2013年12月29日日曜日

「神の救いは地の果てにまで」

2013年12月29日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 49章7節~13節


 2013年最後の主日となりました。次の日曜日は来年になります。年末年始は一つの区切りです。区切りがあるということはありがたいことです。少なくともすぐる365日を振り返り、次の365日をどう生きるかを考える機会となりますから。そこで、今日は同じように一つの時代の区切りを迎えていた人々が耳にした預言者の言葉を通して私たちへの主の語りかけを聞きたいと思います。

前に進むのか、それとも留まるのか
 本日の礼拝におきましてはイザヤ書の49章が読まれました。今日お読みした箇所の背景となっている一つの区切りとはバビロニア帝国の滅亡です。ネブカドネツァル二世の時代に諸民族を次々に支配下において巨大化していったバビロニア帝国は結局のところ長くは続きませんでした。内部において反乱が繰り返され、紀元前6世紀後半には既に内側から崩壊しつつあったのです。一方において新勢力として台頭してきたのがキュロス率いるペルシア帝国でした。そして、紀元前539年にペルシア軍が都バビロンを占領することにおいて、最終的にバビロニア帝国は滅亡することとなったのです。ペルシアの時代が到来しました。

 これはバビロンに捕囚となっていたユダの人々の置かれていた境遇が大きく変化することを意味しました。というのも、ペルシアの王キュロスは被占領民族に対して非常に寛容な政策を採ったからです。彼は諸民族の文化と宗教を重んじ、また故郷への帰還と再建を許可したのです。かつてバビロニアの支配下にあった人々にとって、ペルシアの王キュロスは新しい支配者であるよりは、むしろ解放者であったのです。バビロンに捕囚となっていたユダの人々にとっても同じでした。彼らもエルサレムへの帰還と神殿の再建が許されたのです。紀元前538年のことでした。

 捕囚の民の解放。それは既に預言者が語ってきたことでした。その預言の言葉はイザヤ書40章以降に記されています。二週間前、主日礼拝においてイザヤ書40章前半が読まれました。そこにおいて「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)と語られていましたが、その慰めとは具体的には捕囚からの解放を意味したのです。神がなさろうとしていることについては、44章の終わりに至ってあからさまに語られていました。主はこう言われるのです。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」(44:28)。

 それは長い間捕囚であった人々にとっては信じ難い言葉であったに違いありません。しかし、預言者は人々が信じようが信じまいが、とにかく語り続けたのです。神の言葉こそが永遠に立つことを信じて、忍耐強く語り続けたのです。そして、歴史は動きました。キュロスはバビロンを征服し、翌年、出された勅令によって捕囚の民は解放されたのです。彼らはエルサレムに帰還することができる。再建することができるのです。

 しかし、神の恵みによって実現した捕囚からの解放を、すべての人々が喜んだわけではありませんでした。一つの区切りに立った時、人は二通りに分かれるのです。これを機に前に進む者がいる。しかし、同じところに留まる者もいるのです。

 彼らは長い間捕囚であった人々でした。異国の地の生活とはいえ、それなりに生きてきたのです。生活も成り立ってきたのです。既にその地に根ざした産業もありました。また、ダニエル書に出て来るダニエルや友人たちのように、中にはある程度高い地位に就いている人もいたのです。「何を好きこのんでバビロンを離れ、厳しい過酷な旅へと出発しなくてはならないのか。むしろ、このままでよいではないか。」そのように言う人も当然いたことでしょう。

 実際、エルサレムに帰還したからといって、そこでの生活が保障されていたわけではありません。それでもなお神を信じて一歩を踏み出すのか。それとも同じところに留まるのか。神に期待し神の御業を見るために前に進んでいくのか。それとも「今のままでいいじゃないか」と言って同じところに立ち続けるのか。彼らはその問いの前に立たされていたのです。

 彼らが直面していた問いは、ある区切りに人が立たされた時、いつも直面せざるを得ない問いなのでしょう。ここにいる私たちにとっても同じです。前に進むのか。同じところに留まるのか。2014年の365日、信仰の成長を目指して前に進むために具体的な一歩を踏み出すのか。それとも2013年の365日と同じ一年をもう一度繰り返すのか。はっきりしていることは、この繰り返しのトータルが私たちの一生だということです。一生を終える時に、今と同じところに居るつもりなのか。それとも神の御心に従って一歩でも前に進むつもりでいるのか。年の区切りに立つ私たちが問われているのはそういうことなのでしょう。

わたしの救いを地の果てまでもたらす者に
 そこで私たちが考えねばならないもう一つの大事なことがあります。私たちがどちらを選ぶかは、ただ私たち自身だけに関わっているのではない、ということです。

 今日の朗読箇所は7節からでしたが、この言葉は6節と切り離すことはできないのです。6節の終わりにはこう書かれていました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。直接的には預言者に対する言葉ですが、ただ預言者個人ではなく、これは預言者の言葉を聞いている帰還民に対する主の御心でもあるのです。主はただ彼らを帰還させようとしているだけではないのです。ただエルサレムを再建させようとしているだけではないのです。そうではなくて、解放された人々を通して、全世界に神の救いが伝えられることこそ、神が望んでおられることなのです。そのような神の大きな目的のもとにあって、7節以下の言葉は語られているのです。

 彼らについてはこう語られていました。「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君候はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が、あなたを選ばれたのを見て」(7節)。確かにそのとおりです。捕囚の民は、「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」です。

 そのような彼らエルサレムを再建するのは実に困難なことかもしれません。しかし、そこに向かうことは、ただ彼ら自身のためではないのです。そうではなくて、諸国の人々が神を知り、神を畏れ敬うようになるためなのです。「王たちは見て立ち上がり、君候はひれ伏す」とはそういうことです。もともと力ある者が大きなことを実現したとしても、そこに神のリアリティは見えてはこないでしょう。彼らが人々に侮られている捕囚の民であるからこそ、神が彼らを選び、神が彼らを通して働かれたのだということが見えてくるのです。

 主は言われました。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(8‐9節)。ここで繰り返されているのは「わたしは…あなたを」という言葉です。原文ですとより顕著です。主語はあくまでも神なのであって人間ではありません。ここに語られているのは神の御業なのです。

 しかし、その神の御業は人間が神に従い、自ら一歩を踏み出していく時に現れるのです。9節後半以下には次のように書かれていますでしょう。「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す」(9‐11節)。彼らが飢えることもなく、渇くこともないのは、「憐れみ深い方が彼らを導」いておられ、「彼らを伴って行かれる」からなのです。立ちはだかる山に道が開かれるのは、同じところに留まるのではなく、神に従って歩んでいくからこそ実現することなのです。そうです、神に従う時に人は神の御業を見るのです。

 そして、繰り返しますが、それはただ彼らのためではないのです。神は御自分の救いを「地の果てまで」もたらそうとしておられるのです。彼らは、そのような神の目的にこそ思いを向けなくてはならなかったのです。

 さて、ここにいる私たちは何を考えているのでしょう。私たちの思いはどこに向けられているのでしょう。信仰者が自分の救いのことだけを考え、教会が自分たちの救いのことだけを考えるならば、何も荒れ野に向かって旅立つ必要もないのでしょう。立ちはだかる山に向かって一歩を踏み出す必要もないのでしょう。同じところに留まってもう一年過ごしてもよいのでしょう。一生の終わりまで同じところに留まっても、自分たち救いに関してはなんら変わることはないのでしょう。

 しかし、私たちの信仰生活は自分の救いだけに関わっているのではないのです。主は御自分の救いを地の果てにまで至らせようとしておられるのです。私たちが来たる一年をどう生きるのか、どのような信仰生活を送るのか、私たちが同じところに留まっているのか、それとも神に導かれて「湧き出る水のほとり」に伴われていくのかは、この世界の救いに関わっているのです。この年末年始が単に年の区切りに留まるのではなく、私たちが信仰の一歩を踏み出す区切りとなりますように。

2013年12月22日日曜日

「最も喜ばしきこと」

2013年12月22日 クリスマス主日礼拝  (アドベント第四主日)
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章39節~56節


 今日の福音書朗読は「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉から始まっていました。マリアは急いでいました。一刻も早く会って話をしたい人がいたからです。親戚の老婦人エリサベトです。

受胎告知
 この直前には聖誕劇でお馴染みの「受胎告知」の場面が書かれています。天使ガブリエルがマリアに現れて、彼女がメシアを身ごもっていることを伝えたというくだりです。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。これが第一声でした。しかし、天使が持ってきた話は、単純に「おめでたい」話ではありませんでした。

 ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言いますが、これほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時、ヨセフと婚約していたのです。マリアはヨセフと共に幸せな家庭を築くことを夢見ていたごく普通の娘だったに違いない。しかし、そんなささやかな望みがこの天使の言葉で打ち壊されてしまいました。

 婚約している娘が身ごもるということがユダヤ人社会においてどのように受け止められるか、マリアが知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身ごもった」と言いますが、いったい誰がそんな説明を信じるでしょう。事実、今日でも信じない人の方が圧倒的に多いのですから。姦淫の罪として告発されれば有罪は免れない。仮にヨセフが告発しなかったとしても、彼との関係は終わりでしょう。しかし、その全てをマリアは受け止めたのです。彼女は言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの信仰でした。

共に信じる交わり
 しかし、マリアに不安がなかったはずはありません。恐れがなかったはずがありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛く悲しかったか知れません。そんな思いを抱えて、彼女はユダの山里へと急ぎました。エリサベトに会うために。どうしてですか。エリサベトだったら分かってくれるからです。なぜなら、エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったから。不妊の年老いた女がただ神の力によって身ごもった。彼女ならば分かってくれる。いや、それだけではありません。それ以上に大事なことがあります。そこで神のことを語り合えるということです。人生に起こっていることを神の御業として語り合える。マリアはそんなエリサベトに会うために急いだのです。

 マリアは間違ってはいませんでした。確かにエリサベトこそ、マリアが会うべき人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(40節)と書かれています。この場面は物語がかなり端折られているようにも思います。実際には「挨拶した」という言葉の中には、マリアが挨拶の言葉に次いで、これまで起こってきたこと、自分の思いなどを語ったのかもしれません。あるいは不思議なことにエリサベトには語らずして事情が分かったということかもしれません。いずれにせよ、大事なことは、深刻な事態に置かれているマリアに対してエリサベトがこう語ったということです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(42節)。

 祝福するのは神様です。神様がマリアをも胎内の子も祝福してくださっている。そのように神がなさっていることとして一緒に信じて語ってくれた、それがエリサベトでした。彼女は言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。エリサベトが見ているのはマリアが直面せざるを得ない困難ではなくて、神のご計画の方なのです。必ず実現へと向かっていく神の御業について語っているのです。そうです、それを一緒に信じて、一緒に語り合ってくれる人こそ、マリアには必要だったのです。

 このエリサベトがいたからこそ、その後にマリアの賛歌が続くのです。そこで爆発的な喜びに満たされてマリアは歌うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46‐47節)。ここで初めて、マリアの口から「喜ぶ」という言葉が出て来るのです。

 事態は何も変わってはいません。重荷が無くなったわけではありません。しかし、一緒に信じるところで、一緒に神の御業について語り合うところで、悩みが喜びに変えられていくのです。不安や恐れが讃美へと変えられていくのです。このマリアとエリサベトの二人に何が見えてきますか。そう、教会です。悩みについて語り合う場所や人はこの世にいくらでもあるかもしれません。しかし、本当に必要なのは、当たり前のように神について語り合われ、そして、共に信じることができる交わりなのです。

最も喜ばしきこと
 マリアとエリサベトの間において何が起こったのか。教会において何が起こるのか。マリアが歌っている言葉に、もう少し耳を傾けてみましょう。

 マリアは何を喜んでいるのでしょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女はこう続けるのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節)。そうです。彼女は主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜んでいるのです。だからそんな自分について「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語るのです。

 しかし、彼女が単純に自分の個人的な「幸い」を考えて喜んでいるのではないことは、このマリアの賛歌全体から明らかです。後半に入ると、まるで革命歌であるかのような言葉が続くのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(49‐53節)。つまり彼女の目は自分の小さな幸福に向けられているのではなくて、その目はこの世界に向けられているのです。

 この世界とはどういう世界ですか。ここに歌われているように、実際に「思い上がる者」が存在する世界でしょう。「思い上がる者」がひたすら権力と富を追い求めている世界です。最終的には力と金がモノを言うと考えているからです。それは世の権力者の話だと思いますか。いいえ、私たちもまた往々にして私たち自身の小さな世界において、その「思い上がる者」の一人となっているのではありませんか。

 しかし、神はそのような世界をひっくり返されるのです。それがここに歌われていることです。最終的に人間の権力や金が支配するのではなくて、神御自身が治める神の国とされるのです。最後にモノを言うのは力と金ではないことを神が明らかにされるのです。それは人間にとっては救いなのです。なぜなら「思い上がる者」がそのまま支配している世界は滅びるのであり、「思い上がる者」も滅びるからです。メシアが産まれるという知らせは、まさにこの新しい時代の幕開けを意味したのです。

 マリアはこの世界に目を向け、この世界に生きて働いておられる神、メシアを与え、救いのご計画を進めておられる神に目を向けて歌っているのです。そうすると、「目を留めてくださった」と言って喜んでいる意味も分かるでしょう。自分はこの世においては取るに足りない小さな存在かもしれない。この世においては「身分の低い」者であるかもしれない。しかし、そんなわたしにも神は目を留めてくださって、この世界におけるご計画の中で用いてくださる。わたしは主のお役に立つことができる。そのことを喜んでいるのです。メシアが産まれる。それは喜ばしきお告げです。しかし、最も喜ばしきことは、そのメシアの誕生と神の救いの計画が自分とは無関係ではないということなのです。わたしは確かに関わっている。「この主のはしためにも目を留めてくださった!」

 もし人が自分の幸・不幸だけを考えているならば、人生はまことに不可解な重荷に満ちていると言えます。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなくてはならないのか。そう言って嘆かざるを得ないのでしょう。

 しかし、そうではなくて、目をこの世に転じて、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを考え始める時、一方的に天使が運んできた重荷の意味もまた見えてくるのです。そして、既に傍らにはエリサベトが与えられているのです。当たり前のように神について語られ、そして、共に信じることができる交わりが与えられているのです。ここにおいて神に用いていただける喜びを分かち合い、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくことを豊かに味わわせていただきましょう。

2013年12月15日日曜日

「揺るぎない人生の土台」

2013年12月15日 アドベント(待降節)第三主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 40章1節~11節


草は枯れ、花はしぼむ
 今日の旧約聖書の朗読では「草は枯れ、花はしぼむ」(7節)という言葉が読まれました。旧約の預言者の言葉です。彼が見つめているのは人間です。彼はそれを「肉なる者」と呼びます。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(6節)と。その「草は枯れ、花はしぼむ」と言っているのです。

 かつて旧約の詩人はこう歌いました。「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩編90:5‐6)。彼はこのように人生のはかなさを歌います。彼は言います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(10節)。その意味で「草は枯れ、花はしぼむ」。確かにそうです。それは私たちにもわかります。

 しかし、今日お読みした箇所においてこの人は、ただ個々の人間の一生を思って語っているのではありません。彼はまた人間の営みによって成り立っている社会そのものをも見つめているのです。人間が積み上げてきたもの。人間が築き上げてきたもの。それもまた肉なるものです。それもまた「草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」なのです。彼は実際に枯れてしまったユダの王国、枯れてしまった野の花であるイスラエルを見て語っているのです。

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国は崩壊しました。エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。彼は崩壊したユダの国、捕囚となったイスラエルを思いつつ語るのです。「草は枯れ、花はしぼむ」。

 「栄枯盛衰は世の習い」と言います。私たちも良く知っています。栄える時があれば衰退する時がある。人間が築き上げていく時があり、その築き上げてきたものが崩壊することがある。それは今日の社会においても身近に起こってきたことですし、私たち自身も多かれ少なかれ経験してきていることです。

 しかし、この人は単にこの世界はそういうものなのだと言いたいのではなさそうです。「草は枯れ、花はしぼむ」と言った後、彼はこう付け加えるのです。「主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(7節)。彼はそこに「主の風」を見たのです。

 パレスチナの自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐色の野山にもどってしまうとのこと。その姿を思いながら、「主の風が吹き付けたのだ」と語る時、彼が思い描いているのは神の裁きに他なりません。言い換えるならば、人間の罪とその結果を思いながらこれを語っているのだということです。

 私たちは往々にしてこの世界についても個人の人生についても、表に現れていることにしか目がいかないものです。栄えたものが衰退する。築き上げてきたものが崩壊する。それを単に災いや不幸としか考えない。しかし、彼はただ表に現れている枯れ草のような姿やしぼんだ花のようなありさまに目を向けていたのではないのです。さらに深いところ、それをもたらした本質的な問題、人間の罪に目を向けていたのです。神に背いているという現実、神に背き続けている現実を見ていたのです。(実は先ほど引用した詩編90編も同じなのです。詩人はただ人間のはかなさを「世の常」として歌っていたのではありません。「あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます」と歌っているのです。)

 そのような意味において、聖書は「草は枯れ、花はしぼむ」と語るのです。それが預言者の見ていた世界であり、それが私たちの見ている世界です。そこで確かに人は、「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れない。現実と正直に向き合うならば「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れないのです。

 しかし、「人」がもはやそこまでしか語り得ないところに、「神」が語られることがあるのです。人間の言葉が終わるところに、神の言葉はあるのです。それゆえに、預言者はもう一度「草は枯れ、花はしぼむ」と繰り返した後、こう続けるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

 そうです、とこしえに立つのは、永遠であるのは、人間が語ることではなくて、神が語ることなのです。では、神は何を語られるのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ」としか言えない人間の現実に対して、何を語られるのでしょう。枯れ草としぼんだ花を目にしていた預言者が聞いたのはこのような言葉でした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。本日朗読された言葉です。

見よ、あなたたちの神
 「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(1節)。「慰める」とは、単に悲しみを和らげることではありません。これは励まし力づけることを意味します。励まし力づけるのは立ち上がらせるためです。希望のない者たちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って起き上がるためです。

 神がそのことを望んでいてくださる。しかも、神は「《わたしの民を》慰めよ」と言ってくださったのです。そうです、神は御自分に背き続け、ついに枯れ草のようになった人々を、いまだに「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は今もなお「あなたたちの神」だと言ってくださるのです。そのように神は憐れんでくださる。神は赦してくださる。だから「草は枯れ、花はしぼむ」で終わりではないのです。

 さらに天からの声はこう続きます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐4節)。勝利を得た王が凱旋する時のように広い道を整える。それは神が来てくださるからです。

 ですから9節にはこう書かれているのです。「見よ、あなたたちの神」。神に背いて枯れてしまった枯れ草が、神に背いてしぼんでしまった花が、そこから「わたしの神、わたしたちの神」として神を見上げることができる。神が来てくださるから。こう書かれています。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(9‐10節)。

 神が来られる。力を帯びて来られる。その力は滅ぼすための力ではありません。なぜなら、その神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言ってくださる神だから。神は救うために来てくださるのです。そして、恵みをもって治めるために来てくださるのです。人はこの神のもとに生きることができるのです。

 そこで人はもはや朽ちていくだけの枯れ草ではありません。まったく異なる描写がそこにあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11節)。そこで人はもはや望みなき者として生きる必要はありません。人はもはや見捨てられた者のように生きる必要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているのです。主に導かれる母羊、主のふところに抱かれる小羊として生きることが許されているのです。

 このように、救いをもたらす神の支配の到来――これこそ、人間がもはや何も語り得ないところでなお神が語られることなのです。とこしえに立つ神の言葉がそこにあるのです。

力を帯びて来られた神
 さて、本日の福音書朗読においては、マルコによる福音書の冒頭の言葉が読まれました。そこにはこう書かれていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1‐4)。

 ここで再び私たちはあの預言者が聞いた言葉を耳にすることになります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主の道を整えるのは何のため。神の支配が到来するためです。そのようにして来られた御方、それがイエス・キリストに他ならないのです。

 しかし、かつて「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたあの言葉は本当に実現したのでしょうか。この世界が見たのは、およそこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。その御方は、この世の権力によって十字架にかけられ殺されてしまったではありませんか。そのようなキリストの内に《力を帯びて来られた神》を見ることができるのでしょうか。

 そうです。その御方において確かに神の支配が到来したと聖書は語るのです。確かに神は統治するために来られたのです。この世の権力や武力の支配とは全く違う支配として。それは当然のことでしょう。神の支配が人間の支配と同じであろうはずがありません。そもそも権力や武力は人の心まで支配することはできないのです。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配するのは、真の力によるのです。それは愛の力です。神の愛の力です。

 ナザレのイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架とキリストの復活において完全に現されたのです。そして、その御力をもって、主は統治されるのです。実際、私たちは主の御支配のもとにいるではありませんか。私たちは主のものとされているではありませんか。私たちは確かにその愛の支配のもとにいるのです。


 主の風が吹き付けるならば滅びるしかないこの世界に私たちは生きています。私たちは、主の風が吹くならば滅びるしかない「肉なる者」に過ぎません。しかし、そこにおいてもはや「草は枯れ、花はしぼむ」としか語り得ない私たちに、神は永遠に揺らぐことのない救いの言葉を与えてくださいました。この上に教会は立っているのです。そして、私たちの人生もまたその上に据えられているのです。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。アーメン。

2013年12月8日日曜日

「信仰生活の試金石」

2013年12月8日 アドベント(待降節)第二主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅱ 4章1節~8節


自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の聖書箇所においてパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。

 この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めるのです。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はもう自分でしようと思っていることがある。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまうものです。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。そんなことが起こります。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いから。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのでしょう。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活がある。そんな自分の本当の姿、自分の内にある偽りがある。その偽りを明らかにする本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。テモテへの手紙にも「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そうです、実際そのような人たちは後の教会に繰り返し現れてきたのです。

 しかし、それは実はまことに不幸なことなのです。真理からどんなに耳を背けたとしても、事実は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、自分の本当の姿は変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはないのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しにあずかり、真実に神と共に生きるところにしかないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。それを伝えるのが伝道者です。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」と伝道者であるテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝道者にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑があるのです。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなるのです。しかし、もしそうなってしまうなら、伝道者は伝道者ではなく、教会も教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして伝道者は「御言葉を語る」ことに留まることができるのでしょう。どのようにして教会は御言葉を聞く教会として留まることができるのでしょう。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。この書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない聖書に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても伝道者と教会を試す試金石ともなります。伝道者が聖書を重んじなくなり、伝道者が聖書を解き明かさなくなったら要注意です。また、キリスト者が聖書に関心がなくなり、聖書以外のことを聞きたがり、伝道者がその求めに応えるようになったら要注意です。私たちは絶対にそのようなものとなってはなりません。「御言葉を語りなさい」。これは伝道者に対する至上命令であり、教会にとっては生命線なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、伝道者は御言葉を語り続けなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロは命じるのです。

 人々が受け入れようが受け入れまいが、御言葉を語らなくてはならない。それは最終的に伝道者の働きを判断するのは人間ではないからです。神御自身が判断されるのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ終末を思いつつ語っているのです。その人生全体が神の御前に明らかにされる時を念頭において語っているのです。その時に意味を持つのは、多くの人に受け入れられたか拒否されたか、賞賛されたか認められることなく終わったかではないのです。

 それは御言葉を語る側だけでなく、聞く側についても言えるでしょう。皆さんにとって信仰生活において最も大事なことはなんですか。何を思って聖書の言葉を聞いていますか。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることですか。毎日の生活に役に立つ教えを受けることですか。悩みを解決する手だてを得ることですか。もしそうならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉、あるいは巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なことは、自分にとって都合の良い言葉が語られたか、耳に心地よい言葉が語られたかということではないでしょう。そうではなくて、ひたすら神の言葉を求め、神の言葉を聞いて生きてきたかどうか、ということではありませんか。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えますが、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。そのような人にとって、生きている人に自分を誇っても意味がないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことである故に、こう書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)と。

2013年12月1日日曜日

「信仰と愛と希望を身に着ける」

2013年12月1日 アドベント(待降節)第一主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章1節~11節


終わりを見つめつつ現在を思う
 今週からアドベントに入ります。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間であると言えるでしょう。

 ところで、私たちが使う「終わり」という言葉は二通りの意味合いを持ち得ます。完成としての「終わり」がある。しかし、破局としての「終わり」もある。例えば、入学試験を考えてみてください。一つの達成として試験を終えた者が「終わった!」と叫ぶのと、まったく手が着かない白紙の答案を前にして「終わった...」と呟くのでは「終わり」の意味合いが全く違います。

 同じことが、一回の試験よりももっと大事な、人生の終末についても言えます。さらにはこの世の終末についても言えます。そして、明らかなことは、どちらの意味で「終わり」を迎えるかということは「現在」と深く関わっているということです。それゆえに「終わり」を見つめつつ「現在」を思う。それがアドベントと呼ばれるこの期間の大事な意味なのです。

身を慎んでいましょう
 そこでアドベントの最初の主日に読まれたのは次のような言葉でした。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1‐2節)。

 福音書においてもイエス様がこう言っておられました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13:32‐33)。

 「その日、その時はだれも知らない」。「子も知らない」。イエス様も知らない。しかし、もしイエス様が知っていたとしても教えなかったに違いありません。なぜなら、イエス様が一番おっしゃりたいのは「目を覚ましていなさい」ということだからです。それは「現在」に関することです。終わりの日を特定したならば、人が問題とするのは「その日」でしょう。しかし、その日が教えられていなければ、常に「現在」が問題となります。それこそが主の意図するところなのです。

 ですから、今日お読みしたパウロの手紙でもこう書かれています。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(6節)。ここには「目を覚ます」という言葉と共に「身を慎む」という言葉が出てきます。これは酔っていないこと、しらふであることを意味する言葉です。と言いましても、これは禁酒の勧めではありません。酔っていないということは、要するに「現実逃避をしない」ということです。これもまた「現在」に関わることです。

 もちろん、多くの人は現実逃避をしないで真面目に現実と向き合って生活しているのでしょう。しかし、パウロが言っているのはそのような次元のことではないのです。「終わりを見つめつつ現在を思う」と先ほど申しましたが、これこそ本当の意味で現実的になることなのです。なぜなら「終わり」が必ず来るというのが「現実」だからです。私たちの人生の終わりが先に来るのか、世の終わりが先に来るのかは分かりません。しかし、終わりは必ず来る。その終わりを考えずに生きることは、聖書の観点から言えば現実逃避なのであって、それは酔っているのと変わらないのです。信仰生活とは本当の意味で現実的に生きる生活です。

 私たちが日常生活を中断してここに集まっているのも、現実逃避のためではありません。むしろ終わりが来ないかのように生活している日常から引き出されて、現実の中に正しく据え直される時間なのです。来るべき終わりは2節において「主の日」と表現されていました。それは「キリストの再臨」として語られていますように、それは主の御前に立つ日なのです。私たちはやがて主の御前に立つ者として、その時を思いつつ、今、ここにおいて主に向かい、礼拝しているのです。

 最終的に主の御前に立つということは、本来は恐ろしいことであるはずです。なぜなら、主の御前に出るということは、主の裁きの前に出るということに他ならないからです。それは私たちがどれほど神を侮り、主に背いてきたかが明らかになるということでもあるのです。しかし、それにもかかわらず、私たちは今こうして喜びをもって神を讃美し、安心して祈ることができる。なぜですか。それは私たちに伝えられていることがあるからです。伝えられている良き知らせがあるからなのです。今日の箇所にも書かれていました。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(9節)。そのことを私たちは既に知らされているのです。

 「主イエス・キリストによる救いにあずからせる」ために、神はキリストを死に渡されました。10節には、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と書かれています。つまり、キリストの再臨のとき「目覚めていても眠っていても」すなわち、生きていても死んでいても、私たちが主と共に生きることを、神は望んでくださったのです。そのようにして、「主の日」を恐るべき時ではなく、喜びをもって待ち望むべき時としてくださったのです。5節にあるように、「光の子、昼の子」としていただいたとは、そういうことです。

信仰と愛と希望
 ならば、私たちはこの恵みを無駄にしてはならないのです。私たちは、「昼の子」として、昼に属する者として生きることが求められているのです。それゆえにこう語られているのです。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。これらを武具のように身に着けなさい。かぶりなさいと言うのです。実は「信仰」と「愛」と「希望」がセットで出て来るのはこの手紙において初めてではありません。一章にも次のような表現において出てきます。

 「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(1:2‐3)。

 そこでは「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」ということばが結びつけられています。そのように「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではなく、具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。

 第一に、「信仰によって働き」と書かれていることについて考えてみましょう。これは直訳すれば「信仰の行い」です。「信仰」と「行い」が結び付けられているのです。

 私たちは確かに聖書が次のように語っているのを知っています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。そのように、私たちは自分の行いによって救われるのではありません。救いは一方的な神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、救いが一方的な恵みによるゆえに、その救いにあずかった者の内には、感謝の応答として行いが生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。

 この世の原理はギブ・アンド・テイクです。信仰によらなければ、人に対しても神に対しても常に行いに対する報いを求めているのが人間です。そして、報われれば自分の行いを誇っては高ぶり、報われなければ腹を立てたり嘆いたり――そんなことを繰り返している私たちです。しかし、そのようなギブ・アンド・テイクを前提にした行いではなくて、純粋に神への感謝から生まれる「信仰の行い」こそ私たちの人生を形作り、教会を形作るものとなることを主は望んでおられるのでしょう。それこそが、信仰によって救われた者が信仰を身に着けるということなのです。

 第二は「愛のために労苦し」。直訳すれば「愛の労苦」です。愛するということは、単に好きになることではありません。この世のラヴソングでは"I Love You. I Want You"と続きますが、ここで語られている「愛」とは自分のために誰かを求めることではありません。誰かのための自分になることです。ですから、愛するということは時として、誰かのために労苦すること、労苦を引き受けることでもあるのです。

 さらに言うならば、この手紙において「労苦」と言われる時、それはすべて福音を伝える労苦を指しているのです。私たちが今ここにいるのは、誰かが労苦してくれたからでしょう。世々の人々が時には命がけで労苦して福音を伝えてくれたからでしょう。その源には、キリストの労苦があり神の労苦があります。私たちは神と人との愛の労苦のゆえに今ここにいるのです。その愛の労苦に応えて私たちが愛する者となっていくこと、特に福音を伝えるために労苦する者となっていくこと。それこそが愛を身に着けることなのです。

 そして、最後は「希望を持って忍耐している」と語られていることについて。直訳は「希望の忍耐」です。これもまた味わい深い言葉です。

 「忍耐」について語られているのは苦しみがあるからでしょう。この世においては苦しみがある。それは信仰者においても同じです。いや、迫害の時代には、信仰のゆえにより大きな苦しみの中に置かれることもあったのでしょう。 私たちも良く知っているように、苦しみは人を神から引き離す力として働きます。その意味で試練は誘惑ともなります。そこで必要なのは信仰に留まる忍耐です。

 その忍耐はどこから来るのか。それは「希望」なのです。希望こそ苦しみに打ち勝つ力となるのです。特に5章においては「救いの希望」と書かれていました。終わりを見つめつつ現在を思う――その「終わり」には完全な救いがあるのです。そこから目を離さない。救いの希望を絶対に手放さない。それが「救いの希望を兜としてかぶる」ということです。


 そのように、「信仰」と「愛」と「希望」を身に着けるように勧められているのは、既に与えられているからです。与えられていないものを身に着けることはできませんから。既に与えられているものを、私たちは信仰生活において本当の意味で自分のものにしていくのです。そこで重要なのは次の勧めです。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(11節)。私たちはそのような「お互い」としてここに集められているのです。

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