2014年2月23日日曜日

「いざとなったら屋根を破壊せよ」

2014年2月23日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 2章1~12節


 今日の箇所には、他人の家の屋根を破壊して病人をつり降ろしたという極めて過激な話が書かれていました。ということで、今日の説教題も「いざとなったら屋根を破壊せよ」という少々激しいものとなっております。しかし、そんな説教題をつけておいて今更言うのもなんですが、この屋根を破壊した行為にばかり気を取られてしまうのは望ましいことではないのです。実はそこにはもっと過激なことをする過激な人物が存在しているからです。

 その過激な人物とはイエス様です。その御方は多くの人の前で、特に律法学者たちもいる場所で、罪の赦しを宣言したのです。しかも、自分が罪を赦す権威を持っていることを主張し、それを示すために行動を起こしたのです。私たちにはピン来ないかもしれませんが、当時の人たちにとって、それは恐らく他人の家の屋根を破壊することよりも過激なことだったのです。そこでまずは、そのイエス様の行動に目を向けることにしましょう。

あなたの罪は赦される
 イエス様はつり降ろされた中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。日本語訳ではいつ「赦される」のははっきりしません。未来のことのようにも読めます。しかし、イエス様が言っているのは、現在のことです。「今、ここにおいて、あなたの罪は赦されるのだ」と宣言しているのです。ですから、この言葉を「あなたの罪は赦された」と完了形にしている写本もあります。主はこの人に、その時その場で罪の赦しが完全に与えられていることを宣言されたのです。

 この宣言がどんな事態をもたらすか、イエス様が知らなかったはずはありません。先にも触れましたように、これは尋常ならざる言葉なのです。普通の教師ならば絶対に口にしない言葉です。罪の赦しのバプテスマを授けていたあのヨハネでさえ口にしなかった言葉なのです。ヨハネが言葉として語り得たのは悔い改めまでだったのです。言葉として口にしたら絶対に問題になる。実際、そこにいた律法学者たちはこの発言を問題ありとしました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。

 彼ら考えていたことは間違ってはいません。罪の赦しは権威と結びついてこそ初めて意味を持つのです。罪に定める権威、断罪できる権威があってこそ、初めて罪の赦しも言い渡すことができるのです。イエス様がなさっていることは、まさに最終的に罪に定める権威を持ち、また罪を赦す権威をお持ちの神と自分とを等しい者とすることに他ならなかったのです。それは彼らの目には神への冒涜としか映らなかった。当然のことでしょう。

 もちろん、イエス様はそんなことは百も承知の上であえてそのことをしたのです。ですから、主はさらに事を押し進められます。彼らが心の中で考えていることを見抜いて、こう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(8‐11節)。そして、その中風の人が癒されたという話が続きます。

 癒しの奇跡はここに初めて書かれているわけではありません。それまでに多くの癒しをなさったことが既に記されています。しかし、ここに至って癒しの行為そのものがはっきりとした主張を持つものとされているのです。「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という部分は「罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るようになるために…」というのが直訳です。イエス様はただ中風の人のために癒しを行ったのではないのです。個人的な事柄ではないのです。「あなたがたが知るようになるために」――そうです、イエス様はあの一人の人に罪の赦しを宣言されただけでなく、この癒しの業によって、自らが罪を赦す権威を持っていること、神と等しい権威を持っていることを公に宣言されたということなのです。

 さて、このような過激な主張を伴ったイエス様の宣教は、御自身が何のためにこの世に来られたのかを明らかに示しています。言い換えるならば、人間が救われるために本当に必要としているのが何であるかを示していると言えます。

 人は病気であれば癒しを求めます。欠乏があれば満たしを求めます。苦しみがあれば解放を求めます。すべてこの世においては必要なことです。しかし、この世において必要とされている全てが最終的には必要ではなくなる時がきます。それは人生の終末であるかもしれないし、世の終末であるかも知れない。いずれにせよ、全ては必要なくなるのです。そこで問われるのは、ただ神との間が平和であるかどうかなのです。

 そして、それはただ最終的に必要なだけでなく、最初から必要なのです。人間が救われるためには、まず神によって赦されねばならない。人間は赦しを必要としているのです。神との正しい関係と交わりの中に回復されねばならないのです。ですから、続く物語において、主は御自分が何のために来られたかをはっきりと語られるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。主は赦しを与えるために来られたのです。

 そして、そのような過激な主張を伴う宣教の行き着く先に何が待っているのかをも主は分かっていたはずです。ご存じのように、主の行為と言葉はやがて主御自身を十字架へと追いやることになるのです。「神を冒涜している」と律法学者たちは心の中でイエス様を非難しました。そして、最終的に最高法院においてイエス様が死に定められた時、その罪状は冒涜罪だったのです。その意味で今日の場面はキリストの受難を指し示しているとも言えます。「子よ、あなたの罪は赦される」という宣言は、やがて十字架と復活を経て全ての人に宣べ伝えられることになるのです。そのようにして私たちにも伝えられたのです。

屋根を壊してでも
 さて、そのように、まずイエス様のなさったことに目を向ける時、ここに登場する人々が屋根を破壊したという行為もまた、私たちにとって大きな意味を持つことになるのです。

 事の顛末はこう伝えられています。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(1‐4節)。

 以前にもカファルナウムの家に大勢の人々が集まったという話が出ていました。シモンとアンデレの家(1:29)での話です。そこでイエス様がいろいろな病気にかかっている大勢の人をいやしたことが書かれています。恐らく、今日の話もシモンとアンデレの家で起こった話なのでしょう。

 シモン・ペトロはこの出来事に真っ青になったと思います。自分の家が集会中に破壊されたわけですから。生涯忘れ得ない強烈な記憶となって残ったに違いない。マルコによる福音書は伝承によればペトロの説教をもとにして書かれたと言われますから、それが本当なら屋根破壊事件がマルコによる福音書に書き残されたこともうなずけます。しかし、それだけが理由ではありません。そこにはこう書かれているのです。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。明らかに、信仰とは何かを教えるための一例として、この出来事は伝えられたのです。

 もちろん、この出来事で信仰のすべてが表現されているわけではありません。また、この時点で中風の人が求めていたのも、運んだ四人が求めていたのも、ただ病気が癒されることだったのかも知れません。しかし、ここには「信仰」というものの本質が確かに示されているのでしょう。イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!たとえ屋根をぶっ壊してでも!――信仰とはそういうものだと聖書は教えているのです。

 肉体の癒しを求めるためでさえ、ここまでやった人たちがいたのだと聖書は伝えています。彼らは病気を癒してくださる人としかイエス様を知りませんでした。それでもなおここまで「イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!」と思って行動したのです。ましてや、この福音書を書いた人も、読んだ人も、そして私たちも知っているのです。本当に近づくべきイエスとは誰か。それは罪の贖いのために十字架にかかられ、そしてよみがえられた救い主であり、それゆえにただひとり神の権威をもって罪の赦しを与えることができる救い主であり、この方こそ、私たちに向かって「あなたの罪は赦される」と宣言することができる御方である、と。

 もちろん、彼らがイエス様に近づこうと思った時に行く手を阻まれたように、私たちがイエス様に近づくのを妨げるものはあるのでしょう。それは時に、この世のしがらみであるかも知れないし、自分の内にあるつまらぬプライドであるかも知れません。人間関係におけるわだかまり、あるいは過去のつまずきが後々までイエス様に近づくのを妨げることもあるのでしょう。様々なものへの執着がイエス様に近づくのを妨げることもある。実際どうですか。今、あなたがイエス様に近づくのを妨げているものはありますか。近づくためには破壊しなくてはならない屋根はありますか。それらは本当に永遠なる神との交わりよりも大事なものなのでしょうか。永遠の救いよりも大事なものなのでしょうか。

 さらに言うならば、あの中風の人は、自分一人ではイエス様に近づくことはできなかったのです。屋根を破壊したのは他の四人だったのです。そうまでもして「連れていきたい」と思ったのです。ここに伝道するキリスト者、伝道する教会の姿を私たちは見ることができます。

 私たちは、自らイエス様に近づくためにここにいます。しかし、それだけではありません。私たちは、誰かがイエス様に近づくのを助ける者としてここにいるのです。あの四人の男たちのようにです。誰かをイエス様のもとにお連れするために、時として屋根を破壊しなくてはならないこともあるのです。その屋根とは、私たちにとって何でしょう。今週はそのことをじっくりと考えてみましょう。誰かをイエス様のもとにお連れするのを妨げているのは何でしょう。

 それが何であれ、聖書ははっきりと教えています。「いざとなったら屋根を破壊せよ!」と。

2014年2月16日日曜日

「種は芽生え育って実を結ぶ」

2014年2月16日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 4章1~9節


よく聞きなさい
 「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」(1節)。

 そこには「再び」と書かれています。前にも似たような場面があったということです。3章7節以下にこう書かれています。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」(3:7‐8)。

 群衆が集まってきたのはイエスの「しておられる」ことを聞いたからでした。イエスのしておられることとは何でしょう。その前にはイエス様が奇跡的に病気を癒された話が書かれています。彼らはその力ある業、奇跡、病気の癒しなどを聞いて押し寄せてきたのです。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」(3:10)と書かれているとおりです。

 そして、恐らくそこに押し寄せてきたのは病気の人だけではないでしょう。そこには病気の人を連れてきた人たちもいた。また、神の癒しを見たいと思っていた人たちもいたに違いない。他の福音書を見ると、イエスの力を見て、この方を王にしようと思っていた人たちもいたようです。偉大なる王、政治的な解放者を求めていた人たちもいたことでしょう。

 そのような人たちが、再びガリラヤ湖畔に集まってきた。それが今日お読みした場面です。様々な求めを持った人たちが押し寄せてきた。その時、イエス様は二つのことをされました。一つは、集まってきた群衆との間にある距離を置かれた、ということです。

 主は前の時と同じように小舟を用意させました。3章に書かれているように、群衆に押しつぶされないようにというのがその理由の一つです。しかし、ここで強調されているのは、イエス様と群衆との間の距離です。「イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」。そのように、イエス様は押し寄せる人々の「求め」からある距離を置かれた上で、こう言われました。「よく聞きなさい」(3節)。そして、今日の箇所はこのようなイエス様の言葉で締めくくられています。「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)。

 人々はイエス様にして欲しいことがたくさんあったに違いありません。言い換えるならばイエス様に聞いて欲しいことがたくさんあったということでしょう。他の人たちにしたように、私をも癒してください。ローマ人たちの支配から私たちを解放してください。私たちのためにその力を現してください。その願いを聞いて欲しかったことでしょう。しかし、イエス様はその多くの声から距離を置いて言われたのです。「よく聞きなさい」と。

 そして、イエス様がなさったもう一つのこと、それはたとえで語る、ということです。今日お読みしたのは、この福音書に出て来る最初のたとえ話です。

 何のためにたとえを用いるのでしょう。私たちが普通例話を用いるのは、伝えるべきことを分かりやすく伝えるためです。しかし、イエス様の場合はそうではなさそうです。今日お読みした箇所には入っていないのですが、イエス様はたとえ話をする理由を弟子たちにこう説明しています。「 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」(11‐12節)。

 鉤括弧の中はイザヤ書の引用ですが、要するに、たとえで話すのは「外の人々」に理解できないようにするためだと言うのです。そう言うと意地悪に聞こえますが、言い換えるならば、内側に身を置いてこそ分かる話として語っているということです。つまりそのように語ること自体が、弟子として主の御言葉を聞くことへの招きとなっているのです。

 実際、「外の人々」として聞くのと、内側に身を置いて聞くことには大きな違いがあるのです。ラビと弟子との関係においてはラビが弟子に向かって語るのです。そのように、集まってきた人々も、イエス様が語る言葉を「ラビが弟子たちに向けて語っているのだな」と外から眺めるようにして聞いていた人たちは少なくなかったことでしょう。ただ癒しを求めてきただけならば、そうなり得るではありませんか。そのように聞くのと、自分に語りかけている言葉として聞くのとでは大違いです。

 誰か他の人にではなく、「このわたしに語られている言葉」として聞いて初めてわかる。自分に関わる話としてその中に身を置いてこそ初めてわかる。それがたとえ話です。イエス様はあえてそのような語り方を選ばれたのです。イエス様は人々の求めから距離を置いて「聞きなさい」と言われました。それは内に身を置いて、自分に語りかけられている言葉として、自分に関わることとして聞きなさい、ということなのです。

あなた次第です
 そこで今日、特に耳を傾けたいのは、この「種を蒔く人」のたとえです。イエス様は「よく聞きなさい」と言って、「種を蒔く人」のたとえを語られます。明らかに、イエス様は御自分のなさっていることを「種まき」として語っておられるのです。

 種は小さなものです。30節以下には「からし種」が出てきますが、それは砂粒ほどに小さいものです。地に落としたら砂粒と見分けがつかないかもしれない。しかし、砂粒と種とは違います。種には命がある。そして、蒔かれた時には何も起こっていないように見えますが、時が来れば芽生え育って、やがては実を結ぶようになる。それが種です。

 イエス様のたとえ話においても、その命の現れが次のように表現されています。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(8節)。そのような、実りをもたらす神の国の種、救いの種をイエス様は蒔いておられたのです。それゆえに言われるのです。「よく聞きなさい」。

 さて、このたとえ話が聖書の中に書かれているとはどういうことでしょう。イエス様のたとえ話を伝えた人たちがいたということでしょう。福音書が書かれる前に、初期の教会が伝えたということです。人々はどこにおいてこれを物語、そして伝えたのでしょう。その第一の場は皆が共に集まる「礼拝」なのです。讃美が捧げられ、聖書が読まれ、キリストの物語が伝えられ、パンが裂かれ、杯が分かち合われる礼拝です。まさにその礼拝において人々は繰り返し復活のキリストの「聞きなさい」という呼びかけを聞いてきたのです。そこにおいて御言葉の種が、救いの種が蒔かれてきたのです。

 それは今も変わりません。私たちは様々な求めをもって集まっているのでしょう。しかし、そのような私たちに復活の主は言われるのです。「聞きなさい」と。そのように御言葉の種を蒔いておられるのです。そして、種は種のままで終わりません。種には命がありますから。種は芽生え育って実を結ぶのです。あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなるのです。そのようにして、神様にしかできないことを私たちの人生になされるのです。神様しか結ぶことのできない神の国の実りを与えてくださるのです。それが信仰生活です。

 しかし、もう一方において、蒔かれた種が常に実るとは限らない。それも事実でしょう。ですから、イエス様は実った話の前に、実らなかった話をするのです。それは種の問題ではなくて土地の問題です。すなわち、神様の側の問題ではなく、私たち人間の側の問題だということです。

 イエス様は言われました。「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(4‐7節)。

 道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑の中です。もともと畑には石がとても多い。その石を一生懸命取り除くのですが、それでも石がかなり残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。また畑には「茨」もつきものです。深い所に根をはっています。だから根は残ります。それが例えば麦などと一緒に延びてくることは、いくらでもあったようです。

 さて、イエス様の話をどのように聞きますか。このような箇所が読まれると、「わたしは道端だ」とか「わたしは茨だらけの土地だ」とか言い出す人が必ずあるものです。かつて私の知人に「石地種夫」というペンネームでものを書いている人がいました。「わたしは石だらけの土地だ」と言いたいのでしょう。しかし、「わたしは道端だ」とか「わたしは石地だ」とか「茨の地だ」と言って卑下したり、言い訳してみたり、あるいは開き直ってみたりすることに、何か意味があるのでしょうか。そうすることで何か良いことがあるのでしょうか。

 イエス様がこのたとえ話をされたのは、明らかに「あなたは道端です」「あなたは石地です」と言って断罪するためではありません。イエス様が一番語りたいのは、御自分の蒔いている種が「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」という、そのような種なのだということなのでしょう。

 いや、それは本当は百倍どころか、とてつもない価値ある救いをもたらす、そのような種なのです。イエス様は言葉で種を蒔くだけでなく、やがては御自身の命を差し出して、十字架にかけられることをさえ良しとして、御自身が宣べ伝えられるべき御言葉となられたのです。すなわち、永遠の命の種となられたのです。そして、復活の主が今も御自分のかけられた十字架を指し示し、なお私たちにその種を蒔き続けておられるのです。「聞きなさい」と言って。

 ならば、道端であることは、とてつもなくもったいないことなのです。石地であることは、とてつもなくもったいないことなのです。茨がぼうぼうと茂ってしまっていることは、とてつもなくもったいないことなのです。初めから受け入れない固い心でいることは、もったいないことなのです。根を深く降ろすことを求めないことは、もったいないことなのです。世のことに思い煩い、富の誘惑やこの世の欲望を野放しに生やし放題生やしているのは、もったいないことなのです。そうやって御言葉の種をないがしろにしていることは、実にもったいないことなのです。

 先ほども言いましたように、道端とは人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。ならば耕せば畑になるのです。石が残っているならば、取り除けばよいのです。茨が生えてきたなら刈り取って捨てたらよいのです。そのように、私たちが「良い土地」のような生活を形作るために、そのような礼拝の生活を形作るために、私たちができることはあるはずなのです。私たちは実を実らせることはできません。それは神にしかできないことであり、神がしてくださることです。しかし、人には人のできることがあるのです。人は人の為し得ることをする。そして、神は神にしかできないことをしてくださるのです。

 「よく聞きなさい」と主は語り始められました。そして、こう締めくくられました。「聞く耳のある者は聞きなさい」。それは言い換えるならば、「あなた次第です」ということです。 

2014年2月2日日曜日

「あなたに伸ばされている神の御手」

2014年2月2日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章40~45節


そこで起こった驚くべきこと
 今日の聖書箇所にはまことに驚くべき出来事が伝えられています。その一つは、重い皮膚病がたちどころに癒されたということ。目の前でこの癒しが起こったらどれほど衝撃的であるかは容易に想像することができます。しかし、実はそれ以上に、そこに居合わせた人たちにとってはわが目を疑うような出来事が少なくとも二つ記されています。一つは、重い皮膚病を患っている人が自らイエス様に近づいたということ。もう一つは、イエス様が手を差し伸べてその人に触れたということです。

 この「重い皮膚病」と訳されている病気。かつては「ライ病」と訳されていました。実際にはいかなる病気を指しているのか定かではありません。しかし、はっきりしていることがあります。この病気が当時のユダヤ人社会においては「汚れ(けがれ)」と認識されていたということです。

 この病にかかった人は、他の人々に近づくことが許されていませんでした。いや、それどころか、人々が誤って触れることがないように、歩く時には「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫びながら歩かなくてはなりませんでした。彼は人々の間に住むことは許されませんでした。家族から追い出されました。町の外に離れて住まねばなりませんでした。重い皮膚病を患うということは、ユダヤの社会において、いわば社会的な生命を断たれることを意味したのです。

 しかし、「汚れている」と見なされることの本当の苦しみは、ただ社会的な隔離に起因するものではありませんでした。「汚れ」の宗教的な意味こそが、その人を苦しめたのです。人々は彼を指さして言ったことでしょう。あの病人が出た家は呪われている。きっと先祖が罪を犯したか、あるいは本人が罪を犯したからに違いない、と。そして、病気の人自身も、自らをそのように見ざるを得なかったのです。私は神に打たれたのだ。私は神から見捨てたのだ、と。不幸な出来事に遭遇した時に、私たちも「神から見捨てられた」と感じることはあるかもしれません。しかし、重い皮膚病の人が神との間に感じていた断絶はもっと深くリアルなものだったのです。

 そのような重い皮膚病を患っていた人が、自らイエス様に近づいていきました。今日の聖書箇所はそのように伝えています。しかも、まさに手の届くところまで近づいたのです。これを目にした弟子たちや共にいた人々の驚愕と憤りに満ちた表情が目に見えるようです。そのようなことをすればただでは済まないことは本人もまた分かっていたはずです。

 しかも、彼は他の誰かではなく、よりによってナザレのイエスに近づいたのです。それはさらに驚くべきことだと言えます。考えても見てください。その時点でイエスの評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まっていました(28節)。その評判とは何か。まさに神御自身がこの御方を通して恐るべき権威をもって働いておられる、という評判です。人々はまさに《主は生きておられる》という現実を見たのです。そのような人のもとに、「自分は汚れている」と思っている人が近づいて行きますか。普通に考えるならば、それは何より恐ろしいことであるはずです。

 それにもかかわらず、この重い皮膚病の人はイエス様に近づいたのです。その驚くべき行動を起こさせる何かがイエス様の内にあったということです。似たようなことがこの後にも書かれています。罪人や徴税人がイエス様の周りに集まるようになるのです。それもまた実に不思議なことでしょう。しかし、そうさせる何かがイエス様の内にあったのです。

 それは何であったのか。徴税人たちや罪人たち、そしてあの重い皮膚病の人が、神の権威や力、罪を裁く神の正義を見ただけならば、絶対に近づくことはなかったでしょう。しかし、そうではなかった。彼らはイエス様の内に《神の憐れみ》を見たのです。その神の憐れみにすがるようにして、その人は言ったのでした。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。

 そして、この場面においても、まさに神の憐れみが見まがうことのないほどにはっきりと形を取って現わされたのです。しかも、驚くべき仕方において。人々はもう一つの驚くべきことを見たのです。主はこの重い皮膚病の人に、その手を伸ばされた。その伸ばされた御手をもって、誰も触れることのなかったこの人に、イエス様は触れたのです。そこには「深く憐れんで」と書かれています。「深く憐れんで」という言葉は、もともと人間の内蔵を表す言葉から派生したものです。内蔵が揺さぶられるような深い感情を表しているのです。

 この誰からも顧みられない人、むしろその存在さえも疎まれるような人、汚れていると見なされ、自分自身でもそう思っていたこの人に対して、内蔵が揺さぶられるような深い思いを抱く方が、もしかしたらこの世にたった一人かもしれないけれど、確かにそこにおられた。そして、その御手が差し伸べられたのです。それはその人にとって、まさに神が憐れみをもって伸ばされた神の御手に他なりませんでした。

今、教会で起こっていること
 「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」。そう書かれているとおり、長年彼を苦しめていた病気は癒されました。しかし、それで「めでたし、めでたし」という話の結末ならば、今日の朗読箇所は半分以下の長さになるでしょう。実際にはそうなっていません。話は次のように続きます。「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい』」(43‐44節)。

 癒されたこの人は、嬉しかったことでしょう。喜びのあまり有頂天になっていたに違いない。しかし、その人を前にして主の表情は変わります。主は厳しい口調で指示を与えたのです。「厳しく注意する」という言葉は「怒鳴りつける」とも訳せる強い言葉です。そのようにして主が命じられたことの一つは「だれにも、何も話さないように」ということでした。癒されたことを言いふらすな、ということです。これについては後で触れます。

 もう一つの指示は、「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」ということです。これは何かと言うと、社会復帰のための正式な手続きなのです。つまりイエス様はきちんと手続きをして「社会に戻れ」と言っているのです。これまでは共同体の外に隔離されていたのです。ある意味では人と関わらないで生きてきた。しかし、彼は今や、人間との社会的な関わりの中に戻っていかなくてはならないのです。場合によっては自分を追い出した家族のところに戻っていかなくてはならないかもしれない。いずれにせよ、彼は自分を一度は追い出した共同体の人間関係に戻っていかなくてはならないのです。浮かれている場合ではないのです。イエス様はその現実に彼を向き合わせるのです。

 人と人との関係に戻ると、そこで何が起こってきますか。様々な葛藤の中に置かれることになるでしょう。それは私たちもよく知っていることです。そして、人間関係における葛藤の中においてこそ、本当の意味で自分の汚れが見えてくるようになるのです。これまで彼は皮膚病のゆえに「汚れた者」とされていたのですが、人間社会における葛藤において、彼は自分の内にある汚れを見ることになるのです。自分の内にねたみがある。悪意がある。傲慢さがある。みだらな思いがある。そして、時には殺意さえも存在する。自分の内に汚いものがいっぱいあることを知ることになるのです。イエス様も後にこう言っています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(7:20‐23)。

 だから彼は病気が癒されて、それで救われたような気になっていてはならないのです。癒されたことだけを喜んで、それを言いふらすようなことであってはならないのです。それゆえに主は「だれにも、何も話さないように」と言われたのです。話すべき時はまだ先なのです。それまでに知らなくてはならないことがあるのです。

 今までは病気のゆえに神との断絶を意識していたのでしょう。しかし、神との断絶をもたらしているのは病気そのものではないのです。それは内にある自分の罪なのです。そのことを知ってこそ、彼は本当の意味で救いを求めることになるのでしょう。キリストのもとにかけよって、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、神の憐れみにすがることになるのです。

 そう考えてみますと、ここに描かれている重い皮膚病の人の姿は、後に罪からの救いを求めることになるであろう彼自身の姿を指し示していると言えるでしょう。そして、さらには、後にキリストの救いを求めることになるすべての人の姿をも指し示していると言えるのです。そうです、これは私たちの姿でもあるのです。

 そして、ここに描かれているように、キリストのもとにかけよって、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、神の憐れみにすがるなら、キリストが手を伸ばして私たちに触れてくださるのです。その時、そのキリストとは、私たちの罪を代わりに背負い、十字架において私たちの罪の贖いを成し遂げて、三日の後によみがえって今も生きておられるキリストです。その御方に触れていただかなくてはならない。「よろしい。清くなれ」という言葉と共に。

 それは今日、どのようにして起こるのでしょう。それはキリストの霊が注がれて誕生した教会の宣教において起こるのです。あの時起こったことが、今も確かに起こっているのです。復活のキリストによって。その体である教会を通して。今、ここに身を置いているということは、そういうことでしょう。

 今日の福音書の場面を想像してみてください。深く憐れんで、手を差し伸べて、あの皮膚病の人に触れておられたイエス様の姿を想像してみてください。「よろしい。清くなれ」と言われたイエス様の御声を想像してみてください。自ら汚れを覚えているあの人を主は退けられませんでした。「汚れた者よ、離れろ」とは言われませんでした。そう、主は言われませんでした。深く憐れんで自ら手を伸ばしてくださいました。私たちにも主の手は伸ばされています。だから今、私たちはここにいるのでしょう。

 そして、主が御手を伸べて私たちに触れてくださる目に見える形、それが洗礼なのです。そして、神の伸ばされた御手は私たちに触れ続けてくださる。最終的に私たちが完全に清められ救われる終わりの時まで。その目に見える形がこれから行われる聖餐なのです。求道中の方々は洗礼への招きを今一度思い巡らしてみてください。洗礼を受けておられる方は、あの人が神の憐れみを求めたように、祭壇の前に進み出て聖餐にあずかってください。

以前の記事