2013年12月8日日曜日

「信仰生活の試金石」

2013年12月8日 アドベント(待降節)第二主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅱ 4章1節~8節


自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の聖書箇所においてパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。

 この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めるのです。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はもう自分でしようと思っていることがある。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまうものです。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。そんなことが起こります。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いから。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのでしょう。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活がある。そんな自分の本当の姿、自分の内にある偽りがある。その偽りを明らかにする本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。テモテへの手紙にも「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そうです、実際そのような人たちは後の教会に繰り返し現れてきたのです。

 しかし、それは実はまことに不幸なことなのです。真理からどんなに耳を背けたとしても、事実は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、自分の本当の姿は変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはないのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しにあずかり、真実に神と共に生きるところにしかないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。それを伝えるのが伝道者です。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」と伝道者であるテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝道者にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑があるのです。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなるのです。しかし、もしそうなってしまうなら、伝道者は伝道者ではなく、教会も教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして伝道者は「御言葉を語る」ことに留まることができるのでしょう。どのようにして教会は御言葉を聞く教会として留まることができるのでしょう。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。この書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない聖書に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても伝道者と教会を試す試金石ともなります。伝道者が聖書を重んじなくなり、伝道者が聖書を解き明かさなくなったら要注意です。また、キリスト者が聖書に関心がなくなり、聖書以外のことを聞きたがり、伝道者がその求めに応えるようになったら要注意です。私たちは絶対にそのようなものとなってはなりません。「御言葉を語りなさい」。これは伝道者に対する至上命令であり、教会にとっては生命線なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、伝道者は御言葉を語り続けなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロは命じるのです。

 人々が受け入れようが受け入れまいが、御言葉を語らなくてはならない。それは最終的に伝道者の働きを判断するのは人間ではないからです。神御自身が判断されるのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ終末を思いつつ語っているのです。その人生全体が神の御前に明らかにされる時を念頭において語っているのです。その時に意味を持つのは、多くの人に受け入れられたか拒否されたか、賞賛されたか認められることなく終わったかではないのです。

 それは御言葉を語る側だけでなく、聞く側についても言えるでしょう。皆さんにとって信仰生活において最も大事なことはなんですか。何を思って聖書の言葉を聞いていますか。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることですか。毎日の生活に役に立つ教えを受けることですか。悩みを解決する手だてを得ることですか。もしそうならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉、あるいは巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なことは、自分にとって都合の良い言葉が語られたか、耳に心地よい言葉が語られたかということではないでしょう。そうではなくて、ひたすら神の言葉を求め、神の言葉を聞いて生きてきたかどうか、ということではありませんか。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えますが、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。そのような人にとって、生きている人に自分を誇っても意味がないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことである故に、こう書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)と。

以前の記事