日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節~2章2節
喜びが満ち溢れるため
先週、私たちはクリスマスを祝いました。キリストがこの世に来られたことを共に喜び祝いました。神の独り子がこの世に来てくださいました。人間が目で見たり、手を伸ばして触れたりすることのできるほどに近くまで来てくださいました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」(1節)とヨハネが書いているとおりです。
ヨハネがその御方の内に見たものをひと言で表現するならば、それは「命」でした。ヨハネはさらにそれを「永遠の命」と表現します。「永遠の命」とは何でしょう。「命」の本質は「愛」にこそあります。愛し合って共に生きている時に、人は本当の意味で生きているのです。憎み合っている時、人は命を失っているのです。命とは愛に満ちた交わりです。永遠の命とは神との愛に満ちた交わりです。
イエス様はこの世に来られて、永遠の命を見せてくださいました。父なる神と共に生きるということがどういうことかを見せてくださいました。神を「アッバ、父よ」と呼びながら、その愛と信頼に満ちた交わりを実際に見せてくださいました。そうです、ヨハネは確かに永遠の命を見たのです。彼は言います。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(2節)。
いや、ヨハネは見せていただいただけではありませんでした。弟子たちはキリストと共に「天におられるわたしたちの父よ」と祈る者とされました。そのように、キリストと共に、また父なる神と共に生きる者とされました。永遠の命にあずかって生きる者とされました。
そして、ヨハネは今、御父と御子イエス・キリストとの交わりへと他の人々を招きます。手紙を書いて、この読者をも招きます。どのようにして。この世に現れた「永遠の命」を伝えることによってです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。
その目的は何でしょう。彼はさらに続けます。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)。二回「わたしたち」が出てきますが、一回目と二回目は意味合いが違います。最初の「わたしたち」は永遠の命を伝える「わたしたち」です。そこには伝えられる「あなたがた」がいるのです。しかし、その「わたしたち」と「あなたがた」が一つとなって、一つの「わたしたち」になるのです。これが二つ目の「わたしたち」。その一つとなった「わたしたち」の喜びが満ち溢れるようになるためにこれを書いているのだ、とヨハネは言うのです。
そして、一つとなった「わたしたち」がさらに誰かに永遠の命を伝える。そして、伝えられた「あなたがた」と伝える「わたしたち」が一つとなっていく。そこに喜びが満ち溢れる。教会が二千年間続けてきたのはこのことです。そのようにして、私たちにも伝えられたのです。そして、伝えてきたのです。そして、喜びを共にしてきたのです。それが目に見える形ではっきりと現れるのは洗礼式でしょう。先週の日曜日に二人の方が洗礼を受けられました。洗礼を受けた二人も喜び、他の者も皆喜び、一つとなった「わたしたち」が共に喜びにあずかりました。
御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。こうして一緒に神を誉め讃え、神の言葉に耳を傾け、神に祈り、神への信仰を共に言い表すところに、教会の喜びがあるのです。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。
光の中を歩む
そのためにも、5節以下に書かれていることは重要です。そこには私たちが共に神との交わりを持って生きようとする時に、どうしても避けては通れない事柄について書かれているからです。すなわち、信仰をもって生き始めてなお犯してしまう罪の問題です。一方において、神に従いたいと思う自分がいる。しかし、もう一方において神に背いた行いをしてしまう自分がいる。キリストを信じて新しく生まれた私は確かにいる。しかし、もう一方において古い自分も生きている。いや信仰生活が長くなれば、なおさら自分の罪深さの自覚も増してくる。それは信仰生活において誰もが経験する事だろうと思います。
そこで私たちが心に留めるべき第一のことは、5節に書かれている「神は光である」というメタファーです。神は光である。その神と共に生きていくならば、当然、光の中を生きていくことになる。信仰生活とは光の中を共に歩んでいくということなのです。
それまで暗闇の中を歩いていた人が、光の中を歩き始めるなら何が起こってくるでしょう。それまで見えなかったものが見えてくるのです。自分自身の問題も見えてくる。自分は正しいと信じて疑わなかった人が光の中を歩き始めると、自分は決して正しくはないということが見えてくる。周りの人たちの悪に憤っていた人が光の中を歩き始めると、自分の内にこそ悪があることが見えてくる。信仰者として生き始めたら、かえって自分が悪い人間になったように感じることがあります。しかし、「神は光である」ということならば、それは当然起こってくるはずのことなのです。
私たちは、「神は光である」ということ、そして信仰生活とは光の中を歩くことだということを心に留めねばなりません。そこで重要なことは何か。闇の中に戻らないということです。見えてきたものも、光を遠ざければ見えなくなるでしょう。そのように、自分自身を神から遠ざけてしまうなら、自分自身をも見ないで済むかもしれません。あるいは見えてきたものに対して目を閉じてしまえば、見ないで済むのでしょう。それは実質的には暗闇に身を置いているのと同じです。
この手紙が書かれた頃、光の中を歩む生活とは全く相容れない思想を唱える教師たちが教会の中に入り込んできていました。彼らは霊肉二元論によって、この肉体を魂の牢獄として考えた。すなわち真で善なる魂は肉体という牢獄に囚われているのであって、この肉体が行うことになんら責任を負うことはないし、なんら影響を受けることもないとしたのです。そして、その牢獄である肉体から魂が解放されるところにこそ救いがあると教えたのです。それはある意味ではとても魅力的な思想でした。何をしても罪であると考える必要はないからです。実際、「わたしには罪はない」と主張する人々がいたのです。
しかし、ヨハネは言うのです。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)。その思想によって自分の罪を見ないで済むようになるかもしれないけれど、それは闇の中を歩くことに他ならないのだと彼は言うのです。実際、当時の異端思想によらずとも、私たちもまた、闇の中を歩ませ、罪を罪として認めないようにさせる様々な思想に取り囲まれているのでしょう。しかし、闇の中を歩くところに満ち溢れる喜びなどないのです。
罪を告白するなら
大切なことは、光の中を歩き続けることです。ヨハネは言います。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが暗闇の中を歩いてしまうなら、もはやキリストとの関わりはなくなります。キリストの十字架も罪の贖いも不必要でしょうから。光の中を歩くところにこそ、キリストとの交わりがあるのです。そこには私たちの罪のために血を流してくださったキリストがおられるのです。私たちの罪を清める御方として共にいてくださるのです。
ではどのようにして、光の中を歩き続けるのでしょう。この手紙は次のように続きます。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(8‐9節)。
ここに書かれているように、「自分に罪がない」と言わないことです。むしろ「自分の罪を公に言い表すなら」と書かれています。聖書協会訳では「告白する」となっています。もともとは「同じことを言う」という意味の言葉であり、「同意する」という意味を持っています。それは必ずしも人々の前に言い表すことを意味しません。罪を告白する。それはまず神に対してです。神と同じことを言うのです。神に同意するのです。神が罪だとするならば、「その通りです」と罪を認めることです。
そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。
神との交わりの中に留まるためには、神の御前で正直であることです。暗闇の中に身を置いてしまわないことです。そのようにして御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの互いの交わりもあります。そこに私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。