2014年12月28日日曜日

「光の中を共に生きる」

2014年12月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節~2章2節


喜びが満ち溢れるため
 先週、私たちはクリスマスを祝いました。キリストがこの世に来られたことを共に喜び祝いました。神の独り子がこの世に来てくださいました。人間が目で見たり、手を伸ばして触れたりすることのできるほどに近くまで来てくださいました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」(1節)とヨハネが書いているとおりです。

 ヨハネがその御方の内に見たものをひと言で表現するならば、それは「命」でした。ヨハネはさらにそれを「永遠の命」と表現します。「永遠の命」とは何でしょう。「命」の本質は「愛」にこそあります。愛し合って共に生きている時に、人は本当の意味で生きているのです。憎み合っている時、人は命を失っているのです。命とは愛に満ちた交わりです。永遠の命とは神との愛に満ちた交わりです。

 イエス様はこの世に来られて、永遠の命を見せてくださいました。父なる神と共に生きるということがどういうことかを見せてくださいました。神を「アッバ、父よ」と呼びながら、その愛と信頼に満ちた交わりを実際に見せてくださいました。そうです、ヨハネは確かに永遠の命を見たのです。彼は言います。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(2節)。

 いや、ヨハネは見せていただいただけではありませんでした。弟子たちはキリストと共に「天におられるわたしたちの父よ」と祈る者とされました。そのように、キリストと共に、また父なる神と共に生きる者とされました。永遠の命にあずかって生きる者とされました。

 そして、ヨハネは今、御父と御子イエス・キリストとの交わりへと他の人々を招きます。手紙を書いて、この読者をも招きます。どのようにして。この世に現れた「永遠の命」を伝えることによってです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。

 その目的は何でしょう。彼はさらに続けます。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)。二回「わたしたち」が出てきますが、一回目と二回目は意味合いが違います。最初の「わたしたち」は永遠の命を伝える「わたしたち」です。そこには伝えられる「あなたがた」がいるのです。しかし、その「わたしたち」と「あなたがた」が一つとなって、一つの「わたしたち」になるのです。これが二つ目の「わたしたち」。その一つとなった「わたしたち」の喜びが満ち溢れるようになるためにこれを書いているのだ、とヨハネは言うのです。

 そして、一つとなった「わたしたち」がさらに誰かに永遠の命を伝える。そして、伝えられた「あなたがた」と伝える「わたしたち」が一つとなっていく。そこに喜びが満ち溢れる。教会が二千年間続けてきたのはこのことです。そのようにして、私たちにも伝えられたのです。そして、伝えてきたのです。そして、喜びを共にしてきたのです。それが目に見える形ではっきりと現れるのは洗礼式でしょう。先週の日曜日に二人の方が洗礼を受けられました。洗礼を受けた二人も喜び、他の者も皆喜び、一つとなった「わたしたち」が共に喜びにあずかりました。

 御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。こうして一緒に神を誉め讃え、神の言葉に耳を傾け、神に祈り、神への信仰を共に言い表すところに、教会の喜びがあるのです。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

光の中を歩む
 そのためにも、5節以下に書かれていることは重要です。そこには私たちが共に神との交わりを持って生きようとする時に、どうしても避けては通れない事柄について書かれているからです。すなわち、信仰をもって生き始めてなお犯してしまう罪の問題です。一方において、神に従いたいと思う自分がいる。しかし、もう一方において神に背いた行いをしてしまう自分がいる。キリストを信じて新しく生まれた私は確かにいる。しかし、もう一方において古い自分も生きている。いや信仰生活が長くなれば、なおさら自分の罪深さの自覚も増してくる。それは信仰生活において誰もが経験する事だろうと思います。

 そこで私たちが心に留めるべき第一のことは、5節に書かれている「神は光である」というメタファーです。神は光である。その神と共に生きていくならば、当然、光の中を生きていくことになる。信仰生活とは光の中を共に歩んでいくということなのです。

 それまで暗闇の中を歩いていた人が、光の中を歩き始めるなら何が起こってくるでしょう。それまで見えなかったものが見えてくるのです。自分自身の問題も見えてくる。自分は正しいと信じて疑わなかった人が光の中を歩き始めると、自分は決して正しくはないということが見えてくる。周りの人たちの悪に憤っていた人が光の中を歩き始めると、自分の内にこそ悪があることが見えてくる。信仰者として生き始めたら、かえって自分が悪い人間になったように感じることがあります。しかし、「神は光である」ということならば、それは当然起こってくるはずのことなのです。

 私たちは、「神は光である」ということ、そして信仰生活とは光の中を歩くことだということを心に留めねばなりません。そこで重要なことは何か。闇の中に戻らないということです。見えてきたものも、光を遠ざければ見えなくなるでしょう。そのように、自分自身を神から遠ざけてしまうなら、自分自身をも見ないで済むかもしれません。あるいは見えてきたものに対して目を閉じてしまえば、見ないで済むのでしょう。それは実質的には暗闇に身を置いているのと同じです。

 この手紙が書かれた頃、光の中を歩む生活とは全く相容れない思想を唱える教師たちが教会の中に入り込んできていました。彼らは霊肉二元論によって、この肉体を魂の牢獄として考えた。すなわち真で善なる魂は肉体という牢獄に囚われているのであって、この肉体が行うことになんら責任を負うことはないし、なんら影響を受けることもないとしたのです。そして、その牢獄である肉体から魂が解放されるところにこそ救いがあると教えたのです。それはある意味ではとても魅力的な思想でした。何をしても罪であると考える必要はないからです。実際、「わたしには罪はない」と主張する人々がいたのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)。その思想によって自分の罪を見ないで済むようになるかもしれないけれど、それは闇の中を歩くことに他ならないのだと彼は言うのです。実際、当時の異端思想によらずとも、私たちもまた、闇の中を歩ませ、罪を罪として認めないようにさせる様々な思想に取り囲まれているのでしょう。しかし、闇の中を歩くところに満ち溢れる喜びなどないのです。

罪を告白するなら
 大切なことは、光の中を歩き続けることです。ヨハネは言います。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが暗闇の中を歩いてしまうなら、もはやキリストとの関わりはなくなります。キリストの十字架も罪の贖いも不必要でしょうから。光の中を歩くところにこそ、キリストとの交わりがあるのです。そこには私たちの罪のために血を流してくださったキリストがおられるのです。私たちの罪を清める御方として共にいてくださるのです。

 ではどのようにして、光の中を歩き続けるのでしょう。この手紙は次のように続きます。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(8‐9節)。

 ここに書かれているように、「自分に罪がない」と言わないことです。むしろ「自分の罪を公に言い表すなら」と書かれています。聖書協会訳では「告白する」となっています。もともとは「同じことを言う」という意味の言葉であり、「同意する」という意味を持っています。それは必ずしも人々の前に言い表すことを意味しません。罪を告白する。それはまず神に対してです。神と同じことを言うのです。神に同意するのです。神が罪だとするならば、「その通りです」と罪を認めることです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 神との交わりの中に留まるためには、神の御前で正直であることです。暗闇の中に身を置いてしまわないことです。そのようにして御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの互いの交わりもあります。そこに私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

2014年12月21日日曜日

「神にできないことはない」

2014年12月21日 クリスマス礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章26節~38節


主があなたと共におられる
 今年のクリスマス礼拝で読まれましたのは「受胎告知」として知られている場面です。天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に住むひとりの娘の前に現れて、こう言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。マリアは戸惑ったと書かれています。それはそうでしょう。天使がいきなり現れて戸惑わない人はいません。しかし、聖書には「マリアは天使を見て戸惑った」とは書かれていないのです。「マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。戸惑いの元はマリアの聞いた言葉にありました。

 「戸惑い」と書かれていますが、他の翻訳では「ひどく胸騒ぎがして」となっています。「おめでとう、恵まれた方」。これは聞いて胸騒ぎがするような言葉でしょうか。それ自体は、喜ばしい何かを期待させるような言葉に思えます。では、「主があなたと共におられる」。これについてはどうでしょうか。これもまた喜ばしい言葉に思えます。

 ところが、マリアはこれを聞いて胸騒ぎを覚えたのです。戸惑ったのです。「主があなたと共におられる」。もし主が、私たちの困った時に助けてくださるというだけの神様なら、「主があなたと共におられる」という言葉は単純に喜ばしい言葉でしょう。もし主が、私たちの悲しみや苦しみの時に慰め励ましてくださるというだけの神様なら、「主があなたと共におられる」という言葉は単純に喜ばしい言葉でしょう。しかし、マリアには分かっていたのです。「主があなたと共におられる」とは単にそのような意味ではないことを知っていたのです。

 「主があなたと共におられる」。そう言われる時、その「主」なる神様には行おうとしておられることがある。実現しようとしておられることがあるのです。そのような「主」が「あなたと共におられる」と言われる時、主は何かを実現するために「あなた」という存在を用いようとしておられるのです。

 聖書の中にこんな場面があります。今から三千年以上も前、かつてイスラエルの民がエジプトにおける奴隷であった時、その奴隷の民を解放するために神様が選ばれたのはモーセという人物でした。彼はその時、ミディアン地方に住む羊飼いでした。いつものように羊を飼っていると、そこで不思議な光景を目にします。柴が燃えている。そして、その柴は燃え尽きない。不思議に思って近づくと、その柴の間から声がありました。「モーセよ、モーセよ」。そして、主はこう言われたのでです。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト3:9‐10)。

 「今、行きなさい」と言われても困るでしょう。かつてはどうであれ、今は一介の羊飼いに過ぎないのですから。ですからモーセは言うのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

 しかし、そこで主はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同3:12)。モーセが自分の実力で人々を解放するのではないのです。そうではなくて、神がなさるのです。神がモーセを用いてなさるのです。「わたしはあなたと共にいる」とはそういうことです。そして、実際、神はモーセを用いてイスラエルの民の解放を成し遂げられたのです。

 そうです。マリアには分かっているのです。主なる神がどのような御方であるか分かっているのです。神は人と共にいて、人を用いられる神様だということを。人を用いて事を始め、事を進め、事を成し遂げられる御方だということを。だから「主があなたと共におられる」という言葉を聞いた時に、胸騒ぎがしたのです。主が何かをなそうとしておられる。その主が共におられる。主がわたしを用いようとしておられる。それはある意味ではとても不安なことでもあるのでしょう。

神にできないことはない
 そして、実際、天使が持ってきた話はマリアの想像を遙かに超えたものでした。ガブリエルはこう言ったのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30‐33節)。

 「あなたは身ごもって男の子を産む」。それはマリアにとって驚くべき告知です。もしそれがヨセフと結婚する前に身ごもるという話であるならばなおさらです。ユダヤ人社会においては絶対に認められないことですから。

 しかし、マリアにとって恐るべきことであったのは、むしろその子が何者であるかということでした。「いと高き方の子」「父ダビデの王座」「その支配は終わることがない」。それら全ての言葉は、生まれくる子供がイスラエルの待ち望んできたメシアであることを示していました。つまり天使は、「ついに待ち望んできた救い主が到来するのだ。そして、救い主の到来のために母として用いられるのが他ならぬあなたなのだ」と言っているのです。「おめでとう、恵まれた方!」と。

 これは羊飼いのモーセがイスラエルの解放者として選ばれたどころの話ではないでしょう。「あり得ない!」マリアがそう思っても無理はありません。イスラエルにおけるメシア待望というのは、にわかに湧き起こってきたものではないのです。それこそ何百年にわたって人々が待ち望んできたことなのです。それがマリアから産まれる子供として実現するというのです。マリアは神の子の母となるのです。

 もちろん、マリアも敬虔なユダヤ人の一人ならば、同じように救い主の到来を待ち望んできたことでしょう。神の救いが実現することを切に望んできたことでしょう。しかし、ただ神の救いを待ち望むことと、そこに自分が用いられるということは、まったく別な話です。かつてモーセは言いました。「わたしは何者でしょう!」ならばマリアはなおさらそう言いたかったはずです。「なぜわたしが?なんら特別ところのないとりえもないわたしがなぜ?」

 実際、聖書はマリアについて何の特別なことを伝えてはいません。ごく当たり前のどこにでもいるような娘だったということでしょう。マリアとしては自分がいかにその資格がないかを言い並べたかったに違いありません。そもそも、身ごもって男の子を産むと言われても、まだ結婚すらしていないのです。彼女は言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。

 しかし、神様からすれば、人間の側から見て資格があろうがなかろうが、人間の目から見て可能であろうが不可能であろうが、そんなことはどうでもよいのです。神様が事を行うために神様が用いるのですから。

 それゆえにガブリエルはこのように答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。生まれる子が聖なる者、神の子と呼ばれるとするならば、それはマリアがどのような人物であるかによるのではないのです。当たり前のことですが、マリアの胎に宿る子は、マリアの資質を受け継いで救い主となるわけではないのです。それは聖霊によるのです。神の霊が降り、神の力によって実現することなのです。

 そして、実際に人間の可能性によってではなく、ただ神の力によって実現した出来事を伝えます。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」そして、こう言ったのです。「神にできないことは何一つない」。

 これが単に一般的な意味における神の全能について語っているのではないことは、話の流れから明らかでしょう。「神にできないことは何一つない」。それは、人間の側の可能性によらず、人間の側の限界にかかわらず、神はどんな人をも用いることがおできになる、ということです。

 私たちは往々にして「何ができるか」「何ができないか」「何を持っているか」「何を持っていないか」「強いか」「弱いか」――そんなことをお互い気にしながら、お互い比較しながら生きているものです。けれども、神の御前において本当に重要なのはそのようなことではないのです。人間にできなかろうと、「神にできないことは何一つない」のですから。神はどんな人をも用いてどんなことをも成し遂げることがでおできになるのです。

 大事なことは別にあります。それはマリアがここでしていることです。マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。「神にできないことは何一つない」という言葉を聞いて、マリアはその神の御手に自分自身を差し出したのです。どう考えても自分がふさわしいとは思えない。実際、自分がどのように用いられ、どのようなプロセスを経て、主の約束の言葉が成就するのかも分からない。しかし、それでもなお、今あるがままの自分自身を主に差し出したのです。

 今日、お二人の方々が洗礼をお受けになります。お二人にはぜひ覚えておいていただきたい。あなたがたは何か特別な人間になる必要はありません。どうぞ今あるがままの自分自身を主に差し出してください。主は救いのご計画の中でお二人を用いてくださいます。どうぞ天使の言葉を心に留めてください。「神にできないことは何一つない」。

2014年12月14日日曜日

「沈黙の恵み」

2014年12月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章5節~25節


 イエス・キリストが年およそ30にして公の活動を始めるに先立って、ユダヤに現れ一世を風靡した人物がいました。洗礼者ヨハネです。彼はイエス・キリストの先駆者的役割を果たすこととなりました。今日お読みしたのは、その洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。

主は恵み深い
 洗礼者ヨハネの父親はザカリアという祭司でした。母親のエリサベトもまた祭司の家系に属するアロン家の娘でした。彼女については次のように語られています。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)。そのような二人の間に神によって与えられたのがヨハネでした。明らかにその誕生自体は神の奇跡として描かれています。しかし、今日の聖書箇所において重要なのはその誕生が予告されたということです。

 「予告」は聖書にしばしば出て来るモチーフです。アブラハムはイサクの誕生を予告されました。マノアの妻はサムソンの誕生を予告されました。マリアはイエスの誕生を予告されました。聖書の中で神様は予告をされるのです。人間の意向を打診しないで、一方的に予告するのです。何を意味しますか。人間の意向とは関係なく天において定められていることがある、ということです。

 それはヨハネという名前の命名の仕方にもよく現れています。イスラエルにおいて子供の名前は父親が付けるのが習わしでした。しかし、ザカリアに現れた天使はこう言ったのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)。神様は父親であるザカリアが子供の名前を決める前に、その子の名前を勝手に決めてしまわれたのです。

 親が考えるべき名前を神様が先に定めておられたというのは実に象徴的です。この子供の人生については、親が何を願おうが、何を考えようが、親の思いとは関係なく神様が定めておられることがある、ということです。その子供を通して神様がなさろうとしていることがある。主のご計画が先にあるのです。

 実際、その子の人生についての予告が次のように続きます。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(14‐17節)。このことについては、その親でさえ関与することができないのです。ザカリアがヨハネの命名にさえ関わることができなかったようにです。

 そのように人間の関与できない神の定めとご計画というものがある。それは私たちの経験とも一致します。私たち自身についても、私たちの人生についても、ほとんどの事柄は私たちの意志や意図とは関係なく定められたものです。親にも私たち自身にも神様は意向を打診してはくれませんでした。生まれる前から定められていることは山ほどあります。

 人間が関与できない神の定めとご計画がある。それはある意味では私たちにとって恐ろしいことに思われます。私たちは常々物事が私たちの願い通りに運ぶことを望んでいますから。そして、そうなるようにできる限りの事をしているのでしょう。ですから自分のコントロールの及ばないことがあるのはいやなのです。それは恐ろしいことでもあるのです。

 しかし、神様は御使いをザカリアにこう言われたのです。「その子をヨハネと名付けなさい」。人間の意向とは関係なく付けられた名前、それは「ヨハネ」でした。それは「主は恵み深い」という意味です。主は恵み深い――ならば、ザカリアは我が子に名前を付けることができなくてもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分が関与できない主のご計画があってもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分のコントロールが及ばなくてもよいのでしょう。そうです、ただ一つのことを知っていればよいのです。それは「主は恵み深い」ということです。

 その「ヨハネ(主は恵み深い)」と名付けられた子は、やがて天使の告げられた通り、人々を主に立ち帰らせる人となり、イエス・キリストの先駆者となりました。「イエス」という名前は「主は救い」を意味します。その名前もまたヨハネの時と同じように先に神によって定められ告知されたものでした。そのように、イエス様の人生にも、親が関与することのできなかった、定められた計画がありました。それは最終的に十字架にかかって全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。そのように「イエス(主は救い)」と名付けられた御方において、「ヨハネ(主は恵み深い)」という事実が完全に現されることとなったのです。私たちは確かにそのことを知らされているのです。

沈黙の恵み
 しかし、今日の聖書箇所はただ天使による予告の話に留まりません。やはりこの箇所において私たちの目を引きますのは、ザカリアの口が利けなくなったということであり、しかもその理由が「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)と語られていることでしょう。

 口が利けなくされた。それは天罰でしょうか。神の予告を信じないと罰せられるという話でしょうか。それにしても、十月十日の間口が利けなくなるというのは少々厳しすぎやしませんか。この場面だけを見ますとそんなことを考えてしまいますが、先の方まで読みますと、どうも当のザカリア自身はこれを神の罰として耐え忍んできた様子でもないのです。

 子供が産まれて八日目、割礼を施して子供に名前を付ける日に、ザカリアは字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と聖書は伝えているのです。言葉が話せるようになった時、最初に出てきたのが神への賛美だったということは、言葉が話せない時にも既に心の中に神への賛美が満ちていた、心の中では神を賛美していた、ということでしょう。このように、口が利けなかった期間は決して罰などではなく、ザカリアにとっては賛美が満ちるプロセスだったことが分かるのです。

 既に見てきましたように、生まれてくるヨハネには親も関与することのできない、既に定められた神の計画がありました。そのように人間が関与することのできない神の定め、神の計画というものはあります。私たちについてもあります。しかし、人間は計画そのものには関与できないにせよ、それはヨハネの誕生の物語やイエス様の誕生の物語を見ても分かりますように、神様単独で実現するのではないのです。神様は人間を用いて、人間を通して実現されるのです。神の御子はマリアの胎に宿ってからこの世に誕生するのです。神様はあえてそうなさるのです。さらに言えば、主は御自身の救いを実現するのに、あえて教会の宣教という手段を用いられるのです。主はそうなさってきたし、今もそうしておられます。

 そのように神は人間を用いて事を進められます。そこで人間に求められているのは何か。信仰なのです。かつてアブラハムがイサクの誕生を予告された時もそうでした。求められていたのは信仰でした。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と天使はザカリアに言っています。一方、妻のエリサベトは後にマリアにこう語っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このように、主とその御言葉を信じるか信じないかということは、主の目に決して小さなことではないのです。

 ところで、日本語の「信仰」という言葉は、事柄を的確に表しているように思います。同じ言葉を「信心」とは訳さないのです。あくまでも「信じて仰ぐ」と訳すのです。信じて仰ぐなら目を向けている先はあくまでも神様の側です。こちら側ではありません。

 ところが私たちは往々にしてこちら側のこと人間の側のことばかりに目が行きます。こちら側の事ばかりが気になります。ザカリアも言っていますでしょう。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。そのように、こちら側に目が行って、主がなさろうとしていることがあるのだ、主が定め、主が計画し、主が実現しようとしていることがあるのだ、という方向にどうも目が行きません。神様のなさることならば、それは時として人間の常識や限界を越え出るような仕方で実現されるのだ、というところになかなか目が行きません。

 実際、私たちも同じようなことを言っていることがあるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。わたしは病弱ですし、能力もありませんし、性格も良くありませんし、不注意でミスばかりしてますし、家族の問題もありますし、云々。教会についても同じようなことが言えるでしょう。十分な人数がいませんし、経済的にも十分ではありませんし、互いの間にいろいろ問題もありますし…。このような私たちを用いて神様が神様の御業を進めようとしているのだということ信じない理由なら、いくらでも挙げられるのです。こちら側を見ていれば。いくらでも見えてくるし、列挙することができるでしょう。

 ザカリアもそうだったと思うのです。信じないためのこちら側の理由はいくらでも語り続けることができたのでしょう。しかし、主は恵み深い御方でした。彼を強制的に黙らせたのです。沈黙させたのです。そうです、人間は黙らなくてはならない時があるのです。神様の前で人間の側のことを並べ立てることをやめて、黙らなくてはならない時があるのです。私たちが黙らなければ、ぶつぶつ言い続け、こちら側のことを言い続けるならば、時として強制的に黙らされることもあるのです。そのように、沈黙して、ただひたすら神の定めとご計画、それを実現する計り知れない神の力に思いを向けるべきときがあるのです。

 ザカリアはこの沈黙の恵みをいただいて、その内に主への賛美が満ちてゆき、主への賛美が一杯になって、やがて開かれたその口から賛美が溢れ出しました。このアドベントの時、私たちも同じ恵みをいただいて、私たち自身の内に主への賛美を満たしていただき、来る御子の御降誕の祝いにおいて心からの賛美を共に捧げたいものです。

2014年12月7日日曜日

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」

2014年12月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 55章1節~11節


 主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と。「来なさい」と主は繰り返されます。渇いたまま、何も持たないまま、来なさい、と。

渇いている者は来るがよい
 エルサレムが破壊され、ユダの国が滅亡し、主だった人々がバビロンに捕囚とされて既に50年近くの月日が過ぎようとしていた頃、捕囚民たちは皆、新しい時代の到来を肌で感じていました。バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は被占領民族を支配するに当たり、その民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったのです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰り、エルサレムを再建することが許されたのでした。ついに解放の時が来たのです。

 今日の第一朗読はそのような時代を背景とした預言です。で主は預言者を通して語られたのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。

 これは何を意味するのでしょうか。ただ故郷に帰れる時が到来したのではないということです。神のもとに帰るべき時が来た。それこそが重要なのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる方のもとに帰るべき時が来たのです。いわば信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たのです。

 バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。バビロンが提供してくれるもので自分を満たさなくてはならない時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)。

 良きものは主から来るのです。本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「とこしえの契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。

 さてこれらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、彼らは旅立ったのです。それは故郷への旅立ちではなく、まさに主のもとへと行く旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰の生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。

近くにいますうちに
 しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
 廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが直面したのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背くということ、背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという事実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。

 そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのでしょう。そこで人は神の御前に恐れを覚え、聖なる神と罪ある人間との埋めることのできない大きな隔たりを思わざるを得ないのです。

 しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られるのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。

 なんと主は近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださるのです。主が近くにおられるのは、裁いて滅ぼすためではありません。豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。

わたしの道は異なる
 とはいえ、現実に罪のもたらした荒廃が目の前にある時に、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しいのかもしれません。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。

 しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。

 私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。

 「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。

 エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。

 主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。

 さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。

 キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。

 私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。

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