2015年1月25日日曜日

「神は真実な方です」

2015年1月25日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1節~9節


 「神は真実な方です」(9節)。そう書かれていました。「真実な方」であるとは「信頼に値する方」であるということです。パウロは神への信頼をもって「神は真実な方です」と書いているのです。それゆえに、これを読んでいる私たちもまた、パウロの信頼の姿を共有し、パウロと共に「神は真実な方です」と宣言して、神を信じる者としてここから歩み出したいと思うのです。

コリントにある神の教会へ
 そこでまずこの手紙の書き出しに目を向けましょう。「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(1‐3節)。

 「神の教会へ」。読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、ここに私たちはパウロの神に対する信頼を見ることができます。「神の教会へ」。この手紙を読んでいきますと、その言葉にはパウロの並々ならぬ思いが込められていることが分かるのです。

 「神の教会へ」。そう呼ばれているこの教会は、この手紙を読むと分かりますが、実に問題に満ちた教会でした。今日の聖書箇所の直後には既にこう書かれています。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。要するに、皆、勝手なことを言い、仲たがいしていたわけです。

 実際、その教会には内部における分裂がありました。性的な不道徳の問題がありました。教会の中に裁判沙汰までありました。偶像礼拝や間違った教えによる混乱もありました。これを書いているパウロとの関係も、決して良好ではありませんでした。そのような教会に対してパウロは「神の教会へ」と語りかけるのです。

 「神の教会へ」という呼びかけが何を意味するのか、その後に書かれていました。「召されて聖なる者とされた人々へ」。パウロは問題だらけのコリントの教会を「召されて聖なる者とされた人々」として見ていたのです。「召されて」とは「呼ばれた」ということです。「教会」と訳されている言葉も、もともとは「呼び集められた者」という意味の言葉です。彼らが教会であるのはなぜか。彼らがそこにいるのはなぜか。彼らがふさわしい人々だからではありません。そこに愛に満ちた人々がいて慈しみに溢れた交わりがあるから教会なのではありません。神に召されて、神に呼ばれて、神に集められてそこにいるのです。だから「神の教会」なのです。

 それゆえにパウロは彼らを「聖なる者とされた人々」と呼ぶのです。「聖なる者とされた」とは「神のものとされた」ということです。聖なる者らしくなったから神のものとされたのではありません。神がただ恵みによって受け入れて御自分のものとしてくださったのです。神御自身が御子を十字架にかけて、罪の贖いの犠牲となさって、その十字架のゆえに罪を赦して、受け入れてくださったのです。そのようにして、御自分のものとしてくださり、聖なる者としてくださったのです。

 パウロはコリントの教会を「神の教会」と呼びます。彼らの問題について語る前に、まず彼らを「召されて聖なる者とされた人々」と呼ぶのです。それは召してくださった神への信頼によるのです。そして、これを読んでいる私たちもまた、同じように神への信頼によって自分を見、お互いを見るのです。「召されて聖なる者とされた人々」として見るのです。

既にしてくださったことに感謝して
 さて、挨拶に続けて、パウロは次のように書いています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(4‐7節)。

 ここにも私たちはパウロの神に対する信頼を見ることができます。パウロは神への信頼をもって、神に感謝しているのです。しかも、一時だけではなく「いつもわたしの神に感謝しています」と言うのです。それはまず人間がしていることにではなくて、神がしてくださったことに目を向けているからです。彼らが神の恵みを受けたことについて感謝しているのです。

 私たちが神への信頼をもって見るならば、確かに神が既にしてくださっていることがあるのです。既に与えてくださっているもの、既に始めてくださっていることがあるのです。私たちは往々にして神が既に与えてくださっている豊かなものに目を向けずに、欠けているところ、駄目なところにばかり目がいってしまうものです。そうすると、実に貧しく見えてくる。あれもない、これもない、と言うのです。そこから生まれるのは不平であり不満しかありません。しかし、神が既に与えてくださっている恵みに目を向けるならば、与えられているものの豊かさも見えてくるのです。

 パウロはまずコリントの人たちが既に与えられている豊かさに目を向けます。「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされているのです」と彼は言うのです。教会において語られる「あらゆる言葉」ということで考えられるのは、一つには《神を語る言葉》、すなわち宣教の言葉であり、もう一つには、《神に語る言葉》、すなわち祈りの言葉でしょう。「あらゆる知識」も同様に、神を知る知識ということでしょう。

 そうです、コリントの教会は、既にイエス・キリストを通して神の恵みを知らされているのです。彼らは、神の恵みを語ることができるのです。また神の恵みに基づいて祈ることができるのです。それこそがまさに既に与えられている豊かさではありませんか。それがキリストの成し遂げてくださった罪の贖いによるものであるならば、キリストの命の価値と等しい豊かさを既に与えられていると言うこともできるのです。

 いやそれだけではありません。「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けることがなく」と語られています。賜物においても豊かにされているのです。「賜物」が特に意味するのは主に仕えるための様々な能力です。後に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)と語られていますが、その体の部分として働くための力です。手であるならば手として、足であるならば足として仕えるためのそれぞれ異なる力です。その賜物は既に欠けることなく与えられているのをパウロは見ているのです。

 自分にせよ、他の誰かにせよ、体の全ての働きを求めるならば、できないことはいくらでもあるでしょう。「あれもできない、これもできない」と能力の欠けばかりに目が行くのでしょう。しかし、体の部分として本当に成すべきことについては、必要な力は既に豊かに与えられているのです。

 そのように、パウロは欠けにではなく、既に与えられている豊かな恵みに目を向けて、神に感謝していたのでした。それは真実なる神への信頼によるのです。

これからしてくださることを信じて
 そして、パウロはさらにこう続けます。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(8節)。このように、パウロは既に神が与えてくださっているものに目を留めていただけではありません。神がこれからしてくださることにも信頼をもってその思いを向けるのです。

 それにしても、「非のうちどころのない者にしてくださいます」という言葉には驚かされます。実際、これはまだ手紙の冒頭なのであって、これから一つ一つの問題について心が重くなるようなことをパウロはその後にたくさん書かなくてはならないことを考えると、よくもそんなことが言えたものだとも思います。

 しかし、本当は逆なのでしょう。「非のうちどころのない者にしてくださいます」と言えるからこそ、目の前に実際にある困難な現実、非のうちどころだらけの現実と忍耐強く向き合うことができたのです。これがあるからこそ、手紙の続きが書けたのです。

 「主も最後まで…」とパウロは書きました。「主イエス・キリストの日に」と彼は言います。彼が考えているのは最後に至るまでのことです。そうです、最後に至るまでは全て途中経過なのです。現在をあくまでも途中経過として見ているのです。途中経過は不完全でもよいのです。完成に向かって進んでいるのなら。

 主が既に与えてくださっているものがあります。主が既に始めていてくださることがあります。主が始めてくださったのなら、主が完成してくださるのです。パウロは、神がこれからしてくださることにも信頼をもってその思いを向けるのです。そして、彼は言います。「主は真実な方です」と。

 「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(9節)。真実な御方が、私たちを主イエス・キリストとの交わりに招き入れてくださいました。真実な御方が、このように信仰生活が与えてくださいました。パウロに見てきたその信頼の姿を共有し、「神は真実な方です」と宣言して、信頼をもってここから歩み出しましょう。

2015年1月18日日曜日

「扉が閉ざされる時」

2015年1月18日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 16章6節~15節


二度の計画変更
 今日の聖書箇所において何よりも注目に値しますのは、パウロが計画を二度も変更せざるを得なかったということです。一度目については次のように書かれています。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(6節)。

 パウロたちは、「アジア州」すなわち小アジア西部の地域に行って御言葉を宣べ伝えるつもりでいたようです。まずはその首都であるエフェソに向かおうと思っていたのでしょう。その計画自体は間違いであったようには思われません。というのもアジア州、特にエフェソは、後に福音宣教の一大中心地となっていくことになるからです。そこにパウロはいち早く注目していたということです。

 一世紀の終わり近くに書かれた書物に「ヨハネの黙示録」があります。その書物はまずアジア州にある七つの教会に宛てたキリストの言葉から始まるのです。パトモスに抑留されていたヨハネは次のように命じられたと書かれています。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(11節)。これはその頃のキリスト教会全体にとって、アジア州の諸教会がどれほど大きな意味を持っていたかを示していると言えるでしょう。

 そのような可能性に満ちた地域に目を留めて、そこで御言葉を伝えようと計画していたのがパウロでした。しかし、その彼らの計画は頓挫してしまったのです。聖書にはそのことについて「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」としか書かれてはおりません。

 それが具体的に何を意味するのかは分かりませんが、それにしても「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とはまことに不思議な言葉です。悪を行うことを「聖霊から禁じられた」というのなら分かります。利己的な企てを「聖霊から禁じられた」というのなら分かります。しかし、どう考えても悪ではないこと、神のために行おうとしていること、常識的に考えても正しいと思えることについて神からストップをかけられるというのは理解しがたいことです。実際にパウロたちにも理解できなかったのでしょう。だから「聖霊から禁じられた」としか書かれていないのです。神の霊は禁じる理由を説明してはくれませんでした。

 ともあれ、ストップをかけられたのでアジア州で御言葉を語るという当初の計画を変更して、彼らはフリギア・ガラテヤ地方を通って行きました。どこに向かってか。彼らが向かっていたのはビティニア州でした。

 その計画もまた、それ自体は間違っていたとは思われません。そこにはユダヤ人が多く住む居留区があったのです。まずユダヤ人の会堂に行ってユダヤ人たちに語りかける。既に聖書を知っている人たちに語りかける。それがパウロの伝道のスタイルでした。そこから考えても、次に向かったのがビティニア州であったことは極めて理に適ったことであると言えるでしょう。実際、後の時代にビティニア州には教会ができることになるのです。後にペトロの手紙が回覧された時、その宛先の一つとなっていたのはビティニアの教会だったのです(1ペトロ1:1)。

 そのようにパウロは当初の計画を変更してビティニア州に向かったのでした。しかし、今回はそこに入ることすらできなかったのです。聖書にはただ「イエスの霊がそれを許さなかった」としか書かれていません。そこでイエスの霊は理由を説明してはくれませんでした。

 このように一度ならず二度までも神によって扉が閉ざされることとなりました。悪だからではありません。動機が不純であったり利己的であったからでもありません。私たち人間の側からは、その時どうして神が禁じられるのか、許されないのか、扉を閉ざされるのか、分からない。そのようなことは、確かにあるのです。

 しかしここを読む限り、御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたことについてパウロたちが気に病んでいる様子は全く見られません。イエスの霊が許さなかったことについてこだわっているようにも見られません。明らかに彼らにとっての関心事は別なところにあるのです。すなわち、神がどこに進ませようとしているかということ、それだけなのです。

 そのような彼らを、神は確かに導いてくださいました。次のように書かれています。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(9‐10節)。このように、神はアジア州ではなく、まず彼らをマケドニアへと向かわせようとしておられたのです。

 確かに、パウロがアジア州で御言葉を語ろうとしたこと自体は間違いではありませんでした。やがて後の日にパウロはアジア州で御言葉を語ることになるのです。そこにはやがて多くの教会ができるのです。パウロがビティニアに行こうとしたことも間違いではありませんでした。やがて神はそこに教会を建てられるのです。しかし、神には神の順序があるのです。天地創造物語に見るように、神は御自身が定められた順序に従って事を進められる神なのです。そして、神の順序はしばしば人間が考える順序とは異なるのです。それゆえに時としてストップをかけることさえも大事なプロセスとなるのです。そのようなプロセスを通して、神は彼らをまずマケドニアへと向かわせようとしておられたのです。

出会うべく備えられていた人々
 彼らはトロアスから船出して、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行きました。「ローマの植民都市」と書かれていますように、そこはローマの退役軍人が多く入植している町でした。住民のほとんどはローマ人とマケドニア人で占められていてユダヤ人はほとんどいなかったようです。それはフィリピにユダヤ人の会堂がなかったことからも分かります。そこにあったのは川岸にある「祈りの場所」だけでした。

 そのように極端にユダヤ人の少ない町がパウロの伝道計画のトップに挙げられることは通常ならばまず考えられないことでしょう。フィリピに来たのはあくまでも幻を見せられたからであって、それ以外の理由はありませんでした。 しかし、そのようなフィリピにこそ、パウロが出会うべき人が備えられていたのです。それは「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(14節)でした。

 パウロたちが安息日に町の門を出て川岸の祈りの場所に行った時、たまたまそこにいたのがリディアでした。紫布で有名なのはティアティラ市の方ですから、フィリピに家があるにしても常にフィリピにいた人ではないでしょう。またパウロがフィリピにいたのも数日間ですから、次の安息日にはいないのです。

 そのようにたまたまその安息日に祈り場にいた彼女はパウロの語る言葉を聞くことになりました。そして、主が彼女の心を開かれました。彼女はキリストを信じ、彼女も家族の者も洗礼を受けました。彼らはフィリピにおける最初のキリスト者となりました。そして、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってパウロたちを招待したのです。「無理に承知させた」(15節)と書かれています。そうです、彼女は強いて彼らを泊まらせたのです。

 しかし、それは決定的な意味を持つ出来事となりました。結局そのことにより、彼女の家はフィリピにおける伝道の拠点となったのです。この後、パウロたちは投獄されるという事件が続くのですが、この章の最後にはこう書かれています。「牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した」(40節)。既にそこに兄弟たち、すなわちキリスト者たちが集まっていることがわかります。

 そして、この集まりこそが後にフィリピの信徒への手紙が宛てられる教会となるのです。その手紙を読むと、フィリピの教会は経済的にパウロの伝道を支えていた教会であることが分かります。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(15‐16節)。

 当初予定していたアジア州については、後の日に腰を落ち着けて伝道することになるのでしょう。しかし、その前に神はパウロの働きのために、このようなフィリピの教会を備えてくださっていたのです。確かに神には神の順番があるのです。

 そして、さらにもう一人、神が備えておられた人について語ることができるでしょう。それはルカによる福音書とこの使徒言行録を書き記した医者のルカです。今日は6節からお読みしましたが、そこでは「さて、彼らは…」と書き始められています。しかし、10節からは「パウロがこの幻を見たとき、《わたしたちは》すぐに…」となっているのです。トロアスに下ったところからルカが加わっているということです。そこにルカとの出会いがあったのです。

 なぜトロアスに下ったのか。アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたからでした。ビティニア州に入ろうとしたけれど、イエスの霊がそれを許さなかったからでした。扉が閉ざされたから。しかし、扉が閉ざされた時、別の扉が開いていて、そこを進んだところに出会うべき人々が備えられていたのです。

 「聖霊から禁じられた」「イエスの霊がそれを許さなかった」と書かれていますが、具体的にはパウロが病気になったのではないかと想像する人もいます。それは十分あり得ることでした。パウロ自身、「わたしの身に一つのとげが与えられました」(2コリント12:7)と手紙の中で書いていますから。そこに医者ルカとの出会いがあったのかもしれません。

 いずれにせよ、計画通りにいかないことがあったからこそ、ルカとの出会いもあった。パウロとルカとの出会いがなかったらルカによる福音書も使徒言行録もこの世に存在していなかったかもしれません。そのことを考えますと、改めて神の計画の奥深さを思わされます。

2015年1月11日日曜日

「神は人を分け隔てなさらない」

2015年1月11日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 10章34節~48節


皆同じ人間だからではなく
 「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)。ペトロの言葉です。コルネリウスというローマの軍人の家に招かれて、彼とその親類や友人たちを前にして語られた言葉です。

 「神は人を分け隔てなさらない」。この言葉を聞いて、私たちは皆、何の抵抗も覚えないだろうと思います。神が人を分け隔てなさらないことは当然であって、そうでなければおかしいと誰もが思っているのです。しかし、ユダヤ人であるペトロにとってはそうではありませんでした。「よく分かりました」と言っているということは、それまでそうは思っていなかったということでしょう。

 実際、ペトロだけではありません。ユダヤ人にとって、ユダヤ人であるか異邦人であるかは決定的な違いなのです。ユダヤ人からするならば、異邦人は神の律法を知らない汚れた人々なのです。ですから、その両者を神が「分け隔てなさらない」ということは、ユダヤ人からすればあり得ないことだったのです。

 ではなぜそのペトロが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と言うようになったのでしょう。それは神がペトロにそう示されたからです。コルネリウスの家に入ったとき、集まっていた人々にペトロがまず語ったのは次のようなことでした。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28節)。

 神がペトロにお示しになられたことは、今日の私たちからすれば至極当然のことのように思えるでしょう。「ユダヤ人であろうが外国人であろうが、皆同じ人間ではないか」と。しかし、ペトロが示されたのは、そのようなことではないのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも皆同じ人間ですから」とは言っていないでしょう。ペトロはこう言っているのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34節)。

 神は国籍や民族によって分け隔てはなさらない。ユダヤ人であろうが外国人であろうが分け隔てはなさらない。どうしてか。もっと重要なことがあるからなのです。「神を畏れて正しいことを行う人」であるかそうでないか、ということです。神に対するあり方、そして人に対するあり方です。神との関わり、そして人との関わりにおいてどう生きているのか、ということこそが神の目には決定的に重要なことだということです。

 イエス様も言われました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28‐31)。

 さて、今日の私たちにとっては、ここで話題になっているユダヤ人か異邦人かの区別は遠い話のように思えます。あるいは日本人であるかそうでないかを彼らほど大きく考えている人はいないでしょう。しかし、私たちは私たちで、様々な点において自分と他者との違いを非常に大きなこととして見ているかもしれません。性別の違い。世代の違い。経済的状態の違い。社会的な立場や地位の違い。家庭環境の違い。健康であるか病気であるか。順風満帆に生きてきたか、多くの苦しみを経てきたか。時として私たちの感じる他者との違いが大きくて、共に身を置くことを困難にさせるかもしれません。

 しかし、そのような私たちを神は分け隔てなさらない。私たちから見ると大きな違いがあるように見えるけれど、神は分け隔てなさらない。それは「違いがあっても皆同じ人間だから」ではありません。神にとってもっと重要な違いというものが別にあるからです。神との関わりにおいて、そして人との関わりにおいて、どう生きているのか、ということです。

この方を信じる者はだれでも
 そのように神の御前においては、ユダヤ人か異邦人かではなく、生き方そのものが重要なこととして問われている。それゆえに、ペトロはかつてユダヤ人に向かって話したように、ここでも同じことを、すなわちイエス・キリストのことを、異邦人である彼らに話し始めます。しかも、ペトロはここでイエス・キリストを「すべての人の主」として語っているのです。36節からお読みします。

 「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 つまり、ナザレのイエスのことです」(36‐38節)。

 神は、ユダヤ人だけでなく「すべての人の主」として、イエス・キリストを遣わしてくださいました。そのキリストによって何をしてくださったのか。「平和を告げ知らせて」くださったのだというのです。

 神の側から「すべての人」に対して、平和を告げ知らせてくださいました。神は私たちとの間に平和を宣言してくださいました。神は私たちに敵対する方ではなく、私たちの味方として御自身を現してくださったのです。それは私たちにとってまことにありがたい良き知らせではありませんか。

 先に読みましたように、ペトロはこう言いました。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」それを聞いて、「ああ、ならばわたしは受け入れてもらえる」と思った人はどれくらいいますか。「ああ、わたしはだめだ」と思った人はどれくらいいますか。国籍や民族ではなく、純粋に生き方が問われるとするならば、そこで確信をもって神から受け入れられていると言える人はどれくらいいるでしょう。

 しかし、そのような私たち「すべての人の主」としてキリストを遣わされ、神の側から平和を宣言してくださったのです。「神は聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」と書かれていました。そのようにして神はキリストにおいてその力を現されました。人々が見たのはどのような力だったでしょうか。人々が目にしたのは神の怒りの鉄拳ではありませんでした。そうではなく、神の癒しの御手だったのです。

 人々は怒りをもって敵対する神を見たのではなく、悪魔に苦しめられている者を憐れんでくださる神を見たのでした。そう、ペトロも確かに見たのです。だからペトロは言うのです。「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」(39節)。

 しかし、そのキリストを人々は十字架にかけて殺してしまいました。それは人間の罪の方が神の憐れみよりもはるかに大きいことを実証するような出来事でした。しかし、そうではなかったのです。神の憐れみの方が人間の罪よりも大きいのです。神は人々が十字架にかけて殺したキリストを復活させられました。罪の贖いを成し遂げた苦難の僕として復活させられたのです。まさにそのようにして、神は平和を告げ知らせてくださいました。ペトロはその事実を証人として語ります。

 そして、復活されたイエスについて、彼らにこう言ったのです。「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」(42節)。

 キリストが最終的な審判者なのだ。これが、神がキリストを通して与えられた最終的な言葉です。私たちが毎週告白している使徒信条では「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表しています。確かに「審判者」とは実に恐ろしい響きを持った言葉です。しかし、他の誰かではなくキリスト御自身が最終的な審判者であるということは、本当はこの上なく喜ばしいことなのです。最終的な審判者は、神が平和を告げ知らせるために遣わしてくださったメシアだということですから。

 その方が最終的に罪に定める権威を持っておられる。ということは最終的に罪を赦す権威をも持っておられるということです。そして、その御方が罪の赦しを宣言してくださるならば、もはや何者も罪に定めることはできないということなのです。ですからペトロはさらに言うのです。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(43節)。そうです、そこで求められているのはこの方を信じるということだけです。ただ信じて受け取ることだけなのです。

 このように神は分け隔てをなさいません。ただ神に対して、そして人に対しての生き方そのものを問われるということについて、神は分け隔てをなさいません。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。それゆえにまた、平和を告げ知らせてくださるということについて分け隔てをなさいません。イエス・キリストは「すべての人の主」です。そして、その方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる。信じる者は「だれでも」です。そこに分け隔てはありません。

2015年1月4日日曜日

「キリストによる新しい生活」

2015年1月4日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 12章1節~8節


心を新たにして
 新年最初の主日礼拝をこうして共にお捧げすることができることを嬉しく思います。実は、教会の暦からしますと、新しい年の初めはアドベントでありまして、既に私たちは11月30日から新しい年のサイクルをスタートしています。この教会では、その日から新しい式次第を使い始めました。しかし、この国に住んでいますとやはり生活感覚としての年の初めはどうしてもお正月になるようです。

 アドベントにせよお正月にせよ、年の初めの区切りあるということはありがたいことです。それは一年を振り返り、新しい生活へと歩み出す機会となるからです。そうでなければ何の反省も進歩もなく旧態依然とした生活を漫然と続けてしまうかもしれません。ということで、今日の説教題は「キリストによる新しい生活」となっています。

 与えられている聖書箇所はローマの信徒への手紙12章です。この手紙においてはここから新しい区分に入ります。この区分においてはキリスト者の生活について語られています。まさにキリストによって与えられる新しい生活について語られているのです。しかし、今日の箇所には直接的に「新しい生活」という言葉は出てきません。出て来きたのは「心を新たにして」という言葉です。2節にこう書かれていました。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。

 「心を新たにして」。原文では「心の一新」という言葉です。心を置き去りにして生活だけを変えることはできません。まず必要なのは心の一新です。心を新たにすることなくして生活が新たになることはありません。

 しかし、「心の一新」と言いましても、いろいろな一新の仕方があるように思います。三ヶ月ほど前、わたしは二十代の頃から続けていた夜型の生活をやめて、健康的な生活をしようと思い立ちました。これもまた心の一新と言えなくもない。実際、そこから朝型の生活が生まれました。そのように「心新たに」とか「心を入れ替えて」などという言葉は私たちの日常でも時折用います。では、聖書が語る「心の一新」とはどのような意味合いなのでしょう。

 「心を新たにして」の前にパウロが言っていたのはこういうことでした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。そのように語られているのは、一方において「この世に倣う」という生き方があるからです。また、それを生み出す心の方向性があるからです。そして、それは教会の中にも入ってきており、私たちが知らず知らずのうちに、そのような心をもって、そのような生活をしているということがあり得るからです。

 それは教会がこの世に存在し信仰者の人生もまたこの世において営まれている限り避け得ないことなのでしょう。 だからこそ、「心の一新」が必要なのです。心の方向転換が必要なのです。そして、この世に倣わない生き方への転換が必要なのです。

この世に倣ってはなりません
 しかし、「この世に倣わない」とは何を意味するのでしょうか。これもまた人によって思い描くことは様々なのでしょう。

 あるキリスト者は「この世に倣わない」ということで真っ先に「禁酒禁煙」を考えるかもしれません。別な人は「この世に倣わない」ということで、弱い立場にある人に対する優しさや思いやりを持つということを考えるかもしれません。また他の人は「この世に倣わない」ということで、右傾化する社会の動きに対して抵抗することを考えるかもしれません。二人の人が教会やキリスト者に対して「これではこの世と同じではないか」と言ったとしても、その二人が必ずしも同じことを考えているとは限りません。

 ではパウロ自身はどのような意味において「この世に倣ってはなりません」と言っているのでしょうか。「この世に倣ってはなりません」とは否定的・消極的な表現です。彼はすぐにこれを肯定的・積極的な表現で言い換えます。《こうしてはならない》というだけでなく、むしろ積極的に《こうあって欲しい》というものがあるのです。彼は言います。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この世に倣わないとは、こういうことです。

 そこには「何が神の御心であるか」と書かれています。当然のことながら、この世は「何が神の御心であるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは「何がわたしの望んでいることか」「何が私たちの望んでいることか」という人間の願望と願望です。同様に、この世は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは「何がわたしたちにとって善いことで、わたしたちに喜びと満足を与えるのか」という人間の判断です。国家としてならば「何が国益となるのか」という判断になるのでしょう。

 そのようなこの世の姿といつのまにか同じ姿になってしまっていることは私たちにも確かにあります。この世と同じように、いつでも関心は「わたし」あるいは「わたしたち」のことでしかないことが起こります。そう、必ずしも「わたし」ではない。「わたしたち」を強調すれば、エゴイスティックに見えないこともある。しかし、関心はあくまでも人間の側のことなのでしょう。自分たちの望みが実現し、自分たちが喜び、自分たちが満足を得ることであり、望みが実現しなければ失望し、満足を得られなければ不平を言い、互いに相争うことにもなるのです。

 そのように、知らず知らずのうちにこの世に倣い、この世と同じ姿になっていることが、私たちにも確かにあるのでしょう。だからこそ、「心の一新」について語られているのです。それが必要なのです。「わたし」「わたしたち」とこちら側のことにばかり向いているこの心が、ぐいっと方向転換をして、神に向けられることが必要なのです。「何が神の御心であるのか」「何が善いことで、神に喜ばれることなのか」に心が向けられることが必要なのです。それこそが、「心を新たにする」ことなのです。

 心を新たにするところから、新しい祈りが生まれてきます。ただ自分たちの望みの実現を求める祈りではなく、自分たちの満足を求める祈りでもなく、「御心を教えてください」という祈りが生まれてくるのです。「何が善いことで、何があなたに喜ばれることなのかを教えてください」という祈りが生まれてくるのです。

 そして、御心に従って生きようと思うなら、自分が変えられなくてはならないこともまた分かるのです。だからパウロは「自分を変えていただきなさい」と言うのです。これは「変えられ続けなさい」という表現です。「むしろ、心を新たにして、自分を変えていただきなさい!」そこにこそ、本当の意味での新しい生活があるのです。

自分を過大に評価してはなりません
 しかし、今日は与えられた聖書箇所から、なお一つのことを心に留めたいと思います。パウロは続けてこう言っています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」(3節)。

 この後、信仰生活に関する具体的な勧めが15章まで続くことになるのですが、その初っぱなに語られていることがこれです。心を新たにして自分を変えていただき、神の御心をわきまえて生きようとする人が、最初に聞かなくてはならない言葉がこれなのです。「自分を過大に評価してはなりません」。むしろ「慎み深く評価すべきです」と言うのです。

 この言葉で何を言わんとしているのか、続く4節以下から明らかです。要するに、自分が体の一部に過ぎないことをわきまえなさい、ということです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(5節)と書かれているとおりです。私たちは神の御心を行う大きな体の一部なのです。部分ならば部分としての働きで十分なのです。全てを為し得なくてもよいのです。自分を体の全てであるかのように評価してはならないのです。

 そうです。他の人ができることを自分ができないとしても、それで良いのです。部分なのですから。他の人を羨む必要も、自らを卑下する必要もないのです。自分に為し得ることを他の人ができないとしても批判する必要はないのです。自分は自分の与えられた務めに専念し、他の人は他の人の為し得るところを行ったらよいのです。

 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから…」(6節)と聖書は言います。この世に倣って生きようとするならば、自分の願望の実現のために自分を用いて生きようとするならば、この能力が足りない、あのこともできない、とつぶやきながら、他人を羨み、自分を卑下して生きることにもなるのでしょう。しかし、心を一新して神の御心のために生きようとするならば、そのために必要な全ては既に賜物として与えられているのです。神の御心を求め、自分を献げて生きるならば、与えられている賜物が何であるかも見えてくるのです。また、自分が体のどの部分なのか、専念すべきことは何であるのかも見えてくるのです。

 新しい年を迎えました。このような区切りが与えられていることは幸いなことです。これまでこの世に倣い、この世と同じものを追い求め、この世によってこの世と同じ姿にされていたならば、この年の区切りは私たちの信仰生活を振り返り、心を一新する機会です。心を置き去りにして生活だけを変えることはできません。心を新たにして自分を変えていただきましょう。変えられ続けましょう。そして、キリストによって一つの体とされている私たちとして、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかに思いを向けて共に仕えてまいりましょう。

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