日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節
今日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙の冒頭部分です。当時の手紙の典型的な様式に従って、まず差出人と受取人とが明記されています。差出人はパウロ、受取人はガラテヤ地方の諸教会の人々です。そして、他の手紙においてもパウロがしているように、続けて挨拶の言葉が添えられています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)。
「恵みと平和があるように」。それは挨拶の決まり文句です。しかし、パウロはただ形式的にその言葉を用いているのではありません。ですから、言葉をさらに続けるのです。その恵みと平和を与えるために、イエス・キリストが何をしてくださったかを書いているのです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4節)。
「恵みと平和があるように」。私たちもその言葉をここで耳にしています。その願いと祈りをもって書かれた言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと送り出されたいと思います。
この悪の世から救い出そうとして
「恵みと平和があるように」。その「恵みと平和」は、「《わたしたちの父である神》と、主イエス・キリストの恵みと平和」と表現されています。その「恵みと平和」はわたしたちの父である神に由来します。これは神のご意志によるのです。私たちが願う前に、神が与えようと望んでくださいました。4節に書かれている、「わたしたちの神であり父である方の御心」とは、私たちの願いに先立つ神のご意志です。神が私たちの救いを願い、恵みと平和があるようにと願ってくださいました。
その救いのご意志に従って、キリストが御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」ですから、そのようにして与えられる恵みと平和は、「わたしたちの父である神と、《主イエス・キリストの》恵みと平和」と呼ばれているのです。
そこには「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と書かれています。「この悪の世」と言うのですが、この言葉で何を思い浮かべるでしょうか。新聞やテレビで報道される凶悪な犯罪でしょうか。道徳的に退廃した社会のありさまでしょうか。確かに犯罪のある世界は「この悪の世」の一面でしょう。この世の不道徳も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロはただそのような社会を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。
彼が生まれ育ったのはユダヤ人の社会です。それは決して世俗的な退廃的な世界ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、いわば「清い社会」だったのです。そのような環境において彼は育ったのです。この手紙を受け取る人々にとってもそうです。彼らの内において力を持っていたのは律法を遵守すべきことを訴えていたユダヤ主義者です。ガラテヤの教会にはその影響を受けたキリスト者がたくさんいたのです。そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的な、敬虔な、まじめな、道徳的な、戒律遵守が求められる共同体にも、パウロは「この悪の世」の一面を見ていたのです。
「この悪の世」というのは「悪い今の世」というのが直訳です。「今の世」という表現を使うのは、「来るべき世」のことを考えているからです。「来るべき世」は神の救いの到来した世界です。神の国です。それに対する「今の世」です。その「今の世」は悪い。どのような意味で「悪い」のでしょう。犯罪があるからでしょう。不道徳があるからでしょう。苦しみや悲しみがあるからでしょうか。どのような意味で「悪い」のでしょう。
聖書は「今の世」を一つの物語をもって表現しています。良く知られているエデンの園の物語です。正確に言うならば、エデンの園を失った物語です。私たちはエデンの園にはいない。それが「今の世」です。どのようにエデンの園を失ったか、物語の筋はご存じでしょう。
園の中央には「善悪の知識の木」がありました。それは神様がそこから取って食べるなと言われた木でした。しかし、人間はそこから取って食べました。そして、神が近づかれた時、人は神の顔を避けて園の木の間に隠れました。そこに見るのは関係の破れです。神と人との関係の破れ。もはやそこには平和に満ちた関係はありませんでした。
さらに何が起こったでしょう。神様が男に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。その時、彼はこう答えたのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。そこに見るのは関係の破れです。人と人との関係の破れ。自分を正しい者として他者を責めるところに、もはや平和に満ちた関係はありませんでした。そのようにして、彼らはエデンの園を失いました。神と共に生き、人と共に生きる園を失いました。
これが「今の世」です。このように神様と人との関係が破れてしまった世界。人と人との関係が破れてしまった世界。その痛みと苦しみとを背負っている世界。それが「今の世」です。実際そうでしょう。神様との関係が崩れた世界において、人間の歴史は戦争の歴史です。殺し合いの歴史です。国と国、民族と民族ではなくとも、身近に私たちは小さな戦争をいくらでも見て聞いて体験しているではありませんか。私たちは毎日どれだけの悪口を聞き、どれだけの中傷や争いを目にしていることでしょう。
それはパウロが目にしてきた、敬虔な真面目な清い社会においても同じだったのです。むしろ正しさが求められる社会こそ、裁き合いの社会に他ならなかったのです。正しさの主張が声高に語られるところにおいてこそ、神と人との破れがあり、人と人との破れがある。そこにこそ人間の罪の最も恐ろしい姿があるのです。
与えられた恵みと平和
しかし、イエス・キリストは、そのような「この悪の世」からわたしたちを救い出そうとして、御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と書かれているとおりです。
「わたしたちの罪」というのは複数で書かれています。諸々の罪です。単に不道徳な行いだけではありません。私たちの敵意が、妬みが、憎しみが、悪口が、中傷が、怠慢やだらしない行為が、エゴイスティックな行為が、悪魔に誘惑されて行った諸々の行いが、さらには自分たちを絶対に正しいとする主張が、神との関係、人との関係を壊してきたのです。
そのような私たちの諸々の罪のために、キリストは御自身を献げてくださいました。御自身を献げるということは、自ら苦しみを負うということを意味しました。私たちの諸々の罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死ぬことをさえ良しとして、自ら苦しみを負ってくださいました。そのようにして、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださったのです。それは御子の苦しみによって打ち立てられた平和です。
それは父なる神の「御心に従って」なされたことでした。私たちが願ったからではなく、神が望んでくださいました。私たちのために、御子が苦しむことを良しとしてくださいました。先に、御自身を献げるということは苦しみを負うということだと申しましたが、私たちはここに父なる神の御苦しみをも思います。そのようにして、私たちに御自身との平和を与えてくださいました。そのことがあるからこそ、その御方を「わたしたちの神であり父である方」と呼べるのです。それは神の苦しみによって打ち立てられた平和です。
そのように平和が打ち立てられたのは、私たちが罪を赦された者として生きるためです。赦された者として生きるということは、そのような者として互いに赦し合って生きるということです。それはしばしば苦しみを伴うのでしょう。苦しみを経なくては、人と人との和解も実現しないのでしょう。しかし、御子が御自身を献げてくださったことを思う時、神が苦しみを負って平和を与えてくださったことを思う時、私たちの間にも和解が起こります。人と人との間に平和が生み出されるのです。私たちは神との間に平和をいただき、人との間にも平和をいただくのです。
神様はそのように、「この悪の世」から救い出して、新しい生活を与えてくださるのです。「来るべき世」に属する生活を与えてくださるのです。それは恵みです。本来、私たちが受けるに値しない恵みです。それはただ神がそうお望みくださり、キリストがその御心に従い、御自身を献げてくださったゆえに与えられた恵みです。神との間の平和は恵み。人と人との間の平和も恵みです。
もちろん、恵みによる救いが完全に実現するのは「来るべき世」においてです。私たちが見ることのできるのは完全なるものではありません。「今の世」「この悪い世」は厳然として続いているのです。しかし、それでもなお「今の世」からの救いは既に始まっているのです。キリストは「この悪い世」から救い出すために、御自身を献げてくださいました。キリストによって既に始まっているのです。私たちはその救いを味わい始めているのです。それが信仰生活です。パウロも言っているではありませんか。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。そうです、私たちはそのような言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。私たちは信仰によって受け取るのです。恵みを受け取るのです。神との平和、人との平和を受け取るのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと踏み出しましょう。