2015年12月27日日曜日

「違いはそれほど重要ですか」

2015年12月27日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~4章7節


キリスト・イエスに結ばれて
 今年最後の主日となりました。一年を締めくくるに当たり、私たちは自分が何者であるかをもう一度思い起こしましょう。聖書は言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。

 私たちは神の子どもたちです。この一年間、いろいろなことがありました。来る一年の間に、この世界に、私たちの人生に、何が起こるかを私たちは知りません。しかし、私たちは恐れる必要はありません。私たちは神の子どもたちです。私たちは決して寄る辺ない者となることはありません。どんなところからも呼び求めることができる、信頼に値する父親がいるのです。どんな時にも、私たちは「アッバ、父よ」と呼び求めることができるのです。

 「アッバ、父よ」とは、もともとイエス様の祈りの言葉でした。私たちはイエス・キリストが洗礼を受けた時のことを思い起こすことができます。その時、主が水から上がられると、主は聖霊が鳩のように御自分に降って来るのをご覧になりました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたのです。そのようなイエス様が、苦しみの極みにあったゲッセマネにおいても口にされた祈りの言葉でした。まさに神の子としての祈りの言葉でした。ですから、ある意味ではこれはイエス様だけが本来口にすることができる祈りであったとも言えます。

 しかし、今や聖書は私たちにこう言うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。私たちもまた、イエス様と同じように祈ることができる。「アッバ、父よ」と呼びかけて生きることができるのです。

 それは本来あり得ないことでしょう。罪のないイエス様が祈ったように、罪ある私たちが祈ることができる。それはあり得ないことです。生涯を通して神に従い通したイエス様と同じように、神に背いてばかりいた私たちが、それでもなお神の子どもたちとして、父を呼ぶことができる。それはあり得ないことです。ですから、パウロはただ「あなたがたは皆、神の子なのです」とは言いません。「あなたがたは皆、信仰により、《キリスト・イエスに結ばれて》神の子なのです」と言うのです。

 「キリスト・イエスに結ばれて」というのは、「キリスト・イエスの中にあって」というのが直訳です。私たちは、キリストの中に身を置くのです。私たちのために十字架におかかりくださったキリストを信じて、その中に身を置くのです。言い換えるならば、キリストが与えてくださった罪の赦しの恵みの中に身を置くのです。その具体的な目に見える形は洗礼です。ですから先の言葉はこのように続くのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。

 「キリストに結ばれて」「キリストの中にあって」という言葉が「キリストを着ている」と言い換えられました。意味は同じであることはすぐに分かります。しかし、「キリストを着ている」とは実に味わい深い言葉です。私たちはキリストの中に身を置きます。言い換えるならば、キリストを着せていただくのです。私たちは裸で神の前に立てないから、キリストを着せていただくのです。キリストを信じるとはそういうことです。

 キリストを着せていただいているということは、神は罪人である私たちを直接ご覧になるのではないということです。神はキリストを通して見てくださる。キリストを着ている者として、キリストにおける罪の贖いにあずかった者として、私たちを見てくださるのです。だからこそ、私たちはイエス様と同じように神の子どもたちとして父を呼ぶことができるのです。罪を赦していただいた者として、私たちは、キリストを着た神の子どもたちとして父を呼び求めることができるのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 そして、キリストを着ているということが神との関係において極めて大きな意味を持つだけでなく、これはお互いの関係においても大きな意味を持つのです。先の言葉はこのように続きます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)

 教会にはユダヤ人がおりギリシア人がいました。この両者は異なる者たちの代表です。またそこには奴隷がおり自由な身分の者がいたのです。男がおり女がいたのです。異なる者が共にいるということは、時として極めて不快な状況を作り出します。異なる者が共にいてなお一つとなるということは、往々にしてとても難しいことです。私たちも良く知っています。

 しかし、彼らは頑張って努力して違いを乗り越えて、互いに理解し合うことによって一つになるのではないのです。あるいは共通の目標を目指すことによって、あるいは強力なリーダーによって統率されることによって一つとなるのでもないのです。そうではなくて、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから」と語られているのです。決定的に重要なのは「キリスト・イエスにおいて」ということなのです。

 「キリスト・イエスにおいて」。これは先に出てきた「キリスト・イエスに結ばれて」と同じ表現です。これまでの話から、これをさらに「キリストを着て」と言い換えてもいいでしょう。そこにはキリストを着ているユダヤ人がいるのです。キリストを着ているギリシア人がいるのです。キリストを着ている奴隷がおり、キリストを着ている自由人がおり、キリストを着ている男と女がいるのです。

 そして、「キリストを着ている」ということが決定的に重要なこととなるならば、当然のことながら、その服の中にいるのがユダヤ人であるかギリシア人であるかは重要性を失うことになります。この世における様々な違いは重要性を失うのです。ここで言われているのはそういうことです。

 そのように、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、この世においていかなる立場の違いがあろうが、置かれている境遇の違いがあろうが、さらに言うならば物事の考え方の違いがあろうが、感性の違いがあろうが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と語られているのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と。

子であれば相続人でもあります
 そして、さらに今日の箇所においては5節にも「神の子とする」という言葉が出てきました。4節からお読みします。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4‐5節)。

 実は日本語では「神の子となさる」と訳されているのですが、原文では「養子とする」という言葉が用いられているのです。口語訳では「わたしたちに子たる身分を授けるためであった」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。

 ギリシア・ローマの世界には、たとえば子どものいない金持ちが、奴隷を買い取って、解放して、家族の一員として迎えるというような制度があったそうです。その奴隷は、代価を払って買い取られた時点で新しい主人のものとなるのですが、その主人が「お前はわたしの息子になるのだよ」と言うならば、もはや奴隷ではなくなるわけです。そして、息子になったと同時に、その財産の相続人ともなるのです。パウロが思い描いているのはそのようなことです。これが私たちにも起こったのだ、と。それゆえに7節ではこう書かれているのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。

 相続人であるということは、将来受け取るものがあるということです。まだ見ていないもの、手にしていないものが将来私たちを待っているということです。この手紙の5章5節にはこう書かれています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。罪人でありながら、神によって義とされました。私たちはそのままキリストを着せられて神の子とされました。ですから、その意味において、私たちは救われたと言えます。しかし、私たちが既に見ているものは、まだ本当の一部、いやまだ欠片でしかないとも言えるのです。

 私たちは自分が神の養子にされたということがどういうことかを、本当の意味で知る時が来るでしょう。私たちが神の子どもたちとして神の国の栄光を一緒に見る時、この世においてキリストを着せられていたということがどれほど大きな恵みであったかを知ることになるのでしょう。そのような同じ大きな恵みに共にあずかっていたのに、しばしばそのことを一緒に喜べず、互いの違いばかりに目を向け、互いに不平を言い合い、裁き合っていたことがどれほど愚かなことであったかを本当の意味で知ることになるのでしょう。

 今年最後の主日となりました。一年を締めくくるに当たり、私たちはもう一度、自分が何者であるかをもう一度思い起こしましょう。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」このことを共に喜び祝うことができるところにおいてこそ、そしてこの大いなる恵みを共に伝えていくところにおいてこそ、教会は一つとなることができるのです。

2015年12月20日日曜日

「キリストがこの世に来られた日」

2015年12月20日 クリスマス礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~20節


クリスマスの物語
 先ほど朗読された聖書箇所にこう書かれていました。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカによる福音書2章6節‐7節)。
その場面を想像してみてください。聖書は事も無げにさらりと書いていますが、考えてみれば、これは世にも悲惨な出産場面です。極めて不潔な場所で、出産に必要なものが何一つそろっていない場所で、もちろん助産婦などいようはずもないところで、マリアはまるで馬か牛のように赤ん坊を産み落とさなくてはならなかったのです。

 さて、これが聖画になりますと、実に美しい場面として描かれることになります。マリアは美しい顔で幼子を見つめています。しかし、どう考えてもそれはあり得ない。マリアの顔は、疲れ果てやつれた顔をしていたに違いないのです。生まれた赤ん坊の安全をなんとか確保して、ぐったりしているマリアがそこにいただろうと想像します。

 ではヨセフはどんな思いでその傍らにいたのでしょう。愛する人が汚い家畜小屋のようなところで出産することを望む人はいません。ヨセフはなんとしてでも、マリアが安全に子供を産める環境を整えたかったに違いない。ありとあらゆる手立てを尽くしたのでしょう。しかし、結局、ここまでしかできなかったのです。

 どんなに愛していたとしても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。自分の無力さを恥じながら、ただ見守るしかない。そのような時が確かにあることを私たちもまた知っています。その意味でここに描かれているのは私たちの現実でもあります。

 それはマリアにしても同じです。いったい誰が生まれてくる自分の子を飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょう。親は子供のために最善の環境を整えてあげたいと思うのでしょう。彼女は彼女なりにできる限りのことをしたに違いないのです。しかし、結局彼女は飼い葉桶に自分の子を寝かせたのです。頑張ったけれど、そこまでしかできなかったということです。親の悲しみがそこにあります。

 その悲しみは今日の私たちも知っています。子供たちが生きていくために、幸福で安全な社会を本当は備えてあげたいと誰もが思っているのでしょう。しかし、現実にはまさに飼い葉桶のようにドロドロに汚れた社会の中に、子どもたちを置かなくてはならないのです。どう考えても解決のつかない放射性廃棄物に汚染された世界に、子どもたちを置かなくてはならない。その他、ありとあらゆる問題が山積した世界の中に、子どもたちを置かざるを得ないのです。ヨセフとマリアの姿が私たちの姿と重なります。その意味でも、ここに描かれているのは、この世に生きる私たちの現実でもあります。

 それだけではありません。そもそも臨月の妻がいるのに長い旅に出なくてはならなかったこと自体が異常です。ナザレからベツレヘムまで直線距離でも120キロはあります。普段の生活を後にして、どうしてそんな長旅に出なくてはならなかったのか。それは皇帝が勅令を出したからだと聖書は伝えます。

 自分の願いや意志とは関係のないところで勅令が出る。すると旅に出ざるを得ない。自分の願いや意志とは関係なく、それまでの生活を後にしなくてはならない。ある意味では私たちも同じです。今日、勅令は皇帝が出すのではありません。ある人にとっては企業の体制再編によって、職を失うことによって、それまでの生活を後にしなくてはならない。またある場合には突然の天変地異によって、そして、ある場合には突然の病気の宣告によって、人は安定した生活を後にして、旅に出ざるを得なくなるのです。マリアとヨセフに起こった事は私たちにも起こりえることを知っています。それがこの世に生きるということです。

 これが聖書の伝えるクリスマスの物語です。クリスマスの話は美しいおとぎ話ではありません。辛く悲しい人間の現実です。マリアとヨセフが身を置いている家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴しているとも言えるでしょう。

 そのようなこの世界に生きている人が、他にも登場してまいります。羊飼いたちです。今年は、私はページェントで羊飼いの役をやらせていただきました。羊たちは教会の一番幼い子どもたちがやることになっています。それは実にかわいい羊たちです。ですから羊飼いの役は楽しい。実に楽しい。

 しかし、現実の羊飼いとなったらそうはいきません。ここに描かれているのは牧歌的なのどかな情景ではないのです。彼らは「野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれているのです。彼らは羊の所有者ではありません。雇われているのです。夜通し羊の群れの番をしているというのは、今日で言えばブラック企業による過重労働です。いや、彼らは月100時間以上の残業をしているだけではありません。獣が襲ってくることもあるのですから、所有者の羊を時としては自分の命と引き替えに守らなくてはならないのです。これは過酷な労働です。

 しかし、彼らには選択の余地はないのです。辛かろうが苦しかろうが、そうしなければ生きていけないのです。そう、どんなに苦しかろうが逃げることはできない。生きていくためには留まらなくてはならないことがある。それもまたこの世に生きる私たちの現実の描写であると言えます。

天使の賛美に加わって
 しかし、話はそれで終わりません。ここに天使が登場するのです。そのような羊飼いのところに天使が現れてこう言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10‐11節)。そして、天使の大軍が現れてこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

 天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を讃美していた。天使たちの持ち場は天の世界です。しかし、彼らは天において神を讃美しているのではありません。わざわざ辛い現実にある羊飼いたちのところに来て、現れて神を讃美したのです。どうしてですか。羊飼いたちも天使と共に賛美できるようにでしょう。そうです、人間が加わることができるように天使は歌うのです。天においてではなく地上において。

 これは何を意味するのでしょう。神を讃美する歌というのは、辛く苦しいこの世の現実の中で歌われるべきものだ、ということです。神を讃美する歌は天国に行って初めて歌うものではないのです。苦しみが取り去られて初めて歌うものではないのです。私たちがここでしているように、あるいは日曜日にしているように、苦難に満ち、悩みに満ちているこの世界において歌われるべきものだということです。

 それはどうしてか。それは、この世界に既に救い主が来てくださったからです。
 
 家畜小屋の場面を思い浮かべてみてください。先にも申しましたように、この汚い家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴していると言えます。しかし、そこにはヨセフとマリアだけがいるのではないのです。そこには幼子もいるのです。神によって与えられた幼子イエス、神が与えてくださった救い主が悪臭漂う家畜小屋の中におられるのです。

 ということは、その悪臭漂う家畜小屋の中にさえ、神が与えてくださる喜びがあるということでしょう。羊飼いにこう語られていたではありませんか。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。その喜びが家畜小屋の中にさえ与えられているのです。だからそこから神を誉め讃えるのです。そこにおいて神を礼拝するのです。


 今から五年前のちょうど今頃ですが、五十代の女性が教会を訪ねてこられました。重い病気を負った方でした。彼女は残された短い人生をどう生きたら良いのか、「生き方」を求めて聖書を学び始められました。しかし、彼女が聖書を通して知ったのは「生き方」ではなくて、生きておられる神様であり、救い主であるイエス・キリストでした。半年後、彼女はイエス・キリストを信じ、キリストに自分自身をおゆだねし、病床にて洗礼を受けられました。彼女の人生に、救い主イエス・キリストが入って来られました。

  私は当時を思い起こしながらこう思うのです。彼女が信じたキリストは、ある意味では家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスであったと言えるだろうと。

 依然として家畜小屋の現実はあります。それは彼女にとっては病気という現実でした。病気と闘い、病気と折り合いをつけながら、生きていかなくてはなりません。しかし、そこには彼女と御主人だけがいるのではない。そこには救い主がいるのです。救い主がおられるならば家畜小屋の意味は違ってくるのです。そこで人は神と共に生きることができる。神が与える喜びにあずかることができる。そこで人は神を讃美して生きることができるのです。

 彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。「いと高きところには栄光、神にあれ」。あの天使の讃美に彼女も確かに加わっていたのです。そして初めてお会いした時からちょうど一年後の12月、彼女は救われた人として、天使の歌声に加わっていた人として、天に召されていきました。毎年クリスマスが近づくと、いつでもその方のおだやかな笑顔が思い出されます。

 救い主は来られました。この世界に来られました。そして、私たちの人生の中にもおいでくださいます。私たちが身を置く家畜小屋の中にイエス様が共にいてくださいます。私たちはそれゆえに、そこから神を賛美して生きることができるのです。

2015年12月13日日曜日

「先走ってはなりません」

2015年12月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節


魅力的な言葉?恐ろしい言葉?
 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」(3節)。パウロそう語ります。これはある面、魅力的な言葉であり、同時に恐ろしい言葉でもあります。

 私たちは、往々にして人から裁かれること、ジャッジされることを恐れて行動しています。人からどう見られているのか、自分についてどう言われているのかがとても気になります。自分はこうしたいと思っても、人の目や言葉によって曲げざるを得なくなることもあります。

 ですから、人の裁きを恐れない強さ、人の目や人の言葉によって左右されない強さは、時としてとても魅力的に映ります。人の言葉によってぶれない人、人が何を言おうと自分自身を曲げない人、そのような人は時としてとても魅力的に映ります。不安の満ちる時代にはそのような指導者が求められるものですし、多くの人はそのような強さについていきます。

 そのような強さは、時としてこの世の法廷における裁きさえ恐れません。有罪とされようが投獄されようが節を曲げない人はいるものです。そのような人物によって時代が大きく動かされることもあります。記憶に新しいところでは、たとえば有罪とされ27年間も投獄されていたネルソン・マンデラ氏のような人物を思い起こすことができるでしょう。

 しかし、先の言葉は魅力的であると同時に恐ろしい言葉でもあります。人間が他の人間の裁きを全く恐れなくなることは恐ろしいことです。人間がこの世の法廷で裁かれることについて「少しも問題ではありません」と言い始めることは、ある意味ではとても恐ろしいことでもあります。

 今から6年前、アメリカにおいて、ジョージ・テイラーという医師が教会の礼拝中に射殺されるといういたましい事件がありました。射殺されたのは妊娠後期の中絶手術を行っていた医師でした。射殺したのは中絶反対の活動を熱心にしていた人でした。犯行に及んだ人物は、まさに「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と考えていた人でした。

 そのように、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という言葉は、一面において魅力的ではあるけれど、同時に恐ろしい言葉でもあります。

自分で自分を裁くことすらしません
 しかし、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」この言葉によって、意味合いは大きく違ってまいります。

 「自分で自分を裁く」ということについては、ある意味ではよく分かります。自分自身を厳しく断罪すること、自分自身を責め立てることは、確かにあるからです。断罪し責め立てるだけでなく、実際に処罰することすらあります。「自分が赦せない」と言って、自分をあえて苦しめるようなことをするのです。自分の良心が責め続ける限り、処罰を続ける。そのように自分で自分を裁くことは確かにあります。

 しかし、「自分を裁く」ということは、ただ「断罪する」ことだけを意味しません。それは事柄の一面です。ここで語られているのは自分をジャッジすることですから、断罪するだけでなく、無罪を言い渡すことも含まれます。自分を正しいと見なすことも含まれるのです。そして問題は、自分で自分を断罪することよりも、むしろ自分を正しいと見なすこと、自分を義とすることにあります。

 自分を正しいと見なす時、自分に反対する者は「正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいと見なすなら、自分に反対する者は「絶対的に正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいとジャッジした自分が、今度は他者を絶対的に正しくないとジャッジするようになるのです。その場合、さらには「絶対的に正しくない人間は存在してはならない」という裁きにすらなります。そのような人が「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言い始めるなら、先のテイラー医師射殺事件のようなことが起こります。

 パウロがそのように自分で自分を裁く人であり、しかも自分を正しい者と見なす人であったなら、先ほどの「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という発言はとても怖い発言になります。実際、彼はかつてそのような怖い人でした。パウロは、かつて教会の迫害者であった時のことを次のように語っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。彼はそのようなことを行う自分を正しい人と見なしていたのです。そのように自分で自分を裁いていたのです。

 しかし、今や彼は「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言うのです。そして、その意味するところを彼はこう続けます。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(4節)。

 「自分には何もやましいところはない」とパウロは言うのです。自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、普通は「わたしは正しい」という主張になるものです。特にパウロにとってはコリントの教会という具体的な相手があるのです。その間に生じている問題があるのです。パウロはコリントの教会から裁かれているのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと…少しも問題ではありません」と言わざるを得ない状況があるのです。そのような時に、自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、「わたしは正しい」という主張が出て来るのが当然でしょう。

 しかし、パウロは「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と言うのです。以前のパウロなら絶対に言わなかった言葉です。「義とされる」とは、主から「正しいと見なされる」ということです。つまり、自分から見たら何もやましいところはないのだけれど、主から見たら正しい人とは見なされない、とパウロは言っているのです。主から見たら罪人だということです。そして、パウロにとっては主がどう見られるかの方が重要なのです。「自分で自分を裁かない」とはそういうことです。パウロは言うのです。「わたしを裁くのは主なのです」。

 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言い、「わたしを裁くのは主なのです」と言う。信仰に生きるとはそういうことなのです。それは喜ばしいことでしょうか。どんなに正しい人であっても、それこそパウロのように「自分には何もやましいところはない」とまで言い得る人であったとしても、それでもなお主から見れば義とされない、正しいとは見なされない、ということです。「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きることは、喜ばしいことでしょうか。

 そうです。それは喜ばしいことなのです。少なくともパウロが悲しむべきこととして語っていないことは明らかです。なぜならパウロが「わたしを裁くのは主なのです」と言う時、その「主」がどのような御方であるかを知っているからです。

 それはこの世に来られて十字架にかかってくださった御方なのです。神の御前においてはどうあがいても罪人でしかない、そのような私たちを救うために来てくださった御方です。私たちの罪を代わりに負って十字架にかかって死んでくださった御方です。その方が最終的に裁いてくださると言うのです。私たちの正しさのゆえにではなく、「自分には何もやましいところはない」からではなく、ただ十字架のゆえに義としてくださるのです。主が裁いてくださるとはそういうことなのです。だからこそ喜びをもって「わたしを裁くのは主なのです」と言って、信仰者は生きていくのです。

先走ってはなりません
 それゆえにパウロは「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と勧めます。話の流れからすると、これは特に自分を裁くことについてパウロは語っているのでしょう。繰り返しますが、あくまでも「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きていくことです。最終的に主が裁いてくださるのです。それを待たずに、先走って自分を裁いてはならないのです。

 先走って自分を正しい者としてはなりません。主がすべてを明らかにされるのです。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と書かれています。闇の中に隠されていることは、時として自分の良心にさえ隠されているものです。「自分には何もやましいところはない」と言っていたとしても、最終的に主がすべてを明らかにされた時に、ただ自分が罪であると気づいていなかっただけのことだったと知ることになるのでしょう。その意味では、「先走って何も裁いてはいけません」。

 しかし、もう一方において、先走って自分を断罪して救いから除外してもなりません。キリストの血によってさえも贖われないかのように自分を断罪することをしてはならないのです。最終的に私たちを裁くのは、私たちのために十字架におかかりくださった方なのです。その方が裁かれる前に、「先走って何も裁いてはいけません」。

 「わたしを裁くのは主なのです」。このことが分かるときに、今日読まれた最後の言葉もまた意味を持つのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。普通に考えるならば、この言葉が続くのはおかしいでしょう。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおしかりを受けるでしょう」と続くのが本当でしょう。いやそれどころか、最後の一文は「そのとき、おのおのは神によって地獄の火に投げ込まれるでしょう」となるはずであるとも言えます。すべてが明るみに出されるのですから。

 しかし、そこでなお私たちはキリストによって裁かれた者として神の前に立つのです。すなわち、キリストによって贖われ、義とされた者として神の前に立つのです。その時、神は私たちをそのキリストの僕として、そのキリストに仕えてきた管理者として見てくださるのです。罪ある者であるにもかかわらず、間違いだらけの働きをしてきた者であるにもかかわらず、それでもなお僕として主人を愛して行ってきた一つ一つのことを神は見てくださるのです。表に現れなかったことも含めて一つ一つのことを神は評価してくださるのです。そして、この世の人々からのいかなる賞賛にまさる神からの賞賛をいただくことができるのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。これは主の裁きによって実現する特別な出来事です。ですから、その時を待つことなく、「先走って何も裁いてはいけません」。

2015年12月6日日曜日

「永遠の命を得るために」

2015年12月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 5章36節~40節


イエス様の自己証言
 ヨハネによる福音書において、イエス様は繰り返し御自分について語っておられます。イエス様は言われました。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10:9)。
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。

 イエス様はこのようなことを言われる御方です。単なる自己紹介ではありません。この世界にとって、そこに生きる私たちにとって御自分がどのような存在なのかを語っておられるのです。それは父なる神から遣わされた御方として、御自分のもとに招くためです。パンのもとに来るように、光のもとに来るように、救いの門のところに来るように、羊飼いのもとに来るように、復活の命のもとに来るように、神に至る道に来るように、実を結ばせるぶどうの木につながるように。そのように御自分のもとへと招くために語っておられるのです。言い換えるならば、信仰へと招くためにです。

 もちろん、このような事を語れば、つまずきも起こるのです。抵抗を覚える人、敵対する人、殺そうとする人も起こるのです。その意味において、イエスという御方は誰もが受け入れることのできる良い教えを説いた教師ではありません。イエス様が良い教えを説いていただけならば、弱い人の友となり病人を癒していただけならば、人はつまずかないのです。あるいはイエス様が「わたしが道を示そう」と言っているだけならば人はつまずかないのです。しかし、「わたしが道だ」と言うならばつまずくのです。実際、この方の言葉を聞いて多くのユダヤ人たちはつまずいたのです。

 それはイエス様の時代においてだけではありません。この御方について宣べ伝えられる時には、いつの時代においてもつまずきが起こったのです。イエス様が語っておられるのは、人がそれを聞いてつまずいても不思議ではない言葉なのです。信じなかったとしても不思議ではない言葉なのです。その言葉の前に立たされる時、私たちが問われているのです。それでもなおこの御方を信じますか。この御方のもとに行きますか。その御方に自分自身をゆだねますか、と。

 あなたはどうですか。私たちには根源的な飢え渇きを癒してくださる方がいると信じますか。どんな暗闇においても光となってくださる方がいると信じますか。私たちには開かれた救いの門があると信じますか。命を捨てるほどに愛してくださる羊飼いがいると信じますか。その方を信じるなら、死んでも生きると信じますか。その方を通って必ず父のもとに行けると信じますか。その方につながっているならば、豊かな実を結ぶことになると信じますか。――このイエスという御方は、私たちにとってそのような存在なのだと言われるのです。

ヨハネの証しにまさる証し
 これがイエスという御方です。私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしているのです。過激な言葉をもって御自分ついて語られる御方を前にしているのです。だからこそ、今日読まれた聖書の言葉は特別な意味を持つのです。

 主はこう言われました。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(36‐37節)。

 繰り返しますが、私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしています。しかし、私たちはイエス様の自己証言だけに耳を傾けていてはならないのです。

 一般的な裁判においては、事が立証されるには二人ないし三人の証人の証言が必要とされました。自分が自分について語る証言だけでは十分ではないのです。イエス様はそのことを念頭に置いて、こう言われるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。その意味合いは、自分自身について証しをしているだけならば真実と認められなくても仕方がないということです。だから他の証言にも耳を傾けなくてはならないのです。

 主は言われます。「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」(32節)。これを聞いた人々は思ったに違いありません。「ああ、洗礼者ヨハネを引き合いにだそうとしているのだな」。ヨハネは一世を風靡した説教者であり洗礼運動の指導者でした。当時の社会に大きな影響を与えた宗教家です。そのヨハネがイエスについて語っていたのです。「この方こそ神の子である」(1:34)と。

 なるほど、イエス様が自分で言っているだけでなく、ヨハネが語っていたとなれば、それはそれで大きな意味を持つでしょう。しかし、イエス様は言われたのです。「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」。イエス様が「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言われた時に意味していたのは、ヨハネのことではなかったのです。

新約聖書の証し
 イエス様はまず御自分のなさっていることに目を向けさせます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。イエス様は御自分について語られるだけではありませんでした。イエス様は行動なさったのです。イエス様は事を起こされたのです。私たちはイエス様のなさっていることに目を向けなくてはならないのです。

 「わたしの行っている業」というのは、狭い意味においてはイエス様のなさった奇跡を指します。しかし、より広い意味においては、人々との関わりにおいてイエス様のなさった数々の事を指していると言えるでしょうし、さらにはイエス様が最終的に十字架において成し遂げられた救いの御業を指していると言えるでしょう。ですから「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」という言い方がされているのです。

 そのようなイエス様の御生涯とその意味するところが新約聖書において私たちにまで伝えられているのです。そのように新約聖書に書かれているのは、書かれる以前に、イエス様のなさったことを伝えた人々がいたからです。イエス様の言葉と共に、イエス様がなさった一つ一つのことが大事なのだと思って、懸命に伝えてきた人たちがいたのです。それが後々にまで伝えられるように、福音書として書き残した人々がいたのです。なぜですか。イエス様の御生涯、特に公生涯と呼ばれる最後の三年半になさったことそのものが、この御方が誰であるかを証ししているからでしょう。

 二千年後にまで、その証言が伝えられていることはなんと驚くべき恵みでしょう。四つの福音書や新約聖書におけるその他の文書が、言葉を尽くして、イエス様のなさったこと、成し遂げられた御業とその意味するところを今日の私たちにまで伝えてくれていることは、なんと感謝すべきことでしょう。キリストの御生涯の証言である新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

旧約聖書の証し
 そして、さらに主は言われます。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」。

 細かいことを申し上げますが、実はこの「証しをしてくださる」は、「既に証しをしてくださっている」というニュアンスです。文法的には完了形で書かれているのです。どういう形で既に証しをしてくださっているのか。実は、イエス様が言っているのは「聖書」の話なのです。既にイスラエルの歴史の中において神は語ってこられ、そしてその神の証言が聖書として残されているのです。聖書において、父が既にキリストについて証ししてくださっているのです。

 ですから主はさらに聖書についてこう言われるのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39‐40節)。この場合の「聖書」とは、私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。

 ユダヤ人たちは聖書を研究していました。ラビ的解釈の細かさは現代の私たちが読んでも驚きます。本当に細かく、一語一句大切に解釈するわけです。私たちは彼らがどれほど聖書を大切にしたか、ある意味では見習わなくてはならないでしょう。しかし、残念ながら彼らは永遠の命が「聖書の中に」あると考えていたのです。聖書そのものが永遠の命を与えてくれるように思ったのです。だから、聖書の言葉、律法をどれだけ身につけるかが最大の関心だったのです。「律法の言葉を身につけたなら、来世の命を身につけたのである」とは有名なラビであるヒレルの言葉です。

 しかし、イエス様は、「そうではない」と言われるのです。聖書は、そのものが永遠の命を持つのではなくて、私たち人間に必要な救い主を指し示し、救い主に導くのが聖書なのです。私たちをイエス様のもとに行かせ、イエス様のもとにひざまずかせ、「わたしをお救い下さい」と言わしめるもの、それが聖書なのです。既に父なる神がこの世にお遣わしになるキリストを既に証ししていてくださったのです。

 そのように、私たちにキリストを証しする旧新約聖書が与えられています。日本基督教団信仰告白の中にも次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与える神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」私たちはこれからも、キリストを証しする神の言葉として、旧新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

 主はあの時、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆いておられました。それはなんとしても御自分のところに来て欲しいという主の願いの現れでもあるのでしょう。なぜなら、この御方は私たちにとって、命のパンであり、世の光であり、救いの門であり、良い羊飼いであり、死んでも生きる復活であり、父への道であり、実を結ばせるぶどうの木だからです。それを一言で表現すれば「永遠の命」となります。主はこの命へと招いておられます。与えられている父の証しを通して、イエス様のもとに行きましょう。そして、イエス様につながっていましょう。

2015年11月29日日曜日

「すべては神の慈しみによるのです」

2015年11月29日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章13節~24節


「ねたみ」が起こるように
 今日の聖書朗読は次の言葉から始まっていました。「では、あなたがた異邦人に言います」。ここで「異邦人」とはユダヤ人以外を指します。その意味ではここにいる私たちもまた「異邦人」です。

 イエス様はユダヤ人でした。イエス様の弟子たちもユダヤ人でした。最初の教会のメンバーは皆、ユダヤ人でした。教会で用いられていた聖書も、もともとはユダヤ人が伝えてきたユダヤ人の書物でした。メシアの到来の希望も、神の救いの約束も、もともとユダヤ人に与えられたものでした。

 しかし、使徒言行録に見るように、教会が宣べ伝える福音の言葉を多くのユダヤ人は受け入れませんでした。むしろ福音の言葉を受け入れたのは、聖書も知らなかった、メシアの到来の希望も救いの約束も知らなかった異邦人でした。自分の罪を認めて、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れ、神の赦しに与って、喜びと感謝をもって神と共に生き始めたのは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。

 そのようにして、もともとユダヤ人だけで構成されていた教会に異邦人が加わることになりました。そのようにして、もともとユダヤ人だけに伝えられていた福音が異邦人にも伝えられることになりました。そのような教会の歴史の延長上に異邦人である私たちもいるのです。

 異邦人に福音が伝えられる上で大きな働きをしたのは、この手紙を書いているパウロでした。パウロは自らを「異邦人のための使徒」と呼んでいます。ここに彼の自覚が現れています。自分は異邦人に遣わされた者であり、異邦人に福音を伝えることは神から与えられた使命であるとパウロは考えていました。実際多くの異邦人がパウロを通してキリストを信じたのです。

 しかし、パウロ自身は、異邦人がキリスト者となることを自分の働きのゴールとは考えませんでした。パウロはその先を見ていたのです。その先に起こるべきことを、彼はこう表現しています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(14節)。パウロは同胞であるユダヤ人のことを考えているのです。今はまだ福音を拒絶している人たちのことを考えているのです。パウロは彼らもまた救われることを願っているのです。福音を拒絶している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。迫害している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。

 そのことを異邦人であるキリスト者に話します。「では、あなたがた異邦人に言います」と。なぜでしょう。彼らにも、自分たちの救いがゴールだと思っては欲しくないからです。異邦人が福音を信じて、キリストを信じて、それで終わりだと思って欲しくないからです。自分たちがキリストを信じたのは、まだ信じていない人々のためだということを理解して欲しいからです。異邦人である彼らがキリスト者とされたのは、福音を拒絶している人々の救いのためだということを理解して欲しいからです。

 先に信じた異邦人キリスト者たちに、パウロが切に願っていることがありました。それは信じていない人々の中に「ねたみを起こして欲しい」ということでした。キリストを信じた彼らによって同胞にねたみを起こしたいということでした。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と。

 救いのために「ねたみ」を起こさせたい。なんとも不思議な表現です。しかし、キリスト者の証しとは元来そのようなものなのでしょう。異邦人キリスト者が神を信じ、神と共に生き、神の恵みに与り、神への感謝と喜びに溢れている姿によって、ユダヤ人に「ねたみ」が起こる。自分の先祖が伝えてきた神であるのに、その神から異邦人たちが豊かに恵みを受けている姿を見て、ユダヤ人の中に「ねたみ」が起こることこそ必要とされていたのです。

 それは立派な姿を見て「見習いたくなる」ということとは意味合いが異なります。尊敬できる人を見て「あの人のようになりたい」と思うのとも意味合いが異なります。パウロが異邦人キリスト者の存在によって起こって欲しいのはそういうことではなかったのです。もしそうならばパウロは「ねたみ」という表現は使わなかったでしょう。起こって欲しいのは「ねたみ」なのです。そして、「彼らが与えられているならば、わたしもそれが欲しい」という思いなのです。そのために異邦人である彼らが先に信じる者とされたのです。

慈しみにとどまるなら
 しかし、このようにパウロが語っているのは、そのように理解していない人たちが少なくなかったからでもあったのでしょう。今日読んだ箇所から、おぼろげながら実際に何が起こっていたかが見えてきます。

 異邦人でキリスト者となった人たちは、身近に福音を拒否したユダヤ人たちを見ていました。敵意を向け、迫害をしてくる彼らを見ていました。そこで異邦人キリスト者はこう思うのです。ユダヤ人たちは確かに聖書を良く知っているかもしれない。聖書に書かれている戒律も守ってきた。しかし、本当に大事なことについては無知なのだ。イエス・キリストによる罪の赦しも、救いの喜びも知らないままでいるのだ。そして、異邦人キリスト者たちはこのような言葉を口にするのです。「彼らは不信仰のゆえに折り取られた枝だ。彼らは折り取られて、異邦人である私たちが接ぎ木されたのだ。私たちは根から豊かな養分を受けて実を結ぶようになるけれど、彼らは折り取られて枯れ枝になるだけだ」と。

 だからこそ異邦人キリスト者に対して、パウロはこう言うのです。17節以下を御覧ください。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(17‐18節)。

 確かに彼らが接ぎ木された枝であることは事実かもしれません。根から豊かな養分を受け取っていることも事実でしょう。それは大いに喜ぶべきことです。しかし、そのゆえに、折り取られた枝、根につながっていない枝に対して誇るようになったり、見下すような思いを抱くようになったら、それはやはり間違ったことでしょう。接ぎ木された枝は根を支えているわけではないのです。根によって百パーセント支えられているのです。それは何ら誇るべきことではないのです。

 しかし、信仰者の中に誤った誇りや思い上がりが宿ってしまうことは確かにあります。今日の異邦人キリスト者である私たちにおいてもしばしば起こることです。今日の聖書箇所の直後には「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように…」(25節)と書かれています。そうです、信仰を持ったことが、何か賢い者にでもなったかのように思ってしまうのです。一段上に上がったかのように思い上がってしまうのです。そして、信仰のない世界に対してただ批判者として立つことになる。また、教会の中にある不信仰に対しても、ただ批判者として立つことになるのです。

 それゆえにパウロは言います。「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい」(20節)。そして、こう続けます。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。

 「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。

 私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみを思うのです。ここでパウロは「神の慈しみにとどまる」という表現を用いています。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と。

 そのように「神の慈しみにとどまる」ことこそが大事なのです。野生のオリーブであった私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。本来ならばここにいるはずのない私たちが、私たちが今こうしていられるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。すべてはただ神の慈しみによるのだということを思いつつ、神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。

 そのように神の慈しみにとどまってこそ、私たちは受けているものの大きさを指し示して生きることができるのです。誇って信仰者の自分を指し示すのではなく、ただ不信仰な世界や不信仰な他者を批判するでもなく、慈しみの神から与えられた大いなる救いを指し示して生きることができるのです。そこにおいてこそ、良い意味での「ねたみ」もまた起こるのです。

2015年11月22日日曜日

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」

2015年11月22日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 1章4節~8節


今おられる御方
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるための手紙です。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。そして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉が続きます。これはもう一度8節で繰り返されます。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。

 主なる神は、「やがて来られる方」として語られています。「やがて」という言葉は原文にはありません。ですからこれは「いつか遠い未来に来られる」という意味ではありません。いわば刻々とこちらに向かって近づいて来ているということです。神の足音が近づいて来るというイメージでしょうか。もちろん救いのために近づいて来られるのです。

 迫害の中にある教会にとって、この言葉がどれほど大きな慰めであったかを思わされます。彼らの集まりは常に脅かされていました。いつでも近づいて来るものに脅かされていました。それこそ誰かが近づいて来る足音に脅かされていたでしょう。さらに言うならば常に死の足音が近づいて来るのが聞こえるということでもある。しかし、そのような教会に対して、本当に意識すべきは死が迫り来ることではなくて、「神が近づいて来られる」ということだとヨハネは語るのです。そちらの方が死の迫りよりも重要なのだということです。

 そして、そこには不思議なことが書かれているのです。「やがて来られる」ならば、論理的に考えるならば「それまではいない」ということになるではありませんか。しかし、その前には「今おられ、かつておられ」と書かれているのです。

 艱難の時は永遠に続くのではありません。死の迫り来る足音に怯える時は永遠に続くのではありません。神が到来するのです。救いの時が来るのです。まさに神が神として御自身を現される時が来るのです。しかし、救いが実現した時になって初めて主なる神が共にいてくださるのではないのです。そうではなくて、実はその神が「かつておられ」たと知ることになるのです。すなわち過去もまた神と共にあったと知ることになるのです。

 想像して見てください。迫害の中にあって、仲間が捕らえられて殺されてしまったとなったらどうですか。それこそ、まさに神が不在であったとしか人間の目には映らないではありませんか。この世の悪の力だけ、死の力だけが支配している。神はおられなかった、と。しかし、そうではないのです。「かつておられ」とヨハネは言うのです。

 私たちもそうでしょう。過去の悲しい出来事。なんであんなことになったのか、と思うこと。神様はあの時おられなかった。そう思えるようなことがあるでしょう。しかし、そうではなかったと知る時が来るのです。確かに神はおられた。そして、その時には見えなかったけれど、確かにわたしは神の愛の支配の内にあった。そう知る時が来るのです。「かつておられ」とはそういうことです。

 だからそれを信じて、今を生きるのです。それゆえに最初に「今おられ」と書かれているのです。ヨハネは苦難の中にある教会に、まず「今おられ」と宣言するのです。神である主は、やがて来られるだけでない。かつておられただけでない。そうです、「今おられる!」。このヨハネの黙示録は、ただ未来についての予告を書き記したような手紙ではありません。そうではなくて、大事なことは、最後を握っておられる方、その御方が「今おられ」と信じて生きるための手紙なのです。

真実な証人
 そのように私たちは主なる神が「今おられる」と信じて、共に集まって礼拝し、その御子イエス・キリストを主として生きていくのです。その御支配の中にあると信じて生きていくのです。その御方についてはこう書かれています。「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト(から恵みと平和があなたがたにあるように)」(5節前半)。

 私たちが仰ぐその御方こそ「証人」です。「証人、誠実な方」はまた「真実な証人」とも訳せます。またヨハネの黙示録が書かれた頃、「証人」という言葉はまた「殉教者」という意味をも持っていました。命をかけた証人です。その意味では、イエス様こそ、命をかけた第一の証人でしょう。

 イエス・キリストこそ、私たちに「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なる神を証ししてくださった御方です。神が不在と思えるような苦難の中にあってなお、この御方は命をかけて、「神はおられるよ、あなたを愛しておられるよ、あなたと共におられるよ」と身をもって証ししてくださった御方です。

 その御方は「死者の中から最初に復活した方」だと語られています。そう訳されていますが、本当は「死者の中から最初に生まれた方」あるいは「死者の中からの長子」と書かれているのです。同じ表現はコロサイ書にもあります。これは実は重要な言葉なのです。イエス様は死んで葬られたのだけれど、そこに閉じ込められてはいませんでした。死の中に閉じ込められていませんでした。ちょうど母の胎から生まれるように、そこから出て来られたのです。そのようにして、イエス様は死の意味を変えてしまいました。イエス様によって、死は新しい誕生をもたらす母の胎とされたのです。

 考えてみてください。「神はおられない」という叫びが最も悲痛なものとなるのは人の死に際してではありませんか。死に直面するときに、特に悲惨な死に直面する時に、「ああ、神なんておられない。あるいはおられたとしても、わたしと共にはいてくださらない」と思うわけでしょう。それこそ肉の目から見れば、イエス・キリストの死こそ、あの理不尽な死こそ、神不在のしるし以外の何ものでもないでしょう。しかし、イエス様は死を新しい誕生にしてしまって、「神は共にいるよ」と証ししてくださったのです。「神はあなたと共にいるよ。そして、死を新しい命への誕生に変えてしまわれたよ」と。

王として、祭司として
 そのような御方を私たちは信じているのです。そのような御方に栄光を帰し、共に礼拝を捧げているのです。ヨハネも次のような言葉をもってキリストを讃えます。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

 まず、キリストは「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。私たちは愛されているのです。救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。迫害さえもある。そのような現在において、私たちは既に愛されているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。私たちは罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかしやがて私たちは完全な勝利の中で完全に罪の力から解放された自分自身を見ることになるのです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。

 しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは王として、キリスト以外の何ものにも支配されない王として生きたらよいのです。真に畏れ従うべき御方を知るとはそういうことなのです。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは他者の上に罪の赦しを求めることができる。この世の上に罪の赦しを求めることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことでしょう。そして、なんと光栄に満ちた務めを与えられていることでしょう。それはただキリストのゆえなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

 これが私たちの信じるキリストです。私たちが礼拝を捧げている御方です。私たちもヨハネに声を合わせて主を讃えたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

2015年11月8日日曜日

「祝福を受け、祝福となる」

2015年11月8日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 12章1節~9節


あなたは祝福となれ
 今日は「子ども祝福礼拝」です。私たちは皆、心を合わせて子どもたちの上に神の祝福を祈り求めます。「祝福」とは何か。それは命の満ち溢れた状態です。命が満ち溢れ、溢れ流れて未来を開くのです。ですから、旧約聖書においては、例えば農作物の豊作、家畜の多産、一族の子孫が増え広がることが神の祝福の現れとして語られます。もちろんそれらが神の祝福の全てではありません。神様が人間に与えようとしているのは、目に見えるものを越えて限りなく豊かなものです。

 新約聖書においてパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)と言っています。神が与えようとしている祝福は、神の命の満たしは私たちの思いを越えて豊かなものとして、万物を与えられるに等しいものとして与えられるのです。それは最終的には神の国における救いの完成にまで至ります。そのような未来を開く命の満たしを神からのものとして求める。それが祝福を祈り求めるということです。

 今日の聖書箇所には、神御自身から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人物が登場してきます。アブラハムです。その時点ではまだ名前はアブラムでした。主はアブラムにこのような約束の言葉を与えられたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神は開かれるべきアブラハムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。しかし、神には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。イスラエルの民が見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない開かれた未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源となるように」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「あなたは祝福となれ」と書いてあるのです。祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は他者にとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためだけではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 そのように神が子どもたちを祝福するとするならば、それは子どもたちがこの世界の祝福となるためです。祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となるような未来が開かれることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

信仰によって
 そのように、神はアブラムを祝福するとの約束を与え、その目的はアブラムが祝福となるためでした。しかし、私たちはその前に主が次のように語られたことを心に留めなくてはなりません。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。

 アブラムの生まれ故郷はどこでしょう。アブラムが生まれたのはカルデアのウルでした。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこからアブラムの父テラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移住しました。アブラムが主の呼びかけを聞いたのは、そのハランにおいてでした。ですから、厳密に言えば、アブラムは既に生まれ故郷は離れていることになります。

 実は、「生まれ故郷」と訳されているこの言葉は、「あなたの地、あなたの親族」というのが直訳なのです。ですから、必ずしもウルのことではないのです。「あなたの地」と言われているのは、寄留者ではないということです。彼には「わたしの地」と言えるものがあるのです。そこでは安心して生活できるのです。しかし、主はそこから旅立つようにと言われたのです。

 それは父テラがウルからハランに移住した時のように、ただ別の地が「あなたの地」になるということではありません。ここにはいわゆる転勤族の方々もおられますが、生活の場所が変わるということは、必ずしも人生の根本的な転換を意味するわけではありません。ここで語られているのは、そのようなことではないのです。アブラムはここで、「あなたの地を離れ…わたしが示す地に行きなさい」と言われているのです。

 ここからは主に導かれ、主に従って生きていくのです。主に信頼して生きていくのです。ただ別の地を「わたしの地」として生きることではないのです。それは人生の根本的な転換です。それを「信仰」と呼ぶことができるでしょう。アブラムは「わたしの地」から踏み出して信仰によって生きる新しい生活へと招かれたのです。

 その招きに続いて先に読んだ祝福の約束は語られているのです。祝福を与えてくださるのは神ですが、祝福には受け取り方があるからです。4節には何と書いてありますか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。実際に、神に信頼し、現実に一歩を踏み出したのです。旅立ったのです。彼は信仰によって生き始めたのです。そのようにして祝福の約束を受け取ったのです。これが受け取り方です。

 アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単に善い人間になることでも有能な人間となることでもないのです。私たちは「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と思うのでしょう。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かった。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

祭壇を築いた
 その具体的な姿は「旅立った」と表現されていますが、それだけではありません。その続きがあります。旅立ったアブラムはどうしたでしょう。アブラムはハランからカナン地方に向かって旅立ち、やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先住民がいるということは、そこで寄留者になるということです。「わたしの地」に住んでいた時にはなかった困難がそこにはあったことでしょう。しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」。

 彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。祭壇とは礼拝の場所であり祈りの場所です。祭壇を築きつつ旅をするということは祈りながら生きていくということに他なりません。信仰生活とは祈りの生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように信仰は観念ではありません。ただ神について考えることではありません。信仰は具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、私たちにとっても目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があるのです。今日、私たちが祝福を祈り求めた子どもたちが、そして、私たち自身が、そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、祝福を受けて祝福となることを信じて、これからも主と共に歩み続けてまいりましょう。

2015年11月1日日曜日

「心を騒がせる必要はありません」

2015年11月1日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章1節~7節


 今日は聖徒の日です。天に召された方々の御家族、御親族も大勢見えています。共に礼拝できることをうれしく思います。葬儀の度に申し上げていることですが、礼拝の場所というものは天と地が一つになる場所です。今日は天に召された方々を思い出しながら、天と地が一つとされているところに身を置いていることを思いつつ、共に礼拝をおささげできたらと思います。

心を騒がせるな
 そのような今年の記念礼拝に与えられている聖書の言葉が先ほど読まれました。今日は特に福音書朗読において読み上げられたイエス様の言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。

 「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。

 主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。

 イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、命に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。

 ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエス様の上に、そして弟子たちの上に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのでしょう。そもそも、その覚悟でエルサレムに来たのです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)とトマスも言っていたようにです。そのように確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。そこで弟子たちはどうしたって平安ではいられません。心を騒がせざるを得ないのです。

 それは私たちにもよく分かります。死の力に人間は勝てないことを私たちは知っていますから。いかなる人間も、どんなに富んでいようが、どんなに力があろうが、人間は死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、人間は平安を保つことができません。どんな人でもそこで心が騒ぐのを抑えることは難しいものです。

 しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているはずだからです。どのような状況に置かれたとしても、そこで誰に信頼したらよいのかを既に知らされているはずだからです。イエス様と共に歩んだ三年半の日々において、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。

 イエス様は今一度、最後の晩餐において、そのことを思い起こさせるのです。主は言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じろ」と。

 イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、それを弟子たちに繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは、心が騒いで仕方ない弟子たちは、思い起こして信じなくてはならない。ですから「わたしを信じろ」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。

場所を用意しに行くのだから
 主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに父の家を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まるのです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。

 自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。

 そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、もはや心を騒がせる必要はないはずです。

 イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことです。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。罪ある私たちが迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに私たちも迎えられるのです。神に背いてばかりいる私たちが迎えられるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。いったい私たちの誰が真顔で、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です。あなたの家に迎えられるにふさわしく生きてきましたから」と言えるでしょう。それは本来、あり得ないことなのです。

 だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。

 イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに担うことによって、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は言われたのです。「わたしは道である」と。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。私たちは、イエス・キリストによる罪の贖いという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。それゆえ、イエス様は言われたのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。

 ヘブライ語の「道」という言葉は、もともと「踏みつける」という言葉に由来します。道というのは、人が踏みつけて通るものです。「道を通る」とはそういうことです。イエス様は、私たちが踏みつけて通るための道となってくださいました。私たちはそのままでは父のみもとに行けないから、父のみもとに行けるようにと、私たちが踏みつけて通るための道になってくださったのです。

 イエス様が十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったとはそういうことです。イエス様が、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのは、「だから、わたしを通って父のもとに行きなさい。わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負うから、わたしを踏みつけて通って父のもとに行きなさい」ということでもあるのです。

 そのようなイエス様が、あの時弟子たちに語られたように、今も私たちに語っていてくださいます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

2015年10月25日日曜日

「目に見えない神の目に見える姿」

2015年10月25日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節


御子は、見えない神の姿
 初めに15節から17節までをお読みしましょう。この部分は当時の讃美歌の一部であろうと言われています。ここには万物の創造のみ業との関連においてキリストが語られています。実に壮大なキリスト賛歌です。当時の人たちはこの信仰を高らかに歌いあげていたのです。これこそまさにパウロ自身も知り、経験していたキリストです。私たちが信じているキリストを思い描く時、このようなキリストを思い描いているでしょうか。

 その冒頭には「御子は、見えない神の姿であり」と書かれています。「見えない神」――確かに神は本質的に人間の目には見えません。それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている言葉です。

 人と神とは絶対的に異なる存在です。神と人との間にはなんらの連続性もありません。神ならぬ偶像ならば人間との絶対的な差異を問題にしなくて良いのでしょう。人間が作った神ならば人間が知り得ること理解できることを前提で語ることができるのでしょう。しかし、まことの神であるならば、見えない、知り得ないのは当然なのです。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子・キリストなのです。「御子は、見えない神の姿であり」とはそういうことです。

 いや神が「見えない」というのは、単に人間と神の本質的な隔たりだけを意味するのではありません。それが意味するのは罪による隔たりでもあります。讃美歌66番「聖なる、聖なる」の3節において次のように歌われています。「聖なる、聖なる、聖なるかな、罪ある目には見えねども…」。そうです、罪ある目に神は見えません。罪あるゆえに、人間は神の本来の姿を知りません。そうです、私たちは神の本来の姿を知り得ないのです。

 皆さんの多くは、旧約聖書の多くの場面に描かれている神の姿に、何らかの違和感を覚えたことがあるに違いありません。怒りに満ちて皆殺しを命じる神。罪の裁きと滅びを宣言される神。しかし、それは神の本来の姿ではないのです。そのような姿として神が啓示されているのは、そのような姿としてしか神を知り得なかったのは、人間に罪があるからです。人間と神との関係が歪んでいるからです。壊れているからです。

 そのような人間に対して、人間が創造される以前にまで戻って、万物を創造し、これを良しとされたあの本来の神の姿、溢れ出る愛において天地を創造した神の本来の姿を完全に見せてくださったのは、御子なる神なのです。御子こそ、天地創造において働いた神の愛そのものだからです。ですからパウロはここでさらに筆を進めて、万物は「御子において」「御子によって」造られたのだ、と記しているのです。

 そのように万物の創造において働いた神の愛そのものである御方が、肉をとられ、人間となって、私たちが足を置いているこの同じ地上を歩まれました。それがナザレのイエスという御方です。その御方が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言ってくださったのです。その御方こそが「教会の頭」なのです。私たちはそのような方を指して、「われらの主、イエス・キリストを信ず」と言っているのです。

 「教会の頭」であり、私たちと共にいてくださる方は、そのように実に大きな御方です。はたしてそのような意識を持って信仰生活を営んでいるだろうか。そのような意識をもってキリストと共に歩んでいるだろうかと考えさせられます。私たちはしばしば見える現実の方がキリストよりも大きいと考えているのです。私たちが抱えている問題の方がキリストよりも大きいと考えているのです。この世界の存続を脅かしている諸問題は確かに大きいかもしれません。しかし、キリストよりも大きいわけではありません。所詮は被造物世界の中の事柄です。あの御方はこの被造物世界を造られた御方です。私たちはそのような御方を「われらの主」として信じているのです。

 そして、「御子において」「御子によって」だけでなく「御子のために」とも書かれています。御子は万物の目的でもあるのです。万物は御子との関わりにおいて、初めて存在の意味を得るのです。人間について言うならば、御子に向いていてこそ、人は本当の意味で生きるのです。目的を決めるのは被造物ではなく創造主だからです。

 私たちが創造主の目的とするところを離れて、どんなに「自分の人生の意味は何であるか」と問うたところで、その問いに答えが見つかるはずはありません。人間の手を離れて部屋の隅に転がっているボールペンが「わが存在の目的は何ぞや」と悩んでいる姿を想像してみてください。滑稽ではありませんか。目的は造られた側ではなく造った側が決めるのです。

 逆に言えば、私たちがどんなに自分の存在意義を見いだせないような状態になっても、大丈夫なのです。御子に向いているならば大丈夫なのです。あなたは御子のために存在しているのだよ、と神は言ってくださるからです。キリストこそ万物の目的です。

十字架の血によって
 さて、15節から17節までに、創造の御業との関連でキリストが語られているとするならば、18節以下には、更に、救いの御業との関連においてキリストが語られています。

 先ほどお読みしましたところに「御子は、見えない神の姿であり」とありましたが、19節においては「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と書かれています。つまり、御子のうちには父なる神様ご自身のあらゆる良きものが満ち満ちていたということであります。こうして、御子は父なる神を現わされたのです。

 しかし、その御子が十字架にかかられて死なれました。見えない神の姿であられる方が十字架にかかられて死なれました。万物創造の業を担われた方、万物の目的であられる方が、ただ一度この地上に人間として現れ、人間の手によって十字架にかけられて死なれたというのです。父なる神がそれをよしとされました。満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせてくださった父は、その御子が十字架の上で血を流すことをよしとされました。

 ここに記されていることを一言一言噛み締めながら読んでいきますならば、20節に書かれている「十字架の血によって」という言葉は私たちの想像を絶するような大変な出来事であることが分かります。その言葉にいつのまにか驚きも感動も覚えなくなっているとするならば、やはり私たちのキリスト理解はどこかおかしくなっているのです。小さくなってしまっているのです。

 神の目的は単に人に自らを啓示するということに留まりませんでした。万物をご自身と和解させるためでした。なぜ「人間」だけでなく「万物」と言われているかと申しますと、人間が罪を犯したため、人間のみならず全ての被造物が神のもとにある正しい秩序から外れてしまったからです。その結果、人間だけが罪の中で呻き苦しんでいるのではなくて、万物が呻いているのです。本日はそのことにはこれ以上触れません。ローマの信徒への手紙8章19節以下をお読みください。今日は特に人間、すなわち私たち自身のことのみを考えたいと思います。

 御子の血が注がれることを良しとされた神の目的は、御子によって私たちを御自分と和解させることでした。正しい関係を回復し、交わりを回復するためでした。とは言っても、もともと責任は神様にあったのではありません。人間にあったのです。人間の罪が問題でした。先にも申しましたように、私たち人間の罪が神との交わりを壊したのです。人間が神に背を向けていたのであってその逆ではありません。

 しかし、神がその交わりを回復しようとしてくださいました。交わりの回復のためには罪が処理されなくてはなりません。しかも神にふさわしい、義しい仕方で処理されなくてはなりません。それは罪をただ赦すことではなくて、罪を裁いた上で赦すことでした。これが神の義です。神は罪を裁かれました。どのようにでしょうか。御子を十字架にかけ、血を流すことによってです。「十字架の血によって」とはそういうことです。

 万物の創造に関わられた万物の目的である方が血を流して死なれるということは、私たちの理解を越えた、驚くべき出来事です。私たちの小さな頭で把握することのできないほどに大きな事です。それは、人が神と和解して共に生きるということが、決して簡単な小さなことではないことを示しています。それは、本当は人知を越えた恐ろしく大きな出来事なのです。

 実際、事柄の大きさを私たちが理解しないために、罪の赦しも、神を礼拝できることも、神に祈れることも、あたかも当然のことであるかのように考えるようになり、そして粗末にするようになってしまうのでしょう。それゆえに、私たちはキリストをどのように理解するかが、私たちの信仰生活において、決定的に重要な意味を持っているのです。

 そして、御子は、「すべてのものが造られる前に生まれた方」であるだけでなく、「死者の中から最初に生まれた方」と語られています。そこで表現されているのはキリストの復活です。キリストは復活されて今も生きておられます。私たちの救いを為し遂げてくださった方は今も、教会の頭として生きておられます。私たちはその御子の支配下に移されたのです。今もその御方のもとに生かされているのです。それが私たちに与えられている信仰生活です。

2015年10月18日日曜日

「弱いところにこそ現される神の力」

2015年10月18日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 士師記 7章1節~8節


主は共におられます
 「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。今日の朗読はそのような言葉から始まっていました。

 イスラエルの陣営とミディアンの陣営が対峙しています。ミディアンの陣営。正確に言うならば、それはミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結束した連合軍です。その数はおよそ13万5千人(8:10)。対するイスラエルの民は3万2千人です。敵の四分の一にも及びません。どう考えても圧倒的に不利です。彼らはどうして勝ち目がないような戦いに挑もうとしているのでしょう。そもそもこの民を率いているギデオンとは何者なのでしょう。

 彼らが向き合っているミディアン人やアマレク人や東方の諸民族というのは、駱駝に乗って移動しながら生活している遊牧民です。彼らは定住している他の民族から略奪することによって生活の資を得ているのです。イスラエルの民も例外ではありません。度々略奪にあったことが書かれています。種を蒔き、農作物を育て、やっと刈り入れという時期になるとミディアン人がやってくるのです。彼らは農作物だけではありません。羊や牛やろばまで奪っていくのです。6章にはこのように書かれています。「彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった」(6:4‐5)。

 そのような悲惨な時代にギデオンという男が登場してまいります。次のように書かれています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(6:11)。これがギデオンです。

 酒ぶねの中で小麦を打っていた男。酒ぶねとは岩をくり抜いて作った穴です。そこに隠れて脱穀していたのです。そんな風の通らないようなところでちまちまと小麦を打っていて、うまく脱穀できるはずがありません。しかし、そうでもせずにはいられないほど、彼はビクビクしていたということでしょう。そんなギデオンのもとに主の御使いが現れて、こう言ったというのです。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)。

 酒ぶねに隠れているギデオンに「勇者よ」と呼びかけるのは、普通に考えればたちの悪い皮肉かジョークでしょう。しかし、わざわざ御使いを遣わして語られたのですから、神様は大まじめなのです。「勇者よ」と主は彼を呼ばれる。それは彼が強いからでも勇敢であるからでもありません。主にとって重要なのは、今、彼が《何者であるか》ではないのです。彼が《何者になり得るか》ということなのです。そこで決定的に重要なのは続く一言です。「主はあなたと共におられます」。彼が何者になり得るかは、まさにこの一言にかかっているのです。

 かつて同じ言葉を聞いた一人の男がいました。彼は殺人を犯して逃亡し、人目を避けて何十年も羊を追って生活していた一人の羊飼いでした。その名をモーセというその男に主は現れて言われたのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3:10)。

 これも普通に聞けば悪い冗談以外の何ものでもありません。当時の超大国であるエジプトの支配から奴隷の民を連れ出すことなんてことを一人の羊飼いにできるはずがありません。当然モーセは言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。それはモーセでなくても言うでしょう。しかし、そこで主が言われた言葉はこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同12節)。

 「わたしは何者でしょう」とモーセは言います。しかし、何者であるかは主にとってはどうでもよいのです。主にとって重要なのは彼が《何者になり得るか》ということだからです。そこで決定的に重要なのは「わたしは必ずあなたと共にいる」という一言です。まさにこの一言にかかっているのです。そして、モーセはイスラエルの解放者となりました。そのようなモーセを通して解放され導き出された奴隷の民の歴史の中にギデオンもいるのです。そうです、同じ主の声を聞いているのです。モーセに語られた主は今、ギデオンに語られます。

主が共におられるからこそ
 ギデオンは「主はあなたと共におられます」という言葉を受け止め、立ち上がりました。そうです、主の言葉を信じて立ち上がったのです。そして、彼は《主が共におられる》とはどういうことかを知ることとなるのです。しかし、それはギデオンが予想もしなかった仕方においてでした。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。

 先にも触れましたように、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結集した陣営は13万5千人にも及びました。イズレエルの平野に広がる大軍に、イスラエルはどう考えても太刀打ちできません。しかし、ギデオンは主を信じて戦うことを決断します。彼はついに角笛を吹き鳴らしました。

 戦うためには、まず人を集めなくてはなりません。他の諸民族のように訓練された常備軍がいるわけではありません。人をかき集めて戦うのです。まずギデオンの身内であるアビエゼルの氏族が集まってきました。それだけでは足りません。ギデオンは必死でした。自分が属するマナセの部族の隅々にまで使者を送り、人々を呼び集めます。それでも足りません。さらには北方の部族であるアシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わしました。こうして戦いに備えて人々をなんとかかき集めました。その数3万2千人。よく集めたと思います。

 もちろんそれでもなお敵の数には遠く及びません。しかし、ギデオンは諦めませんでした。今日お読みした朗読の箇所にはこう書かれています。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。彼らは3万2千人しかいないのに、それでも進んで行ったのです。

 ところが共におられる主はギデオンにこう言われたのです。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」(2‐3節)。いくらなんでもあんまりではないですか!ただでさえ少ないのです。それだってギデオンが必死でかき集めた人数です。主はそれを三分の一以下にしてしまわれました。

 ところが主はさらに言われます。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない」(4節)。そして、水辺に下った時、常に戦える用意をしながら水を手にすくってすすった者だけを残したのです。戦いを忘れ、膝をついて水を飲んだ者は帰らせました。残ったのはたった3百人でした。ギデオンがせっかく3万人以上集めたのに。

 主が共におられるとはどういうことですか。全てが順調に願った通りに進むことですか。どうもそうではないらしい。主が共におられるということは、時としてこのような形となって現れてくるのです。

 ここに書かれていることは、私たちにも覚えがあります。与えられた重荷は負わなくてはならない。与えられた使命は成し遂げなくてはならない。だから一生懸命に計画を立て、工夫して努力して、なんとかやり抜こうとするのでしょう。しかし、思った通りには進みません。せっかく集めたものを散らされてしまうようなことが起こります。せっかく積み上げてきたものが崩れてしまうようなことが起こります。せっかく集めた3万2千人を3百人にされてしまうようなことが起こります。その時に、やっぱり神様がうらめしくなるのでしょう。なぜですか、今までの努力は何だったのですか、と言いたくなる。そういうこと、ありませんか。

 しかし、神様は言われるのです。「あなたが頑張って、あなたがかき集めて、あなたが積み上げて、それで乗り越えたならば、心がおごり、『自分の手で救いを勝ち取った』と言うだろう」と。そうです、人は「わたしがやった」「わたしたちがやり遂げた」と言うようになるのです。その時、自分が主と共にいるかどうかは、どうでもよくなるのです。それは人間にとって本当は最も不幸なことなのです。だからこそ、そうならないように、主は時として3万2千人を3百人にされるのです。人間の願いとは逆行するようなことが起こるのです。しかし、それが人の目には最悪の状態に向かっているように見えたとしても、それは主に見捨てられたことを意味するのではないのです。

 その3百人はどうしたのでしょう。彼らは夜中に三つの小隊に分かれ、角笛と空の水がめを持って出て行きました。松明の光を水がめで隠しながら、気付かれないように敵陣を包囲する形で近づいたのです。そして、一斉に角笛を吹き、水がめを割って大きな音を出し、松明をかざして角笛を吹き続けたのです。この奇襲攻撃に敵陣は大混乱に陥りました。そして、結局かの13万5千人の大軍は3百人の前に敗走したのです。この世の目から見るならば、ギデオンの知恵の勝利であり、ギデオンの作戦勝ちと言えるでしょう。しかし、聖書はそう言っていません。「主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ…」(22節)と書かれているのです。本当に闘われたのは主御自身でした。

 自分が一生懸命集めた人々を神様によって散らされてしまったギデオンには分かっていたはずです。これは主の知恵であり、主の勝利である。人間の願い通りに進まなかったところにおいて、最も弱くされたところにおいて、主の偉大な力が現されたのだ、と。そうです。主は確かに共にいてくださったのです。

2015年10月11日日曜日

「完成に向かって」

2015年10月11日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章1節~11節


わたしは感謝します!
 今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。

 この手紙は「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。彼は獄中にいる未決囚としてこれを書いているのです。しかも、パウロが獄中にいる間、彼に敵対する者たちが自らの勢力を拡張するために働きを進めていたのです。15節以下にはこう書かれています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言います。彼が神に感謝を捧げているのは、単に彼の為していることが順調に進み、彼が望ましい境遇にあるからではありません。感謝の言葉など出て来ようはずもない状況において、彼はフィリピの教会を思いつつ、神に感謝を捧げているのです。

 彼はフィリピの教会を思い起こしながら、感謝を捧げます。それは彼自身は望ましい境遇になくても、フィリピの教会そのものは喜ばしい状態にあったからでしょうか。平和と調和を保った理想的な教会だったからでしょうか。いいえ、どうもそうではなさそうです。例えば、2章においてパウロは次のように書いています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)。つまり、現実にはそうなっていないということです。

 また、この教会も他の教会と同じように異端の教師たちが入り込んでいました。ゆえに、パウロはこの同じ手紙の中で、実に激しい言葉でこのように語っているのです。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。このようにフィリピの教会もまた他の教会と同じように、獄中にいるパウロの心を痛め、悩ませる要素を沢山持っていたのです。

 それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言うのです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。彼はそのような状態にあってもなお喜びをもって祈ることができるのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。

 パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じました。彼らの信仰生活がスタートしました。それは彼らがスタートしたと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が始められた善き事があるということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。

 ですから、パウロはその神の御業に目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。

最初の日から今日まで
 そのように神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。その神の御業に目を向けることは重要です。しかし、もう一方において、彼らが福音を信じて実際に信仰生活をスタートし、それが継続しているという人間の側の側面に目を向けることもまた重要です。パウロはここで「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。ならばパウロの言わんとしていることは、彼らが「福音にあずかり続けている」ということでしょう。

 この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、共に集まり、共にパンを裂き、キリストの体と血とに与りつつ、その命に生きる共同体に連なっている――それがここで語られていることに他なりません。そして、大切なことは、パウロのこの言葉において、明らかに「今日まで」という言葉が「最初の日」という言葉と同じ重みを持っているという事実です。「最初の日」だけが重要なのではないのです。

 この国においてキリスト教人口はいまだ1パーセントに過ぎません。そのような社会の中で洗礼を受けてキリスト者となるということは、一般的に大きな決断を伴います。洗礼を受けるまでに大いに悩んで考えて決心する人もいるのでしょう。そして、神の御前において畏れをもって洗礼を受けるのでしょう。そのように洗礼と入信、「最初の日」は大変重く受け止められるものです。

 しかし、その「最初の日」と同じほどに重要なのが「今日まで」ということなのです。今、ここにおいてキリストを信じる者として恵みにあずかっているという事実なのです。そのように信仰生活が継続されていることなのです。繰り返し変わることなく聖餐卓を囲んで礼拝を続けていることなのです。「洗礼」だけでなく、その後に繰り返しあずかることになる「聖餐」もまた同じように重く受け止められなくてはならないのです。実際どうでしょう。洗礼を受けた時と同じ思いをもって聖餐のパンと杯を受け取っているでしょうか。

 パウロにはその重さが分かっているのです。実際には問題が山積している教会かもしれない。パウロとの関係も常に良好であったわけではないかもしれない。しかし、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きなことかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。

キリスト・イエスの日までに
 そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。6節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。神が定められた終わりの日です。私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。その日までに、善い業を始められた方がその業を成し遂げてくださると言うのです。

 神の始められた善い業が成し遂げられる。そのようにして、私たちが「キリスト・イエスの日」に向けて備えられるということです。具体的にパウロはどのようなことを考えているのでしょうか。彼が何を考えてこのように語っているのかは、その祈りの言葉によく表れています。9節以下をご覧ください。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。

 彼はフィリピの教会のために、そこに生きる信仰者のために、このように祈るのです。神に祈るということは、当然のことながら信じて祈っているのです。そうなると信じて祈っているのです。キリストの日に備えて、本当に愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられるようになり、清い者、とがめられるところのない者となり、義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れをたたえる者となる。私たちはそのような者に、本当になれるのでしょうか。他の人についてそう思えますか。信じられますか。自分自身について、そうなれると思いますか。なれると信じられますか。

 今、パウロが私たちと手紙のやりとりをしていたら、パウロは同じことを書いてくれるでしょうか。同じように祈ってくれるでしょうか。――わたしは同じように祈ってくれるに違いないと思います。なぜなら彼はこのように信じている人だからです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。ならば私たちもまたパウロと共に信じて、共に祈るべきなのでしょう。教会のために、他者のために、そして自分自身のために。

 これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださることです。ならば、大切なことは何でしょうか。福音に与り続けるということです。「最初の日から今日まで」です。そして、明日も明後日もその次の日も、キリスト・イエスの日まで。現在は救いの完成に至るプロセスに過ぎません。結論が出るのはキリスト・イエスの日です。目に映るところはどのような状態であれ、パウロのように「わたしは感謝します!」と神に感謝を捧げながら、神の成し遂げてくださる御業を信じて共に祈り求め続けましょう。

2015年10月4日日曜日

「人と人との関係を造りかえる神」

2015年10月4日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィレモンへの手紙 4節~12節


逃亡奴隷オネシモ
 今日はフィレモンへの手紙という短い手紙の一部が読まれました。パウロが獄中から書き送った手紙です。フィレモンという名前は聖書の中でここにしか出てこないので、詳しいことは分かりません。ただ「あなたの家にある教会」とあるように、彼の家が集会のために用いられていたことが分かります。初期の教会は、もちろん会堂などは無かったので、比較的裕福な信徒の家が集会のために用いられていたのです。彼の家はコロサイにありました。

 さて、フィレモンの家に一人の奴隷がおりました。その奴隷の名はオネシモと言いました。当時のローマの社会はまさに奴隷によって成り立っていると言えるほどに奴隷は多かったのです。オネシモはそのような奴隷の一人でした。

 ある日、そのオネシモがフィレモンの家から逃亡しました。フィレモンの家で盗みを働いたか、あるいは何らかの損害を与えて、逃亡したものと思われます。罪を犯した逃亡奴隷が捕まったなら、そこには厳しい処罰が待っています。だから彼は必死で逃げました。なんと1500キロ以上も離れたローマまで彼は逃げたのです。

 しかし、どのような経緯かは知りませんが、そのローマにおいて監禁中のパウロに出会うこととなりました。そして、パウロを通してイエス・キリストを知り、彼はキリスト者になりました。それゆえにこの手紙では「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と呼ばれているのです。

 オネシモはしばらくの間、監禁中のパウロの手助けをしていたようです。しかし、やがてパウロはオネシモをフィレモンのもとに帰らせる決心をします。「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」(12節)と書かれているのは、そのようなわけです。逃亡奴隷を主人のもとに送り返すことは大きな決断であったと言えます。しかし、オネシモ自身にとってはもっと大きな決断であったと言えるでしょう。彼はパウロの提案に同意したのです。逃亡者のままであることは主の御心ではない。彼もわかっていたのです。

 ちょうど「コロサイの信徒への手紙」をティキコに持たせてコロサイに送る予定でした。パウロはオネシモをティキコに託します(コロサイ4:7以下)。そして、同行するオネシモにはフィレモン宛ての手紙を持たせたのです。それがこの手紙です。今日は12節までしか読みませんでしたが、本当に言いたいことは17節にあります。「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」。そうパウロは書き送ったのです。

 オネシモを送り帰すには、このような執り成しの手紙がどうしても必要であったことは理解できます。というのも、奴隷の主人は奴隷を死刑にする権限さえも持っていたからです。また、罪を犯した奴隷を厳しく処罰することは、奴隷の主人の義務でさえあったのです。ですから、ただオネシモをそのまま送り帰すわけにはいきません。しかし、パウロが望んでいたのは、ただオネシモが赦されることだけではありませんでした。彼が奴隷としてではなく、真に兄弟として迎え入れられることをパウロは願いつつ、この手紙を書いているのです。そうです、そのことが起こるとパウロは本気で信じているのです。

人を造りかえる神の恵み
 さて、そのような手紙を私たちは今日お読みしているわけですが、この手紙はパウロの他の手紙とは明らかに趣を異にしています。教理的なことは何一つ書かれていません。信仰生活に関わる具体的な勧めが書かれているわけでもありません。このような手紙が新約聖書に含まれているということは不思議な気がいたします。

 しかし、この手紙が新約聖書に入っているのは、やはり救いに関わることが語られているからなのでしょう。そこに記されているのは救いの教理ではなく、神の救いの恵みが現実に生きて働いた実例が記され、証しされているのです。人は確かにただ神の恵みによって救われるのです。人間の行いによるのではないのです。

 先にも申しましたとおりオネシモは逃亡者でした。キリスト者であった主人のものを盗んで逃げたとするならば、キリスト者のネットワークとは絶対に接触しないようにと考えて逃避行を続けていたに違いありません。どのように居場所が知れるかもしれないからです。

 しかし、そのような彼の思惑にもかかわらず、彼が行き着いたのはパウロのもとだったのです。もちろん、パウロがオネシモを探し当てたわけではありません。パウロは監禁されていたのですから。この出会いは、ただ神によって与えられたとしか言いようがありません。ただ神の恵みの御業によるのであり、オネシモの救いのためにパウロが用いられたのです。

 オネシモはフィレモンのもとに帰ってどうなったのでしょう。オネシモは赦されたのでしょうか。この手紙が今もこうして残っているということは、パウロが願っていたとおり、オネシモが赦され、受け入れられたということでしょう。そして、それ以上のことは聖書に書かれていないのですが、実は紀元2世紀にアンティオキアの監督イグナティオスによってエフェソの教会に宛てた手紙の中にこんなことが書かれているのです。

 「オネシモス(オネシモ)は言い尽くせぬ愛の人、肉においてはあなた方の監督であり、私はあなた方がイエス・キリストに従って彼を愛し、皆彼のようになることを、お祈りしております。あなた方を恵み、こんな監督を持つにふさわしくして下さった方はほむべきかな。」

 フィレモンの手紙が諸教会において読まれるようになった頃には、既にオネシモが誰であるかは広く知られていたに違いありません。まさに罪を犯して逃げ回っていた奴隷を造り変えて神に仕える者とした神の恵みを証しする書として、この手紙は読まれたのです。

造りかえられた関係
 またこの書は、ただ人を造り変える神の恵みを証しするだけでなく、人と人との関係をも造り変えることを証ししているとも言えます。当時の常識から言えば、逃亡奴隷が主人によって受け入れられるなどということは、およそ考えられないことでした。しかも、ただ赦されるだけでなく、一人の人間として、兄弟として受け入れられるということは、どう考えてもあり得ないことだったのです。しかし、それが実現したのです。この手紙が残っているとはそういうことなのです。

 しかも、それはオネシモが償いをしたとか謝ったとか誠意を見せたということによるのではないのです。この手紙には、オネシモの反省についても謝罪の意志についても全く触れられていないのです。この和解は人間がどうしたかによってではなく、ただ神との関係において起こったのです。それは神の恵みの力によって実現したのです。

 もちろん、和解が実現するために、パウロは慎重に言葉を選び、説得するために工夫を凝らしています。こんな手紙を書かれたら、その通りにしないわけにいかないだろうとさえ思います。しかし、それでもなお、フィレモンはいやいやパウロの説得に屈したのではないのです。実は、フィレモンはパウロが願っている以上のことをしたことが、この手紙から見えてくるのです。

 今日の朗読箇所ではありませんが、この手紙においてパウロは、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(15節)と言っています。しかし、フィレモンはオネシモを自分のもとに留め置かなかったようなのです。彼は奴隷オネシモを解放して、パウロと働きを共にすることができるようにしたのです。コロサイに住むフィレモンの奴隷が後にエフェソの監督になっているとは、そういうことでしょう。フィレモンは、ただ主のためにオネシモを兄弟として受け入れ、そして主のために彼を解放したのです。

 このように、パウロが個人に宛てたこの短い執り成しの手紙は、聖書の一部として今日に生きる私たちにも、神の恵みが現実に何をもたらすのかを力強く語っているのです。それは私たちの内にも、そして私たちの間にも起こりえることなのです。

2015年9月27日日曜日

「関心を向けておられる神」

2015年9月27日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 16章19節~31節


人間の無関心・神の関心
 今日の福音書朗読で読まれましたのはイエス様のたとえ話でした。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」その金持ちが死んで葬られた後、死後の世界で苦しみ苛まれることになったという話しです。

 何のためにイエス様はこのような話をなさったのでしょう。実はこの類いの話はユダヤ人社会においては珍しくなかったと言われます。似たような話がいくつも知られていたのです。恐らくイエス様はそのような中から題材を取られたと思われます。何のためだったのでしょう。金持ちの贅沢を戒めるためでしょうか?金持ちに対する施しの勧めでしょうか?

 実は、イエス様が語りかけている相手は金持ちではないのです。この話を聞いているのはファリサイ派のユダヤ人です。少し前を見ると「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)と書かれています。これは実に微妙な表現です。ファリサイ派の人ならば金に執着しているとは思われたくないはずです。金に執着して阿漕なことをしている徴税人たちがもう一方にいるからです。彼らは金持ちです。ファリサイ派の人たちは、そんな金持ちを軽蔑しているのです。だから彼らと我々は違う、と言いたい。でも本心を言えば、金は欲しい。そんな感じでしょうか。

 実際、表向きにはファリサイ派の人は金に執着などしていないのです。律法にかなった正しい生活をしているので悪い金は入ってこない。だから一般的には貧しいのです。その貧しさの中から、敬虔な業として施しもするのです。イエス様の話を聞いているのは、そんな人たちです。そんなファリサイ派の人たちに「金持ちに対する戒め」を語っても意味がありません。「施しの勧め」などしなくても、既に彼らはしているのです。

 ではイエス様がこの話をなさったのは何のためでしょう。これを聞いているファリサイ派の人たちに、イエス様は先にこんなことを言っておられます。「あなたたちは自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」(15節)。そうです、イエス様が問題にしているのは「心」なのです。このたとえ話においても大事なのはその「心」なのです。

 金持ちなのが問題なのではありません。毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのが問題なのではありません。問題はその「無関心」にあります。この金持ちはラザロが門前にいたことは知っているのでしょう。「ラザロ」の名前さえ知っているのですから。しかし、その苦しみに関心を寄せることはありませんでした。その存在に関心を寄せることはありませんでした。ラザロという人は誰にも心にかけられることはなかった。このラザロに関心を持ったのは犬だけだったと語られているのです。

 これが「無関心」の話ならば、それは私たち全ての人に関わっている話です。金持ちであろうがなかろうが関係ありません。貧しい人が他の貧しい人に無関心ということもあり得ますから。マザー・テレサがしばしば口にしておられたように、愛の反対は憎しみではなく「無関心」なのです。罪の本質が愛の欠如にあるとするならば、この金持ちの描写は極端に描かれてはいますけれど、実は誰の内にもある罪深さの描写であると言えるでしょう。その意味でこの金持ちの姿は私たちと重なります。

 しかし、ここに語られているのは人間の愛の欠如と無関心だけではありません。そうではなく、神の関心と憐れみもまた語られているのです。犬にしか顧みられなかったラザロ。ひとりぼっちで死んでいき、葬られることすらなかったラザロ。誰からも関心を向けられなかったラザロ。しかし、そのラザロに関心を寄せている方がおられたのです。神様です。「天使たちによって…連れて行かれた」と書かれていますでしょう。それは、要するに神様によって連れて行かれたということなのです。

 死の手前までしか見なければ、ラザロは誰からも顧みられず神からも見捨てられて死んでいった惨めな人と見えるでしょう。しかし、そうではなかったと言うのです。神はラザロを知っておられた。そして、その神が憐れんでくださった。報いてくださった。ラザロは正しい人であったからではありません。貧しかったけれど敬虔な人であった、罪のない人であったなどと、どこにも書かれていません。これはラザロがどうであったかではないのです。そこにあるのは人間の苦しみに関心を寄せておられる神の憐れみなのです。

 ここにおいて、金持ちの姿が私たちに重なるだけでなく、ラザロの姿もまた私たちと重なってくるのです。私たちの中に、ラザロのように死んでいく人はいないかもしれません。しかし、誰からも関心を向けられることのない私たちの苦しみ、生きている間には誰からも分かってはもらえない、誰からも顧みられることのない私たちの痛みというものは、人それぞれ違えどもあろうかと思うのです。しかし、神は関心を向けていてくださる。そして、神は憐れんでくださる。報いてくださるのです。

聖書に耳を傾けよ
 しかし、このたとえ話は人間の無関心と神の関心を描き出すに留まりません。さらに話は続きます。そして、イエス様が本当に伝えたかったことは後半部分にあるのです。

 27節以下を御覧ください。金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに向かって叫びます。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」モーセの律法の書と預言者の書を彼らは持っている。つまり彼らは聖書を持っているではないか。聖書の言葉が既に与えられているではないか、ということです。

 これに対して、金持ちはなおも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。しかし、これを聞いたアブラハムは彼に言いました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の裁きと苦しみを語るなら、それを聞いて人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではないとアブラハムは言っているのであり、このたとえ話をしているイエス様もそう言っておられるのです。

 そもそも死後の世界から誰かが生き返って語らなくても、この話を聞いているファリサイ派の人たちは死後の世界を既に信じているのです。最初に申し上げたとおり、イエス様は彼らにとっても馴染み深いような話をあえて題材として用いているのです。ここに語られているように、神の裁きがあること、人によって死後に行く場所が分かれるというのは、他ならぬファリサイ派の人たちが信じていたことなのです。だから、正しい人間が行くところに行きたくて、アブラハムがいるところに行きたくて、宗教的な義務である施しも実践していたのです。

 しかし、そのようなところから他者への関心、他者への愛は生まれたのでしょうか。いいえ、そうならなかったのです。宗教的な義務として施しをしたとしても、その他の善行を積んだとしても、考えているのは自分の救いのことだけだったのです。ですから、救われるために宗教的な義務は果たすのですけれど、例えば、病気で長い間苦しんできた人がイエス様によって癒されても一緒に喜べないのです。悪霊に憑かれていた人がイエス様によって解放されても一緒に喜べないのです。神に背いて生きてきた人が神に立ち帰っても、そこで一緒に喜べないのです。彼らの苦しみにも彼らの救いにも関心がないからです。

 他者への関心や愛は、死後の世界に対する恐怖などから生まれることはありません。たとえ死後の世界から人が戻っても、死後の世界をリアルに語ったとしても、それによって真の悔い改めが起こることはないのです。イエス様がなさっているこの話にしても、イエス様は恐怖を煽るために話しているのではないのです。死後の苦しみをどんなに描き出しても、それによって悔い改めが起こらないことは、イエス様が一番ご存じだからです。せいぜいそこから起こるのは、死後の苦しみをどうしたら免れるかという利己的な関心ぐらいなのです。

 では大事なことは何でしょう。この話の中でアブラハムは言っていました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。聖書を持っているではないか。聖書に耳を傾けよと言うのです。

 聖書が語っているのは、死後の世界の話ではありません。「死んだらどうなる」という話は全くと言っていいほど書かれておりません。そうではなくて、聖書が語っているのは人間の罪と神の愛なのです。人間がどれほど神に背いているのか。そして、それにもかかわらず神がどれほど人間を愛し、赦して救おうとしておられるのかということです。その神は、最終的には独り子さえもこの世に遣わして、私たちを赦して救うために御子を十字架にかけられたのです。その神の救いの御業を指し示しているのが聖書なのです。

 聖書に耳を傾けなさい。イエス様はこのたとえを通してそう語っておられます。それはさらに言うならば、その聖書の語っていることが私において実現していることを知りなさい、罪人を憐れんでくださる神の愛が私において完全に現れされていることを知りなさい、ということでしょう。

 そのイエス様の思いは、弟子たちにしっかりと手渡されたのでした。この福音書の最後の部分にこう書かれています。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(24:44‐48)。

2015年9月20日日曜日

「大きな利得の道」

2015年9月20日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅰ 6章1節~12節


愛する機会に
 初期の教会には奴隷の身分の人たちが少なくありませんでした。新約聖書に度々奴隷の身分の人たちへの勧めが記されているのはそのような事情によります。今日お読みしたのもそのような箇所の一つです。

 ここでパウロは、まず1節において、主人が信者でない場合について、次のように勧めています。「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」(1節)。

 もともと尊敬できる主人の下にいるなら何の問題もありません。こんな勧めも必要ないのです。しかし、往々にしてそうはならない。自分を不当に扱う主人にも仕えねばなりません。粗野で教養のかけらもないような主人であっても仕えねばなりません。するとどうなるか。表面的には恭しく主人に仕えているように見えながら、その心の内において主人を軽蔑するということが起こります。そのような心情は私たちも経験することがありますから、よく分かります。

 ただでさえそうなのですから、そのような奴隷がキリスト者になった場合、不信心な主人をいよいよ見下すようになるということは起こり得ることでした。私は救いの真理を知った。主人は偉そうにしているけれど、最も大切な真理を知らない。私はキリストによって救われた。主人は救いのなんたるかを知らない。神の国も永遠の命も知らない、と。

 しかし、そのように人を見下す思いがあると、それは行動の端々に出てしまうものです。鼻持ちならない態度として出てしまうものなのです。主人は思うでしょう。「この教えは人を生意気にさせる教えだ。この教えは実に鼻持ちならぬ人間を作り出す教えだ」と。そして、キリストを罵るようになるかもしれません。どうでしょう。すると本来は福音を証しするはずのキリスト者が、このようにして人に神の御名と教えとを冒涜する機会を与えてしまうことになるのです。

 だからパウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」(1節)と言っているのです。

 さらに2節において、主人がキリスト者の場合について書いています。そこでは別の問題が起こってまいります。主人と奴隷は主の食卓においてはまったく平等な兄弟となるのです。主人がキリスト者となるまでは、打ち叩かれることを恐れて働いていたかもしれません。主人はもう打ち叩かなくなるでしょう。すると、恐れが従順に働くことの動機であった人は、その動機を失うことになります。彼はもはや従順に働かなくなるかもしれません。

 だからパウロは言うのです。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」(2節)。そうです、むしろ今こそ主人を重んじて熱心に仕えるべきだというのです。なぜでしょうか。主人は「神に愛されている者だから」だとパウロは言うのです。

 つまり主人に仕えることの意味が変わったのです。かつては恐れのゆえに渋々と不平を心に抱きながら仕えていたかもしれません。しかし、今は違うのです。今や仕えることは「神に愛されている者」である信仰の兄弟に、神の愛を現す機会となるのです。奴隷が主人を愛して仕える時、その奴隷はいわば通路となるのです。兄弟となったその主人を神が愛するための通路となるのです。同じ仕えるにしても、そのような存在として仕えることができるのです。

 信仰を持ったからと言って、キリスト者になったからと言って、この世における立場が変わらないことはいくらでもあります。いや、通常はそうなのでしょう。置かれている環境が全く変わらないこともあります。しかし、その意味が変わるということは起こり得るのです。そこで何かを行うことの意味は変わり得るのです。人は置かれている環境に不満を抱き、不平を言いながら生きることもできます。しかし、神はその時と場所を神の愛を現す機会に変えることができるのです。

利得の道としての信心なら
 そして、パウロは言います。「これらのことを教え、勧めなさい」と。「これらのこと」が何を指しているのかは必ずしも明確ではありません。しかし、そう語る理由ははっきりしています。3節にありますように「異なる教え」を説いている教師たちがいるからです。彼らは5節では「信心を利得の道と考える者」と表現されています。すなわち、彼らは信心を「自分が何かを得る手段」としか考えていなかったということです。

 恐らくパウロが具体的に念頭に置いていたのは「お金」の話です。9節以下に語られているようにです。「金持ちになろうとする者は」と彼は言います。そこにあるのは「金銭の欲」です。実際に彼らは信心を金持ちになる手段と考え、そして教えていたのかもしれません。あるいはもっと広い意味での「利得の道」として教えていたのかもしれません。

 いずれにせよ、「利得の道」は多くの人々の心を惹きつけたと思います。特に先に触れた奴隷の身分の人たちや様々な形で社会において抑圧されている人、不当に扱われている人の心を惹きつけたに違いないのです。小さいから、弱いから、持っていないから軽んじられるのだ。大きくなれたなら、強くなったなら、持っている側の人間になれたなら、仕えるのではなくて仕えさせる側の人間になれたなら、支配する側の人間になれたなら――。見下されていた人たちならば、なんとしてでもこの「利得の道」によって、いつか見返してやりたいとも思ったに違いありません。

 しかし、そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。もしかしたら、本当に儲かるかもしれません。豊かになれるかもしれません。強者の側になれるかもしれません。それはあり得ることなのです。現代においても成功の道を説く多くの人が語っているように、人間の強烈な願望が成功や富をもたらすことはあり得ることなのです。実際に彼らの語る「利得の道」が結果を出していなかったら、放っておいても消えていったことでしょう。恐らくは結果を出していたのです。しかし、改めて問います。そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。

 パウロはこう書きました。「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです」(4‐5節)。これが彼の見ていた現実です。確かに、自分が何を得るかということにしか関心がなければ、そして、その欲望が果てしなく増大していくだけの「利得の道」であるならば、そうなるのも無理はないと言えます。少なくとも、先に見た「奴隷の身分の人」に対する勧めは絶対に出てこないでしょう。

真の利得の道
 そこでパウロは言います。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)。パウロは信心が利得の道であることを否定しないのです。彼は言います。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」(7節)。

 それは誰もが知っていることです。確かに何も持っていくことはできません。ならば残るものは何かということも明らかです。それは裸のわたし自身です。この世の命を生きてきたわたし自身です。神との関わり、そして人との関わりの中に生きてきたわたし自身です。ならば、この世に置いていくものをどれだけ得たかということよりも、どう生きてきたかということの方が遙かに重要なことなのでしょう。神と共にどう生きてきたのか。人と共にどう生きてきたのか。それだけが残るのです。

 そして、もう一つのことも明らかです。何も持っていくことができないならば、本当に得なくてはならないものは、向こう側にあるということです。こちら側で得るものは全て置いていかなくてはならないのですから。私たちが本当に求めなくてはならないもの、得なくてはならないもの、それを聖書は「永遠の命」と表現します。そうとしか表現できない、しかしまたそれでもなお表現できてはいない、私たちが思い描くことさえできない、神が与えてくださる最終的な救いです。それこそが、それだけが人間にとって真の利得なのです。だからこそパウロは「大きな利得の道です」と言うのです。

 そこでパウロはテモテに言います。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(11‐12節)。

 「永遠の命を手に入れよ」とパウロは言います。自分の行為や努力と引き替えに「永遠の命を手に入れよ」と言われているわけではありません。永遠の命は、私たちが差し出せる何かと引き替えにできるような、安っぽいものではありません。それはただイエス・キリストの十字架のゆえに、成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。代価を払ってくださったのはキリストであって、私たちが支払うのではありません。私たちはただ神に召され、「命を得よ」と語られたのです。そのようにして、備えられている永遠の命に向かってスタートしたのです。

 しかし、恵みによって備えられている命を獲得するに至るまでには、それを妨げようとする力が働くのです。競技をする者の完走を妨げる諸々の力が働くのと同様です。それは迫害であるかもしれませんし、罪の誘惑であるかもしれません。それゆえに、なおも走り抜こうとするならば、そこには戦いがあるのです。

 だからこそ、この世においても追い求めるべきものがあるのです。それはあの教師たちが追い求めていた利得とは異なります。それとは異なるものを追い求める必要があるのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と語られているのはそういうわけです。それこそが、信仰の戦いを戦い抜くために必要だからです。

 そして、私たちがひたすら求めていくときに、誰が与えてくださるかも知っています。それは永遠の命を与えてくださる神御自身です。その意味においても、信心は大きな利得の道なのです。

2015年9月13日日曜日

「どうしてそんなに怒るのか」

2015年9月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 15章11節~32節


お兄さんのところに身を置いて
 今日はイエス様のなさった「放蕩息子」のたとえ話をお読みしました。イエス様がこのたとえ話をなさったのには理由があります。その事情が15章の冒頭に記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1‐2節)。そこでイエス様は三つのたとえ話をされました。今日お読みしたのは三番目のたとえ話です。

 このたとえ話はもちろんそこにいる全ての人が聞いていました。しかし、明らかに第一の聴衆はきっかけを作ったファリサイ派の人々と律法学者たちです。イエス様は彼らを念頭に置いて語っているのです。ならば、このたとえ話を聞く上でまず私たちが身を置かなくてはならないのはファリサイ派の人たちのところです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちとはどのような人々であったか。改めて細かく説明する必要はなさそうです。たとえ話によってイエス様が説明してくださっているからです。要するにこの話に出て来るお兄さんのような人々です。

 これは通常「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるのですが、私たちがまず身を置かなくてはならないのはお兄さんの方なのです。イエス様はこのお兄さんのような人たちを意識して語っているのですから。

 このお兄さんの位置に身を置くことは難しいことではありません。このお兄さんの気持ちが分からない人はまずいないからです。お兄さんは怒っています。ちなみに、今日の説教題は「どうしてそんなに怒るのか」です。しかし、恐らくそんな質問はいらないのです。私たちには怒る理由はよく分かるからです。そんなことをもしお兄さんに尋ねたら火に油を注ぐことになるでしょう。

 そこで私たちはまずお兄さんのところに身を置いてこのたとえ話を聞いてみます。そこで何が聞こえてくるでしょう。このお兄さんが最後に耳にしたのはこのような言葉でした。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。これが聞いている私たちにとっても最後に耳に残る言葉です。

 どういうつもりでお父さんはこう言っているのでしょう。「嫌だったらお前は参加しなくていいんだよ。とりあえず理解しておくれよ」という意味ではないでしょう。そうではなくて、お父さんはお兄さんに加わって欲しいのです。家に入ってきて、祝宴に加わって、一緒に楽しみ喜んで欲しいのです。「一緒に喜んでくれ」。この父親の心が、お兄さんのところに身を置くと聞こえてくるのです。

 この声がはっきりと聞こえるように、イエス様は準備しています。そのために二つのたとえ話を先にしているのです。百匹の羊のたとえ話、そして十枚の銀貨のたとえ話です。

 羊を見つけた羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。銀貨を見つけた女も友達や近所の女たちを呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。そして、息子が帰ってきたことを喜ぶ父親が、怒り狂っている兄息子に言うのです。「一緒に喜んでください」。そうです、この三つのたとえ話を通して、天の父は私たちに呼びかけているのです。「一緒に喜んでください」と。

腹立たしい父親の喜び
 それにしてもイエス様のたとえ話は極端です。友達や近所の人々まで呼び集める羊飼いや女の喜び方は常軌を逸しているとも言えます。三番目のたとえ話の場合、父親の喜び方は異常を通り越して腹立たしくさえある。少なくともあのお兄さんにとってはそうでしょう。

 しかし、その喜び方が極端で異常なだけにまたはっきりと分かることもあります。失われた一匹の羊が羊飼いにとってどれほど大事な存在かということ。失われた一枚の銀貨があの女にとってどれほど大事であったかということ。帰ってきたあの息子が父親にとってどれほど大切な存在であったかということです。あの息子は共にいるだけでその存在そのものが父親の喜びであることは明らかでした。そうです、あのお兄さんにもよく分かったはずです。

 だからこそ腹が立ったのです。怒ったのです。あのろくでもない息子がどうしてそんなに大事なんだ!帰ってきただけでどうしてあんなに喜ばれているんだ!あんな奴がどうしてそんなに大きな喜びなんだ!と。

 帰ってきた弟は、兄にとって喜びではないのです。しかし、父親にとっては喜びなのです。自分にとっては大切な弟などではないのです。しかし、明らかに父親にとっては大切な息子なのです。そうです、父親にとっては大切な息子。それは認めざるを得ない。だから兄は言うのです。「あなたのあの息子が」(30節)と。「自分の弟が」とは言いたくないのです。けれど、父親にとっては喜びである息子らしい。そして、それは実に腹立たしいことです。

 さて、これは私たちにとって実に身近な話かもしれません。神様にとって大切な存在が、私たちにとって大切な存在とは限らない。神様にとって大きな喜びが、私たちにとって大きな喜びであるとは限らないからです。私たちにとって共にいる人が常に大きな喜びであったらどんなに良いかと思います。そうありたいと願います。しかし、現実にはそうならないこともあるのでしょう。お兄さんが弟を見るように、他の人を見てしまうことがあるのでしょう。

 あの人が神に愛されているなんて思いたくもない。あの人が神にとって大切な存在だなどと思いたくもない。あの人が神にとって大きな喜びだと言われるならば、それは何にもまして腹立たしい。神様御自身がたとえそう言ったとしても腹立たしい。「あなたのあの息子が!!」と言ったお兄さんの気持ちはとてもよく分かる。そのような時もあるのでしょう。

子よ、と呼びかける父
 しかし、「あなたのあの息子が!」と毒づくこのお兄さんに対して、父親はこう語りかけるのです。「子よ」と。わかりますか。このお兄さんもまた、父親にとって大切な息子なのです。苦々しい思いを込めて「あなたのあの息子が!」と兄は言う。しかし、その父親の《大切なもう一人の息子》が父親の目の前にいるのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語りかけられている、大切な息子がここにいるのです。

 思い返してみれば、あの弟が帰ってきたとき、走り寄って距離を縮めたのは息子の方ではありませんでした。父が駆け寄ったのです。彼は父の大切な息子であり大きな喜びだからです。では、兄に対してはどうでしょう。兄もまた離れていたのです。家の外にいたのです。入ろうとはしなかったのです。その離れていた兄のところまで来たのは父親の方でした。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた」(28節)と書かれているとおりです。

 「なだめた」とありますけれど、これは「慰める」とも訳せる言葉です。「傍らに呼ぶ」というのが原意です。父親は外に歩み出て怒る兄に近づきます。自ら傍らに立たれるのです。そして、彼に呼びかけます。「子よ」と。そうです、兄もまた大切な息子なのです。

 お兄さんは怒ってこう言っていました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)。実際、そのように生きてきたのだと思います。このお兄さんは頑張ってきたのでしょう。何年も一生懸命仕えてきた。下僕のように仕えてきた。言いつけに背くこともなかった。お父さんに認めてもらいたくて、大切な息子として認めてもらいたくて、お父さんの喜びになりたくて、喜ばれる息子になりたくて、一生懸命に仕えてきたのでしょう。

 しかし、そこにろくでもないもう一人の息子が帰ってきた。その息子が大切にされるのを見た。その息子が喜ばれるのを見た。だから腹が立った。怒ったのです。しかし、本当はそこでお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。彼は息子であるとはどういうことなのかを目の当たりにしているのです。そのことをお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。

 下僕のように仕えるから息子と認められるのではないのです。言いつけに背くことがないから大切な存在となるのではないのです。息子は息子なのです。何があっても大切な存在なのです。既に大きな喜びなのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。本当はそのように見てくれている父が既に一緒にいたのです。

一緒に喜び祝おう
 その父親が言うのです。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。兄はこの言葉を聞いています。兄のところに身を置いた私たちもまたこの言葉を聞いているのです。

 父親は言います、「お前のあの弟」と。兄はそこに「弟」を見なくてはならない。死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった「弟」を見なくてはならないのです。彼を「弟」として見る時に、自分をその「兄」としても見ることになるのでしょう。どちらも同じ父親の息子として見ることになるのです。

 その父は言うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と。弟が共にいることを一緒に喜んでくれ、見つかった弟が共にいることを一緒に楽しみ喜ぼう、と言われているのです。そうです、父と一緒に弟の存在を楽しみ喜ぶことができるなら、兄もまた父の子として、自分がそのような父の喜びであることを楽しみ喜ぶことができるのです。「どうしてそんなに怒るのか。」そう、本当は怒る必要はない、全く怒る必要はないのです。

 それはここにいる私たちにも言えることです。私たちが身を置いているのは、立ち帰った者たちの祝いです。主の日の礼拝とはそういうものです。ここでは一緒に喜び祝ったらよいのです。他の誰かの存在を父なる神が喜んでおられるなら、父と一緒に喜び祝ったらいいのです。そして、同じように自分の存在をも大いに喜び祝ったらよいのです。父が祝宴を開いて、とにかく一緒にいることを喜び祝っていてくださるのですから。

2015年9月6日日曜日

「キリストの十字架こそが誇り」

2015年9月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章14節~18節


誇りたいため
 今日はパウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の最後の部分をお読みしました。手紙の最後に至って、パウロはこう言っているのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)。言い換えるならば、キリストの十字架こそがわたしの誇りだ、ということです。あくまでも「このわたしには」という話です。一般論ではありません。他の人に押しつける言葉でも、普遍的な戒めでもありません。

 そのように、あくまでもパウロ自身の話なのですが、このような言葉をガツンと言われますと、やはり考えざるを得なくなります。では「このわたしには」何が誇りなのだろう。何を誇りとして生きているのだろう。今日、私たちには改めてそのことが問われているようにも思います。

 何を誇りとして生きているのか。実は、別の誇りに生きる人たちのことがこの直前に書かれています。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(13節)。それに対して「しかし、このわたしには…」とパウロは語り初めているのです。

 「あなたがたにも割礼を望んでいます」。ガラテヤの信徒たちが割礼を受けることを望んでいる人たちがいました。その前には「あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」という言葉もあります。ガラテヤの信徒たちのほとんどはユダヤ人ではなかったと思われます。割礼を受けていない人たちです。異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて信じてキリスト者となりました。その彼らに割礼を受けさせ、ユダヤ人にしようとしていた人たちがいたというのです。

 彼らがガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとしていたのは「誇りたいため」だと言います。自分たちが誇るために、彼らをユダヤ人にしようとしていた。もちろん「私たちが誇れるように、あなたがたは割礼を受けなさい」などと露骨に言う人はいないでしょう。彼らは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた教師たちなのです。そうです、救われるために「割礼を受けなさい」と言っていたのです。

 しかし、彼らは「あなたがたの肉について誇りたい」だけだとパウロは言うのです。パウロ自身はユダヤ人です。だから分かるのです。かつて彼もそのように生きていましたから。そうです、誇りたいのです。「誇りたい」というのは誰に対してですか。他の人に対してです。どうして人に対して誇りたいのか。他の人ががどのように自分を見なすかが重要だからです。だから人に対して自分の価値ある行いを示したいのです。そのようにして自分の価値を示したいのです。誇りたいとはそういうことです。

 紀元一世紀の頃のユダヤ教世界においては、異邦人への伝道が盛んに行われていたことが知られています。イエス様も改宗者を得ようと努力している教師たちに言及していました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」(マタイ23:15)。

 実際、ユダヤ人の世界に惹かれて会堂に出入りする異邦人は少なくなかったようです。使徒言行録にも、会堂に出入りする「神を畏れる人たち」の中にはコルネリウスのようなローマの百人隊長までいたことが伝えられています。そのような異邦人が改宗して割礼を受けることは、しばしば教師やその門下の誇りとなったことは十分理解できます。パウロ自身もそのような誇りを知っていた人だったのでしょう。

 そもそも、そのように異邦人が改宗することが誇りとなったのは、それが、自分たちが律法にかなった生き方をしていることの証しでもあったからです。私たちこそ律法を知り、神の民として守り行っていることがある。その生活を異邦人がそれを見て、自分たちも割礼を受けるようになるということは、まさに異邦人に対しても、他のユダヤ人たちに対しても、誇れることだったのです。

 宗教的な世界には、そのような「誇りたい」思いがついてまわります。それは常に人に対してです。人に対して誇りたいのは、人からどう見なされるかが極めて重要なことだからです。人に対して自分の価値ある行いを示したいのです。そのようにして自分の価値を示したいのです。誇りたいとはそういうことです。

十字架こそが誇り
 しかし、ここでパウロは言うのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。そこでパウロはイエス・キリストを指し示すのです。しかも、惨めな、無残な、十字架にかかっている姿を指し示すのです。そして言うのです。この十字架こそわたしの誇りだ、と。

 パウロが指し示す、イエス・キリストの十字架に目を向けてみましょう。そこには何が見えてくるでしょう。まず、そこに見えてくるのは神の正しい裁きです。神が正しく裁かれるとは、こういうことだということです。

 十字架にかけられているキリスト。なぜキリストは十字架にかけられているのか。なぜそこで血を流し、苦しんでいるのか。なぜキリストは呪われた姿で死んだのか。聖書は言います。それは私たちの罪を代わりに負われたからだ、と。私たちに代わってキリストは死なれたのだ、と。それは何を意味しますか。キリストが身代わりになってくださらなければ、そこにいるのはわたしであり、あなただということです。神が正しく裁かれるならば、十字架の上で呪われた者として滅びていくのは、わたしであり、あなただということです。

 その意味で、私たちのつまらない誇りなどは十字架の前では吹っ飛んでしまいます。そこで向き合うことになるのは、私の全てをご存じであり、全てが見えておられる方だからです。何が本当に善なることであり、何が本当に悪であるのかを分かっておられる方だからです。その御方を前にして、他の人に対して、わたしはこれをしてきました、わたしはあのことをしてきましたと誇ることがどれほど意味あることでしょうか。

 わたしがしてきたこと、あなたがしてきたことが正しく裁かれるならば、本来いるべきところは十字架の上ではないか。十字架が示しているのは、そういうことです。十字架の前において、神の正しい裁きの前において、人に対していくら何を誇っても、意味がないのです。そこにおいては、ただ裁かれるべき一人の罪人に過ぎないからです。

 しかし、イエス・キリストの十字架をさらに見つめているときに、正しい神の裁きの向こうに見えてくるのは神の愛です。そこに釘づけられているのは、わたしではないのです。あなたではないのです。そうではなくて、神の独り子なのです。流されているのは、その尊い血潮なのです。注ぎ出されているのは、この上なく価値ある命なのです。この上なく尊い御方は、十字架にかけられています。わたしの代わりとして、あなたの代わりとして。

 キリストの十字架はわたしの代わりであり、あなたの代わりなのです。キリストは全人類のために十字架にかかられた、ということではないのです。十字架を通して語られるメッセージは、わたしに対しての言葉であり、あなたに対しての言葉なのです。そのことをパウロは良く知っていました。ですから、この手紙の中にはこういう言葉が出て来るのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:20)。そうです、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」と彼は言うのです。

 そのように、イエス様はわたしの代わり、あなたの代わりになってくださった。言い換えるならば、わたしが救われるためには、あなたが救われるためには、独り子を十字架にかけても良い、御子を身代わりにしても良いと神は思われたということです。私たちが罪を赦されて、神の子として生きるようになるためには、どれほど大きな犠牲を払っても厭わない。そう神は思われたということです。それほどに価値ある存在として見てくださったということです。

 だからこそ、イエス・キリストの十字架こそがわたしの誇りだとパウロは言うのです。人に対する誇りではありません。もはや人に誇る必要はないからです。人がどう見なすかは関係ないからです。そうです。人がどう扱うか、人が何を言うか、人がどう見なすかによって、自分の価値を決めさせてはなりません。人間の価値は神が決めるのです。神が価値ある存在として見てくださったなら、人が何を言おうと、どう扱おうと関係ないのです。

 ですからパウロは言います。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。世はわたしに対しては死んだもの、わたしは世に対しては死んだもの。だから、世が何を言おうが、世がどう見なそうが、どう扱おうが関係ないのです。その意味で「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(12節)と語られている人々とは対極にいるのです。

 実際、パウロは迫害の中にいるのでしょう。世は彼を忌み嫌い、世のクズのように扱い、お前などいないほうがよい、と言うのでしょう。しかし、それで何が変わるわけでもありません。何も損なわれることはない。パウロにとっては十字架こそが誇りだからです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。

 この言葉の前に、改めて問われています。私たちは何を誇りとして生きているのでしょう。人に対して一生懸命に誇りながらこれからも生きていくのでしょうか。人の言葉や扱いによって自分を値踏みしながら生きていくのでしょうか。私たちも、パウロと同じように言い表して生きていくように導かれているのでしょう。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と。

2015年8月30日日曜日

「報いを受けなくても幸いです」

2015年8月30日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 14章7節~14節


お返しができない人を招きなさい
 ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は招いてくれた人にこんな話をなさいました。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。

 これを聞いた人たちはどう思ったでしょう。もしかしたら、イエス様を招いた議員は多少不愉快になったかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反対しなかっただろうと思います。ファリサイ派の人たちは、決して自分たちのことしか考えない我利我利亡者ではありません。彼らの大切にしている善行の中には「施し」も含まれているのです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには同意したと思うのです。

 さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。ファリサイ派の人たちは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においてサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したと思うのです。

 それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人も恐らくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて「神の国」を思ったのです。イエス様の話を聞いて、神の国における神からの報いを思ったのです。

 そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではとても分かりやすい。ファリサイ派の人がそのまま聞いても理解できて「なんと幸いなことでしょう」と声を上げるような話だったのです。

上席を選ぶ様子を見て
 しかし、私たちはイエス様の教えだけでなく、それが語られた場所、そこに集まっていた人々にも目を向けたいと思うのです。イエス様はどのような場面においてこのことを語られたのでしょう。

 最初に申しましたように、イエス様は食事のためにファリサイ派の議員の家にお入りになりました。食事に招かれたのはイエス様だけではなかったようです。他にも招待客がおりました。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子だったのです。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。

 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。

 イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。しかし、たかが食事の席の話ではないかとも思えます。イエス様があえて食事の場で戒めることでもないでしょうに、と。そんなことは昔からイスラエルで言われてきたことでもあるのです。旧約聖書の箴言に、「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と書かれているとおりです。

 にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、「たかが食事の席の話」ではないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさったのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。遠回しにあてつけたのではありません。ことさらに「婚宴」あるいは「祝宴」と訳しても良いのですが、そのような「祝いの宴」のたとえ話をしたのは、「祝宴」が神の国を表す表象でもあるからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。

 上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありませんでした。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。招待客の一人は言っていました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。

 そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。

罪人のわたしを憐れんでください
 そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、神との関係における話です。実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてまいります。次のように書かれているのです。

 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。

 高ぶったり卑下したり、人をほめそやしたり見下したり、自分と人との比較、人と人との比較の意識、「上席・末席」の意識は神との関係においてこそ入ってきやすいものです。しかし、徴税人は人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。

神の国への招きとは
 そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われました。そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。それは単なる分かち合いの勧めでも善行の勧めでもないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話しでもないのです。

 イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた宴会こそが、神の国を映し出すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す宴となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招いてくださるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。

 お返しができない人の招かれた宴会。その意味するところは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人の姿をさげすんで、見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。

 そこから、お返しができない人たちの招かれた宴会を見るならば、そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。

 実際、イエス・キリストによって救われるというのはそういうことでしょう。私たちが既に神によって受け入れられ、神の国に招かれているとは、そういうことではありませんか。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれる。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。

 やがて神の国において、私たちはその事実に驚くことになるでしょう。まったくふさわしくない、全くお返しのできないような私たちを神は招いてくださった。その恵みの大きさを目の当たりにして愕然とすることでしょう。そして、改めて、人から報いを求める必要などなかったのだ、ということを知るでしょう。そう、すべてが完全に報われている。ただこんな自分が神の国に招かれていたという一事をもって、完全に報われていることを知るでしょう。「あなたは報われる」とイエス様の言われたように。そうです。誰から報いを受けずとも、本当は既に幸いなのです。

2015年8月16日日曜日

「神の御業を見て共に喜ぶ」

2015年8月16日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 13章10節~17節


 ある安息日の会堂に、ひときわ喜びに溢れて神を賛美している女性がいました。その人は、つい先ほどまで腰が曲がったまま伸ばすことができませんでした。そのような姿で18年間も暮らしてきた人でした。「病の霊に取りつかれている女」と表現されていますから、高齢によって腰が曲がったのではなく、病的なほど極度に腰が曲がっていたのでしょう。しかし、その日会堂に来られたイエス様が側に呼び寄せてくださいました。そして、「婦人よ、病気は治った」と言って手を置いてくださったのです。するとたちどころに腰がまっすぐになり、まっすぐになった体をもって喜びに溢れて神を賛美していたのでした。

 しかし、そこにはまた、腹を立てている人もいました。会堂長です。彼はイエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。この人の怒りもこの人の言葉も、ある意味では私たちにピンと来るものではありません。ユダヤ人ではない私たちには安息日律法そのものが馴染みのないものですから。しかし、怒っているこの人の姿を見つめていると、だんだん私たち自身の姿がそこに見えてまいります。そして、イエス様がなさったことの意味も見えてくるのです。今日お読みしたのは、そのような聖書箇所です。

安息日の律法の意味
 会堂の中で怒っていた会堂長。彼の怒りには正当な理由がありました。安息日については十戒に定められていることがあるからです。聖書には次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8‐10)。これが安息日の規定です。ですから、会堂長は「働くべき日は六日ある」と言ったのです。七日目は、働いてはならないのだ、と。

 実際、この「いかなる仕事もしてはならない」という部分については細かい議論がありました。何がこの「仕事」に当たるのか。例えば、火を焚くことも「仕事」に当たると考えられました。医療行為も、この「仕事」に当たります。ですから、会堂長からすれば、イエスのしたことは律法違反なのです。ところが当の本人はいささかも悪びれた様子もない。反省の色もない。しかもその横には違反行為によって癒されて喜んでいる女がいる。しかも群衆もまたイエスのしたことを見て喜んでいる。だから怒ったのです。責任感に駆られて怒ったとも言えます。こんなことが野放しにされてはならない、と。

 そのように彼が怒るのには正当な理由がありました。しかし、そもそも安息日に《働くこと》がなぜ問題なのでしょう。もともとイスラエルの民はエジプトの奴隷でした。「働け」という命令は死ぬほど耳にしていたでしょう。その意味で「仕事をしてはならない」という命令は当初十戒が与えられた時には実に奇妙に響いたに違いありません。なぜ神様はそんなことを命じられたのでしょうか。

 実は、先ほどお読みした安息日の規定には続きがあるのです。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、云々」の後に、こう書かれているのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。六日の間にこの世界を造られたというのは、創世記に記されている天地創造物語です。神様がこの世界をお造りになった。神様が全部成し遂げられた。七日目というのは、その次の日です。つまり、一から十まで神様がしてくださった。その神様の御業を思う日、それが安息日なのです。

立ち止まらねば神の御業は見えない
 私たちは実際、神様の御業に包まれて存在しているのです。しかし、私たちが動き続け、働き続けているとそのことが分からなくなります。人間のしていること、人間の成し遂げることがすべてを支えているかのように思ってしまう。人間がしなくてはならないことで頭がいっぱいになってしまいます。だからこそ、あえて人間の業を中断して、立ち止まって、休むことが必要なのです。そして、意識的に神の御業に思いを向けるのです。そこに神様への讃美、神様への感謝が生まれます。それゆえに安息日は礼拝の日ともなるのです。

 そのような安息日に、一人の女性が癒されました。この癒された女の人は、もちろんイエス様に感謝したことでしょうが、これを単にイエス様の医療行為とは見ていなかったことは明らかです。この人は腰が伸びてまっすぐになった体をもって、まず神を賛美したのです。その意味では、イエス様のなさったことは、律法違反どころか、まさに安息日に起こるべきことを引き起こしていると言えるでしょう。彼女は確かに神の御業を見て喜んでいるのです。

 そして、同じことを会堂長も見ているはずなのです。しかし、彼は神の御業を見て喜ぶことはありませんでした。どんなに奇跡を経験しても、神様の御業を見ない人は見ない。本当は神の創造の御業の中に存在しているのですから、私たちの人生もまた神の奇跡に満ちているのでしょう。しかし、見ない人は見ない。会堂長はどうして見ることができなかったのでしょう。――立ち止まっていないからです。休んでいないからです。自分がしなくてはならないことで頭がいっぱいだからです。人間がすべきことで頭がいっぱいだからです。

立ち止まらねば隣の人も見えない
 いや、立ち止まることがなければ、休むことがなければ、神の御業が見えなくなるだけでなく、一緒にいる人間、隣人も目に入らなくなります。

 安息日の律法には、先ほどお読みしましたように、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と書かれています。「あなた」だけではないのです。息子、娘のみならず、男女の奴隷も、家畜までも入っているのです。男女の奴隷は勝手に休むわけにはいかないでしょう。休ませなくてはならないのです。つまり安息日は、他の人をも視野に入れ、心にかけ、休ませ、共に神の御業を喜ぶ日なのです。家畜のことまで心にかけて休ませる日なのです。

 このようなことは、自分が神の御業の中に憩うことがなければできないことです。神の御業を思い、一から十までただ神の恵みの御業によって支えられ、生かされていることに感謝しなかったら、できないことなのです。神の御業の内に安らぐことがないと、隣人もまた見えなくなってくるのです。

 18年間腰が曲がっていた人は、たまたまこの日だけ会堂にいたのでしょうか。そんなことはないでしょう。この会堂長は初めてこの女性を見かけたのでしょうか。そんなことはないでしょう。恐らくそこに集っていた人も、この会堂長も、もう長い間、その曲がった体を目にしていたはずなのです。前を向くことも困難な、ましてや天を仰ぐことはとうていできない、そんな姿をもって礼拝している姿をいつも目にしていたはずなのです。

 「安息日ではなくて、他の日に治してもらえ。安息日はだめだ」と彼は言いました。確かに一日待てば律法違反にはなりません。正論です。しかし、彼の言葉からはっきり分かることがあります。この人は少なくとも、長い間病的に腰の曲がったこの人を見ても、「かわいそうに。辛いだろうな。いやされるといいのに」と思ってきた人ではない、ということです。その曲がった体は目に映っても、本当の意味で苦しみや痛みを背負った生身の人間が見えていない。だから、彼女が解放されて喜んで神をほめたたえていても、それが自分の喜びにならないのです。

キリストは束縛から解いてくださる
 このように会堂長の姿を見つめていると、そこに私たち自身の姿が見えてきます。神の御業を見て喜ぶべき時に喜べない。また神の御業を喜んでいる人と共に喜べない。むしろ怒りに燃えてそこにいる人。身に覚えがあります。身につまされます。しかし、だからこそイエス様があえてこの癒しの業を安息日に行った意味も見えてまいります。

 イエス様は今日の箇所において、ただ癒し主としてではなく解放者として御自分を現されました。イエス様があの女性に「婦人よ、病気は治った」と言われましたが、本当は「解放された」という言葉が使われているのです。そして、後にイエス様はこう言われています。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と。

 確かに、この女性は不自由な体をもってサタンに縛られていたと言えます。そして、イエス様は彼女をその束縛から解放されました。しかし、縛られていたのは彼女だけだったのでしょうか。解放されなくてはならなかったのは彼女だけだったのでしょうか。そうではないでしょう。まさに縛られている不自由な姿をさらしていたのはあの会堂長ではありませんか。そして、それは私たちの姿でもあるのでしょう。

 だからこそ解放してくださる方が必要なのです。この女性に起こった解放は実に象徴的な出来事であったと言えます。体が極度に曲がっているならば、その目の先にあるのは自分の足もとです。まず目に入ってくるのは自分自身です。前の人や隣にいる人を見るのは難しい。ましてや、天を仰ぐことは困難です。しかし、彼女はイエス様によって解放され、その体はまっすぐになりました。彼女はまっすぐになった体をもって神を誉め讃えているのです。彼女は神の御業の中に安らぎ、前の人とも、隣の人とも一緒に神を誉め讃えて生きていくのでしょう。

 そのように解放されてまっすぐになった姿をあの会堂長も必要としていたし、私たちも必要としているのです。そのような私たちのためにイエス様は来てくださいました。イエス様はサタンに縛られている者を解放してくださる御方として来てくださいました。イエス様が真の安息日を私たちに与えてくださいます。事実、彼女において現された解放の御業は、既に私たちの内にも始まっているのです。私たちが礼拝の場所に共に集められているとはそういうことです。主の霊による全き解放、神の御業を隣人と共に喜ぶことのできる真の自由、サタンから解き放たれてまっすぐにされた姿を求めてまいりましょう。

2015年8月10日月曜日

「信仰と愛と希望」

2015年8月9日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章1節~10節




神とキリストとに結ばれて
 今日はパウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の冒頭部分をお読みしました。テサロニケの教会はパウロの第2回伝道旅行において誕生した教会です。パウロのテサロニケ滞在については使徒言行録17章をお読みください。使徒言行録によるならば、パウロとシラスがテサロニケに滞在したのはわずか四週間たらずでした。しかし、そのわずかな期間に、神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちが福音を信じるに至ったのです。彼らがテサロニケの教会の礎となりました。一方、このことをねたんだユダヤ人たちが騒動を起こし、パウロとシラスはテサロニケを去らざるを得なくなりました。

 生まれたばかりのテサロニケの教会は、指導者を失い、しかもユダヤ人たちの敵意の中に置かれることになりました。パウロはどれほど彼らのことを心配したことでしょう。生まれたばかりの信仰者である彼らはどうしているだろうか。どんな迫害を耐え忍んでいることだろうか。信仰をしっかりと保っているだろうか。――彼らを案ずるパウロは幾度かテサロニケに行くことを試みたようです。しかし、その願い叶わず、代わりにテモテを遣わすこととなりました。

 テモテはテサロニケにしばらく滞在し、やがて再びパウロのもとに戻ってきてテサロニケの教会の様子を伝えます。彼がもたらしたのは実に喜ばしい知らせでした。テサロニケの信徒たちはしっかりと主に結ばれている(3:8)とテモテはパウロに伝えたのです。パウロはどれほど喜んだことでしょう。大きな喜びをもって彼は手紙をテサロニケに書き送りました。それがこの手紙です。

 そのような事情を考えますと、この1節の単純な挨拶に込められたパウロの思いが迫ってまいります。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」――パウロは万感の思いを込めてこの言葉を記したに違いありません。まさにテモテのもたらした喜ばしい報告は、この事実を明らかにしていたのです。

 なぜ指導者を失った教会が多くの苦難の中においてなおもしっかりと立つことができたのか。それはその共同体がただ伝道者パウロとの関係で成り立っていたのではないからです。もしそうであったなら、パウロが去ったら簡単に崩壊していたに違いありません。あるいはただ彼らが自分たちのために集まって教会を作ったのではないからです。もしそうであったなら、苦難の中において集まることが困難になり不都合が生じたら、簡単に消滅してしまっていたことでしょう。テサロニケの教会はそうではなかった。それは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」に他ならなかったのです。

 これは「父である神と主イエス・キリストの中にある」というのが直訳です。これは父なる神とイエス・キリストにおける救いの御業の中にある、ということでもあるでしょう。教会は神の御業において初めて教会となるのです。ですから、教会の伝道の働きにおいて問われるのは、福音が真に伝えられ、一人一人が神の救いにあずかり、信仰によってキリストとしっかり結ばれているかどうか、というところにおいてなのです。言い換えるならば、教会がまことの教会として、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」として残るかどうかなのです。そして、テサロニケにはまさにそのような教会が残った。そのことをパウロは心から喜んで、その教会に書き送っているのです。

信仰と愛と希望
 さらにパウロは感謝の言葉を続けます。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」ということで、パウロが具体的に何を考えていたかが、その言葉から分かります。2節以下の言葉は、私たちが教会を考える上でも、非常に重要なことを語っているように思います。パウロが感謝しているのは、次のことでした。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。教会がただ人間に結ばれた人間の集まりではなく、神の救いの御業によってなるまことの教会であるということの現れを、パウロは「信仰」と「愛」と「希望」に見ているのです。

 では「信仰」と「愛」と「希望」があるとは、具体的にどのようなことなのでしょう。パウロはここで、それぞれに対して三つの言葉を結びつけています。「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」です。「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではありません。それは具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。一つ一つ見てみましょう。

 第一は、「信仰によって働き」ということです。「働き」とは「行い」とも訳せる言葉です。直訳すれば「信仰の行い」です。

 これを書いているのはパウロです。そして、そのパウロが別の手紙において、人は行いによって救われるのではないことを語っていることを私たちは知っています。例えば、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)と彼は書いているのです。また彼の名による別の手紙にはこう書かれています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、確かに私たちが義とされ救われるのは、私たちの行いによるのではありません。救いはイエス・キリストの十字架において現された神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、そのように私たちの行いによって救われるのでなく、一方的な恵みによって救われるゆえに、そこにはまた人間の誇りではなく、神への感謝が生まれるのです。そして、神への感謝が行動を生み出すのです。それこそパウロが「信仰の行い」と呼んでいるものです。

 私たちが生きているこの世界はギブ・アンド・テイクの世界です。信仰によらなければ、神に対してもギブ・アンド・テイクで関わろうとするのが人間です。自分の行いを差し出して、神様に「与えてください」と願うのです。神様と取引を始めるのです。また信仰によらなければ「行い」は常に比較の対象となってくるのでしょう。自分の「行い」と他人の「行い」を比較して、誇ってみたり卑下してみたり。あるいはある人の「行い」と別な人の「行い」を比較して褒めそやしてみたり軽蔑してみたり。

 取引や比較とは無関係な「行い」はただ一方的な神の恵みに対する応答として生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。その「信仰の行い」こそがまことの教会の原動力となるのです。そのような「信仰の行い」をパウロはテサロニケの教会に見たのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 次に挙げられているのは「愛の労苦」です。「愛」は単に「好きになること」ではありません。愛するとは隣人になることです。共に生きることです。この世の関係は、常に「私のための誰か」を求めることによって成っています。そのように自分が中心ですから、共に生きることもまた自分次第です。「私のためにならない」と思った時に関係は崩壊するのです。

 愛とは「私のための誰か」を求めることではなく、「誰かのための私」になることです。ですから、そこにはしばしば労苦が伴います。強いられてではない、自発的に愛のゆえに労苦を引き受けること、それが「愛の労苦」です。その愛の労苦は、まずキリストが私を愛してくださった、という事実から生まれます。キリストが隣人になってくださった。キリストが私のために労苦してくださった。キリストが、御自分のすべてを与えてくださった。このキリストの愛に押し出されて生まれるもの、それが「愛の労苦」です。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「愛の労苦」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 最後は、「希望の忍耐」です。その希望については、特に「わたしたちの主イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。その意味するところは10節に書かれています。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(10節)。

 ここに語られているのは、「キリストの再臨」というテーマです。そして実はそれこそがこの手紙で展開されている主要なテーマなのです。それは要するに、完全な救いはまだ実現していないけれど、それは必ず向こう側から来る、という信仰です。向こうから必ず来ると信じる人だけが、本当の意味で忍耐をもって待ち望むことができるのです。苦しくても、辛くても、待ち望むことができるのです。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「希望の忍耐」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 さて、そのようにテサロニケの教会のことを見てきました。たった四週間たらずの伝道によってでさえ、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」は形成されます。教会を真に教会たらしめるのは、神の御業だからです。ですから、私たちもまた求めることができるのです。それは神の御業だからです。私たち自身、父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会」として、「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」に生きられるよう祈り求めましょう。

2015年8月2日日曜日

「善をもって悪に勝ちなさい」

2015年8月2日 平和主日礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節~21節


せめてあなたがたは
 今日は平和主日です。平和を祈るために私たちはここに集まりました。後で私たちは「すべての人の平和を願い、すべての人の平和を祈る」(*)という歌を共にうたって祈ります。

 私たちが平和を願い、祈るのは、平和が失われている現実があるからです。国家的な規模においても、身近な人間関係においても、平和が失われている現実があるからです。そこで私たちが平和を願い、平和を祈るとき、私たちの念頭を去らないのは平和を妨げている人々の存在でしょう。平和を壊している人々の存在なのでしょう。

 平和を願い、平和を祈る時、私たちは《そのような人々がいなくなるように》と願い、祈っているのかもしれません。しかし、そのような私たちに今日の聖書朗読では次のような御言葉が与えられていました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)。

 「せめてあなたがたは」と言われているのです。まずは私たち自身なのです。平和を壊し、あるいは妨げる他の誰かではないのです。まず私たち自身について考えなくてはならないのです。平和を願い、祈る私たち自身が、まずすべての人と平和に生きようとしているのかどうか。それは私たちが日々接している人々との間における話です。あるいは今ここに集まっている教会の中での話です。

 もちろん、そこで聖書は「できれば」と言うのです。それは難しいことを知っているからです。また、私たちはそのつもりでも、私たちの側からはどうにもならないことがあることを知っているからです。実際、この箇所には「あなたがたを迫害する者」(14節)ということも書かれています。迫害する者に対しては、どんなにこちら側としては「平和に暮らしたい」と思っていても、そうできないことはあるでしょう。

 しかし、「できれば」という言葉はそのような消極的な側面のみにおいて語られるべきではありません。もう一方において、それは「できるかぎり」という意味でもあるのです。そうしようと思わなければ、そして、実際にやってみなければ、そして最善を尽くしてみなければ、聖書が「できれば」というその限界は見えてこないからです。ですから実際、ある翻訳聖書では「あなたがたは最善を尽くしなさい」と訳されているのです。

善をもって悪に勝ちなさい
 それでは、どのように最善を尽くすのでしょう。こちら側からできる最善はなんでしょう。続けてこう書かれています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)。まずは自分で復讐しようとしないことです。仕返しをしようとしないということです。

 しかし、聖書が語ることはそれに留まりません。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)というのです。相手に対して復讐を放棄するだけでなく、むしろ積極的に善を行いなさいと言うのです。その目指すべきところは非常にシンプルに次のように表現されています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。今日の説教題はここから取りました。

 ここに至って、「すべての人と平和に暮らしなさい」と言われていたことの内容が見えてきます。さらに言うならば、私たちがすべての人のために平和を願い、平和を祈るということが何を意味するのかが見えてくるように思えるのです。

 平和とは何でしょうか。平和を願い、平和を祈るとき、私たちは何を求めているのでしょう。それはただ争いのない状態でしょうか。戦いを回避することによって実現される状態でしょうか。いや、今日の箇所を読む限り、平和とはそのようなものではなさそうです。先にも見たように、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉は、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉に行き着くのです。

 「悪に勝ちなさい」ということは、そこには勝つか負けるかの戦いがあるということです。平和を願い、平和を祈るということは、戦いを極力回避することではありません。ある意味では戦いの中に入って行くということです。それは悪との戦いです。悪に打ち勝つための戦いです。

イエス様の戦いに加えられて
 それはいかなる戦いであるのか。「善をもって悪に勝つ」とはどういうことなのか。その戦いを身をもって見せてくださった方がおられます。イエス様です。パウロがイエス・キリストを念頭に置いてこれを書いていることは明らかです。今日の朗読の中に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」という勧めがありましたが、これはイエス様が、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43‐44)と言われたことを思い起こさせます。

 最終的に重要なのは人間との戦いではないのです。悪そのものとの戦いなのです。どのようにして悪そのものと戦うのですか。どのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。悪を行う人間を憎んで、悪を行う人間と戦って、悪を行う人間を力によって支配して、あるいは悪を行う人間を取り除いて、そのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。そのようにして悪を取り除けるならば、敵を憎んだら良いのです。敵と戦ったらよいのです。人間相手の戦いを勝利するまで繰り広げたらよいのです。

 しかし、イエス様はそうは見ていませんでした。イエス様は明らかに敵を滅ぼす力を持っていたのでしょう。にもかかわらず、イエス様は敵を滅ぼすどころか、御自分を守ることにさえ、御自分の力を用いようとはされませんでした。悪が取り除かれるのは人間との戦いによるのではないことをご存じだったからです。悪が取り除かれるのは悔い改めによるのです。人間が謙って神に立ち帰ることによるのです。

 そして、明らかなことは、悔い改めは人間との戦いによっては起こらないということです。相手を叩きのめしても悔い改めは起こらないということです。相手を力づくで支配しても、悔い改めは起こらないのです。悔い改めが起こるとするならば、それは愛によってなのです。

 ですからイエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。そして、本当の意味で敵を愛されたのはイエス様御自身です。その敵とは誰ですか。わたしでありあなたです。もしイエス様が私たちの内にある悪ではなく、私たち自身を憎まれたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの悪にそのまま悪をもって返されていたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの内にある悪が明らかにされ、そのまま断罪されたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。

 しかし、イエス様は私たちを愛してくださいました。私たちを滅ぼすのではなく、私たちのために十字架にかかってくださいました。イエス様御自身が私たちの内にある悪と戦ってくださいました。私たちが形づくっているこの世界の悪と戦ってくださいました。血みどろの戦いをしてくださいました。悪を取り除くために。真の平和をもたらすために。

 そのようにイエス様によって愛され、赦された私たちです。その私たちがイエス様の戦いの中に招かれたのです。人間相手の戦いを繰り広げてきた私たちが、悪との戦いへと招かれたのです。私たちは人間相手に憎しみをもって戦っている時点で既に悪に負けていたのです。そのような私たちが、本当の意味で悪そのものに勝つために、キリストによって立ち上がらせていただいたのです。

 そのような戦いの中で私たちは語られているのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。そして、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。キリストの勝利に共にあずかるために。そのような私たちとして、今私たちはここにいます。そのような私たちとして全ての人の平和を願い、全ての人の平和を祈りましょう。


*この礼拝では、「とりなしの祈り」の時間に皆で共に「すべての人の平和を」をうたいました。

「すべての人の平和を」(詞・曲Sr.山本きくよ) 

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