2014年12月28日日曜日

「光の中を共に生きる」

2014年12月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節~2章2節


喜びが満ち溢れるため
 先週、私たちはクリスマスを祝いました。キリストがこの世に来られたことを共に喜び祝いました。神の独り子がこの世に来てくださいました。人間が目で見たり、手を伸ばして触れたりすることのできるほどに近くまで来てくださいました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」(1節)とヨハネが書いているとおりです。

 ヨハネがその御方の内に見たものをひと言で表現するならば、それは「命」でした。ヨハネはさらにそれを「永遠の命」と表現します。「永遠の命」とは何でしょう。「命」の本質は「愛」にこそあります。愛し合って共に生きている時に、人は本当の意味で生きているのです。憎み合っている時、人は命を失っているのです。命とは愛に満ちた交わりです。永遠の命とは神との愛に満ちた交わりです。

 イエス様はこの世に来られて、永遠の命を見せてくださいました。父なる神と共に生きるということがどういうことかを見せてくださいました。神を「アッバ、父よ」と呼びながら、その愛と信頼に満ちた交わりを実際に見せてくださいました。そうです、ヨハネは確かに永遠の命を見たのです。彼は言います。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(2節)。

 いや、ヨハネは見せていただいただけではありませんでした。弟子たちはキリストと共に「天におられるわたしたちの父よ」と祈る者とされました。そのように、キリストと共に、また父なる神と共に生きる者とされました。永遠の命にあずかって生きる者とされました。

 そして、ヨハネは今、御父と御子イエス・キリストとの交わりへと他の人々を招きます。手紙を書いて、この読者をも招きます。どのようにして。この世に現れた「永遠の命」を伝えることによってです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。

 その目的は何でしょう。彼はさらに続けます。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)。二回「わたしたち」が出てきますが、一回目と二回目は意味合いが違います。最初の「わたしたち」は永遠の命を伝える「わたしたち」です。そこには伝えられる「あなたがた」がいるのです。しかし、その「わたしたち」と「あなたがた」が一つとなって、一つの「わたしたち」になるのです。これが二つ目の「わたしたち」。その一つとなった「わたしたち」の喜びが満ち溢れるようになるためにこれを書いているのだ、とヨハネは言うのです。

 そして、一つとなった「わたしたち」がさらに誰かに永遠の命を伝える。そして、伝えられた「あなたがた」と伝える「わたしたち」が一つとなっていく。そこに喜びが満ち溢れる。教会が二千年間続けてきたのはこのことです。そのようにして、私たちにも伝えられたのです。そして、伝えてきたのです。そして、喜びを共にしてきたのです。それが目に見える形ではっきりと現れるのは洗礼式でしょう。先週の日曜日に二人の方が洗礼を受けられました。洗礼を受けた二人も喜び、他の者も皆喜び、一つとなった「わたしたち」が共に喜びにあずかりました。

 御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。こうして一緒に神を誉め讃え、神の言葉に耳を傾け、神に祈り、神への信仰を共に言い表すところに、教会の喜びがあるのです。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

光の中を歩む
 そのためにも、5節以下に書かれていることは重要です。そこには私たちが共に神との交わりを持って生きようとする時に、どうしても避けては通れない事柄について書かれているからです。すなわち、信仰をもって生き始めてなお犯してしまう罪の問題です。一方において、神に従いたいと思う自分がいる。しかし、もう一方において神に背いた行いをしてしまう自分がいる。キリストを信じて新しく生まれた私は確かにいる。しかし、もう一方において古い自分も生きている。いや信仰生活が長くなれば、なおさら自分の罪深さの自覚も増してくる。それは信仰生活において誰もが経験する事だろうと思います。

 そこで私たちが心に留めるべき第一のことは、5節に書かれている「神は光である」というメタファーです。神は光である。その神と共に生きていくならば、当然、光の中を生きていくことになる。信仰生活とは光の中を共に歩んでいくということなのです。

 それまで暗闇の中を歩いていた人が、光の中を歩き始めるなら何が起こってくるでしょう。それまで見えなかったものが見えてくるのです。自分自身の問題も見えてくる。自分は正しいと信じて疑わなかった人が光の中を歩き始めると、自分は決して正しくはないということが見えてくる。周りの人たちの悪に憤っていた人が光の中を歩き始めると、自分の内にこそ悪があることが見えてくる。信仰者として生き始めたら、かえって自分が悪い人間になったように感じることがあります。しかし、「神は光である」ということならば、それは当然起こってくるはずのことなのです。

 私たちは、「神は光である」ということ、そして信仰生活とは光の中を歩くことだということを心に留めねばなりません。そこで重要なことは何か。闇の中に戻らないということです。見えてきたものも、光を遠ざければ見えなくなるでしょう。そのように、自分自身を神から遠ざけてしまうなら、自分自身をも見ないで済むかもしれません。あるいは見えてきたものに対して目を閉じてしまえば、見ないで済むのでしょう。それは実質的には暗闇に身を置いているのと同じです。

 この手紙が書かれた頃、光の中を歩む生活とは全く相容れない思想を唱える教師たちが教会の中に入り込んできていました。彼らは霊肉二元論によって、この肉体を魂の牢獄として考えた。すなわち真で善なる魂は肉体という牢獄に囚われているのであって、この肉体が行うことになんら責任を負うことはないし、なんら影響を受けることもないとしたのです。そして、その牢獄である肉体から魂が解放されるところにこそ救いがあると教えたのです。それはある意味ではとても魅力的な思想でした。何をしても罪であると考える必要はないからです。実際、「わたしには罪はない」と主張する人々がいたのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)。その思想によって自分の罪を見ないで済むようになるかもしれないけれど、それは闇の中を歩くことに他ならないのだと彼は言うのです。実際、当時の異端思想によらずとも、私たちもまた、闇の中を歩ませ、罪を罪として認めないようにさせる様々な思想に取り囲まれているのでしょう。しかし、闇の中を歩くところに満ち溢れる喜びなどないのです。

罪を告白するなら
 大切なことは、光の中を歩き続けることです。ヨハネは言います。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが暗闇の中を歩いてしまうなら、もはやキリストとの関わりはなくなります。キリストの十字架も罪の贖いも不必要でしょうから。光の中を歩くところにこそ、キリストとの交わりがあるのです。そこには私たちの罪のために血を流してくださったキリストがおられるのです。私たちの罪を清める御方として共にいてくださるのです。

 ではどのようにして、光の中を歩き続けるのでしょう。この手紙は次のように続きます。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(8‐9節)。

 ここに書かれているように、「自分に罪がない」と言わないことです。むしろ「自分の罪を公に言い表すなら」と書かれています。聖書協会訳では「告白する」となっています。もともとは「同じことを言う」という意味の言葉であり、「同意する」という意味を持っています。それは必ずしも人々の前に言い表すことを意味しません。罪を告白する。それはまず神に対してです。神と同じことを言うのです。神に同意するのです。神が罪だとするならば、「その通りです」と罪を認めることです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 神との交わりの中に留まるためには、神の御前で正直であることです。暗闇の中に身を置いてしまわないことです。そのようにして御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの互いの交わりもあります。そこに私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

2014年12月21日日曜日

「神にできないことはない」

2014年12月21日 クリスマス礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章26節~38節


主があなたと共におられる
 今年のクリスマス礼拝で読まれましたのは「受胎告知」として知られている場面です。天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に住むひとりの娘の前に現れて、こう言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。マリアは戸惑ったと書かれています。それはそうでしょう。天使がいきなり現れて戸惑わない人はいません。しかし、聖書には「マリアは天使を見て戸惑った」とは書かれていないのです。「マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。戸惑いの元はマリアの聞いた言葉にありました。

 「戸惑い」と書かれていますが、他の翻訳では「ひどく胸騒ぎがして」となっています。「おめでとう、恵まれた方」。これは聞いて胸騒ぎがするような言葉でしょうか。それ自体は、喜ばしい何かを期待させるような言葉に思えます。では、「主があなたと共におられる」。これについてはどうでしょうか。これもまた喜ばしい言葉に思えます。

 ところが、マリアはこれを聞いて胸騒ぎを覚えたのです。戸惑ったのです。「主があなたと共におられる」。もし主が、私たちの困った時に助けてくださるというだけの神様なら、「主があなたと共におられる」という言葉は単純に喜ばしい言葉でしょう。もし主が、私たちの悲しみや苦しみの時に慰め励ましてくださるというだけの神様なら、「主があなたと共におられる」という言葉は単純に喜ばしい言葉でしょう。しかし、マリアには分かっていたのです。「主があなたと共におられる」とは単にそのような意味ではないことを知っていたのです。

 「主があなたと共におられる」。そう言われる時、その「主」なる神様には行おうとしておられることがある。実現しようとしておられることがあるのです。そのような「主」が「あなたと共におられる」と言われる時、主は何かを実現するために「あなた」という存在を用いようとしておられるのです。

 聖書の中にこんな場面があります。今から三千年以上も前、かつてイスラエルの民がエジプトにおける奴隷であった時、その奴隷の民を解放するために神様が選ばれたのはモーセという人物でした。彼はその時、ミディアン地方に住む羊飼いでした。いつものように羊を飼っていると、そこで不思議な光景を目にします。柴が燃えている。そして、その柴は燃え尽きない。不思議に思って近づくと、その柴の間から声がありました。「モーセよ、モーセよ」。そして、主はこう言われたのでです。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト3:9‐10)。

 「今、行きなさい」と言われても困るでしょう。かつてはどうであれ、今は一介の羊飼いに過ぎないのですから。ですからモーセは言うのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

 しかし、そこで主はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同3:12)。モーセが自分の実力で人々を解放するのではないのです。そうではなくて、神がなさるのです。神がモーセを用いてなさるのです。「わたしはあなたと共にいる」とはそういうことです。そして、実際、神はモーセを用いてイスラエルの民の解放を成し遂げられたのです。

 そうです。マリアには分かっているのです。主なる神がどのような御方であるか分かっているのです。神は人と共にいて、人を用いられる神様だということを。人を用いて事を始め、事を進め、事を成し遂げられる御方だということを。だから「主があなたと共におられる」という言葉を聞いた時に、胸騒ぎがしたのです。主が何かをなそうとしておられる。その主が共におられる。主がわたしを用いようとしておられる。それはある意味ではとても不安なことでもあるのでしょう。

神にできないことはない
 そして、実際、天使が持ってきた話はマリアの想像を遙かに超えたものでした。ガブリエルはこう言ったのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30‐33節)。

 「あなたは身ごもって男の子を産む」。それはマリアにとって驚くべき告知です。もしそれがヨセフと結婚する前に身ごもるという話であるならばなおさらです。ユダヤ人社会においては絶対に認められないことですから。

 しかし、マリアにとって恐るべきことであったのは、むしろその子が何者であるかということでした。「いと高き方の子」「父ダビデの王座」「その支配は終わることがない」。それら全ての言葉は、生まれくる子供がイスラエルの待ち望んできたメシアであることを示していました。つまり天使は、「ついに待ち望んできた救い主が到来するのだ。そして、救い主の到来のために母として用いられるのが他ならぬあなたなのだ」と言っているのです。「おめでとう、恵まれた方!」と。

 これは羊飼いのモーセがイスラエルの解放者として選ばれたどころの話ではないでしょう。「あり得ない!」マリアがそう思っても無理はありません。イスラエルにおけるメシア待望というのは、にわかに湧き起こってきたものではないのです。それこそ何百年にわたって人々が待ち望んできたことなのです。それがマリアから産まれる子供として実現するというのです。マリアは神の子の母となるのです。

 もちろん、マリアも敬虔なユダヤ人の一人ならば、同じように救い主の到来を待ち望んできたことでしょう。神の救いが実現することを切に望んできたことでしょう。しかし、ただ神の救いを待ち望むことと、そこに自分が用いられるということは、まったく別な話です。かつてモーセは言いました。「わたしは何者でしょう!」ならばマリアはなおさらそう言いたかったはずです。「なぜわたしが?なんら特別ところのないとりえもないわたしがなぜ?」

 実際、聖書はマリアについて何の特別なことを伝えてはいません。ごく当たり前のどこにでもいるような娘だったということでしょう。マリアとしては自分がいかにその資格がないかを言い並べたかったに違いありません。そもそも、身ごもって男の子を産むと言われても、まだ結婚すらしていないのです。彼女は言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。

 しかし、神様からすれば、人間の側から見て資格があろうがなかろうが、人間の目から見て可能であろうが不可能であろうが、そんなことはどうでもよいのです。神様が事を行うために神様が用いるのですから。

 それゆえにガブリエルはこのように答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。生まれる子が聖なる者、神の子と呼ばれるとするならば、それはマリアがどのような人物であるかによるのではないのです。当たり前のことですが、マリアの胎に宿る子は、マリアの資質を受け継いで救い主となるわけではないのです。それは聖霊によるのです。神の霊が降り、神の力によって実現することなのです。

 そして、実際に人間の可能性によってではなく、ただ神の力によって実現した出来事を伝えます。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」そして、こう言ったのです。「神にできないことは何一つない」。

 これが単に一般的な意味における神の全能について語っているのではないことは、話の流れから明らかでしょう。「神にできないことは何一つない」。それは、人間の側の可能性によらず、人間の側の限界にかかわらず、神はどんな人をも用いることがおできになる、ということです。

 私たちは往々にして「何ができるか」「何ができないか」「何を持っているか」「何を持っていないか」「強いか」「弱いか」――そんなことをお互い気にしながら、お互い比較しながら生きているものです。けれども、神の御前において本当に重要なのはそのようなことではないのです。人間にできなかろうと、「神にできないことは何一つない」のですから。神はどんな人をも用いてどんなことをも成し遂げることがでおできになるのです。

 大事なことは別にあります。それはマリアがここでしていることです。マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。「神にできないことは何一つない」という言葉を聞いて、マリアはその神の御手に自分自身を差し出したのです。どう考えても自分がふさわしいとは思えない。実際、自分がどのように用いられ、どのようなプロセスを経て、主の約束の言葉が成就するのかも分からない。しかし、それでもなお、今あるがままの自分自身を主に差し出したのです。

 今日、お二人の方々が洗礼をお受けになります。お二人にはぜひ覚えておいていただきたい。あなたがたは何か特別な人間になる必要はありません。どうぞ今あるがままの自分自身を主に差し出してください。主は救いのご計画の中でお二人を用いてくださいます。どうぞ天使の言葉を心に留めてください。「神にできないことは何一つない」。

2014年12月14日日曜日

「沈黙の恵み」

2014年12月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章5節~25節


 イエス・キリストが年およそ30にして公の活動を始めるに先立って、ユダヤに現れ一世を風靡した人物がいました。洗礼者ヨハネです。彼はイエス・キリストの先駆者的役割を果たすこととなりました。今日お読みしたのは、その洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。

主は恵み深い
 洗礼者ヨハネの父親はザカリアという祭司でした。母親のエリサベトもまた祭司の家系に属するアロン家の娘でした。彼女については次のように語られています。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)。そのような二人の間に神によって与えられたのがヨハネでした。明らかにその誕生自体は神の奇跡として描かれています。しかし、今日の聖書箇所において重要なのはその誕生が予告されたということです。

 「予告」は聖書にしばしば出て来るモチーフです。アブラハムはイサクの誕生を予告されました。マノアの妻はサムソンの誕生を予告されました。マリアはイエスの誕生を予告されました。聖書の中で神様は予告をされるのです。人間の意向を打診しないで、一方的に予告するのです。何を意味しますか。人間の意向とは関係なく天において定められていることがある、ということです。

 それはヨハネという名前の命名の仕方にもよく現れています。イスラエルにおいて子供の名前は父親が付けるのが習わしでした。しかし、ザカリアに現れた天使はこう言ったのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)。神様は父親であるザカリアが子供の名前を決める前に、その子の名前を勝手に決めてしまわれたのです。

 親が考えるべき名前を神様が先に定めておられたというのは実に象徴的です。この子供の人生については、親が何を願おうが、何を考えようが、親の思いとは関係なく神様が定めておられることがある、ということです。その子供を通して神様がなさろうとしていることがある。主のご計画が先にあるのです。

 実際、その子の人生についての予告が次のように続きます。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(14‐17節)。このことについては、その親でさえ関与することができないのです。ザカリアがヨハネの命名にさえ関わることができなかったようにです。

 そのように人間の関与できない神の定めとご計画というものがある。それは私たちの経験とも一致します。私たち自身についても、私たちの人生についても、ほとんどの事柄は私たちの意志や意図とは関係なく定められたものです。親にも私たち自身にも神様は意向を打診してはくれませんでした。生まれる前から定められていることは山ほどあります。

 人間が関与できない神の定めとご計画がある。それはある意味では私たちにとって恐ろしいことに思われます。私たちは常々物事が私たちの願い通りに運ぶことを望んでいますから。そして、そうなるようにできる限りの事をしているのでしょう。ですから自分のコントロールの及ばないことがあるのはいやなのです。それは恐ろしいことでもあるのです。

 しかし、神様は御使いをザカリアにこう言われたのです。「その子をヨハネと名付けなさい」。人間の意向とは関係なく付けられた名前、それは「ヨハネ」でした。それは「主は恵み深い」という意味です。主は恵み深い――ならば、ザカリアは我が子に名前を付けることができなくてもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分が関与できない主のご計画があってもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分のコントロールが及ばなくてもよいのでしょう。そうです、ただ一つのことを知っていればよいのです。それは「主は恵み深い」ということです。

 その「ヨハネ(主は恵み深い)」と名付けられた子は、やがて天使の告げられた通り、人々を主に立ち帰らせる人となり、イエス・キリストの先駆者となりました。「イエス」という名前は「主は救い」を意味します。その名前もまたヨハネの時と同じように先に神によって定められ告知されたものでした。そのように、イエス様の人生にも、親が関与することのできなかった、定められた計画がありました。それは最終的に十字架にかかって全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。そのように「イエス(主は救い)」と名付けられた御方において、「ヨハネ(主は恵み深い)」という事実が完全に現されることとなったのです。私たちは確かにそのことを知らされているのです。

沈黙の恵み
 しかし、今日の聖書箇所はただ天使による予告の話に留まりません。やはりこの箇所において私たちの目を引きますのは、ザカリアの口が利けなくなったということであり、しかもその理由が「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)と語られていることでしょう。

 口が利けなくされた。それは天罰でしょうか。神の予告を信じないと罰せられるという話でしょうか。それにしても、十月十日の間口が利けなくなるというのは少々厳しすぎやしませんか。この場面だけを見ますとそんなことを考えてしまいますが、先の方まで読みますと、どうも当のザカリア自身はこれを神の罰として耐え忍んできた様子でもないのです。

 子供が産まれて八日目、割礼を施して子供に名前を付ける日に、ザカリアは字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と聖書は伝えているのです。言葉が話せるようになった時、最初に出てきたのが神への賛美だったということは、言葉が話せない時にも既に心の中に神への賛美が満ちていた、心の中では神を賛美していた、ということでしょう。このように、口が利けなかった期間は決して罰などではなく、ザカリアにとっては賛美が満ちるプロセスだったことが分かるのです。

 既に見てきましたように、生まれてくるヨハネには親も関与することのできない、既に定められた神の計画がありました。そのように人間が関与することのできない神の定め、神の計画というものはあります。私たちについてもあります。しかし、人間は計画そのものには関与できないにせよ、それはヨハネの誕生の物語やイエス様の誕生の物語を見ても分かりますように、神様単独で実現するのではないのです。神様は人間を用いて、人間を通して実現されるのです。神の御子はマリアの胎に宿ってからこの世に誕生するのです。神様はあえてそうなさるのです。さらに言えば、主は御自身の救いを実現するのに、あえて教会の宣教という手段を用いられるのです。主はそうなさってきたし、今もそうしておられます。

 そのように神は人間を用いて事を進められます。そこで人間に求められているのは何か。信仰なのです。かつてアブラハムがイサクの誕生を予告された時もそうでした。求められていたのは信仰でした。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と天使はザカリアに言っています。一方、妻のエリサベトは後にマリアにこう語っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このように、主とその御言葉を信じるか信じないかということは、主の目に決して小さなことではないのです。

 ところで、日本語の「信仰」という言葉は、事柄を的確に表しているように思います。同じ言葉を「信心」とは訳さないのです。あくまでも「信じて仰ぐ」と訳すのです。信じて仰ぐなら目を向けている先はあくまでも神様の側です。こちら側ではありません。

 ところが私たちは往々にしてこちら側のこと人間の側のことばかりに目が行きます。こちら側の事ばかりが気になります。ザカリアも言っていますでしょう。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。そのように、こちら側に目が行って、主がなさろうとしていることがあるのだ、主が定め、主が計画し、主が実現しようとしていることがあるのだ、という方向にどうも目が行きません。神様のなさることならば、それは時として人間の常識や限界を越え出るような仕方で実現されるのだ、というところになかなか目が行きません。

 実際、私たちも同じようなことを言っていることがあるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。わたしは病弱ですし、能力もありませんし、性格も良くありませんし、不注意でミスばかりしてますし、家族の問題もありますし、云々。教会についても同じようなことが言えるでしょう。十分な人数がいませんし、経済的にも十分ではありませんし、互いの間にいろいろ問題もありますし…。このような私たちを用いて神様が神様の御業を進めようとしているのだということ信じない理由なら、いくらでも挙げられるのです。こちら側を見ていれば。いくらでも見えてくるし、列挙することができるでしょう。

 ザカリアもそうだったと思うのです。信じないためのこちら側の理由はいくらでも語り続けることができたのでしょう。しかし、主は恵み深い御方でした。彼を強制的に黙らせたのです。沈黙させたのです。そうです、人間は黙らなくてはならない時があるのです。神様の前で人間の側のことを並べ立てることをやめて、黙らなくてはならない時があるのです。私たちが黙らなければ、ぶつぶつ言い続け、こちら側のことを言い続けるならば、時として強制的に黙らされることもあるのです。そのように、沈黙して、ただひたすら神の定めとご計画、それを実現する計り知れない神の力に思いを向けるべきときがあるのです。

 ザカリアはこの沈黙の恵みをいただいて、その内に主への賛美が満ちてゆき、主への賛美が一杯になって、やがて開かれたその口から賛美が溢れ出しました。このアドベントの時、私たちも同じ恵みをいただいて、私たち自身の内に主への賛美を満たしていただき、来る御子の御降誕の祝いにおいて心からの賛美を共に捧げたいものです。

2014年12月7日日曜日

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」

2014年12月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 55章1節~11節


 主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と。「来なさい」と主は繰り返されます。渇いたまま、何も持たないまま、来なさい、と。

渇いている者は来るがよい
 エルサレムが破壊され、ユダの国が滅亡し、主だった人々がバビロンに捕囚とされて既に50年近くの月日が過ぎようとしていた頃、捕囚民たちは皆、新しい時代の到来を肌で感じていました。バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は被占領民族を支配するに当たり、その民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったのです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰り、エルサレムを再建することが許されたのでした。ついに解放の時が来たのです。

 今日の第一朗読はそのような時代を背景とした預言です。で主は預言者を通して語られたのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。

 これは何を意味するのでしょうか。ただ故郷に帰れる時が到来したのではないということです。神のもとに帰るべき時が来た。それこそが重要なのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる方のもとに帰るべき時が来たのです。いわば信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たのです。

 バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。バビロンが提供してくれるもので自分を満たさなくてはならない時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)。

 良きものは主から来るのです。本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「とこしえの契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。

 さてこれらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、彼らは旅立ったのです。それは故郷への旅立ちではなく、まさに主のもとへと行く旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰の生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。

近くにいますうちに
 しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
 廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが直面したのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背くということ、背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという事実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。

 そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのでしょう。そこで人は神の御前に恐れを覚え、聖なる神と罪ある人間との埋めることのできない大きな隔たりを思わざるを得ないのです。

 しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られるのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。

 なんと主は近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださるのです。主が近くにおられるのは、裁いて滅ぼすためではありません。豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。

わたしの道は異なる
 とはいえ、現実に罪のもたらした荒廃が目の前にある時に、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しいのかもしれません。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。

 しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。

 私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。

 「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。

 エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。

 主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。

 さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。

 キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。

 私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。

2014年11月30日日曜日

「心が鈍くならないように」

2014年11月30日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 21章25節~36節


 今日からアドベント(待降節)に入ります。教会の暦におきましてはアドベントから新年が始まります。この「アドベント」という呼び名は「到来」を意味するラテン語に由来します。「キリストの到来」です。アドベントは、今から約二千年前にキリストがこの世界に到来したことを思うだけでなく、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られることを思う期間でもあります。そのようにアドベントは一年の初めに置かれていますが、内容的には「始まり」よりむしろ「終わり」に思いを向ける期間でもあると言えます。

身を起こして頭を上げなさい
 ところで「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。一般的に「世の終わり」という言葉が用いられる時に人がイメージするのは後者でしょう。

 今日の聖書箇所においてイエス様もまた「終わり」について語っておられますが、その言葉の多くは破局としての「終わり」を連想させるものです。今日の朗読箇所の直前にはエルサレムの滅亡が予告されています。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20節)。そして、この予告は約40年後に実現することとなります。エルサレムの滅亡はユダヤ人にとってまさに破局です。

 そして、今日の箇所に入って、イエス様はユダヤ人だけでなく他の諸国民にとっても破局としか思えないことを語り始めるのです。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(26節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわば、世の信頼できる秩序はもはや何も残っていないということです。そこで人は「なすすべを知らず」、不安と恐れを抱きます。主は明らかに破局としての終わりについて語っているように見えます。

 しかし、イエス様はさらにこう続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(27‐28節)。

 解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。「雲に乗って」という表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7:13)。要するに人間が普通考えるような仕方では来ない。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で来られるということです。

 だから、この世界が無力感と不安と恐れに包まれる時、同じように不安と恐れに支配されてはならないのです。その時こそ、あなたがたが身を起こし、頭を上げるべき時だ、と主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

わたしの言葉は決して滅びない
 そこでイエス様はさらに重ねて、たとえを用いて語られます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(29‐31節)。

 これも普通に読むならば、とても変な話だと言えます。葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。それは聴いている人たちが経験から知っていることでした。「葉が出始めたこと」から「夏が近づいたこと」は自然に連想できることなのです。そして、「それと同じように」と主は言われるのです。「それと同じように」ならば、どういう言葉が続くのが自然でしょう。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」となるのでしょう。不安や恐れを抱かせる出来事が起こるのを見たら、自然に連想できることですから。しかし、イエス様はそうは言われないのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。

 「あなたがたは」とは、「わたしを信じるあなたがたは」という意味でしょう。主を信じるならば、この世と同じように考えてはならないのです。新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から、破局としての終わりではなく完成としての終わり、「神の国」を思うべきなのです。そこで明らかに求められているのは、主とその御言葉への信頼です。ですから主はさらに御自分の言葉について次のように宣言されるのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32‐33節)。

 「天地は滅びるが」と主は言われます。エルサレムが滅びるどころの話ではありません。天体が揺り動かされるどころの話ではありません。イエス様はこれまでの話を究極にまで押し進めます。「天地は滅びるが」と言われるのです。しかし、たとえそのようなことが起こったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」と宣言されるのです。イエス様の言葉が最終的に残るのです。主が言われたとおりになるのです。主が言われるとおり、そこになお救いがあるのです。人の子は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。

 このように、主を信じる者は、最終的にたとえ天地が滅び行くとしても、すべてが過ぎゆくようなことがあっても、近づいているのは破局ではなく、神の国なのだと信じることが求められているのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される主に信頼することが求められているのです。

心が鈍くならないように
 さて、主が語っておられるのは「終わり」についての話です。しかし、「終わり」についての話は、ただ「終わり」にのみ関わるのではありません。「終わり」をどう見るかが現在の生き方を方向付けるからです。既にイエス様の言葉を聞いて感じておられると思いますが、ここでイエス様が語っておられることは、今、私たちがどのように生きるのかということと深く関わっているのです。

 実際、私たちが日々直面しているのは、エルサレムが滅亡するような出来事ではありません。現在この世界が直面しているのは、天体が揺り動かされるような事態ではありません。もっとずっと小さなことでしょう。しかし、そのような終末的事態ではなくとも、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくとき、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくとき、人は何を考えるのでしょう。何をしても、どうあがいても、事態が悪くなっていく一方であるとき、いったい人は何を考えるのでしょう。無力感と不安と恐れに満たされる時、人は何を考えるのでしょう。そこで人が考えるのは破局としての終わりではないでしょうか。最終的に希望などない、と。

 しかし、私たちが信じている主は「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われる御方なのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われる御方なのです。主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される御方なのです。そうです、私たちはこの主とその御言葉に信頼して生きるのです。目に映るところによって、神がなさろうとしていることを判断してはならないのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。最終的に人の子が「雲に乗って」来られると語られているようにです。

 そのように、私たちはどのような時にも、目に映るところがどうであれ、主のみ言葉に信頼し、希望をもって生きる。主が「終わり」について語っておられるのは、今、私たちがそのように生きるためです。ですから、主はさらにこう言われるのです。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(34‐36節)。

 生き生きとした希望を失う時、破局としての終わりしか考えられなくなるとき、醒めた心をもって生きられなくなります。本当の意味で現実的に生きられなくなります。「心が鈍く」なってしまいます。自分で自分の心をあえて鈍くしてしまうこともあるでしょう。「放縦や深酒で」と書かれているのはそのような場合です。あるいは望まずとも心が鈍くなってしまうこともあるでしょう。「生活の煩いで」とはそのような場合です。煩いの種となっていることしか考えられなくなるのです。そのように主がなさることに希望をもって目が向けられなくなる。心が鈍くなってしまいます。

 だから私たちはそうならないためにも、私たちが信じている主がどのような方であるかを思い起こさねばならないのです。終わりについて主が語られたことを思い起こさねばならないのです。その意味において、アドベントという季節が与えられていることは幸いなことです。

 最終的な救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。人の子は雲に乗って来られるのです。私たちが信じているのは「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われる御方です。そのことを忘れて、希望を失って心が鈍くなったまま、終わりの時を迎えるようなことがあってはなりません。最終的に人の子が到来する時に、希望をもって待ち望んでいた者として、人の子の前に立つ者でありたいと思います。

2014年11月23日日曜日

「十字架の上の王」

2014年11月23日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 23章35節~43節


無力なメシア
 イエス様がかけられた十字架の上には「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男がこいつらの王様だってよ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、つい数日前まで民衆はその男がユダヤ人の王となると信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。救うために来られる力ある王です。イスラエルの民が待ち望んできた力ある救い主です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々は付いて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 そうです、五日ほど前にエルサレムに入城された時にもそうでした。エルサレムに向かう道にはこんな賛美の歌声が響き渡りました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(19:38)。力ある王がついにエルサレムに来られた!何かが起こるという期待感に人々は満たされていたことでしょう。この御方がユダヤ人の王として力を振るってくださる。ローマ人に支配されているユダヤ人を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。人々は期待をもってここまで付いて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架の上にいるのです。磔にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」(35節)。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。「無力なメシア」というのはそれ自体、言葉の矛盾です。無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは嘲って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。彼らは酸っぱいぶどう酒をつきつけて侮辱して言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もその方が力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのはある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があれば付いて行くのです。付いて行って、その行き着いた先が十字架であるならば、そこに無力な姿しかなければ、もはや必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(1コリント1:22‐23)。この礼拝堂に掲げられているように教会にはここかしこに十字架があります。教会は「十字架につけられたキリスト」にこだわり続けてきたのです。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えてきたのはなぜなのか。そのことを良く示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで起こった出来事です。それでは続きを読んでいきましょう。

我々を救え
 十字架につけられたメシアの両側には他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスをこう言って罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。「救ってみろ」と訳すと嘲りのニュアンスが入ってしまいますが、彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いなのです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのはローマにおける唯一の処刑方法ではありませんでした。これはローマの市民権を持たない者に対する極刑です。しかも、それは手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから少なからぬ人が、恐らくこの二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。実際、マルコによる福音書では二人の「強盗」と書かれているのですが、それはまた反ローマ闘争を繰り広げていた熱心党員を表す言葉でもあるのです。

 彼らが政治犯であるならば、イエスを罵った男の言葉はよく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。これは本来あってはならないことなのです。悪しき力による不当な苦しみ!不当な苦しみを受けるなら怒りがわき上がってきます。神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきなのだ。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!

 不当な苦しみによって湧き上がってくる怒りが、救おうとしないメシアへと向けられる。そのようなことは多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で私たちもしばしば言うのでしょう。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。不当にも苦しめられている。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいじゃないか!正直に言いますけれど、わたしは何度もそのような思いを抱いたことがあります。

わたしを思い出してください
 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40‐41節)。

 お前は神をも恐れないのか!そう彼は言いました。そうです、彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にするような苦しみの中にあって、神の御前に身を置いているのです。神への恐れをもって向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に彼は思うのです。わたしは決して正しくない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマ法に背くことや反権力闘争において行ってきた暴力や殺人のことではないでしょう。神の御前に、神を恐れつつ彼は語っているのですから。神の御前において「自分のやったこと」です。他の人は知らないかもしれないけれど神様は知っておられる全てについて語っているのです。神だけが知っている自分の人生のすべて、そこにおいて「自分のやったこと」について語っているのです。それが正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然に思えたのです。苦しみの中にあることを当然のことと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない?とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこにメシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって今、十字架の上におられます。しかし、メシアは王なのです。最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、イエス様と一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた十字架につけられたキリストです。私たちもまた宣べ伝えられた十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。あの赦された罪人と同じところにいるのです。

2014年11月16日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

2014年11月16日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 3章1節~15節


 モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。エジプトから逃れミディアンに住み着いてから既に四十年もの歳月が流れていました。そこで妻も娶りました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それはイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。追い使う者のゆえの叫びを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分の為し得ることなど何もない、と。実際、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。苦しみ同胞を見捨てて、四十年前、エジプトからミディアンへ。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が出会われた次第を伝えています。主はモーセに呼びかけられたのです。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る』」(7‐8節)。

 神様が御自身を現されたなら、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。それはモーセが知る必要のないことだったからです。モーセが知るべきことは別なことだったのです。

 主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。これがモーセの知らされたことでした。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知ってくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 わたしたちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、キリストによって、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も目を留めてくれないかのように見えたとしても、誰の耳に届かないかのように見えたとしても、誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地…へ彼らを導き上る」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなことできるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。杖で土の塵を打つこと。すべて主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。主は単独で事をなされない。モーセと共に行動されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神の御前に祈ります。声を上げます。聞いて下さる神に、苦境を訴えます。必要を訴えます。神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。降りたもう神が、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。そうです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎないではないですか。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。大切なことは、ただ神が召してくださることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。主は言われます。「行きなさい」と。そして、言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

2014年11月2日日曜日

「あなたが掘り出された岩穴に目を注げ」

2014年11月2日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 51章1節~3節

    ローマの信徒への手紙 4章18節~25節

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。

アブラハムの信仰
 そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」(イザヤ51:1)。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。そのこと遡って行きますと、その大本に至ります。切り出されてきた元の岩に至るのです。

 では、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」とは何なのか。聖書はこう続けます。「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」(同2節)。

 アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。そこに目を向ける時、「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」が見えてくる。それはどのような物語でしょうか。「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という言葉をもって、主はその物語を思い起こさせます。

 それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早いと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人を選ばれました。見込みのない人を選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性が潰えていくように、約束の実現を先延ばしにされました。

 なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人によって実現されることではなく、神によって実現されることを待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムにそのことを求められたのです。どうしてか。神はただもう一つの民族を創ろうとしていたのではないからです。そうではなく、信仰の民を創ろうとしていたのです。信仰の民の祖先とするために、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。

 そして、アブラハムは信仰をもって神に応えたのです。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

 これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰をパウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。

 これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずなのです。

荒れ野をエデンの園とする
 さて、このように主の言葉を語っていたのは、今から約2500年前の預言者でした。聞いていたのはエルサレムの人々です。彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と主が語られたのは、そう語らざるを得ない理由があったからです。それは続く言葉からわかります。

 「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。

 エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。

 しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、周りはこの再建を快く思わない人々に囲まれており、激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられませんでした。彼らは希望を失っていきました。

 荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いは私たちの内にも根強く存在するのでしょう。実際、どんなに一生懸命耕しても、種を蒔いても、何一つ生えてこない、まさに不毛の地としか思えない現実が確かにありますから。皆さんにとって荒れ野とは何ですか。毎日の生活ですか。夫婦の関係ですか。問題を起こす子供たちですか。社会における人間関係ですか。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が確かにあります。

 しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。荒れ野がエデンの園になるとするならば、その前に変わらなくてはならないものがあるのです。それは荒れ野を見ている人自身の心です。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の思いです。だから主はまず「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。

 そこで主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖が受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰を再認識しなくてはなりませんでした。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。

 いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。

 なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。いわば神はキリストにおいて「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。

 そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。

2014年10月26日日曜日

「偶像から生ける神のもとへ」

2014年10月26日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 14章8節~17節


 今日の説教題は「偶像から生ける神のもとへ」となっています。これは今日の聖書箇所から取りました。第一回目の宣教旅行の途上、リストラにおいてパウロとバルナバが人々に語った言葉です。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。さて、「偶像を離れる」とは何を意味するのでしょう。「生ける神に立ち帰る」とはいかなることを意味するのでしょうか。

偶像を離れて
 パウロとバルナバが、このように叫ばざるを得なかったのは、人々がパウロとバルナバにいけにえを献げようとしたからでした。つまり彼ら自身が礼拝の対象にされそうになったからでした。

 事の次第は先に朗読されたとおりです。細かくは後ほど見ることになりますが、発端は一人の人が奇跡的に癒されたことでした。パウロが福音を告げ知らせていたその場において、生まれながら足の不自由な人が癒され、立ち上がって歩き出したのです。

 この出来事を目撃した人々が騒ぎ出しました。彼らは「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声を張り上げて叫びました。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのです。人々が口にしていたのは「リカオニアの方言」でした。それゆえに、パウロとバルナバは何が起こっているのか分からなかったものと思われます。

 しかし、ゼウスの神殿の祭司が雄牛数頭と花輪を運んで来るに至って、彼らはようやく事態を飲み込みます。祭司は群衆と一緒になって二人を礼拝し、いけにえを献げようとしていたのです。そこでパウロとバルナバはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んでいきました。そして彼らに向かって叫んだのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。

 ちなみに「偶像」と書かれていますが、これは意訳です。原文では「虚しいもの」と書かれているのです。「虚しいもの」というのはパウロたちユダヤ人の表現で神々の像を指すのです。そのような意味において旧約聖書にも繰り返し出てきます。

 しかし、礼拝の対象となるのは、必ずしも彫ったり鋳て造ったりした像だけではありません。この場面においては、人間であるパウロとバルナバが礼拝の対象とされているのです。ゆえに「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と叫ばざるを得ませんでした。ですからパウロとバルナバが「偶像を離れて」と言っているのは、ただ単に神々の像を造って拝むようなことをしない、という意味ではないのです。

 では「偶像を離れて」の「偶像(虚しいもの)」とは何なのでしょう。それは人間が偶像をどう扱うかを見るとよく分かります。実は今日の朗読はリストラでの伝道の途中までだったのですが、残された18節以下を読むとよく分かるのです。「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した」(18‐19節)。

 これが「偶像」を拝むということです。あれほど熱狂してパウロとバルナバを崇め祭り、祭司と共に犠牲まで献げようとしていた群衆が、ここでは一転して、石打の刑に加わって石を投げつけているのです。ユダヤ人たちがどのようにして群衆を抱き込んだのかは分かりません。パウロたちの存在による不利益があることを吹き込んだのでしょうか。いずれにせよ、パウロとバルナバの存在は、彼らにとって都合が悪くなったのです。

 そして、都合が悪くなったとき、パウロとバルナバとはもはや彼らにとって神ではなくなったわけです。それは当然です。もともと神ではないのですから。もともと神ではないものを神としているから、都合によって神となったり神でなくなったりするのです。都合によって礼拝の対象になったり、礼拝の対象にならなかったりする。人間がそれを信じることもできるし、捨てることもできる。そのようなものを「偶像」と言うのです。

生ける神に立ち帰る
 そのような「偶像」と対比して、パウロとバルナバは「生ける神」を指し示すのです。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(15‐17節)。

 彼らが語っているのは、この世界を造られた神、創造主である「生ける神」です。人間が信じようが信じまいが神であられ、人間が認めようが認めまいが、この世界において御自身を現し続けておられる「生ける神」です。現実に人間の生活に関わり続け、恵みを与え、生きるに必要なものを与え、人間の心を喜びで満たしていてくださる。そのように生き生きと働いておられる「生ける神」について語っているのです。

 しかし、もちろんこれがパウロたちの語りたかった全てではありません。続きがあるのです。「わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と彼らは言いました。パウロたちが「福音」と言う時、その中心はイエス・キリストです。創造主である「生ける神」が救い主イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。「生ける神」がその独り子を与えてくださり、私たちの罪の贖いの犠牲として十字架にかけてくださいました。このキリストの十字架によって、「生ける神」は御自分を侮ってきた私たち、背き続けてきた私たちの罪を赦し、「生ける神」が御自分のもとに私たちを招いてくださいました。

 それゆえにパウロたちは言うのです。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像を離れて、「生ける神に立ち帰る」時、そこには何があるのですか。「生ける神」に信頼して生きる新しい生活があるのです。完全な救いに向かって神に信頼して歩いていく新しい生活があるのです。

 その意味において、そもそもの発端となった、足の悪い人の癒しの出来事は極めて象徴的な出来事となったと言えます。まさに「生ける神」に立ち帰り、「生ける神」を信じて生きるとはどういうことかが、その人の上にはっきりと現れているからです。すなわち、それは立ち上がり、歩き始めることなのです。

立ち上がって歩き出す
 もう一度、その人の内に起こった出来事を見てみましょう。次のように書かれていました。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」(8‐10節)。

 その人はパウロの話すのを聞いていた。パウロが福音を伝えるのを聞いていたのです。その宣教の言葉によって、その人の内に信仰が生まれました。パウロがその人に目を向けた時、彼がそこに見たのは福音の宣教によって生み出された信仰でした。それは「いやされるのにふさわしい信仰」と表現されています。要するに、そこにパウロが見たのは、偶像を離れて、生ける神に立ち帰った人の信仰だったのです。それゆえにパウロは彼にこう言ったのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。

 考えてみてください。彼は生まれてこの方一度も立って歩いたことはないのです。聖書はわざわざ「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」(8節)と書かれているのです。そのような人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言うならば、通常は返って来る言葉は決まっているでしょう。「立てないから座っているのではないか!」そして、そこに座り続けているに違いありません。

 しかし、パウロはその人に信仰を見たのです。生ける神に立ち帰り、生ける神を信じる信仰を見たのです。だから命じたのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。そして、彼もまたその言葉に従ったのです。生ける神への信頼をもって従ったのです。「その人は躍り上がって歩きだした」と書かれています。しかし、それは必ずしも癒されて嬉しくて躍り上がったことを意味しません。原文では単純に「飛び上がった」と書かれているだけです。つまり勢いよくまっすぐに立とうとしたということです。今まで一度も立ったことのない人がです。

 もちろんここに書かれているのは神による癒しの奇跡です。しかし、大事なことは、この人が生ける神に信頼して、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」という言葉に応答したということなのでしょう。それは彼にとって、まさに生ける神からの呼びかけだったに違いありません。その呼びかけに彼は応えたのです。

 そして、彼はそこから歩き始めました。歩いて生きる人生というのは、彼にとって全く未知の領域です。そこには座っていた時よりもずっと多くの困難が待っているかも知れないのです。しかし、彼は生ける神に信頼して立ち上がったように、生ける神に信頼して歩き始めたのです。

 確かに「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」ということは、そのようなことなのでしょう。それはイエス・キリストを通して与えられた生ける神の呼び声に応えて信頼をもって立ち上がること、そして信頼をもって歩き始めること。そして、信頼をもって歩き続けることです。

 実際、この足を癒された人にせよ、またパウロの宣教によって信じた他の人たちにせよ、待っていたのは決して平坦な道のりではなかったはずです。パウロが石で打たれて殺されそうになったとするならば、福音を聞いて偶像を離れ、生ける神に立ち帰った人々も迫害を免れることはなかったでしょう。しかし、彼らは生ける神の呼び声に応えて立ち上がった人たちです。それゆえに苦難が降りかかることがあっても、生ける神に信頼して歩み続けたのです。

 そして、生ける神はまさに偶像ならぬ生ける神であることを彼らの間に現され、そのようにしてリストラにも教会が形づくられていったのです。そうです、そのように代々の教会は形づくられ、この頌栄教会も形づくられ、生ける神に立ち帰り、生ける神を信じて生きている私たちがここにいるのです。

2014年10月19日日曜日

「神が目から涙をことごとくぬぐってくださる」

2014年10月19日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 7章9節~17節


 今日は礼拝においてヨハネの黙示録が読まれました。そこに描かれていたのは天において神を礼拝する大群衆の姿でした。それはヨハネの見た幻です。ある意味では極めて特殊な個人的な神秘体験です。しかし、このような幻の記されている書物が聖書の中に置かれており、今日に至るまで読み継がれてきたのは、それがヨハネ個人のことに留まらず、代々の教会に深く関わることが書かれているからでしょう。そのようなヨハネの黙示録とはいったい何なのか。まずそこに目を向けたいと思います。

礼拝で朗読されるための手紙
 ヨハネの黙示録の1章まで遡りますと、この書は次のような言葉から始まります。「イエス・キリストの黙示」。「黙示」とは「啓示」とも訳せます。神様が覆いを取り除いて明らかにしてくださったことです。それがこの書物には書かれているのです。これは全体の表題とも言えます。そして、序文に当たる部分が3節まで続きます。

 このように「黙示」とか「啓示」という表題がついている。ある意味で聖書の中で独特な書物です。しかし、この序文の部分を伏せて4節から読んでみてください。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」(4‐5節)。これは当時の一般的な手紙の書き方です。実際、パウロの手紙などと書き方がよく似ています。

 差し出し人はヨハネです。ヨハネはパトモス島にいます(9節)。エーゲ海に浮かぶ小さな島、流刑地となっていた島です。ヨハネは信仰のゆえに流刑となっているのです。当然のことながらそこに教会はありません。パウロの手紙などですと、彼と一緒にいる人について「~からよろしく」という言葉が出て来るのですが、この黙示録には出てきません。一緒に礼拝を捧げる信仰者の交わりはそこにありません。その意味で彼は孤独です。

 そのような孤独の中から彼は手紙を書くのです。アジア州にある七つの教会に宛てて。ただ安否を問うためではありません。3節にこう書かれていました。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(3節)。つまりこれは朗読されるための手紙なのです。どこにおいてですか。礼拝においてです。私たちが今しているようにです。これは共に集まって礼拝する時に朗読されるための手紙なのです。

 礼拝のための手紙であるとはどういうことでしょう。この手紙が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代であり、皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代です。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしたのです。

 それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じる者として、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はありません。しかし、彼らはそうしなかった。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。これは、そのような人々に宛てて書かれた手紙です。そのような場所で朗読された手紙です。そのような手紙がここにおいて朗読される時、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なことか。本当に命をかけても惜しくないほどの恵みであると思っているでしょうか。

 そのような手紙に、大群衆の姿が描かれていたのです。それが今日読まれた聖書箇所です。そこには、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆がいたのです。白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持って神と小羊の前にいて、大声でこう叫んでいるのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)。

 そのように神とキリストを礼拝し、誉め讃えているのは誰なのでしょう。その幻を見ているヨハネが質問されます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは言います。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」そこで答えが与えられます。(14節)「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

殉教者が大声で誉め讃えている神
 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」と語られていました。新改訳聖書では「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳)と訳されています。この方がむしろ直訳に近いのです。

 「大きな患難から抜け出て来た者たち」。どうして神はヨハネに「患難から抜け出て来た者たち」の姿を見せたのでしょうか。しかも、彼らが大声で神とキリストを誉め讃えて礼拝している姿を見せたのです。なぜでしょうか。どうして、ヨハネはそのような天の描写を手紙として書き送ったのでしょうか。それは、この手紙が苦難の中にありながらも、集まって礼拝していた人々に宛てられた手紙であることを考えるとよく分かります。

 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」とあの大群衆は叫んでいました。そうです、救いは神とキリストのものであり、そこから救いは来るのです。そう私たちもまた信じているのでしょう。そうです。この手紙を受け取った人々もまた、そう信じている人々です。しかし、そのような彼らに現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々もいたのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにある。

 そうです。患難の中にあって、信じることが困難になるのです。しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見える人々が、なんと大声で神を誉め讃えている姿を見せたのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」と。

 そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に一番近いところにいるのです。神の助けがなく守りもないように見える中で殺されてしまった彼らは、神から遠ざけられた人々なのか。とんでもない!彼らは神に一番近くに招かれていた人々なのです。そして、こう書かれている。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 その行き着くところは命の水の泉だったのです。渇き求めていた本当の命はそこにあったのです。そして、神は目から涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」と書かれています。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられたということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。その全てが、流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

 さて、繰り返しますが、これは主の日に礼拝を捧げている人々に宛てられた手紙です。礼拝の中で朗読されるようにと書かれた手紙です。そこにおいて語られているのは、「生きている間は苦しいけれど、死んだら楽になりますよ。天国の喜びがあるのですから、今は苦しみがあっても耐えましょう」という次元の話ではないのです。そこで礼拝している神はどのような神なのか、そこで礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか、ということなのです。

 ヨハネの見た幻の大群衆、「大きな患難から抜け出た者たち」についてはこう語られていました。「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。小羊とは十字架にかけられたキリストです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しです。彼らの衣は殉教したから白くなったのではありません。死んだから白くなったのではありません。キリストによって白くせられたのです。

 ならば天の礼拝であろうが、地上の礼拝であろうが同じなのです。地上において私たちが礼拝している神はどのような神なのか。地上において私たちが礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか。神はヨハネにはっきりと見せてくださったのです。それは、無残に殺された殉教者たちが天において大声で誉め讃えている神なのだ、ということを。苦難から抜け出た者たちとして、涙をことごとくぬぐわれる者として、大声で誉め讃えている小羊キリストなのだ、ということを。その同じ神を、その同じキリストを、地上においても礼拝しているのです。

 この地上の生活において、神の愛と真実は、しばしば見えなくなります。それは迫害の時代ならずともそうなのでしょう。しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽は無くならないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。

 ならば大切なことは何か。この地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのか。あえて信じることです。目に映るところがどうであれ、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。信仰に踏みとどまることなのです。疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。信仰によって生きるためです。

2014年10月12日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

2014年10月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節


キリストの苦しみ
 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。「苦しむことを喜びとする」。通常、私たちはそのようなことは言いません。むしろ苦しみは喜びを失わせます。

 しかし、「苦しむことを喜びとする」と言い得る時が全くないわけではありません。それはその苦しみが愛する者のための苦しみである時です。自分の苦しみが意味のないものではなく、無駄になってしまうものではなく、愛する者のためになる苦しみである時、苦しむことは喜びをも伴います。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」いう言葉から、コロサイの教会を愛してやまないパウロの思いが伝わってまいります。

 しかし、パウロが「苦しむことを喜びとする」と言っているのは、ただ彼らを愛しているからだけではありません。さらにパウロはこう続けるのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。

 「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。さらに言うならば、自分の苦しみをキリストの苦しみの一部として見ていたということでしょう。キリストの苦しみの欠けている部分を満たしているのですから。

 いずれにせよ、パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。その欠けている部分をパウロは満たしているだけだというのです。パウロはコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために喜んで苦しみをも耐え忍んでいたのでしょう。しかし、彼がそうする以前に、キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。「キリストの苦しみ」と聞くならば、すぐに思い浮かぶのは十字架です。私たちの罪のために負ってくださったキリストの苦しみです。罪の贖いのための苦しみです。しかし、罪の贖いの苦しみならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがありません。

 罪の贖いの苦しみは、キリストにおいて全うされているのであって、そこにパウロの入る余地はありません。キリストは独りですべての人の罪を負われたのです。キリストは独りで父なる神の裁きを受けられたのです。キリストは独りで苦しまれ、独りで死なれたのです。キリストは独りで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。

 では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは何であったのか。それは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。

 そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。

 しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。自分の苦しみが先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先に労苦しておられる。キリストが苦しんでおられるのです。キリストがコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の一部に過ぎないのだと分かっていたのです。だから彼は言うのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と。

あなたがたの内におられるキリスト
 それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。

 先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。

 「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。「奥義」と言いますと、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものを連想するかも知れません。事実、この言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは代々にわたって隠されていたけれど、今や神によって明らかにされたのです。そして、全ての人に宣べ伝えられねばならないのです。

 ではその「奥義」とは何なのか。いや、この問いかけは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 神の救いの御心は、一人の御方を通して、完全に現わされました。十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。このキリストを通して、神に敵対するこの世界をなお愛される神の愛が明らかにされました。キリストを通して、神の赦しが現わされました。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。聖霊のお働きにより、生けるキリストと人との出会いが起こるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」とパウロは言うのです。

 そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。今日はお読みしませんでしたが、14節にこう書かれています。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14節)。キリストのおられるところに罪の赦しがある。ゆえに、そこには神と人との和解があります。神と人との間に平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。

 だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。キリストが「あなたがたの内におられるキリスト」となられるための愛であり、そして苦しみです。

 実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。キリストに対して固く戸を閉ざしていた私たちがいます。今もそこにしばしば舞い戻ってしまうような私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリストになろうとしてくださいました。そこにまた「キリストの苦しみ」がありました。私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。

 事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのでしょう。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのでしょう。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。

 ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。

2014年10月5日日曜日

「キリストが私たちのためにしてくださったこと」

2014年10月5日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙 9章23節~28節


死後裁きをうける私たち
 この近辺ではあまり見かけませんが、地方を車で走っていますと時々黒地に白と黄色の文字で書かれたキリスト教の看板を見かけます。「キリスト看板」と呼ばれるもので、宮城県に本部を置いている「聖書配布協力会」という団体が設置しているものです。全国に五十万枚ほど設置されているそうです。そこには「キリストは墓からよみがえった」「イエス・キリストは神のひとり子」というようなことが書かれているのですが、中には「死後裁きにあう」というようなものもあります。わたしも幾度か目にしたことがあります。黒地に黄色と白で書かれていると実に恐ろしげに見えます。

 今日の聖書箇所にも似たような表現が出てきました。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)。確かに、聖書は死後の裁きについて語っています。ここを読むとあの黒地に白と黄色の文字を思い出します。しかし、死後の裁きをただ「恐ろしいこと」として考えるのは極めて一面的であると言えるでしょう。

 そもそも人は、この世に不当なことを見るならば、正しい裁きを求めるものです。もし自分が不当な苦しみを負うならば、正しい裁きが行われて不当な苦しみが取り除かれることを求めるものです。不当な苦しみを負ったまま死ぬことになるなら、死んで後にでも正しく報いられることを望むものでしょう。

 内戦の続くシリアにおいて三歳の男の子が負傷し、瀕死の状態で病院に運び込まれ、まもなく亡くなりました。その子が最後に口にした言葉がインターネット上で話題になりました。その子はこう言ったのです。「全部神様に言ってくるから」。この子の訴えは、この子の叫びは神様に取り上げられるのでしょうか。大人たちの様々な思惑のもとに踏みにじられた小さな命は省みられるのでしょう。その小さな命が受けた不当な苦しみは報いられるのでしょうか。神がまことの神ならば、この子の叫びが放置されるはずはない。死後であっても正しい裁きが行われるはずだ。行われて欲しい。この子は正しく報われて欲しい。そう思うのではありませんか。

 この世において正しいことが完結するわけではありません。この世においてすべての決着が付くわけではない。私たちは良く知っているのです。その意味において、死後に裁きがあるということは、人間にとって希望でもあるのです。

 また「死後の裁き」を考えるということは、私たちの生き方をも決定的に左右すると言えるでしょう。これは私たちの一生をいったい誰が判断するのか、ということに関わっているからです。私たちは往々にして、人の評価、人の判断、人の言葉に振り回されながら生きているものです。しかし、聖書は死後における神の裁きを語るのです。最終的に神は判断されるのです。評価するのは人間ではありません。神様です。人間が見ていようがいまいが、人間に誤解されようが、馬鹿にされようが、くさされようが、軽く見られようが、神様は正しく見ていてくださる。神が裁かれるとはそういうことです。その意味においても、死後に裁きがあることは、人間にとって希望でもあります。

多くの人の罪を負うために
 そのように、人は一方において正しい裁きを求めているし、死んで後でもよいから正しい裁きがなされることを求めているとも言えます。しかし、もう一方において、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という言葉には、ある「恐ろしさ」が伴っていることも事実です。「死後裁きにあう」という言葉を見て、単純に「ああ、嬉しい!」と思えない。それは私たちが必ずしも善を行って生きてはいないという事実をよく知っているからでしょう。詩編に歌われているとおりです。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)。

 私たちは一方において正しいことがなされることを求めます。しかし、もう一方において自分は正しくないことを知っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」。そこでは他の誰かの罪ではなく、私たち自身の罪が問題となります。それゆえに、続く28節が重要になるのです。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。そもそも、この手紙はただ死後に裁きがあること自体を語りたかったのではありません。本当に語りたかったのはこの28節なのです。

 「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた。」そう聖書は語ります。「多くの人」というのはユダヤ的な表現で、意味するところは「すべての人」です。キリストは、すべての人の罪を負うために身を献げてくださった。これがキリストのしてくださったことです。それは何を意味するのか。聖書は、かつてイスラエルにおいて行われていた礼拝を引き合いに出して説明しています。幕屋において行われていた、動物を犠牲として捧げる礼拝です。

天そのものに入られたキリスト
 特にここで取り上げられているのは、一年に一度の「贖罪日」における礼拝です。遡って6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。

 「第一の幕屋」と「第二の幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が垂れ幕によって二つに仕切られているのです。垂れ幕の手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、垂れ幕の向こうは「第二の幕屋」あるいは「至聖所」と呼ばれていました。

 一般の祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の第二の幕屋には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が第二の幕屋に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。人々の罪が赦されるために代わり動物が死ぬのです。大祭司はその血を携えて垂れ幕の向こうに入るのです。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式を行い、血を携えて神の御前に出るのです。

 このように動物を屠って、その血を携えていくという儀式は、今日の私たちの感覚からすれば極めてグロテスクなものと映ります。いったいどうして神はこのような儀式を行うことを命じられたのでしょう。――それは、このような目に見える儀式をもって、目に見えない世界において起こることを教えるためだったのです。本当に意味あることは、目に見えない神の御前で起こること、天において起こることなのですが、これは目に見えないから私たちには分からないのです。だから目に見える「写し」が必要なのです。その「写し」によって教えられている、目に見えないことこそが、キリストのしてくださったことなのです。

 24節にはこう書かれていました。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。大祭司が第二の幕屋に入るのは、ある意味では神の御前に出ることだったわけですが、それはあくまでも「写し」としての儀式に過ぎません。しかし、キリストは本当の意味で神の御前に出てくださったのです。

 大祭司はその手に犠牲の血を携えていました。罪の贖いのための血です。しかし、動物犠牲はあくまでも「写し」に過ぎません。大祭司が毎年この儀式を繰り返したのも、それは「写し」に過ぎないからです。目に見えないことは、一度限り、決定的なこととして起こったのです。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(25‐26節)。

 これが「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」ということです。キリストが私たちのためにしてくださったことです。目に見えるところにおいては、十字架上において惨めに死んでいったキリストです。しかし、目に見えない世界において、目に見えない神の御前において、私たち人間にとって決定的に重要なこと、すなわち罪が取り去られるということが起こっていたのです。神の裁きにおいては罪なしとはされ得ない私たちです。その私たちの罪を負うために、キリストは身を献げてくださったのです。

救いをもたらすために現れてくださる
 そして、聖書はさらに言葉を続けます。28節全体をお読みします。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。

 このように聖書は、キリストが一度目に来られた時に私たちのためにしてくださったことだけでなく、二度目に来られて私たちのためにしてくださることについて語っています。一度目のことは既に起こったことです。二度目のことはまだ起こっていないことです。私たちの信仰生活はその二つの間にあります。

 この二つの間にあるということは、キリストの成し遂げてくださったことによって罪の赦しは受けているけれど、完全な救いはまだ待ち望んでいる状態だということです。罪を赦された者として神の前に生きることはできるけれど、この世にあって苦しみを免れることはないということです。完全な救いを待望する者として忍耐が求められているということです。実際、この手紙には「忍耐」という言葉が繰り返し出てきます。

 しかし、私たちがたとえ夜の暗闇の中にあったとしても、それは夜明けに向かう暗闇であることを知らされているのです。キリストが救いをもたらすために現れてくださる。そして、主御自身が言われたのです。「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)。その日、その時を知らされていないということは、ある意味では嬉しいことです。救いは次の瞬間にも実現しているかも知れないからです。キリストが「救いをもたらすために現れてくださる」。救いは向こう側から来るのです。私たちが到達するのではないのです。救いは向こう側から来る。そして、それは次の瞬間かもしれないのです。いかなる苦しみも永遠ではありません。それは次の瞬間には終わっているかも知れない苦しみなのです。救いは向こうから来るからです。

 既にキリストがしてくださったことに目を向けましょう。既に私たちの罪のために御自身を献げてくださった方、そこまで私たちを愛してくださった御方が、私たちを最終的に完全に救ってくださいます。救いは向こうから来るのです。そのことを信じて間の時を生きるのです。それが私たちの信仰生活です。

2014年9月28日日曜日

「神の祝福を信じて」

2014年9月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節~15節


結びつけるために
 今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6節)。

 ここで語られているのは募金の話です。貧しいエルサレムの教会を支えるための募金です。パウロの他の手紙にもこの募金の話が出てきます。この手紙では8章から9章にわたって多くの言葉が費やされています。パウロは各地の教会に募金を勧め、それらを集め携えて自らエルサレムに行くつもりでした。それはある意味ではとても危険なことでもありました。エルサレムにはパウロを敵視しているユダヤ人たちがたくさんいたからです。(実際、パウロはエルサレムに上ったがために、そこで騒動に巻き込まれ、投獄されることになりました。)そのことを考えても、この募金についての相当な思い入れを感じます。

 どうしてこの募金を成し遂げることにそこまでこだわったのでしょうか。もちろん、貧しいエルサレムの信徒たちを助けたいという熱烈な思いはあったでしょう。しかし、それだけではありません。彼の内にはもう一つの大きな目的があったのです。それは主にユダヤ人から成るエルサレムの教会と主に異邦人から成る各地の教会を結びつけることでした。

 ご存じの通り、教会はエルサレムにおいてその産声を上げました。初期のキリスト者は全員ユダヤ人でした。ユダヤ人にはモーセの律法に基づいた独特のライフスタイルがあります。イエス・キリストを信じる者となった後も、彼らの意識においては決してユダヤ人であることをやめたわけではありませんでした。

 しかし、やがて福音はユダヤ人以外にも伝えられるようになりました。異邦人がイエス・キリストを信じるようになりました。パウロの宣教旅行においても、ユダヤ人が福音を拒否する一方で、異邦人たちが熱心に耳を傾け、主に異邦人から成る教会が各地に誕生することになりました。

 当然のことながら、異邦人たちのライフスタイルはユダヤ人のそれとは全く異なっています。当然のことながら、その違いは問題となりました。異邦人キリスト者にも割礼を受けさせ、律法を守らせるべきではないかとの議論が起こりました。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者との間に決裂の危機が訪れました。使徒言行録15章には、教会の歴史における最初の教会会議が行われた次第が記されています。そこで取り扱われたのはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の問題でした。そして、このユダヤ人・異邦人問題は後々まで尾を引くことになるのです。

 そこでパウロはどうしたか。エルサレムのユダヤ人キリスト者と各地の異邦人キリスト者の定期的な話し合いの場を継続的に計画したのではありません。そうではなくて、異邦人を主とする諸教会にエルサレムの貧しい信徒たちを支えるための募金を促したのです。当然のことながら、そこには相当な困難が予想されたはずです。しかし、そのような具体的なつながりこそが教会にとっては重要なことだったのです。

種蒔きとして考えなさい
 しかし、もう一方において、私たちはそのような具体的なアクションが必ずしも人と人、教会と教会を結びつけるものとはならないことも良く知っています。それは必ずしも募金でなくても言えるでしょう。与えること、そして受けること。必ずしもお金だけではありません。広い意味で、助けを与えること、助けを受けることを考えてもよいかと思います。そこで具体的なアクションが必ずしも人を結びつけるものとはならないことは確かにあるのです。

 その一番分かりやすいものは、今日の聖書箇所に出て来る「惜しんでわずかしか種を蒔かない」ということです。言い換えるならば、蒔くには蒔くのだけれど「惜しみながら」ということです。そして、さらには「不承不承」とか「強制されて」という言葉が出てきます。惜しみながら与えること。強制されて不承不承に助けること。仕方ないからということで、何かをしてあげること。そう、「何かをしてあげている」という意識で行うこと。それはどう考えても人と人とを結びつけない。むしろ引き離すものとなるのでしょう。それは私たちがしばしば経験しているとおりです。

 だからこそ、ここでパウロは種蒔きの話をしているのです。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。惜しみながら与えるのでなく、不承不承に与えるのでもなく、強制されて与えるのでもないようにするために、どうしても知らなくてはならないことだからです。これを種蒔きとして考えなさい、ということです。

神の祝福を分かち合う
 しかし、これは単純な話ではありません。注意が必要です。ですから多くの言葉が費やされているのです。これは一見、「情けは人のためならず」というのと同じことを言っているように見えるでしょう。与えることは、結局は巡り巡って自分に返ってくるのですよ。与えることは、結局は自分の利益になるのですよ。そう言っているように見えるのです。

 確かに、そう考えると《惜しまないで与えること》はできるようになるかもしれません。自分の利益になるのだと分かれば、不承不承でもなくなるかもしれません。しかし、何か変だと思いませんか。「これは結局のところ私の利益になるのだ」と考えながら与えることが、本当に人と人とを結びつけることになるでしょうか。ならないと思うのです。

 実は、パウロがここで言っているのは、「情けは人のためならず」ということではないのです。「惜しまず豊かに蒔く人」と書かれていますが、そこには「祝福に基づいて蒔く人」という表現が使われているのです。ただ「豊かに蒔く人」ではないのです。既に与えられている祝福がある。これから与えられる祝福がある。祝福してくださる神がおられる。だから神に感謝しながら、神を誉め讃えながら豊かに蒔く。そのような意味合いです。

 ですからその後に「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(8節)と書かれているのです。さらには「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(10節)と書かれているのです。そのように、満ちあふれさせることがおできになる神、与え、増やし、成長させてくださる神に思いを向けさせるのです。同じ豊かに蒔くにしても、ただ「これは自分の利益になるのだ」と思って蒔くのと、神の祝福を思って、神に感謝して、賛美して蒔くのとでは天と地ほどの開きがあるのです。

 もし神の祝福を思いながら、賛美しながら蒔くのなら、そのように神の祝福を分かち合うこととして与えるのならば、受ける方に期待するのは何ですか。わたしに対する「ありがとう」ではないでしょう。そうではなく、「一緒に感謝しましょう」「一緒に賛美しましょう」ということでしょう。11節に書かれているのはそういうことです。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します」(11節)。あくまでも重要なことは、そこで「神に対する感謝の念」が引き出されることなのです。

 そのように神の祝福を分かち合い、一緒に神に感謝し、神を賛美できるなら、そこで人と人とはつながるではないですか。そこで教会と教会とはつながるではないですか。そこに本当の意味で互いのための祈りが生まれるのではないですか。そのように考えると、この章のまとめとしてパウロが書いていることもよく分かります。13節からもう一度お読みします。

 「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(13‐15節)。

第一歩はこちらから
 さて、私たちにとってユダヤ人・異邦人問題は縁のない話かもしれません。しかし、一つになることが困難な関係は私たちの身近にいくらでもあります。現実に私たちが直面している様々な困難な関係を思う時、ここに書かれていることは決して簡単なことではないと思わざるを得ません。共に神をほめたたえ、神に感謝して一つとなるに至るまでには、時として長い道のりを経なくてはならないのでしょう。パウロ自身も経験したように、幾多の困難を乗り越えなくてはならないのでしょう。

 しかし、何事でも最初の一歩がなければ前には進まないのです。最初の一歩があれば一歩互いは近づくのです。そして、第一歩はこちら側から始まるのです。相手ではありません。あちらが変わったら、あちらが受け入れてくれたら、ではないのです。まずこちら側から始まるのです。

 その一歩とは何か。まず、私たち自身が神の祝福を信じることです。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。そのことを信じることです。そして、まず他の誰かがではなく、私たち自身が感謝と賛美をささげて生きることです。その感謝と賛美に満たされることによって、与える者へと変えられていくことです。

 私たちは祝祷を受けて新しい週へと歩み出します。神の祝福を信じて歩み出しましょう。やがてはいかなる関係においても、共に感謝と賛美を捧げて一つとなっていくことを信じて。

2014年9月21日日曜日

「わたしたちを救い出すために」

2014年9月21日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節


 今日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙の冒頭部分です。当時の手紙の典型的な様式に従って、まず差出人と受取人とが明記されています。差出人はパウロ、受取人はガラテヤ地方の諸教会の人々です。そして、他の手紙においてもパウロがしているように、続けて挨拶の言葉が添えられています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)。

 「恵みと平和があるように」。それは挨拶の決まり文句です。しかし、パウロはただ形式的にその言葉を用いているのではありません。ですから、言葉をさらに続けるのです。その恵みと平和を与えるために、イエス・キリストが何をしてくださったかを書いているのです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4節)。

 「恵みと平和があるように」。私たちもその言葉をここで耳にしています。その願いと祈りをもって書かれた言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと送り出されたいと思います。

この悪の世から救い出そうとして
 「恵みと平和があるように」。その「恵みと平和」は、「《わたしたちの父である神》と、主イエス・キリストの恵みと平和」と表現されています。その「恵みと平和」はわたしたちの父である神に由来します。これは神のご意志によるのです。私たちが願う前に、神が与えようと望んでくださいました。4節に書かれている、「わたしたちの神であり父である方の御心」とは、私たちの願いに先立つ神のご意志です。神が私たちの救いを願い、恵みと平和があるようにと願ってくださいました。

 その救いのご意志に従って、キリストが御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」ですから、そのようにして与えられる恵みと平和は、「わたしたちの父である神と、《主イエス・キリストの》恵みと平和」と呼ばれているのです。

 そこには「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と書かれています。「この悪の世」と言うのですが、この言葉で何を思い浮かべるでしょうか。新聞やテレビで報道される凶悪な犯罪でしょうか。道徳的に退廃した社会のありさまでしょうか。確かに犯罪のある世界は「この悪の世」の一面でしょう。この世の不道徳も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロはただそのような社会を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。

 彼が生まれ育ったのはユダヤ人の社会です。それは決して世俗的な退廃的な世界ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、いわば「清い社会」だったのです。そのような環境において彼は育ったのです。この手紙を受け取る人々にとってもそうです。彼らの内において力を持っていたのは律法を遵守すべきことを訴えていたユダヤ主義者です。ガラテヤの教会にはその影響を受けたキリスト者がたくさんいたのです。そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的な、敬虔な、まじめな、道徳的な、戒律遵守が求められる共同体にも、パウロは「この悪の世」の一面を見ていたのです。

 「この悪の世」というのは「悪い今の世」というのが直訳です。「今の世」という表現を使うのは、「来るべき世」のことを考えているからです。「来るべき世」は神の救いの到来した世界です。神の国です。それに対する「今の世」です。その「今の世」は悪い。どのような意味で「悪い」のでしょう。犯罪があるからでしょう。不道徳があるからでしょう。苦しみや悲しみがあるからでしょうか。どのような意味で「悪い」のでしょう。

 聖書は「今の世」を一つの物語をもって表現しています。良く知られているエデンの園の物語です。正確に言うならば、エデンの園を失った物語です。私たちはエデンの園にはいない。それが「今の世」です。どのようにエデンの園を失ったか、物語の筋はご存じでしょう。

 園の中央には「善悪の知識の木」がありました。それは神様がそこから取って食べるなと言われた木でした。しかし、人間はそこから取って食べました。そして、神が近づかれた時、人は神の顔を避けて園の木の間に隠れました。そこに見るのは関係の破れです。神と人との関係の破れ。もはやそこには平和に満ちた関係はありませんでした。

 さらに何が起こったでしょう。神様が男に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。その時、彼はこう答えたのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。そこに見るのは関係の破れです。人と人との関係の破れ。自分を正しい者として他者を責めるところに、もはや平和に満ちた関係はありませんでした。そのようにして、彼らはエデンの園を失いました。神と共に生き、人と共に生きる園を失いました。

 これが「今の世」です。このように神様と人との関係が破れてしまった世界。人と人との関係が破れてしまった世界。その痛みと苦しみとを背負っている世界。それが「今の世」です。実際そうでしょう。神様との関係が崩れた世界において、人間の歴史は戦争の歴史です。殺し合いの歴史です。国と国、民族と民族ではなくとも、身近に私たちは小さな戦争をいくらでも見て聞いて体験しているではありませんか。私たちは毎日どれだけの悪口を聞き、どれだけの中傷や争いを目にしていることでしょう。

 それはパウロが目にしてきた、敬虔な真面目な清い社会においても同じだったのです。むしろ正しさが求められる社会こそ、裁き合いの社会に他ならなかったのです。正しさの主張が声高に語られるところにおいてこそ、神と人との破れがあり、人と人との破れがある。そこにこそ人間の罪の最も恐ろしい姿があるのです。

与えられた恵みと平和
 しかし、イエス・キリストは、そのような「この悪の世」からわたしたちを救い出そうとして、御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と書かれているとおりです。

 「わたしたちの罪」というのは複数で書かれています。諸々の罪です。単に不道徳な行いだけではありません。私たちの敵意が、妬みが、憎しみが、悪口が、中傷が、怠慢やだらしない行為が、エゴイスティックな行為が、悪魔に誘惑されて行った諸々の行いが、さらには自分たちを絶対に正しいとする主張が、神との関係、人との関係を壊してきたのです。

 そのような私たちの諸々の罪のために、キリストは御自身を献げてくださいました。御自身を献げるということは、自ら苦しみを負うということを意味しました。私たちの諸々の罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死ぬことをさえ良しとして、自ら苦しみを負ってくださいました。そのようにして、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださったのです。それは御子の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 それは父なる神の「御心に従って」なされたことでした。私たちが願ったからではなく、神が望んでくださいました。私たちのために、御子が苦しむことを良しとしてくださいました。先に、御自身を献げるということは苦しみを負うということだと申しましたが、私たちはここに父なる神の御苦しみをも思います。そのようにして、私たちに御自身との平和を与えてくださいました。そのことがあるからこそ、その御方を「わたしたちの神であり父である方」と呼べるのです。それは神の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 そのように平和が打ち立てられたのは、私たちが罪を赦された者として生きるためです。赦された者として生きるということは、そのような者として互いに赦し合って生きるということです。それはしばしば苦しみを伴うのでしょう。苦しみを経なくては、人と人との和解も実現しないのでしょう。しかし、御子が御自身を献げてくださったことを思う時、神が苦しみを負って平和を与えてくださったことを思う時、私たちの間にも和解が起こります。人と人との間に平和が生み出されるのです。私たちは神との間に平和をいただき、人との間にも平和をいただくのです。

 神様はそのように、「この悪の世」から救い出して、新しい生活を与えてくださるのです。「来るべき世」に属する生活を与えてくださるのです。それは恵みです。本来、私たちが受けるに値しない恵みです。それはただ神がそうお望みくださり、キリストがその御心に従い、御自身を献げてくださったゆえに与えられた恵みです。神との間の平和は恵み。人と人との間の平和も恵みです。

 もちろん、恵みによる救いが完全に実現するのは「来るべき世」においてです。私たちが見ることのできるのは完全なるものではありません。「今の世」「この悪い世」は厳然として続いているのです。しかし、それでもなお「今の世」からの救いは既に始まっているのです。キリストは「この悪い世」から救い出すために、御自身を献げてくださいました。キリストによって既に始まっているのです。私たちはその救いを味わい始めているのです。それが信仰生活です。パウロも言っているではありませんか。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。そうです、私たちはそのような言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。私たちは信仰によって受け取るのです。恵みを受け取るのです。神との平和、人との平和を受け取るのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと踏み出しましょう。

2014年9月14日日曜日

「最もすぐれた道」

2014年9月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章31節~13章13節


できるようになりたい?
 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31後半)。そう書かれていました。別の訳では「最もすぐれた道」。今日の説教題ともなっています。しかし、そもそもパウロはどうして「最高の道」「最もすぐれた道」について語っているのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(同前半)。そのように、「最高の道」の話は、「賜物を受ける」という話に続いているのです。

 「賜物」という言葉は日常の言葉ではないので、これを「能力」あるいはその能力を用いた「働き」という言葉に置き換えると分かりやすいかもしれません。「賜物を受ける」とは、要するに「できるようになる」ということです。

 私たちは自分についても他人についても何かが「できる」か「できないか」を気にしながら生きています。どのような働きをしているかいないか、役に立っているかいないかが気になります。他の人ができることが自分にできなかったり、他の人が良い働きをしているのに自分が全く役に立っていなかったりすると、他人を羨んだり落ち込んだりすることもあるのでしょう。だから自分も「できるようになりたい」と思うのです。

 「できるようになりたい」と思うこと自体は悪いことではありません。より良い働きができるようになること、より大きな働きができるよういなることを求めること自体は悪いことではありません。ですからパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うのです。

 実際、コリントの教会の人たちはそのことに熱心でした。私たちが一般に言うところの能力や働きだけでなく、それこそ奇跡的な超自然的な能力や働きについても熱心に求めていたようです。そのような「パワー」を宗教に求める人は、今日も珍しくはないので、私たちにも分からなくはありません。

 そのような超自然的な能力や働きをも含めて、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言います。しかし、だからこそ彼は続けるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と。その「最高の道」「最もすぐれた道」とは何でしょう。その続きの朗読を先ほど聞いて、既にお気づきのことと思います。そこで繰り返されている言葉は何か。「愛」です。パウロはここで「愛」について語っているのです。「愛」こそが、その「最高の道」であり「最もすぐれた道」だと言うのです。

 いや、さらに言うならば、その「最高の道」を歩むのでないならば、どんな能力を得たとしても、どんな働きをしたとしても無益だとさえ言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどらややかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:1‐2)とはそういうことです。

 それだけではありません。その「最高の道」を歩むのでないならば、他の人のために何をしようとも、どんな大きな自己犠牲があっても無益だというのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)と彼は言うのです。

 実に激しい言葉です。一般論ではなく、「わたし」という言葉を用いて、パウロ自身の存在を指し示しながら語っているだけに、強烈に迫ってくる言葉です。どうして、パウロはコリントの人たちにここまで語らなくてはならなかったのでしょうか。それはコリントの人たちが、様々なことを「できるようになりたい」と願いながら、そして実際に有能な人や大きな働きをしている人が決して少なくはなかったにもかかわらず、もう一方においてお互いの間に分裂があり、仲たがいや争いが絶えなかったからです。まさに豊かな賜物をいただいていながら、バラバラだったからです。だからこそ、パウロは歩むべき「最高の道」について語るのです。愛について語るのです。

愛は忍耐強い
 しかし、そこで語られる「愛」とは、一般に通常考えられている「愛」とは恐らく異なるものです。愛は自然に生じる感情ではありません。「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。彼は言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4‐7)。

 この箇所を読みます時に思い出されるのは。カトリックの岡田武夫大司教が柏教会の神父であられた時に書いていたこんな文章です。「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひとつになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうのです。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません。」

 「罪」と聞くと「犯罪」という言葉を連想するかもしれません。あるいは「不道徳」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし、「犯罪」も「不道徳」も、人と人とを引き裂く罪の一つの側面に過ぎません。それはあくまでも一面なのであって、罪そのものはそう単純ではありません。なぜなら、「罪」は時として道徳的な顔をしたり、正義の仮面をかぶってやってくるからです。そして、互を引き離し、バラバラにし、しばしば正義の名のもとに殺し合うことさえさせるからです。

 先ほど引用した文章にあったように「ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません」。人間とではなく、罪と戦わなくてはなりません。バラバラにする力とたたかわなくてはなりません。どうしてこの文章を引用したか、もうお分かりでしょう。パウロが語る「愛」とは、まさにこの戦いに他ならないのです。バラバラにする力とのたたかいです。

 どのように戦うのですか。人間相手の戦いならば、武器を手にして戦えるでしょう。しかし、罪との戦いであるならそうはいきません。どのように戦うのですか。忍耐強くあることによってです。情け深くあることによってです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。実際、これは大きな戦いでしょう。

 何かができるようになること。確かに大事です。より良い働きをすること、より大きな務めを担えるようになること。確かに大事です。だからより大きな賜物を求めたらいい。能力を求めること、働きを求めることは悪いことではありません。しかし、バラバラにする力、分裂と争いをもたらす力と戦う人になることは、もっと大事なことなのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を歩もうとしないなら、与えられたどんなに大きな能力も、大きな働きも、無に等しいものとなってしまうのです。いや、罪の翻弄された能力や働きほど恐ろしいものはありません。

愛は決して滅びない
 とは言うものの、私たちはここで改めて考えざるを得ません。その道を歩むことはなんと困難なことでしょう。実際、これまでどれほどその戦いに苦戦してきたことでしょう。何度敗北を喫してきたことでしょう。

 私たちは現実に、自分の内にも、自分の周りにも、教会の中にも、この世界の至るところにおいても、罪の力がありとあらゆる形を取って猛威を振るっているのを目の当たりにしているのです。自分の心の内に働く罪の力にさえ苦戦を強いられているのに、いったいこの世界に働いている巨大な罪の力とどう戦ったらよいのでしょう。普通に考えたら、最後は罪の勝利に終わるのであって、世界は崩壊して終わりを迎えるとしか思えないのでしょう。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」とパウロは言いました。しかし、ただその「最高の道」を歩きなさいと言うだけならば、これほど過酷な勧めはありません。

 しかし、パウロはここで単にその「最高の道」を歩きなさいと勧めているのではないのです。実際、「~しなさい」という勧めや命令の表現は全く用いてはいないのです。「愛を追い求めなさい」という言葉は14章になって初めて出て来るのです。その前にパウロは何を語っていますか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」と書いていって、そしてこのように宣言しているのです。「愛は決して滅びない!」

 最後に勝つのは罪ではありません。愛が最後に勝つのです。愛が最後まで残るのです。愛という道を行く時、私たちは幾度となく困難を経験し、敗北の惨めさを味わうかもしれません。しかし、私たちがその道を行くことは決して無駄に終わらないのです。無に帰してしまうことはないのです。どんな大きな能力も働きもそれ自体は一時的なものです。しかし、愛は永遠です。なぜなら、愛は永遠なる神の本質だからです。ヨハネの手紙に「神は愛です」(1ヨハネ4:16)と表現されているとおりです。

 実際、愛なる神、神と人、人と人を引き離す罪の力とたたかわれる神は、御自身がそのような御方であることを私たちに現してくださいました。罪との戦いとしての「愛」を神はキリストにおいて現してくださったのです。「愛」が何であるかを神はキリストにおいて現してくださったのです。そして、その「愛」が永遠であることを、神はキリストの十字架と復活において現してくださったのです。

 そのキリストの中に、私たちは招き入れられ、キリストの体の部分とされているのです。この前の章にこう書かれているとおりです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)。私たちはキリストの体の部分として、ここに書かれている「最高の道」「最もすぐれた道」を歩んでいくのです。ならば、どんなに困難を極めていたとしても、今は度々敗北するようなことがあっても大丈夫なのです。キリストにおいて現された愛は決して滅びないからです。

 パウロが今日の箇所で語っているとおり、確かに私たちが見ているのは、不完全な途中の状態でしかありません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)と語られているとおりです。私たちが知るところは一部分に過ぎません。しかし、最終的には完成を見るのです。完全な愛を知ることになるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を共に進んでいきましょう。

2014年9月7日日曜日

「呼びかけ続ける神」

2014年9月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章1節~12節


祭司長、律法学者、長老たちに向けて
 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今日の福音書朗読において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは彼らに対して語られたのです。

 時はイエス様がエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、イエス様は捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。

 もちろん、イエス様はそのことをご存じです。既にエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられましたから。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日お読みしたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。

 そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることをはっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日朗読された箇所の結末です。

 彼らはこのたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは自分たちのことだと理解しました。イエスが自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らですから。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らですから。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。

 しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。

 確かに彼らは「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、イエス様はただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。イエス様は、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。

呼びかけ続ける神の話
 たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1‐3節)。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。

 そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たちに人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちはイスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。

 しかし、イエス様はこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4‐5節)。ここに語られているのはまことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。

 このたとえ話の後にイエス様はこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者をただちに滅ぼすことがおできになるのでしょう。

 しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。

 これはイスラエルの歴史において実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。あまりにも愚かです。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。イエス様はこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」――イエス様は、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。

捨てられた石が隅の親石となった
 もちろん、イエス様はそれでも彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。イエス様の話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7‐8節)。そうです、イエス様は分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。

 そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイエス様はなおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10‐11節)。

 「家を建てる者の捨てた石」とはイエス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となった、と。

 イエス様の言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに教会の親石となったのです。神はそのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。

2014年8月17日日曜日

「神の子供たちであるということ」

2014年8月17日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章42節~50節

    ヘブライ人への手紙 12章3節~13節

命にあずかる方がよい
 今日の福音書朗読にはたいへん恐ろしいことが書かれていました。

 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(マルコ9:43‐47)。

 イエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」という言葉を使っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。

 しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、ともあれ私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。私たちはこの世の悲惨を見て、あるいは私たち自身の人生を見て、「まるで地獄だ」と言うかもしれません。しかし、これは地獄ではないのです。神から見捨てられた世界ではありません。神から見捨てられた人生でもありません。

 それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えています。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられます。そうです、そのような救いの約束のもとにある世界であり、救いの約束のもとにある人生なのです。

 私たちが聞いているのは、そのような救いの約束を与えられている私たちに対する言葉です。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。

 この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、リストにとって決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。

 先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いの現れなのです。そうです、それこそがキリストを世に遣わされた神の願いでもあるのです。

 そのようにキリストが、そして神が、そのように願っていてくださる。考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったに違いありません。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。

 いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともあるのでしょう。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことはあるのでしょう。その意味において私たちは苦しみを避け得ない。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。その神の強烈な願いのもとにあるのです。

父の訓練
 そのような神の思いは、本日の第二朗読で読まれたヘブライ人への手紙においては「父の訓練」という言葉で表現されています。

 この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)

 これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉だったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。実際、親から虐待を受けて育った人にとっては、ここに書かれている言葉はまことにいたたまれない言葉だとも思います。

 しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべるべきではありません。私たちはこの聖書の言葉に、今日の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っている人なのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような強烈な神の願いを知っている人が引用して書いているのです。

 ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が最後までそうなさったように。

 天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。

 そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。

 それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を表します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。

 実際に様々な苦しみを通して絡みついて離れることなかった罪から解放されるということを私たちの多くは身をもって知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。

 大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。

2014年8月10日日曜日

「卑下することなく高ぶることなく」

2014年8月10日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14節~27節


あなたがたはキリストの体
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。パウロはこのように教会について語ります。当時のギリシア哲学の世界において個と全体の関係を「からだ」に喩えることは、は珍しいことではありませんでした。しかし、パウロはものの喩えとして「教会はからだのようなものだ」と言っているのではありません。教会は「キリストの体」であると言っているのです。

 これを書いているパウロはもともと教会の迫害者でした。その彼がキリスト者となった次第は使徒言行録9章に記されています。迫害の手を伸ばすためにダマスコへと向う途中、彼は天からの光に照らされ、地に打ち倒され、そこで天からの声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。

 パウロが迫害していたのは教会でした。捕らえて投獄していたのは個々のキリスト者でした。しかし、キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。私たちの手足の指を考えてみてください。指先が痛めばわたしが痛みます。この指の一本を誰かが切り取ろうとするならば、「わたし」が必死で抵抗するでしょう。一本の指先であっても、それは「わたし自身」なのです。

 教会がキリストの体であるとはそういうことです。その指が迫害されるならば、「なぜ、わたしを迫害するのか」と主は言われるのです。そのように各部分がキリストと分かちがたく結ばれている。そのようにキリストが自分自身として見ていてくださる。神はそのように私たちとキリストとを結び合わせてくださいました。このようなキリストと各部分との関係を念頭に置いてこそ、また各部分お互いの関係を考えることができるのです。まずお互いの関係が先にあるのではありません。それが分からないと、今日の聖書箇所に書かれているような問題が起こります。お互いの間における卑下と高ぶりの問題です。

わたしは要らない
 パウロは自らを卑下している人たちに問いかけます。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15‐16節)。

 今お読みしているのはコリントの教会に宛てた手紙です。コリントは当時有数の大都市でした。そのような大都市の教会として、コリントの教会は急速に大きくなっていったのです。この手紙の冒頭で、パウロはこう言っています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(1:5)。そこには多くの優れた伝道者や教師たちがいたようです。商業的中心地であるだけでなく、文化的な中心であるその都市においても豊かな知識をもって人々に語りかける力を持っていたのです。

 それだけではありません。そこには神の霊の著しい働きが見られました。その教会は、聖霊の賜物においても豊かな教会でした。12章8節以下には、賜物のリストが挙げられています。そこには奇跡を行う人、癒しを行う人、預言をする人などがいたのです。使徒言行録に描かれているような、奇跡や癒しの業が当たり前のように起こっていた教会だったと思われます。

 しかし、ここで想像してみていただきたいのですが、そのように非常に著しい働きをする人々がたくさん存在するような教会において、しかも急速に成長している教会において、どのようなことが起こってくるでしょう。もう一方において、自分は教会に存在する意味はないのではないかと思う人たちもいたであろうことは容易に想像できるのではないでしょうか。

 物事が進展していくときに、自分が何も貢献していないように思える時、自分はいてもいなくても同じだと感じてしまう。特に、様々な弱さを抱えているゆえに自分には何もできないと思える時、キリストの体に「わたしは要らない」と思わずにはいられない。「わたしは手ではないから、体の一部ではない」とは、そういう声です。「手のような働きができないわたしは体の一部などではない」と言っているのです。

 しかし、パウロは言うのです。「あなたがそう言ったところで、体の一部でなくなるわけじゃないでしょう」と。そうです。私たちがどう思うかが先にあるのではなく、キリストの体の部分とされているという事実が先にあるのです。

 私たちはただ恵みにより信仰によって救われたのです。私たちは恵みによって神に受け入れられたのです。恵みによってキリストに結ばれたのです。神の恵みによってキリストの体の部分とされたのです。「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)と書かれている通りです。私たちがキリストの体の部分に《なった》のではないのです。私たちがどう思おうが、どう感じようが、神が望まれたゆえに、私たちは神によってキリストの体の一部として「置かれた」のです。

お前は要らない
 さて、もう一方において人間の高ぶりというのは卑下の裏返しです。卑下する人は、自分が認められれば今度は高ぶります。高ぶっている人は、誇れるものがなくなれば、とたんに卑下して、わたしなどいないほうが良い、と言い始めます。「わたしはいらない。わたしは体の一部ではない」という声が聞こえるところでは、必ずもう一つの声が響いているものです。「あなたなどいない方がよい」と。それゆえにパウロはさらにこう続けるのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)。

 それはなぜか。要るかいらないかは私たちが決めることではないからです。先に見たように、神は「ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」のです。強い部分であろうが、弱い部分であろうが、神が望みのままに置かれたのです。それゆえに、パウロはさらに言っているのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)。


 ここで「ほかより弱く見える部分」とは、ただ肉体的な弱さやハンディキャップだけを意味するのではありません。私たちの抱えている弱さはそれこそ多種多様です。この言葉は「信仰の弱さ」をさえ意味するのです。この手紙の8章においては、信仰的に未成熟な人、まだ異教的な部分を引きずっている人などについて語られていますが、そのような人たちが「弱い人々」と呼ばれているのです。さらに言うならば、これまで自分の強さで困難を乗り切ってきたゆえに他の人の弱さをなかなか受け入れることができないという《弱さ》を抱えている人もいるでしょう。

 そのように弱さは多様です。ある意味では、誰もが欠けた部分を持っている。その意味では誰でも「ほかより弱く見える部分」であり得るとさえ言えるでしょう。そのような弱い部分はないに越したことはないと私たちは通常考えているのでしょう。しかし、聖書は言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

 いやそれだけではありません。24節にはこう書かれています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」要するに、人間の目には「見劣りのする部分」としか見ないかもしれないのだけれど、実はそこに神様が特別になさっていることがあるのだ、と言っているのです。神様が特別に目をかけ「引き立たせて」おられる。神様が特別に与えている美しいものがあるのです。弱さの中においてこそ神様がなさっていることがあるのです。ならば、そこにこそお互い目を向けるべきなのでしょう。

 そのように、神様は教会の中に「ほかよりも弱く見える部分」を残され、その部分に神様御自身が特別な美しさを与えられます。それは何のためでしょうか。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と書かれています。別の訳ではこうなっています。「それは、体の中に分裂がなく、互いにいたわり合うためなのである」(口語訳)。

 「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言えなくなる時に、私たちは分裂へと向かっているのです。弱く見える部分を神が引き立たせておられることに目を向けなくなる時、そこに神の与えている美しいものがあることに目を向けなくなる時、私たちは分裂へと向かっているのです。神のなさっていることではなく、お互いの弱さにしか目を向けなくなるなら、必ずお互いに「お前はいらない」「お前たちはいらない」と言い始めるからです。


 神様は恵みによって私たちをキリストの体の部分としてくださいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」。キリストは御自身と私たちが強かろうが弱かろうが、御自分と同一視するほどに重んじて見ていてくださいます。その恵みの事実がまず先にあるのです。そこで神様が私たちに望んでおられるのは「わたしは要らない」と言うのでもなく、「お前たちは要らない」と言うのでもなく、卑下することなく高ぶることなく、弱さのあるところにおいてこそ「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と言えるキリストの体を形づくっていくことなのです。

2014年8月3日日曜日

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」

2014年8月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節


 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)。これが今日私たちに与えられている神の言葉です。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。そのように書かれているのは、神からいただいた恵みを無駄にしてしまうことがあり得るからでしょう。

 そうならないために二つの大事なことがあります。一つは、《どのような恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。もう一つは《どのように恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。その《どのような》については、今日お読みした箇所の前に書かれているので、そこを見ておく必要があります。《どのように》については、今日の聖書箇所に書かれていました。私たちが神からいただいた恵みを無駄にしてしまわないために、《どのような》そして《どのように》という二つの面から、神からいただいた恵みに目を向けましょう。

どのような恵みをいただいたか
 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。「神からいただいた恵み」とは何か。パウロはどのような恵みについて語っているのか。今日の聖書箇所の直前に書かれているパウロの言葉を読みますと、何度も繰り返されている言葉があることに気づきます。「和解」です。そこに書かれているのは神と人間との「和解」の話です。

 「和解」とは関係の回復です。「和解」が話題になるということは、もともと関係が悪かったということです。そのことをドラマチックに伝えている物語があります。有名なエデンの園の物語です。アダムとエバが、神が食べるなと言われた木から取って食べたという話です。

 その物語が語っている内容は極めてシンプルです。私たち人間は神様が望まないことをしているといことです。神様が「ノー」と言われることを行っているということです。その結果どうなったか。神様が近づかれた時、アダムとエバは神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれているのです。そこに描かれているのは大昔の話ではありません。「アダム」という名はもともと「人」という意味ですから、これは人間ならば誰でも思い当たる話です。

 人に対してならいくらでもごまかしは利くものです。しかし、神に対してはごまかしが利きません。神の前においては全てが明らかです。神がまことの神ならば、その前で顔を上げることのできる者は、本当は一人もいないのでしょう。エデンの園の物語は確かに私たちの物語です。

 しかし、そのような私たちをなおも神は愛してくださいました。関係を壊したのは私たちの方であるのに、神はその関係を回復しようとしてくださったのです。神の方から和解の手を伸ばしてくださったのです。5章18節以下には次のように書かれていました。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(5:18‐19)。

 「人々の罪の責任を問うことなく」。――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が言われるのです。「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしば互いに罪過を数え立てているのでしょう。一つ一つを問題にし、その一つ一つについて償いを求め、あるいは心の中の記録にしっかりと記帳するのでしょう。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神は罪の記録をあえて破棄されるのです。もはや数え立てることはないと言われるのです。

 神は私たちの罪過を数え立てることなく、一方的に和解の手を伸ばしてくださいました。イエス・キリストをこの世に遣わされたとはそういうことです。神に背いたこの世界に、神に顔向けできないこの世界に、神はキリストを遣わされ、御自身の愛を示されたのです。最終的には十字架において、キリストを罪の贖いの犠牲とすることによって、この世を愛する愛を完全に現されたのです。イエス・キリストという御方は、まさにこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手に他なりませんでした。

 そのようにして、私たちは神と和解させていただいたのです。神によって罪を赦され、神に顔を上げ、神に祈り、神を礼拝して生きる者としていただいたのです。そのように神と共に生きる生活を与えられたのです。5章21節にはこう書かれています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。そうです、キリストが罪とされたために、もともとどう考えても義しくない私たちが、義ではない者が、義としていただいたのです。

 これこそまさに神の恵みです。神からいただいた恵みです。私たちは《どのような恵みをいただいたか》を忘れてはなりません。

どのように恵みをいただいたか
 そして、私たちは《どのように恵みをいただいたか》をも思い起こさねばなりません。

 先ほど、キリストはこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手であると申しました。しかし、コリントの教会の人たちのほとんど全ては、直接イエス・キリストを見たことはなかったに違いありません。そのような彼らが、神と和解させていただき、神と共に生きるようになったのはどうしてか。キリストのことを伝えてくれた人たちがいたからです。彼らの場合、パウロたちが「和解の言葉」を伝えてくれたからです。パウロたちが彼らに言ってくれたのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)と。それは私たちにしても同じでしょう。どのように恵みをいただいたか。誰かが私たちにキリストを伝え、和解の言葉を伝えてくれることによってです。

 今日お読みしたところには、そのように「和解の言葉」を伝えたパウロたち自身のことが書かれています。ここを一回読んだだけでも、パウロたちがどれほどの労苦をもってコリントの人々や他の地域の人々に「和解の言葉」を伝えていたかがわかります。

 パウロは言います。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(3‐4節)。パウロにとって大事だったのは、「和解の言葉」を伝えるという奉仕の務めそのものが非難されないことだったのです。彼自身が非難されることはいくらでもあったに違いありません。実際、そこには「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」など、彼が経験してきた状況が並べられています。それらはパウロ自身に対する非難や誤解、敵意や反感によってもたらされたものでしょう。

 さらには8節以下を見ると、彼が「栄誉を受けるとき」だけでなく「辱めを受けるとき」があったことがわかります。「好評を博するとき」だけでなく「悪評を浴びるとき」があるのです。そのような中にあっても、神の僕としての実を示してきた。なんのためですか。奉仕の務めが非難されないためです。つまずきとならないためです。それはただ一重にキリストを伝え、「和解の言葉」を伝えるために他ならないのです。

 そのようにして、和解の言葉は伝えられたのです。そのようにして、コリントの人たちは神の恵みをいただいたのです。それは私たちも同じです。ここに教会があるのはどうしてですか。私たちの信仰の先輩たちが伝道を続けてきたからです。和解の言葉を伝え続けてきたからです。さらには遠くカナダから故郷での生活を捨てて未知の国日本にまで来てくれた人たちがいたからです。多くの労苦や誤解や中傷を受ける中にあっても、神の僕としての実を示して仕えて来られた多くの人たちがいたからです。そのようにして私たちもまた神の恵みをいただいたのです。

無駄にしてはいけません
 そのように、私たちもまた《どのような恵みをいただいたか》そして、《どのように恵みをいただいたか》を思い起こしたいと思うのです。その上で、今日の御言葉をもう一度しっかりと受け止めたいと思うのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。ならば、その意味するところは明らかででしょう。

 私たちは、ただ神の一方的な恵みによって和解させていただいたのです。本来なら園の木の間に身を隠さざるを得ないような私たちが、罪を赦された者として、安心して神に祈り、神を礼拝して生きることができるのです。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。私たちは神と共に生きるのです。この世界がどう変わろうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、信仰を放棄してはなりません。神と共に生きるのです。その意味において、神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 しかし、それだけではありません。神からいただいた恵みは、実際には「和解の言葉」を託された人たちの愛と労苦によって私たちに伝えられたものでした。そのようにして、神と和解させていただいた私たちが、今度は「和解の言葉」を託されているのです。パウロたちが自分たちの労苦を語るのは、ただ同情を求めてのことではありませんでした。そうではなくて、彼らとの関係を確かなものとして、コリントの人たちと共に教会を建て上げたかったからでしょう。そして、共に労苦し、共に神の僕として生き、共に「和解の言葉」を伝えていきたかったからでしょう。求められていることは私たちにおいても同じです。その意味においても私たちは聖書の言葉を聞かなくてはなりません。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

2014年7月27日日曜日

「ソロモンとシェバの女王」

2014年7月27日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 列王記上 10章1節~13節


主はたたえられますように
 今日読まれましたのは、ソロモン王の時代にシェバの女王が来訪したという話です。シェバ王国はアラビア半島の南部、現在のイエメン周辺に存在していたことが知られています。遠い南の国から女王は何のためにはるばるイスラエルまで来たのでしょう。

 この女王の来訪の直前にはソロモンがエツヨン・ゲベルで船団を編成したことが記されています(9:26)。その船団にティルスのヒラムの船団が合流するのです。そして、こう書かれています。「彼らはオフィルに行き、金四百二十キカルを手に入れ、ソロモン王のもとにもたらした」(同28節)。この金の産地として有名であったオフィルはシェバ王国の一部か、もしくはその近隣にあったと思われます。そして、今日お読みした11節以下には再び「オフィルから金を積んで来たヒラムの船団」の話が出て来るのです。

 このような話の流れから考えますと、シェバの女王の来訪も、もともとはティルスと合同で設立した船団による南方の国々との広い交易との関連で理解するべきものと思われます。つまり南方の女王がはるばる来訪した主たる目的は、この物語の中にも様々な形で現れてくるような物資の交換による経済活動であったと考えられるのです。

 しかし、そのような南方の国々との経済的な交流はソロモンの時代のイスラエルにおいては大きな位置を占めていたにもかかわらず、聖書はあえてシェバの女王の来訪を、「ソロモンの知恵」を中心として語ります。この章において、シェバの女王は単にソロモンの王国の繁栄を見た人としてではなく、彼の「知恵」を見た人として描かれているのです。

 シェバの女王は「難問をもって彼を試そうとしてやって来た」(1節)と書かれています。そのような彼女の質問に対して、「ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(3節)と聖書は伝えます。さらには、シェバの女王は「ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿」(4節)を目の当たりにします。そして、女王はこう言うのです。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう」(6‐8節)と。

 そうです。富だけではなく、あくまでも「お知恵と富」なのです。そのように富だけではなくソロモンの知恵を目の当たりにしたこのシェバの女王のエピソードは、いったい何のためにここに記されているのでしょうか。――それは私たちに、もう一度ソロモンの治世の初めを思い起こさせるためなのです。ギブオンにおいて主がソロモンの夢枕に立たれたあの時のことです。3章に書かれている話です。

 あの時、主はソロモンにこう言われました。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」その時ソロモンが求めたのは知恵でした。王として国民の訴えを正しく聞き分けることができる知恵でした。ソロモンのこの願いを主はたいそうお喜びになり、こう約束されました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(3:5‐14)。

 シェバの女王が見たのは、まさにあの時主がソロモンに与えられた約束の実現に他なりませんでした。主は確かに真実であられた。主は約束を果たされた。私たちがそのことを思い起こすようにと、シェバの女王が来訪したこの物語は記されているのです。それゆえに、このエピソードの書き出しはわざわざ「シェバの女王は《主の御名による》ソロモンの名声を聞き」(1節)という言葉になっているのです。彼女は単にソロモンの名声を聞いたのではなくて、イスラエルをエジプトから導き出された神、主(ヤハウェ)の御名を聞いてやってきたのです。

 そして、彼女は確かに、このソロモンの栄華の背後に主が生きて働いておられることを見たのでした。それはこの女王がこう言っていることから分かります。「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです」(9節)。これがシェバの女王の認識でした。

 しかし、果たして当のソロモン自身の認識はいかなるものだったのでしょうか。今日は13節までお読みしました。しかし、続く物語の展開は、むしろソロモン自身はそのことを忘れてしまっていたことを示しているのです。そこまでを読んでこそ、聖書の伝えたいことが見えてくるのです。

与えられた時こそ試される時
 続く14節以下には、さらにソロモンの栄華の描写が続きます。「ソロモンの歳入は金六百六十六キカル」と書かれています。六百六十六キカルは約23トンに当たります。そんな莫大な量の金をどうするのでしょう。16節以下にはこう書かれています。「ソロモン王は延金の大盾二百を作った。大盾一つにつき用いた金は六百シェケルであった。延金の小盾も三百作った。小盾一つにつき用いた金は三マネであった。王はこれらの盾を『レバノンの森の家』に置いた」(16‐17節)。「レバノンの森の家」というのは宮殿の建物群の一つです。そこに金で作った膨大な数の大盾や小盾を保管したということは、要するにその大量の金をすべてソロモンは自分の財産として蓄えたということです。

 それだけではありません。「王は更に象牙の大きな王座を作り、これを精錬した金で覆った」(18節)。さらには、「ソロモン王の杯」(21節)はすべて金、レバノンの森の家の器も純金であったと書かれています。繰り返しますが、これら大量の金をすべてソロモンは自分の財産として蓄えたのでした。このことを心に留めておいてください。そして、少し飛びまして28節には「ソロモンの馬」の話が出てきます。「ソロモンの馬はエジプトとクエから輸入された。王の商人は代価を払ってクエからそれを買い入れた」。ここでわざわざ「エジプトとクエから輸入された」と書かれていることもまた心に留めておいてください。

 さらに進んで11章に入りますと、次第に雲行きが怪しくなってまいります。次のように書かれています。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、『あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる』と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた」(11:1‐3)。

 どうですか。既にかなり黒雲が立ち込めていますでしょう。そして、ついに聖書はソロモンの人生の集大成に当たる時期についてこう記しているのです。「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」(同4節)。

 さて、黒雲が立ち込めていると申しましたが、しかし、これは決してゲリラ豪雨のように突然起こったようなことではないのです。先にソロモンが金を大量に蓄えたことと、馬をエジプトから輸入したことを心に留めておいてくださいと申しましたが、それは既に神の戒めに背くことだったのです。申命記17章に「王に関する規定」があります。そこにはこう書かれているのです。「王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。…王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない」(申命記17:16‐17)。すなわちソロモンは神に求めた知恵が与えられ、さらには富と栄光をも豊かに与えられていた時に、既にその心は神から離れつつあったということなのです。

 皆さん、本当の試練とは、求めているものが得られないところにあるのではありません。求めているものが得られたところにこそ試練はあるのです。なぜなら、そこで本当の意味で人は試されるからです。そこで与えてくださった御方に目を留めるのか。その御方の御前にへりくだり、従順に歩もうとするのか。それとももはや与えてくださった御方には目を向けなくなってしまうのか。人は本当の意味で試されることになるのです。

 ソロモンに豊かに恵まれた主に目を向けていたのは、ソロモン本人ではなく、むしろ異邦の女王でした。なんとも皮肉なことです。しかし、それは私たちも同じかもしれません。神様からどれほど豊かな恵みが与えられていても、それが当たり前になってしまって、もはや感謝をもって主を仰ぐこともない。主の御前にへりくだって従順に歩もうともしていない。それは私たちにも起こりえることです。むしろキリスト者ではない周りの人たちや家族の方がよほど神の恵み深さに目を向けているかもしれません。

 「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように!」と感嘆の声をあげたシェバの女王。その賛美の声をソロモン自身は失ってゆきました。もし、私たちの内にも失われつつあるならば、私たち自身、立ち帰ってもう一度主の恵みの大きさに目を向けるべきでしょう。そうでないならば、私たちもまた、形は違いこそすれ、ソロモンの老境の姿に行き着いてしまうことでしょう。そうあってはなりません。

2014年7月20日日曜日

「神の恵みの豊かさに目を向けよう」

2014年7月20日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章14節~21節


パンを忘れた弟子たち
 「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)。そう書かれていました。小さなミスです。そのミスによって困ったことになりました。パンは一個しかありません。全員が食べるには足りません。そのように誰かのミスによって、あるいは全員のミスによって、何かが不足したり欠乏したりするということは起こります。それは私たちが置かれている様々な人間関係にも起こりますし、教会にもそのようなことは起こります。

 もっとも今日お読みした場面においては大したことが起こっているわけではありません。パンを忘れたからと言ってその後の旅に重大な支障をきたすわけではありません。事実、その後は何事もなかったかのように話は続きます。皆が少し我慢すればよいだけの話です。しかし、この出来事は後に弟子たちが教会として宣教していく時にもまた起こり得ることを指し示していたとも言えます。ですから、その場面でイエス様が言われた言葉は、後々の弟子たちにとっても、さらには今日の私たちにも大きな意味を持っていると言えるでしょう。

 その時、イエス様は何と言われたでしょうか。こう書かれています。「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(15節)と書かれています。そうです、そのような時こそ気をつけなくてはならないことがあるのです。そのように全員にパンが一個しかないような事態になった時こそ、明らかに困窮や不足が生じているような時こそ、気をつけなくてはならないパン種があるのです。パン種は小さくても、全体を膨らませてしまいます。そのように小さく入り込んで全体に悪い影響を及ぼしてしまうパン種があるのです。

ファリサイ派のパン種に気をつけなさい
 実際、困窮や不足がある時に何が入り込んでくるでしょう。まず可能性として考えられるのは裁き合いです。そもそも、いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まるのです。そして、それぞれが自分を正当化しはじめます。これこそがファリサイ派のパン種です。

 今日の箇所の直前にはファリサイ派の人々が来て、天からのしるしを求め、議論をしかけたという話が書かれています(11節)。明らかに悪意をもって議論をふっかけてきたのは、以前にファリサイ派の人々とイエス様の一行との間で一悶着あったからです。

 7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(7:1‐2)。「見た」と書かれていますが、要するに「気になった」ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(同5節)。

 なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(同3‐4節)。

 こういう人は、他の人のことが気になるものです。喜んで守っている人は別でしょうが、義務感から、仕方なく守っている人や、あるいは自分はこれだけ一生懸命に何かを行っていると日頃から思っている人は、守っていない人が気になるものです。自分と同じように行っていない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。また、当然のことながら、そのように他人の行動を批判的に見る人は、自分も批判されているのではないかと気になるものです。批判されないように一生懸命になる。ですから他人の行動ばかりではなく自分の行動も気になります。どう見えているか。どう判断されているか、と。結果的に自分の正しさを一生懸命にアピールするようになります。表向きの正しさを繕うようになります。それが攻撃されれば自分も攻撃的になります。その結果、律法主義の世界は裁き合いの世界ともなるのです。

 そのようなファリサイ派のパン種が困窮と不足の中に入り込むとどうなるでしょう。皆が互いの行動を問題にします。いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まります。皆が自分を正当化し、自分は正しいと主張し始めます。裁き合いが起こります。そのようなパン種は共同体を崩壊させることとなるでしょう。イエス様は言われました。「ファリサイ派のパン種によく気をつけなさい」。

ヘロデのパン種に気をつけなさい
 そして、困窮や不足が生じたとき、可能性としてもう一つ考えられることがあります。それは正しさを問題にするファリサイ派のパン種とは対極にあるものです。すなわち、そこでは善悪ではなく、ただ力関係がモノを言うようになる。そのような可能性は確かにあります。困窮や不足を解決する力を持った人、不足を満たすことができる人がいたら、その人の善悪は全く問題にされることなく人々から持ち上げられることになるかも知れません。その結果、能力にせよモノにせよ、何かを持っている者が周りを支配する共同体となっていきます。しかし、それこそが「ヘロデのパン種」なのです。

 ヘロデについては洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねた人物として6章に出てきます。ヘロデ・アンティパスというガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、この福音書では「ヘロデ王」と呼ばれています。実際には王ではない人物を「王」と呼ぶのはある意味では皮肉です。王でもないのに王のように振る舞っていた人物であったということです。彼は酒の席で踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。実はこれは有名な言葉で、かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にした言葉なのです。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、その王権を示すために、洗礼者ヨハネの首をはねたのです。

 そのような神をも畏れぬ傲岸不遜な人物を、それでもなお支持するユダヤ人の一団がありました。彼らはこの福音書において「ヘロデ派」と呼ばれています。宗教的な一派ではなく政治的なグループです。彼らがヘロデを支持したのはヘロデが正しいからではなく、ヘロデの権力の恩恵にあずかっているからです。ヘロデが支配することによって益を受ける人々だからです。

 先にも申しましたように、そのようなヘロデ派の精神、ヘロデのパン種が共同体の中に入ってくることがあり得ます。正しいか否かはどうでもよいのです。神に対してどのような態度であるかも別にいい。ただ不足を満たし困窮を解決してくれさえすればよい。そのようなヘロデのパン種が教会に入り込むなら、教会という麦粉全体を損なってしまいます。もはや教会ではなくなります。ですからイエス様は前もって弟子たちに言っておられたのです。「ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。

まだ悟らないのか
 さて、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて思いました。「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」。よほどパンを忘れたことを気にしていたのでしょう。そこでイエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(17‐19節)。

 もちろん弟子たちは覚えていました。「十二です」と彼らは答えます。イエス様はさらに問いました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは答えます。「七つです」。そこでイエス様は言われました。「まだ悟らないのか」。

 そうです、彼らは既に悟っていなくてはならないのです。五千人に五つのパンは明らかに足らなかったのです。彼らは困窮していたのです。しかし、イエス様がおられるところにおいては、その困窮は神の豊かさを知る機会となったのです。十二の籠に有り余るほどの神の豊かさです。四千人に七つのパンの時にも、明らかに足らなかったのです。しかし、それは七つの籠に有り余るほどの神の豊かさを知る契機となったのです。

 困窮のあるところ、それは互いに自分の正しさを主張し、裁き合い、悪人捜しをする場所にもなり得ます。困窮のあるところ、それはただ力を持つものが支配し、力ない者が隷属するような場所にもなり得ます。しかし、そこにはもう一つの可能性があるのです。それは皆が既に来られた救い主に目を向け、救い主を送られた神の限りない慈しみに目を注ぐことです。そして、それは神の豊かさを経験する場所となるのです。

 パウロが後に手紙に書いています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。その御子が共におられる。窮乏の舟の中にも御子イエス様が共におられる。それがどれほど大きな意味を持っているかを彼らは悟らなくてはならなかったのです。そこでパンが一個しかなくても、全く問題ではない。むしろ一個のパンが既に与えられているではないか、と語ることができるのです。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。大事なことはパン種を持ち込んでしまわないことです。ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種を外に放り出し、まず神の御業に目を向け喜び祝う。私たちはいつもそのような教会でありたいと思うのです。

2014年7月13日日曜日

「神による救いの計画の中で」

2014年7月13日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 13章13節~25節

    マルコによる福音書 6章14節~29節

聞いてください
 本日の使徒書の朗読では、パウロの伝道旅行の様子を伝える箇所が読まれました。第一回目の伝道旅行です。 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに到着し、さらにそこからピシディアの山を越えて一路アンティオキアに向かいます。そこにはユダヤ人居留民の共同体があり、安息日には会堂において礼拝が行われていました。パウロとバルナバは安息日に会堂に入って席に着きます。いつものように礼拝は進められ、聖書が朗読されました。そこで会堂長たちが人をよこしてパウロたちに励ましの言葉を語るよう促します。そこでパウロが立ち上がり語り出しました。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」(16節)。

 聖書が朗読された後に人が立って何かを語る。人々は何が語られることを期待していたのでしょう。皆さんだったら、何が語られることを期待しますか。今日お読みしたのは、そこで語られたパウロの言葉の一部ですが、一部だけを聞いても分かります。パウロがまず語り出したのは、聖書の言葉に従って生活しなさいということではありませんでした。神の戒めを守りなさいということでもありませんでした。パウロが開口一番語り出したのは、人間が何をすべきかということではなく、神が何をしてくださったのかということでした。主語は「わたしたち」ではなく「神」なのです。

 パウロはエジプト脱出の物語から語り出します。ユダヤ人の先祖はもともとエジプトにおける奴隷たちでした。その奴隷たちを率いてエジプトを脱出させたのはモーセという人物でした。しかしパウロは、偉大なる指導者モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したのだ、とは語らないのです。「この民イスラエルの神は、…導き出してくださいました」(17節)と言うのです。

 同じように、神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍ばれた。神はカナンの地を彼らに相続させてくださった。神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。「裁く者たち」というのは、聖書において「士師」と呼ばれていますが、特にイスラエルが危機に陥った時に現れてきた救済者たちです。しかし、パウロは「偉大な救済者が立ち上がってイスラエルを救ったのだ」とは言わないのです。

 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、サウルを王として与えました。これも、「人々は王を求め、王国を建設した」とは言わない。そして、神はサウルを退けダビデを王の位につけました。そのダビデの子孫から、神は約束に従って救い主イエスを送ってくださいました。

 そのように、パウロは人間が何をすべきかではなくて、神が何をしてくださったかについて語ります。そのように、神の救いの歴史について語るのです。神の救いの歴史を貫いている神の計画について語るのです。

神の救いの計画を知るからこそ
 これは先にも申しましたように、パウロの最初の伝道旅行の途中における出来事です。それは多くの困難が予想される旅であったに違いありません。実際、同行していたヨハネは早くもペルゲにて戦線離脱してしまいました。そのような困難な宣教旅行を、パウロは少なくとも三回行ったことが使徒言行録には記されています。その宣教旅行により小アジアからさらにはヨーロッパに至るまで、各地において教会の基礎が据えられていったのです。

 このパウロの働きなくして、キリスト教の歴史は語ることができません。そのように、まさに命がけで、自分自身を捧げ尽くして、神に仕えていたパウロであり、実際に大きな成果を残すことになるパウロです。しかし、そのパウロが開口一番に語ったのは「わたしたちは」ではありませんでした。そうではなく「神は」なのです。神がしてくださったこと、してくださっていることを語るのです。

 逆に言えば、そのようなパウロであるからこそ、困難な宣教旅行を続けることができたとも言えるのです。「わたしは」「わたしたちは」ということしか見えていなければ、人間のしていることしか考えられなければ、思い上がったり落ち込んだり、そんなことを繰り返して本当に為すべきこともできなくなるのです。神のなさっていることが先にあり、神の御業の中に自分がいるということを知るからこそ、安心して人の為し得るところを行うことができるのです。

 実際、このアンティオキアの宣教を見ると、そのことが良く分かります。一方において、パウロの宣教は豊かな実を結ぶことになります。パウロの話を聞いた人たちは、次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼みました。そして、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)と書かれています。その意味合いは、ユダヤ人ではない人たち、今まで会堂に足を踏み入れたことのないような人たちまでが大勢集まって来たということです。その結果、異邦人たちがイエス・キリストを信じるに至りました。その意味において、パウロの働きは実りを見たと言えます。

 しかし、もう一方において、ユダヤ人たちは口汚くののしって、パウロの話すことに反対しました。そして、町の有力者たちを扇動してパウロを迫害させたのです。パウロたちはその地方から追い出されることとなりました。

 そのように、アンティオキアの宣教には喜びがあり、そして悲しみがありました。そこには実り豊かな働きがあり、徒労に終わった働きがありました。しかし、そこでパウロは思い上がるでもなく、落ち込むでもなく、その両方を受け止めて前に進んでいくのです。なぜなら人間の働きが全てではないと知っているからです。「わたしたちは」ではなく、「神は」なのです。人間の働きの前に、神がしておられることがある。まず神の救いのご計画が先にあるのです。その中でパウロは働いているのです。だから安心して、為し得ることを行うために先に進むのです。彼は次なる宣教地、イコニオンへと向かって旅立ちます。

その方はわたしの後から来られる
 そして、パウロと同じように、神の救いのご計画に目を向けていたもう一人の名前が今日の聖書箇所には出てきます。洗礼者ヨハネです。パウロは次のように語っていました。「ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない』」(24‐25節)。

 洗礼者ヨハネは、まさに一世を風靡した預言者でした。「イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とパウロは言います。マルコによる福音書には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)と書かれています。いくらなんでも「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆…洗礼を受けた」というのは誇張だろうとは思いますが、それにしてもヨハネの洗礼運動が当時の社会に計り知れない影響を与えたことは間違いないでしょう。その意味において、ヨハネがたった一人で始めた働きは豊かな実を結んだと言うことができます。

 しかし、先のパウロの言葉には「その生涯を終えようとするとき」とありました。その生涯を終えようとするとき――どのように?まさに今日の福音書朗読において、ヨハネの生涯の最後の日がどのようなものであったかが読み上げられたのです。「そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した」(マルコ6:24‐25)。そのように、ヨハネは獄中で首をはねられて死んだのです。しかも、余興の口約束のために首をはねられて死んだのです。

 それがパウロの言うヨハネの生涯の終わりです。パウロも当然、ヨハネがどのように死んだかは知っているはずです。しかし、その生涯の終わりにおいて、ヨハネはこう言っていたというのです。「その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない」。もっとも実際にヨハネが口にしていたのは前々からでしょうが、パウロはあえて「その生涯を終えようとするとき」と語ります。なぜなら、その言葉はまさにその生涯を貫いてその最後に至るまで、彼にとって何が大事であったかを示しているからです。

 「その方はわたしの後から来られる」。イエス・キリストがわたしの後から来られる。神の救いのご計画によって、イエス・キリストが来られる。そのことだけがヨハネにとっては重要だったのです。神がしてくださったことがある。そして神がなさっていることがある。その中で、自分の働きが報われたか、自分がどれほど実りある働きをすることができたかはどうでも良いことだったのです。神がなさっていることに比べたら、自分のしていることなど全く取るに足りないことなのであって、神が遣わされた御方の「足の履物をお脱がせする値打ちもない」と言うのです。そのようなヨハネによって、自分がどのように生涯を終えるかということさえも、大して重要なことではなかったのでしょう。だからヨハネはただ為すべきことを行ったし、行い得たのです。安心して悔い改めを宣べ伝え、洗礼を授け、ヘロデ王をいさめもしたのです。


 今、私たちもまた、神の大きな救いのご計画の中にいることに思いを向けましょう。神の御業が先にあるのです。その中において、私たちは私たちの為すべきことを行うのです。私たちはまずここにおいて大いなる神の御業をほめたたえ、そして、安心して一週間の生活へと歩み出しましょう。

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