共に生き、人と共に生きるようになるためです。あのガリラヤの草の上で人々が味わい知ったことが、本当の意味で実現するためでした。

 そのようにキリストは神に感謝して御自分の体を裂いて私たちに手渡してくださいました。しかし、それはただ私たち自身が満たされるためではありません。主が迎えられる人々がいるのです。主は言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主が迎えられる人々を、主の命を差し出して私たちもまた迎えるのです。彼らと共に主の命を分かち合い、天からの恵みを分かち合い、喜びに満たされるようになるために。

2015年2月8日日曜日

「あなたの罪は赦された」

2015年2月8日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章12節~26節


人よ、あなたの罪は赦された
 「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」(15節)と書かれていました。そんなある日の出来事が17節以下に記されています。

 その日も大勢の人々がイエス様のおられる家に詰めかけていたようです。マルコによる福音書には「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(マルコ2:2)と書かれています。多くは病気の癒しを求めてやってきた人々なのでしょう。そして、確かに病気の癒しの話が書かれている箇所です。しかし、この日の出来事が伝えられる時に、まず登場してくるのは病人ではないのです。ファリサイ派の人々と律法の教師たちなのです。

 「この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」(17節)と書かれています。彼らもまたうわさを聞きつけてやってきたのです。「イエスが教えておられると」と書かれていますように、その教えを調べるためです。律法にかなった正しい教えなのか、その言葉を聞いて判断するためです。彼らは宗教的な指導者たちですから、群衆を集めている男を律法的な観点から監視するためであったと言えるでしょう。

 そのような人々がまず登場してくる。そして、この先を読むと分かるのですが、彼らはあらゆる場面に登場してきて、その関わりが最後まで続くのです。物語全体を貫いているとも言えます。実際、今日の箇所で彼らはイエス様について「神を冒涜するこの男」と判断しているわけですが、その判断が最後まで貫かれることになるのです。罪状としては神を冒涜したというかどによってイエス様は処刑されることになるのです。

 さて、そのようにファリサイ派の人々もいるところに中風を患っている人が床に乗せられたまま運ばれてきました。しかし、先にも触れましたように、戸口の辺りまですきまもないほどですから、群衆に阻まれてイエス様の近くにお連れすることができません。

 そこで病人を連れてきた男たちは彼を屋根の上にかつぎあげます。多くの日本の家屋のような斜めの屋根ではありません。だいたいは平らであって、屋根に上がるための階段も家の外にあるので不可能ではありません。しかし、それでも人間ひとりを屋根に上げるのは大変な労力でしょう。しかも、それだけではありません。彼らは他人の家の屋根を破壊し始めたのです。瓦をはがし、大きな穴をあけ、イエス様の前に中風の人を床ごとつり降ろしたのです。驚くべき熱意です。このような友人を持った人はなんと幸いなことでしょう。イエス様のもとに連れていってあげたい一心で、人の家まで壊すのですから。

 しかし、そうまでしてつり降ろした病気の人に対して、イエス様が言われた言葉は「病気を癒してあげよう」ではありませんでした。イエス様は開口一番、その人に向かってこう宣言されたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)。

 もちろん中風であることは苦しいことでしょう。体が動かないことは辛いことでしょう。病気であったなら、治りたいことでしょう。しかし、イエス様には分かっているのです。病気を癒して欲しいという求めよりも、もっと深いところにある根源的な求めが何であるか。魂が最も深いところで切望しているのは何であるのか。それは罪の赦しだったのです。彼に最も必要だったのは罪の赦しだったのです。それゆえに主は彼に宣言されたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」。

 これは私たちすべての人に関わっていることであると言えるでしょう。病気の癒しが必要なのは病気の人です。ですから体が元気な人ならば、私には病気の癒しは必要ないと言えるかもしれません。しかし、神によって罪を赦していただく必要のない人はいないのです。聖書ははっきりと語っています。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)と。

 しかし、罪の問題は体の健康の問題とは明らかに異なります。中風であったなら、病は自覚できるでしょうし、他の人の目にも明らかです。ですから、そこから病の癒しを求めるということも起こってくるでしょう。しかし、人間の罪は、神の目には明らかであったとしても、人間の目に隠されていることの方が多いのです。他の人々の目に隠されているだけでなく、自分の目にも隠されている。自分自身の罪を自覚できないことの方がはるかに多いのです。それゆえにまた、罪の赦しを求める魂の根源的な切望も自覚できないことの方がはるかに多いのです。

 実際、イエス様が「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言した時、そこに何が起こったのか。「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか』」(21節)と書かれているのです。

 「いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というこの言葉は、自分は罪人であると思っている人の言葉でしょうか。罪の赦しを切望している人の言葉でしょうか。そうではないでしょう。神のみが罪を赦すことができるということは分かっています。罪の赦しについて教理的には知っています。罪の赦しに関わる祭儀として律法が何を定めているかも知っているのでしょう。しかし、それはあくまでも他人事です。罪の赦しについて語っていますが、神に裁かれるべき罪人として罪の赦しを切望しているわけではないのです。

どちらが易しいか
 ですから、イエス様は彼らにこう問わざるを得なかったのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(23節)。もちろんイエス様が言っているのは、ただ口で言うことの易しさの話しではありません。口で言うだけなら両方易しい。誰でもできます。しかし、実質を持つ宣言としてはどちらが易しいか、となると答えは単純ではありません。

 恐らく私たちが考えるならば、「起きて歩け」と言う方が難しいのでしょう。実際にその宣言をもって癒して歩かせるのは難しい。奇跡が起こらなくては無理です。私にはできません。それに比べたら「あなたの罪は赦された」と宣言するのは簡単そうです。

 しかし、ここで重要なのは、本当はどうなのかということなのです。イエス様から見るならばどうなのか。イエス様にとってどちらが易しいのか。罪の赦しを与えることと病気の癒しを与えることと、どちらが易しいのでしょう。

 イエス様は中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行ったのです。そのように、イエス様にとっては病気を癒すことは決して難しいことではないのです。罪の赦しを与えることよりも遙かに易しいことだったと言えるのです。

 なぜ病気の癒しを与えることの方が易しいのでしょう。病気の癒しを熱心に求める人は少なくないからです。人は病気を癒してくださる恵み深い神は熱心に求めるのです。そして、癒しを差し出されるならば、大喜びで、感謝をもって受け取るのです。いや究極的には、本人に受け取る意志がなくても、癒しは強制的に与えることもできます。そして、病気が癒されれば体は健やかになります。

 しかし、罪の赦しについてはそういかないのです。罪の赦しの本質は交わりの回復です。神との交わりの回復なのです。そして、神との交わりの回復ということは、神がいかに恵み深く臨んだとしても、一方通行では成り立たないのです。交わりとはそういうものでしょう。「あなたの罪は赦された」という言葉だけでは意味をもたない。ここで問題となっているのは実質的に意味を持つ宣言として、どちらが易しいかということですから。

 「あなたの罪は赦された」という宣言が真に意味を持つのは、その人が罪を赦された人として立ち上がり、感謝して神と共に歩いて行くときなのです。そのためには、人間の側の罪の自覚と悔い改めがどうしても必要なのです。 ですから、イエス様にとっては、自分は正しい人間であると思い込んでいるファリサイ派の人々や律法学者こそ、最も難しい存在だったのです。彼らと関わるより、おびただしい数の病人に関わって癒す方が、はるかに容易なことだったのです。

 イエス様には、癒すことのできない病気はありませんでした。追い出すことのできない悪霊もいませんでした。しかし、イエス様であっても、罪を認めさせることのできない罪人は数多くいたのです。人間の頑迷さは、イエス様の宣教の働きの前に、最後まで強固に立ちはだかっていたのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。イエス様にとっては、「起きて歩け」と言う方がはるかに易しいことでした。

 しかし、イエス様には分かっていたのです。その容易ならざることのためにこそ御自分来られたということ。人に罪の赦しを与え、人が神との交わりに生きるようになるためにこそ主は来られたということ。そのためにこそ、神の権威が与えられていたこと。そのためにこそ、命を捧げなくてはならないこと。十字架へと向かわなくてはならないこと。自ら苦しみ抜いて十字架の上で死ななくてはならないことを主はご存じだったのです。

 それゆえに、主は御自分のなそうとしていることを示すしるしとして、この中風の人を癒されたのでした。イエス様が言っておられるように、罪を赦す権威が与えられていることを示すためにです。すなわち、憐れみ深い神がイエス様を通して罪の赦しを与えようとしていることを示すためにです。その他の場面においてなされている癒しの奇跡もまた、そのことを指し示すしるしとして意味が与えられているのです。

 そのようなキリストが、今も生きて働いておられるのです。私たちの根源的な必要がどこにあるかを教え、示し、悔い改めへと導いてくださる。そして、今も罪の赦しを宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦された」と。教会はそのようなキリストの体なのです。罪の赦しを宣言し、神との交わりを回復させるために、今も働いておられるキリストの体なのです。





2015年2月1日日曜日

「実を結ぶ神の言葉」

2015年2月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章4節~15節


聞く耳のある者は聞きなさい
 今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」(4‐8節)。

 「大声で言われた」とありますが、そこで用いられているのは「呼びかける」という言葉です。イエス様は「呼びかけて言われた」。さらに言うならば、これは「呼びかけ続けていた」という意味合いの表現です。ある時に一回だけこのたとえ話を話して、そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのではないのです。そうではなくて、イエス様は繰り返し呼びかけ続けておられた。つまりここに描かれているのは一つの典型的な場面なのです。イエス様はこのように町々村々で繰り返し呼びかけ続けてこられたということなのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 そのようなイエス様のお働きを、イエス様御自身は「種蒔き」として見ておられました。蒔かれる種、それは「神の言葉」だと説明されています(11節)。イエス様は「神の言葉」という種を人々に蒔きながら、繰り返し呼びかけておられたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 「種」――それは小さいものです。砂粒にも似ています。しかし、種と砂粒とは異なります。種の内には命があります。それゆえに種の内には豊かな実りの可能性があります。百倍の実りを生み出す可能性が秘められているのです。

 しかし、それはあくまでも可能性に留まります。実りは種だけによって決まらないからです。実りはその種を受け入れる土地によって異なるのです。すなわち、神の言葉が語られても、聞き方によって結果が異なるのです。それゆえに、イエス様は呼びかけ続けられるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。そう語られるのは、様々な聞き方があるからです。

四種類の土地
 イエス様は宣べ伝えられた御言葉の様々な「聞き方」について、これを四種類の土地によって表現されました。第一は「道端」です。

 道端に落ちた種はどうなるか。「人に踏みつけられ」と書かれています。神の言葉が、そのように聞く人によって踏みつけられることがあります。受け入れられることなく拒絶され、卑しめられることがあるのです。こうして踏みつけられた種は空の鳥に食べられてしまいます。

 このことについて、イエス様はこのように説明していました。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)。

 それは実際、イエス様の宣教において常に起こっていたことでした。集まった大勢の群衆の中にはいつでもファリサイ派の人たちや律法学者たちがいたのです。疑いと敵意とをもって聞いている人たちがいたのです。彼らにも同じ言葉が語られていたのです。しかし、同じ言葉が語られていても、拒絶された神の言葉は実を結ぶことはありませんでした。

 そして第二は「石地」です。石地に落ちた種はどうなるのでしょう。その種は踏みつけられることはありません。しっかりと芽を出します。しかし、やがて枯れてしまうのです。イエス様は次のように説明しています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(13節)。

 芽は人に見えるところにあります。根っこは人の目から隠れたところにあります。神の言葉によって生きる信仰生活において、大事な部分は人の目につかないところにあるようです。ちょうど根が大地に深く入っていってそこから水と養分を吸収するように、人の目からは隠れたところにおいて、御言葉によって神御自身にしっかりとつながっているかどうかが重要なのです。人の目につくところにおいては同じように見えても、その違いは試練において現れてくるのです。

 次に語られているのは「茨の地」です。茨の中に落ちた種はどうなるのでしょう。茨が押しかぶさってくるので伸びることができません。イエス様は次のように説明しています。「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。

 「茨」とは、一方において「思い煩い」だと言われています。思い煩いが生じるのは不足や困窮の場合です。もう一方において「茨」とは「富や快楽」だと語られています。富や快楽が問題となるのは、満ち足りている場合です。困窮していようが、満ち足りていようが、そこには成長を妨げるものがあるのです。そこには神の言葉が与えられ、救いが芽を出しているという、とてつもなく大きなことが起こっているのです。しかし、その大きなことが起こっているという事実を大切にしないで、思い煩いや富や快楽のことばかり考えていれば、成長はストップしてしまう。それが茨の中に落ちた種に起こることです。

 そして、イエス様は最後に「良い土地」について語られました。良い土地に落ちた種はどうなるのでしょう。豊かに実るのです。百倍の実を結ぶのです。神の言葉の内には確かに豊かな実りをもたらす命があることが現れてくるのです。イエス様は言われました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。

 「立派な善い心」と言われているのは、御言葉を信じて受け入れる心です。しかし、大事なのはそれだけではありません。「よく守り、忍耐して」と語られています。種が芽を出し、成長し、実を結ぶまでには時間がかかるのです。その間には先にも触れたような「試練」を経なくてはならないかもしれません。だからこそ、ここばかりではなく聖書には繰り返し「忍耐」について語られているのです。神とその御言葉を信じ続けるのです。信仰に留まるのです。そのようにして豊かな実を結ぶのが「良い土地」です。

惜しみなく蒔かれる主
 さて、イエス様がそのように四種類の土地について語られ、そのたとえがイエス様の解説と共に伝えられてきた一つの目的は、これを聞く私たちが自らを省みるためであると言えるでしょう。私たちはどのような土地であるのか。道端であるのか、石地であるのか、茨が生い茂った土地なのか、それとも良い土地なのか。この聖書箇所を読む度に私たちは考えざるを得ないのでしょう。そして、それは大切なことです。

 しかし、今日心に留めたいのはもう一つのことです。それは道端にも種が蒔かれているということです。このたとえ話においては、良い土地にだけではなく、石地にも茨の地にも種が蒔かれているのです。

 それは種の蒔き方が私たちの知っている蒔き方と違うからです。今日の観点からすれば、かなりいい加減な蒔き方です。先に耕して畝を作ってから種を蒔くわけではありません。種をつかんで畑の上に適当にばらまくのです。そうやって種を蒔いてから少し耕します。すると種が土で覆われます。適当にばらまきますから、道の上にも落ちることがある。石の上に落ちることもある。茨の残っている所にも落ちることもあるのです。

 そのような極めて大雑把な種蒔きを、イエス様はたとえに用いられたのです。イエス様は御自分がなさっていることを、そのような種蒔きにたとえられたのです。実際、イエス様のなさっていたことは、まさにその通りのことでした。良い土地だけを選んで、そこだけに種を蒔いていたのではないのです。道端にも惜しみなく種を蒔いていたのです。明らかに敵意むき出しの人々にも種を蒔いていたのです。大喜びで自分についてくるけれど、やがては離れ去っていく人々にも、惜しみなく種を蒔いていたのです。もしかしたら思い煩いや富の惑わしによってふさがれて成長しないかもしれないところにも、惜しみなく種を蒔いていたのです。

 そのようなイエス様の働きは、後の時代においても変わることはありませんでした。キリストは御自分の体である教会を用いて、御言葉の種を蒔き続けてきました。迫害する者にも、無関心な人々にも、石地であろうが茨の伸びてくる場所であろうが、キリストは御言葉の種を蒔き続けてきたのです。そして、イエス様は呼びかけ続けておられた。「聞く耳のある者は聞きなさい」。今も呼びかけ続けておられるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 皆さん、そのようなイエス様の種蒔きだからこそ、私たちのところにも種が落ちたのでしょう。だから今もなお私たちに御言葉の種が蒔き続けられているのでしょう。

 ここに語られている四種類の土地。それらは互いに離れた別な場所ではありません。イエス様が話しておられるのは一つの畑の話です。「道端」というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。「石地」もまた同じ畑の中にあります。石を一生懸命に取り除くのですが、それでもなお石が残ってしまったところです。「茨の中」も同じです。茨を一生懸命除くのですが、茨は深いところに根を張っているので、いくらでも生えてくるのです。

 すべては同じ一つの畑です。ならば、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る畑の一部なのです。どれも百倍の実りをもたらす土地となり得る畑の一部なのです。そのような、私たちとして、今、私たちはここにいるのです。キリストは実りを信じて、御言葉の種を蒔き続けていてくださいます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と今も呼びかけ続けていてくださいます。応えるのは私たちです。

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