2014年12月28日日曜日

「光の中を共に生きる」

2014年12月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節~2章2節


喜びが満ち溢れるため
 先週、私たちはクリスマスを祝いました。キリストがこの世に来られたことを共に喜び祝いました。神の独り子がこの世に来てくださいました。人間が目で見たり、手を伸ばして触れたりすることのできるほどに近くまで来てくださいました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」(1節)とヨハネが書いているとおりです。

 ヨハネがその御方の内に見たものをひと言で表現するならば、それは「命」でした。ヨハネはさらにそれを「永遠の命」と表現します。「永遠の命」とは何でしょう。「命」の本質は「愛」にこそあります。愛し合って共に生きている時に、人は本当の意味で生きているのです。憎み合っている時、人は命を失っているのです。命とは愛に満ちた交わりです。永遠の命とは神との愛に満ちた交わりです。

 イエス様はこの世に来られて、永遠の命を見せてくださいました。父なる神と共に生きるということがどういうことかを見せてくださいました。神を「アッバ、父よ」と呼びながら、その愛と信頼に満ちた交わりを実際に見せてくださいました。そうです、ヨハネは確かに永遠の命を見たのです。彼は言います。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(2節)。

 いや、ヨハネは見せていただいただけではありませんでした。弟子たちはキリストと共に「天におられるわたしたちの父よ」と祈る者とされました。そのように、キリストと共に、また父なる神と共に生きる者とされました。永遠の命にあずかって生きる者とされました。

 そして、ヨハネは今、御父と御子イエス・キリストとの交わりへと他の人々を招きます。手紙を書いて、この読者をも招きます。どのようにして。この世に現れた「永遠の命」を伝えることによってです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。

 その目的は何でしょう。彼はさらに続けます。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)。二回「わたしたち」が出てきますが、一回目と二回目は意味合いが違います。最初の「わたしたち」は永遠の命を伝える「わたしたち」です。そこには伝えられる「あなたがた」がいるのです。しかし、その「わたしたち」と「あなたがた」が一つとなって、一つの「わたしたち」になるのです。これが二つ目の「わたしたち」。その一つとなった「わたしたち」の喜びが満ち溢れるようになるためにこれを書いているのだ、とヨハネは言うのです。

 そして、一つとなった「わたしたち」がさらに誰かに永遠の命を伝える。そして、伝えられた「あなたがた」と伝える「わたしたち」が一つとなっていく。そこに喜びが満ち溢れる。教会が二千年間続けてきたのはこのことです。そのようにして、私たちにも伝えられたのです。そして、伝えてきたのです。そして、喜びを共にしてきたのです。それが目に見える形ではっきりと現れるのは洗礼式でしょう。先週の日曜日に二人の方が洗礼を受けられました。洗礼を受けた二人も喜び、他の者も皆喜び、一つとなった「わたしたち」が共に喜びにあずかりました。

 御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。こうして一緒に神を誉め讃え、神の言葉に耳を傾け、神に祈り、神への信仰を共に言い表すところに、教会の喜びがあるのです。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

光の中を歩む
 そのためにも、5節以下に書かれていることは重要です。そこには私たちが共に神との交わりを持って生きようとする時に、どうしても避けては通れない事柄について書かれているからです。すなわち、信仰をもって生き始めてなお犯してしまう罪の問題です。一方において、神に従いたいと思う自分がいる。しかし、もう一方において神に背いた行いをしてしまう自分がいる。キリストを信じて新しく生まれた私は確かにいる。しかし、もう一方において古い自分も生きている。いや信仰生活が長くなれば、なおさら自分の罪深さの自覚も増してくる。それは信仰生活において誰もが経験する事だろうと思います。

 そこで私たちが心に留めるべき第一のことは、5節に書かれている「神は光である」というメタファーです。神は光である。その神と共に生きていくならば、当然、光の中を生きていくことになる。信仰生活とは光の中を共に歩んでいくということなのです。

 それまで暗闇の中を歩いていた人が、光の中を歩き始めるなら何が起こってくるでしょう。それまで見えなかったものが見えてくるのです。自分自身の問題も見えてくる。自分は正しいと信じて疑わなかった人が光の中を歩き始めると、自分は決して正しくはないということが見えてくる。周りの人たちの悪に憤っていた人が光の中を歩き始めると、自分の内にこそ悪があることが見えてくる。信仰者として生き始めたら、かえって自分が悪い人間になったように感じることがあります。しかし、「神は光である」ということならば、それは当然起こってくるはずのことなのです。

 私たちは、「神は光である」ということ、そして信仰生活とは光の中を歩くことだということを心に留めねばなりません。そこで重要なことは何か。闇の中に戻らないということです。見えてきたものも、光を遠ざければ見えなくなるでしょう。そのように、自分自身を神から遠ざけてしまうなら、自分自身をも見ないで済むかもしれません。あるいは見えてきたものに対して目を閉じてしまえば、見ないで済むのでしょう。それは実質的には暗闇に身を置いているのと同じです。

 この手紙が書かれた頃、光の中を歩む生活とは全く相容れない思想を唱える教師たちが教会の中に入り込んできていました。彼らは霊肉二元論によって、この肉体を魂の牢獄として考えた。すなわち真で善なる魂は肉体という牢獄に囚われているのであって、この肉体が行うことになんら責任を負うことはないし、なんら影響を受けることもないとしたのです。そして、その牢獄である肉体から魂が解放されるところにこそ救いがあると教えたのです。それはある意味ではとても魅力的な思想でした。何をしても罪であると考える必要はないからです。実際、「わたしには罪はない」と主張する人々がいたのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)。その思想によって自分の罪を見ないで済むようになるかもしれないけれど、それは闇の中を歩くことに他ならないのだと彼は言うのです。実際、当時の異端思想によらずとも、私たちもまた、闇の中を歩ませ、罪を罪として認めないようにさせる様々な思想に取り囲まれているのでしょう。しかし、闇の中を歩くところに満ち溢れる喜びなどないのです。

罪を告白するなら
 大切なことは、光の中を歩き続けることです。ヨハネは言います。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが暗闇の中を歩いてしまうなら、もはやキリストとの関わりはなくなります。キリストの十字架も罪の贖いも不必要でしょうから。光の中を歩くところにこそ、キリストとの交わりがあるのです。そこには私たちの罪のために血を流してくださったキリストがおられるのです。私たちの罪を清める御方として共にいてくださるのです。

 ではどのようにして、光の中を歩き続けるのでしょう。この手紙は次のように続きます。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(8‐9節)。

 ここに書かれているように、「自分に罪がない」と言わないことです。むしろ「自分の罪を公に言い表すなら」と書かれています。聖書協会訳では「告白する」となっています。もともとは「同じことを言う」という意味の言葉であり、「同意する」という意味を持っています。それは必ずしも人々の前に言い表すことを意味しません。罪を告白する。それはまず神に対してです。神と同じことを言うのです。神に同意するのです。神が罪だとするならば、「その通りです」と罪を認めることです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 神との交わりの中に留まるためには、神の御前で正直であることです。暗闇の中に身を置いてしまわないことです。そのようにして御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの互いの交わりもあります。そこに私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

2014年12月14日日曜日

「沈黙の恵み」

2014年12月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章5節~25節


 イエス・キリストが年およそ30にして公の活動を始めるに先立って、ユダヤに現れ一世を風靡した人物がいました。洗礼者ヨハネです。彼はイエス・キリストの先駆者的役割を果たすこととなりました。今日お読みしたのは、その洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。

主は恵み深い
 洗礼者ヨハネの父親はザカリアという祭司でした。母親のエリサベトもまた祭司の家系に属するアロン家の娘でした。彼女については次のように語られています。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)。そのような二人の間に神によって与えられたのがヨハネでした。明らかにその誕生自体は神の奇跡として描かれています。しかし、今日の聖書箇所において重要なのはその誕生が予告されたということです。

 「予告」は聖書にしばしば出て来るモチーフです。アブラハムはイサクの誕生を予告されました。マノアの妻はサムソンの誕生を予告されました。マリアはイエスの誕生を予告されました。聖書の中で神様は予告をされるのです。人間の意向を打診しないで、一方的に予告するのです。何を意味しますか。人間の意向とは関係なく天において定められていることがある、ということです。

 それはヨハネという名前の命名の仕方にもよく現れています。イスラエルにおいて子供の名前は父親が付けるのが習わしでした。しかし、ザカリアに現れた天使はこう言ったのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)。神様は父親であるザカリアが子供の名前を決める前に、その子の名前を勝手に決めてしまわれたのです。

 親が考えるべき名前を神様が先に定めておられたというのは実に象徴的です。この子供の人生については、親が何を願おうが、何を考えようが、親の思いとは関係なく神様が定めておられることがある、ということです。その子供を通して神様がなさろうとしていることがある。主のご計画が先にあるのです。

 実際、その子の人生についての予告が次のように続きます。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(14‐17節)。このことについては、その親でさえ関与することができないのです。ザカリアがヨハネの命名にさえ関わることができなかったようにです。

 そのように人間の関与できない神の定めとご計画というものがある。それは私たちの経験とも一致します。私たち自身についても、私たちの人生についても、ほとんどの事柄は私たちの意志や意図とは関係なく定められたものです。親にも私たち自身にも神様は意向を打診してはくれませんでした。生まれる前から定められていることは山ほどあります。

 人間が関与できない神の定めとご計画がある。それはある意味では私たちにとって恐ろしいことに思われます。私たちは常々物事が私たちの願い通りに運ぶことを望んでいますから。そして、そうなるようにできる限りの事をしているのでしょう。ですから自分のコントロールの及ばないことがあるのはいやなのです。それは恐ろしいことでもあるのです。

 しかし、神様は御使いをザカリアにこう言われたのです。「その子をヨハネと名付けなさい」。人間の意向とは関係なく付けられた名前、それは「ヨハネ」でした。それは「主は恵み深い」という意味です。主は恵み深い――ならば、ザカリアは我が子に名前を付けることができなくてもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分が関与できない主のご計画があってもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分のコントロールが及ばなくてもよいのでしょう。そうです、ただ一つのことを知っていればよいのです。それは「主は恵み深い」ということです。

 その「ヨハネ(主は恵み深い)」と名付けられた子は、やがて天使の告げられた通り、人々を主に立ち帰らせる人となり、イエス・キリストの先駆者となりました。「イエス」という名前は「主は救い」を意味します。その名前もまたヨハネの時と同じように先に神によって定められ告知されたものでした。そのように、イエス様の人生にも、親が関与することのできなかった、定められた計画がありました。それは最終的に十字架にかかって全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。そのように「イエス(主は救い)」と名付けられた御方において、「ヨハネ(主は恵み深い)」という事実が完全に現されることとなったのです。私たちは確かにそのことを知らされているのです。

沈黙の恵み
 しかし、今日の聖書箇所はただ天使による予告の話に留まりません。やはりこの箇所において私たちの目を引きますのは、ザカリアの口が利けなくなったということであり、しかもその理由が「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)と語られていることでしょう。

 口が利けなくされた。それは天罰でしょうか。神の予告を信じないと罰せられるという話でしょうか。それにしても、十月十日の間口が利けなくなるというのは少々厳しすぎやしませんか。この場面だけを見ますとそんなことを考えてしまいますが、先の方まで読みますと、どうも当のザカリア自身はこれを神の罰として耐え忍んできた様子でもないのです。

 子供が産まれて八日目、割礼を施して子供に名前を付ける日に、ザカリアは字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と聖書は伝えているのです。言葉が話せるようになった時、最初に出てきたのが神への賛美だったということは、言葉が話せない時にも既に心の中に神への賛美が満ちていた、心の中では神を賛美していた、ということでしょう。このように、口が利けなかった期間は決して罰などではなく、ザカリアにとっては賛美が満ちるプロセスだったことが分かるのです。

 既に見てきましたように、生まれてくるヨハネには親も関与することのできない、既に定められた神の計画がありました。そのように人間が関与することのできない神の定め、神の計画というものはあります。私たちについてもあります。しかし、人間は計画そのものには関与できないにせよ、それはヨハネの誕生の物語やイエス様の誕生の物語を見ても分かりますように、神様単独で実現するのではないのです。神様は人間を用いて、人間を通して実現されるのです。神の御子はマリアの胎に宿ってからこの世に誕生するのです。神様はあえてそうなさるのです。さらに言えば、主は御自身の救いを実現するのに、あえて教会の宣教という手段を用いられるのです。主はそうなさってきたし、今もそうしておられます。

 そのように神は人間を用いて事を進められます。そこで人間に求められているのは何か。信仰なのです。かつてアブラハムがイサクの誕生を予告された時もそうでした。求められていたのは信仰でした。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と天使はザカリアに言っています。一方、妻のエリサベトは後にマリアにこう語っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このように、主とその御言葉を信じるか信じないかということは、主の目に決して小さなことではないのです。

 ところで、日本語の「信仰」という言葉は、事柄を的確に表しているように思います。同じ言葉を「信心」とは訳さないのです。あくまでも「信じて仰ぐ」と訳すのです。信じて仰ぐなら目を向けている先はあくまでも神様の側です。こちら側ではありません。

 ところが私たちは往々にしてこちら側のこと人間の側のことばかりに目が行きます。こちら側の事ばかりが気になります。ザカリアも言っていますでしょう。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。そのように、こちら側に目が行って、主がなさろうとしていることがあるのだ、主が定め、主が計画し、主が実現しようとしていることがあるのだ、という方向にどうも目が行きません。神様のなさることならば、それは時として人間の常識や限界を越え出るような仕方で実現されるのだ、というところになかなか目が行きません。

 実際、私たちも同じようなことを言っていることがあるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。わたしは病弱ですし、能力もありませんし、性格も良くありませんし、不注意でミスばかりしてますし、家族の問題もありますし、云々。教会についても同じようなことが言えるでしょう。十分な人数がいませんし、経済的にも十分ではありませんし、互いの間にいろいろ問題もありますし…。このような私たちを用いて神様が神様の御業を進めようとしているのだということ信じない理由なら、いくらでも挙げられるのです。こちら側を見ていれば。いくらでも見えてくるし、列挙することができるでしょう。

 ザカリアもそうだったと思うのです。信じないためのこちら側の理由はいくらでも語り続けることができたのでしょう。しかし、主は恵み深い御方でした。彼を強制的に黙らせたのです。沈黙させたのです。そうです、人間は黙らなくてはならない時があるのです。神様の前で人間の側のことを並べ立てることをやめて、黙らなくてはならない時があるのです。私たちが黙らなければ、ぶつぶつ言い続け、こちら側のことを言い続けるならば、時として強制的に黙らされることもあるのです。そのように、沈黙して、ただひたすら神の定めとご計画、それを実現する計り知れない神の力に思いを向けるべきときがあるのです。

 ザカリアはこの沈黙の恵みをいただいて、その内に主への賛美が満ちてゆき、主への賛美が一杯になって、やがて開かれたその口から賛美が溢れ出しました。このアドベントの時、私たちも同じ恵みをいただいて、私たち自身の内に主への賛美を満たしていただき、来る御子の御降誕の祝いにおいて心からの賛美を共に捧げたいものです。

2014年12月7日日曜日

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」

2014年12月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 55章1節~11節


 主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と。「来なさい」と主は繰り返されます。渇いたまま、何も持たないまま、来なさい、と。

渇いている者は来るがよい
 エルサレムが破壊され、ユダの国が滅亡し、主だった人々がバビロンに捕囚とされて既に50年近くの月日が過ぎようとしていた頃、捕囚民たちは皆、新しい時代の到来を肌で感じていました。バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は被占領民族を支配するに当たり、その民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったのです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰り、エルサレムを再建することが許されたのでした。ついに解放の時が来たのです。

 今日の第一朗読はそのような時代を背景とした預言です。で主は預言者を通して語られたのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。

 これは何を意味するのでしょうか。ただ故郷に帰れる時が到来したのではないということです。神のもとに帰るべき時が来た。それこそが重要なのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる方のもとに帰るべき時が来たのです。いわば信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たのです。

 バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。バビロンが提供してくれるもので自分を満たさなくてはならない時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)。

 良きものは主から来るのです。本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「とこしえの契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。

 さてこれらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、彼らは旅立ったのです。それは故郷への旅立ちではなく、まさに主のもとへと行く旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰の生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。

近くにいますうちに
 しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
 廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが直面したのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背くということ、背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという事実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。

 そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのでしょう。そこで人は神の御前に恐れを覚え、聖なる神と罪ある人間との埋めることのできない大きな隔たりを思わざるを得ないのです。

 しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られるのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。

 なんと主は近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださるのです。主が近くにおられるのは、裁いて滅ぼすためではありません。豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。

わたしの道は異なる
 とはいえ、現実に罪のもたらした荒廃が目の前にある時に、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しいのかもしれません。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。

 しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。

 私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。

 「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。

 エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。

 主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。

 さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。

 キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。

 私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。

2014年11月30日日曜日

「心が鈍くならないように」

2014年11月30日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 21章25節~36節


 今日からアドベント(待降節)に入ります。教会の暦におきましてはアドベントから新年が始まります。この「アドベント」という呼び名は「到来」を意味するラテン語に由来します。「キリストの到来」です。アドベントは、今から約二千年前にキリストがこの世界に到来したことを思うだけでなく、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られることを思う期間でもあります。そのようにアドベントは一年の初めに置かれていますが、内容的には「始まり」よりむしろ「終わり」に思いを向ける期間でもあると言えます。

身を起こして頭を上げなさい
 ところで「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。一般的に「世の終わり」という言葉が用いられる時に人がイメージするのは後者でしょう。

 今日の聖書箇所においてイエス様もまた「終わり」について語っておられますが、その言葉の多くは破局としての「終わり」を連想させるものです。今日の朗読箇所の直前にはエルサレムの滅亡が予告されています。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20節)。そして、この予告は約40年後に実現することとなります。エルサレムの滅亡はユダヤ人にとってまさに破局です。

 そして、今日の箇所に入って、イエス様はユダヤ人だけでなく他の諸国民にとっても破局としか思えないことを語り始めるのです。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(26節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわば、世の信頼できる秩序はもはや何も残っていないということです。そこで人は「なすすべを知らず」、不安と恐れを抱きます。主は明らかに破局としての終わりについて語っているように見えます。

 しかし、イエス様はさらにこう続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(27‐28節)。

 解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。「雲に乗って」という表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7:13)。要するに人間が普通考えるような仕方では来ない。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で来られるということです。

 だから、この世界が無力感と不安と恐れに包まれる時、同じように不安と恐れに支配されてはならないのです。その時こそ、あなたがたが身を起こし、頭を上げるべき時だ、と主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

わたしの言葉は決して滅びない
 そこでイエス様はさらに重ねて、たとえを用いて語られます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(29‐31節)。

 これも普通に読むならば、とても変な話だと言えます。葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。それは聴いている人たちが経験から知っていることでした。「葉が出始めたこと」から「夏が近づいたこと」は自然に連想できることなのです。そして、「それと同じように」と主は言われるのです。「それと同じように」ならば、どういう言葉が続くのが自然でしょう。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」となるのでしょう。不安や恐れを抱かせる出来事が起こるのを見たら、自然に連想できることですから。しかし、イエス様はそうは言われないのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。

 「あなたがたは」とは、「わたしを信じるあなたがたは」という意味でしょう。主を信じるならば、この世と同じように考えてはならないのです。新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から、破局としての終わりではなく完成としての終わり、「神の国」を思うべきなのです。そこで明らかに求められているのは、主とその御言葉への信頼です。ですから主はさらに御自分の言葉について次のように宣言されるのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32‐33節)。

 「天地は滅びるが」と主は言われます。エルサレムが滅びるどころの話ではありません。天体が揺り動かされるどころの話ではありません。イエス様はこれまでの話を究極にまで押し進めます。「天地は滅びるが」と言われるのです。しかし、たとえそのようなことが起こったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」と宣言されるのです。イエス様の言葉が最終的に残るのです。主が言われたとおりになるのです。主が言われるとおり、そこになお救いがあるのです。人の子は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。

 このように、主を信じる者は、最終的にたとえ天地が滅び行くとしても、すべてが過ぎゆくようなことがあっても、近づいているのは破局ではなく、神の国なのだと信じることが求められているのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される主に信頼することが求められているのです。

心が鈍くならないように
 さて、主が語っておられるのは「終わり」についての話です。しかし、「終わり」についての話は、ただ「終わり」にのみ関わるのではありません。「終わり」をどう見るかが現在の生き方を方向付けるからです。既にイエス様の言葉を聞いて感じておられると思いますが、ここでイエス様が語っておられることは、今、私たちがどのように生きるのかということと深く関わっているのです。

 実際、私たちが日々直面しているのは、エルサレムが滅亡するような出来事ではありません。現在この世界が直面しているのは、天体が揺り動かされるような事態ではありません。もっとずっと小さなことでしょう。しかし、そのような終末的事態ではなくとも、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくとき、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくとき、人は何を考えるのでしょう。何をしても、どうあがいても、事態が悪くなっていく一方であるとき、いったい人は何を考えるのでしょう。無力感と不安と恐れに満たされる時、人は何を考えるのでしょう。そこで人が考えるのは破局としての終わりではないでしょうか。最終的に希望などない、と。

 しかし、私たちが信じている主は「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われる御方なのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われる御方なのです。主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される御方なのです。そうです、私たちはこの主とその御言葉に信頼して生きるのです。目に映るところによって、神がなさろうとしていることを判断してはならないのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。最終的に人の子が「雲に乗って」来られると語られているようにです。

 そのように、私たちはどのような時にも、目に映るところがどうであれ、主のみ言葉に信頼し、希望をもって生きる。主が「終わり」について語っておられるのは、今、私たちがそのように生きるためです。ですから、主はさらにこう言われるのです。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(34‐36節)。

 生き生きとした希望を失う時、破局としての終わりしか考えられなくなるとき、醒めた心をもって生きられなくなります。本当の意味で現実的に生きられなくなります。「心が鈍く」なってしまいます。自分で自分の心をあえて鈍くしてしまうこともあるでしょう。「放縦や深酒で」と書かれているのはそのような場合です。あるいは望まずとも心が鈍くなってしまうこともあるでしょう。「生活の煩いで」とはそのような場合です。煩いの種となっていることしか考えられなくなるのです。そのように主がなさることに希望をもって目が向けられなくなる。心が鈍くなってしまいます。

 だから私たちはそうならないためにも、私たちが信じている主がどのような方であるかを思い起こさねばならないのです。終わりについて主が語られたことを思い起こさねばならないのです。その意味において、アドベントという季節が与えられていることは幸いなことです。

 最終的な救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。人の子は雲に乗って来られるのです。私たちが信じているのは「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われる御方です。そのことを忘れて、希望を失って心が鈍くなったまま、終わりの時を迎えるようなことがあってはなりません。最終的に人の子が到来する時に、希望をもって待ち望んでいた者として、人の子の前に立つ者でありたいと思います。

2014年11月16日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

2014年11月16日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 3章1節~15節


 モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。エジプトから逃れミディアンに住み着いてから既に四十年もの歳月が流れていました。そこで妻も娶りました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それはイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。追い使う者のゆえの叫びを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分の為し得ることなど何もない、と。実際、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。苦しみ同胞を見捨てて、四十年前、エジプトからミディアンへ。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が出会われた次第を伝えています。主はモーセに呼びかけられたのです。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る』」(7‐8節)。

 神様が御自身を現されたなら、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。それはモーセが知る必要のないことだったからです。モーセが知るべきことは別なことだったのです。

 主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。これがモーセの知らされたことでした。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知ってくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 わたしたちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、キリストによって、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も目を留めてくれないかのように見えたとしても、誰の耳に届かないかのように見えたとしても、誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地…へ彼らを導き上る」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなことできるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。杖で土の塵を打つこと。すべて主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。主は単独で事をなされない。モーセと共に行動されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神の御前に祈ります。声を上げます。聞いて下さる神に、苦境を訴えます。必要を訴えます。神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。降りたもう神が、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。そうです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎないではないですか。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。大切なことは、ただ神が召してくださることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。主は言われます。「行きなさい」と。そして、言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

2014年11月2日日曜日

「あなたが掘り出された岩穴に目を注げ」

2014年11月2日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 51章1節~3節

    ローマの信徒への手紙 4章18節~25節

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。

アブラハムの信仰
 そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」(イザヤ51:1)。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。そのこと遡って行きますと、その大本に至ります。切り出されてきた元の岩に至るのです。

 では、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」とは何なのか。聖書はこう続けます。「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」(同2節)。

 アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。そこに目を向ける時、「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」が見えてくる。それはどのような物語でしょうか。「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という言葉をもって、主はその物語を思い起こさせます。

 それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早いと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人を選ばれました。見込みのない人を選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性が潰えていくように、約束の実現を先延ばしにされました。

 なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人によって実現されることではなく、神によって実現されることを待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムにそのことを求められたのです。どうしてか。神はただもう一つの民族を創ろうとしていたのではないからです。そうではなく、信仰の民を創ろうとしていたのです。信仰の民の祖先とするために、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。

 そして、アブラハムは信仰をもって神に応えたのです。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

 これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰をパウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。

 これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずなのです。

荒れ野をエデンの園とする
 さて、このように主の言葉を語っていたのは、今から約2500年前の預言者でした。聞いていたのはエルサレムの人々です。彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と主が語られたのは、そう語らざるを得ない理由があったからです。それは続く言葉からわかります。

 「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。

 エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。

 しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、周りはこの再建を快く思わない人々に囲まれており、激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられませんでした。彼らは希望を失っていきました。

 荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いは私たちの内にも根強く存在するのでしょう。実際、どんなに一生懸命耕しても、種を蒔いても、何一つ生えてこない、まさに不毛の地としか思えない現実が確かにありますから。皆さんにとって荒れ野とは何ですか。毎日の生活ですか。夫婦の関係ですか。問題を起こす子供たちですか。社会における人間関係ですか。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が確かにあります。

 しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。荒れ野がエデンの園になるとするならば、その前に変わらなくてはならないものがあるのです。それは荒れ野を見ている人自身の心です。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の思いです。だから主はまず「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。

 そこで主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖が受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰を再認識しなくてはなりませんでした。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。

 いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。

 なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。いわば神はキリストにおいて「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。

 そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。

2014年10月26日日曜日

「偶像から生ける神のもとへ」

2014年10月26日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 14章8節~17節


 今日の説教題は「偶像から生ける神のもとへ」となっています。これは今日の聖書箇所から取りました。第一回目の宣教旅行の途上、リストラにおいてパウロとバルナバが人々に語った言葉です。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。さて、「偶像を離れる」とは何を意味するのでしょう。「生ける神に立ち帰る」とはいかなることを意味するのでしょうか。

偶像を離れて
 パウロとバルナバが、このように叫ばざるを得なかったのは、人々がパウロとバルナバにいけにえを献げようとしたからでした。つまり彼ら自身が礼拝の対象にされそうになったからでした。

 事の次第は先に朗読されたとおりです。細かくは後ほど見ることになりますが、発端は一人の人が奇跡的に癒されたことでした。パウロが福音を告げ知らせていたその場において、生まれながら足の不自由な人が癒され、立ち上がって歩き出したのです。

 この出来事を目撃した人々が騒ぎ出しました。彼らは「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声を張り上げて叫びました。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのです。人々が口にしていたのは「リカオニアの方言」でした。それゆえに、パウロとバルナバは何が起こっているのか分からなかったものと思われます。

 しかし、ゼウスの神殿の祭司が雄牛数頭と花輪を運んで来るに至って、彼らはようやく事態を飲み込みます。祭司は群衆と一緒になって二人を礼拝し、いけにえを献げようとしていたのです。そこでパウロとバルナバはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んでいきました。そして彼らに向かって叫んだのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。

 ちなみに「偶像」と書かれていますが、これは意訳です。原文では「虚しいもの」と書かれているのです。「虚しいもの」というのはパウロたちユダヤ人の表現で神々の像を指すのです。そのような意味において旧約聖書にも繰り返し出てきます。

 しかし、礼拝の対象となるのは、必ずしも彫ったり鋳て造ったりした像だけではありません。この場面においては、人間であるパウロとバルナバが礼拝の対象とされているのです。ゆえに「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と叫ばざるを得ませんでした。ですからパウロとバルナバが「偶像を離れて」と言っているのは、ただ単に神々の像を造って拝むようなことをしない、という意味ではないのです。

 では「偶像を離れて」の「偶像(虚しいもの)」とは何なのでしょう。それは人間が偶像をどう扱うかを見るとよく分かります。実は今日の朗読はリストラでの伝道の途中までだったのですが、残された18節以下を読むとよく分かるのです。「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した」(18‐19節)。

 これが「偶像」を拝むということです。あれほど熱狂してパウロとバルナバを崇め祭り、祭司と共に犠牲まで献げようとしていた群衆が、ここでは一転して、石打の刑に加わって石を投げつけているのです。ユダヤ人たちがどのようにして群衆を抱き込んだのかは分かりません。パウロたちの存在による不利益があることを吹き込んだのでしょうか。いずれにせよ、パウロとバルナバの存在は、彼らにとって都合が悪くなったのです。

 そして、都合が悪くなったとき、パウロとバルナバとはもはや彼らにとって神ではなくなったわけです。それは当然です。もともと神ではないのですから。もともと神ではないものを神としているから、都合によって神となったり神でなくなったりするのです。都合によって礼拝の対象になったり、礼拝の対象にならなかったりする。人間がそれを信じることもできるし、捨てることもできる。そのようなものを「偶像」と言うのです。

生ける神に立ち帰る
 そのような「偶像」と対比して、パウロとバルナバは「生ける神」を指し示すのです。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(15‐17節)。

 彼らが語っているのは、この世界を造られた神、創造主である「生ける神」です。人間が信じようが信じまいが神であられ、人間が認めようが認めまいが、この世界において御自身を現し続けておられる「生ける神」です。現実に人間の生活に関わり続け、恵みを与え、生きるに必要なものを与え、人間の心を喜びで満たしていてくださる。そのように生き生きと働いておられる「生ける神」について語っているのです。

 しかし、もちろんこれがパウロたちの語りたかった全てではありません。続きがあるのです。「わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と彼らは言いました。パウロたちが「福音」と言う時、その中心はイエス・キリストです。創造主である「生ける神」が救い主イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。「生ける神」がその独り子を与えてくださり、私たちの罪の贖いの犠牲として十字架にかけてくださいました。このキリストの十字架によって、「生ける神」は御自分を侮ってきた私たち、背き続けてきた私たちの罪を赦し、「生ける神」が御自分のもとに私たちを招いてくださいました。

 それゆえにパウロたちは言うのです。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像を離れて、「生ける神に立ち帰る」時、そこには何があるのですか。「生ける神」に信頼して生きる新しい生活があるのです。完全な救いに向かって神に信頼して歩いていく新しい生活があるのです。

 その意味において、そもそもの発端となった、足の悪い人の癒しの出来事は極めて象徴的な出来事となったと言えます。まさに「生ける神」に立ち帰り、「生ける神」を信じて生きるとはどういうことかが、その人の上にはっきりと現れているからです。すなわち、それは立ち上がり、歩き始めることなのです。

立ち上がって歩き出す
 もう一度、その人の内に起こった出来事を見てみましょう。次のように書かれていました。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」(8‐10節)。

 その人はパウロの話すのを聞いていた。パウロが福音を伝えるのを聞いていたのです。その宣教の言葉によって、その人の内に信仰が生まれました。パウロがその人に目を向けた時、彼がそこに見たのは福音の宣教によって生み出された信仰でした。それは「いやされるのにふさわしい信仰」と表現されています。要するに、そこにパウロが見たのは、偶像を離れて、生ける神に立ち帰った人の信仰だったのです。それゆえにパウロは彼にこう言ったのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。

 考えてみてください。彼は生まれてこの方一度も立って歩いたことはないのです。聖書はわざわざ「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」(8節)と書かれているのです。そのような人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言うならば、通常は返って来る言葉は決まっているでしょう。「立てないから座っているのではないか!」そして、そこに座り続けているに違いありません。

 しかし、パウロはその人に信仰を見たのです。生ける神に立ち帰り、生ける神を信じる信仰を見たのです。だから命じたのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。そして、彼もまたその言葉に従ったのです。生ける神への信頼をもって従ったのです。「その人は躍り上がって歩きだした」と書かれています。しかし、それは必ずしも癒されて嬉しくて躍り上がったことを意味しません。原文では単純に「飛び上がった」と書かれているだけです。つまり勢いよくまっすぐに立とうとしたということです。今まで一度も立ったことのない人がです。

 もちろんここに書かれているのは神による癒しの奇跡です。しかし、大事なことは、この人が生ける神に信頼して、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」という言葉に応答したということなのでしょう。それは彼にとって、まさに生ける神からの呼びかけだったに違いありません。その呼びかけに彼は応えたのです。

 そして、彼はそこから歩き始めました。歩いて生きる人生というのは、彼にとって全く未知の領域です。そこには座っていた時よりもずっと多くの困難が待っているかも知れないのです。しかし、彼は生ける神に信頼して立ち上がったように、生ける神に信頼して歩き始めたのです。

 確かに「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」ということは、そのようなことなのでしょう。それはイエス・キリストを通して与えられた生ける神の呼び声に応えて信頼をもって立ち上がること、そして信頼をもって歩き始めること。そして、信頼をもって歩き続けることです。

 実際、この足を癒された人にせよ、またパウロの宣教によって信じた他の人たちにせよ、待っていたのは決して平坦な道のりではなかったはずです。パウロが石で打たれて殺されそうになったとするならば、福音を聞いて偶像を離れ、生ける神に立ち帰った人々も迫害を免れることはなかったでしょう。しかし、彼らは生ける神の呼び声に応えて立ち上がった人たちです。それゆえに苦難が降りかかることがあっても、生ける神に信頼して歩み続けたのです。

 そして、生ける神はまさに偶像ならぬ生ける神であることを彼らの間に現され、そのようにしてリストラにも教会が形づくられていったのです。そうです、そのように代々の教会は形づくられ、この頌栄教会も形づくられ、生ける神に立ち帰り、生ける神を信じて生きている私たちがここにいるのです。

2014年10月19日日曜日

「神が目から涙をことごとくぬぐってくださる」

2014年10月19日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 7章9節~17節


 今日は礼拝においてヨハネの黙示録が読まれました。そこに描かれていたのは天において神を礼拝する大群衆の姿でした。それはヨハネの見た幻です。ある意味では極めて特殊な個人的な神秘体験です。しかし、このような幻の記されている書物が聖書の中に置かれており、今日に至るまで読み継がれてきたのは、それがヨハネ個人のことに留まらず、代々の教会に深く関わることが書かれているからでしょう。そのようなヨハネの黙示録とはいったい何なのか。まずそこに目を向けたいと思います。

礼拝で朗読されるための手紙
 ヨハネの黙示録の1章まで遡りますと、この書は次のような言葉から始まります。「イエス・キリストの黙示」。「黙示」とは「啓示」とも訳せます。神様が覆いを取り除いて明らかにしてくださったことです。それがこの書物には書かれているのです。これは全体の表題とも言えます。そして、序文に当たる部分が3節まで続きます。

 このように「黙示」とか「啓示」という表題がついている。ある意味で聖書の中で独特な書物です。しかし、この序文の部分を伏せて4節から読んでみてください。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」(4‐5節)。これは当時の一般的な手紙の書き方です。実際、パウロの手紙などと書き方がよく似ています。

 差し出し人はヨハネです。ヨハネはパトモス島にいます(9節)。エーゲ海に浮かぶ小さな島、流刑地となっていた島です。ヨハネは信仰のゆえに流刑となっているのです。当然のことながらそこに教会はありません。パウロの手紙などですと、彼と一緒にいる人について「~からよろしく」という言葉が出て来るのですが、この黙示録には出てきません。一緒に礼拝を捧げる信仰者の交わりはそこにありません。その意味で彼は孤独です。

 そのような孤独の中から彼は手紙を書くのです。アジア州にある七つの教会に宛てて。ただ安否を問うためではありません。3節にこう書かれていました。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(3節)。つまりこれは朗読されるための手紙なのです。どこにおいてですか。礼拝においてです。私たちが今しているようにです。これは共に集まって礼拝する時に朗読されるための手紙なのです。

 礼拝のための手紙であるとはどういうことでしょう。この手紙が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代であり、皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代です。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしたのです。

 それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じる者として、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はありません。しかし、彼らはそうしなかった。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。これは、そのような人々に宛てて書かれた手紙です。そのような場所で朗読された手紙です。そのような手紙がここにおいて朗読される時、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なことか。本当に命をかけても惜しくないほどの恵みであると思っているでしょうか。

 そのような手紙に、大群衆の姿が描かれていたのです。それが今日読まれた聖書箇所です。そこには、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆がいたのです。白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持って神と小羊の前にいて、大声でこう叫んでいるのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)。

 そのように神とキリストを礼拝し、誉め讃えているのは誰なのでしょう。その幻を見ているヨハネが質問されます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは言います。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」そこで答えが与えられます。(14節)「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

殉教者が大声で誉め讃えている神
 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」と語られていました。新改訳聖書では「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳)と訳されています。この方がむしろ直訳に近いのです。

 「大きな患難から抜け出て来た者たち」。どうして神はヨハネに「患難から抜け出て来た者たち」の姿を見せたのでしょうか。しかも、彼らが大声で神とキリストを誉め讃えて礼拝している姿を見せたのです。なぜでしょうか。どうして、ヨハネはそのような天の描写を手紙として書き送ったのでしょうか。それは、この手紙が苦難の中にありながらも、集まって礼拝していた人々に宛てられた手紙であることを考えるとよく分かります。

 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」とあの大群衆は叫んでいました。そうです、救いは神とキリストのものであり、そこから救いは来るのです。そう私たちもまた信じているのでしょう。そうです。この手紙を受け取った人々もまた、そう信じている人々です。しかし、そのような彼らに現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々もいたのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにある。

 そうです。患難の中にあって、信じることが困難になるのです。しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見える人々が、なんと大声で神を誉め讃えている姿を見せたのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」と。

 そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に一番近いところにいるのです。神の助けがなく守りもないように見える中で殺されてしまった彼らは、神から遠ざけられた人々なのか。とんでもない!彼らは神に一番近くに招かれていた人々なのです。そして、こう書かれている。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 その行き着くところは命の水の泉だったのです。渇き求めていた本当の命はそこにあったのです。そして、神は目から涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」と書かれています。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられたということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。その全てが、流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

 さて、繰り返しますが、これは主の日に礼拝を捧げている人々に宛てられた手紙です。礼拝の中で朗読されるようにと書かれた手紙です。そこにおいて語られているのは、「生きている間は苦しいけれど、死んだら楽になりますよ。天国の喜びがあるのですから、今は苦しみがあっても耐えましょう」という次元の話ではないのです。そこで礼拝している神はどのような神なのか、そこで礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか、ということなのです。

 ヨハネの見た幻の大群衆、「大きな患難から抜け出た者たち」についてはこう語られていました。「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。小羊とは十字架にかけられたキリストです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しです。彼らの衣は殉教したから白くなったのではありません。死んだから白くなったのではありません。キリストによって白くせられたのです。

 ならば天の礼拝であろうが、地上の礼拝であろうが同じなのです。地上において私たちが礼拝している神はどのような神なのか。地上において私たちが礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか。神はヨハネにはっきりと見せてくださったのです。それは、無残に殺された殉教者たちが天において大声で誉め讃えている神なのだ、ということを。苦難から抜け出た者たちとして、涙をことごとくぬぐわれる者として、大声で誉め讃えている小羊キリストなのだ、ということを。その同じ神を、その同じキリストを、地上においても礼拝しているのです。

 この地上の生活において、神の愛と真実は、しばしば見えなくなります。それは迫害の時代ならずともそうなのでしょう。しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽は無くならないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。

 ならば大切なことは何か。この地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのか。あえて信じることです。目に映るところがどうであれ、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。信仰に踏みとどまることなのです。疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。信仰によって生きるためです。

2014年10月12日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

2014年10月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節


キリストの苦しみ
 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。「苦しむことを喜びとする」。通常、私たちはそのようなことは言いません。むしろ苦しみは喜びを失わせます。

 しかし、「苦しむことを喜びとする」と言い得る時が全くないわけではありません。それはその苦しみが愛する者のための苦しみである時です。自分の苦しみが意味のないものではなく、無駄になってしまうものではなく、愛する者のためになる苦しみである時、苦しむことは喜びをも伴います。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」いう言葉から、コロサイの教会を愛してやまないパウロの思いが伝わってまいります。

 しかし、パウロが「苦しむことを喜びとする」と言っているのは、ただ彼らを愛しているからだけではありません。さらにパウロはこう続けるのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。

 「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。さらに言うならば、自分の苦しみをキリストの苦しみの一部として見ていたということでしょう。キリストの苦しみの欠けている部分を満たしているのですから。

 いずれにせよ、パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。その欠けている部分をパウロは満たしているだけだというのです。パウロはコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために喜んで苦しみをも耐え忍んでいたのでしょう。しかし、彼がそうする以前に、キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。「キリストの苦しみ」と聞くならば、すぐに思い浮かぶのは十字架です。私たちの罪のために負ってくださったキリストの苦しみです。罪の贖いのための苦しみです。しかし、罪の贖いの苦しみならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがありません。

 罪の贖いの苦しみは、キリストにおいて全うされているのであって、そこにパウロの入る余地はありません。キリストは独りですべての人の罪を負われたのです。キリストは独りで父なる神の裁きを受けられたのです。キリストは独りで苦しまれ、独りで死なれたのです。キリストは独りで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。

 では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは何であったのか。それは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。

 そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。

 しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。自分の苦しみが先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先に労苦しておられる。キリストが苦しんでおられるのです。キリストがコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の一部に過ぎないのだと分かっていたのです。だから彼は言うのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と。

あなたがたの内におられるキリスト
 それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。

 先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。

 「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。「奥義」と言いますと、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものを連想するかも知れません。事実、この言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは代々にわたって隠されていたけれど、今や神によって明らかにされたのです。そして、全ての人に宣べ伝えられねばならないのです。

 ではその「奥義」とは何なのか。いや、この問いかけは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 神の救いの御心は、一人の御方を通して、完全に現わされました。十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。このキリストを通して、神に敵対するこの世界をなお愛される神の愛が明らかにされました。キリストを通して、神の赦しが現わされました。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。聖霊のお働きにより、生けるキリストと人との出会いが起こるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」とパウロは言うのです。

 そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。今日はお読みしませんでしたが、14節にこう書かれています。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14節)。キリストのおられるところに罪の赦しがある。ゆえに、そこには神と人との和解があります。神と人との間に平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。

 だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。キリストが「あなたがたの内におられるキリスト」となられるための愛であり、そして苦しみです。

 実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。キリストに対して固く戸を閉ざしていた私たちがいます。今もそこにしばしば舞い戻ってしまうような私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリストになろうとしてくださいました。そこにまた「キリストの苦しみ」がありました。私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。

 事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのでしょう。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのでしょう。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。

 ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。

2014年9月21日日曜日

「わたしたちを救い出すために」

2014年9月21日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節


 今日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙の冒頭部分です。当時の手紙の典型的な様式に従って、まず差出人と受取人とが明記されています。差出人はパウロ、受取人はガラテヤ地方の諸教会の人々です。そして、他の手紙においてもパウロがしているように、続けて挨拶の言葉が添えられています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)。

 「恵みと平和があるように」。それは挨拶の決まり文句です。しかし、パウロはただ形式的にその言葉を用いているのではありません。ですから、言葉をさらに続けるのです。その恵みと平和を与えるために、イエス・キリストが何をしてくださったかを書いているのです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4節)。

 「恵みと平和があるように」。私たちもその言葉をここで耳にしています。その願いと祈りをもって書かれた言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと送り出されたいと思います。

この悪の世から救い出そうとして
 「恵みと平和があるように」。その「恵みと平和」は、「《わたしたちの父である神》と、主イエス・キリストの恵みと平和」と表現されています。その「恵みと平和」はわたしたちの父である神に由来します。これは神のご意志によるのです。私たちが願う前に、神が与えようと望んでくださいました。4節に書かれている、「わたしたちの神であり父である方の御心」とは、私たちの願いに先立つ神のご意志です。神が私たちの救いを願い、恵みと平和があるようにと願ってくださいました。

 その救いのご意志に従って、キリストが御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」ですから、そのようにして与えられる恵みと平和は、「わたしたちの父である神と、《主イエス・キリストの》恵みと平和」と呼ばれているのです。

 そこには「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と書かれています。「この悪の世」と言うのですが、この言葉で何を思い浮かべるでしょうか。新聞やテレビで報道される凶悪な犯罪でしょうか。道徳的に退廃した社会のありさまでしょうか。確かに犯罪のある世界は「この悪の世」の一面でしょう。この世の不道徳も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロはただそのような社会を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。

 彼が生まれ育ったのはユダヤ人の社会です。それは決して世俗的な退廃的な世界ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、いわば「清い社会」だったのです。そのような環境において彼は育ったのです。この手紙を受け取る人々にとってもそうです。彼らの内において力を持っていたのは律法を遵守すべきことを訴えていたユダヤ主義者です。ガラテヤの教会にはその影響を受けたキリスト者がたくさんいたのです。そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的な、敬虔な、まじめな、道徳的な、戒律遵守が求められる共同体にも、パウロは「この悪の世」の一面を見ていたのです。

 「この悪の世」というのは「悪い今の世」というのが直訳です。「今の世」という表現を使うのは、「来るべき世」のことを考えているからです。「来るべき世」は神の救いの到来した世界です。神の国です。それに対する「今の世」です。その「今の世」は悪い。どのような意味で「悪い」のでしょう。犯罪があるからでしょう。不道徳があるからでしょう。苦しみや悲しみがあるからでしょうか。どのような意味で「悪い」のでしょう。

 聖書は「今の世」を一つの物語をもって表現しています。良く知られているエデンの園の物語です。正確に言うならば、エデンの園を失った物語です。私たちはエデンの園にはいない。それが「今の世」です。どのようにエデンの園を失ったか、物語の筋はご存じでしょう。

 園の中央には「善悪の知識の木」がありました。それは神様がそこから取って食べるなと言われた木でした。しかし、人間はそこから取って食べました。そして、神が近づかれた時、人は神の顔を避けて園の木の間に隠れました。そこに見るのは関係の破れです。神と人との関係の破れ。もはやそこには平和に満ちた関係はありませんでした。

 さらに何が起こったでしょう。神様が男に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。その時、彼はこう答えたのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。そこに見るのは関係の破れです。人と人との関係の破れ。自分を正しい者として他者を責めるところに、もはや平和に満ちた関係はありませんでした。そのようにして、彼らはエデンの園を失いました。神と共に生き、人と共に生きる園を失いました。

 これが「今の世」です。このように神様と人との関係が破れてしまった世界。人と人との関係が破れてしまった世界。その痛みと苦しみとを背負っている世界。それが「今の世」です。実際そうでしょう。神様との関係が崩れた世界において、人間の歴史は戦争の歴史です。殺し合いの歴史です。国と国、民族と民族ではなくとも、身近に私たちは小さな戦争をいくらでも見て聞いて体験しているではありませんか。私たちは毎日どれだけの悪口を聞き、どれだけの中傷や争いを目にしていることでしょう。

 それはパウロが目にしてきた、敬虔な真面目な清い社会においても同じだったのです。むしろ正しさが求められる社会こそ、裁き合いの社会に他ならなかったのです。正しさの主張が声高に語られるところにおいてこそ、神と人との破れがあり、人と人との破れがある。そこにこそ人間の罪の最も恐ろしい姿があるのです。

与えられた恵みと平和
 しかし、イエス・キリストは、そのような「この悪の世」からわたしたちを救い出そうとして、御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と書かれているとおりです。

 「わたしたちの罪」というのは複数で書かれています。諸々の罪です。単に不道徳な行いだけではありません。私たちの敵意が、妬みが、憎しみが、悪口が、中傷が、怠慢やだらしない行為が、エゴイスティックな行為が、悪魔に誘惑されて行った諸々の行いが、さらには自分たちを絶対に正しいとする主張が、神との関係、人との関係を壊してきたのです。

 そのような私たちの諸々の罪のために、キリストは御自身を献げてくださいました。御自身を献げるということは、自ら苦しみを負うということを意味しました。私たちの諸々の罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死ぬことをさえ良しとして、自ら苦しみを負ってくださいました。そのようにして、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださったのです。それは御子の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 それは父なる神の「御心に従って」なされたことでした。私たちが願ったからではなく、神が望んでくださいました。私たちのために、御子が苦しむことを良しとしてくださいました。先に、御自身を献げるということは苦しみを負うということだと申しましたが、私たちはここに父なる神の御苦しみをも思います。そのようにして、私たちに御自身との平和を与えてくださいました。そのことがあるからこそ、その御方を「わたしたちの神であり父である方」と呼べるのです。それは神の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 そのように平和が打ち立てられたのは、私たちが罪を赦された者として生きるためです。赦された者として生きるということは、そのような者として互いに赦し合って生きるということです。それはしばしば苦しみを伴うのでしょう。苦しみを経なくては、人と人との和解も実現しないのでしょう。しかし、御子が御自身を献げてくださったことを思う時、神が苦しみを負って平和を与えてくださったことを思う時、私たちの間にも和解が起こります。人と人との間に平和が生み出されるのです。私たちは神との間に平和をいただき、人との間にも平和をいただくのです。

 神様はそのように、「この悪の世」から救い出して、新しい生活を与えてくださるのです。「来るべき世」に属する生活を与えてくださるのです。それは恵みです。本来、私たちが受けるに値しない恵みです。それはただ神がそうお望みくださり、キリストがその御心に従い、御自身を献げてくださったゆえに与えられた恵みです。神との間の平和は恵み。人と人との間の平和も恵みです。

 もちろん、恵みによる救いが完全に実現するのは「来るべき世」においてです。私たちが見ることのできるのは完全なるものではありません。「今の世」「この悪い世」は厳然として続いているのです。しかし、それでもなお「今の世」からの救いは既に始まっているのです。キリストは「この悪い世」から救い出すために、御自身を献げてくださいました。キリストによって既に始まっているのです。私たちはその救いを味わい始めているのです。それが信仰生活です。パウロも言っているではありませんか。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。そうです、私たちはそのような言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。私たちは信仰によって受け取るのです。恵みを受け取るのです。神との平和、人との平和を受け取るのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと踏み出しましょう。

2014年9月14日日曜日

「最もすぐれた道」

2014年9月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章31節~13章13節


できるようになりたい?
 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31後半)。そう書かれていました。別の訳では「最もすぐれた道」。今日の説教題ともなっています。しかし、そもそもパウロはどうして「最高の道」「最もすぐれた道」について語っているのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(同前半)。そのように、「最高の道」の話は、「賜物を受ける」という話に続いているのです。

 「賜物」という言葉は日常の言葉ではないので、これを「能力」あるいはその能力を用いた「働き」という言葉に置き換えると分かりやすいかもしれません。「賜物を受ける」とは、要するに「できるようになる」ということです。

 私たちは自分についても他人についても何かが「できる」か「できないか」を気にしながら生きています。どのような働きをしているかいないか、役に立っているかいないかが気になります。他の人ができることが自分にできなかったり、他の人が良い働きをしているのに自分が全く役に立っていなかったりすると、他人を羨んだり落ち込んだりすることもあるのでしょう。だから自分も「できるようになりたい」と思うのです。

 「できるようになりたい」と思うこと自体は悪いことではありません。より良い働きができるようになること、より大きな働きができるよういなることを求めること自体は悪いことではありません。ですからパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うのです。

 実際、コリントの教会の人たちはそのことに熱心でした。私たちが一般に言うところの能力や働きだけでなく、それこそ奇跡的な超自然的な能力や働きについても熱心に求めていたようです。そのような「パワー」を宗教に求める人は、今日も珍しくはないので、私たちにも分からなくはありません。

 そのような超自然的な能力や働きをも含めて、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言います。しかし、だからこそ彼は続けるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と。その「最高の道」「最もすぐれた道」とは何でしょう。その続きの朗読を先ほど聞いて、既にお気づきのことと思います。そこで繰り返されている言葉は何か。「愛」です。パウロはここで「愛」について語っているのです。「愛」こそが、その「最高の道」であり「最もすぐれた道」だと言うのです。

 いや、さらに言うならば、その「最高の道」を歩むのでないならば、どんな能力を得たとしても、どんな働きをしたとしても無益だとさえ言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどらややかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:1‐2)とはそういうことです。

 それだけではありません。その「最高の道」を歩むのでないならば、他の人のために何をしようとも、どんな大きな自己犠牲があっても無益だというのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)と彼は言うのです。

 実に激しい言葉です。一般論ではなく、「わたし」という言葉を用いて、パウロ自身の存在を指し示しながら語っているだけに、強烈に迫ってくる言葉です。どうして、パウロはコリントの人たちにここまで語らなくてはならなかったのでしょうか。それはコリントの人たちが、様々なことを「できるようになりたい」と願いながら、そして実際に有能な人や大きな働きをしている人が決して少なくはなかったにもかかわらず、もう一方においてお互いの間に分裂があり、仲たがいや争いが絶えなかったからです。まさに豊かな賜物をいただいていながら、バラバラだったからです。だからこそ、パウロは歩むべき「最高の道」について語るのです。愛について語るのです。

愛は忍耐強い
 しかし、そこで語られる「愛」とは、一般に通常考えられている「愛」とは恐らく異なるものです。愛は自然に生じる感情ではありません。「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。彼は言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4‐7)。

 この箇所を読みます時に思い出されるのは。カトリックの岡田武夫大司教が柏教会の神父であられた時に書いていたこんな文章です。「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひとつになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうのです。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません。」

 「罪」と聞くと「犯罪」という言葉を連想するかもしれません。あるいは「不道徳」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし、「犯罪」も「不道徳」も、人と人とを引き裂く罪の一つの側面に過ぎません。それはあくまでも一面なのであって、罪そのものはそう単純ではありません。なぜなら、「罪」は時として道徳的な顔をしたり、正義の仮面をかぶってやってくるからです。そして、互を引き離し、バラバラにし、しばしば正義の名のもとに殺し合うことさえさせるからです。

 先ほど引用した文章にあったように「ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません」。人間とではなく、罪と戦わなくてはなりません。バラバラにする力とたたかわなくてはなりません。どうしてこの文章を引用したか、もうお分かりでしょう。パウロが語る「愛」とは、まさにこの戦いに他ならないのです。バラバラにする力とのたたかいです。

 どのように戦うのですか。人間相手の戦いならば、武器を手にして戦えるでしょう。しかし、罪との戦いであるならそうはいきません。どのように戦うのですか。忍耐強くあることによってです。情け深くあることによってです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。実際、これは大きな戦いでしょう。

 何かができるようになること。確かに大事です。より良い働きをすること、より大きな務めを担えるようになること。確かに大事です。だからより大きな賜物を求めたらいい。能力を求めること、働きを求めることは悪いことではありません。しかし、バラバラにする力、分裂と争いをもたらす力と戦う人になることは、もっと大事なことなのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を歩もうとしないなら、与えられたどんなに大きな能力も、大きな働きも、無に等しいものとなってしまうのです。いや、罪の翻弄された能力や働きほど恐ろしいものはありません。

愛は決して滅びない
 とは言うものの、私たちはここで改めて考えざるを得ません。その道を歩むことはなんと困難なことでしょう。実際、これまでどれほどその戦いに苦戦してきたことでしょう。何度敗北を喫してきたことでしょう。

 私たちは現実に、自分の内にも、自分の周りにも、教会の中にも、この世界の至るところにおいても、罪の力がありとあらゆる形を取って猛威を振るっているのを目の当たりにしているのです。自分の心の内に働く罪の力にさえ苦戦を強いられているのに、いったいこの世界に働いている巨大な罪の力とどう戦ったらよいのでしょう。普通に考えたら、最後は罪の勝利に終わるのであって、世界は崩壊して終わりを迎えるとしか思えないのでしょう。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」とパウロは言いました。しかし、ただその「最高の道」を歩きなさいと言うだけならば、これほど過酷な勧めはありません。

 しかし、パウロはここで単にその「最高の道」を歩きなさいと勧めているのではないのです。実際、「~しなさい」という勧めや命令の表現は全く用いてはいないのです。「愛を追い求めなさい」という言葉は14章になって初めて出て来るのです。その前にパウロは何を語っていますか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」と書いていって、そしてこのように宣言しているのです。「愛は決して滅びない!」

 最後に勝つのは罪ではありません。愛が最後に勝つのです。愛が最後まで残るのです。愛という道を行く時、私たちは幾度となく困難を経験し、敗北の惨めさを味わうかもしれません。しかし、私たちがその道を行くことは決して無駄に終わらないのです。無に帰してしまうことはないのです。どんな大きな能力も働きもそれ自体は一時的なものです。しかし、愛は永遠です。なぜなら、愛は永遠なる神の本質だからです。ヨハネの手紙に「神は愛です」(1ヨハネ4:16)と表現されているとおりです。

 実際、愛なる神、神と人、人と人を引き離す罪の力とたたかわれる神は、御自身がそのような御方であることを私たちに現してくださいました。罪との戦いとしての「愛」を神はキリストにおいて現してくださったのです。「愛」が何であるかを神はキリストにおいて現してくださったのです。そして、その「愛」が永遠であることを、神はキリストの十字架と復活において現してくださったのです。

 そのキリストの中に、私たちは招き入れられ、キリストの体の部分とされているのです。この前の章にこう書かれているとおりです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)。私たちはキリストの体の部分として、ここに書かれている「最高の道」「最もすぐれた道」を歩んでいくのです。ならば、どんなに困難を極めていたとしても、今は度々敗北するようなことがあっても大丈夫なのです。キリストにおいて現された愛は決して滅びないからです。

 パウロが今日の箇所で語っているとおり、確かに私たちが見ているのは、不完全な途中の状態でしかありません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)と語られているとおりです。私たちが知るところは一部分に過ぎません。しかし、最終的には完成を見るのです。完全な愛を知ることになるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を共に進んでいきましょう。

2014年9月7日日曜日

「呼びかけ続ける神」

2014年9月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章1節~12節


祭司長、律法学者、長老たちに向けて
 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今日の福音書朗読において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは彼らに対して語られたのです。

 時はイエス様がエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、イエス様は捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。

 もちろん、イエス様はそのことをご存じです。既にエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられましたから。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日お読みしたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。

 そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることをはっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日朗読された箇所の結末です。

 彼らはこのたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは自分たちのことだと理解しました。イエスが自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らですから。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らですから。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。

 しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。

 確かに彼らは「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、イエス様はただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。イエス様は、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。

呼びかけ続ける神の話
 たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1‐3節)。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。

 そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たちに人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちはイスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。

 しかし、イエス様はこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4‐5節)。ここに語られているのはまことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。

 このたとえ話の後にイエス様はこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者をただちに滅ぼすことがおできになるのでしょう。

 しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。

 これはイスラエルの歴史において実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。あまりにも愚かです。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。イエス様はこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」――イエス様は、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。

捨てられた石が隅の親石となった
 もちろん、イエス様はそれでも彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。イエス様の話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7‐8節)。そうです、イエス様は分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。

 そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイエス様はなおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10‐11節)。

 「家を建てる者の捨てた石」とはイエス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となった、と。

 イエス様の言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに教会の親石となったのです。神はそのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。

2014年8月17日日曜日

「神の子供たちであるということ」

2014年8月17日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章42節~50節

    ヘブライ人への手紙 12章3節~13節

命にあずかる方がよい
 今日の福音書朗読にはたいへん恐ろしいことが書かれていました。

 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(マルコ9:43‐47)。

 イエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」という言葉を使っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。

 しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、ともあれ私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。私たちはこの世の悲惨を見て、あるいは私たち自身の人生を見て、「まるで地獄だ」と言うかもしれません。しかし、これは地獄ではないのです。神から見捨てられた世界ではありません。神から見捨てられた人生でもありません。

 それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えています。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられます。そうです、そのような救いの約束のもとにある世界であり、救いの約束のもとにある人生なのです。

 私たちが聞いているのは、そのような救いの約束を与えられている私たちに対する言葉です。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。

 この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、リストにとって決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。

 先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いの現れなのです。そうです、それこそがキリストを世に遣わされた神の願いでもあるのです。

 そのようにキリストが、そして神が、そのように願っていてくださる。考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったに違いありません。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。

 いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともあるのでしょう。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことはあるのでしょう。その意味において私たちは苦しみを避け得ない。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。その神の強烈な願いのもとにあるのです。

父の訓練
 そのような神の思いは、本日の第二朗読で読まれたヘブライ人への手紙においては「父の訓練」という言葉で表現されています。

 この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)

 これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉だったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。実際、親から虐待を受けて育った人にとっては、ここに書かれている言葉はまことにいたたまれない言葉だとも思います。

 しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべるべきではありません。私たちはこの聖書の言葉に、今日の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っている人なのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような強烈な神の願いを知っている人が引用して書いているのです。

 ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が最後までそうなさったように。

 天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。

 そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。

 それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を表します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。

 実際に様々な苦しみを通して絡みついて離れることなかった罪から解放されるということを私たちの多くは身をもって知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。

 大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。

2014年8月3日日曜日

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」

2014年8月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節


 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)。これが今日私たちに与えられている神の言葉です。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。そのように書かれているのは、神からいただいた恵みを無駄にしてしまうことがあり得るからでしょう。

 そうならないために二つの大事なことがあります。一つは、《どのような恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。もう一つは《どのように恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。その《どのような》については、今日お読みした箇所の前に書かれているので、そこを見ておく必要があります。《どのように》については、今日の聖書箇所に書かれていました。私たちが神からいただいた恵みを無駄にしてしまわないために、《どのような》そして《どのように》という二つの面から、神からいただいた恵みに目を向けましょう。

どのような恵みをいただいたか
 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。「神からいただいた恵み」とは何か。パウロはどのような恵みについて語っているのか。今日の聖書箇所の直前に書かれているパウロの言葉を読みますと、何度も繰り返されている言葉があることに気づきます。「和解」です。そこに書かれているのは神と人間との「和解」の話です。

 「和解」とは関係の回復です。「和解」が話題になるということは、もともと関係が悪かったということです。そのことをドラマチックに伝えている物語があります。有名なエデンの園の物語です。アダムとエバが、神が食べるなと言われた木から取って食べたという話です。

 その物語が語っている内容は極めてシンプルです。私たち人間は神様が望まないことをしているといことです。神様が「ノー」と言われることを行っているということです。その結果どうなったか。神様が近づかれた時、アダムとエバは神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれているのです。そこに描かれているのは大昔の話ではありません。「アダム」という名はもともと「人」という意味ですから、これは人間ならば誰でも思い当たる話です。

 人に対してならいくらでもごまかしは利くものです。しかし、神に対してはごまかしが利きません。神の前においては全てが明らかです。神がまことの神ならば、その前で顔を上げることのできる者は、本当は一人もいないのでしょう。エデンの園の物語は確かに私たちの物語です。

 しかし、そのような私たちをなおも神は愛してくださいました。関係を壊したのは私たちの方であるのに、神はその関係を回復しようとしてくださったのです。神の方から和解の手を伸ばしてくださったのです。5章18節以下には次のように書かれていました。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(5:18‐19)。

 「人々の罪の責任を問うことなく」。――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が言われるのです。「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしば互いに罪過を数え立てているのでしょう。一つ一つを問題にし、その一つ一つについて償いを求め、あるいは心の中の記録にしっかりと記帳するのでしょう。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神は罪の記録をあえて破棄されるのです。もはや数え立てることはないと言われるのです。

 神は私たちの罪過を数え立てることなく、一方的に和解の手を伸ばしてくださいました。イエス・キリストをこの世に遣わされたとはそういうことです。神に背いたこの世界に、神に顔向けできないこの世界に、神はキリストを遣わされ、御自身の愛を示されたのです。最終的には十字架において、キリストを罪の贖いの犠牲とすることによって、この世を愛する愛を完全に現されたのです。イエス・キリストという御方は、まさにこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手に他なりませんでした。

 そのようにして、私たちは神と和解させていただいたのです。神によって罪を赦され、神に顔を上げ、神に祈り、神を礼拝して生きる者としていただいたのです。そのように神と共に生きる生活を与えられたのです。5章21節にはこう書かれています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。そうです、キリストが罪とされたために、もともとどう考えても義しくない私たちが、義ではない者が、義としていただいたのです。

 これこそまさに神の恵みです。神からいただいた恵みです。私たちは《どのような恵みをいただいたか》を忘れてはなりません。

どのように恵みをいただいたか
 そして、私たちは《どのように恵みをいただいたか》をも思い起こさねばなりません。

 先ほど、キリストはこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手であると申しました。しかし、コリントの教会の人たちのほとんど全ては、直接イエス・キリストを見たことはなかったに違いありません。そのような彼らが、神と和解させていただき、神と共に生きるようになったのはどうしてか。キリストのことを伝えてくれた人たちがいたからです。彼らの場合、パウロたちが「和解の言葉」を伝えてくれたからです。パウロたちが彼らに言ってくれたのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)と。それは私たちにしても同じでしょう。どのように恵みをいただいたか。誰かが私たちにキリストを伝え、和解の言葉を伝えてくれることによってです。

 今日お読みしたところには、そのように「和解の言葉」を伝えたパウロたち自身のことが書かれています。ここを一回読んだだけでも、パウロたちがどれほどの労苦をもってコリントの人々や他の地域の人々に「和解の言葉」を伝えていたかがわかります。

 パウロは言います。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(3‐4節)。パウロにとって大事だったのは、「和解の言葉」を伝えるという奉仕の務めそのものが非難されないことだったのです。彼自身が非難されることはいくらでもあったに違いありません。実際、そこには「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」など、彼が経験してきた状況が並べられています。それらはパウロ自身に対する非難や誤解、敵意や反感によってもたらされたものでしょう。

 さらには8節以下を見ると、彼が「栄誉を受けるとき」だけでなく「辱めを受けるとき」があったことがわかります。「好評を博するとき」だけでなく「悪評を浴びるとき」があるのです。そのような中にあっても、神の僕としての実を示してきた。なんのためですか。奉仕の務めが非難されないためです。つまずきとならないためです。それはただ一重にキリストを伝え、「和解の言葉」を伝えるために他ならないのです。

 そのようにして、和解の言葉は伝えられたのです。そのようにして、コリントの人たちは神の恵みをいただいたのです。それは私たちも同じです。ここに教会があるのはどうしてですか。私たちの信仰の先輩たちが伝道を続けてきたからです。和解の言葉を伝え続けてきたからです。さらには遠くカナダから故郷での生活を捨てて未知の国日本にまで来てくれた人たちがいたからです。多くの労苦や誤解や中傷を受ける中にあっても、神の僕としての実を示して仕えて来られた多くの人たちがいたからです。そのようにして私たちもまた神の恵みをいただいたのです。

無駄にしてはいけません
 そのように、私たちもまた《どのような恵みをいただいたか》そして、《どのように恵みをいただいたか》を思い起こしたいと思うのです。その上で、今日の御言葉をもう一度しっかりと受け止めたいと思うのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。ならば、その意味するところは明らかででしょう。

 私たちは、ただ神の一方的な恵みによって和解させていただいたのです。本来なら園の木の間に身を隠さざるを得ないような私たちが、罪を赦された者として、安心して神に祈り、神を礼拝して生きることができるのです。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。私たちは神と共に生きるのです。この世界がどう変わろうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、信仰を放棄してはなりません。神と共に生きるのです。その意味において、神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 しかし、それだけではありません。神からいただいた恵みは、実際には「和解の言葉」を託された人たちの愛と労苦によって私たちに伝えられたものでした。そのようにして、神と和解させていただいた私たちが、今度は「和解の言葉」を託されているのです。パウロたちが自分たちの労苦を語るのは、ただ同情を求めてのことではありませんでした。そうではなくて、彼らとの関係を確かなものとして、コリントの人たちと共に教会を建て上げたかったからでしょう。そして、共に労苦し、共に神の僕として生き、共に「和解の言葉」を伝えていきたかったからでしょう。求められていることは私たちにおいても同じです。その意味においても私たちは聖書の言葉を聞かなくてはなりません。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

2014年7月20日日曜日

「神の恵みの豊かさに目を向けよう」

2014年7月20日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章14節~21節


パンを忘れた弟子たち
 「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)。そう書かれていました。小さなミスです。そのミスによって困ったことになりました。パンは一個しかありません。全員が食べるには足りません。そのように誰かのミスによって、あるいは全員のミスによって、何かが不足したり欠乏したりするということは起こります。それは私たちが置かれている様々な人間関係にも起こりますし、教会にもそのようなことは起こります。

 もっとも今日お読みした場面においては大したことが起こっているわけではありません。パンを忘れたからと言ってその後の旅に重大な支障をきたすわけではありません。事実、その後は何事もなかったかのように話は続きます。皆が少し我慢すればよいだけの話です。しかし、この出来事は後に弟子たちが教会として宣教していく時にもまた起こり得ることを指し示していたとも言えます。ですから、その場面でイエス様が言われた言葉は、後々の弟子たちにとっても、さらには今日の私たちにも大きな意味を持っていると言えるでしょう。

 その時、イエス様は何と言われたでしょうか。こう書かれています。「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(15節)と書かれています。そうです、そのような時こそ気をつけなくてはならないことがあるのです。そのように全員にパンが一個しかないような事態になった時こそ、明らかに困窮や不足が生じているような時こそ、気をつけなくてはならないパン種があるのです。パン種は小さくても、全体を膨らませてしまいます。そのように小さく入り込んで全体に悪い影響を及ぼしてしまうパン種があるのです。

ファリサイ派のパン種に気をつけなさい
 実際、困窮や不足がある時に何が入り込んでくるでしょう。まず可能性として考えられるのは裁き合いです。そもそも、いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まるのです。そして、それぞれが自分を正当化しはじめます。これこそがファリサイ派のパン種です。

 今日の箇所の直前にはファリサイ派の人々が来て、天からのしるしを求め、議論をしかけたという話が書かれています(11節)。明らかに悪意をもって議論をふっかけてきたのは、以前にファリサイ派の人々とイエス様の一行との間で一悶着あったからです。

 7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(7:1‐2)。「見た」と書かれていますが、要するに「気になった」ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(同5節)。

 なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(同3‐4節)。

 こういう人は、他の人のことが気になるものです。喜んで守っている人は別でしょうが、義務感から、仕方なく守っている人や、あるいは自分はこれだけ一生懸命に何かを行っていると日頃から思っている人は、守っていない人が気になるものです。自分と同じように行っていない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。また、当然のことながら、そのように他人の行動を批判的に見る人は、自分も批判されているのではないかと気になるものです。批判されないように一生懸命になる。ですから他人の行動ばかりではなく自分の行動も気になります。どう見えているか。どう判断されているか、と。結果的に自分の正しさを一生懸命にアピールするようになります。表向きの正しさを繕うようになります。それが攻撃されれば自分も攻撃的になります。その結果、律法主義の世界は裁き合いの世界ともなるのです。

 そのようなファリサイ派のパン種が困窮と不足の中に入り込むとどうなるでしょう。皆が互いの行動を問題にします。いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まります。皆が自分を正当化し、自分は正しいと主張し始めます。裁き合いが起こります。そのようなパン種は共同体を崩壊させることとなるでしょう。イエス様は言われました。「ファリサイ派のパン種によく気をつけなさい」。

ヘロデのパン種に気をつけなさい
 そして、困窮や不足が生じたとき、可能性としてもう一つ考えられることがあります。それは正しさを問題にするファリサイ派のパン種とは対極にあるものです。すなわち、そこでは善悪ではなく、ただ力関係がモノを言うようになる。そのような可能性は確かにあります。困窮や不足を解決する力を持った人、不足を満たすことができる人がいたら、その人の善悪は全く問題にされることなく人々から持ち上げられることになるかも知れません。その結果、能力にせよモノにせよ、何かを持っている者が周りを支配する共同体となっていきます。しかし、それこそが「ヘロデのパン種」なのです。

 ヘロデについては洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねた人物として6章に出てきます。ヘロデ・アンティパスというガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、この福音書では「ヘロデ王」と呼ばれています。実際には王ではない人物を「王」と呼ぶのはある意味では皮肉です。王でもないのに王のように振る舞っていた人物であったということです。彼は酒の席で踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。実はこれは有名な言葉で、かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にした言葉なのです。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、その王権を示すために、洗礼者ヨハネの首をはねたのです。

 そのような神をも畏れぬ傲岸不遜な人物を、それでもなお支持するユダヤ人の一団がありました。彼らはこの福音書において「ヘロデ派」と呼ばれています。宗教的な一派ではなく政治的なグループです。彼らがヘロデを支持したのはヘロデが正しいからではなく、ヘロデの権力の恩恵にあずかっているからです。ヘロデが支配することによって益を受ける人々だからです。

 先にも申しましたように、そのようなヘロデ派の精神、ヘロデのパン種が共同体の中に入ってくることがあり得ます。正しいか否かはどうでもよいのです。神に対してどのような態度であるかも別にいい。ただ不足を満たし困窮を解決してくれさえすればよい。そのようなヘロデのパン種が教会に入り込むなら、教会という麦粉全体を損なってしまいます。もはや教会ではなくなります。ですからイエス様は前もって弟子たちに言っておられたのです。「ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。

まだ悟らないのか
 さて、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて思いました。「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」。よほどパンを忘れたことを気にしていたのでしょう。そこでイエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(17‐19節)。

 もちろん弟子たちは覚えていました。「十二です」と彼らは答えます。イエス様はさらに問いました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは答えます。「七つです」。そこでイエス様は言われました。「まだ悟らないのか」。

 そうです、彼らは既に悟っていなくてはならないのです。五千人に五つのパンは明らかに足らなかったのです。彼らは困窮していたのです。しかし、イエス様がおられるところにおいては、その困窮は神の豊かさを知る機会となったのです。十二の籠に有り余るほどの神の豊かさです。四千人に七つのパンの時にも、明らかに足らなかったのです。しかし、それは七つの籠に有り余るほどの神の豊かさを知る契機となったのです。

 困窮のあるところ、それは互いに自分の正しさを主張し、裁き合い、悪人捜しをする場所にもなり得ます。困窮のあるところ、それはただ力を持つものが支配し、力ない者が隷属するような場所にもなり得ます。しかし、そこにはもう一つの可能性があるのです。それは皆が既に来られた救い主に目を向け、救い主を送られた神の限りない慈しみに目を注ぐことです。そして、それは神の豊かさを経験する場所となるのです。

 パウロが後に手紙に書いています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。その御子が共におられる。窮乏の舟の中にも御子イエス様が共におられる。それがどれほど大きな意味を持っているかを彼らは悟らなくてはならなかったのです。そこでパンが一個しかなくても、全く問題ではない。むしろ一個のパンが既に与えられているではないか、と語ることができるのです。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。大事なことはパン種を持ち込んでしまわないことです。ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種を外に放り出し、まず神の御業に目を向け喜び祝う。私たちはいつもそのような教会でありたいと思うのです。

2014年7月6日日曜日

「キリストによって派遣されて」

2014年7月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 6章1節~13節


ここから派遣される私たち
 日曜日の礼拝は「招詞」から始まります。招きの言葉から始まるのです。それは私たちが主によって招かれて今ここにいることを意味します。私たちはそのように主によって招かれ集められた者として共に礼拝を捧げます。そして、礼拝の最後には「祝祷」が行われます。祝祷は派遣のための祈りです。私たちは、神の祝福を受け、ここから派遣されて出て行くのです。そして、一週間の生活を経て再び招かれてここに集まるのです。

 このことは、私たちの人生のホームがどこにあるかということと関わっています。私たちのホームはここにあるのです。日曜日の礼拝にあるのです。ここから遣わされるのです。そして、ここに帰ってくるのです。その意味で教会は「行くところ」ではありません。教会は帰ってくるところです。私たちの日常生活の場は、家であれ、職場であれ、学校であれ、すべて派遣先です。私たちは派遣されている者として生活するのです。それが信仰者としての日常生活です。

 では派遣先において、私たちはどのような意識をもって生活したらよいのでしょう。何を考えて生きたらよいのでしょう。そこで私たちが今日目を向けたいのは、主が弟子たちを派遣したという話です。主は派遣された者たちに、何を求められたのでしょうか。

汚れた霊を追い出すために
 主は弟子たちを二人ずつ組にして遣わされました。そこで目に留まりますのは、主が遣わす際に、彼らに「汚れた霊に対する権能」(7節)を授けられたというくだりです。そのような権能を授けたのは、もちろん「汚れた霊」を追い出すためです。そこに派遣の一つの目的が明確に表現されていると言えるでしょう。彼らは汚れた霊を追い出すために送り出されたのです。主によって派遣されるとはそういうことです。

 「汚れた霊を追い出す」と言いましても、私たちはそこでオカルト的な悪魔払いのようなことを考える必要はないでしょう。「汚れた霊」が何であれ、それが追い出されるということは、要するに生活が変わるということです。人々の生活が変わるということは、共同体に変化がもたらされるということです。それは家庭であるかもしれませんし、職場であるかもしれませんし、学校の友人関係かもしれませんし、あるいは社会全体、この世界全体を意味するかもしれません。いずれにせよ、汚れた霊が追い出されるということは、神の御心にかなった変化がもたらされるということです。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」と祈っているではありませんか。それが現実に様々な形で起こるということでしょう。

 私たちは変化をもたらすために送り出されるのです。「汚れた霊」に様々な名前を付けて考えてみてください。例えば「憎しみ」が追い出されたらどうなりますか。「敵意」が追い出されたらどうなりますか。「淫らな思い」が追い出されたらどうなりますか。それは具体的な変化をもたらすことでしょう。イエス様は別な箇所ではこう言っておられます。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)。「あなたがたは世の光である」(同14節)。これもまた同じです。塩を投入するのは変化をもたらすためです。灯を置くのも変化をもたらすためです。その人が存在することで周りが変わるのです。信仰者がこの世界に遣わされ、それぞれの場所に置かれるとはそういうことです。

神に対する信頼
 そこでさらに目に留まりますのは、遣わすに当たってイエス様が弟子たちに与えられた不思議な命令です。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8‐9節)と書かれているのです。要するに、送り出す際に弟子たちの持ち物を全部没収してしまったということです。

 なんとも無茶な話です。しかし、主があえてそうされたのは、遣わされて行く者にとってどうしても必要なことがあるからなのでしょう。それは何であるのか。主がなさったことから、少なくとも二つのことを考えることができます。それは「神に対する信頼」と「人に対するへりくだり」です。その二つはここから遣わされて行く私たちもまた忘れてはならないことなのでしょう。

 イエス様によって持ち物を取り上げられ、お金も取り上げられて、弟子たちは全く神に寄り頼まざるを得ない状況に追い込まれることとなりました。杖一本で出かけるとなったら、神が養ってくださることを信頼して出かけるしかないでしょう。弟子たちは、いつにもまして真剣に「日ごとの糧を与えたまえ」と祈ったに違いありません。

 そのように様々な欠乏は神への信頼と祈りを学ぶ学校となります。必ずしもあの弟子たちのように食べ物がない、お金がないという貧しさだけではありません。私たちが経験するのは、様々な具体的な問題に対する自分の無力さという「貧しさ」かもしれません。能力のなさ、資質のなさを思い知らされるような経験によって自分の「貧しさ」を知ることになるかもしれません。しかし、そこでこそ神への信頼と祈りとを学ぶことになるのでしょう。

 「汚れた霊に対する権能」を授けられた者として生きるなら、そのように遣わされた者として生きるなら、どうしても必要なのは神に対する信頼なのです。なぜなら与えられている権能の源は神にあるからです。自分の力によってこの世界を変えるようにと送り出されているのではないからです。まず大事なのは、あの弟子たちがそうであったように、いかなる困窮の中にあっても神に信頼して生きる人として、人々の間に存在することなのです。

人に対するへりくだり
 そして、もう一つ。それは「人に対するへりくだり」です。イエス様は弟子たちの持ち物とお金を没収してこう言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)。当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、信仰的な美徳と考えられておりましたので、決して珍しいことではありませんでした。イエス様は、そのような習慣を背景として語っているのです。要するに、「誰もがするように、旅先で誰かの世話になれ」と言っているのです。しかも、その土地にいるかぎり、「その家にとどまるように」と言っている。世話になり続けよ、と言っているのです。

 彼らは、新しい村に足を踏み入れる度に、繰り返し身を低くせざるを得なくなりました。まず泊めてもらわなくてはならない。食べさせてもらわなくてはならない。そのような弱い者として彼らは村に入っていくことになったのです。無一文ですから、何をするにも助けが必要なのです。

 そのように、イエス様は、弟子たちが何かを与える前に、まず何かを受ける者とされたのです。上の者が下の者に何かを教えるかのように、あるいは強い人間が弱い人間を助けるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを主はお許しになりませんでした。伝道がそのような形でなされることを主は望まれなかったということです。

 一般的に言いまして、使命感に燃えている人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌います。与える側だけに身を置こうとするのです。「わたしは人の世話にはなりたくない」「わたしは人に迷惑はかけたくない」――いつの間にか私たちも口にしているかもしれません。しかし、与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味で人と共に生きることはできないのです。同じ人間として、同じ地平に立って、他者と大切なものを分かち合うことができない。そういうものです。人の世話になりたくない人は、おそらく良き神の働き人にはなれないのです。

 弟子たちは、「汚れた霊に対する権能」を行使する前に、人に対してへりくだることを学ばねばなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちの中には、家族で一人だけのキリスト者という方も少なくないでしょう。ご家族に神様の恵みを伝えたい、福音を伝えたいと思っているに違いありません。しかし、もしかしたらその前に、まず家族に「助けてください」と素直に言える人にならねばならないのかもしれません。知らず知らずに自分を上に置いていることが、しばしば福音宣教の妨げになっていることがあるからです。


 さて、そのように弟子たちは物乞いのような仕方で村に入って行ったにもかかわらず、そして事実人々のお世話になっていたにもかかわらず、その働きについてはこう記されています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12節)。彼らが行ったところに悔い改めが起こりました。悪霊が出て行きました。癒しが起こりました。人々の生活に具体的な変化が起こりました。村々に神の御心にかなった変化が起こりました。御心の天になるごとく地にもなるのを彼らは実際に目の当たりにしました。

 それが彼ら自身に由来するものでないことは明らかでした。彼らは何も持っていない物乞いのようなありさまだったのですから。それはイエス様が授けてくださった「汚れた霊に対する権能」によるのです。そこに現れているのは神の御業に他ならないのです。それゆえに彼らは主の御名をあがめたことでしょう。そのことを私たちもまた期待してここから出て行くべきなのです。様々な形における私たちの貧しさにもかかわらず、私たちを通して神の御業が現れることを期待して、ここから遣わされてまいりましょう。

2014年6月29日日曜日

「汚れた霊、この人から出て行け!」

2014年6月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 5章1節~20節


汚れた霊に取りつかれた人
 神学校を卒業して大阪に赴任した時、最初の住まいは小さな賃貸マンションでした。そこに入居した時、すぐにトイレのドアの内側にいくつものくぼみがあることに気づきました。これは一体何だろう。しばらく気にかかっていましたが、やがてあまり考えなくなりました。ところが、半年ほど経ったある日、突然謎が解けたのです。トイレに座って手を伸ばすとちょうどドアに当たります。そして、拳の出っ張った部分が、ちょうどドアのくぼみとぴったり合うのです。アルミ製のドアを恐らく前の住人が何度も殴ったのでしょう。その跡が残っていたのです。結構固いドアですから、よほど強く殴ったものと思われますよほど腹が立ったのでしょう。やり場のない怒りをドアにぶつけたのでしょうか。

  これがドアでなくて人だったらどうなりますか。言葉の拳を人に打ち付けるという経験は誰にでもあるものでしょう。そんなことをしても何の解決にもならない時でさえ、そうせずにはいられない。ドアを殴れば自分の手も痛むように、他人を傷つければ自分も傷つくことになります。しかし、後で悔やむことが分かっているのに、止まらない。確かに、私たちは自分の意志に反する衝動によって動かされ、破壊的な行動を取ってしまう時があるものです。そのような衝動の代表はこのような怒りや憎しみから生ずるものでしょう。

 さて、今日お読みした箇所には「汚れた霊に取りつかれた人」が出てきます。墓場に住んでいるというのは極端な話ではあります。しかし、読んでいると自分にも思い当たることがある、そんな話でもあります。彼の姿は、ある意味では先に触れた私たちの日常の経験が凝縮したような姿でもあるからです。

 彼は墓の住人でした。当時の墓は洞穴ですから、人が住めなくはない。しかし、墓は本来人が生活する場所ではありません。彼を墓に追いやったのは汚れた霊でした。その汚れた霊の名前は「レギオン」でした。レギオンとはローマの一軍団を意味します。四千人から六千人の兵士によって構成されているものです。それだけ大勢の悪霊が彼の内に住み着いていたという意味でしょう。言い換えるならば、ありとあらゆる衝動が彼を振り回していたということでしょう。彼は自分で自分をコントロールできませんでした。

 この人は「墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしていた」と書かれています。彼は自分の思い通りにならない自分自身が赦せない。思い通りにならない自分のことが嫌で嫌でしょうがない。だから、彼は自分で自分を罰するのです。打ち叩き、傷つける。本当は自分を傷つけたって、自分を罰したって何の解決にもならないのです。そこには何の救いもないのです。しかし、分かっていても、そうせずにはいられない。この男の気持ち、分かる気がしませんか。程度の差こそあれ、私たちも同じようなことをしていることがあるのでしょう。あのトイレのドアを殴っていた住人も、もしかしたら自分に腹を立てていたのかもしれません。

かまわないでくれ!
 しかし、私たちは、今日の聖書箇所に私たち自身の姿を見るだけでなく、ここに私たちに与えられている希望をも見ることができるのです。今日の福音書朗読は何を伝えているでしょうか。この男は見捨てられていなかったということです。イエス様が、嵐に荒れ狂う湖を越えてこの男のところまで来てくださったのです。イエス様が「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言って来てくださったのです。

 イエス様が来てくださった時、この男は何をしましたか。いったい彼には何ができたのでしょう。聖書にはこう書かれています。「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」(6節)――そうです、汚れた霊に振り回されている自分、自らをコントロールすることのできない自分をそのままイエス様の前に投げ出したのです。不自由にする力に支配されていることを知るゆえに、解き放つ力をお持ちの方の前にひれ伏したのです。自分で自分を打ち叩いても、何の解決にもならないことを知っているからです。だからイエス様の前にひれ伏したのです。

 しかし、その一方で内側からもう一つの声があがります。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(7節)。聖書は人間の心を良く知っています。確かにこのようなことは起こります。救われたいからこそ、遠くから彼は走り寄ったのでしょう。しかし、汚れた霊は言うのです。かまわないでくれ、と。そのように人間の内で二つの思いが分かれ争うのです。変わりたいという思いとそのままでいたいという思い。その二つが分かれ争うのです。助けて欲しい。救って欲しい。でも、放っておいて欲しい。かまわないでくれ。苦しめないでくれ、と。

 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。「かまわないでくれ」というのは、「わたしとあなたに何の関わりがあるか」という意味の言葉です。あなたは関係ない。わたしがどう生きようと、何をしようと、あなたには関係ないじゃないか。わたしはわたし、あなたはあなただ。放って置いてくれ。そのように、変わりたくないという思いが彼の口から言葉となって発せられます。しかし、言葉として表れたのはこの人の口からですが、無言の内に同じことを語っているのは、実は彼だけではなかったのです。

 この場面は実に不気味な雰囲気が漂っているので、誰もいないところで起こった出来事であるかのように思いやすいのですが、後の方を見ると「成り行きを見ていた人たち」(16節)がそこにいたことがわかります。そこにいたのはイエスの一行と汚れた霊につかれた男だけではなかったのです。それはある意味では当然のことでしょう。福音書を読む限り、ここまでの時点で既にかなり広い範囲にわたってイエス様のしておられることは伝わっていたようですから(3:7以下)、イエスの一行が来たことを知って集まってきた人たちは少なからずいただろうと想像できるのです。

 しかし、そのような人々の中で、イエス様のもとにかけよってひれ伏したのはあの男しかいなかったのです。他の人たちはどうしていたか。外から見ていたのです。この人の身に起こったこと、そして豚に起こったこと。そうです、イエス様の内に神の権威が現れていることを彼らは確かに目撃したのです。しかし、そこに現れたイエスの権威こそ、自分たちをも解放するものであるとは考えませんでした。彼らはついぞイエス様の前にひれ伏すことはありませんでした。

 そのように、ひれ伏すことのなかった人々が事の成り行きを伝えます。これを聞いた人々はどうしたか。「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」(17節)。多くの豚がおぼれて死にました。それは大きな損失であったということもあるでしょう。しかし、彼らはそれ以上に、イエス・キリストという存在が彼らの地に大きな力が変化をもたらすことを予感したのです。彼らはそれを恐れたのです。村が変わってしまう。人が変わってしまう。基本的に人間は変わりたくないのです。そのままでいたいのです。それゆえに、自分たちが変わることよりも、キリストを遠ざける方を選んだのです。

味方となってくださる方
 そのことを考えますとき、この汚れた霊に取りつかれた人が遠くから走り寄ってきたことの大きな意味も見えてくるのです。確かに、この人は苦しんできました。自分で自分を治めることができないことを嫌というほど味わい知ってきました。しかし、そのことのゆえに彼はイエス様のもとに駆け寄ったのです。イエス様の声を聞くならば「かまわないでくれ」と答えてしまうような内なる声を宿しながらも、それでもなおその人は救い主の前にひれ伏さざるを得なくなっていたのです。そして、そこに既に救いは始まっていたのです。

 この箇所を読みますときにふとAA(アルコホーリックス・アノニマス)のことを思い起こしました。アルコール依存症の方々の回復のための自助グループです。頌栄教会も二つのグループの会場となっています。AAには回復のための12ステップと呼ばれるものがあります。その最初の二つはこのように書かれています。①私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。②自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。――ある意味では、イエス様の御前でこの人の内に起こったことは、まさにそういうことなのです。徹底的に自分の無力さを知った者が、より大きな力を持つ御方の御前に出る。そこにこそ救いの始まりがあるのです。

 そして、そのような人に対して、イエス様ははっきりと味方としてかかわられたのです。イエス様は言われました。「汚れた霊、この人から出て行け」と。あくまでもこの人の側に立って、この人の味方として、汚れた霊に命じてくださったのです。この人の味方として、汚れた霊と自ら戦ってくださったのです。これまで迷惑をかけるこの男を鎖で縛り付けようとする人はいくらでもいました。足枷をはめようとする人はいくらでもいました。しかし、そのように本当の意味で味方になってくれる人なんてどこにもいなかったのです。自分自身でさえ、自分の味方になれなかったのですから。しかし、イエス様は違っていました。主は彼の味方として悪霊に命じてくださいました。

 ここに教会の姿を見ることができます。教会とは、自分で自分を救うことができないことを知った者が、救い主のもとに駆け寄る場所です。私たちが主のもとに集まり礼拝しているとはそういうことです。だから私たちには希望があります。私たちは、もう一人で格闘する必要はないのです。どうにもならない自分と格闘し、破れ、嘆き、自分を打ちたたき、自分を傷つけ、自分を痛めつけながら生きる必要はないのです。イエス様が来てくださいました。神の国は近づきました。解き放つ力をお持ちの方が私たちの味方となってくださいます。私たちと真実に向き合い、私たちに関わり続けてくださるのです。その御方が、最終的に私たちを完全に救ってくださいます。私たちはその御方に自分をゆだねることができるのです。そこに私たちの希望があるのです。

2014年6月22日日曜日

「心を合わせて祈るとき」

2014年6月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章13節~31節


人からか神からか
 今日の聖書箇所の前半は、ペトロとヨハネが議会で尋問を受けている場面です。彼らが投獄されたことについては、この章のはじめに次のように記されています。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」(1‐3節)。

 そこで翌日、彼らは引き出されて尋問を受けることとなりました。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(5‐7節)。そこで、「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあるように、答弁を始めるという流れです。今日はその部分には触れませんが、結果的には、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)ということとなりました。

 さて、「ペトロとヨハネの大胆な態度」とありますが、私たちは今読んでいる使徒言行録がルカによる福音書に続く二巻目であることを思い起こさねばなりません。そして、6節の「大祭司アンナスとカイアファ」は一巻目のルカによる福音書にも出てきたことを思い出す必要があります。それはイエス・キリストが捕らえられた場面です。主がまず連れて行かれたのは大祭司の家だったのです。

 あの時、ペトロは遠く離れて後からついていったのでした。彼が中庭にまで入っていった時、ある女中が目にして「この人も一緒にいました」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまうのです。三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。そして、次のように書かれています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)。

 これが生来のペトロでした。しかし、今日の箇所に出て来るペトロは明らかに違います。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペトロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19節)。

 あの時とこの時の間に何が起こったのか。それはイエス・キリストの十字架刑とキリストの復活。そして、聖霊の降臨です。ここに見るのは「聖霊に満たされた」ペトロの姿なのです。それはペトロが「もっと強くならねば」と思って努力して強い人間になったということではないのです。

 そして、「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」と書かれています。無学な者というのは、律法の専門教育を受けてはいないということです。普通の人というのは、無資格の者ということです。つまり彼らが見たのは、この世の教育や資格に由来するものではなかったというおとです。また、人間の能力や経験に由来するものでもなかったということです。

 それは既にキリストが言っておられたことでした。主はかつて弟子たちにこう言っておられたのです。「…人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12‐15)。そのように、彼らが耳にしたのは人からの知恵や知識ではなく神からの知恵であり知識だったのです。

 さて、この箇所を読みます時に、私たちは教会としても、また個々の信仰者としても一つの問いを突きつけられているように思います。私たちが見たいと思うのは、神のために一生懸命行った私たちの業でしょうか。それとも、私たちを通して実現される神の御業でしょうか。人間に由来するものでしょうか。それとも神に由来するものでしょうか。私たちが願っているのはどちらでしょう。それは私たちが神のために何かを成し遂げることですか。それとも、神が私たちを通して何かを成し遂げてくださることでしょうか。

皆、聖霊に満たされて
 もし教会の歩みにおいても私たちの人生においても神の御業を見たいと思うなら、決定的に重要なことは「わたしが、わたしが」と言って「わたし」が満ちていることではなくて、ペトロがそうであったように、「聖霊に満たされて」いることなのでしょう。そして、今日の聖書箇所は、ペトロだけではなく、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(31節)と締めくくられているのです。

 そこに書かれている「皆」というのは、ペトロとヨハネが釈放された後に向かった仲間たちです。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)と書かれているとおりです。

 それを聞いた彼らはどうしたでしょうか。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」(24節)。すなわち、彼らは祈ったのです。心を一つにして祈ったのです。そのような彼らが聖霊に満たされたのです。そして、ペトロと同じように大胆に御言葉を語る者とされたのです。

 祈るとはどういうことか。今日の聖書箇所ははっきりと私たちに示しています。彼らはこのように祈り始めました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。このように祈りとは、まず神へと目を転じることから始まります。

 現実には彼らは大きな問題に直面していたのでしょう。ペトロとヨハネが捕らえられて脅迫されたということは、すなわち彼らもまた脅迫の対象であるということです。ユダヤ人当局がペトロとヨハネに対して「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」ということならば、当然、教会もまたその規制の対象となるのでしょう。それは誕生したばかりの教会にとっては大きな打撃です。

 しかし、彼らは直面している問題の大きさではなく、神の偉大さに目を向けるのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方への信仰を告白したのです。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と。

 小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それが世界の全てを覆い隠して見えなくするように、私たちの直面している問題もまた目の前に置かれれば世界の全てを覆い隠します。しかし、私たちは目を転じなくてはなりません。創り主の偉大さに目を向ける時に、今まで世界の全てであるかのように思えた問題もまた、神が支配するこの世界に起こっている一つの出来事に過ぎないことを知るのです。それは決して神の御手の外に出てしまうようなことではないと知るのです。

 そして、もう一つ。彼らはこう祈っています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29‐30節)。彼らは直面している問題をそのまま単純素朴に神様に語ります。神様の前にすべてを広げるのです。「目を留めてください」と。

 その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」彼らは、脅迫されているという現状を神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありませんでした。また、「脅迫がなくなるように」と祈ったのでもありませんでした。彼らが求めたのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもなかったのです。そうではなくて、恐れを取り除かれることを願ったのです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と。

 そして、そこに神の御業が現れることを願い求めたのです。「御手を伸ばしてください」と彼らは祈ります。もちろん、実際に手を伸ばすのは彼らなのです。しかし、彼らが望んでいるのは神が手を伸ばしてくださることなのです。彼らの手を通して、神が御手を伸ばしてくださることなのです。神が彼らを用いて御業をなしてくださることなのです。「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」とはそういうことです。

 そのように、祈るとは神の御業のために自分自身を差し出すことでもあるのです。その時に、もはやそこに満ちているのは「わたしが、わたしが」と主張する「わたし」ではないのでしょう。そこに神の霊が満ちるのです。主が支配し、主が御業をなしてくださるのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。

 そのように共に祈ることを大切にしましょう。神に目を転じ、貧しい私たち自身を差し出して、私たち自身を通して神の御業が現れることを期待しましょう。そのように聖霊に満たされた教会となることを共に求めてまいりましょう。

2014年6月15日日曜日

「神の子どもとして生きる」

2014年6月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章12節~17節


肉に従って生きるのではなく
 今日の礼拝では次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12‐13)。

 「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」とは何でしょう。聖書が「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲に従って生きなければならないという、肉欲に対する義務」と言っているのではありません。もろもろの欲望に従って生きている人は、何もそれが義務だからということで、そのように生きているわけではありませんから。

 ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。信仰者となる以前の私たち、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。信仰者となって後も、古い自分は生きています。ですから同じ原理で生きようとする。ただ自分の力で神の御心に従って生きようとするのです。ですからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。

 では「肉に対する義務」でないとするならば、いったい何に対する義務なのでしょう。実は、この文は途中で終わっているのです。(パウロの手紙では時々このようなことがあります。)しかし、パウロが本来意図していた続きは明らかです。「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。そうではなく、霊に従って生きなければならないという、霊に対する義務です」。その後に霊と肉を対比して次のように語っていることからも分かります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。

 では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはさらにこう続けます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。

 キリスト者にはキリスト者としての生き方があるべきだ。それは誰でも考えることでしょう。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とは言わないでしょう。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の力を振り絞って神の御心に従って生きることでもないのです。そんなことをしたら「死にます」と彼は言うのです。これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのでしょう。人間の内にある罪の問題は、人間の頑張りではどうにもならないほど深刻なものだということが分かっているからこそ言うのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。

 大事なことは、「霊に従って生きる」ことなのです。それはすなわち、神の子どもとして生きることなのです。そのように生きてこそ、「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)と書かれていることも実現していくのです。体を通して現れる罪深い行いが絶たれるのです。それは肉によってではなく「霊によって」なのです。

霊に従って生きる
 では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。

 ここには二つの大事な認識があります。「霊に従って」生きる時に決定的に重要になるのは、この二つの認識なのです。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷になることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。

 この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては非常に身近なイメージとして捉えられたと思います。奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。

 私たちの信仰生活が、そのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かに起こり得ることでしょう。従順でないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的に救われないかもしれない。神の国にも入れてもらえないかもしれない。だから神様の言いつけを守る。従順に生きる。いつ神様に怒られるか、神様に認めてもらえるか、ビクビクしながら神様に従う。――もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。

 そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、恐ろしい神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。

 そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。

 私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと言うのです。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。

 ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。これは神の特別な恵みなのです。だから、特別な手続きによって養子とされたのです。養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、何が起こったのかを私たちは知らされているではありませんか。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださったから、私たちの罪を贖ってくださったから、だからこそ私たちは安心して養子となることができるのです。これは神がなさったことだからです。

 そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、もといた家の子どもとしての権利は完全に失いますが、同時に新しい家の権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。

 これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。

 それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですからこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。

 「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。

 このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。

 私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは肉に従って生きることになってしまうでしょう。そして、罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうことでしょう。あるいは表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するかしかないでしょう。

 その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは父を呼びながら生きていくのです。そのようにして父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、生きたらよいのです。祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。

2014年6月1日日曜日

「永遠の命とは」

2014年6月1日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~13節


永遠の命などいらない?
 ただいま唱和しました「使徒信条」の最後の言葉は「とこしえの命を信ず」でした。「とこしえの命」。今日の福音書朗読にも「永遠の命」という言葉が出てきました。ヨハネによる福音書には何度もこの言葉が出てきます。よく知られているのは3章16節でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

 イエス・キリストが来られたのは、私たちが「永遠の命」を得るためだと聖書は言います。しかし、「永遠の命などいらない」と仰る方がいました。そんなのまっぴらごめんだ、と。お分かりになりますでしょうか。その人は「永遠の命」をただ「ずっと長く生きること」と理解したのです。生きることが苦しみの連続である人にとっては、それが終わらないということは地獄以外の何ものでもないでしょう。「永遠の命」が「不死」を意味するならば、「そんなものいらない」と言う人がいても不思議ではありません。

 「不死」ではないにせよ、日本は世界一の長寿国です。様々な健康法が開発され、医学も進歩しました。昨今話題になっている再生医療が実用化するならば平均寿命は飛躍的に伸びるかもしれません。しかし、日本人は長寿であるから幸せかと問われるならば、必ずしもハイとは答えられないでしょう。明らかに、人間にとって重要なのは単に命の「長さ」ではないのです。そうではなくて命の「質」なのです。どのように生きているのか、ということなのです。

 「永遠の命」が単に「長さ」の話ならば、「そんなものいらない」となるのでしょう。しかし、聖書が「永遠の命」について語る時、それは「長さ」の問題ではないのです。それは「質」の問題なのです。どのように生きるのか。人はどのように生き得るのかということなのです。そこで心に留めたいのは、今日の福音書朗読の中で読まれたイエス様の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。

永遠の命とは神を知ること
 主はまず「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」と言われました。神を知ること。それは単に神についての知識を得ることではありません。神を知ること。それは愛と信頼における交わりです。神との交わりです。それが何を意味するのかは、この祈りそのものがよく表しています。

 これは最後の晩餐において最後に捧げられた祈りです。主は間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることを知っているのです。ですから主は祈りの中でこう言われます。「父よ、時が来ました」(1節)。それは十字架にかけられる時に他なりません。しかし、そこで主はこう続けるのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。

 これは驚くべき言葉ではありませんか。「時が来ました」。その十字架の時は、イエス様が最も惨めな姿で死んでいく時なのでしょう。しかし、イエス様にとって、それは父の栄光を現す時なのです。イエス様は父なる神への愛と信頼のゆえに、ただ父の栄光を現すことを願うのです。

 それはすなわち、自分に与えられた使命を果たすことでした。主は心の中で既に十字架にかけられた自分自身を見ています。否、既にその先を見ている。すべてを成し遂げて父のもとに帰って行く時を思いつつ祈っているのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。既に成し遂げた喜びに溢れているのです。

 十字架を前にして、しかし喜びに溢れて、愛と信頼をもって「父よ、父よ」と繰り返されるイエス様の祈りの姿。これが父を知る子の姿です。「知る」とはこういうことです。単なる知識ではありません。愛と信頼における交わりです。そのようにイエス様が見せてくださった父なる神との交わりに入れられること。そのように永遠なる神を「知る」こと。それが永遠の命だと言うのです。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

永遠の命とはイエス・キリストを知ること
 しかし、イエス様はただ「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」とは言われませんでした。続けて「あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われたのです。それはイエス様の中では切り離すことのできないことだったのです。

 イエス様は既に成し遂げられたかのように、喜びに溢れて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈りました。そして、福音書を読み進んでいきますと、その同じ言葉を人々は十字架の上から聞くことになるのです。イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。ヨハネによる福音書においては、これがイエス様の最後の言葉です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)。

 何が成し遂げられたのでしょう。「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは何なのでしょう。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となることでした。世の人の罪を代わって背負って死んでいく小羊となること、罪を贖う犠牲となることでした。何のためですか。私たちが、罪を赦された者として、神との交わりに入れられるためです。イエス様が見せてくださった父と子との交わりに、私たちもまた入れられるためだったのです。すなわち、神を知るためです。ですから、それはまた神が遣わされたイエス・キリストを知ることでもあるのです。

 そのように、人はイエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、赦された人として、永遠なる神との交わりに生きることができるのです。そのように永遠なる神を知ること。神が遣わされたイエス・キリストを知ること。それが永遠の命です。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

 そして、その命を主が与えるならば、何ものもそれを奪うことはできないのです。それはいかなるこの世の権力によっても、あるいは病によっても死によっても奪われることのない命です。なぜなら、何ものもイエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。神との交わりを奪うことはできないからです。それが「永遠の命」です。

互いの愛の完成に向かって
 そして、「永遠の命」について、さらに一つのことに目を向けたいと思います。主はこのように祈られました。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。

 既に見てきたように、イエス様は父なる神を知るということがいかなることかを地上において示してくださいました。父と子との間における愛と信頼における交わり。それはまさに永遠の命そのものでした。イエス様は永遠の命を見せてくださいました。そして、私たちをその交わりに招いてくださいました。しかし、今主は、その父と子との交わりが、私たちお互いの間にも実現するようにと祈っておられるのです。「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。しかし、それは私たちと神との関係に留まりません。私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知るということは、父と子が一つであることを知ることです。そして、父と子が一つであることを知るということは、そのように私たちもまた一つとなることでもあるのです。私たちお互いの間にも愛と信頼における交わりが実現していくことでもあるのです。私たちはその愛の完成へと向かっているのです。

 私たちが見ているのはまだ一部分でしかありません。私たちは救いについても永遠の命についても部分的に知るに過ぎません。私たちはやがて完全な救いにあずかる時が来るでしょう。私たちは既に与えられている永遠の命が何であるかをはっきりと知る時が来るでしょう。それはただ神との完全な交わりの中に入れられるということではありません。そうではなく、お互いの愛が完成する時でもあるのです。

2014年5月25日日曜日

「奪い去られることのない喜び」

2014年5月25日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章12節~24節


悲しみは喜びに変わる
 今日の福音書朗読も先週に引き続き最後の晩餐の場面です。イエス様は弟子たちに言われました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。この言葉を耳にした弟子たちの間でざわめきが起こります。ある者たちは互いに言いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」(17節)。

 イエス様が彼らを置いて遠くに行ってしまう。そんな予感が彼らの心に広がっていました。他の福音書を読みますと、主は既にあからさまに御自分の受難について語っておられました。誰も信じたくなかったに違いない。しかし、確かに危険が迫っていることは弟子たちも感じていたのです。本当に主は死んでしまうのか。では「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とはどういう意味か。不安と混乱がさらに広がります。イエス様はそんな彼らがその意味を尋ねたがっていることを知っていました。そこで主は彼らにはっきりと言われたのです。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20節)。

 「悲嘆に暮れる」。その言葉が何を意味するかは弟子たちにも明らかでした。これは誰かが死んだ時に嘆き悲しむことを意味する言葉です。イエス様は御自分が殺されることになることを、ここでもはっきりと語っておられるのです。イエス様が死んでしまって、弟子たちは嘆き悲しむことになるだろう、と。

 しかし、主はさらにこう続けるのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。そして、悲しみが喜びに変わる様を出産に喩えてこう言われました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21節)。彼らが悲しむとしても、それは産みの苦しみと同じだというのです。産みの苦しみの先には喜びがある。同じように、弟子たちの悲しみの先にも喜びがある。いや、その悲しみがあるからこそ、その先に大きな喜びもあるのです。

 そのように、産みの苦しみについて語られた上で、主は言われます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(22節)。福音書はこのイエス様の言葉が実現したことを伝えています。この直後にイエス様は捕らえられることになります。裁きにかけられます。鞭で打たれ、十字架にかけられます。主は十字架の上で息絶えてしまいました。弟子たちは深い悲しみに沈みます。しかし、それから三日目、週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっていたところに復活された主が現れます。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:20)と福音書は伝えます。主が言われたとおりになりました。

 しかし、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」という先の言葉は、次のように続きます。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。となりますと、それは単に再会の喜びと考えることはできません。復活されたイエス様は、その後、天に帰られるのです。弟子たちはこの世に残ります。しかも、そこで起こってくるのは迫害です。イエス様が予告されたとおりです。彼らの大部分は殉教の死を遂げることになるのでしょう。それでも奪われない喜びについて語られたのです。永遠の喜びです。単なる再会の喜びではありません。では何なのか。そこで私たちはもう一度、先ほど読みました「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という主の言葉について考えてみたいと思うのです。

再会の喜びではなく
 「あなたがたは悲しむ」と主は言われました。その悲しみは、先に述べましたように、イエス様が死んでしまうことによる悲しみです。イエス様を失う悲しみ、喪失の悲しみです。それはただ愛する人を失ったというだけではありません。イエス様こそ彼らの拠り所であり、彼らの未来であり、希望だったのです。あの弟子たちはイエス様と一緒に旅をしていた時、いつだって「誰が一番偉いか」と言って争っていた人たちです。しかし、イエス様が死んだ時、もはやそこには「誰が一番偉いか」と言って争う人はいなかったでしょう。当然です。そもそもこの世に生きることの意味そのものを失ってしまったのですから。イエス様が死んだ時、ある意味では彼らもまた死んだのです。残っているのは屍です。生ける屍として余生を送るしかないのです。

 いやそれだけではありません。すべてを失って生ける屍になっただけならまだよいのです。彼らにはとてつもなく重い罪責が残ったのです。彼らはイエス様を見捨てて逃げていくことになるのです。彼らが見捨てたイエス様が十字架にかけられて死んでいくことになるのです。彼らはイエス様を見捨てた人間として生きていかなくてはならないのです。イエス様を否んだ人間として生きていかなくてはならないのです。

 彼らはすべてを失うだけでなく、自分の罪を知った人として生きていくことになる。イエス様は分かっているのです。そのイエス様が言われたのです。「あなたがたは悲しむことになる」と。ですから、その悲しみとは単に喪失の悲しみではありません。そうではなくて、この自分という存在を悲しむ悲しみです。人間の負う最も深い悲しみです。

 しかし、その悲しみが喜びに変わると主は言われたのです。単なる再会によって、彼らの悲しみは喜びに変わると思いますか。ならないでしょう。皆さんだったらどうですか。自分が裏切って、見捨てて、否んで、見殺しにしてしまった人と、仮に再会できたとして、その再会は喜びになりますか。悲しみが喜びに変わりますか。なるはずがないでしょう。

 イエス様の復活は、弟子たちにとって単なる再会以上の出来事だったのです。それは何か。それは弟子たちにとって「赦し」だったのです。神の赦しそのものだったのです。あの日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちに復活されたイエス様は現れて、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」(20:19)。断罪されて呪われても仕方ない彼らに対して、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。一言も責めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。

 イエス様は彼らにその手とわき腹をお見せになりました。手には釘の跡、わき腹には槍の跡がありました。それは確かに十字架にかけられたイエス様でした。私たちの罪のために死なれたイエス様でした。私たちの罪が赦されるために、代わりに死んでくださったイエス様でした。命を捨てるほどに愛してくださったイエス様でした。その御方が復活されたのです。弟子たちが喜んだのは、単に再会できたからではありません。そこに神の赦しがあったからです。だから悲しみは喜びに変わるのです。どんなに重い罪を負った悲しみであっても、喜びに変わるのです。

わたしの名によって願いなさい
 それは赦された人としてイエス様と共にある喜びです。赦された人として神と共にある喜びです。もう下を向いていなくてよいのです。顔を伏せていなくてよいのです。あのアダムとエヴァがしたように、園の木の間にかくれていなくてよいのです。顔を背けている必要はないのです。顔を上げることができる。イエス様がまっすぐに父なる神を見上げ、信頼の交わりに生きられたように、その交わりの中に私たちも身を置いて生きることができるのです。

 そのように神との交わりから来る喜びを、何ものも奪うことはできません。なぜなら誰も神を奪うことはできないからです。神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。主は言われました。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。最終的には「死」さえも、その喜びを奪うことはできない。死によって神から引き離されることはないからです。

 そのように、イエス様が言っておられる喜びは神と共にある喜びです。ですから、主は続けて祈りについて話をされるのです。主は言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23‐24節)。

 神様と共にある喜びをこの世において味わい知る具体的な場面は祈りの時です。御子なるイエス様がそのお働きをした時のように、父に願い、そして父が答えてくださって、神様の栄光が現れる。その喜びを私たちもまた味わうことができるのです。

 それはひとえに十字架にかかってくださったイエス様がよみがえられたからです。私たちが祈ることができるとするならば、それは十字架にかかられたイエス様の御名が与えられているからです。イエス様が「わたしの名によって願いなさい」と言ってくださったからです。

 イエス様の御名によって祈る祈りにおいて、私たちは喜びで満たされます。この世から得た喜びは人によって奪われるかもしれませんが、イエス様が与えてくださった喜び、神と共にある喜び、この世においては祈ることによって与えられる喜びが奪われることはありません。なぜなら人は全ての自由を奪われても、祈ることはできるからです。

 そして、その喜びは永遠です。死を越えた喜びです。やがて永遠の御国において、その全てを味わうことになるでしょう。その時、主が言われたことを本当の意味で理解することになるのでしょう。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と主が言われたその意味を。

2014年5月18日日曜日

「わたしにつながっていなさい」

2014年5月18日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章1節~11節


人を見ないで、イエス様を見なさい?
 私はキリスト者である両親のもとに生まれ育ちました。母の胎にいる時から教会に通っていたとも言えます。幼い頃から教会の中を走り回って育ちました。教会に集まる大人たちの姿を見て大きくなりました。そのような私が中学生から高校生になった頃、教会の人たちからしばしば聞かされた言葉がありました。「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。

 教会に行ったことのない人の中には、教会を天使のような人たちの集まりだと思っている人もいるようですが、教会の中を駆け回って育った子どもはそうは思っていません。中学生ぐらいになれば分かります。教会は必ずしも天使の集まりではない。むしろ天使から相当遠い人もけっこういたりする。分かっているのです。ですから教会の大人たちが口にする「人を見ないで、イエス様を見なさい」という言葉が大嫌いでした。どう聞いても言い訳にしか聞こえませんでしたから。「人を見てつまずいてはいけないよ」なんて言う前に、見られて大丈夫な人になるべきでしょう。「人を見ないで」なんて言わないで、まず皆さんが見られて大丈夫な人になってくださいよ。そんなことを心の中でつぶやいていたものです。

 それは生意気盛りな年頃の私が、自分自身いいかげんな生活をしていることを棚に上げて言っていたことなので、今考えるとお恥ずかしい限りなのですが、ある意味では正しいことを言っていたと思うのです。キリストを信じる信仰は生活において目に見える形を取るのであって、それを次の世代に見せることができることは大事なことなのです。パウロは言っています。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(フィリピ3:17)。少なくともパウロは「人を見てはいけないよ」などとは言いません。

 しかし、もう一方において「イエス様を見なさい」と言うこと自体は正しいことです。それは今日の福音書朗読からも分かります。イエス様は言われるのです。「わたしにつながっていなさい」(4節)。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

内実が問われる時
 今日お読みしたのは、最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。実は、最後の晩餐におけるイエス様の言葉は14章で一旦終わっているのです。「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っていますから。にもかかわらず15章にはこの「ぶどうの木のたとえ」が続きます。この話はヨハネによる福音書にしか出てきません。話の流れとしては不自然ですけれど、ヨハネとしては、やはりどうしても書かずにはいられなかったのでしょう。イエス様につながることが、どれほど大事なことかを知るゆえに。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中では一番最後に書かれたものです。紀元一世紀も終わり頃に書かれたと言われます。つまり教会が誕生してから既に60年ほどの時を経ているのです。この間に、聖霊降臨から始まった教会の爆発的な伝道の働きによって、特にパウロによる三回の伝道旅行によって、ローマ帝国におけるかなり広い地域に福音が宣べ伝えられ、教会の基礎が据えられていきました。さらにこの間に、教会の秩序、職制なども次第に整えられていったことを新約聖書の多くの書簡から読み取ることができます。教会は確かに成長していきました。

 しかし、その一方で教会にはその初期から分裂や争いがありました。間違った教えによる混乱もありました。教会が誕生して60年も経てば、イエス様の直弟子たち、復活したイエス様にお会いした人たちのほとんどはもう生きてはいません。第一世代を失う中で教会の様々な営みにおける形骸化も起こってきたことでしょう。初期にはなかったような指導者たちの腐敗や堕落も起こってきたことでしょう。そしてさらに、そこには迫害もありました。ヨハネによる福音書が書かれた頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。それはユダヤ人の迫害の対象となることを意味しただけでなく、ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象となることをも意味していました。教会は大きな試練に直面することになりました。教会は大きく揺さぶられることとなりました。そのような中で教会を去って行く人々も少なからずいたのです。

 そのように考えますと、ヨハネによる福音書が書かれた頃は、まさにキリスト者がキリスト者であることの内実を問われた時代でもあったと言えるでしょう。教会に集う人たちが、いったい何につながっているのか、いったい誰につながっているのかを問われる時代でもあったのです。だからこそヨハネは書いたのです。イエス様あの時、十字架にかかられる直前、最後の晩餐の席においてこう言われたではないか。「わたしにつながっていなさい」と。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

主につながるために
 そこで私たちは改めて、これが最後の晩餐におけるイエス様の言葉であることを意識しなくてはなりません。最後の晩餐と言えば、すぐに思い起こされるのは聖餐式でしょう。聖餐式の時には、最後の晩餐においてイエス様がなさったことと語られたことがいつも読み上げられます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:23‐26)。

 私たちの行っている聖餐式、さらには聖餐卓を中心において行っている礼拝は、この主の制定の言葉に基づいて行っているのです。代々の教会は、この主の言葉に基づいて、パンを裂き、杯を飲んできたのです。しかし、ヨハネによる福音書の最後の晩餐の部分を読んでみてください。このイエス様の言葉は書かれていないのです。代わりに何が書かれていますか。イエス様が弟子たちの足を洗った話です。そして、イエス様の長い説話です。

 イエス様が言われた「これはあなたがたのためのわたしの体である」という言葉は恐らく誰でも知っていた言葉なのです。しかし、ヨハネはここで、聖餐の起源となる言葉ではなく、いわばその意味を伝えようとしているのです。イエス様が語られた多くの言葉をもう一度書き記しながら、私たちが何のために集められているのかを再確認しようとしているのです。その中に今日お読みした言葉もあるのです。「わたしにつながっていなさい」と最後の晩餐の時に主は言われた。そのように、今、主は「わたしにつながっていなさい」と言って、主は聖餐卓のまわりに私たちを集めてくださるのです。主は「わたしにつながっていなさい」と言って、「主の死が告げ知らされる」場所に集めていてくださるのです。罪の赦しの十字架が語られる場所に集めていてくださるのです。

豊かな実を結ぶ
 「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。そのような言葉が言い訳として使われるならば確かにそれは間違いです。しかし、「人を見てつまずいてはいけないよ」という言葉そのものは間違ってはいません。人を見てつまずくのは、そこに信仰の実りが見られないと思えるからでしょう。しかし、実りを判断するのは私たちのすることではありません。イエス様は「わたしの父は農夫である」と言われます。実りを判断するのは農夫である父がすることです。他の枝に実が見られないからと言って、自分が幹から離れてしまうというのは、考えてみればおかしな話です。大事なことは他の人に信仰の実りを求めることではなくて、自分が実を結ぶことなのでしょう。

 ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会はどうだったのでしょう。そこには混乱もあったでしょう。堕落も見られたことでしょう。つながっているように見えながら実を結ばない、形だけになった様々な営みもあったことでしょう。教会が様々な試練によって揺さぶられる時、教会から離れて行った人たちもあったことでしょう。しかし、それらすべてについて判断するのは農夫のすることです。自分の実りについてすら、判断するのは農夫のすることであって、私たち自身のすることではありません。主はただ「わたしにつながっていなさい」と主は言っておられるのです。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と励ましていてくださるのです。

 私たちが考えなくてはならないのは他者の実りのことではありません。自分の実りのことですらありません。そうではなくて、つながっていることです。枝は自分で実を結ぶことはできないのですから。イエス様も言っておられます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と。

 「わたしにつながっていなさい」。イエス様につながっていることをひたすら求めていったらよいのです。そのためにイエス様が集めてくださっている場所を大切にしたらよいのです。福音が語られている場所を大切にしたらよいのです。主が「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」と言って分け与えてくださるパンと杯を大切にしてそれにあずかったらよいのです。実は命によって結ばれます。命が通うならば自ずと実は結ばれます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」これが私たちに与えられている主の約束です。

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