2014年9月28日日曜日

「神の祝福を信じて」

2014年9月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節~15節


結びつけるために
 今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6節)。

 ここで語られているのは募金の話です。貧しいエルサレムの教会を支えるための募金です。パウロの他の手紙にもこの募金の話が出てきます。この手紙では8章から9章にわたって多くの言葉が費やされています。パウロは各地の教会に募金を勧め、それらを集め携えて自らエルサレムに行くつもりでした。それはある意味ではとても危険なことでもありました。エルサレムにはパウロを敵視しているユダヤ人たちがたくさんいたからです。(実際、パウロはエルサレムに上ったがために、そこで騒動に巻き込まれ、投獄されることになりました。)そのことを考えても、この募金についての相当な思い入れを感じます。

 どうしてこの募金を成し遂げることにそこまでこだわったのでしょうか。もちろん、貧しいエルサレムの信徒たちを助けたいという熱烈な思いはあったでしょう。しかし、それだけではありません。彼の内にはもう一つの大きな目的があったのです。それは主にユダヤ人から成るエルサレムの教会と主に異邦人から成る各地の教会を結びつけることでした。

 ご存じの通り、教会はエルサレムにおいてその産声を上げました。初期のキリスト者は全員ユダヤ人でした。ユダヤ人にはモーセの律法に基づいた独特のライフスタイルがあります。イエス・キリストを信じる者となった後も、彼らの意識においては決してユダヤ人であることをやめたわけではありませんでした。

 しかし、やがて福音はユダヤ人以外にも伝えられるようになりました。異邦人がイエス・キリストを信じるようになりました。パウロの宣教旅行においても、ユダヤ人が福音を拒否する一方で、異邦人たちが熱心に耳を傾け、主に異邦人から成る教会が各地に誕生することになりました。

 当然のことながら、異邦人たちのライフスタイルはユダヤ人のそれとは全く異なっています。当然のことながら、その違いは問題となりました。異邦人キリスト者にも割礼を受けさせ、律法を守らせるべきではないかとの議論が起こりました。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者との間に決裂の危機が訪れました。使徒言行録15章には、教会の歴史における最初の教会会議が行われた次第が記されています。そこで取り扱われたのはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の問題でした。そして、このユダヤ人・異邦人問題は後々まで尾を引くことになるのです。

 そこでパウロはどうしたか。エルサレムのユダヤ人キリスト者と各地の異邦人キリスト者の定期的な話し合いの場を継続的に計画したのではありません。そうではなくて、異邦人を主とする諸教会にエルサレムの貧しい信徒たちを支えるための募金を促したのです。当然のことながら、そこには相当な困難が予想されたはずです。しかし、そのような具体的なつながりこそが教会にとっては重要なことだったのです。

種蒔きとして考えなさい
 しかし、もう一方において、私たちはそのような具体的なアクションが必ずしも人と人、教会と教会を結びつけるものとはならないことも良く知っています。それは必ずしも募金でなくても言えるでしょう。与えること、そして受けること。必ずしもお金だけではありません。広い意味で、助けを与えること、助けを受けることを考えてもよいかと思います。そこで具体的なアクションが必ずしも人を結びつけるものとはならないことは確かにあるのです。

 その一番分かりやすいものは、今日の聖書箇所に出て来る「惜しんでわずかしか種を蒔かない」ということです。言い換えるならば、蒔くには蒔くのだけれど「惜しみながら」ということです。そして、さらには「不承不承」とか「強制されて」という言葉が出てきます。惜しみながら与えること。強制されて不承不承に助けること。仕方ないからということで、何かをしてあげること。そう、「何かをしてあげている」という意識で行うこと。それはどう考えても人と人とを結びつけない。むしろ引き離すものとなるのでしょう。それは私たちがしばしば経験しているとおりです。

 だからこそ、ここでパウロは種蒔きの話をしているのです。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。惜しみながら与えるのでなく、不承不承に与えるのでもなく、強制されて与えるのでもないようにするために、どうしても知らなくてはならないことだからです。これを種蒔きとして考えなさい、ということです。

神の祝福を分かち合う
 しかし、これは単純な話ではありません。注意が必要です。ですから多くの言葉が費やされているのです。これは一見、「情けは人のためならず」というのと同じことを言っているように見えるでしょう。与えることは、結局は巡り巡って自分に返ってくるのですよ。与えることは、結局は自分の利益になるのですよ。そう言っているように見えるのです。

 確かに、そう考えると《惜しまないで与えること》はできるようになるかもしれません。自分の利益になるのだと分かれば、不承不承でもなくなるかもしれません。しかし、何か変だと思いませんか。「これは結局のところ私の利益になるのだ」と考えながら与えることが、本当に人と人とを結びつけることになるでしょうか。ならないと思うのです。

 実は、パウロがここで言っているのは、「情けは人のためならず」ということではないのです。「惜しまず豊かに蒔く人」と書かれていますが、そこには「祝福に基づいて蒔く人」という表現が使われているのです。ただ「豊かに蒔く人」ではないのです。既に与えられている祝福がある。これから与えられる祝福がある。祝福してくださる神がおられる。だから神に感謝しながら、神を誉め讃えながら豊かに蒔く。そのような意味合いです。

 ですからその後に「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(8節)と書かれているのです。さらには「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(10節)と書かれているのです。そのように、満ちあふれさせることがおできになる神、与え、増やし、成長させてくださる神に思いを向けさせるのです。同じ豊かに蒔くにしても、ただ「これは自分の利益になるのだ」と思って蒔くのと、神の祝福を思って、神に感謝して、賛美して蒔くのとでは天と地ほどの開きがあるのです。

 もし神の祝福を思いながら、賛美しながら蒔くのなら、そのように神の祝福を分かち合うこととして与えるのならば、受ける方に期待するのは何ですか。わたしに対する「ありがとう」ではないでしょう。そうではなく、「一緒に感謝しましょう」「一緒に賛美しましょう」ということでしょう。11節に書かれているのはそういうことです。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します」(11節)。あくまでも重要なことは、そこで「神に対する感謝の念」が引き出されることなのです。

 そのように神の祝福を分かち合い、一緒に神に感謝し、神を賛美できるなら、そこで人と人とはつながるではないですか。そこで教会と教会とはつながるではないですか。そこに本当の意味で互いのための祈りが生まれるのではないですか。そのように考えると、この章のまとめとしてパウロが書いていることもよく分かります。13節からもう一度お読みします。

 「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(13‐15節)。

第一歩はこちらから
 さて、私たちにとってユダヤ人・異邦人問題は縁のない話かもしれません。しかし、一つになることが困難な関係は私たちの身近にいくらでもあります。現実に私たちが直面している様々な困難な関係を思う時、ここに書かれていることは決して簡単なことではないと思わざるを得ません。共に神をほめたたえ、神に感謝して一つとなるに至るまでには、時として長い道のりを経なくてはならないのでしょう。パウロ自身も経験したように、幾多の困難を乗り越えなくてはならないのでしょう。

 しかし、何事でも最初の一歩がなければ前には進まないのです。最初の一歩があれば一歩互いは近づくのです。そして、第一歩はこちら側から始まるのです。相手ではありません。あちらが変わったら、あちらが受け入れてくれたら、ではないのです。まずこちら側から始まるのです。

 その一歩とは何か。まず、私たち自身が神の祝福を信じることです。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。そのことを信じることです。そして、まず他の誰かがではなく、私たち自身が感謝と賛美をささげて生きることです。その感謝と賛美に満たされることによって、与える者へと変えられていくことです。

 私たちは祝祷を受けて新しい週へと歩み出します。神の祝福を信じて歩み出しましょう。やがてはいかなる関係においても、共に感謝と賛美を捧げて一つとなっていくことを信じて。

2014年9月21日日曜日

「わたしたちを救い出すために」

2014年9月21日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節


 今日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙の冒頭部分です。当時の手紙の典型的な様式に従って、まず差出人と受取人とが明記されています。差出人はパウロ、受取人はガラテヤ地方の諸教会の人々です。そして、他の手紙においてもパウロがしているように、続けて挨拶の言葉が添えられています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)。

 「恵みと平和があるように」。それは挨拶の決まり文句です。しかし、パウロはただ形式的にその言葉を用いているのではありません。ですから、言葉をさらに続けるのです。その恵みと平和を与えるために、イエス・キリストが何をしてくださったかを書いているのです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4節)。

 「恵みと平和があるように」。私たちもその言葉をここで耳にしています。その願いと祈りをもって書かれた言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと送り出されたいと思います。

この悪の世から救い出そうとして
 「恵みと平和があるように」。その「恵みと平和」は、「《わたしたちの父である神》と、主イエス・キリストの恵みと平和」と表現されています。その「恵みと平和」はわたしたちの父である神に由来します。これは神のご意志によるのです。私たちが願う前に、神が与えようと望んでくださいました。4節に書かれている、「わたしたちの神であり父である方の御心」とは、私たちの願いに先立つ神のご意志です。神が私たちの救いを願い、恵みと平和があるようにと願ってくださいました。

 その救いのご意志に従って、キリストが御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」ですから、そのようにして与えられる恵みと平和は、「わたしたちの父である神と、《主イエス・キリストの》恵みと平和」と呼ばれているのです。

 そこには「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と書かれています。「この悪の世」と言うのですが、この言葉で何を思い浮かべるでしょうか。新聞やテレビで報道される凶悪な犯罪でしょうか。道徳的に退廃した社会のありさまでしょうか。確かに犯罪のある世界は「この悪の世」の一面でしょう。この世の不道徳も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロはただそのような社会を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。

 彼が生まれ育ったのはユダヤ人の社会です。それは決して世俗的な退廃的な世界ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、いわば「清い社会」だったのです。そのような環境において彼は育ったのです。この手紙を受け取る人々にとってもそうです。彼らの内において力を持っていたのは律法を遵守すべきことを訴えていたユダヤ主義者です。ガラテヤの教会にはその影響を受けたキリスト者がたくさんいたのです。そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的な、敬虔な、まじめな、道徳的な、戒律遵守が求められる共同体にも、パウロは「この悪の世」の一面を見ていたのです。

 「この悪の世」というのは「悪い今の世」というのが直訳です。「今の世」という表現を使うのは、「来るべき世」のことを考えているからです。「来るべき世」は神の救いの到来した世界です。神の国です。それに対する「今の世」です。その「今の世」は悪い。どのような意味で「悪い」のでしょう。犯罪があるからでしょう。不道徳があるからでしょう。苦しみや悲しみがあるからでしょうか。どのような意味で「悪い」のでしょう。

 聖書は「今の世」を一つの物語をもって表現しています。良く知られているエデンの園の物語です。正確に言うならば、エデンの園を失った物語です。私たちはエデンの園にはいない。それが「今の世」です。どのようにエデンの園を失ったか、物語の筋はご存じでしょう。

 園の中央には「善悪の知識の木」がありました。それは神様がそこから取って食べるなと言われた木でした。しかし、人間はそこから取って食べました。そして、神が近づかれた時、人は神の顔を避けて園の木の間に隠れました。そこに見るのは関係の破れです。神と人との関係の破れ。もはやそこには平和に満ちた関係はありませんでした。

 さらに何が起こったでしょう。神様が男に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。その時、彼はこう答えたのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。そこに見るのは関係の破れです。人と人との関係の破れ。自分を正しい者として他者を責めるところに、もはや平和に満ちた関係はありませんでした。そのようにして、彼らはエデンの園を失いました。神と共に生き、人と共に生きる園を失いました。

 これが「今の世」です。このように神様と人との関係が破れてしまった世界。人と人との関係が破れてしまった世界。その痛みと苦しみとを背負っている世界。それが「今の世」です。実際そうでしょう。神様との関係が崩れた世界において、人間の歴史は戦争の歴史です。殺し合いの歴史です。国と国、民族と民族ではなくとも、身近に私たちは小さな戦争をいくらでも見て聞いて体験しているではありませんか。私たちは毎日どれだけの悪口を聞き、どれだけの中傷や争いを目にしていることでしょう。

 それはパウロが目にしてきた、敬虔な真面目な清い社会においても同じだったのです。むしろ正しさが求められる社会こそ、裁き合いの社会に他ならなかったのです。正しさの主張が声高に語られるところにおいてこそ、神と人との破れがあり、人と人との破れがある。そこにこそ人間の罪の最も恐ろしい姿があるのです。

与えられた恵みと平和
 しかし、イエス・キリストは、そのような「この悪の世」からわたしたちを救い出そうとして、御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と書かれているとおりです。

 「わたしたちの罪」というのは複数で書かれています。諸々の罪です。単に不道徳な行いだけではありません。私たちの敵意が、妬みが、憎しみが、悪口が、中傷が、怠慢やだらしない行為が、エゴイスティックな行為が、悪魔に誘惑されて行った諸々の行いが、さらには自分たちを絶対に正しいとする主張が、神との関係、人との関係を壊してきたのです。

 そのような私たちの諸々の罪のために、キリストは御自身を献げてくださいました。御自身を献げるということは、自ら苦しみを負うということを意味しました。私たちの諸々の罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死ぬことをさえ良しとして、自ら苦しみを負ってくださいました。そのようにして、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださったのです。それは御子の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 それは父なる神の「御心に従って」なされたことでした。私たちが願ったからではなく、神が望んでくださいました。私たちのために、御子が苦しむことを良しとしてくださいました。先に、御自身を献げるということは苦しみを負うということだと申しましたが、私たちはここに父なる神の御苦しみをも思います。そのようにして、私たちに御自身との平和を与えてくださいました。そのことがあるからこそ、その御方を「わたしたちの神であり父である方」と呼べるのです。それは神の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 そのように平和が打ち立てられたのは、私たちが罪を赦された者として生きるためです。赦された者として生きるということは、そのような者として互いに赦し合って生きるということです。それはしばしば苦しみを伴うのでしょう。苦しみを経なくては、人と人との和解も実現しないのでしょう。しかし、御子が御自身を献げてくださったことを思う時、神が苦しみを負って平和を与えてくださったことを思う時、私たちの間にも和解が起こります。人と人との間に平和が生み出されるのです。私たちは神との間に平和をいただき、人との間にも平和をいただくのです。

 神様はそのように、「この悪の世」から救い出して、新しい生活を与えてくださるのです。「来るべき世」に属する生活を与えてくださるのです。それは恵みです。本来、私たちが受けるに値しない恵みです。それはただ神がそうお望みくださり、キリストがその御心に従い、御自身を献げてくださったゆえに与えられた恵みです。神との間の平和は恵み。人と人との間の平和も恵みです。

 もちろん、恵みによる救いが完全に実現するのは「来るべき世」においてです。私たちが見ることのできるのは完全なるものではありません。「今の世」「この悪い世」は厳然として続いているのです。しかし、それでもなお「今の世」からの救いは既に始まっているのです。キリストは「この悪い世」から救い出すために、御自身を献げてくださいました。キリストによって既に始まっているのです。私たちはその救いを味わい始めているのです。それが信仰生活です。パウロも言っているではありませんか。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。そうです、私たちはそのような言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。私たちは信仰によって受け取るのです。恵みを受け取るのです。神との平和、人との平和を受け取るのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと踏み出しましょう。

2014年9月14日日曜日

「最もすぐれた道」

2014年9月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章31節~13章13節


できるようになりたい?
 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31後半)。そう書かれていました。別の訳では「最もすぐれた道」。今日の説教題ともなっています。しかし、そもそもパウロはどうして「最高の道」「最もすぐれた道」について語っているのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(同前半)。そのように、「最高の道」の話は、「賜物を受ける」という話に続いているのです。

 「賜物」という言葉は日常の言葉ではないので、これを「能力」あるいはその能力を用いた「働き」という言葉に置き換えると分かりやすいかもしれません。「賜物を受ける」とは、要するに「できるようになる」ということです。

 私たちは自分についても他人についても何かが「できる」か「できないか」を気にしながら生きています。どのような働きをしているかいないか、役に立っているかいないかが気になります。他の人ができることが自分にできなかったり、他の人が良い働きをしているのに自分が全く役に立っていなかったりすると、他人を羨んだり落ち込んだりすることもあるのでしょう。だから自分も「できるようになりたい」と思うのです。

 「できるようになりたい」と思うこと自体は悪いことではありません。より良い働きができるようになること、より大きな働きができるよういなることを求めること自体は悪いことではありません。ですからパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うのです。

 実際、コリントの教会の人たちはそのことに熱心でした。私たちが一般に言うところの能力や働きだけでなく、それこそ奇跡的な超自然的な能力や働きについても熱心に求めていたようです。そのような「パワー」を宗教に求める人は、今日も珍しくはないので、私たちにも分からなくはありません。

 そのような超自然的な能力や働きをも含めて、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言います。しかし、だからこそ彼は続けるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と。その「最高の道」「最もすぐれた道」とは何でしょう。その続きの朗読を先ほど聞いて、既にお気づきのことと思います。そこで繰り返されている言葉は何か。「愛」です。パウロはここで「愛」について語っているのです。「愛」こそが、その「最高の道」であり「最もすぐれた道」だと言うのです。

 いや、さらに言うならば、その「最高の道」を歩むのでないならば、どんな能力を得たとしても、どんな働きをしたとしても無益だとさえ言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどらややかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:1‐2)とはそういうことです。

 それだけではありません。その「最高の道」を歩むのでないならば、他の人のために何をしようとも、どんな大きな自己犠牲があっても無益だというのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)と彼は言うのです。

 実に激しい言葉です。一般論ではなく、「わたし」という言葉を用いて、パウロ自身の存在を指し示しながら語っているだけに、強烈に迫ってくる言葉です。どうして、パウロはコリントの人たちにここまで語らなくてはならなかったのでしょうか。それはコリントの人たちが、様々なことを「できるようになりたい」と願いながら、そして実際に有能な人や大きな働きをしている人が決して少なくはなかったにもかかわらず、もう一方においてお互いの間に分裂があり、仲たがいや争いが絶えなかったからです。まさに豊かな賜物をいただいていながら、バラバラだったからです。だからこそ、パウロは歩むべき「最高の道」について語るのです。愛について語るのです。

愛は忍耐強い
 しかし、そこで語られる「愛」とは、一般に通常考えられている「愛」とは恐らく異なるものです。愛は自然に生じる感情ではありません。「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。彼は言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4‐7)。

 この箇所を読みます時に思い出されるのは。カトリックの岡田武夫大司教が柏教会の神父であられた時に書いていたこんな文章です。「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひとつになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうのです。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません。」

 「罪」と聞くと「犯罪」という言葉を連想するかもしれません。あるいは「不道徳」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし、「犯罪」も「不道徳」も、人と人とを引き裂く罪の一つの側面に過ぎません。それはあくまでも一面なのであって、罪そのものはそう単純ではありません。なぜなら、「罪」は時として道徳的な顔をしたり、正義の仮面をかぶってやってくるからです。そして、互を引き離し、バラバラにし、しばしば正義の名のもとに殺し合うことさえさせるからです。

 先ほど引用した文章にあったように「ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません」。人間とではなく、罪と戦わなくてはなりません。バラバラにする力とたたかわなくてはなりません。どうしてこの文章を引用したか、もうお分かりでしょう。パウロが語る「愛」とは、まさにこの戦いに他ならないのです。バラバラにする力とのたたかいです。

 どのように戦うのですか。人間相手の戦いならば、武器を手にして戦えるでしょう。しかし、罪との戦いであるならそうはいきません。どのように戦うのですか。忍耐強くあることによってです。情け深くあることによってです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。実際、これは大きな戦いでしょう。

 何かができるようになること。確かに大事です。より良い働きをすること、より大きな務めを担えるようになること。確かに大事です。だからより大きな賜物を求めたらいい。能力を求めること、働きを求めることは悪いことではありません。しかし、バラバラにする力、分裂と争いをもたらす力と戦う人になることは、もっと大事なことなのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を歩もうとしないなら、与えられたどんなに大きな能力も、大きな働きも、無に等しいものとなってしまうのです。いや、罪の翻弄された能力や働きほど恐ろしいものはありません。

愛は決して滅びない
 とは言うものの、私たちはここで改めて考えざるを得ません。その道を歩むことはなんと困難なことでしょう。実際、これまでどれほどその戦いに苦戦してきたことでしょう。何度敗北を喫してきたことでしょう。

 私たちは現実に、自分の内にも、自分の周りにも、教会の中にも、この世界の至るところにおいても、罪の力がありとあらゆる形を取って猛威を振るっているのを目の当たりにしているのです。自分の心の内に働く罪の力にさえ苦戦を強いられているのに、いったいこの世界に働いている巨大な罪の力とどう戦ったらよいのでしょう。普通に考えたら、最後は罪の勝利に終わるのであって、世界は崩壊して終わりを迎えるとしか思えないのでしょう。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」とパウロは言いました。しかし、ただその「最高の道」を歩きなさいと言うだけならば、これほど過酷な勧めはありません。

 しかし、パウロはここで単にその「最高の道」を歩きなさいと勧めているのではないのです。実際、「~しなさい」という勧めや命令の表現は全く用いてはいないのです。「愛を追い求めなさい」という言葉は14章になって初めて出て来るのです。その前にパウロは何を語っていますか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」と書いていって、そしてこのように宣言しているのです。「愛は決して滅びない!」

 最後に勝つのは罪ではありません。愛が最後に勝つのです。愛が最後まで残るのです。愛という道を行く時、私たちは幾度となく困難を経験し、敗北の惨めさを味わうかもしれません。しかし、私たちがその道を行くことは決して無駄に終わらないのです。無に帰してしまうことはないのです。どんな大きな能力も働きもそれ自体は一時的なものです。しかし、愛は永遠です。なぜなら、愛は永遠なる神の本質だからです。ヨハネの手紙に「神は愛です」(1ヨハネ4:16)と表現されているとおりです。

 実際、愛なる神、神と人、人と人を引き離す罪の力とたたかわれる神は、御自身がそのような御方であることを私たちに現してくださいました。罪との戦いとしての「愛」を神はキリストにおいて現してくださったのです。「愛」が何であるかを神はキリストにおいて現してくださったのです。そして、その「愛」が永遠であることを、神はキリストの十字架と復活において現してくださったのです。

 そのキリストの中に、私たちは招き入れられ、キリストの体の部分とされているのです。この前の章にこう書かれているとおりです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)。私たちはキリストの体の部分として、ここに書かれている「最高の道」「最もすぐれた道」を歩んでいくのです。ならば、どんなに困難を極めていたとしても、今は度々敗北するようなことがあっても大丈夫なのです。キリストにおいて現された愛は決して滅びないからです。

 パウロが今日の箇所で語っているとおり、確かに私たちが見ているのは、不完全な途中の状態でしかありません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)と語られているとおりです。私たちが知るところは一部分に過ぎません。しかし、最終的には完成を見るのです。完全な愛を知ることになるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を共に進んでいきましょう。

2014年9月7日日曜日

「呼びかけ続ける神」

2014年9月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章1節~12節


祭司長、律法学者、長老たちに向けて
 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今日の福音書朗読において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは彼らに対して語られたのです。

 時はイエス様がエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、イエス様は捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。

 もちろん、イエス様はそのことをご存じです。既にエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられましたから。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日お読みしたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。

 そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることをはっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日朗読された箇所の結末です。

 彼らはこのたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは自分たちのことだと理解しました。イエスが自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らですから。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らですから。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。

 しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。

 確かに彼らは「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、イエス様はただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。イエス様は、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。

呼びかけ続ける神の話
 たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1‐3節)。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。

 そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たちに人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちはイスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。

 しかし、イエス様はこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4‐5節)。ここに語られているのはまことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。

 このたとえ話の後にイエス様はこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者をただちに滅ぼすことがおできになるのでしょう。

 しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。

 これはイスラエルの歴史において実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。あまりにも愚かです。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。イエス様はこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」――イエス様は、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。

捨てられた石が隅の親石となった
 もちろん、イエス様はそれでも彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。イエス様の話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7‐8節)。そうです、イエス様は分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。

 そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイエス様はなおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10‐11節)。

 「家を建てる者の捨てた石」とはイエス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となった、と。

 イエス様の言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに教会の親石となったのです。神はそのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。

以前の記事