2014年4月27日日曜日

「あなたは宝を宿す土の器です」

2014年4月27日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7節~18節


宝を宿す土の器
 私たちは宝を内に宿す土の器です。本日の第二朗読において次のような言葉が読まれました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)。

 わたしたちは「土の器」です。それが意味するのは弱さであり脆さです。最終的には壊れてしまう。それが土の器です。土の器であることを意識するのは、特に苦しみの中に置かれた時でしょう。困難の中に置かれた時です。強さを要求される時です。強さを要求される時、人はまた自らの弱さや脆さをも知ることになります。

 しかし、単なる土の器ではありません。宝を内に宿す土の器です。宝とは何か。イエス・キリストです。この直前にパウロはこう言っています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)。宣べ伝えるパウロ自身は土の器です。彼はそのことを良く知っているのです。しかし、彼は宝を内に持っています。宣べ伝えられるのは器ではなく宝の方です。それはイエス・キリストです。

 先週、私たちは復活祭を共に祝いました。そこにおいて読まれたのは、主が十字架につけられて三日目の朝の出来事を伝える聖書箇所でした。あの朝、三人の婦人たちが墓に向かいました。イエスの遺体に香油を塗るためでした。しかし、墓に着いた時、墓を塞ぐ石は取りのけられていました。そして、中にいた白い衣を着た若者がこう言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)。

 「十字架につけられたナザレのイエス」。その御方は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったキリストです。私たちの罪が赦されるために、贖いの犠牲として死んでくださったキリストです。その御方が復活なさったのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。あの方は墓の中にはおられない。復活して永遠に生きておられる救い主です。その御方こそ、今日に至るまで宣べ伝えられてきたイエス・キリストです。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とパウロが言っていたイエス・キリストです。

 しかし、イエス・キリストが宣べ伝えられるということは、ただキリストについての知識が伝えられるということではありません。私たちは、あの御方が私たちに代わって十字架についてくださったという知識を内に宿すだけではありません。聖霊のお働きによって復活されたイエス・キリスト御自身が宿ってくださるのです。パウロは別の手紙で次のように語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。今日の朗読箇所においても「イエスの命がこの体に現れる」「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」という表現が出てきます。

 私たちが単にキリストについての知識を持つだけならば、教会はキリストについての知識を与える学校のようなものでしかありません。しかし、教会は聖霊降臨によって誕生したのです。私たちの内には神の霊が生きて働いておられるのです。聖霊のお働きによってキリストが私たちに宿ってくださるのです。そして、キリストが私たちのこの体を通して生きて働かれるのです。教会という共同体を通してキリストが働かれるのです。それゆえに私たちは「キリストの体」とも呼ばれているのです。

 その私たち自身は土の器です。先ほど申しましたように、土の器であることを意識するのは、特に苦しみの中に置かれた時です。困難の中に置かれた時です。しかし、そこで私たちは自分の弱さや脆さに意識を留めてはならないのです。自分が土の器であることに目を向け続けていてはならないのです。キリストという宝が土の器に宿ってくださるのは何のためなのか。4章7節をもう一度お読みします。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。

 そうです。それは「並外れて偉大な力が神のもの」であることが明らかになるためなのです。私たちから出たのではないことが明らかになるためなのです。キリストが私たちの内に、私たちを通して働かれます。それは神の力によるのです。私たちの人生は、私たちを通してキリストが働かれる舞台となるのです。神の並外れて偉大な力が現れるための舞台となるのです。

 ならば私たちは、自分の弱さや脆さから目を転じなくてはなりません。土の器のあちらこちらが欠け始めて、壊れつつある現実にばかり目を向けていてはなりません。そこから目を転じなくてはなりません。私たちを通して働かれる神の並外れて偉大な力に、期待の目を向けなくてはならないのです。

イエスの命が現れるために
 その意味において、ここにパウロ自身の経験が記されていることは、私たちが期待の目を神の御業に向けるための大きな助けとなります。彼は言います。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8)。

 伝道者として彼がどれほどの苦難に遭ってきたか。それは恐らく私たちの想像を絶するものでしょう。「四方から苦しめられても」と彼は言います。この手紙の後の方で彼は次のように書いています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(11:24‐27)。しかし、彼は行き詰まることはありませんでした。

 それだけではありません。「途方に暮れても」と彼は言います。先ほど引用した聖書箇所はこう続きます。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(同28‐29節)。外側からの迫害だけではありません。教会内の混乱。だれかが弱っている時に助ける術が見つからず、一緒に弱るしかないもどかしさ。途方に暮れざるを得ないことはいくらでもあったに違いない。しかし、かれは望みを失うことはなかったのです。

 それはなぜか。土の器に宝を宿しているからです。キリストが生きておられるからです。ならばイエスの命が現れてくるのです。苦しみが深くなり、キリストの十字架の苦しみ、そして死と一つになればなるほど、復活の命も現れてくるのです。それをパウロは次のように書いています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10‐11節)。

 そしてパウロはこれを自分一人の特殊な体験として語っているのではありません。あくまでも「わたしたち」と彼は語ります。それは同労の伝道者たちを念頭に置いてとも言えますし、さらには同じように土の器に宝を宿している人すべてに共通することであるとも言えます。キリストがおられるならば、その復活の命は神の偉大な力として現れてくるのです。そこでは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」ということが起こってくるのです。

 もちろん、私たちが置かれている状況はパウロの置かれている状況とは異なります。しかし、私たちは私たちとして「四方から苦しめられる」ということもあるのでしょう。「途方に暮れる」こともあるのでしょう。「虐げられる」ことも「打ち倒される」こともあるのでしょう。しかし、その時こそ私たちはイエスの命が、復活の命が、豊かに現れることを期待すべきなのでしょう。私たちは行き詰まることはありません。望みを失うことはありません。見捨てられることはありません。滅びることはありません。それはイエスの命が豊かに現れる時に他ならないのです。

 そして、最後にもう一つのことに目を向けましょう。続くパウロの言葉は非常に興味深いものです。11節から続けてお読みします。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」(11‐12節)。

 先ほど、「その時こそ私たちはイエスの命が、復活の命が、豊かに現れることを期待すべき」と言いました。しかし、イエスの命が現れるのは、それはただ私たち自身のためではありません。「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」とパウロは言うのです。イエスの命が現れるのは、「あなたがた」すなわち他の人のために命が働くためなのです。私たちの信仰生活は他の人のためにあるのです。他の人にイエスの命が働くためなのです。

 ですから、パウロは土の器に宿した宝をただ自分の内に留めてはおかないのです。パウロが言っていた言葉を思い起こしてください。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)。これはただパウロなどの伝道者だけの話ではありません。土の器に宝を宿す全ての人に言えることです。

 「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになる」のは特にどのような時なのでしょう。イエスの命が他の人に働くのを見るのはどのような時なのでしょう。それは福音を伝える時ではありませんか。土の器に過ぎない私たちが、他の人の救いのために用いられる時ではありませんか。

 私たちはその意味においても、土の器である私たちを通して神の御業が現れることを期待しましょう。イエスの命が現れて生き生きと働かれることを期待しようではありませんか。私たちは宝を宿す土の器なのですから。

2014年4月20日日曜日

「新しい命に生きるため」

2014年4月20日  イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 16章1節~8節

    ローマの信徒への手紙 6章3節~11節

あの方はここにはおられない
 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。イエス様が葬られているはずの墓に向かった婦人たちが、そこで耳にした言葉です。

 「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが…」。そうです。そのとおりです。彼女たちが求めていたのは、「十字架につけられたナザレのイエス」でした。遺体として墓に納められているはずのナザレのイエスでした。彼女たちは、死んだイエスに会うために墓に来たのです。彼女たちの手にあったのは香料と香油でした。それは十字架につけられて死んでしまったイエスの遺体に塗るためのものでした。

 イエス様が処刑された日は金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。なんとか安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりません。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤ出身の議員であったヨセフという人が遺体の引き取りを願い出て、岩に掘られた墓に主の遺体を葬ることになりました。しかし、時間切れです。とりあえず亜麻布を買って遺体を包み、墓に納めるところまでは済ませませしたが、香油や香料を塗る時間はありませんでした。マグダラのマリアとヨセの母マリアは心を痛め、安息日が明けたら香油を塗って遺体の処置をしたいと願って遺体が納められた墓を見つめていたのです。

 日曜日の朝、墓に向かっていた彼女たちは生前のイエスを思い起こしていたことでしょう。あの御方の語られた言葉。あの御方のなされた愛の業。あの御方は死んで過去の人になってしまったけれど、その生き様と教えとは今も心の中に生きている。あの御方は過去の人になってしまったけれども、これからもその教えに従って生きていきましょう。そのような決意を胸に墓に向かったのかもしれません。これからもあの方が納められている墓を度々訪れましょう。そこであの方のことを思い起こし、その教えを決して忘れないようにしましょう、と。

 しかし、あの婦人たちが墓に着いた時、そこに遺体となったイエス様はいなかったのです。過去の人となったナザレのイエスはいなかったのです。そこで彼女たちが聞いたのはこのような言葉だったのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。あの方はここにはおられない。墓の中にはおられない。死者の中にはおられない。そこから歩み出してしまった。復活したイエス・キリストは死の扉を打ち破って永遠に生きておられる。これが今日お読みした福音書が伝えていることです。

 ですから、教会は決してイエスを過去の人のひとりとして伝えてこなかったのです。今日、はじめて教会に来られた方もあるかもしれません。教会へようこそ!せっかくですからどうぞ心に留めてください。教会はイエス・キリストについて、「あの方は死んだけれどもその教えは今も生きている」というようには伝えてこなかったのです。そうではなくて、「主はよみがえられた」「イエスは生きておられる」と伝えてきたのです。

 キリスト教の歴史における最古の信仰告白の言葉は「イエスは主である」(1コリント12:3)だと言われます。「イエスは主であった」ではないのです。あくまでも「イエスは主である」。現在の主として伝えてきたのです。実際、教会の祭りとしてはクリスマスが良く知られていますが、クリスマスよりも復活を祝う「復活祭」の方がずっと古いのです。そもそも日曜日に礼拝を行うのは、それがキリスト復活の日だからです。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思ってここに集まっているのです。

私たちが新しい命に生きるため
 「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。そのようにあの御方は過去の人ではなく現在の主です。今ここにいる私たちを愛し、私たちを救ってくださる御方です。私たちが今ここに座っているということは、既に復活の主が私たちの人生に関わっていてくださるということでもあるのです。

 しかし、復活されたキリストを最も鮮やかに指し示しているのは、この後に行われる「洗礼式」であり「聖餐式」です。特に洗礼式については、今日の第二朗読において次のように語られていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(3‐4節)。

 この言葉などは、それこそキリストは生きておられるという信仰なくしてまったく意味をなさないでしょう。洗礼は何を意味しているのか。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と聖書は表現しているのです。洗礼は単なる形式的な儀式ではありません。もしそうならば遠の昔に失われてしまっていることでしょう。しかし実際には、教会は洗礼を二千年の長きに渡り、時には多くの殉教者の血が流される中、命がけで行い続けてきたのです。何のために。何のために人々は洗礼を受けてきたのでしょう。「キリスト・イエスに結ばれるため」。復活して生きておられる救い主と結ばれるためなのです。

 少し細かいことを申し上げます。「キリスト・イエスに結ばれるため」と書かれていますが、この翻訳は事柄の一面を表しているに過ぎません。原文では「キリスト・イエスの中へ」と書かれているのです。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」は、直訳するなら「キリスト・イエスの《中へ》バプテスマされた」となります。変な日本語です。しかし、この方がイメージとしては思い描きやすいかもしれません。「キリスト・イエスに結ばれる」のですが、それは「キリスト・イエスの中へ」という形でキリストに結ばれるのです。「キリスト・イエスの中へ」。そのように自分自身をいわばキリストの中に投げ込んで沈めてしまう。そのように自分自身を完全にキリストにゆだねてしまう。それがキリスト・イエスを信じる信仰です。その目に見える出来事が洗礼なのです。

 自分自身を投げ込んで完全にゆだねてしまえる。考えてみれば、それは何よりもありがたいことです。それはそうでしょう。世の中にやっかいなものは数あれど、一番やっかいなのは他ならぬ自分自身ですから。幼い子どもならいざしらず、ある程度長く生きていれば、自分が決して正しい人間でないことは分かります。自分の汚さや醜さに嫌気がさすこともあるでしょう。正しく生きようと思う人ならなおさら正しく生き得ない自分自身であることは骨身に染みて分かるものです。一生の間には幾度もそんな自分を葬ってしまいたいと思うこともあるのでしょう。

 しかし、そんな自分を丸ごとゆだねることのできる御方がいてくださる。そんな自分を丸ごと受け取ってくださる御方がいてくださる。それがイエス・キリストなのです。イエス・キリストについて、あの婦人たちが聞いた言葉はこうでした。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」。私たちが、やっかいな自分自身を安心してゆだねることができるのは、その御方が「十字架につけられたナザレのイエス」であるからです。その御方は、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったキリストです。私たちの罪を代わりに背負って死んでくださったキリストです。私たちに苦しみの源が他ならぬ私たち自身であり、私たちの罪であるならば、その私たち自身をゆだねることができるのはこの御方以外にはありません。

 このイエス・キリストの中において、イエス・キリストに起こったことが私たち自身にも起こるのです。すなわち、イエス・キリストが死んで葬られたように、私たちもまた葬られるのです。葬ってしまいたかった私たち自身の葬りが起こるのです。その意味で洗礼式は目に見ることのできる葬りの式でもあります。もちろん、葬りで終わりではありません。そこから新しく始まるのです。キリストが葬りで終わらなかったようにです。そこから新しい命に生き始める。その意味で洗礼式は目に見える復活の式であり新しい誕生の式でもあります。

 ですから、そこから新しい生活が始まります。「信仰生活」と呼ばれる新しい生活が始まります。キリストと共に生きる新しい生活が始まります。そのキリストは過去の人ではありません。教えだけが今も生きているというのではありません。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。その御方と共に生きる生活がここにあります。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思って私たちはここに集まっているのです。今、私たちがここに身を置いているのは、新しい生活の具体的な一齣に他ならないのです。

2014年4月13日日曜日

「立て、さあ行こう」

2014年4月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章32節~42節


立て、行こう
 「立て、行こう」と主は言われました。「立て、行こう」。その言葉は、弟子たちにとって、深い心の痛みと共に記憶された言葉であったに違いありません。

 「立て、行こう」。それはイエス様が苦しみもだえながら祈っていた時に、その傍らで眠りこけていた弟子たちに語られた言葉でした。それも一度ならず、二度、三度までも。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか」(37節)。そう言われて、なおも同じ失敗を繰り返した時、弟子たちは「イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」と書かれています。そして、三度目。もはや弁解の言葉もありません。その時に主は言われたのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(41‐42節)。

 それだけではありません。「立て、行こう」と主は言われたのですが、弟子たちは結局最後まで主と共に行くことはできなかったのです。この直後に、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。遠く離れてついていったペトロも結局は三度主を否んでしまいます。

 そのように、「立て、行こう」という主の言葉は、全く情けない惨めな自分自身を認めざるを得なかった出来事によって、深い心の痛みと共に記憶された言葉であったに違いないのです。

 しかし、その言葉を彼らは記憶から消し去ろうとはしませんでした。一生誰に語ることもなく自分の心の奥深くにしまい込んでしまおうとも思いませんでした。そうではなくて、彼らは自分たちの恥をさらしながら語り始めたのです。自分の惨めなありさまをさらけ出しながら、あの時のことを語り続けたのです。だからこそ、聖書にまで書き記されて公に読まれることとなったのです。

 それはなぜか。「立て、行こう」という言葉に従えなかったあの日で終わりにはならなかったからです。イエス様の心も知らずに眠りこけていた弟子たちのままで終わらなかったからです。イエス様を見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのままで終わらなかったからです。イエス様を三度否んだペトロで終わらなかったからです。そのまま主は捕らえられて十字架にかけられて死んで、それで終わりにはならなかったからです。そこから新しく始まったのです。主がよみがえられたからです。復活の主が彼らを再び招いてくださったからです。

 彼らは改めて思い起こしたことでしょう。あの時、イエス様は眠りこけていた彼らが、すぐに自分を見捨てて逃げ出すことも、ペトロが三度否むことも全部承知の上で、「立て、行こう」と言ってくださったのだ、ということを。主は弟子たちがそのまま終わりにならないことをご存じだった。目の前の彼らの惨めさや罪深さではなく、復活のキリストに従って歩んでいる姿を既に見ていてくださった。それゆえに彼らは改めて復活の主から赦しの恵みと共に受け取ることになったのです。「立て、さあ行こう!」という言葉を。そして、主がかつて言われたように、今度は自分の十字架を背負って従って行ったのです。

 そして、代々の教会もまた、そのように主が語られる「立て、行こう」という言葉を聞き続けてきたのでした。今、私たちがこうして聞いているようにです。そして、その言葉をゲッセマネの園における物語と共に聞き続けてきたのでした。それは「立て、行こう」と言われる主に従っていくために、どうしても必要なことだったのです。

御心に適うことが行われますように
 ゲッセマネの園における物語に描かれているのは、ひどく恐れ、苦しみもだえ、悲しみにうちひしがれながら祈るイエス様の姿です。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)。それは目を覚まして、共に祈って欲しいということです。そして、主は少し進んで行って祈り始められました。地面にひれ伏して、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われたのでした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(36節)。

 取りのけてほしい「この杯」とはいったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること――確かにそうです。しかし、それが意味するのはただ単に肉体的・精神的苦痛を伴う死ということではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは何もイエス・キリストだけではありません。それまでにも十字架刑に処せられた人は少なくなかったはずです。現にイエス様と共に二人の犯罪人が十字架にかけられていたことが伝えられています。

 肉体的・精神的苦痛を言うならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人もいたはずです。イエス様が「この杯」と呼んでいるものは、そのように既に誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。では、イエス様に与えられた「この杯」とは何だったのでしょうか。それは神の裁きとしての死なのです。私たち全ての人の罪を代わりに背負って、神に裁かれて死んでいくことだったのです。

 私たちは確かに自分が罪人であるとは思っています。この世が罪に満ちた世であることも知っています。しかし、自分についてもこの世についても罪の大きさを本当の意味では知らないのでしょう。罪が正しく裁かれ、正当な報いを受けるなら、それはどれほど恐ろしいことであるかを知らないのです。それを本当に知っていたのはイエス様です。罪が何であるか。罪ある者が赦しを得るために、身代わりに罪を背負うということがどういうことであるか。それがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しいことであるか。それを知っていたのは、本当の意味で父なる神を知るキリストだけなのです。

 だから主は願い求めたのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、そのキリストの願いに対する答えは、神の沈黙でした。かつてイエスに対して「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)と語られ、また三人の弟子たちに対しても「これはわたしの愛する子。これに聞け」(9:7)と語られた神が、ここで苦悩の中からの訴えに対して沈黙しておられるのです。

 そのように沈黙しておられる神に主は呼びかけます。「アッバ、父よ」と。これは幼い子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。どこまでも信頼を込めて「アッバ」と呼びかけるのです。そのようなイエス様にとって、父の沈黙は父の答えに他なりませんでした。主は分かっておられるのです。そこに神の揺るぎない御心があることを。それゆえ主は祈ります。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。

 そのように神が沈黙される時に、それでもなお全幅の信頼をもって「アッバ」と呼びかけ、神の御心であるならば受けるべき杯をその手から受け取る姿を私たちはここに見るのです。その御方が「立て、行こう」と言われるのです。

誘惑に陥らないために祈りなさい
 しかし同時に、父の御心に子としての信頼をもって従うことが決してキリストにとって容易なことではなかったことをも、私たちはここに伝えられているのです。イエス様の祈りの言葉は先に見たとおり、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と記されていました。それはある意味では完結した祈りです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言うならば、それ以上語るべき言葉はないでしょう。しかし、39節にこう書かれているのです。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。

 もちろんこれは二回祈ったという意味ではありません。最初の時に弟子たちは眠っていたので聞き逃しているはずですから。二回目が同じ言葉であることは分かりません。さらに言えば、二回目の時も眠っていたのですから、同じ言葉で祈っていたのをいったい誰が聞いていたのでしょう。要するに考えられることは、弟子たちが眠りこける前から、イエス様は同じ言葉で繰り返し祈り続けていたということでしょう。あるいはルカによる福音書では「いつものようにオリーブ山に行かれると」(ルカ22:39)、「いつもの場所に来ると」(同40節)と書かれていますから、イエス様はエルサレムに来られてから毎日のようにそのように祈っていたのかもしれません。

 「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。言葉として口にするのは簡単です。しかし、神の御心として苦しみを受け取ること、父の愛を信じて受け取ることはとても難しい。それはイエス様にとっても難しいことだったのです。苦しみの中で繰り返される祈りなくしてはできないことだったのです。そのような祈りなくして、最終的に自ら立ち上がり、「立て、行こう」と前に向かって歩み出すことはできなかったのです。イエス様でさえそうだった。弟子たちならなおさらです。ですから主は弟子たちに言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。

 「立て、行こう」と言われる方に従おうとする時、その御方に従うゆえに、時として負わなくてはならない苦しみがあり悲しみがあります。父の御心としてどうしても受け取らなくてはならない杯がある。聖書はしばしばそれらを「試練」という言葉で表現します。しかし、その同じ言葉が「誘惑」とも訳されるのです。いかなる苦しみも悲しみも「誘惑」となり得る。すなわち神から引き離す力として働くのです。そのような誘惑に陥らないためには、主がゲッセマネにおいてなさったように、同じようにするしかないのです。そこから「アッバ、父よ」と祈る。祈り続けるのです。そこから立ち上がって、前に歩き始めることができるまで祈り続けるしかないのです。ゆえに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と主は言われたのです。

 しかし、立ち上がる時には一人で立ち上がるのではなく、一人で前に歩き出すのではありません。聖書はキリストについてこう書いています。その御方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)と。その御方が言ってくださいます。「立て、さあ行こう」と。

2014年4月6日日曜日

「何のための人生ですか」

2014年4月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章35節~45節


人の子は仕えるために来た
 今日の福音書朗読においてイエス様は御自分についてこう言っておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。

 「人の子」すなわちメシアであるイエス様ご自身は何のためにこの世に「来た」のか。何のためにこの世に生まれ、何のためにこの世に生きているのか。それは「仕えるため」だと主は言われました。それは言い換えるならば、「命を献げるため(与えるため)」だと言うのです。この「命」は「永遠の命」と言う時には使われない言葉です。「魂」とも訳されますが、この世の命のことです。イエス様にとって「仕える」ということはこの世の命を与えることに他なりませんでした。

 今日の礼拝説教には「何のための人生ですか」という題を付けました。皆さんならば何と答えますか。「何のための人生ですか」。イエス様に問うならば、御自分についてこう答えられることでしょう。「仕えるための人生です。与えるための命です」と。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 イエス様の仕え方。イエス様の命の与え方。それはイエス様に固有の事柄であって、全ての人に共通のことではありません。イエス様の仕え方。主はそれを「多くの人の身代金として自分の命を献げる(与える)」と表現しました。「身代金」は解放するために払うお金です。言い換えるならば、その人を買い戻すための代価です。

 「身代金」といいますと誘拐された人の解放を思い浮かべてしまいますが、旧約聖書に出て来るのは、例えば貧しさのゆえに身売りした人を血縁の者が買い戻すために支払う買い戻し金です。その人を買い戻すということは、その人が負っている負債を代わりに支払うということでもあります。他の訳では「あがない」あるいは「贖いの代価」などと訳されています。イエス様の仕え方。それは多くの人の負債を代わりに支払うための代価として自分の命を与えるということでした。

 「多くの人」というのはユダヤ人の表現の仕方で「すべての人」という意味です。全ての人の負債。全ての人の負い目。それは罪の負い目に他なりません。私たち全ての人が負っている罪の負い目。その全てを代わりに支払うために命を与えるということは、全ての人の罪を代わりに負って苦しみを受け、十字架の上で死なれることを意味しました。イエス様はそのためにエルサレムに向かっておられたのです。主は今日の聖書箇所の直前においてもこう言っておられます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33‐34節)。それがイエス様の仕え方、イエス様の命の与え方でした。

 それはあくまでもイエス様に固有の事柄です。私たちはイエス様と同じように罪の贖いとして自分の命を与えることはできません。私たち自身が罪人ですから。自分自身の罪をさえ贖うことはできませんから。私たちはキリストではありません。しかし、「仕える」という点においては同じです。この「仕える」ということに関して、主はあえて自分自身を指し示して語られたのです。

 主は一同を呼び寄せてこう言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42‐44節)。キリストと同じではありませんが、私たちには私たちの「仕え方」があるのです。「命の与え方」があるのです。何のための人生ですか。仕えるための人生です。与えるための命です。

あなたがたの間では
 しかし、ここでイエス様が「あなたがたの間では」と言い、「あなたがたの中で」と語っておられることは重要です。主は一般論を語っておられるのではなくて、具体的な「あなたがた」ついて語っておられるのです。その「あなたがた」はどのような人たちだったのでしょう。

 今日の聖書箇所は、その「あなたがた」がどのような人たちだったかを大変よく表している一つの出来事を伝えています。事の発端は次のとおりです。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」(35‐37節)。

 「栄光をお受けになるとき」とは直訳すると「あなたの栄光の中で」と書かれているのですが、具体的にはイエス様が王となることを指しています。彼らはやがてイエスが王となることを確信していました。だから「一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」という願いが出て来るのです。弟子たちが、そう考えたのも無理はありません。それまでに数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから。とてつもない神の力がこの御方を通して現実に働くことを目撃してきたのです。しかも、この御方の周りに集まってくる人たちは数千人規模に膨れあがっていたのです。しかもイエス様はエルサレムに向かっておられる。待ち望んでいたことがついに実現するのだ!彼らの期待はいよいよ膨らみます。

 その期待の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたのです。ヤコブとヨハネ。兄弟で王座の左右を占めることを彼らは望んだ。いや、望んだだけでなくそれを口にしたのです。直接イエス様に対して。しかも、他の弟子たちの前で。考えてみれば不思議な光景です。普通抜け駆けに関することは裏で話すのであって、表だって話はしないでしょう。しかし、ここで彼らはあえてそれをしているのです。そこに彼らの意識がよく現れています。彼らは自分たちの望みがそれなりの妥当性を持っていると確信しているのです。

 そう思わせる根拠はありました。ヤイロの娘を生き返らせた時、そこに伴うことが許されたのはペトロとヤコブとヨハネの三人だけでした(5:37)。イエス様が高い山に連れて行って御自身の姿の変容をお見せになったのもこの三人でした(9:2)。この二人が他の弟子たちと自分たちを比べてある種の優越意識を持っていたとしても不思議ではありません。あるいはこの三人の中においても互いの比較があったとも言えるでしょう。その中でペトロを出し抜くために兄弟二人が手を組んだのですから。

 このような彼らに対して、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(41節)と書かれています。そう怒ったのです。それは単に出し抜かれたことに対する怒りではありません。明らかにヤコブとヨハネが自分たちの優位を当然として語ったことに対する怒りです。それは自分たちが下に見られたことに対する怒りとも言えます。そのように怒るのは、彼らもまた同じように他者と自分を比較しながら生きているからです。実際、前の章にも「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)と書かれています。皆同じです。これがイエス様の弟子たちです。そのような姿は私たちにも覚えがあります。人を見下してみたり、人をねたんでみたり、高く見られて喜んでみたり、低く見られて腹を立てたり、それがイエス様の言っていた「あなたがた」です。

 そしてさらに考えるならば、互いの比較が起こり、優劣や上下関係が問題となるのは、そこに多様性があるからです。異なるから比較が起こるのです。ものの見方や感じ方、考え方が異なって、時として対立が生じるからこそ、そこで優劣や上下が問題になるのです。そこで「だれがいちばん偉いか」ということが議論になるのです。対立がある時には、相手を従わせたくなるからです。違いが対立を生む時には、相手を同化したくなるからです。

 確かに弟子たちの集団は雑多な人々の集まりでした。そこには漁師もいれば元徴税人もいれば、元熱心党員の者もいたのです。どう考えても一色ではありません。それは後の教会においても同じです。そこにはユダヤ人がおりギリシア人がいる。奴隷がいれば自由な身分の者もいる。男もいれば女もいるのです。それはこの世界全体の縮図であるとも言えます。それがイエス様の言っていた「あなたがた」なのです。

仕え方を探し求める
 その「あなたがた」に対してイエス様は言われたのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43‐44節)。異なる者が共にいるならば、そこには常に分裂へと向かう力が働きます。そこで互いを比較し、優劣を競い合い、それぞれが上に立というとするならば、互いを支配して同化しようとするならば、分裂に至らざるを得ないでしょう。

 しかし、本来、異なる者には異なる「仕え方」があるのです。異なる者には異なる「命の与え方」があるのです。異なる者がお互いに比較するのではなく、優劣を競うのではなく、支配しようとするのではなく、それぞれが自分たちの「仕え方」を探し求めるならば結果は違ってくるのでしょう。「命の与え方」を見つけ出すならば、結果は違ってくるではありませんか。そこでは異なる者たちが対立していた者たちが一つとなれるのでしょう。

 もちろん、そんなことはきれい事だと言う人もいるでしょう。現実離れした理想論、子どもじみたナイーブな思想だと。しかし、私たちは忘れてはなりません。先に見たように、イエス様は御自分を指し示してこれを語られたのです。いわば十字架を指し示して語っておられるのです。十字架の上で血みどろになって自分の命を注ぎだしている姿、そうやって仕える姿を指し示して語っておられるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。それはきれい事ですよ、あまりにナイーブですよ、と言いたいなら、主の十字架の前で言わなくてはなりません。言えますか。


 何のための人生ですか。仕えるための人生です。与えるための命です。「仕え方」を探し出すこと、「命の与え方」を見つけ出すことこそが人生の課題です。ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人というのはピンとこなくても、例えば若者と高齢者、病気の人と元気な人、活気を好む人と静寂を好む人、様々な異なる家庭環境、様々な政治的立場、などなど、私たちにおいても互いの違いはいくらでも挙げることができるでしょう。しばしばそこに分裂へと向かう力が働くことも事実です。しかし、大切なことは、それぞれが「仕え方」を探すことなのです。「命の与え方」を見つけ出すことです。仕えるための人生です。与えるための命です。

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