2014年5月25日日曜日

「奪い去られることのない喜び」

2014年5月25日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章12節~24節


悲しみは喜びに変わる
 今日の福音書朗読も先週に引き続き最後の晩餐の場面です。イエス様は弟子たちに言われました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。この言葉を耳にした弟子たちの間でざわめきが起こります。ある者たちは互いに言いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」(17節)。

 イエス様が彼らを置いて遠くに行ってしまう。そんな予感が彼らの心に広がっていました。他の福音書を読みますと、主は既にあからさまに御自分の受難について語っておられました。誰も信じたくなかったに違いない。しかし、確かに危険が迫っていることは弟子たちも感じていたのです。本当に主は死んでしまうのか。では「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とはどういう意味か。不安と混乱がさらに広がります。イエス様はそんな彼らがその意味を尋ねたがっていることを知っていました。そこで主は彼らにはっきりと言われたのです。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20節)。

 「悲嘆に暮れる」。その言葉が何を意味するかは弟子たちにも明らかでした。これは誰かが死んだ時に嘆き悲しむことを意味する言葉です。イエス様は御自分が殺されることになることを、ここでもはっきりと語っておられるのです。イエス様が死んでしまって、弟子たちは嘆き悲しむことになるだろう、と。

 しかし、主はさらにこう続けるのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。そして、悲しみが喜びに変わる様を出産に喩えてこう言われました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21節)。彼らが悲しむとしても、それは産みの苦しみと同じだというのです。産みの苦しみの先には喜びがある。同じように、弟子たちの悲しみの先にも喜びがある。いや、その悲しみがあるからこそ、その先に大きな喜びもあるのです。

 そのように、産みの苦しみについて語られた上で、主は言われます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(22節)。福音書はこのイエス様の言葉が実現したことを伝えています。この直後にイエス様は捕らえられることになります。裁きにかけられます。鞭で打たれ、十字架にかけられます。主は十字架の上で息絶えてしまいました。弟子たちは深い悲しみに沈みます。しかし、それから三日目、週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっていたところに復活された主が現れます。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:20)と福音書は伝えます。主が言われたとおりになりました。

 しかし、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」という先の言葉は、次のように続きます。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。となりますと、それは単に再会の喜びと考えることはできません。復活されたイエス様は、その後、天に帰られるのです。弟子たちはこの世に残ります。しかも、そこで起こってくるのは迫害です。イエス様が予告されたとおりです。彼らの大部分は殉教の死を遂げることになるのでしょう。それでも奪われない喜びについて語られたのです。永遠の喜びです。単なる再会の喜びではありません。では何なのか。そこで私たちはもう一度、先ほど読みました「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という主の言葉について考えてみたいと思うのです。

再会の喜びではなく
 「あなたがたは悲しむ」と主は言われました。その悲しみは、先に述べましたように、イエス様が死んでしまうことによる悲しみです。イエス様を失う悲しみ、喪失の悲しみです。それはただ愛する人を失ったというだけではありません。イエス様こそ彼らの拠り所であり、彼らの未来であり、希望だったのです。あの弟子たちはイエス様と一緒に旅をしていた時、いつだって「誰が一番偉いか」と言って争っていた人たちです。しかし、イエス様が死んだ時、もはやそこには「誰が一番偉いか」と言って争う人はいなかったでしょう。当然です。そもそもこの世に生きることの意味そのものを失ってしまったのですから。イエス様が死んだ時、ある意味では彼らもまた死んだのです。残っているのは屍です。生ける屍として余生を送るしかないのです。

 いやそれだけではありません。すべてを失って生ける屍になっただけならまだよいのです。彼らにはとてつもなく重い罪責が残ったのです。彼らはイエス様を見捨てて逃げていくことになるのです。彼らが見捨てたイエス様が十字架にかけられて死んでいくことになるのです。彼らはイエス様を見捨てた人間として生きていかなくてはならないのです。イエス様を否んだ人間として生きていかなくてはならないのです。

 彼らはすべてを失うだけでなく、自分の罪を知った人として生きていくことになる。イエス様は分かっているのです。そのイエス様が言われたのです。「あなたがたは悲しむことになる」と。ですから、その悲しみとは単に喪失の悲しみではありません。そうではなくて、この自分という存在を悲しむ悲しみです。人間の負う最も深い悲しみです。

 しかし、その悲しみが喜びに変わると主は言われたのです。単なる再会によって、彼らの悲しみは喜びに変わると思いますか。ならないでしょう。皆さんだったらどうですか。自分が裏切って、見捨てて、否んで、見殺しにしてしまった人と、仮に再会できたとして、その再会は喜びになりますか。悲しみが喜びに変わりますか。なるはずがないでしょう。

 イエス様の復活は、弟子たちにとって単なる再会以上の出来事だったのです。それは何か。それは弟子たちにとって「赦し」だったのです。神の赦しそのものだったのです。あの日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちに復活されたイエス様は現れて、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」(20:19)。断罪されて呪われても仕方ない彼らに対して、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。一言も責めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。

 イエス様は彼らにその手とわき腹をお見せになりました。手には釘の跡、わき腹には槍の跡がありました。それは確かに十字架にかけられたイエス様でした。私たちの罪のために死なれたイエス様でした。私たちの罪が赦されるために、代わりに死んでくださったイエス様でした。命を捨てるほどに愛してくださったイエス様でした。その御方が復活されたのです。弟子たちが喜んだのは、単に再会できたからではありません。そこに神の赦しがあったからです。だから悲しみは喜びに変わるのです。どんなに重い罪を負った悲しみであっても、喜びに変わるのです。

わたしの名によって願いなさい
 それは赦された人としてイエス様と共にある喜びです。赦された人として神と共にある喜びです。もう下を向いていなくてよいのです。顔を伏せていなくてよいのです。あのアダムとエヴァがしたように、園の木の間にかくれていなくてよいのです。顔を背けている必要はないのです。顔を上げることができる。イエス様がまっすぐに父なる神を見上げ、信頼の交わりに生きられたように、その交わりの中に私たちも身を置いて生きることができるのです。

 そのように神との交わりから来る喜びを、何ものも奪うことはできません。なぜなら誰も神を奪うことはできないからです。神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。主は言われました。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。最終的には「死」さえも、その喜びを奪うことはできない。死によって神から引き離されることはないからです。

 そのように、イエス様が言っておられる喜びは神と共にある喜びです。ですから、主は続けて祈りについて話をされるのです。主は言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23‐24節)。

 神様と共にある喜びをこの世において味わい知る具体的な場面は祈りの時です。御子なるイエス様がそのお働きをした時のように、父に願い、そして父が答えてくださって、神様の栄光が現れる。その喜びを私たちもまた味わうことができるのです。

 それはひとえに十字架にかかってくださったイエス様がよみがえられたからです。私たちが祈ることができるとするならば、それは十字架にかかられたイエス様の御名が与えられているからです。イエス様が「わたしの名によって願いなさい」と言ってくださったからです。

 イエス様の御名によって祈る祈りにおいて、私たちは喜びで満たされます。この世から得た喜びは人によって奪われるかもしれませんが、イエス様が与えてくださった喜び、神と共にある喜び、この世においては祈ることによって与えられる喜びが奪われることはありません。なぜなら人は全ての自由を奪われても、祈ることはできるからです。

 そして、その喜びは永遠です。死を越えた喜びです。やがて永遠の御国において、その全てを味わうことになるでしょう。その時、主が言われたことを本当の意味で理解することになるのでしょう。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と主が言われたその意味を。

2014年5月18日日曜日

「わたしにつながっていなさい」

2014年5月18日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章1節~11節


人を見ないで、イエス様を見なさい?
 私はキリスト者である両親のもとに生まれ育ちました。母の胎にいる時から教会に通っていたとも言えます。幼い頃から教会の中を走り回って育ちました。教会に集まる大人たちの姿を見て大きくなりました。そのような私が中学生から高校生になった頃、教会の人たちからしばしば聞かされた言葉がありました。「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。

 教会に行ったことのない人の中には、教会を天使のような人たちの集まりだと思っている人もいるようですが、教会の中を駆け回って育った子どもはそうは思っていません。中学生ぐらいになれば分かります。教会は必ずしも天使の集まりではない。むしろ天使から相当遠い人もけっこういたりする。分かっているのです。ですから教会の大人たちが口にする「人を見ないで、イエス様を見なさい」という言葉が大嫌いでした。どう聞いても言い訳にしか聞こえませんでしたから。「人を見てつまずいてはいけないよ」なんて言う前に、見られて大丈夫な人になるべきでしょう。「人を見ないで」なんて言わないで、まず皆さんが見られて大丈夫な人になってくださいよ。そんなことを心の中でつぶやいていたものです。

 それは生意気盛りな年頃の私が、自分自身いいかげんな生活をしていることを棚に上げて言っていたことなので、今考えるとお恥ずかしい限りなのですが、ある意味では正しいことを言っていたと思うのです。キリストを信じる信仰は生活において目に見える形を取るのであって、それを次の世代に見せることができることは大事なことなのです。パウロは言っています。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(フィリピ3:17)。少なくともパウロは「人を見てはいけないよ」などとは言いません。

 しかし、もう一方において「イエス様を見なさい」と言うこと自体は正しいことです。それは今日の福音書朗読からも分かります。イエス様は言われるのです。「わたしにつながっていなさい」(4節)。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

内実が問われる時
 今日お読みしたのは、最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。実は、最後の晩餐におけるイエス様の言葉は14章で一旦終わっているのです。「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っていますから。にもかかわらず15章にはこの「ぶどうの木のたとえ」が続きます。この話はヨハネによる福音書にしか出てきません。話の流れとしては不自然ですけれど、ヨハネとしては、やはりどうしても書かずにはいられなかったのでしょう。イエス様につながることが、どれほど大事なことかを知るゆえに。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中では一番最後に書かれたものです。紀元一世紀も終わり頃に書かれたと言われます。つまり教会が誕生してから既に60年ほどの時を経ているのです。この間に、聖霊降臨から始まった教会の爆発的な伝道の働きによって、特にパウロによる三回の伝道旅行によって、ローマ帝国におけるかなり広い地域に福音が宣べ伝えられ、教会の基礎が据えられていきました。さらにこの間に、教会の秩序、職制なども次第に整えられていったことを新約聖書の多くの書簡から読み取ることができます。教会は確かに成長していきました。

 しかし、その一方で教会にはその初期から分裂や争いがありました。間違った教えによる混乱もありました。教会が誕生して60年も経てば、イエス様の直弟子たち、復活したイエス様にお会いした人たちのほとんどはもう生きてはいません。第一世代を失う中で教会の様々な営みにおける形骸化も起こってきたことでしょう。初期にはなかったような指導者たちの腐敗や堕落も起こってきたことでしょう。そしてさらに、そこには迫害もありました。ヨハネによる福音書が書かれた頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。それはユダヤ人の迫害の対象となることを意味しただけでなく、ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象となることをも意味していました。教会は大きな試練に直面することになりました。教会は大きく揺さぶられることとなりました。そのような中で教会を去って行く人々も少なからずいたのです。

 そのように考えますと、ヨハネによる福音書が書かれた頃は、まさにキリスト者がキリスト者であることの内実を問われた時代でもあったと言えるでしょう。教会に集う人たちが、いったい何につながっているのか、いったい誰につながっているのかを問われる時代でもあったのです。だからこそヨハネは書いたのです。イエス様あの時、十字架にかかられる直前、最後の晩餐の席においてこう言われたではないか。「わたしにつながっていなさい」と。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

主につながるために
 そこで私たちは改めて、これが最後の晩餐におけるイエス様の言葉であることを意識しなくてはなりません。最後の晩餐と言えば、すぐに思い起こされるのは聖餐式でしょう。聖餐式の時には、最後の晩餐においてイエス様がなさったことと語られたことがいつも読み上げられます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:23‐26)。

 私たちの行っている聖餐式、さらには聖餐卓を中心において行っている礼拝は、この主の制定の言葉に基づいて行っているのです。代々の教会は、この主の言葉に基づいて、パンを裂き、杯を飲んできたのです。しかし、ヨハネによる福音書の最後の晩餐の部分を読んでみてください。このイエス様の言葉は書かれていないのです。代わりに何が書かれていますか。イエス様が弟子たちの足を洗った話です。そして、イエス様の長い説話です。

 イエス様が言われた「これはあなたがたのためのわたしの体である」という言葉は恐らく誰でも知っていた言葉なのです。しかし、ヨハネはここで、聖餐の起源となる言葉ではなく、いわばその意味を伝えようとしているのです。イエス様が語られた多くの言葉をもう一度書き記しながら、私たちが何のために集められているのかを再確認しようとしているのです。その中に今日お読みした言葉もあるのです。「わたしにつながっていなさい」と最後の晩餐の時に主は言われた。そのように、今、主は「わたしにつながっていなさい」と言って、主は聖餐卓のまわりに私たちを集めてくださるのです。主は「わたしにつながっていなさい」と言って、「主の死が告げ知らされる」場所に集めていてくださるのです。罪の赦しの十字架が語られる場所に集めていてくださるのです。

豊かな実を結ぶ
 「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。そのような言葉が言い訳として使われるならば確かにそれは間違いです。しかし、「人を見てつまずいてはいけないよ」という言葉そのものは間違ってはいません。人を見てつまずくのは、そこに信仰の実りが見られないと思えるからでしょう。しかし、実りを判断するのは私たちのすることではありません。イエス様は「わたしの父は農夫である」と言われます。実りを判断するのは農夫である父がすることです。他の枝に実が見られないからと言って、自分が幹から離れてしまうというのは、考えてみればおかしな話です。大事なことは他の人に信仰の実りを求めることではなくて、自分が実を結ぶことなのでしょう。

 ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会はどうだったのでしょう。そこには混乱もあったでしょう。堕落も見られたことでしょう。つながっているように見えながら実を結ばない、形だけになった様々な営みもあったことでしょう。教会が様々な試練によって揺さぶられる時、教会から離れて行った人たちもあったことでしょう。しかし、それらすべてについて判断するのは農夫のすることです。自分の実りについてすら、判断するのは農夫のすることであって、私たち自身のすることではありません。主はただ「わたしにつながっていなさい」と主は言っておられるのです。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と励ましていてくださるのです。

 私たちが考えなくてはならないのは他者の実りのことではありません。自分の実りのことですらありません。そうではなくて、つながっていることです。枝は自分で実を結ぶことはできないのですから。イエス様も言っておられます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と。

 「わたしにつながっていなさい」。イエス様につながっていることをひたすら求めていったらよいのです。そのためにイエス様が集めてくださっている場所を大切にしたらよいのです。福音が語られている場所を大切にしたらよいのです。主が「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」と言って分け与えてくださるパンと杯を大切にしてそれにあずかったらよいのです。実は命によって結ばれます。命が通うならば自ずと実は結ばれます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」これが私たちに与えられている主の約束です。

2014年5月11日日曜日

「私たちに求められていること」

2014年5月11日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 13章31節~35節


今や、栄光を受けた
 今日の福音書朗読は、最後の晩餐の部屋からユダが出て行ったという場面です。その直前にはイエス様がユダにパン切れを渡して、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われたことが書かれていました(27節)。ユダがしようとしていたこと、それはイエスを裏切ってユダヤ人たちに引き渡すことでした。「この御方は私が裏切ろうとしていることを知っている」――ユダにははっきり分かったと思います。そう、ユダとイエス様だけが知っていた。他の弟子たちには何のことか分かりませんでした。「祭りに必要な物を買いなさい」と言われたのだと思った人がいました。貧しい人に何か施すようにと言われたのだと思った人もいました。ただユダとイエス様だけが知っていました。そして、ユダは出て行きました。

 そこでイエス様は言われたのです。「今や、人の子は栄光を受けた」。――いや、それはおかしいでしょう。イエス様はこう言うべきではありませんか。「今や、人の子は辱めを受けた」。信頼していた弟子に裏切られたのですから。ユダが出て行ったことで、ちょうど時限爆弾のスイッチが入れられたように、確実に十字架刑に向かって時計の針は動き始めていたのです。それゆえにまもなく自分が捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられることも、イエス様には分かっていたのです。

 しかし、そこでイエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われたのです。いや、それだけではありません。「神も人の子によって栄光をお受けになった」というのです。神の遣わされた独り子が裏切られるならば、神御自身も侮辱を受けたことになるではありませんか。御子は人間によって有罪とされるのです。御子が人間によって鞭打たれてボロボロにされるのです。十字架につけられて殺されるのです。それは神御自身が人間によって辱めを受けることではありませんか。ユダが出て行った。今やそうなることが決定的になったのです。しかし、イエス様は言われたのです。「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。

 いったい栄光とは何なのでしょう。イエス様が「栄光」と呼んでおられるものについては、少なくとも一つのことがはっきりしています。それは人間から何を受けるかということとは関係ないということです。この世から何を受けるかということとは全く関係ないということです。人間から裏切りを受けようが、侮辱を受けようが、どう扱われようが、全く関係ないということです。

 むしろイエス様が言われる「栄光」は、何を受けたかではなくて何を与えたかに関わっています。それは愛であり命です。イエス様は愛するために来られたのです。イエス様の命は愛のゆえに与えるための命だったのです。イエス様は後にこう言っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。まさにその愛が実現する時、それが十字架にかかられる時なのです。だからそれは栄光の時なのです。なぜならそれは愛が全うされる時だからです。

 それは父なる神においてもそうなのです。神は独り子をこの世に遣わされました。それは神の愛のゆえでした。その愛は、一方において人間によって踏みにじられたと言えます。そうです、人間は神の愛を踏みにじったのです。しかし、それでも神は栄光を受けられたのです。神の愛の計画は全うされたからです。御子において全うされたからです。人間が侮辱しようが、十字架にかけて殺そうが、神の愛の業は全うされたのです。神の愛は貫かれたのです。御子によって御父が栄光を受けることを人間はいかなる仕方においても妨げることはできませんでした。御子によって神は栄光を受けられたのです。

 改めて思います。私たちが日頃「栄光」と呼んでいるものとはいったい何なのでしょう。人間が必死に求めてきた「栄光」とは何なのでしょう。十字架の時の到来において、イエス様は宣言されたのです。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と。それはこの世から何を受けるかということとは全く関係ありませんでした。誰からどういう扱いを受けようが全く関係ありませんでした。それはただ愛することのみと関わっていたのです。命を与えることのみと関わっていたのです。

互いに愛し合いなさい
 そして、そのように十字架へと向かわれる主がこう言われたのです。そのように愛を全うして父のもとに帰ろうとしている主がこう言われたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。

 本日の第一朗読でこのような言葉が読まれました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)。隣人を愛すること、それは古くから伝えられてきた主の命令です。しかし、主は弟子たちに「新しい掟」を与えられます。その新しさとは、キリストがしてくださったことによる新しさです。神が御子を通して実現してくださったことによる新しさです。すなわち、既に見てきたように、御子を通して神が御自身の愛を完全に現してくださったということです。

 主はもはや「自分自身を愛するように」とは言われません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。主が言っておられるのは十字架の愛です。命を捨てる愛です。しかし、ここである変換が起こっています。主は「わたしが命を捨てたように、互いに命を捨てなさい」という意味で言っておられるのではないのです。原文では「わたしがあなたがたを愛したように」とは一回限り決定的に起こったこととして表現されています。それに対して、「互いに愛し合いなさい」は継続的なこととして表現されているのです。

 イエス様が私たちを愛してくださいました。それは一回限りの決定的な出来事として起こりました。私たちの罪の贖いのために命を捨ててくださいました。そのように愛しなさいと言われます。しかし、私たちはイエス様が命を捨てたのと同じ意味において命を捨てることはできません。私たちはいかなる意味においても誰か他の人の罪の贖いとして自分の命を差し出すことはできません。イエス様は命を捨ててくださいました。その事実を私たちの内において変換しなくてはなりません。ただ一度決定的な仕方で起こったことを、私たちの毎日の事柄に、継続的な事柄に変換しなくてはなりません。私たちは命の捨て方ではなくて、命の用い方、日々繰り返される命の与え方を見出さねばならないのです。

 そのように「互いに愛し合いなさい」と主は言われます。「互いに」という言葉は、自分以外に誰か少なくとも一人共に存在していることを前提としています。自分一人では「互いに」は成り立ちません。誰かが他にいるということです。その他にいる「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちは往々にして他にいる「誰か」を見る時に、何かを求める対象としてしか見ていません。自分に与えてくれる人。自分を愛してくれる人。自分を守ってくれる人。自分を幸せにしてくれる人。親にしても、子どもにしても、夫にしても、妻にしても、友人にしても、コンビニの店員にしても、私たちは誰かがそこにいるならば、何らかの要求をもってその人を見ているものです。「わたしの望んでいるもの、与えてよ。わたしの願っているようにしてよ」。そして、しばしば要求が満たされない。欲しいものが与えられない。すると腹が立つ。怒りが起こる。そうやって争いが起こります。そうしている限り「互いに愛し合う」ということは起こりません。

 自分の他に誰かがいる。その「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちが何かを要求するためではなく、私たちが愛することができるようにと、神はその人を共に置かれたのです。私たちが命を与えることができるように、神はその「誰か」を与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉が実現するために、「互い」が存在しているのです。

 そして、既にお気づきのことと思いますが、この「互いに」が第一に意味しているのは、親子でもなければ、友人関係でもなければ、店員さんと客との関係でもありません。それは教会です。主は言われました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。牧師と信徒との関係においても、信徒同志の関係においても、教会の「お互い」をただ要求の対象としか見ていないならば、そこからは欲求不満と怒りと争いしか生まれてきません。そのようにしている限り「互いに愛し合う」ということは起こらないでしょう。

 弟子たちはイエス様によって集められました。そのようにして、彼らは互いのために命を与える機会を与えられたのです。互いを愛する機会を与えられたのです。仕える機会を与えられたのです。時には赦しを与えなくてはならない。そのような機会を与えられたのです。イエス様はあえて互いに異なる人々を集められました。そこには漁師もいれば徴税人もいれば熱心党出身者もいたのです。お互いが違えば違うほど、与える機会は多くなります。仕える機会も多くなります。赦し合う機会も多くなるでしょう。そのようにして命を与える機会は多くなるのです。そのように弟子たちはイエス様のもとに集められました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が目に見える形で実現するためでした。

 そのように私たちもここに集められております。主は私たちにも言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そして、さらに言われます。「 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。これが私たちに求められていることです。

2014年5月4日日曜日

「命を捨てるほどの愛」

2014年5月4日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 10章7節~18節


羊を知っている羊飼い
 イエス様は言われます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(14‐15節)。

 イエス様がなぜこのようなことを言われたのか。それはもう一方に羊飼いならぬ「盗人」がいるからです。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(10節)。この「盗人」が何を指すのかは定かではありません。偽メシアと考える人もいますし、ユダヤの権力者を考える人もいます。いずれにせよ、それは羊を滅ぼそうとする力です。そのように、人を苦しめ、神から引き離し、滅ぼそうとする力は形を変えて常にこの世界に働いています。そのような中に羊である信仰者は生きているのです。

 羊であるということは無力だということでもあります。だから不安や恐れを覚えざるを得ない。実際に私たち自身もそうでしょう。何か大きな力が働いたら、大きな苦しみが襲ったら、あるいは大きな力による迫害にあったら、自分は簡単に神から引き離されてしまうのではないか。自分の信仰など簡単に失われてしまうのではないか、と。しかし、そのような私たちに主は言われるのです。「わたしは良い羊飼いである」。

 「良い羊飼」。それは羊を知っている羊飼いです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。

 羊飼いは羊と共に生活をしていました。羊の一匹一匹に名前をつけて養っていたと言います。今日の朗読箇所には入っていませんでしたが、3節には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれています。私たちから見ると羊は皆同じように見えますが、羊飼いは羊の一匹一匹を見分けることができるのです。羊飼いにとって羊たちは、あくまでも単なる《羊の群れ》ではなく、一匹の羊が他の羊の代わりには絶対になれない、それぞれかけがえのない羊なのです。

 イエス様が、「わたしは良い羊飼いである」と言われたとき、念頭に置いておられたのは、そのような羊飼いと羊の関係です。羊飼いが羊を知っていると言う場合、それは羊について知っているという意味ではありません。個々の羊を知っているということです。イエス様は、私を知っておられ、あなたを知っておられるのです。

 実際、イエス様と弟子たちの物語は、イエス様の言葉が真実であることを証しています。確かにイエス様は彼らのことを知っておられました。彼らの内側に潜んでいる弱さや罪深さまでも知っていました。弟子たちが自分を知る以上に、イエス様の方が彼らのことを知っていました。やがて弟子たちが御自分を見捨てて逃げ去っていくことまでイエス様は知っていました。ペトロが御自分を三度否むであろうことまでも知っておられました。ペトロも弟子たちも、自分で自分のことが分かっていませんでした。しかし、弟子たちはやがて、イエス様に《知られていたこと》を知ることになるのです。

 「わたしは良い羊飼いである」と主は言われます。主は羊飼いとして、私たちを知っていてくださいます。主に背いてきた私たちの罪も、私たちが決して外に現そうとしない、内に秘められた弱さも、主は知っておられます。

羊のために命を捨てる羊飼い
 そのように御自分の羊を知り尽くした上で、主はさらに言われるのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。「良い羊飼い」は羊を知っているだけでなく、羊のために命を捨てる羊飼いです。

 羊飼いが羊を守るために命を捨てるとするならば、それは羊を愛しているからです。羊が自分の命よりも大事だからです。「わたしは良い羊のために命を捨てる」と言っているのではありません。良いのは羊飼いであって羊ではありません。イエス様は、やがて御自分を見捨てて逃げていくような、そんな弟子たちを前にして、この言葉を語られたのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。

 「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人が一人でもいますでしょうか。もしかしたら、いるかもしれません。いたらそれは幸せな人です。しかし、人間の愛にはやはり限界があります。あなたのすべてを知り尽くした上で、あなたが内に秘めている弱さも、表には現われていない諸々の罪も、すべてを知り尽くした上で、なお「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人となると、どうでしょう。自分のことを考えると、「それはありえないだろう」と言わざるを得ない。

 しかし、イエス様はそのあり得ないようなことを語っておられるのです。やがて弟子たちは知ることになるのです。十字架にかけられたイエス様を目の当たりにして、一つの事実を知ることになるのです。あの御方は、私たちの弱さをご存知だった。私たちがあの御方を見捨てて逃げ去ることもご存知だった。結局は我が身のことしか考えない者であることもご存知だった。しかし、そんな私たちのためにあの御方は命を捨ててくださった。「わたしの羊たちよ、お前たちはわたしの命より大事なのだ」と、あの御方は本気でそう言っておられたのだ、と。

 そのことが、ヨハネの手紙にはこう表現されています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3:16)。そこまで愛してくださった方が、復活して、今も生きておられて、永遠に良き羊飼いでいてくださる。世々の教会はそのことを信じ、宣べ伝えてきたのです。だから今日もなお、この言葉が礼拝の中で朗読されているのです。

 イエス様は、私たちを知っていてくださいます。ここにいる私たち一人ひとりを、その弱さも、その罪も、何もかも知り尽くしておられます。その御方はまた、私たちの罪を贖うために、私たちを救うために命を捨ててくださった御方です。その御方が、今日も私たちに言っておられます。「わたしは良い羊飼いである」と。

 ならばもはや恐れる必要はありません。弱い羊であっても恐れる必要はありません。人を苦しめ、神から引き離し、滅ぼそうとする力が形を変えて常にこの世界に働いていたとしても恐れる必要はありません。良い羊飼いがいてくださるからです。

囲いの外に向かう羊飼い
 そして、私たちはその「良い羊飼い」がさらにこのように言われるのを耳にします。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)

 イエス様は、既に集められている羊の群れだけでなく、囲いの外の広い世界のことを考えておられます。主はまだ囲いに入っていないほかの羊のことを考えておられます。主は「その羊をも導かなければならない」と言われるのです。それゆえに、羊飼いは囲いの外の羊を求めて出て行かれます。御自分の羊を捜し求めて出て行かれます。羊飼いは羊を呼び求めて声を上げます。そして、羊はその声を聞き分けて、羊飼いのもとに集まってくるのです。

 それがこの二千年間、世界の歴史の中に起こってきたことでした。羊飼いであるイエス様の声が、今や全世界に響き渡っているのです。そして、羊の群れは全世界に広がる群れとなりました。だからこの国にも教会があるのです。だから私たちも今ここにいるのです。

 考えてみてください。私たちはもともと囲いの外にいた羊でした。囲いの外をさまよっていた者でした。しかし、私たちの耳に、キリストの呼び声が届いたのです。私たちを捜し求めるキリストの呼び声が聞こえてきました。皆さんは、御自分の意志で教会に足を運んだと思っておられるかもしれません。御自分の決断によって求道し、洗礼を受けたと思っておられるかもしれません。しかし、それは伝えてくれた誰かがいたから実現したことなのです。すなわち、その前にキリストが私たちを呼び続けておられたのです。この日本にも、キリストの呼び声が響き渡っていたのです。そして、その声を耳にした時、私たちの魂がその声を聞き分けたのです。懐かしい声、私を愛してくださる御方の声、良き羊飼いの声――その声を聞いて、その声に導かれて、私たちは羊飼いのもとにやって来たのです。

 そのような私たちにイエス様は言ってくださいました。「あなたは囲いの中にいなかったけれど、あなたは確かに私の羊です。私はあなたを知っています。あなたのすべてを知っています。そして、私はあなたのために命を捨てました。私はあなたに永遠の命を与えます。あなたは決して滅びない。だれもあなたをわたしの手から奪うことはできません」と。だから、私たちはイエス様のもとにあって、イエス様の羊として主と共に永遠に生きるのです。

 そして、イエス様は私たちにも改めてこう言われるのです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」。私たちは、そのようなイエス様の後に従うのです。今度は私たちがこの世にあって、羊飼いの呼び声になるのです。私たちが伝道するとはそういうことです。羊飼いの呼び声になるのです。また誰かが、良い羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いのもとに来るためです。「こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)のです。

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