日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 14章8節~17節
今日の説教題は「偶像から生ける神のもとへ」となっています。これは今日の聖書箇所から取りました。第一回目の宣教旅行の途上、リストラにおいてパウロとバルナバが人々に語った言葉です。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。さて、「偶像を離れる」とは何を意味するのでしょう。「生ける神に立ち帰る」とはいかなることを意味するのでしょうか。
偶像を離れて
パウロとバルナバが、このように叫ばざるを得なかったのは、人々がパウロとバルナバにいけにえを献げようとしたからでした。つまり彼ら自身が礼拝の対象にされそうになったからでした。
事の次第は先に朗読されたとおりです。細かくは後ほど見ることになりますが、発端は一人の人が奇跡的に癒されたことでした。パウロが福音を告げ知らせていたその場において、生まれながら足の不自由な人が癒され、立ち上がって歩き出したのです。
この出来事を目撃した人々が騒ぎ出しました。彼らは「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声を張り上げて叫びました。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのです。人々が口にしていたのは「リカオニアの方言」でした。それゆえに、パウロとバルナバは何が起こっているのか分からなかったものと思われます。
しかし、ゼウスの神殿の祭司が雄牛数頭と花輪を運んで来るに至って、彼らはようやく事態を飲み込みます。祭司は群衆と一緒になって二人を礼拝し、いけにえを献げようとしていたのです。そこでパウロとバルナバはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んでいきました。そして彼らに向かって叫んだのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。
ちなみに「偶像」と書かれていますが、これは意訳です。原文では「虚しいもの」と書かれているのです。「虚しいもの」というのはパウロたちユダヤ人の表現で神々の像を指すのです。そのような意味において旧約聖書にも繰り返し出てきます。
しかし、礼拝の対象となるのは、必ずしも彫ったり鋳て造ったりした像だけではありません。この場面においては、人間であるパウロとバルナバが礼拝の対象とされているのです。ゆえに「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と叫ばざるを得ませんでした。ですからパウロとバルナバが「偶像を離れて」と言っているのは、ただ単に神々の像を造って拝むようなことをしない、という意味ではないのです。
では「偶像を離れて」の「偶像(虚しいもの)」とは何なのでしょう。それは人間が偶像をどう扱うかを見るとよく分かります。実は今日の朗読はリストラでの伝道の途中までだったのですが、残された18節以下を読むとよく分かるのです。「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した」(18‐19節)。
これが「偶像」を拝むということです。あれほど熱狂してパウロとバルナバを崇め祭り、祭司と共に犠牲まで献げようとしていた群衆が、ここでは一転して、石打の刑に加わって石を投げつけているのです。ユダヤ人たちがどのようにして群衆を抱き込んだのかは分かりません。パウロたちの存在による不利益があることを吹き込んだのでしょうか。いずれにせよ、パウロとバルナバの存在は、彼らにとって都合が悪くなったのです。
そして、都合が悪くなったとき、パウロとバルナバとはもはや彼らにとって神ではなくなったわけです。それは当然です。もともと神ではないのですから。もともと神ではないものを神としているから、都合によって神となったり神でなくなったりするのです。都合によって礼拝の対象になったり、礼拝の対象にならなかったりする。人間がそれを信じることもできるし、捨てることもできる。そのようなものを「偶像」と言うのです。
生ける神に立ち帰る
そのような「偶像」と対比して、パウロとバルナバは「生ける神」を指し示すのです。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(15‐17節)。
彼らが語っているのは、この世界を造られた神、創造主である「生ける神」です。人間が信じようが信じまいが神であられ、人間が認めようが認めまいが、この世界において御自身を現し続けておられる「生ける神」です。現実に人間の生活に関わり続け、恵みを与え、生きるに必要なものを与え、人間の心を喜びで満たしていてくださる。そのように生き生きと働いておられる「生ける神」について語っているのです。
しかし、もちろんこれがパウロたちの語りたかった全てではありません。続きがあるのです。「わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と彼らは言いました。パウロたちが「福音」と言う時、その中心はイエス・キリストです。創造主である「生ける神」が救い主イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。「生ける神」がその独り子を与えてくださり、私たちの罪の贖いの犠牲として十字架にかけてくださいました。このキリストの十字架によって、「生ける神」は御自分を侮ってきた私たち、背き続けてきた私たちの罪を赦し、「生ける神」が御自分のもとに私たちを招いてくださいました。
それゆえにパウロたちは言うのです。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像を離れて、「生ける神に立ち帰る」時、そこには何があるのですか。「生ける神」に信頼して生きる新しい生活があるのです。完全な救いに向かって神に信頼して歩いていく新しい生活があるのです。
その意味において、そもそもの発端となった、足の悪い人の癒しの出来事は極めて象徴的な出来事となったと言えます。まさに「生ける神」に立ち帰り、「生ける神」を信じて生きるとはどういうことかが、その人の上にはっきりと現れているからです。すなわち、それは立ち上がり、歩き始めることなのです。
立ち上がって歩き出す
もう一度、その人の内に起こった出来事を見てみましょう。次のように書かれていました。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」(8‐10節)。
その人はパウロの話すのを聞いていた。パウロが福音を伝えるのを聞いていたのです。その宣教の言葉によって、その人の内に信仰が生まれました。パウロがその人に目を向けた時、彼がそこに見たのは福音の宣教によって生み出された信仰でした。それは「いやされるのにふさわしい信仰」と表現されています。要するに、そこにパウロが見たのは、偶像を離れて、生ける神に立ち帰った人の信仰だったのです。それゆえにパウロは彼にこう言ったのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。
考えてみてください。彼は生まれてこの方一度も立って歩いたことはないのです。聖書はわざわざ「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」(8節)と書かれているのです。そのような人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言うならば、通常は返って来る言葉は決まっているでしょう。「立てないから座っているのではないか!」そして、そこに座り続けているに違いありません。
しかし、パウロはその人に信仰を見たのです。生ける神に立ち帰り、生ける神を信じる信仰を見たのです。だから命じたのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。そして、彼もまたその言葉に従ったのです。生ける神への信頼をもって従ったのです。「その人は躍り上がって歩きだした」と書かれています。しかし、それは必ずしも癒されて嬉しくて躍り上がったことを意味しません。原文では単純に「飛び上がった」と書かれているだけです。つまり勢いよくまっすぐに立とうとしたということです。今まで一度も立ったことのない人がです。
もちろんここに書かれているのは神による癒しの奇跡です。しかし、大事なことは、この人が生ける神に信頼して、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」という言葉に応答したということなのでしょう。それは彼にとって、まさに生ける神からの呼びかけだったに違いありません。その呼びかけに彼は応えたのです。
そして、彼はそこから歩き始めました。歩いて生きる人生というのは、彼にとって全く未知の領域です。そこには座っていた時よりもずっと多くの困難が待っているかも知れないのです。しかし、彼は生ける神に信頼して立ち上がったように、生ける神に信頼して歩き始めたのです。
確かに「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」ということは、そのようなことなのでしょう。それはイエス・キリストを通して与えられた生ける神の呼び声に応えて信頼をもって立ち上がること、そして信頼をもって歩き始めること。そして、信頼をもって歩き続けることです。
実際、この足を癒された人にせよ、またパウロの宣教によって信じた他の人たちにせよ、待っていたのは決して平坦な道のりではなかったはずです。パウロが石で打たれて殺されそうになったとするならば、福音を聞いて偶像を離れ、生ける神に立ち帰った人々も迫害を免れることはなかったでしょう。しかし、彼らは生ける神の呼び声に応えて立ち上がった人たちです。それゆえに苦難が降りかかることがあっても、生ける神に信頼して歩み続けたのです。
そして、生ける神はまさに偶像ならぬ生ける神であることを彼らの間に現され、そのようにしてリストラにも教会が形づくられていったのです。そうです、そのように代々の教会は形づくられ、この頌栄教会も形づくられ、生ける神に立ち帰り、生ける神を信じて生きている私たちがここにいるのです。