2013年11月24日日曜日

「人間にできなくても神にはできる」

2013年11月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章17節~31節


何をすればよいのでしょうか
 イエス様は弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうしてイエス様がこんなことを言われたのかは、今日朗読された話の流れから明らかでしょう。その直前に、財産のある人とイエス様が話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めてイエス様のもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼は多くの財産を持っている人でした。しかし、自分が生きて最終的に残るのがこの世の財産しかないならば、それは実に空しいことだと分かっていたのでしょう。彼が求めたのは死をもっても失われないもの、世の終わりにおいても失われないものでした。最終的な神の救い、神の国、永遠の命。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。その問いを持って彼はやってきた。それは彼の人生をかけた切実なる問いだったのです。

 「何をすればよいのでしょうか」。そうです。彼はこれまで自分にできることをやってきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。イエス様が「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えたのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」子供の時から守ってきた。何のためですか。神の救いを得るためです。永遠の命を受け継ぐためです。しかし、彼にはそれで十分だとは思えませんでした。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。

 イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。このイエス様の言葉は救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明します。そこでイエス様は弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

財産のある者が神の国に入るのは
 厳密に言いますと、この「財産」という言葉と22節の「財産」とは元の言葉が異なります。「財産のある者が」とイエス様が言われた時の「財産」は、もともとは「使う」という言葉に由来します。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは要するに必要に応じて使うことができるものをたくさん持っていたということです。欲しいものがあれば、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと。だから彼は子供の時から律法を守ってきたのです。それは永遠の命を得るために「使えるもの」だったからです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。22節のいわゆる「財産」の他、幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い。これもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうと思っていたのです。彼がそうしたがっているので、イエス様はそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいと思っているなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。そこで彼は悲しみながら去らざるを得なくなりました。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです人間にはそれができると考えていたことです。

人間にできなくても神にはできる
 今日の説教題は「人間にできなくても神にはできる」です。これは27節のイエス様の言葉から取りました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。

 「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。イエス様がこう言われたのは弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということでしょう。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。本当に「神にはできる」に行き着くのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時なのです。ですからイエス様は別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能をどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神は救い主をお遣わしくださいました。神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を赦して永遠お命を与えることがおできになります。神は罪人を救うことができるのです。そうです、神にはそれができる。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られたイエス様は、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

わたしのためまた福音のため
 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」とイエス様が言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 当然考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。イエス様が単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が今度はペトロが「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、こう続けられています。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 イエス様はペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 イエス様は「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。イエス様の故にとはどういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れだったのです。私たちを救うことができる神の一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。そのイエス様のためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。主はご存じなのです。しかし、彼らは救いを得るために犠牲を払う必要はないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。救いはただ神によるのです。これらはただ神の一方的な恵みによって罪を赦され救われたことへの応答として出てくることなのです。「イエスのために福音のために」。それに対して、イエス様はこう言われました。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく恵みに応えて行ったことが結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、それは「神にはできる」と言って救いを成就してくださった神の恵みへの応答として行うのです。ならば大事なことは恵みを知ることなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。わずかなものを手放しても、いつまでも惜しんでいるようなことが起こります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」はそこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」。

2013年11月17日日曜日

「人に惑わされないように」

2013年11月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 13章5節~13節


未来を知りたいですか
 「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。そうイエス様は言われました。これは弟子たちの問いに対する答えでした。弟子たちはこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。弟子たち問うているのは「いつ起こるのか」という「時」です。あるいは正確な「時」が分からないとしても、近づいているという「前兆」は知りたい。だから「どんな徴があるのですか」と聞いているのです。それに対してイエス様は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 「いつ起こるのか」という「時」を知りたい。あるいはせめて「前兆」を知りたい。これは要するに「未来を知りたい」ということでしょう。正確にではなくても、ある程度予測できたり見通しが立てられるようになっていたいということでしょう。それは私たちにも分かります。そのような思いは多かれ少なかれ持っていますから。特に将来に不安を抱いている時にはなおさらです。何か恐ろしいことが起こることが予想される時には、未来を知りたくなるものです。

 弟子たちが問うたのは、確かにイエス様が未来に起こる恐るべきことを語られたからでした。それは何か。神殿の崩壊です。弟子たちがエルサレムの神殿を見て感嘆の声を上げた時、イエス様はこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。重なって残る石が全くないほどに徹底的に破壊されるということです。

 普通に見れば、永遠に残ると思えるような建造物です。しかし、崩れるはずがないと思えるものが、実際には崩壊することがある。それがこの世の現実です。イエス様が言われるならば、それは起こりえることだと弟子たちも思ったのでしょう。弟子たちは神殿の終わりだけでなく、世の終わりを考えていたのかもしれません。しかし、世の終わりでなくても、確かに見えるものの崩壊は起こる。実際、彼らが目にしていた神殿は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。この世に確かに残ると言い得るものは何一つありません。

 それは私たちもまた知っています。絶対的な権力によって支配されていた国家の体制が崩壊することがある。それは過去三年の間、北アフリカと中東に見てきたことです。絶対に倒れるように見えない大企業が崩壊することもある。これは過去20年の間にこの国において見せられてきたことです。絶対に安全であると思っていた社会の制度が崩壊することもある。あるいは家庭の崩壊ということも起こり得る。信頼していた人間関係が崩壊することも起こり得る。大きな挫折によって揺るぎない自信が見るも無惨に崩壊してしまうこともある。健康だけが取り柄ですという人の、その健康が崩れてしまうこともある。この世に確かに残ると言い得るものは何一つありません。

 ですから将来が不安になります。人は未来を知りたいと思うのです。先のことが知りたい。あるいはせめて前兆を知って、ある程度予測できるようになりたいと思うのです。しかし、本当は未来を知ることよりも、先の予測ができるようになることよりも、もっと大事なことがあるのです。だからイエス様は弟子たちの問いにそのまま答えられなかったのです。そんなことよりも、もっと大事なことがある。主は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではないのです。そうではなくて、いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。不安だから未来を知りたくなる。しかし、いつ何が起こるかを問題にしている限り不安はなくなりません。問題にしなくてはならないのは、私たち自身のことなのです。

 そこで今日は、特に私たち自身に関わる三つの言葉を心に留めたいと思います。「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。「慌ててはいけない」(7節)。そして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。

人に惑わされないように
 主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。どうしてか。主はこう続けます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(6節)。

 崩れるはずがないと思えるものが崩壊していく時、あるいはそのようなことが起こるのではないかと人々が不安に駆られる時、そこに様々な形において偽のメシアが現れてくるのです。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたようにです。「こっちに来なさい。こちらに救いがあるよ」と言って手招きするのです。

 あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす者が現れる。「わたしがそれだ」というのはユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。そして、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離してしまうのです。実際、恐れに駆られると人間は何にでも考えなしに飛びつきたくなるものでしょう。

 だから主は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。人に惑わされないためには、神ならぬ誰かに惑わされないためには、自らがしっかりと神に向いて生きているということが大事なのです。そのような生活がしっかりと形作られていることが大事なのです。いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てしまうものですから。今、もし平穏無事であり安定の中にいるとするならば、いざという時にではなく、今この時、神に向き神を礼拝して生きる生活を大切にすることです。そうすれば未来に何が起ころうとも、神に向く生活が変わらずそこに残るのです。

慌ててはいけない
 そして、さらに主は言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)。さらにイエス様はこうも言っておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)。戦争だけではありません。地震や飢饉についても語っておられます。そのような具体的な災いがこの世界には起こり得ますし、私たちの人生にも及ぶことがあり得る。他の人に起こったことは我が身にも起こりえることを知っています。それは恐ろしいことです。しかし、主は「慌ててはいけない」と言われる。これは「恐れるな」という言葉でもあります。

 主は「恐れるな」と言われる。どうしてか。イエス様は言われるのです。「まだ世の終わりではない」。原文では「世の終わり」とは書いてありません。ただ「まだ終わりではない」と書かれているのです。もちろん「世の終わり」のことが言われているのでしょうが、大事なことは「世の終わり」のことはさておき、「まだ終わりではない」ということなのです。

 どんなに恐るべきことが起こったとしても、大事なことは「まだ終わりではない」という意識です。「ああ、もう終わりだ」と思えるようなことも人生にはあるのでしょう。しかし、主は言われるのです。「まだ終わりではない」と。終わりではなかったら、まだ途中経過なのです。その先があるのです。その途中経過を見て、恐れたり慌てたりしてはならないのです。

 その途中経過をイエス様は「産みの苦しみ」と表現しました。「産みの苦しみ」をわたしは経験していません。しかし、相当苦しいのだろうということは分かります。しかし、私たちは良く知っているのです。産みの苦しみは最終的な苦しみではないということ。それは途中経過なのでしょう。大きな喜びへと向かう途中の苦しみなのでしょう。

 さらに言うならば、イエス様はそれを「産みの苦しみの始まりである」と表現しました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。「悪い方向に向かっている」ように見えることは私たちの周りにも私たちの人生にもあるではありませんか。しかし、産みの苦しみについては、そうは言いません。産婦は陣痛が大きくなってきたときに、「ああ、私の状態は悪くなっているのだ」と言って絶望することはないでしょう。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。大きな喜びの時が刻一刻と近づいていることを知っているからです。それが産みの苦しみです。だから主は言われるのです。慌てるな。恐れるな、と。

自分自身に目を向けなさい
 そして、さらに主は言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。「気をつける」という言葉は前にも出てきましたが、もともとの意味は「見る」という言葉なのです。目を向けることです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とは、「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」ということでもあるのです。

 ここにおいて語られているのは迫害についてです。主はこう続けます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。会堂で打ちたたかれるとするならば、打ちたたくのは人間です。迫害というものは直接的に人間から与えられる苦しみです。苦しみが人間から来る時には、どうしても直接的に苦しみを与える人間に目が行ってしまうものでしょう。しかし、主は言われるのです。「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」。

 人に目を向けるならば、その人の憎しみや敵意が見えてくる。その人が自分に何をしたかが見えてくる。しかし、自分自身に目を向けるならば、そこで自分が為すべきことが見えてくるのです。何のためにそこに立たされているのか。証しをするためです。主は言われるのです。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)。

 今日、キリスト者であるゆえに迫害されることは皆無とは言えないにせよ、この国に生きる私たちにおいてはそれほど多くはないでしょう。しかし、人から苦しめられることはいくらでもあるに違いありません。不当な苦しみを強いられることはあるでしょう。しかし、見なくてはならないのは彼らではないのです。自分自身なのです。そこで為すべきことは何か。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と主は言われるのです。

 神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださった。神は私たちをそれほどに愛していてくださる。私たちを愛していてくださる神は、私たちの罪を赦し、私たちを必ず救ってくださる。産みの苦しみの向こうに命に満ちた大きな喜びを神は備えていてくださる。そのことを知っている私たちが、希望に満たされて福音を告げ知らせなくてはならないのです。

 さらに言うならば、その主体は私たち自身ではなく神の霊なのです。神が私たちを用いてくださるのです。主は言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。私たちが自分自身に目を向けるなら、どのような状況に置かれたとしても、そこで神が御自分の愛を現すために用いようとしている《わたし》そして《私たち》が見えてくるのです。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではありません。いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。

2013年11月10日日曜日

「あなたの神、主を愛しなさい」

2013年11月10日 子ども祝福礼拝説教
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 申命記 6章4節~9節


あなたの神、主を愛しなさい
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(4‐5節)。

 これはモーセの言葉です。モーセの遺言と言ってもよい。なぜなら、モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。一方、イスラエルは、いよいよヨルダンを渡り、約束の地に入ろうとしていました。去りゆくモーセは、これまでの四十年に渡る荒れ野の旅を振り返りながら、切々とイスラエルに語り聞かせるのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。

 「あなたの神、主を愛しなさい」。それは何を意味するのか。そこに至るまでの四十年の荒れ野の旅を思い起こす時に見えてきます。どのような旅であったかは民数記に詳細に描かれていますが、ここではモーセ自身の言葉に耳を傾けてみましょう。約束の地に入ろうとしている人々に次のように語っているのです。

 「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」(9:6‐7)。

 そのように背き続けてきた民が、約束の地を与えてくださるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。彼らは主を愛してはこなかったのです。そうではなくて、主が彼らを愛して来られたのです。その神によって、神の恵みによって、約束の地における新しい生活が与えられるのです。そこで改めて語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。ならばそれは、立ち帰るべき御方に立ち帰って、恵みに応えて生きるということに他なりません。

 しかし、私たちはもう一つのことを考えておく必要があります。話は約束の地を得たところで終わらないということです。私たちは申命記を読んでおりますが、イスラエルの歴史の物語はさらに続くのです。

 ヨシュア記から列王記へと向かう歴史物語は何を伝えているのでしょう。約束の地を得たイスラエルは、やがてそこにおいて王国を形成することになります。しかし、その王国は南北に分裂し、やがて北王国が滅び、南王国も滅んでいくのです。南のユダ王国は滅亡し、主だった人々はバビロンに連れ去られることになる。そこで列王記は終わります。つまりイスラエルは約束の地を与えられたのですが、先に四十年の荒れ野の旅を振り返ってモーセが語ったのと同じように、イスラエルは約束の地においても主に背き続けて、最終的に約束の地を失うことになるのです。

 私たちが読んでいる申命記が今の形にまとめられたのは、そのような時代においてです。そのように約束の地を失った時代に、人々は改めてモーセの説教を聞くことになりました。そこにおいて人々はもう一度聞くことになったのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 ならばそれは何を意味しますか。もう終わりだ、おしまいだ、と思えるようなところにおいて、なお語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。すべてを失ってしまったと思えるようなところにおいて、なお語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。ならば何を意味しますか。終わっていないということでしょう。すべてを失ってなどいないということでしょう。そこには残されているのです。立ち帰るべき御方が残されているのです。愛すべき御方が残されているのです。そうです、そこから主を愛して生きたらよいのです。

 今日は申命記6章をお読みしていますが、30章には次のような言葉が出てきます。 「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(30:1‐3)。さらにこう書かれています。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(30:6)。

 そのとおりに神様は彼らにされたのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。そのようにしてくださった。主は彼らにもう一度語ってくださったのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。だからこそ、今このような形で申命記が残っているのです。

 それは遠い昔の話ではありません。失って初めて気づく。そのようなことが確かに私たちにもあります。神によって恵みとして与えられていた生活が、恵みであると分からない。だから神様に背を向けて、神様に逆らって、神ならぬものを追い求めて、恵みを与えてくださっていた御方をないがしろにしてしまうのです。そのようにして恵みとして与えられていたものを失って初めて気がつくのです。ああ、恵みだったのだ、と。私たちは本当に愚かなものですから、そんなことを繰り返しているのでしょう。あのイスラエルの民のように。

 しかし、そこでなお人は神の呼び声を聞くのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。なぜなら神の愛は失われていないからです。神がそのような神であるからこそ、最終的には独り子をさえ惜しまずに世に与えられたのでしょう。神は御子を十字架にかけることさえなさったのです。御子を私たちの罪の贖いとして、私たちの罪を赦して、私たちが生きられるようにしてくださったのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と申命記に書かれていたように、そのように主を愛して生きられるようにしてくださったのです。だからこそ、私たちは今ここにいるのではありませんか。

語り聞かせなさい
 この大いなる恵み。「あなたの神、主を愛しなさい」となおも語られていることの大いなる恵み。この恵みをこそ、伝えていかなくてはならないのです。次の世代に語り伝えていかなくてはならないのです。今日の聖書箇所は次のように続きます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6‐7節)。

 私たちが子供たちに語らなくてはならないのは、自分たちの要求や希望や願望ではないのです。私たちが本当に伝えなくてはならないのは、神の恵みなのです。今もなお「あなたの神、主を愛しなさい」と言ってくださっている神の恵みなのです。主を愛して命を得ることができるようにしてくださっている神の恵みなのです。

 しかも、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」とあります。そこまで言うか、と驚きを覚えます。しかし、モーセにこのことを語らせているのは、他ならぬ神の熱情なのです。神御自身がどれほど子供たちのことを考えておられるか、どれほど子供たちに伝えて欲しいと思っておられるか、ということでしょう。

 今日は「子ども祝福礼拝」です。先ほど、一人一人の子供たちの名を呼んで、彼らの上に神の祝福を祈り求めました。しかし、私たちが子供たちの上に祝福を願う以上に、神御自身がそのことを望んでおられるのでしょう。子供たちが、主を愛して命を得るようにと願っているのは、他ならぬ神御自身なのです。だからこそ、その御方は言われるのです。「これを語り聞かせなさい」と。

 そのように神の恵みを伝えるためには、まず私たち自身が繰り返し思い起こすことが必要なのでしょう。ですから、モーセは次のように語ります。「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(8‐9節)。

 私たちがどれほど大きな愛をもって愛されているか、どれほど大きな愛をもって主は私たちの神となっていてくださるのか、どれほど大きな愛をもって、「あなたの神、主を愛しなさい」と語られているか、私たちは忘れてしまいやすいのです。人間はそれほどに愚かなものなのです。主がエジプトから導き出してくださっても、また約束の地に導き入れてくださっても、それほどまでに大きなことをしてくださっても、人は忘れてしまうのです。その恵みに基づく命令を忘れてしまうのです。だから「自分の手に結んでおきなさい。額に付けておきなさい。戸口の柱にも門にも書き記しておきなさい」とまで言われなくてはならないのです。

 そのような神の民の愚かさはイエス様御自身もよくご存じだったのでしょう。ですから、イエス様もこう言われたのです。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。そう言って、裂かれたパンを渡されたのです。ご存じでしょう。最後の晩餐での出来事です。「記念として行いなさい」。そのことを繰り返し行わなかったら、忘れてしまうから。イエス様が自らの体を裂いて渡されるようなことをされたとしても、それすらも忘れてしまうのが人間だからです。

 ですから、教会はイエス様を記念してパンを分かち合うことを行ってきたのです。それを二千年間、繰り返し行ってきたのです。ですから、この礼拝堂にも聖餐卓が置かれています。その背後には十字架があるのです。しかも、聖餐は単なる「しるし」ではありません。聖霊のお働きによって、そこにキリストが現臨してくださるのです。キリストが現に私たちに触れてくださり、キリストの贖いの恵みに、現実に繰り返し私たちは与るのです。そうまでしなければ、私たちは忘れてしまうのでしょう。私たちはここにおいて思い起こさなくてはならないのです。キリストの体と血とに与りながら、思い起こさなくてはならないのです。神の愛を思い起こさなくてはならないのです。そして、神を愛して生きることへの招きを思い起こさなくてはならないのです。

 今日はこうして子供たちと共に礼拝を捧げました。心を合わせて子供たちのために祈りました。そのような私たちに必要なことは、まず私たち自身が神の恵みを思い起こし、立ち帰り、「あなたの神、主を愛しなさい」という呼びかけに応えてここから生き始めることです。そして、「これを語り聞かせなさい」という主の求めを、何よりも大事なこととしてしっかりと受け止めることなのです。

2013年11月3日日曜日

「失われることのない希望」

2013年11月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 1章1節~9節


喜びをもって生きる
 今日共にお読みしましたのはペトロの手紙です。冒頭にありますように、これはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられた回覧状です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあったことが分かります。具体的には迫害の苦しみの中にあったということでしょう。彼らは、キリスト者であるというだけで、非難や中傷、不当な扱いを耐え忍ばねばなりませんでした。そのような人々を励まし、適切な指示を与えるために、この手紙は書かれたのです。

 しかし、そのように苦しみの中にある人々に書かれた手紙であるにもかかわらず、その文面からは暗く重苦しいものは全く伝わってきません。むしろ伝わってくるのは底抜けた明るさです。ペトロは苦しみの中にある人々に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)と書き送るのです。さらに彼はこう書いています。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」(6節)。そして、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(8節)と書いているのです。

 これは私たちに何を示していますか。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできるということです。人は置かれている環境や境遇によってどう生きるかを決められる必要はないということです。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はないということです。他の人が何をしようが、何が起ころうが、人は喜びを持って輝いて生きることができるのです。

生き生きとした希望
 ではどうしたら、そのように喜びを持って生きられるのでしょう。彼らが持っていたのは何だったのでしょう。それは希望です。新共同訳の小見出しにもなっている「生き生きとした希望」です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。これが彼らの喜びの源なのです。

 「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。味わい深い表現でしょう。わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのではありませんか。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を与え」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかった。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても神にとっては終わりではなかったからです。そうです。人間にとってピリオドであっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないのです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によって。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何ですか。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることのできる御方なのです。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まったのです。ただ神によって。そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではなかったのです。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのでしょう。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。一般的にはどうですか。死によって未来が失われるのでしょう。死は未来を奪うのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということではありませんか。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、一般的に言うならば、未来を失っていくということではありませんか。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来があるのです。それをペトロは次のように表現しているのです。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)。

 死の先は私たちの想像を超えた未来です。ですから、ある意味で「財産」という陳腐な言葉をもってしか表現できない。そのように、私たちには思い描くことさえできないわけですが、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来であることに間違いはありません。

 そのように、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。死の床においてもなお、期待をもって最後まで生きることができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。そうです、人は人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで喜びをもって生きることができる。輝いて生きることができる。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

わたしたちを新たに生まれさせ
 しかし、そのように生き生きとした希望に生きるために、なお大事なもう一つのことがあります。今、神が「生き生きとした希望」を与えてくださった、と言いました。生きている希望は神から来る。ならば人生において決定的に重要なことは、その神との関係がどうなっているかということです。もし神との関係が悪いままであるならば、人は喜ばしき未来を期待できるでしょうか。最終的に人生最後の時にも、死の向こう側になお喜ばしき未来を期待できるでしょうか。できないだろうと思うのです。大事なのは神との関係なのです。神との関係が悪ければ、神がおられることは希望につながらないのです。そのままでは「生き生きとした希望」に生きることができないのです。

 だからこそ、神はこの世にキリストを遣わされたのです。私たちと神との関係を良くするためです。どのようにして、関係を良くするのでしょう。独り子なるイエス・キリストを十字架におかけになり、私たちの罪の贖いとすることによってです。神の側から私たちに対して、罪の赦しを宣言することによってです。そのようにして、神に愛されている子どもとして私たちが新しく生きることができるようにしてくださったのです。親子の関係という、この上ない良い関係に生きられるようにしてくださったのです。

 それを聖書はこのように表現しているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3節)。そのように、どんな人であっても、新しく生まれた神の子どもとして生き始めることができるのです。これまでがどうであったかが問題ではないのです。いつでも大事なのはこれからどう生きるのかです。「生まれる」とはそういうことでしょう。そこからがスタートなのです。人は神の子どもとして生き始めることができるのです。それはまさに福音です。良き知らせです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。良き未来を待ち望む喜びをもって生きることができるのです。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできます。暗闇の中にあっても人は輝いて生きることはできます。置かれている環境や境遇によって人生を決められる必要はありません。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はありません。神を見上げ、信仰によって神の子どもとして希望をもって生きることができるのです。

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