2014年11月30日日曜日

「心が鈍くならないように」

2014年11月30日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 21章25節~36節


 今日からアドベント(待降節)に入ります。教会の暦におきましてはアドベントから新年が始まります。この「アドベント」という呼び名は「到来」を意味するラテン語に由来します。「キリストの到来」です。アドベントは、今から約二千年前にキリストがこの世界に到来したことを思うだけでなく、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られることを思う期間でもあります。そのようにアドベントは一年の初めに置かれていますが、内容的には「始まり」よりむしろ「終わり」に思いを向ける期間でもあると言えます。

身を起こして頭を上げなさい
 ところで「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。一般的に「世の終わり」という言葉が用いられる時に人がイメージするのは後者でしょう。

 今日の聖書箇所においてイエス様もまた「終わり」について語っておられますが、その言葉の多くは破局としての「終わり」を連想させるものです。今日の朗読箇所の直前にはエルサレムの滅亡が予告されています。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20節)。そして、この予告は約40年後に実現することとなります。エルサレムの滅亡はユダヤ人にとってまさに破局です。

 そして、今日の箇所に入って、イエス様はユダヤ人だけでなく他の諸国民にとっても破局としか思えないことを語り始めるのです。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(26節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわば、世の信頼できる秩序はもはや何も残っていないということです。そこで人は「なすすべを知らず」、不安と恐れを抱きます。主は明らかに破局としての終わりについて語っているように見えます。

 しかし、イエス様はさらにこう続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(27‐28節)。

 解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。「雲に乗って」という表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7:13)。要するに人間が普通考えるような仕方では来ない。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で来られるということです。

 だから、この世界が無力感と不安と恐れに包まれる時、同じように不安と恐れに支配されてはならないのです。その時こそ、あなたがたが身を起こし、頭を上げるべき時だ、と主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

わたしの言葉は決して滅びない
 そこでイエス様はさらに重ねて、たとえを用いて語られます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(29‐31節)。

 これも普通に読むならば、とても変な話だと言えます。葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。それは聴いている人たちが経験から知っていることでした。「葉が出始めたこと」から「夏が近づいたこと」は自然に連想できることなのです。そして、「それと同じように」と主は言われるのです。「それと同じように」ならば、どういう言葉が続くのが自然でしょう。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」となるのでしょう。不安や恐れを抱かせる出来事が起こるのを見たら、自然に連想できることですから。しかし、イエス様はそうは言われないのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。

 「あなたがたは」とは、「わたしを信じるあなたがたは」という意味でしょう。主を信じるならば、この世と同じように考えてはならないのです。新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から、破局としての終わりではなく完成としての終わり、「神の国」を思うべきなのです。そこで明らかに求められているのは、主とその御言葉への信頼です。ですから主はさらに御自分の言葉について次のように宣言されるのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32‐33節)。

 「天地は滅びるが」と主は言われます。エルサレムが滅びるどころの話ではありません。天体が揺り動かされるどころの話ではありません。イエス様はこれまでの話を究極にまで押し進めます。「天地は滅びるが」と言われるのです。しかし、たとえそのようなことが起こったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」と宣言されるのです。イエス様の言葉が最終的に残るのです。主が言われたとおりになるのです。主が言われるとおり、そこになお救いがあるのです。人の子は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。

 このように、主を信じる者は、最終的にたとえ天地が滅び行くとしても、すべてが過ぎゆくようなことがあっても、近づいているのは破局ではなく、神の国なのだと信じることが求められているのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される主に信頼することが求められているのです。

心が鈍くならないように
 さて、主が語っておられるのは「終わり」についての話です。しかし、「終わり」についての話は、ただ「終わり」にのみ関わるのではありません。「終わり」をどう見るかが現在の生き方を方向付けるからです。既にイエス様の言葉を聞いて感じておられると思いますが、ここでイエス様が語っておられることは、今、私たちがどのように生きるのかということと深く関わっているのです。

 実際、私たちが日々直面しているのは、エルサレムが滅亡するような出来事ではありません。現在この世界が直面しているのは、天体が揺り動かされるような事態ではありません。もっとずっと小さなことでしょう。しかし、そのような終末的事態ではなくとも、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくとき、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくとき、人は何を考えるのでしょう。何をしても、どうあがいても、事態が悪くなっていく一方であるとき、いったい人は何を考えるのでしょう。無力感と不安と恐れに満たされる時、人は何を考えるのでしょう。そこで人が考えるのは破局としての終わりではないでしょうか。最終的に希望などない、と。

 しかし、私たちが信じている主は「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われる御方なのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われる御方なのです。主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される御方なのです。そうです、私たちはこの主とその御言葉に信頼して生きるのです。目に映るところによって、神がなさろうとしていることを判断してはならないのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。最終的に人の子が「雲に乗って」来られると語られているようにです。

 そのように、私たちはどのような時にも、目に映るところがどうであれ、主のみ言葉に信頼し、希望をもって生きる。主が「終わり」について語っておられるのは、今、私たちがそのように生きるためです。ですから、主はさらにこう言われるのです。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(34‐36節)。

 生き生きとした希望を失う時、破局としての終わりしか考えられなくなるとき、醒めた心をもって生きられなくなります。本当の意味で現実的に生きられなくなります。「心が鈍く」なってしまいます。自分で自分の心をあえて鈍くしてしまうこともあるでしょう。「放縦や深酒で」と書かれているのはそのような場合です。あるいは望まずとも心が鈍くなってしまうこともあるでしょう。「生活の煩いで」とはそのような場合です。煩いの種となっていることしか考えられなくなるのです。そのように主がなさることに希望をもって目が向けられなくなる。心が鈍くなってしまいます。

 だから私たちはそうならないためにも、私たちが信じている主がどのような方であるかを思い起こさねばならないのです。終わりについて主が語られたことを思い起こさねばならないのです。その意味において、アドベントという季節が与えられていることは幸いなことです。

 最終的な救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。人の子は雲に乗って来られるのです。私たちが信じているのは「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われる御方です。そのことを忘れて、希望を失って心が鈍くなったまま、終わりの時を迎えるようなことがあってはなりません。最終的に人の子が到来する時に、希望をもって待ち望んでいた者として、人の子の前に立つ者でありたいと思います。

2014年11月23日日曜日

「十字架の上の王」

2014年11月23日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 23章35節~43節


無力なメシア
 イエス様がかけられた十字架の上には「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男がこいつらの王様だってよ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、つい数日前まで民衆はその男がユダヤ人の王となると信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。救うために来られる力ある王です。イスラエルの民が待ち望んできた力ある救い主です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々は付いて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 そうです、五日ほど前にエルサレムに入城された時にもそうでした。エルサレムに向かう道にはこんな賛美の歌声が響き渡りました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(19:38)。力ある王がついにエルサレムに来られた!何かが起こるという期待感に人々は満たされていたことでしょう。この御方がユダヤ人の王として力を振るってくださる。ローマ人に支配されているユダヤ人を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。人々は期待をもってここまで付いて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架の上にいるのです。磔にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」(35節)。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。「無力なメシア」というのはそれ自体、言葉の矛盾です。無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは嘲って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。彼らは酸っぱいぶどう酒をつきつけて侮辱して言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もその方が力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのはある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があれば付いて行くのです。付いて行って、その行き着いた先が十字架であるならば、そこに無力な姿しかなければ、もはや必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(1コリント1:22‐23)。この礼拝堂に掲げられているように教会にはここかしこに十字架があります。教会は「十字架につけられたキリスト」にこだわり続けてきたのです。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えてきたのはなぜなのか。そのことを良く示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで起こった出来事です。それでは続きを読んでいきましょう。

我々を救え
 十字架につけられたメシアの両側には他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスをこう言って罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。「救ってみろ」と訳すと嘲りのニュアンスが入ってしまいますが、彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いなのです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのはローマにおける唯一の処刑方法ではありませんでした。これはローマの市民権を持たない者に対する極刑です。しかも、それは手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから少なからぬ人が、恐らくこの二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。実際、マルコによる福音書では二人の「強盗」と書かれているのですが、それはまた反ローマ闘争を繰り広げていた熱心党員を表す言葉でもあるのです。

 彼らが政治犯であるならば、イエスを罵った男の言葉はよく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。これは本来あってはならないことなのです。悪しき力による不当な苦しみ!不当な苦しみを受けるなら怒りがわき上がってきます。神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきなのだ。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!

 不当な苦しみによって湧き上がってくる怒りが、救おうとしないメシアへと向けられる。そのようなことは多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で私たちもしばしば言うのでしょう。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。不当にも苦しめられている。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいじゃないか!正直に言いますけれど、わたしは何度もそのような思いを抱いたことがあります。

わたしを思い出してください
 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40‐41節)。

 お前は神をも恐れないのか!そう彼は言いました。そうです、彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にするような苦しみの中にあって、神の御前に身を置いているのです。神への恐れをもって向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に彼は思うのです。わたしは決して正しくない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマ法に背くことや反権力闘争において行ってきた暴力や殺人のことではないでしょう。神の御前に、神を恐れつつ彼は語っているのですから。神の御前において「自分のやったこと」です。他の人は知らないかもしれないけれど神様は知っておられる全てについて語っているのです。神だけが知っている自分の人生のすべて、そこにおいて「自分のやったこと」について語っているのです。それが正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然に思えたのです。苦しみの中にあることを当然のことと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない?とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこにメシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって今、十字架の上におられます。しかし、メシアは王なのです。最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、イエス様と一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた十字架につけられたキリストです。私たちもまた宣べ伝えられた十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。あの赦された罪人と同じところにいるのです。

2014年11月16日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

2014年11月16日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 3章1節~15節


 モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。エジプトから逃れミディアンに住み着いてから既に四十年もの歳月が流れていました。そこで妻も娶りました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それはイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。追い使う者のゆえの叫びを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分の為し得ることなど何もない、と。実際、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。苦しみ同胞を見捨てて、四十年前、エジプトからミディアンへ。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が出会われた次第を伝えています。主はモーセに呼びかけられたのです。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る』」(7‐8節)。

 神様が御自身を現されたなら、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。それはモーセが知る必要のないことだったからです。モーセが知るべきことは別なことだったのです。

 主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。これがモーセの知らされたことでした。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知ってくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 わたしたちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、キリストによって、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も目を留めてくれないかのように見えたとしても、誰の耳に届かないかのように見えたとしても、誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地…へ彼らを導き上る」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなことできるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。杖で土の塵を打つこと。すべて主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。主は単独で事をなされない。モーセと共に行動されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神の御前に祈ります。声を上げます。聞いて下さる神に、苦境を訴えます。必要を訴えます。神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。降りたもう神が、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。そうです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎないではないですか。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。大切なことは、ただ神が召してくださることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。主は言われます。「行きなさい」と。そして、言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

2014年11月2日日曜日

「あなたが掘り出された岩穴に目を注げ」

2014年11月2日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 51章1節~3節

    ローマの信徒への手紙 4章18節~25節

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。

アブラハムの信仰
 そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」(イザヤ51:1)。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。そのこと遡って行きますと、その大本に至ります。切り出されてきた元の岩に至るのです。

 では、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」とは何なのか。聖書はこう続けます。「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」(同2節)。

 アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。そこに目を向ける時、「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」が見えてくる。それはどのような物語でしょうか。「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という言葉をもって、主はその物語を思い起こさせます。

 それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早いと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人を選ばれました。見込みのない人を選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性が潰えていくように、約束の実現を先延ばしにされました。

 なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人によって実現されることではなく、神によって実現されることを待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムにそのことを求められたのです。どうしてか。神はただもう一つの民族を創ろうとしていたのではないからです。そうではなく、信仰の民を創ろうとしていたのです。信仰の民の祖先とするために、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。

 そして、アブラハムは信仰をもって神に応えたのです。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

 これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰をパウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。

 これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずなのです。

荒れ野をエデンの園とする
 さて、このように主の言葉を語っていたのは、今から約2500年前の預言者でした。聞いていたのはエルサレムの人々です。彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と主が語られたのは、そう語らざるを得ない理由があったからです。それは続く言葉からわかります。

 「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。

 エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。

 しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、周りはこの再建を快く思わない人々に囲まれており、激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられませんでした。彼らは希望を失っていきました。

 荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いは私たちの内にも根強く存在するのでしょう。実際、どんなに一生懸命耕しても、種を蒔いても、何一つ生えてこない、まさに不毛の地としか思えない現実が確かにありますから。皆さんにとって荒れ野とは何ですか。毎日の生活ですか。夫婦の関係ですか。問題を起こす子供たちですか。社会における人間関係ですか。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が確かにあります。

 しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。荒れ野がエデンの園になるとするならば、その前に変わらなくてはならないものがあるのです。それは荒れ野を見ている人自身の心です。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の思いです。だから主はまず「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。

 そこで主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖が受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰を再認識しなくてはなりませんでした。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。

 いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。

 なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。いわば神はキリストにおいて「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。

 そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。

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