2014年3月30日日曜日

「試練に押しつぶされないために」

2014年3月30日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章2節~10節


人の子が死者の中から復活するまでは
 今日の聖書箇所が伝えているのは、イエス様の姿が変わったという話です。それを見たのは弟子たちの内、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。それが起こったのは高い山の上でした。どこの山かは書かれていません。いずれにせよ高い山の上というのは非日常的な空間です。ここに書かれているのは、いわば非日常的な空間において三人の弟子たちに与えられた神秘体験の話です。

 およそ宗教の世界に神秘体験はつきものです。ここに書かれている話を世に数ある体験話の一つとして読む人もあるでしょう。しかし、ここで興味深いのは、そのような特別な体験をした弟子たちに対してイエス様があえて口止めをなさったということです。こう書かれていました。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」(9節)。

 なかなか守ることが困難な命令だと思いませんか。これほどの体験をしてしまったら、これほどの出来事を見てしまったら、誰かに言いたくもなるでしょう。一般的に言って、自分だけが持っている情報、あるいは自分だけに与えられた体験はある種の優越感を与えます。ですからそれを示したくなる。口にしたくなるものです。宗教的な世界においてはなおさらでしょう。ですから往々にして宗教的神秘体験は人を高ぶらせます。自分が何か偉くなったかのように錯覚し、自分が他の人よりも上に位置するかのように思い上がるようなことが起こります。

 イエス様の弟子たちにおいてもその誘惑は極めて大きかったに違いありません。というのも彼らの場合、いつもだれが一番偉いかを争っていたのですから。自分たちは特別なのだと言いたくなるでしょう。そのような弟子たちだからこそ、なおさら主は命じなくてはならなかったとも言えます。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」。

 確かに信仰はただ頭の中の事柄ではなく、心の中の事柄でもなく、すべてを越えた生ける神との現実的な関わりです。ですから、神が特別に見るべきものを見せてくださることはあります。しかし、それは人間が誇るためでも優位に立って他者を支配するためでもありません。そこには神の意図があり目的がある。その意図と目的は往々にしてその時には分からないものです。ペトロとヤコブとヨハネはその時を待たねばなりませんでした。「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われたのです。

 人の子、すなわちイエス様が復活するまでは神の意図はわからない。言い換えるならば、彼らが山の上で見たこと聞いたことは、キリストの十字架と復活を経て初めて意味が分かるのだ、ということです。どんなに神秘に満ちた体験であっても、それはキリストの十字架と復活から切り離されてはならないのです。

 そして、実際彼らは十字架と復活を通してその意味を知るに至ったのです。それゆえに語り出した。口止めされていた出来事が、こうして書かれて公にされているとはそういうことでしょう。そして、その出来事の意味はただあの三人にとって重要であるだけではなかったのです。後の教会にとって大きな意味を持っていた。ですからこうして私たちにまで伝えられてきたのです。さて、彼らが目にしたこと耳にしたことは、いったい私たちに何を意味するのでしょう。

十字架へと向かっておられたキリスト
 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2‐4節)。これが彼らの見たことです。

 この三人がこの時には分からなくて、後になって分かったことがあります。彼らと一緒に高い山に登られたイエス様は、この時既に一歩一歩十字架へと向かっていたのだということです。「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われました。復活の前には十字架があるのです。それは既に耳にしていたことではありました。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)と書かれているとおりです。そのように、イエス様は、十字架へと向かっておられたのです。

 だからこそ神は三人の弟子たちに見せたのです。エリヤとモーセがイエスと共にいる姿を。エリヤとモーセは旧約聖書における代表的な人物です。モーセは律法を代表しており、エリヤは預言者を代表しています。つまりこの二人がイエス様と共にいるということは、いわば旧約聖書そのものがイエス様と共にいるということなのです。それは何を意味しているでしょう。イエス・キリストに起こる出来事は、特にその御受難は、十字架における死は、旧約聖書が既に語っていたことの成就だということです。旧約の成就だということは、言い換えるならば、それは神の御心によって起こったことだということです。

 神の御心による苦難なら、苦難は苦難で終わらないのです。十字架は十字架で終わらないのです。そこには神の目的がある。その先があるのです。その先に何があるのか。主はそれを復活と呼ばれました。苦難の向こうに神の栄光の完全な現れがある。それを神は三人に垣間見せてくださったのです。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは見せていただいたのです。この御方に起こる苦難の先に復活があることをペトロとヤコブとヨハネは見せていただいたのです。

これはわたしの愛する子
 それは彼らにとってどうしても必要なことでした。なぜなら、彼らは十字架へと向かうイエス様に従っていくことになるからです。山の上に留まることはできないのです。イエス様は山を下りていく。彼らも下りていくのです。実際、山の上の出来事はそのことをペトロや弟子たちにはっきりと示していたのです。

 ペトロは言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)。何を言ってよいか分からなくて、口をついて出た言葉です。仮小屋などにわかに建てられるはずはないのですから支離滅裂な言葉です。しかし、気持ちは分かります。要するにそこに留まりたかったのでしょう。「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです!」そのすばらしい体験の中に、非日常的な世界に留まっていたかった。しかし、その申し出は却下されるのです。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(7‐8節)。

 「これに聞け」とは「これに聞き従え」という意味です。イエス様に聞き従うとはどういうことでしょうか。実は既にペトロたちに語っておられたのです。主は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。ペトロたちが見たこと聞いたことは、ただ彼らだけのためではなかったのです。他の弟子たちのためでもあり、イエス様の後に従いたいと思うすべての人のためだったのです。

 父なる神はイエス様を指して「これはわたしの愛する子」と呼ばれます。しかし、その「愛する子」は神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。その「愛する子」が山の下へと向かわれるのです。罪深い人間世界へと向かわれるのです。父なる神を愛し、人を愛するゆえに、エルサレムへと、十字架へと向かわれるのです。そして自らの十字架を背負うことになる。その御方に従っていくならば、どうなるのか。従う者もまた自分の十字架を背負っていくことになるのでしょう。

 それゆえ主は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。人が十字架ではなくて百キロのパンを背負って人々に配って歩くなら、その労苦は人々の感謝と笑顔によって報われることでしょう。しかし、十字架刑に処せられる者が百キロの十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。十字架を背負うという労苦は、報いとは縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負ってわたしに従えと主は言われるのです。天の父も「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われるのです。

 それはある意味では厳しい。とても厳しい言葉に思えます。しかし、もう一方において、イエス様が「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言ってくださることは、とても喜ばしいことでもあると言えます。それは少しでも私たちが現実的になれば分かります。私たちの労苦は常に報われますか。私たちの苦しみや重荷に私たちは常に意味を見いだせますか。そうではないでしょう。明らかにそれが愛のゆえの労苦であってもそうでしょう。愛の労苦は常に報われますか。他者のための労苦は、その労苦自体がいつも実を結びますか。そうではないでしょう。この世においては報われない重荷、意味の分からない重荷、賞賛とは結び着かない重荷の方が圧倒的に多いとも言えます。

 しかし、そのような私たちにイエス様は言われるのです。――先に十字架を負われ、そして、先に復活された御方はこう言われるのです。「大丈夫。あなたはあなたの十字架を背負ってわたしについて来なさい。報われない労苦をいっぱい背負ってついて来なさい。わけの分からない重荷を背負っていたとしても、安心してわたしの後について来きなさい」と。そうです。私たちは嘆いていないで良いのです。無駄だった、などと言ってつぶやいていないでよいのです。イエス様の後に従っていったら良いのです。天の父も言われるのですから。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。

 そして、天の父はそう言われるだけでなく、その十字架の先に輝く栄光の姿を見せてくださったのです。それはあの弟子たちにとって必要なことでした。山から下っていくために必要なことでした。主に従って山の下の世界に生きるために必要なことでした。この世においてキリストに従っていく時に苦しみがあり試練があったとしても押しつぶされてしまわないために必要なことでした。だから彼らは人の子が復活した後に語ったのです。語り出したのです。復活の主に相まみえる前に、私たちは既に山の上でその栄光を見せていただいていたのだ、と。

 そのように語り伝えて、語り伝えられた人がまた語り伝えて、ここにいる私たちにも伝えられています。十字架の先に輝く栄光のキリストを指し示して天の父は私たちにも言われます。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。私たちもまた週毎にキリストの復活を思い、そしてその御言葉に耳を傾けて歩んでいきたいと思います。

2014年3月16日日曜日

「主の偉大な力によって強くなりなさい」

2014年3月16日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 6章10~20節


本当の敵と戦うために
 「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(20節)と書かれていました。パウロは獄中において鎖につながれています。彼は自由を奪われています。束縛の苦痛を強いられているのです。

 いや、私たちが知る限り、これはパウロが強いられてきた苦しみのごく一部でしかありません。別の手紙にはこう書かれています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:24-27)。

 幾多の苦しみをパウロは味わってきました。すべて他の人間がパウロに対してしたことです。ユダヤ人がしたことであり、異邦人がしたことであり、盗賊がしたことであり、偽兄弟たちがしたことです。人から受けた傷は残ります。時として何年も何年も。そのように人々から受けてきた夥しい数の傷跡は何年経っても一日たりとも忘れ得ないほどに、彼の肉体にそして彼の心に深々と刻まれていたに違いありません。

 しかし、そのパウロが言うのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12節)。「血肉」というのは人間のことです。私たちの戦いは人間を相手にするものではないのだ、と彼は言うのです。人間相手に戦っていては駄目なんだ、と。

 彼はまさに本当の敵と戦うことの大切さを、その身をもって学んできた人なのでしょう。幾度となく不当な仕打ちに遭ってきました。人間相手の戦いに巻き込まれそうになる場面に繰り返し置かれてきました。しかし、そこからキリストを仰いで、主の受けられた御苦しみを思いつつ、キリストが向かっていた本当の敵が誰であったかを繰り返し確認して生きてきたのでしょう。

 本当の敵とは誰か。それは聖書の用いている表現によるならば「悪魔」です。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)。パウロはここで「悪魔の策略」という言葉を使っています。この世界には悪魔の策略がしかけられている。いつの間にか人間同士の戦いにされてしまうのもその一つです。その策略がいかに巧妙であるかは、人類の歴史を見れば明らかです。人類の歴史は戦争の歴史です。そうです、私たちもまた、人間相手に戦っている時点で既に悪魔に負けているのです。

 しかし、考えてみれば、私たちが往々にして戦ってしまっている「血肉」は、他人ばかりではありません。自分という「血肉」との戦いに巻き込まれていることもまたあるのです。パウロという人は、その意味でも人がいかに「血肉」との戦いに陥ってしまうかを知っている人だったと言えます。彼はこのようなことを書いています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。神の律法に従って正しく生きようとしていた彼が直面していた現実です。言い換えるならば、彼は自分の望むとおりに動こうとしない自分自身と必死になって戦っていたということです。そして惨めに敗れてきたのです。かつてのパウロの姿です。

 それは私たちにも覚えがあります。思い通りにならない自分自身、言うことを聞かない自分自身が現実にいるのです。ですからそんな自分が嫌でたまらない。だから打ち叩いて、ある時には叩きのめすようなことをするのでしょう。しかし、それで服従させられるかと思うとそうもいかない。何も変わらない。それは当然のことなのです。なぜなら本当の敵は自分ではないからです。

 本当の敵は血肉ではありません。悪魔です。ならば本当の強さが必要です。悪魔と戦える強さが必要です。ですからパウロは言うのです。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)。依り頼むべきは自分の強さではありません。主とその偉大なる力です。信仰から来る力と言ってもいいでしょう。それは信仰生活において身につけるべきものです。ですから、身に着けるべき「武具」として表現されているのです。

立って武具を身に着けよ
 その武具とは何か。信仰生活において身に着けなくてはならない武具とは何であるのか。パウロは6つの武具をここで列挙しています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(14‐17節)。

 ここで個々の武具については簡単に触れるに留めます。むしろ、最初に「立って」と書かれていることに注目したいと思うのです。その前に「しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と書かれていますから、いささかくどいようにも思えます。11節にも出てきますし。しかし、それだけまた「立つ」ということにこだわっているとも言えるでしょう。「立つ」というのは11節に「対抗して立つ」と書かれていますように、戦いの姿勢です。主の偉大な力によって強くなることを求め、神の武具を身に着けるとするならば、当然のことながら「戦う」つもりで立たなくてはならない。私たちの戦いとは悪魔との戦いなのだと認識し、まずは立ち上がることです。人間との戦いをやめて、自分との戦いもやめて、悪魔と戦うつもりで立ち上がることです。

 3世紀初頭に書かれた「ヒッポリトスの使徒伝承」という文書があります。それによると古代の洗礼式においては洗礼の前に悪霊追放の塗油が行われていたらしい。そこで洗礼を受ける者は司祭の右に立ってこう宣言することになっています。「サタン、わたしはおまえと、おまえの一切の虚栄と、おまえの一切のわざを捨てる」。すると司祭は油を塗りながらこう唱える。「一切の悪霊があなたから離れ去りますように」。

 つまり洗礼を受けるということは、罪の赦しを受け、死んで甦った者として新しい命に生きることを意味するのですが、その新しい命に生きるとは、悪魔に反旗をひるがえして戦う者として生きることを意味したのです。パウロもこう言っています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:13‐14)。つまり属する軍隊が替わったのです。キリストの支配に置かれたとはそういうことです。

 ですから、古代の教会において洗礼式は「入隊式」とも見なされたのです。洗礼や聖餐を「サクラメント」と言いますが、「サクラメント」とはもともとラテン語でローマの軍隊への入隊式を意味する言葉だったのです。もちろん、反旗を翻したわけですから、悪魔は攻撃してくるでしょう。再び自分の支配下に置こうとするでしょう。神から引き離そうとするでしょう。教会からも信仰からも引き離そうとするでしょう。しかし、私たちはキリストの側にいるのだということを認識して立つのです。そのようにして神の武具を身に着けるのです。ここに書かれているように、それは六つあります。

 第一は「真理の帯」です。真理とはこの場合「正しい教え(正しい教理)」のことです。教会はその始めから教えること、そして学ぶことを大切にしてきたのです。もちろん、信仰生活には体験をもってしか知り得ない事柄があります。しかし、体験を過度に重んじるところに真理からの逸脱が起こってくるのです。私たちは、自分が何を伝えられ、何を信じているのかを明確にし、真理の帯をしっかりと身に付けなくてはなりません。

 第二は「正義の胸当」です。「正義」は他の箇所では単に「義」と訳されています。胸当にすべきは人間の正しさである正義ではありません。神の義です。キリストの十字架を通して罪人を義とし給う神の義です。人間の義は悪魔の前に役には立ちません。悪魔は告発者であって私たちの義に挑戦して来るからです。「おまえは罪人ではないか。神に裁かれて滅びるばかりのものではないか。どこに神の前に立つ資格があるか」と。確かに悪魔の告発の言葉は間違っていません。私たちは自分の正しさをもって神の御前に立つことはできません。だからこそ神の義を胸当としなくてはならないのです。キリストによって救われ、罪をゆるされ、神に義とされた者として、そのように義の胸当てを付けて悪魔に立ち向かうのです。

 第三は「平和の福音を告げる準備」です。これは履物です。履物は動くために履くのです。すなわち行動するためにです。その行動とは平和の福音を告げることです。悪魔は神と人との間に、そして人と人との間に断絶をもたらします。しかし、キリストの十字架は神との間に平和をもたらし、そして人と人との間に平和をもたらしてくださいます。その福音が私たちには与えられているのです。私たちは平和の福音の備えという履物をしっかりと身につけねばなりません。

 第四は「信仰の盾」です。これは体がすっぽりと入る大盾を意味します。神への信頼こそ私たちを守る大楯です。悪魔は様々な火の矢を放ってくることでしょう。それは避けられないことです。しかし、その火の矢で火だるまになる必要もありません。火の矢の火は消すことができるのです。何をもってですか。信仰をもってです。信仰に留まるとき、火の矢の火は消されるのです。

 第五は「救いの兜」です。他の手紙では「救いの希望を兜としてかぶり」と表現されています(1テサロニケ5:8)。この「救い」とは最終的に与えられる救いの完成です。今、私たちはまだ戦いの中にあり、傷つきながら苦闘しているのですが、この戦いは永遠に続くのではありません。勝利の日が来るのです。その希望をしっかりとかぶっていなくてはなりません。

 第六は「霊の剣」すなわち神の言葉です。神の言葉が語られ、神の言葉が聞かれるところに聖霊が働かれます。私たちの生活が御言葉から離れない時、私たちは戦いのための剣を持つのです。

 これらの武具を身に着けるということは、言い換えるならば健全な信仰生活、教会生活を身に着けるということです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」そのように主に向き、主に依り頼む生活をしっかりと身に着けることです。私たちは人間と戦うのではありません。自分と戦うのでもありません。真に思いを向けるべきは苦しみをもたらす誰か他の人でも自分でもありません。本当の敵を認識し、信仰生活を身に着けて悪魔に対抗してしっかりと立てるようになることをこそ求めるべきなのです。

2014年3月9日日曜日

「荒れ野に追いやられたなら」

2014年3月9日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章12~15節


荒れ野に追いやられて
 去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はマルコによる福音書の当該箇所をお読みしました。マタイとルカによる各福音書には、特に悪魔から三つの誘惑を受けた話が書かれています。しかし、今日お読みしたマルコによる福音書の記述は極めてシンプルです。たった2節しかありません。神様はこの短い箇所を通して私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。

 マルコによる福音書における「荒野の誘惑」の箇所においてまず特徴的なのは「イエスを荒れ野に送り出した」という表現です。「送り出した」と訳されているこの言葉、この福音書に何度も出てきます。しかし、ほとんどの場合「追い出す」と訳されているのです。悪霊を「追い出す」という言葉です。そのような激しい言葉がイエス様について用いられているのです。イエス様は追い出されたのです。荒れ野へと。あるいは「追いやられた」と言ってもよいでしょう。ということで、今日の説教題は「荒れ野に追いやられたなら」となっています。

 「追い出す」にせよ「追いやる」にせよ、そこに表現されているのは強制です。本人の意志とは関係なくということです。そのように本人の意志や願望とは無関係にある場所に置かれることはあります。追いやられることはあります。人間の経験としては、むしろその方が多いかもしれません。しかし、その言葉がイエス様について用いられていると何かとても不思議な気がします。きっと違和感を軽減するために「送り出した」と柔らかく訳したのでしょう。

 しかし、この違和感ある言葉がイエス様について用いられていることは嬉しいことでもあります。イエス様が遠いところにではなく、私たちのすぐ側に身を置いてくださっているように思えるからです。イエス様も「追いやられた」のです。「荒れ野に追いやられたなら」という説教題、皆さんならどのように言葉を続けますか。わたしはこう続けたいと思います。「荒れ野に追いやられたなら、荒れ野に追いやられたイエス様のことを思い起こしましょう」と。

聖霊によって追いやられて
 荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、そこに様々なことが見えてきます。第一に、イエス様を荒れ野に「追いやった」のは聖霊であるということ。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)。

 「それから」と書かれていますが、これは「それからすぐに」という意味です。つまりその前に書かれている洗礼の場面と結びつけられているのです。イエス様を荒れ野に追いやった“霊”については、10節にこう書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」それは次のような天からの宣言の言葉と共に降ってきたのでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この神の愛の宣言と共に降って来た神の霊、まさに我が子を愛する父の心そのものであるとも言える神の霊が、その御子を荒れ野へと追いやったのです。

 何を意味しますか。荒れ野に追いやられることは、愛されていないことを意味しない。見捨てられているからではない。そういうことでしょう。「荒れ野」から連想されるのはいくつものネガティブな言葉です。欠乏、飢え、渇き、危険、苦痛、などなど。それらは「愛」という言葉とはどうしても結び着き難い。ですから、欠乏や苦痛の中に追いやられる時、人は神から愛されていない、見捨てられていると感じます。しかし、その時にこそイエス様を荒れ野に追いやったのは、「あなたはわたしの愛する子」と宣言された方の霊であることを思い出さねばなりません。「荒れ野に追いやられたなら」――イエス様が聖霊によって荒れ野に追いやられたことを思い起こしましょう。

サタンから誘惑を受けられて
 そして、荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、次に見えてくるのは、そこでイエス様がサタンの誘惑を受けられたということです。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(13節前半)。

 私たちが生きている限り、誘惑は避け得ません。しかし、今日の箇所では特にイエス様が荒れ野において「サタンから誘惑を受けられた」と書かれているのです。荒れ野には荒れ野ならではの誘惑が待っているということです。

 荒れ野に追いやられたという話で思い起こすのは、エジプトから脱出したイスラエルの人たちが荒れ野へと導かれた話です。彼らは自分たちの意志や願望とは無関係に、とにかく荒れ野を旅せざるを得なかったのです。イエス様が四十日間とどまったということも、イスラエルの人たちが四十年荒れ野を旅したことを思い起こさせます。

 彼らが荒れ野を通らされたのは、明らかに神から見捨てられたからではありません。彼らは神によって救われた人たちです。昼は雲の柱によって夜は火の柱によって導かれていたのです。神がそのように彼らを離れてはいないゆえに、彼らは荒れ野を旅していたのです。確かに荒れ野には欠乏があります。危険があります。苦痛があります。しかし、そこはまた神への信仰が養われ、神の恵みを知る場でもあったのです。荒れ野はまた、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ということを学ぶ場でもあったのです。それは人が真に生きるものとなるためです。

 しかし、そこにはまた誘惑もありました。私たちは彼らが荒れ野における欠乏の中で不満を抱き続け、不平を言い続けたことを知っています。人は欠乏の中にあるからこそ神に思いを向け、神の言葉を求めることもできる。しかし、もう一方において、人は欠乏の中にあるからこそ欠乏に思いを向け、神に背を向けることもできるのです。悪魔はもちろん私たちが後者となることを望んでいるのでしょう。悪魔は私たちを神から引き離すために、私たちに対する誘惑として、欠乏や苦痛や危険をいくらでも用いることができるでしょう。

 マタイとルカによる二つの福音書に書かれているサタンの誘惑は、まさにイスラエルが経験した荒れ野での出来事を思い起こさせるものでした。この福音書には書かれていませんが、他の福音書ではイエス様が四十日間断食したこと、そして空腹を覚えられたことが記されています。そこでサタンはこう言ったのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。

 そうです。空腹の時には食べ物のことしか考えられなくなる。石がパンに見えてくる。そのようにサタンが誘惑してきます。欠乏している時には欠乏が満たされることしか考えられなくなる。悩みがある時にはその悩みがどうしたら解決されるかということしか考えられなくなる。サタンの誘惑です。それゆえにイエス様はあの申命記の言葉を引用して誘惑を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4:4)と。「荒れ野に追いやられたなら」――荒れ野においてイエス様が誘惑を受けられたことを思い起こしましょう。

天使に仕えられて
 そのように誘惑を受けられたイエス様に目を向ける時、次に見えてくるのは、野獣がイエス様と共にいただけでなく、天使たちがイエス様に仕えている光景です。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節後半)。

 荒れ野には野獣がいます。危害を加える存在がいます。イエス様は野獣と共にいました。野獣と共にいるのは荒れ野に追いやられたからです。それが目に見える現実です。しかし、目に見えている現実だけが全てではありません。そこには「天使たちが仕えていた」と書かれています。それは目に見えない現実です。イエス様は野獣と一緒にいました。それは避けられないことでした。しかし、野獣はイエス様を害することができません。なぜなら目に見えない天使が仕えているからです。

 荒れ野に追いやられたなら、天使たちに取り囲まれているイエス様の姿を思い起こしましょう。天使と言っても森永のマークを思い浮かべてはなりません。聖書に出て来る天使は軍隊のイメージですから。しかし、「天使」という言葉に抵抗を覚えるようでしたら、「神のお働き」と言い換えても良いでしょう。どのように表現されるにせよ、大事なことは神がこの世界にも私たちの人生にも関わっておられ、生きて働いておられるということです。

 さて、ここまでイエス様が荒れ野に追いやられたという話を読んできましたが、考えてみれば、これはイエス様の全生涯を象徴している出来事であるとも言えます。天に属する御方がこの世に来られるとは、まさに荒れ野に身を置くことに他ならないでしょう。そこには野獣がいます。確かにいました。イエス様を断罪して十字架にかけてしまう野獣が。祭司長たち。律法学者たち。いや、すべての人間がイエス様にとっては野獣であるとも言えます。

 その野獣によってイエス様は十字架にかけられて殺されてしまいました。野獣しかいなければ、それで話は終わりです。しかし、そこには天使たちが仕えていた。言い換えるならば、神様の御業が進んでいたのです。悪魔の業を打ち砕き、野獣と化している人間を救うための御業が進んでいたのです。そして、確かに神の御業が確実に進んでいたことは、三日目に明らかにされました。

 そのような神の御業の中に私たちもいるのです。たとえ荒れ野に追いやられたとしても。たとえ荒れ野に長く身を置いていたとしても。野獣にしか目を向けられない人は気の毒な人です。荒れ野に置かれている時こそ、神の大いなる御業の中にあることに目を向けなくてはなりません。「荒れ野に追いやられたなら」――荒れ野においてイエス様が御自分に仕える天使たちに取り囲まれていたことを思い起こしましょう。

2014年3月2日日曜日

「向こう岸へ渡ろう」

2014年3月2日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 4章35~41節


向こう岸へ渡ろう
 「その日の夕方になって」と書かれていました。場面はガリラヤ湖畔です。その日、イエス様は集まってきたおびただしい群衆にたとえをもって神の国について教えておられました。イエス様は舟に乗って腰を下ろし、湖の上から語りかけます。群衆は皆、湖畔にいてそれを聞いていました。その日の夕方になると、イエス様は弟子たちに言われます。「向こう岸へ渡ろう」。

 暗くなってから舟を出すこと自体は珍しいことではありません。夜通し漁をすることもあるのですから。また、漁師ですから舟を出して良い日かどうかもある程度はわかります。その日、漁師としての経験からも、舟を出しても良い日と判断したのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と言っても、はるか彼方へ舟を出すわけではありません。せいぜい10キロから20キロの間です。ですからイエス様は無理な要求をしているわけではありません。

 しかし、それでもなお弟子たちにとって、心情的にはそれほど気が進まない話だったと思います。というのも、イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言って指さしていた先は、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている土地だったからです。それは異邦人が住んでいる地方です。5章を見るとその地方の人たちはどうも豚を飼っていたらしい。つまりイエス様が言う「向こう岸」とは、ユダヤ人の感覚からすると汚れた人々が汚れたことをして生活している、そのような土地だったのです。そんなところには行きたくないし、そんな人々とは関わりたくない。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

イエスを起こして
 主がそう言われるので舟を出しました。群衆を後に残し、イエス様を舟に乗せたまま彼らは漕ぎ出します。すると、やがて激しい突風に見舞われることとなりました。経験を積んだ漁師たちでも予測を誤るときがあります。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。ちなみに「水浸し」というのは「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、ついに事態は舟が沈みそうになるほどに深刻だったのです。しかし、その嵐の中にあってイエス様は艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちはイエス様を起こして言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」これが今日の福音書朗読の前半部分です。

 おかしいと思いませんか?嵐なのにイエス様が寝ていることではありません。嵐なのでイエス様を起こした、ということです。ガリラヤ湖と舟に関して彼らは専門家なのでしょう。一方、イエス様と言えば、大工の息子ですから舟に関してはド素人ではありませんか。

 実際、彼らは起こす直前まではそう考えていたと思われます。「眠っておられた」と書かれていました。言い換えるならば、誰もそれまで起こそうとはしなかった、ということです。舟はいきなり水でいっぱいにはなりません。かき出しても水が入るから一杯になるのでしょう。彼らがなんとか舟が沈まないように努力して対処していたとき、イエス様は「眠っておられた」のです。必要ではなかった。素人ですから。嵐の中で格闘している時には、それがファリサイ派のラビであろうがナザレのイエスであろうが大差ないのです。

 ところが、この場面において彼らはそのド素人のイエス様を起こしてこう言っているのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。おかしい。そうです。ここに書かれていることは、それ自体は異常な光景なのです。

わたしたちがおぼれてもかまわないのですか
 しかし、もう一方で彼らの気持ちはよく分かります。なぜなら多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがありますから。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは、実際おぼれそうになったからです。長年の経験と自分たちの持っている技術と持ち前の根性で対処できていたなら、こうは言わなかったのです。おぼれそうになった時には、このようなことは起こります。

 想像してみてください。イエス様が群衆に語りかけていた時、彼らは舟の中にいたのです。一番近いところでイエス様の話を聞いていたのです。神の国の話を聞いていたのです。神の支配について聞いていた。百倍にもなる御言葉の種の話も聞いていた。(特別に解説までしてもらっていた!)そのように、神のなさることについて聞いていた。しかし、嵐の中にあっては、そんな話はどこかへ飛んでしまっています。神の話は神の話。現実は現実。今は現実の方が大事なのであって、神様関係の御方は寝ていてもらっていたほうがいい。素人は足手まといですから。

 このようなことは、私たちにもあるのでしょう。神の話は神の話。現実は現実。この大変な時に神様どころじゃないですよ。聖書や教会の話をしている時じゃないんだ!こんな時に信仰の話でもないでしょう!礼拝どころじゃないでしょう!そうやって、自分の経験や技術や根性で一生懸命に対処しようとしている時には神様のことは後回しになります。しかし、どうにもならなくなった時に気づくのです。そこにおられるのがどのような御方であるか。

 彼らも思い出したに違いないのです。イエス様を通して神の権威が現れていたことを。カファルナウムの会堂で起こった出来事を。汚れた霊に取りつかれた男が叫び出した時、主が「黙れ。この人から出て行け」と命じると汚れた霊が出て行ったのです。また現実に神の権威と力は病気の癒しにおいても現されていたことを彼らは思い起こしたのでしょう。だから、自分の力や頑張りではどうにもならなくなった時、彼らはナザレのイエスというこの御方を通して現れた神の権威を求めたのです。「神の話は神の話。現実は現実」ではなくて、現実の中に神の権威と力が現れることを求めたのです。ならばイエス様を起こさなくてはなりません。おぼれそうなのですから。彼らはイエス様を起こして言いました。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

まだ信じないのか
 するとイエス様はにわかに起き上がり、あのカファルナウムの会堂の時のように「黙れ。静まれ」と命じられました。そして話は「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と続きます。ここから始まる一連の奇跡物語の最初の話です。しかし、奇跡を伝えたいだけならば、話はこれで終わりでしょう。しかし、実際にはまだ続きます。大事なのはその後です。「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(40節)。

 「なぜ怖がるのか」と主は問われます。それは「怖がる必要ないではないか」ということです。風がやんで凪ぎになったから怖がる必要ないのではなくて、まだ突風が吹いているときでも、波をかぶって舟が沈みそうになっているそのときでも、本当は怖がる必要などなかったということなのです。本当に目を向けるべきところに目を向けていたならば!

 そうです。彼らが必死で自分たちの力で対処しようとしていた時に、同じ舟の中にイエス様はおられたのです。「神の話は神の話。現実は現実」と思っていた時に、実はそこにイエス様はおられたのです。そこでイエス様は安らかに眠っておられたのです。何もなさらなかったのです。そうです、奇跡や力ある業によってのみ神の権威と力とは現されるのではないのです。そうではなく、イエス様は眠っていることによって、何もなさらないことによって、奇跡や力ある業を行う以上に、神の圧倒的な権威と力を現しておられたのです。そして、彼らに必要だったのは、ただ信じることだけだったのです。主は言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

イエス様と共に向こう岸へ
 さて、最初の話に戻ります。そもそも、これらのことは「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉に従って漕ぎ出した舟の中での出来事でした。主が指さしていたのは異邦人の地でした。そこには出会いたくない、関わりたくない人々がいるのです。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」。

 教会の歴史は、この「向こう岸へ渡ろう」というイエス様の言葉によって導かれてきた歴史でした。イエス様はユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、ある時から異邦人伝道が始まったからです。

 もともとユダヤ人は異邦人とは一緒に食事はしませんでした。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってくるのです。また当然、全然馴染みのない習慣やものの考え方も入ってくる。感じ方も違う。そういう人たちと共にいることになる。当然、教会の雰囲気そのものも変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、イエス様は言われたのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会は向こう岸へと渡ったのです。

 私たちはどうでしょう。私たちはいつだって安全なところに留まりたいと思っています。自分たちの慣れ親しんだところ、今までの慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟を出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、イエス様は先へと、向こう岸へと行こうとしておられるのです。自分一人ではなく、私たちと共に!ですから私たちにも言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 そこでこそ、あの弟子たちが舟の中において身をもって学んだことを私たちもまた知っておく必要があるのでしょう。舟を出せばいろいろなことは起こってくる。嵐に遭うかもしれません。舟は沈みそうになるかもしれません。しかし、その時こそ、キリストが共におられることに目を向けなくてはならないのです。そして、求められているのは信仰であることを思い起こさなくてはならないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」そこでこそ、「主よ、私たちは信じます。私たちは、あなたと同じ舟の中にいるのですから」と言える者でありたいと思うのです。

以前の記事