2014年10月26日日曜日

「偶像から生ける神のもとへ」

2014年10月26日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 14章8節~17節


 今日の説教題は「偶像から生ける神のもとへ」となっています。これは今日の聖書箇所から取りました。第一回目の宣教旅行の途上、リストラにおいてパウロとバルナバが人々に語った言葉です。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。さて、「偶像を離れる」とは何を意味するのでしょう。「生ける神に立ち帰る」とはいかなることを意味するのでしょうか。

偶像を離れて
 パウロとバルナバが、このように叫ばざるを得なかったのは、人々がパウロとバルナバにいけにえを献げようとしたからでした。つまり彼ら自身が礼拝の対象にされそうになったからでした。

 事の次第は先に朗読されたとおりです。細かくは後ほど見ることになりますが、発端は一人の人が奇跡的に癒されたことでした。パウロが福音を告げ知らせていたその場において、生まれながら足の不自由な人が癒され、立ち上がって歩き出したのです。

 この出来事を目撃した人々が騒ぎ出しました。彼らは「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声を張り上げて叫びました。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのです。人々が口にしていたのは「リカオニアの方言」でした。それゆえに、パウロとバルナバは何が起こっているのか分からなかったものと思われます。

 しかし、ゼウスの神殿の祭司が雄牛数頭と花輪を運んで来るに至って、彼らはようやく事態を飲み込みます。祭司は群衆と一緒になって二人を礼拝し、いけにえを献げようとしていたのです。そこでパウロとバルナバはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んでいきました。そして彼らに向かって叫んだのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。

 ちなみに「偶像」と書かれていますが、これは意訳です。原文では「虚しいもの」と書かれているのです。「虚しいもの」というのはパウロたちユダヤ人の表現で神々の像を指すのです。そのような意味において旧約聖書にも繰り返し出てきます。

 しかし、礼拝の対象となるのは、必ずしも彫ったり鋳て造ったりした像だけではありません。この場面においては、人間であるパウロとバルナバが礼拝の対象とされているのです。ゆえに「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と叫ばざるを得ませんでした。ですからパウロとバルナバが「偶像を離れて」と言っているのは、ただ単に神々の像を造って拝むようなことをしない、という意味ではないのです。

 では「偶像を離れて」の「偶像(虚しいもの)」とは何なのでしょう。それは人間が偶像をどう扱うかを見るとよく分かります。実は今日の朗読はリストラでの伝道の途中までだったのですが、残された18節以下を読むとよく分かるのです。「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した」(18‐19節)。

 これが「偶像」を拝むということです。あれほど熱狂してパウロとバルナバを崇め祭り、祭司と共に犠牲まで献げようとしていた群衆が、ここでは一転して、石打の刑に加わって石を投げつけているのです。ユダヤ人たちがどのようにして群衆を抱き込んだのかは分かりません。パウロたちの存在による不利益があることを吹き込んだのでしょうか。いずれにせよ、パウロとバルナバの存在は、彼らにとって都合が悪くなったのです。

 そして、都合が悪くなったとき、パウロとバルナバとはもはや彼らにとって神ではなくなったわけです。それは当然です。もともと神ではないのですから。もともと神ではないものを神としているから、都合によって神となったり神でなくなったりするのです。都合によって礼拝の対象になったり、礼拝の対象にならなかったりする。人間がそれを信じることもできるし、捨てることもできる。そのようなものを「偶像」と言うのです。

生ける神に立ち帰る
 そのような「偶像」と対比して、パウロとバルナバは「生ける神」を指し示すのです。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(15‐17節)。

 彼らが語っているのは、この世界を造られた神、創造主である「生ける神」です。人間が信じようが信じまいが神であられ、人間が認めようが認めまいが、この世界において御自身を現し続けておられる「生ける神」です。現実に人間の生活に関わり続け、恵みを与え、生きるに必要なものを与え、人間の心を喜びで満たしていてくださる。そのように生き生きと働いておられる「生ける神」について語っているのです。

 しかし、もちろんこれがパウロたちの語りたかった全てではありません。続きがあるのです。「わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と彼らは言いました。パウロたちが「福音」と言う時、その中心はイエス・キリストです。創造主である「生ける神」が救い主イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。「生ける神」がその独り子を与えてくださり、私たちの罪の贖いの犠牲として十字架にかけてくださいました。このキリストの十字架によって、「生ける神」は御自分を侮ってきた私たち、背き続けてきた私たちの罪を赦し、「生ける神」が御自分のもとに私たちを招いてくださいました。

 それゆえにパウロたちは言うのです。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像を離れて、「生ける神に立ち帰る」時、そこには何があるのですか。「生ける神」に信頼して生きる新しい生活があるのです。完全な救いに向かって神に信頼して歩いていく新しい生活があるのです。

 その意味において、そもそもの発端となった、足の悪い人の癒しの出来事は極めて象徴的な出来事となったと言えます。まさに「生ける神」に立ち帰り、「生ける神」を信じて生きるとはどういうことかが、その人の上にはっきりと現れているからです。すなわち、それは立ち上がり、歩き始めることなのです。

立ち上がって歩き出す
 もう一度、その人の内に起こった出来事を見てみましょう。次のように書かれていました。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」(8‐10節)。

 その人はパウロの話すのを聞いていた。パウロが福音を伝えるのを聞いていたのです。その宣教の言葉によって、その人の内に信仰が生まれました。パウロがその人に目を向けた時、彼がそこに見たのは福音の宣教によって生み出された信仰でした。それは「いやされるのにふさわしい信仰」と表現されています。要するに、そこにパウロが見たのは、偶像を離れて、生ける神に立ち帰った人の信仰だったのです。それゆえにパウロは彼にこう言ったのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。

 考えてみてください。彼は生まれてこの方一度も立って歩いたことはないのです。聖書はわざわざ「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」(8節)と書かれているのです。そのような人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言うならば、通常は返って来る言葉は決まっているでしょう。「立てないから座っているのではないか!」そして、そこに座り続けているに違いありません。

 しかし、パウロはその人に信仰を見たのです。生ける神に立ち帰り、生ける神を信じる信仰を見たのです。だから命じたのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。そして、彼もまたその言葉に従ったのです。生ける神への信頼をもって従ったのです。「その人は躍り上がって歩きだした」と書かれています。しかし、それは必ずしも癒されて嬉しくて躍り上がったことを意味しません。原文では単純に「飛び上がった」と書かれているだけです。つまり勢いよくまっすぐに立とうとしたということです。今まで一度も立ったことのない人がです。

 もちろんここに書かれているのは神による癒しの奇跡です。しかし、大事なことは、この人が生ける神に信頼して、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」という言葉に応答したということなのでしょう。それは彼にとって、まさに生ける神からの呼びかけだったに違いありません。その呼びかけに彼は応えたのです。

 そして、彼はそこから歩き始めました。歩いて生きる人生というのは、彼にとって全く未知の領域です。そこには座っていた時よりもずっと多くの困難が待っているかも知れないのです。しかし、彼は生ける神に信頼して立ち上がったように、生ける神に信頼して歩き始めたのです。

 確かに「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」ということは、そのようなことなのでしょう。それはイエス・キリストを通して与えられた生ける神の呼び声に応えて信頼をもって立ち上がること、そして信頼をもって歩き始めること。そして、信頼をもって歩き続けることです。

 実際、この足を癒された人にせよ、またパウロの宣教によって信じた他の人たちにせよ、待っていたのは決して平坦な道のりではなかったはずです。パウロが石で打たれて殺されそうになったとするならば、福音を聞いて偶像を離れ、生ける神に立ち帰った人々も迫害を免れることはなかったでしょう。しかし、彼らは生ける神の呼び声に応えて立ち上がった人たちです。それゆえに苦難が降りかかることがあっても、生ける神に信頼して歩み続けたのです。

 そして、生ける神はまさに偶像ならぬ生ける神であることを彼らの間に現され、そのようにしてリストラにも教会が形づくられていったのです。そうです、そのように代々の教会は形づくられ、この頌栄教会も形づくられ、生ける神に立ち帰り、生ける神を信じて生きている私たちがここにいるのです。

2014年10月19日日曜日

「神が目から涙をことごとくぬぐってくださる」

2014年10月19日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 7章9節~17節


 今日は礼拝においてヨハネの黙示録が読まれました。そこに描かれていたのは天において神を礼拝する大群衆の姿でした。それはヨハネの見た幻です。ある意味では極めて特殊な個人的な神秘体験です。しかし、このような幻の記されている書物が聖書の中に置かれており、今日に至るまで読み継がれてきたのは、それがヨハネ個人のことに留まらず、代々の教会に深く関わることが書かれているからでしょう。そのようなヨハネの黙示録とはいったい何なのか。まずそこに目を向けたいと思います。

礼拝で朗読されるための手紙
 ヨハネの黙示録の1章まで遡りますと、この書は次のような言葉から始まります。「イエス・キリストの黙示」。「黙示」とは「啓示」とも訳せます。神様が覆いを取り除いて明らかにしてくださったことです。それがこの書物には書かれているのです。これは全体の表題とも言えます。そして、序文に当たる部分が3節まで続きます。

 このように「黙示」とか「啓示」という表題がついている。ある意味で聖書の中で独特な書物です。しかし、この序文の部分を伏せて4節から読んでみてください。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」(4‐5節)。これは当時の一般的な手紙の書き方です。実際、パウロの手紙などと書き方がよく似ています。

 差し出し人はヨハネです。ヨハネはパトモス島にいます(9節)。エーゲ海に浮かぶ小さな島、流刑地となっていた島です。ヨハネは信仰のゆえに流刑となっているのです。当然のことながらそこに教会はありません。パウロの手紙などですと、彼と一緒にいる人について「~からよろしく」という言葉が出て来るのですが、この黙示録には出てきません。一緒に礼拝を捧げる信仰者の交わりはそこにありません。その意味で彼は孤独です。

 そのような孤独の中から彼は手紙を書くのです。アジア州にある七つの教会に宛てて。ただ安否を問うためではありません。3節にこう書かれていました。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(3節)。つまりこれは朗読されるための手紙なのです。どこにおいてですか。礼拝においてです。私たちが今しているようにです。これは共に集まって礼拝する時に朗読されるための手紙なのです。

 礼拝のための手紙であるとはどういうことでしょう。この手紙が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代であり、皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代です。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしたのです。

 それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じる者として、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はありません。しかし、彼らはそうしなかった。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。これは、そのような人々に宛てて書かれた手紙です。そのような場所で朗読された手紙です。そのような手紙がここにおいて朗読される時、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なことか。本当に命をかけても惜しくないほどの恵みであると思っているでしょうか。

 そのような手紙に、大群衆の姿が描かれていたのです。それが今日読まれた聖書箇所です。そこには、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆がいたのです。白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持って神と小羊の前にいて、大声でこう叫んでいるのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)。

 そのように神とキリストを礼拝し、誉め讃えているのは誰なのでしょう。その幻を見ているヨハネが質問されます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは言います。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」そこで答えが与えられます。(14節)「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

殉教者が大声で誉め讃えている神
 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」と語られていました。新改訳聖書では「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳)と訳されています。この方がむしろ直訳に近いのです。

 「大きな患難から抜け出て来た者たち」。どうして神はヨハネに「患難から抜け出て来た者たち」の姿を見せたのでしょうか。しかも、彼らが大声で神とキリストを誉め讃えて礼拝している姿を見せたのです。なぜでしょうか。どうして、ヨハネはそのような天の描写を手紙として書き送ったのでしょうか。それは、この手紙が苦難の中にありながらも、集まって礼拝していた人々に宛てられた手紙であることを考えるとよく分かります。

 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」とあの大群衆は叫んでいました。そうです、救いは神とキリストのものであり、そこから救いは来るのです。そう私たちもまた信じているのでしょう。そうです。この手紙を受け取った人々もまた、そう信じている人々です。しかし、そのような彼らに現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々もいたのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにある。

 そうです。患難の中にあって、信じることが困難になるのです。しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見える人々が、なんと大声で神を誉め讃えている姿を見せたのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」と。

 そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に一番近いところにいるのです。神の助けがなく守りもないように見える中で殺されてしまった彼らは、神から遠ざけられた人々なのか。とんでもない!彼らは神に一番近くに招かれていた人々なのです。そして、こう書かれている。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 その行き着くところは命の水の泉だったのです。渇き求めていた本当の命はそこにあったのです。そして、神は目から涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」と書かれています。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられたということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。その全てが、流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

 さて、繰り返しますが、これは主の日に礼拝を捧げている人々に宛てられた手紙です。礼拝の中で朗読されるようにと書かれた手紙です。そこにおいて語られているのは、「生きている間は苦しいけれど、死んだら楽になりますよ。天国の喜びがあるのですから、今は苦しみがあっても耐えましょう」という次元の話ではないのです。そこで礼拝している神はどのような神なのか、そこで礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか、ということなのです。

 ヨハネの見た幻の大群衆、「大きな患難から抜け出た者たち」についてはこう語られていました。「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。小羊とは十字架にかけられたキリストです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しです。彼らの衣は殉教したから白くなったのではありません。死んだから白くなったのではありません。キリストによって白くせられたのです。

 ならば天の礼拝であろうが、地上の礼拝であろうが同じなのです。地上において私たちが礼拝している神はどのような神なのか。地上において私たちが礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか。神はヨハネにはっきりと見せてくださったのです。それは、無残に殺された殉教者たちが天において大声で誉め讃えている神なのだ、ということを。苦難から抜け出た者たちとして、涙をことごとくぬぐわれる者として、大声で誉め讃えている小羊キリストなのだ、ということを。その同じ神を、その同じキリストを、地上においても礼拝しているのです。

 この地上の生活において、神の愛と真実は、しばしば見えなくなります。それは迫害の時代ならずともそうなのでしょう。しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽は無くならないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。

 ならば大切なことは何か。この地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのか。あえて信じることです。目に映るところがどうであれ、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。信仰に踏みとどまることなのです。疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。信仰によって生きるためです。

2014年10月12日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

2014年10月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節


キリストの苦しみ
 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。「苦しむことを喜びとする」。通常、私たちはそのようなことは言いません。むしろ苦しみは喜びを失わせます。

 しかし、「苦しむことを喜びとする」と言い得る時が全くないわけではありません。それはその苦しみが愛する者のための苦しみである時です。自分の苦しみが意味のないものではなく、無駄になってしまうものではなく、愛する者のためになる苦しみである時、苦しむことは喜びをも伴います。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」いう言葉から、コロサイの教会を愛してやまないパウロの思いが伝わってまいります。

 しかし、パウロが「苦しむことを喜びとする」と言っているのは、ただ彼らを愛しているからだけではありません。さらにパウロはこう続けるのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。

 「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。さらに言うならば、自分の苦しみをキリストの苦しみの一部として見ていたということでしょう。キリストの苦しみの欠けている部分を満たしているのですから。

 いずれにせよ、パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。その欠けている部分をパウロは満たしているだけだというのです。パウロはコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために喜んで苦しみをも耐え忍んでいたのでしょう。しかし、彼がそうする以前に、キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。「キリストの苦しみ」と聞くならば、すぐに思い浮かぶのは十字架です。私たちの罪のために負ってくださったキリストの苦しみです。罪の贖いのための苦しみです。しかし、罪の贖いの苦しみならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがありません。

 罪の贖いの苦しみは、キリストにおいて全うされているのであって、そこにパウロの入る余地はありません。キリストは独りですべての人の罪を負われたのです。キリストは独りで父なる神の裁きを受けられたのです。キリストは独りで苦しまれ、独りで死なれたのです。キリストは独りで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。

 では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは何であったのか。それは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。

 そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。

 しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。自分の苦しみが先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先に労苦しておられる。キリストが苦しんでおられるのです。キリストがコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の一部に過ぎないのだと分かっていたのです。だから彼は言うのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と。

あなたがたの内におられるキリスト
 それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。

 先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。

 「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。「奥義」と言いますと、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものを連想するかも知れません。事実、この言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは代々にわたって隠されていたけれど、今や神によって明らかにされたのです。そして、全ての人に宣べ伝えられねばならないのです。

 ではその「奥義」とは何なのか。いや、この問いかけは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 神の救いの御心は、一人の御方を通して、完全に現わされました。十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。このキリストを通して、神に敵対するこの世界をなお愛される神の愛が明らかにされました。キリストを通して、神の赦しが現わされました。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。聖霊のお働きにより、生けるキリストと人との出会いが起こるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」とパウロは言うのです。

 そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。今日はお読みしませんでしたが、14節にこう書かれています。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14節)。キリストのおられるところに罪の赦しがある。ゆえに、そこには神と人との和解があります。神と人との間に平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。

 だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。キリストが「あなたがたの内におられるキリスト」となられるための愛であり、そして苦しみです。

 実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。キリストに対して固く戸を閉ざしていた私たちがいます。今もそこにしばしば舞い戻ってしまうような私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリストになろうとしてくださいました。そこにまた「キリストの苦しみ」がありました。私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。

 事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのでしょう。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのでしょう。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。

 ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。

2014年10月5日日曜日

「キリストが私たちのためにしてくださったこと」

2014年10月5日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙 9章23節~28節


死後裁きをうける私たち
 この近辺ではあまり見かけませんが、地方を車で走っていますと時々黒地に白と黄色の文字で書かれたキリスト教の看板を見かけます。「キリスト看板」と呼ばれるもので、宮城県に本部を置いている「聖書配布協力会」という団体が設置しているものです。全国に五十万枚ほど設置されているそうです。そこには「キリストは墓からよみがえった」「イエス・キリストは神のひとり子」というようなことが書かれているのですが、中には「死後裁きにあう」というようなものもあります。わたしも幾度か目にしたことがあります。黒地に黄色と白で書かれていると実に恐ろしげに見えます。

 今日の聖書箇所にも似たような表現が出てきました。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)。確かに、聖書は死後の裁きについて語っています。ここを読むとあの黒地に白と黄色の文字を思い出します。しかし、死後の裁きをただ「恐ろしいこと」として考えるのは極めて一面的であると言えるでしょう。

 そもそも人は、この世に不当なことを見るならば、正しい裁きを求めるものです。もし自分が不当な苦しみを負うならば、正しい裁きが行われて不当な苦しみが取り除かれることを求めるものです。不当な苦しみを負ったまま死ぬことになるなら、死んで後にでも正しく報いられることを望むものでしょう。

 内戦の続くシリアにおいて三歳の男の子が負傷し、瀕死の状態で病院に運び込まれ、まもなく亡くなりました。その子が最後に口にした言葉がインターネット上で話題になりました。その子はこう言ったのです。「全部神様に言ってくるから」。この子の訴えは、この子の叫びは神様に取り上げられるのでしょうか。大人たちの様々な思惑のもとに踏みにじられた小さな命は省みられるのでしょう。その小さな命が受けた不当な苦しみは報いられるのでしょうか。神がまことの神ならば、この子の叫びが放置されるはずはない。死後であっても正しい裁きが行われるはずだ。行われて欲しい。この子は正しく報われて欲しい。そう思うのではありませんか。

 この世において正しいことが完結するわけではありません。この世においてすべての決着が付くわけではない。私たちは良く知っているのです。その意味において、死後に裁きがあるということは、人間にとって希望でもあるのです。

 また「死後の裁き」を考えるということは、私たちの生き方をも決定的に左右すると言えるでしょう。これは私たちの一生をいったい誰が判断するのか、ということに関わっているからです。私たちは往々にして、人の評価、人の判断、人の言葉に振り回されながら生きているものです。しかし、聖書は死後における神の裁きを語るのです。最終的に神は判断されるのです。評価するのは人間ではありません。神様です。人間が見ていようがいまいが、人間に誤解されようが、馬鹿にされようが、くさされようが、軽く見られようが、神様は正しく見ていてくださる。神が裁かれるとはそういうことです。その意味においても、死後に裁きがあることは、人間にとって希望でもあります。

多くの人の罪を負うために
 そのように、人は一方において正しい裁きを求めているし、死んで後でもよいから正しい裁きがなされることを求めているとも言えます。しかし、もう一方において、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という言葉には、ある「恐ろしさ」が伴っていることも事実です。「死後裁きにあう」という言葉を見て、単純に「ああ、嬉しい!」と思えない。それは私たちが必ずしも善を行って生きてはいないという事実をよく知っているからでしょう。詩編に歌われているとおりです。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)。

 私たちは一方において正しいことがなされることを求めます。しかし、もう一方において自分は正しくないことを知っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」。そこでは他の誰かの罪ではなく、私たち自身の罪が問題となります。それゆえに、続く28節が重要になるのです。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。そもそも、この手紙はただ死後に裁きがあること自体を語りたかったのではありません。本当に語りたかったのはこの28節なのです。

 「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた。」そう聖書は語ります。「多くの人」というのはユダヤ的な表現で、意味するところは「すべての人」です。キリストは、すべての人の罪を負うために身を献げてくださった。これがキリストのしてくださったことです。それは何を意味するのか。聖書は、かつてイスラエルにおいて行われていた礼拝を引き合いに出して説明しています。幕屋において行われていた、動物を犠牲として捧げる礼拝です。

天そのものに入られたキリスト
 特にここで取り上げられているのは、一年に一度の「贖罪日」における礼拝です。遡って6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。

 「第一の幕屋」と「第二の幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が垂れ幕によって二つに仕切られているのです。垂れ幕の手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、垂れ幕の向こうは「第二の幕屋」あるいは「至聖所」と呼ばれていました。

 一般の祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の第二の幕屋には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が第二の幕屋に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。人々の罪が赦されるために代わり動物が死ぬのです。大祭司はその血を携えて垂れ幕の向こうに入るのです。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式を行い、血を携えて神の御前に出るのです。

 このように動物を屠って、その血を携えていくという儀式は、今日の私たちの感覚からすれば極めてグロテスクなものと映ります。いったいどうして神はこのような儀式を行うことを命じられたのでしょう。――それは、このような目に見える儀式をもって、目に見えない世界において起こることを教えるためだったのです。本当に意味あることは、目に見えない神の御前で起こること、天において起こることなのですが、これは目に見えないから私たちには分からないのです。だから目に見える「写し」が必要なのです。その「写し」によって教えられている、目に見えないことこそが、キリストのしてくださったことなのです。

 24節にはこう書かれていました。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。大祭司が第二の幕屋に入るのは、ある意味では神の御前に出ることだったわけですが、それはあくまでも「写し」としての儀式に過ぎません。しかし、キリストは本当の意味で神の御前に出てくださったのです。

 大祭司はその手に犠牲の血を携えていました。罪の贖いのための血です。しかし、動物犠牲はあくまでも「写し」に過ぎません。大祭司が毎年この儀式を繰り返したのも、それは「写し」に過ぎないからです。目に見えないことは、一度限り、決定的なこととして起こったのです。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(25‐26節)。

 これが「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」ということです。キリストが私たちのためにしてくださったことです。目に見えるところにおいては、十字架上において惨めに死んでいったキリストです。しかし、目に見えない世界において、目に見えない神の御前において、私たち人間にとって決定的に重要なこと、すなわち罪が取り去られるということが起こっていたのです。神の裁きにおいては罪なしとはされ得ない私たちです。その私たちの罪を負うために、キリストは身を献げてくださったのです。

救いをもたらすために現れてくださる
 そして、聖書はさらに言葉を続けます。28節全体をお読みします。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。

 このように聖書は、キリストが一度目に来られた時に私たちのためにしてくださったことだけでなく、二度目に来られて私たちのためにしてくださることについて語っています。一度目のことは既に起こったことです。二度目のことはまだ起こっていないことです。私たちの信仰生活はその二つの間にあります。

 この二つの間にあるということは、キリストの成し遂げてくださったことによって罪の赦しは受けているけれど、完全な救いはまだ待ち望んでいる状態だということです。罪を赦された者として神の前に生きることはできるけれど、この世にあって苦しみを免れることはないということです。完全な救いを待望する者として忍耐が求められているということです。実際、この手紙には「忍耐」という言葉が繰り返し出てきます。

 しかし、私たちがたとえ夜の暗闇の中にあったとしても、それは夜明けに向かう暗闇であることを知らされているのです。キリストが救いをもたらすために現れてくださる。そして、主御自身が言われたのです。「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)。その日、その時を知らされていないということは、ある意味では嬉しいことです。救いは次の瞬間にも実現しているかも知れないからです。キリストが「救いをもたらすために現れてくださる」。救いは向こう側から来るのです。私たちが到達するのではないのです。救いは向こう側から来る。そして、それは次の瞬間かもしれないのです。いかなる苦しみも永遠ではありません。それは次の瞬間には終わっているかも知れない苦しみなのです。救いは向こうから来るからです。

 既にキリストがしてくださったことに目を向けましょう。既に私たちの罪のために御自身を献げてくださった方、そこまで私たちを愛してくださった御方が、私たちを最終的に完全に救ってくださいます。救いは向こうから来るのです。そのことを信じて間の時を生きるのです。それが私たちの信仰生活です。

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