日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章12節~24節
悲しみは喜びに変わる
今日の福音書朗読も先週に引き続き最後の晩餐の場面です。イエス様は弟子たちに言われました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。この言葉を耳にした弟子たちの間でざわめきが起こります。ある者たちは互いに言いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」(17節)。
イエス様が彼らを置いて遠くに行ってしまう。そんな予感が彼らの心に広がっていました。他の福音書を読みますと、主は既にあからさまに御自分の受難について語っておられました。誰も信じたくなかったに違いない。しかし、確かに危険が迫っていることは弟子たちも感じていたのです。本当に主は死んでしまうのか。では「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とはどういう意味か。不安と混乱がさらに広がります。イエス様はそんな彼らがその意味を尋ねたがっていることを知っていました。そこで主は彼らにはっきりと言われたのです。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20節)。
「悲嘆に暮れる」。その言葉が何を意味するかは弟子たちにも明らかでした。これは誰かが死んだ時に嘆き悲しむことを意味する言葉です。イエス様は御自分が殺されることになることを、ここでもはっきりと語っておられるのです。イエス様が死んでしまって、弟子たちは嘆き悲しむことになるだろう、と。
しかし、主はさらにこう続けるのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。そして、悲しみが喜びに変わる様を出産に喩えてこう言われました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21節)。彼らが悲しむとしても、それは産みの苦しみと同じだというのです。産みの苦しみの先には喜びがある。同じように、弟子たちの悲しみの先にも喜びがある。いや、その悲しみがあるからこそ、その先に大きな喜びもあるのです。
そのように、産みの苦しみについて語られた上で、主は言われます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(22節)。福音書はこのイエス様の言葉が実現したことを伝えています。この直後にイエス様は捕らえられることになります。裁きにかけられます。鞭で打たれ、十字架にかけられます。主は十字架の上で息絶えてしまいました。弟子たちは深い悲しみに沈みます。しかし、それから三日目、週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっていたところに復活された主が現れます。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:20)と福音書は伝えます。主が言われたとおりになりました。
しかし、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」という先の言葉は、次のように続きます。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。となりますと、それは単に再会の喜びと考えることはできません。復活されたイエス様は、その後、天に帰られるのです。弟子たちはこの世に残ります。しかも、そこで起こってくるのは迫害です。イエス様が予告されたとおりです。彼らの大部分は殉教の死を遂げることになるのでしょう。それでも奪われない喜びについて語られたのです。永遠の喜びです。単なる再会の喜びではありません。では何なのか。そこで私たちはもう一度、先ほど読みました「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という主の言葉について考えてみたいと思うのです。
再会の喜びではなく
「あなたがたは悲しむ」と主は言われました。その悲しみは、先に述べましたように、イエス様が死んでしまうことによる悲しみです。イエス様を失う悲しみ、喪失の悲しみです。それはただ愛する人を失ったというだけではありません。イエス様こそ彼らの拠り所であり、彼らの未来であり、希望だったのです。あの弟子たちはイエス様と一緒に旅をしていた時、いつだって「誰が一番偉いか」と言って争っていた人たちです。しかし、イエス様が死んだ時、もはやそこには「誰が一番偉いか」と言って争う人はいなかったでしょう。当然です。そもそもこの世に生きることの意味そのものを失ってしまったのですから。イエス様が死んだ時、ある意味では彼らもまた死んだのです。残っているのは屍です。生ける屍として余生を送るしかないのです。
いやそれだけではありません。すべてを失って生ける屍になっただけならまだよいのです。彼らにはとてつもなく重い罪責が残ったのです。彼らはイエス様を見捨てて逃げていくことになるのです。彼らが見捨てたイエス様が十字架にかけられて死んでいくことになるのです。彼らはイエス様を見捨てた人間として生きていかなくてはならないのです。イエス様を否んだ人間として生きていかなくてはならないのです。
彼らはすべてを失うだけでなく、自分の罪を知った人として生きていくことになる。イエス様は分かっているのです。そのイエス様が言われたのです。「あなたがたは悲しむことになる」と。ですから、その悲しみとは単に喪失の悲しみではありません。そうではなくて、この自分という存在を悲しむ悲しみです。人間の負う最も深い悲しみです。
しかし、その悲しみが喜びに変わると主は言われたのです。単なる再会によって、彼らの悲しみは喜びに変わると思いますか。ならないでしょう。皆さんだったらどうですか。自分が裏切って、見捨てて、否んで、見殺しにしてしまった人と、仮に再会できたとして、その再会は喜びになりますか。悲しみが喜びに変わりますか。なるはずがないでしょう。
イエス様の復活は、弟子たちにとって単なる再会以上の出来事だったのです。それは何か。それは弟子たちにとって「赦し」だったのです。神の赦しそのものだったのです。あの日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちに復活されたイエス様は現れて、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」(20:19)。断罪されて呪われても仕方ない彼らに対して、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。一言も責めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。
イエス様は彼らにその手とわき腹をお見せになりました。手には釘の跡、わき腹には槍の跡がありました。それは確かに十字架にかけられたイエス様でした。私たちの罪のために死なれたイエス様でした。私たちの罪が赦されるために、代わりに死んでくださったイエス様でした。命を捨てるほどに愛してくださったイエス様でした。その御方が復活されたのです。弟子たちが喜んだのは、単に再会できたからではありません。そこに神の赦しがあったからです。だから悲しみは喜びに変わるのです。どんなに重い罪を負った悲しみであっても、喜びに変わるのです。
わたしの名によって願いなさい
それは赦された人としてイエス様と共にある喜びです。赦された人として神と共にある喜びです。もう下を向いていなくてよいのです。顔を伏せていなくてよいのです。あのアダムとエヴァがしたように、園の木の間にかくれていなくてよいのです。顔を背けている必要はないのです。顔を上げることができる。イエス様がまっすぐに父なる神を見上げ、信頼の交わりに生きられたように、その交わりの中に私たちも身を置いて生きることができるのです。
そのように神との交わりから来る喜びを、何ものも奪うことはできません。なぜなら誰も神を奪うことはできないからです。神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。主は言われました。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。最終的には「死」さえも、その喜びを奪うことはできない。死によって神から引き離されることはないからです。
そのように、イエス様が言っておられる喜びは神と共にある喜びです。ですから、主は続けて祈りについて話をされるのです。主は言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23‐24節)。
神様と共にある喜びをこの世において味わい知る具体的な場面は祈りの時です。御子なるイエス様がそのお働きをした時のように、父に願い、そして父が答えてくださって、神様の栄光が現れる。その喜びを私たちもまた味わうことができるのです。
それはひとえに十字架にかかってくださったイエス様がよみがえられたからです。私たちが祈ることができるとするならば、それは十字架にかかられたイエス様の御名が与えられているからです。イエス様が「わたしの名によって願いなさい」と言ってくださったからです。
イエス様の御名によって祈る祈りにおいて、私たちは喜びで満たされます。この世から得た喜びは人によって奪われるかもしれませんが、イエス様が与えてくださった喜び、神と共にある喜び、この世においては祈ることによって与えられる喜びが奪われることはありません。なぜなら人は全ての自由を奪われても、祈ることはできるからです。
そして、その喜びは永遠です。死を越えた喜びです。やがて永遠の御国において、その全てを味わうことになるでしょう。その時、主が言われたことを本当の意味で理解することになるのでしょう。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と主が言われたその意味を。