2014年8月17日日曜日

「神の子供たちであるということ」

2014年8月17日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章42節~50節

    ヘブライ人への手紙 12章3節~13節

命にあずかる方がよい
 今日の福音書朗読にはたいへん恐ろしいことが書かれていました。

 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(マルコ9:43‐47)。

 イエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」という言葉を使っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。

 しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、ともあれ私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。私たちはこの世の悲惨を見て、あるいは私たち自身の人生を見て、「まるで地獄だ」と言うかもしれません。しかし、これは地獄ではないのです。神から見捨てられた世界ではありません。神から見捨てられた人生でもありません。

 それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えています。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられます。そうです、そのような救いの約束のもとにある世界であり、救いの約束のもとにある人生なのです。

 私たちが聞いているのは、そのような救いの約束を与えられている私たちに対する言葉です。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。

 この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、リストにとって決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。

 先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いの現れなのです。そうです、それこそがキリストを世に遣わされた神の願いでもあるのです。

 そのようにキリストが、そして神が、そのように願っていてくださる。考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったに違いありません。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。

 いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともあるのでしょう。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことはあるのでしょう。その意味において私たちは苦しみを避け得ない。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。その神の強烈な願いのもとにあるのです。

父の訓練
 そのような神の思いは、本日の第二朗読で読まれたヘブライ人への手紙においては「父の訓練」という言葉で表現されています。

 この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)

 これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉だったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。実際、親から虐待を受けて育った人にとっては、ここに書かれている言葉はまことにいたたまれない言葉だとも思います。

 しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべるべきではありません。私たちはこの聖書の言葉に、今日の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っている人なのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような強烈な神の願いを知っている人が引用して書いているのです。

 ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が最後までそうなさったように。

 天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。

 そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。

 それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を表します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。

 実際に様々な苦しみを通して絡みついて離れることなかった罪から解放されるということを私たちの多くは身をもって知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。

 大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。

2014年8月10日日曜日

「卑下することなく高ぶることなく」

2014年8月10日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14節~27節


あなたがたはキリストの体
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。パウロはこのように教会について語ります。当時のギリシア哲学の世界において個と全体の関係を「からだ」に喩えることは、は珍しいことではありませんでした。しかし、パウロはものの喩えとして「教会はからだのようなものだ」と言っているのではありません。教会は「キリストの体」であると言っているのです。

 これを書いているパウロはもともと教会の迫害者でした。その彼がキリスト者となった次第は使徒言行録9章に記されています。迫害の手を伸ばすためにダマスコへと向う途中、彼は天からの光に照らされ、地に打ち倒され、そこで天からの声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。

 パウロが迫害していたのは教会でした。捕らえて投獄していたのは個々のキリスト者でした。しかし、キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。私たちの手足の指を考えてみてください。指先が痛めばわたしが痛みます。この指の一本を誰かが切り取ろうとするならば、「わたし」が必死で抵抗するでしょう。一本の指先であっても、それは「わたし自身」なのです。

 教会がキリストの体であるとはそういうことです。その指が迫害されるならば、「なぜ、わたしを迫害するのか」と主は言われるのです。そのように各部分がキリストと分かちがたく結ばれている。そのようにキリストが自分自身として見ていてくださる。神はそのように私たちとキリストとを結び合わせてくださいました。このようなキリストと各部分との関係を念頭に置いてこそ、また各部分お互いの関係を考えることができるのです。まずお互いの関係が先にあるのではありません。それが分からないと、今日の聖書箇所に書かれているような問題が起こります。お互いの間における卑下と高ぶりの問題です。

わたしは要らない
 パウロは自らを卑下している人たちに問いかけます。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15‐16節)。

 今お読みしているのはコリントの教会に宛てた手紙です。コリントは当時有数の大都市でした。そのような大都市の教会として、コリントの教会は急速に大きくなっていったのです。この手紙の冒頭で、パウロはこう言っています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(1:5)。そこには多くの優れた伝道者や教師たちがいたようです。商業的中心地であるだけでなく、文化的な中心であるその都市においても豊かな知識をもって人々に語りかける力を持っていたのです。

 それだけではありません。そこには神の霊の著しい働きが見られました。その教会は、聖霊の賜物においても豊かな教会でした。12章8節以下には、賜物のリストが挙げられています。そこには奇跡を行う人、癒しを行う人、預言をする人などがいたのです。使徒言行録に描かれているような、奇跡や癒しの業が当たり前のように起こっていた教会だったと思われます。

 しかし、ここで想像してみていただきたいのですが、そのように非常に著しい働きをする人々がたくさん存在するような教会において、しかも急速に成長している教会において、どのようなことが起こってくるでしょう。もう一方において、自分は教会に存在する意味はないのではないかと思う人たちもいたであろうことは容易に想像できるのではないでしょうか。

 物事が進展していくときに、自分が何も貢献していないように思える時、自分はいてもいなくても同じだと感じてしまう。特に、様々な弱さを抱えているゆえに自分には何もできないと思える時、キリストの体に「わたしは要らない」と思わずにはいられない。「わたしは手ではないから、体の一部ではない」とは、そういう声です。「手のような働きができないわたしは体の一部などではない」と言っているのです。

 しかし、パウロは言うのです。「あなたがそう言ったところで、体の一部でなくなるわけじゃないでしょう」と。そうです。私たちがどう思うかが先にあるのではなく、キリストの体の部分とされているという事実が先にあるのです。

 私たちはただ恵みにより信仰によって救われたのです。私たちは恵みによって神に受け入れられたのです。恵みによってキリストに結ばれたのです。神の恵みによってキリストの体の部分とされたのです。「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)と書かれている通りです。私たちがキリストの体の部分に《なった》のではないのです。私たちがどう思おうが、どう感じようが、神が望まれたゆえに、私たちは神によってキリストの体の一部として「置かれた」のです。

お前は要らない
 さて、もう一方において人間の高ぶりというのは卑下の裏返しです。卑下する人は、自分が認められれば今度は高ぶります。高ぶっている人は、誇れるものがなくなれば、とたんに卑下して、わたしなどいないほうが良い、と言い始めます。「わたしはいらない。わたしは体の一部ではない」という声が聞こえるところでは、必ずもう一つの声が響いているものです。「あなたなどいない方がよい」と。それゆえにパウロはさらにこう続けるのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)。

 それはなぜか。要るかいらないかは私たちが決めることではないからです。先に見たように、神は「ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」のです。強い部分であろうが、弱い部分であろうが、神が望みのままに置かれたのです。それゆえに、パウロはさらに言っているのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)。


 ここで「ほかより弱く見える部分」とは、ただ肉体的な弱さやハンディキャップだけを意味するのではありません。私たちの抱えている弱さはそれこそ多種多様です。この言葉は「信仰の弱さ」をさえ意味するのです。この手紙の8章においては、信仰的に未成熟な人、まだ異教的な部分を引きずっている人などについて語られていますが、そのような人たちが「弱い人々」と呼ばれているのです。さらに言うならば、これまで自分の強さで困難を乗り切ってきたゆえに他の人の弱さをなかなか受け入れることができないという《弱さ》を抱えている人もいるでしょう。

 そのように弱さは多様です。ある意味では、誰もが欠けた部分を持っている。その意味では誰でも「ほかより弱く見える部分」であり得るとさえ言えるでしょう。そのような弱い部分はないに越したことはないと私たちは通常考えているのでしょう。しかし、聖書は言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

 いやそれだけではありません。24節にはこう書かれています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」要するに、人間の目には「見劣りのする部分」としか見ないかもしれないのだけれど、実はそこに神様が特別になさっていることがあるのだ、と言っているのです。神様が特別に目をかけ「引き立たせて」おられる。神様が特別に与えている美しいものがあるのです。弱さの中においてこそ神様がなさっていることがあるのです。ならば、そこにこそお互い目を向けるべきなのでしょう。

 そのように、神様は教会の中に「ほかよりも弱く見える部分」を残され、その部分に神様御自身が特別な美しさを与えられます。それは何のためでしょうか。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と書かれています。別の訳ではこうなっています。「それは、体の中に分裂がなく、互いにいたわり合うためなのである」(口語訳)。

 「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言えなくなる時に、私たちは分裂へと向かっているのです。弱く見える部分を神が引き立たせておられることに目を向けなくなる時、そこに神の与えている美しいものがあることに目を向けなくなる時、私たちは分裂へと向かっているのです。神のなさっていることではなく、お互いの弱さにしか目を向けなくなるなら、必ずお互いに「お前はいらない」「お前たちはいらない」と言い始めるからです。


 神様は恵みによって私たちをキリストの体の部分としてくださいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」。キリストは御自身と私たちが強かろうが弱かろうが、御自分と同一視するほどに重んじて見ていてくださいます。その恵みの事実がまず先にあるのです。そこで神様が私たちに望んでおられるのは「わたしは要らない」と言うのでもなく、「お前たちは要らない」と言うのでもなく、卑下することなく高ぶることなく、弱さのあるところにおいてこそ「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と言えるキリストの体を形づくっていくことなのです。

2014年8月3日日曜日

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」

2014年8月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節


 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)。これが今日私たちに与えられている神の言葉です。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。そのように書かれているのは、神からいただいた恵みを無駄にしてしまうことがあり得るからでしょう。

 そうならないために二つの大事なことがあります。一つは、《どのような恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。もう一つは《どのように恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。その《どのような》については、今日お読みした箇所の前に書かれているので、そこを見ておく必要があります。《どのように》については、今日の聖書箇所に書かれていました。私たちが神からいただいた恵みを無駄にしてしまわないために、《どのような》そして《どのように》という二つの面から、神からいただいた恵みに目を向けましょう。

どのような恵みをいただいたか
 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。「神からいただいた恵み」とは何か。パウロはどのような恵みについて語っているのか。今日の聖書箇所の直前に書かれているパウロの言葉を読みますと、何度も繰り返されている言葉があることに気づきます。「和解」です。そこに書かれているのは神と人間との「和解」の話です。

 「和解」とは関係の回復です。「和解」が話題になるということは、もともと関係が悪かったということです。そのことをドラマチックに伝えている物語があります。有名なエデンの園の物語です。アダムとエバが、神が食べるなと言われた木から取って食べたという話です。

 その物語が語っている内容は極めてシンプルです。私たち人間は神様が望まないことをしているといことです。神様が「ノー」と言われることを行っているということです。その結果どうなったか。神様が近づかれた時、アダムとエバは神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれているのです。そこに描かれているのは大昔の話ではありません。「アダム」という名はもともと「人」という意味ですから、これは人間ならば誰でも思い当たる話です。

 人に対してならいくらでもごまかしは利くものです。しかし、神に対してはごまかしが利きません。神の前においては全てが明らかです。神がまことの神ならば、その前で顔を上げることのできる者は、本当は一人もいないのでしょう。エデンの園の物語は確かに私たちの物語です。

 しかし、そのような私たちをなおも神は愛してくださいました。関係を壊したのは私たちの方であるのに、神はその関係を回復しようとしてくださったのです。神の方から和解の手を伸ばしてくださったのです。5章18節以下には次のように書かれていました。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(5:18‐19)。

 「人々の罪の責任を問うことなく」。――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が言われるのです。「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしば互いに罪過を数え立てているのでしょう。一つ一つを問題にし、その一つ一つについて償いを求め、あるいは心の中の記録にしっかりと記帳するのでしょう。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神は罪の記録をあえて破棄されるのです。もはや数え立てることはないと言われるのです。

 神は私たちの罪過を数え立てることなく、一方的に和解の手を伸ばしてくださいました。イエス・キリストをこの世に遣わされたとはそういうことです。神に背いたこの世界に、神に顔向けできないこの世界に、神はキリストを遣わされ、御自身の愛を示されたのです。最終的には十字架において、キリストを罪の贖いの犠牲とすることによって、この世を愛する愛を完全に現されたのです。イエス・キリストという御方は、まさにこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手に他なりませんでした。

 そのようにして、私たちは神と和解させていただいたのです。神によって罪を赦され、神に顔を上げ、神に祈り、神を礼拝して生きる者としていただいたのです。そのように神と共に生きる生活を与えられたのです。5章21節にはこう書かれています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。そうです、キリストが罪とされたために、もともとどう考えても義しくない私たちが、義ではない者が、義としていただいたのです。

 これこそまさに神の恵みです。神からいただいた恵みです。私たちは《どのような恵みをいただいたか》を忘れてはなりません。

どのように恵みをいただいたか
 そして、私たちは《どのように恵みをいただいたか》をも思い起こさねばなりません。

 先ほど、キリストはこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手であると申しました。しかし、コリントの教会の人たちのほとんど全ては、直接イエス・キリストを見たことはなかったに違いありません。そのような彼らが、神と和解させていただき、神と共に生きるようになったのはどうしてか。キリストのことを伝えてくれた人たちがいたからです。彼らの場合、パウロたちが「和解の言葉」を伝えてくれたからです。パウロたちが彼らに言ってくれたのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)と。それは私たちにしても同じでしょう。どのように恵みをいただいたか。誰かが私たちにキリストを伝え、和解の言葉を伝えてくれることによってです。

 今日お読みしたところには、そのように「和解の言葉」を伝えたパウロたち自身のことが書かれています。ここを一回読んだだけでも、パウロたちがどれほどの労苦をもってコリントの人々や他の地域の人々に「和解の言葉」を伝えていたかがわかります。

 パウロは言います。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(3‐4節)。パウロにとって大事だったのは、「和解の言葉」を伝えるという奉仕の務めそのものが非難されないことだったのです。彼自身が非難されることはいくらでもあったに違いありません。実際、そこには「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」など、彼が経験してきた状況が並べられています。それらはパウロ自身に対する非難や誤解、敵意や反感によってもたらされたものでしょう。

 さらには8節以下を見ると、彼が「栄誉を受けるとき」だけでなく「辱めを受けるとき」があったことがわかります。「好評を博するとき」だけでなく「悪評を浴びるとき」があるのです。そのような中にあっても、神の僕としての実を示してきた。なんのためですか。奉仕の務めが非難されないためです。つまずきとならないためです。それはただ一重にキリストを伝え、「和解の言葉」を伝えるために他ならないのです。

 そのようにして、和解の言葉は伝えられたのです。そのようにして、コリントの人たちは神の恵みをいただいたのです。それは私たちも同じです。ここに教会があるのはどうしてですか。私たちの信仰の先輩たちが伝道を続けてきたからです。和解の言葉を伝え続けてきたからです。さらには遠くカナダから故郷での生活を捨てて未知の国日本にまで来てくれた人たちがいたからです。多くの労苦や誤解や中傷を受ける中にあっても、神の僕としての実を示して仕えて来られた多くの人たちがいたからです。そのようにして私たちもまた神の恵みをいただいたのです。

無駄にしてはいけません
 そのように、私たちもまた《どのような恵みをいただいたか》そして、《どのように恵みをいただいたか》を思い起こしたいと思うのです。その上で、今日の御言葉をもう一度しっかりと受け止めたいと思うのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。ならば、その意味するところは明らかででしょう。

 私たちは、ただ神の一方的な恵みによって和解させていただいたのです。本来なら園の木の間に身を隠さざるを得ないような私たちが、罪を赦された者として、安心して神に祈り、神を礼拝して生きることができるのです。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。私たちは神と共に生きるのです。この世界がどう変わろうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、信仰を放棄してはなりません。神と共に生きるのです。その意味において、神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 しかし、それだけではありません。神からいただいた恵みは、実際には「和解の言葉」を託された人たちの愛と労苦によって私たちに伝えられたものでした。そのようにして、神と和解させていただいた私たちが、今度は「和解の言葉」を託されているのです。パウロたちが自分たちの労苦を語るのは、ただ同情を求めてのことではありませんでした。そうではなくて、彼らとの関係を確かなものとして、コリントの人たちと共に教会を建て上げたかったからでしょう。そして、共に労苦し、共に神の僕として生き、共に「和解の言葉」を伝えていきたかったからでしょう。求められていることは私たちにおいても同じです。その意味においても私たちは聖書の言葉を聞かなくてはなりません。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

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