日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~20節
クリスマスの物語
先ほど朗読された聖書箇所にこう書かれていました。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカによる福音書2章6節‐7節)。
その場面を想像してみてください。聖書は事も無げにさらりと書いていますが、考えてみれば、これは世にも悲惨な出産場面です。極めて不潔な場所で、出産に必要なものが何一つそろっていない場所で、もちろん助産婦などいようはずもないところで、マリアはまるで馬か牛のように赤ん坊を産み落とさなくてはならなかったのです。
さて、これが聖画になりますと、実に美しい場面として描かれることになります。マリアは美しい顔で幼子を見つめています。しかし、どう考えてもそれはあり得ない。マリアの顔は、疲れ果てやつれた顔をしていたに違いないのです。生まれた赤ん坊の安全をなんとか確保して、ぐったりしているマリアがそこにいただろうと想像します。
ではヨセフはどんな思いでその傍らにいたのでしょう。愛する人が汚い家畜小屋のようなところで出産することを望む人はいません。ヨセフはなんとしてでも、マリアが安全に子供を産める環境を整えたかったに違いない。ありとあらゆる手立てを尽くしたのでしょう。しかし、結局、ここまでしかできなかったのです。
どんなに愛していたとしても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。自分の無力さを恥じながら、ただ見守るしかない。そのような時が確かにあることを私たちもまた知っています。その意味でここに描かれているのは私たちの現実でもあります。
それはマリアにしても同じです。いったい誰が生まれてくる自分の子を飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょう。親は子供のために最善の環境を整えてあげたいと思うのでしょう。彼女は彼女なりにできる限りのことをしたに違いないのです。しかし、結局彼女は飼い葉桶に自分の子を寝かせたのです。頑張ったけれど、そこまでしかできなかったということです。親の悲しみがそこにあります。
その悲しみは今日の私たちも知っています。子供たちが生きていくために、幸福で安全な社会を本当は備えてあげたいと誰もが思っているのでしょう。しかし、現実にはまさに飼い葉桶のようにドロドロに汚れた社会の中に、子どもたちを置かなくてはならないのです。どう考えても解決のつかない放射性廃棄物に汚染された世界に、子どもたちを置かなくてはならない。その他、ありとあらゆる問題が山積した世界の中に、子どもたちを置かざるを得ないのです。ヨセフとマリアの姿が私たちの姿と重なります。その意味でも、ここに描かれているのは、この世に生きる私たちの現実でもあります。
それだけではありません。そもそも臨月の妻がいるのに長い旅に出なくてはならなかったこと自体が異常です。ナザレからベツレヘムまで直線距離でも120キロはあります。普段の生活を後にして、どうしてそんな長旅に出なくてはならなかったのか。それは皇帝が勅令を出したからだと聖書は伝えます。
自分の願いや意志とは関係のないところで勅令が出る。すると旅に出ざるを得ない。自分の願いや意志とは関係なく、それまでの生活を後にしなくてはならない。ある意味では私たちも同じです。今日、勅令は皇帝が出すのではありません。ある人にとっては企業の体制再編によって、職を失うことによって、それまでの生活を後にしなくてはならない。またある場合には突然の天変地異によって、そして、ある場合には突然の病気の宣告によって、人は安定した生活を後にして、旅に出ざるを得なくなるのです。マリアとヨセフに起こった事は私たちにも起こりえることを知っています。それがこの世に生きるということです。
これが聖書の伝えるクリスマスの物語です。クリスマスの話は美しいおとぎ話ではありません。辛く悲しい人間の現実です。マリアとヨセフが身を置いている家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴しているとも言えるでしょう。
そのようなこの世界に生きている人が、他にも登場してまいります。羊飼いたちです。今年は、私はページェントで羊飼いの役をやらせていただきました。羊たちは教会の一番幼い子どもたちがやることになっています。それは実にかわいい羊たちです。ですから羊飼いの役は楽しい。実に楽しい。
しかし、現実の羊飼いとなったらそうはいきません。ここに描かれているのは牧歌的なのどかな情景ではないのです。彼らは「野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれているのです。彼らは羊の所有者ではありません。雇われているのです。夜通し羊の群れの番をしているというのは、今日で言えばブラック企業による過重労働です。いや、彼らは月100時間以上の残業をしているだけではありません。獣が襲ってくることもあるのですから、所有者の羊を時としては自分の命と引き替えに守らなくてはならないのです。これは過酷な労働です。
しかし、彼らには選択の余地はないのです。辛かろうが苦しかろうが、そうしなければ生きていけないのです。そう、どんなに苦しかろうが逃げることはできない。生きていくためには留まらなくてはならないことがある。それもまたこの世に生きる私たちの現実の描写であると言えます。
天使の賛美に加わって
しかし、話はそれで終わりません。ここに天使が登場するのです。そのような羊飼いのところに天使が現れてこう言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10‐11節)。そして、天使の大軍が現れてこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を讃美していた。天使たちの持ち場は天の世界です。しかし、彼らは天において神を讃美しているのではありません。わざわざ辛い現実にある羊飼いたちのところに来て、現れて神を讃美したのです。どうしてですか。羊飼いたちも天使と共に賛美できるようにでしょう。そうです、人間が加わることができるように天使は歌うのです。天においてではなく地上において。
これは何を意味するのでしょう。神を讃美する歌というのは、辛く苦しいこの世の現実の中で歌われるべきものだ、ということです。神を讃美する歌は天国に行って初めて歌うものではないのです。苦しみが取り去られて初めて歌うものではないのです。私たちがここでしているように、あるいは日曜日にしているように、苦難に満ち、悩みに満ちているこの世界において歌われるべきものだということです。
それはどうしてか。それは、この世界に既に救い主が来てくださったからです。
家畜小屋の場面を思い浮かべてみてください。先にも申しましたように、この汚い家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴していると言えます。しかし、そこにはヨセフとマリアだけがいるのではないのです。そこには幼子もいるのです。神によって与えられた幼子イエス、神が与えてくださった救い主が悪臭漂う家畜小屋の中におられるのです。
ということは、その悪臭漂う家畜小屋の中にさえ、神が与えてくださる喜びがあるということでしょう。羊飼いにこう語られていたではありませんか。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。その喜びが家畜小屋の中にさえ与えられているのです。だからそこから神を誉め讃えるのです。そこにおいて神を礼拝するのです。
今から五年前のちょうど今頃ですが、五十代の女性が教会を訪ねてこられました。重い病気を負った方でした。彼女は残された短い人生をどう生きたら良いのか、「生き方」を求めて聖書を学び始められました。しかし、彼女が聖書を通して知ったのは「生き方」ではなくて、生きておられる神様であり、救い主であるイエス・キリストでした。半年後、彼女はイエス・キリストを信じ、キリストに自分自身をおゆだねし、病床にて洗礼を受けられました。彼女の人生に、救い主イエス・キリストが入って来られました。
私は当時を思い起こしながらこう思うのです。彼女が信じたキリストは、ある意味では家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスであったと言えるだろうと。
依然として家畜小屋の現実はあります。それは彼女にとっては病気という現実でした。病気と闘い、病気と折り合いをつけながら、生きていかなくてはなりません。しかし、そこには彼女と御主人だけがいるのではない。そこには救い主がいるのです。救い主がおられるならば家畜小屋の意味は違ってくるのです。そこで人は神と共に生きることができる。神が与える喜びにあずかることができる。そこで人は神を讃美して生きることができるのです。
彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。「いと高きところには栄光、神にあれ」。あの天使の讃美に彼女も確かに加わっていたのです。そして初めてお会いした時からちょうど一年後の12月、彼女は救われた人として、天使の歌声に加わっていた人として、天に召されていきました。毎年クリスマスが近づくと、いつでもその方のおだやかな笑顔が思い出されます。
救い主は来られました。この世界に来られました。そして、私たちの人生の中にもおいでくださいます。私たちが身を置く家畜小屋の中にイエス様が共にいてくださいます。私たちはそれゆえに、そこから神を賛美して生きることができるのです。