2014年2月23日日曜日

「いざとなったら屋根を破壊せよ」

2014年2月23日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 2章1~12節


 今日の箇所には、他人の家の屋根を破壊して病人をつり降ろしたという極めて過激な話が書かれていました。ということで、今日の説教題も「いざとなったら屋根を破壊せよ」という少々激しいものとなっております。しかし、そんな説教題をつけておいて今更言うのもなんですが、この屋根を破壊した行為にばかり気を取られてしまうのは望ましいことではないのです。実はそこにはもっと過激なことをする過激な人物が存在しているからです。

 その過激な人物とはイエス様です。その御方は多くの人の前で、特に律法学者たちもいる場所で、罪の赦しを宣言したのです。しかも、自分が罪を赦す権威を持っていることを主張し、それを示すために行動を起こしたのです。私たちにはピン来ないかもしれませんが、当時の人たちにとって、それは恐らく他人の家の屋根を破壊することよりも過激なことだったのです。そこでまずは、そのイエス様の行動に目を向けることにしましょう。

あなたの罪は赦される
 イエス様はつり降ろされた中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。日本語訳ではいつ「赦される」のははっきりしません。未来のことのようにも読めます。しかし、イエス様が言っているのは、現在のことです。「今、ここにおいて、あなたの罪は赦されるのだ」と宣言しているのです。ですから、この言葉を「あなたの罪は赦された」と完了形にしている写本もあります。主はこの人に、その時その場で罪の赦しが完全に与えられていることを宣言されたのです。

 この宣言がどんな事態をもたらすか、イエス様が知らなかったはずはありません。先にも触れましたように、これは尋常ならざる言葉なのです。普通の教師ならば絶対に口にしない言葉です。罪の赦しのバプテスマを授けていたあのヨハネでさえ口にしなかった言葉なのです。ヨハネが言葉として語り得たのは悔い改めまでだったのです。言葉として口にしたら絶対に問題になる。実際、そこにいた律法学者たちはこの発言を問題ありとしました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。

 彼ら考えていたことは間違ってはいません。罪の赦しは権威と結びついてこそ初めて意味を持つのです。罪に定める権威、断罪できる権威があってこそ、初めて罪の赦しも言い渡すことができるのです。イエス様がなさっていることは、まさに最終的に罪に定める権威を持ち、また罪を赦す権威をお持ちの神と自分とを等しい者とすることに他ならなかったのです。それは彼らの目には神への冒涜としか映らなかった。当然のことでしょう。

 もちろん、イエス様はそんなことは百も承知の上であえてそのことをしたのです。ですから、主はさらに事を押し進められます。彼らが心の中で考えていることを見抜いて、こう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(8‐11節)。そして、その中風の人が癒されたという話が続きます。

 癒しの奇跡はここに初めて書かれているわけではありません。それまでに多くの癒しをなさったことが既に記されています。しかし、ここに至って癒しの行為そのものがはっきりとした主張を持つものとされているのです。「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という部分は「罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るようになるために…」というのが直訳です。イエス様はただ中風の人のために癒しを行ったのではないのです。個人的な事柄ではないのです。「あなたがたが知るようになるために」――そうです、イエス様はあの一人の人に罪の赦しを宣言されただけでなく、この癒しの業によって、自らが罪を赦す権威を持っていること、神と等しい権威を持っていることを公に宣言されたということなのです。

 さて、このような過激な主張を伴ったイエス様の宣教は、御自身が何のためにこの世に来られたのかを明らかに示しています。言い換えるならば、人間が救われるために本当に必要としているのが何であるかを示していると言えます。

 人は病気であれば癒しを求めます。欠乏があれば満たしを求めます。苦しみがあれば解放を求めます。すべてこの世においては必要なことです。しかし、この世において必要とされている全てが最終的には必要ではなくなる時がきます。それは人生の終末であるかもしれないし、世の終末であるかも知れない。いずれにせよ、全ては必要なくなるのです。そこで問われるのは、ただ神との間が平和であるかどうかなのです。

 そして、それはただ最終的に必要なだけでなく、最初から必要なのです。人間が救われるためには、まず神によって赦されねばならない。人間は赦しを必要としているのです。神との正しい関係と交わりの中に回復されねばならないのです。ですから、続く物語において、主は御自分が何のために来られたかをはっきりと語られるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。主は赦しを与えるために来られたのです。

 そして、そのような過激な主張を伴う宣教の行き着く先に何が待っているのかをも主は分かっていたはずです。ご存じのように、主の行為と言葉はやがて主御自身を十字架へと追いやることになるのです。「神を冒涜している」と律法学者たちは心の中でイエス様を非難しました。そして、最終的に最高法院においてイエス様が死に定められた時、その罪状は冒涜罪だったのです。その意味で今日の場面はキリストの受難を指し示しているとも言えます。「子よ、あなたの罪は赦される」という宣言は、やがて十字架と復活を経て全ての人に宣べ伝えられることになるのです。そのようにして私たちにも伝えられたのです。

屋根を壊してでも
 さて、そのように、まずイエス様のなさったことに目を向ける時、ここに登場する人々が屋根を破壊したという行為もまた、私たちにとって大きな意味を持つことになるのです。

 事の顛末はこう伝えられています。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(1‐4節)。

 以前にもカファルナウムの家に大勢の人々が集まったという話が出ていました。シモンとアンデレの家(1:29)での話です。そこでイエス様がいろいろな病気にかかっている大勢の人をいやしたことが書かれています。恐らく、今日の話もシモンとアンデレの家で起こった話なのでしょう。

 シモン・ペトロはこの出来事に真っ青になったと思います。自分の家が集会中に破壊されたわけですから。生涯忘れ得ない強烈な記憶となって残ったに違いない。マルコによる福音書は伝承によればペトロの説教をもとにして書かれたと言われますから、それが本当なら屋根破壊事件がマルコによる福音書に書き残されたこともうなずけます。しかし、それだけが理由ではありません。そこにはこう書かれているのです。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。明らかに、信仰とは何かを教えるための一例として、この出来事は伝えられたのです。

 もちろん、この出来事で信仰のすべてが表現されているわけではありません。また、この時点で中風の人が求めていたのも、運んだ四人が求めていたのも、ただ病気が癒されることだったのかも知れません。しかし、ここには「信仰」というものの本質が確かに示されているのでしょう。イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!たとえ屋根をぶっ壊してでも!――信仰とはそういうものだと聖書は教えているのです。

 肉体の癒しを求めるためでさえ、ここまでやった人たちがいたのだと聖書は伝えています。彼らは病気を癒してくださる人としかイエス様を知りませんでした。それでもなおここまで「イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!」と思って行動したのです。ましてや、この福音書を書いた人も、読んだ人も、そして私たちも知っているのです。本当に近づくべきイエスとは誰か。それは罪の贖いのために十字架にかかられ、そしてよみがえられた救い主であり、それゆえにただひとり神の権威をもって罪の赦しを与えることができる救い主であり、この方こそ、私たちに向かって「あなたの罪は赦される」と宣言することができる御方である、と。

 もちろん、彼らがイエス様に近づこうと思った時に行く手を阻まれたように、私たちがイエス様に近づくのを妨げるものはあるのでしょう。それは時に、この世のしがらみであるかも知れないし、自分の内にあるつまらぬプライドであるかも知れません。人間関係におけるわだかまり、あるいは過去のつまずきが後々までイエス様に近づくのを妨げることもあるのでしょう。様々なものへの執着がイエス様に近づくのを妨げることもある。実際どうですか。今、あなたがイエス様に近づくのを妨げているものはありますか。近づくためには破壊しなくてはならない屋根はありますか。それらは本当に永遠なる神との交わりよりも大事なものなのでしょうか。永遠の救いよりも大事なものなのでしょうか。

 さらに言うならば、あの中風の人は、自分一人ではイエス様に近づくことはできなかったのです。屋根を破壊したのは他の四人だったのです。そうまでもして「連れていきたい」と思ったのです。ここに伝道するキリスト者、伝道する教会の姿を私たちは見ることができます。

 私たちは、自らイエス様に近づくためにここにいます。しかし、それだけではありません。私たちは、誰かがイエス様に近づくのを助ける者としてここにいるのです。あの四人の男たちのようにです。誰かをイエス様のもとにお連れするために、時として屋根を破壊しなくてはならないこともあるのです。その屋根とは、私たちにとって何でしょう。今週はそのことをじっくりと考えてみましょう。誰かをイエス様のもとにお連れするのを妨げているのは何でしょう。

 それが何であれ、聖書ははっきりと教えています。「いざとなったら屋根を破壊せよ!」と。

以前の記事