2013年10月27日日曜日

「神を礼拝するとはいかなることか」

2013年10月27日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 4章1節~11節


 私たちは日曜日に教会に集まり、礼拝堂において約1時間を過ごします。人が教会に来はじめるきっかけは実に様々です。ですから、この約1時間の過ごし方も様々でしょう。ある人は聖書を学ぶために来たかもしれませんし、ある人は心の落ち着く場所を求めて教会に来たかもしれません。その他、初めの求めや動機は何であっても良いと思います。入口はいろいろあって良いのですから。

 しかし、そのように始まった教会生活において、ある時点から「私たちは共に礼拝をしているのだ」という明確な意識を持ってこの時間を過ごすようになることは大事なことです。前奏前の時間からその意識をもって参加するなら、この時間の過ごし方は決定的に違ってくるからです。そして、この時間の過ごし方が違ってくるということは、この礼拝から始まる一週間が違ってくるということであり、さらには積み重ねである人生そのものが違ってくることでもあるのです。

 そこで今日は、共に礼拝を捧げるとはいかなることを意味するのかを知るために、人々が礼拝をしている場面を伝えている聖書箇所をお読みしました。私たちが今共に礼拝を捧げている時間がどのような意味を持っているのか、この聖書の御言葉から共に聞きたいと思います。

共にイエスと結ばれて
 今日お読みしたのは、聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録に書かれているのは、ヨハネが見た幻です。それは特殊な神秘体験です。しかし、それがただ個人に関わることではなく、諸教会にとって、さらに言えば後々の教会にとっても大事なことであるゆえに、このように書物として読まれ続けてきたのでしょう。しかもこの書物の冒頭を読みますと、明らかにこれは個人的に読まれるためではなく、礼拝において朗読されるために書かれたことが分かるのです。今、私たちがこうしているようにです。

 そのように幻を見たヨハネは、その時、大きな苦しみの中にいました。パトモス島に抑留されていたのです。1章9節以下に次のように書かれています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9‐11)

 ここで大事なことが二つあります。一つは、それが「主の日」だったということです。日曜日です。日曜日ですけれど、かつてしていたように集まって礼拝することはできません。流刑の身ですから。しかし、それでも主の日であることを思って祈っていた。ですから主の日において「わたしは“霊”に満たされていた」と書かれているのです。

 そして、もう一つ、彼は自分のことを「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言っていることです。ヨハネは流刑の苦しみの中にあります。しかし、彼は孤独ではありません。彼は他のキリスト者と結ばれていることを知っているからです。「共にイエスと結ばれて」いるのです。特にそのことを思うのは「主の日」なのでしょう。同じ主の日に、エフェソやスミルナ、ペルガモンなど、それぞれの地において集まって礼拝している人たちがいることをヨハネは知っているのです。ある人たちは危険の中で、命がけで集まって、礼拝している人たちがいることを知っているのです。その人たちと体は離れているけれど、一緒に主に結ばれて、一緒に礼拝していることをヨハネは知っているのです。それが主の日の礼拝なのです。

 私たちは毎週、ここに集まっている私たち自身のために祈るだけでなく、ここに集まることのできない人たちのために祈ります。入院している人たち、自宅で療養している人たち、年老いた人たちのために祈ります。それは毎週繰り返されていますが、決して単なる形式的なことではありません。私たちは主の日に礼拝する時に、ここに集うことのできない兄姉とも互いに結ばれているのです。いやそれだけでなく、同じように主の日に礼拝している他の教会、他の国々の教会とも結ばれているのです。さらには天と地の聖徒たちが結ばれているのです。それが主の日の礼拝なのです。ですからヨハネは、天において主を礼拝している人々の幻を見せていただくのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。

開かれた門が天に
 今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)。これ一つ取っても、本当に嬉しい言葉ではありませんか。天の門は開かれているのです。閉ざされてはいないのです。ヨハネはそれを見せていただいたのです。

 天の門は開かれている。誰が開いてくれたのでしょう。3章7節にこんな言葉があります。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(3:7)。これはイエス様のことです。イエス様こそが鍵を握っているのです。そのイエス様が天の門を開いてくださったのです。本来だったら閉め出されてしかるべき私たちがのために、十字架にかかって、罪を贖ってくださって、罪の赦しを与えてくださって、その門を開いてくださったのです。主が開かれたならば、誰も閉じることはできないのです。

 ヨハネが主の日に見たのは、この開かれた天の門でした。それはヨハネという個人の特殊な体験です。しかし、先にも申しましたように、その幻が書かれ礼拝において朗読されているのは、私たちのためでもあるのです。天の門が開かれているのを私たちは肉の目で見ることはできません。しかし、確かに救いの門、天の門はこうして主の日に礼拝している私たちに向かって大きく開かれているのです。

 逆に言えば、もし天の門が開かれていないなら、私たちがしていることは所詮この世の次元のことに過ぎないということでしょう。せいぜい聖書の知識を得、より良い人生の指針を得、あるいは何らかの心理的な効果を得る程度のことでしょう。しかし、実際にはそうではないのです。天の門が開かれているのです。私たちのこの集まりは天と関わっているのです。天はここに集まっている私たちに対して閉ざされていないのです。だからこそ、迫害の時代であっても、命がけで人々は集まって礼拝をしたのです。それが天に繋がる永遠の価値を持っているからです。

 そして、さらにヨハネが開かれた門の次に見たのは玉座でした。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。玉座というのは王の座のことです。すなわち王としての神を見たということです。神が王として支配しているのを見たのです。

 現実に肉眼で見えるのは人間が支配する世界です。ヨハネが生きていた当時でありますならば、それはローマ皇帝が頂点に立って支配している世界です。パトモス島に抑留されているヨハネもまた、ローマ皇帝の権力のもとに、その悲惨かつ孤独な生活を強いられていたのです。教会はこの世の力が嵐のように吹きまくる中にあって翻弄される木の葉のような存在にしか見えなかったでしょう。しかし、ヨハネはそこで神の玉座を見たのです。その王なる神を礼拝する天の礼拝を見たのです。そうです、本当の支配者はまぎれもなく王なる神であることを目の当たりにしたのです。

 ヨハネは言葉を尽くして、彼が目にした神の玉座の栄光を描写しようと試みます。「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(3節)。もちろんこの宝石による描写はあくまでも地上の言葉です。地上の言葉では十分に表現できるわけはない。しかし、それでも言わんとしていることは分かります。栄光に輝くまことの王がおられる。礼拝とはそのまことの王を仰ぐことに他ならないのです。

 私たちはまことに不遜なものです。人間のすることがすべてであるかのように見ているのです。人間の力がこの世界を最終的に左右するかのように、人間のすることが自分の人生を最終的に左右するかのように生きているのです。しかし、そうではないのです。天には玉座があるのです。最後の言葉を持っているのは王なのです。そのことをへりくだって認めてまことの王を仰ぎ望み礼拝する。それが主の日において私たちがしていることなのです。

冠を投げ出して
 またヨハネはそこに24人の長老たちを見ました。また玉座のまわりに四つの生き物を見ました。それらについては実に不思議な描写が続いています。さて、これら長老たちや四つの生き物が「何であるか」ということに思いを巡らすこともそれなりに意味があろうかと思いますが、今日はやめておきます。ここでは特に彼らの礼拝の姿に注目したいと思います。

 この四つの生き物は、夜も昼も絶え間なくこう言い続けていたというのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(8節)。さらに、24人の長老たちは、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出してこう言っていたというのです。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。

 このような描写を読みますと、私たちはまだまだ本当に知るべきことのごくごく一部しか知らないのだと思わされます。ここには信仰歴の数十年の人もいれば一年未満の人もいれば、教会に来はじめて一ヶ月未満の方もいらっしゃるわけですが、私たちは礼拝することの大きな喜びをまだまだ本当は知らないのだと思います。これから味わい知るべきことがたくさん残されているのです。

 本当に私たちが天の門が開かれているのを知り、神の玉座の御前にあって礼拝していることを知るならば、もう昼も夜も絶え間なく神を誉め讃えずにはいられなくなるということでしょう。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。そのように延々と賛美せずにはいられなくなる。一つの讃美歌を4節まで歌って終わり、ではないのです。この得体の知れない生き物の姿は、本当に主を礼拝することを知っている者の姿なのです。

 そして、主を礼拝することを本当に知るならば、冠をかぶっている者がもう自分の冠をその前に投げ出したくなるというのでしょう。もう自分の栄光など、自分が受けるべき報いなど、どうでも良くなるのです。自分がどう評価されたか、どういう扱いを受けたか、どう報いられたか…そんな思いを後生大事に抱えているとするならば、それはまだまだ主を礼拝する本当の喜びを味わい知っていないということなのでしょう。

 ここに描かれている礼拝を私たちは天と一つになって捧げたいものです。私たちは信仰生活において、もっともっと主の日にこうして集まって礼拝を捧げることの尊さ、その真の喜びを味わい知る者となりたいものです。

2013年10月20日日曜日

「喜びに満ちた終末」

2013年10月20日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章7節~13節


かしこより来たりて
 先ほど使徒信条を御一緒に唱和しました。その中で私たちはキリストについて「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と私たちの信仰を言い表しました。復活し、天に挙げられたキリストは再び来られる。これを「キリストの再臨」と言います。教会はキリストの再臨を二千年間信じ続け、その信仰を伝え続けてきました。数え方にもよると思いますが、新約聖書において直接的・間接的に「キリストの再臨」に言及している箇所は三百以上にもなるとも言われます。新約聖書の記述のすべてはキリストの再臨を前提として書かれているとさえ言えるでしょう。今日の福音書朗読においても、これがキリストの再臨を前提として書かれていることがはっきりと見て取れます。花婿がやってくる。この花婿はキリストです。

 もっとも、キリストの再臨というのは現実感をもってイメージしにくいのも事実です。イエス様が捕らえられ、ユダヤ人の議会に立たされ、「おまえは神の子、メシアなのか」と問われた時にこう言われました。「あなたたちはやがて、人の子(すなわちキリスト)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(26:64)。しかし、これが起こるということを現実的に思い描けますか。それはとても難しいことだろうと思うのです。初めて「キリストの再臨」について聞く人にとっては、自分とは関係ない戯言に聞こえるかもしれません。

 しかし、そうではないのです。「キリストの再臨」を信じるか否かは、私たちの人生を決定的に左右するのです。というのも、「キリストの再臨」を信じる信仰は、私たちがこの世界をどう見るのかということに深く関わっているからです。そして、私たちがこの世界をどう見るかで、その中に生きる私たちの人生は決まってくるのです。

 この世界は悪と悲惨に満ちた世界です。それは紛れもない事実です。しかし、聖書はこの世界について、キリストが再び来られる世界なのだと言っているのです。私たちは悪と悲惨に満ちた世界にあって多かれ少なかれ「わたしには何ができるのか」と考えながら生きているのでしょう。そうです、私たちの為し得ることはある。為すべきことはあります。しかし、それでもなお人間が行うことがすべてではないと聖書は教えているのです。この世界の救いにおいて決定的に重要なことは時満ちて天から来る。神様の方から来る。神様御自身が決着をつけられるのです。それが「キリストの再臨」の意味するところです。

 この世界を「キリストが再び来られる世界」として見るならば、そこに生きる私たちの日々の生活も変わってくるのです。日常の小さな出来事にどう関わるかということが変わってくるのです。この世に生きるかぎり、私たちは日々の生活の中で他者の悪のゆえに苦しみ、また自分の罪のゆえに苦しむことになるのでしょう。あるいは誰の悪のゆえであるか定めることのできないような不条理に苦しむことにもなるのでしょう。そこで何ができるかを考え、何をしなくてはならないかを考えながら生きることになる。しかし、そこで本当に大事なことは時が満ちて天から来るのだと信じるのか信じないのかは大きな違いではないですか。本当に大事なことは時が満ちて神様の方から来る。神様がしてくださる。そう信じるのか信じないのかは大きな違いでしょう。

 実際そのことを信じないから、やたらに焦って、苛立って、むやみに争うようなことをして、その結果、為し得ることがあるのに、為すべきことがあるのに、それができなくなるのです。その意味において、「キリストの再臨」を信じる信仰は私たちの人生を決定的に左右するものとなるのです。そこで今日は「花婿が来る」という話を私たちに深く関わっている話として読みたいと思うのです。

愚かなおとめと賢いおとめ
 ここに「十人のおとめ」が出てきます。彼らは婚宴に招かれている人々です。多くの人々が招かれるのです。そして、招かれた人々には役割が割り当てられます。結婚式、またその祝宴のためには準備すべきことがたくさんあったからです。花嫁は十人の友達に花婿を迎える役目をお願いしました。それがここに出てくる十人のおとめです。

 当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われるのです。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるのです。そこで花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人です。時としては町外れにまで出て花婿を迎えるのです。時には花婿が遅くなることもあるでしょう。夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。それが彼らの役目です。

 しかし、その十人が二通りに分かれたというのです。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と主は言われます。賢い者と愚かな者に分かれるのです。それはいったいどういうことでしょうか。続いて聖書はこう説明しています。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」(3‐4節)。

 「賢いおとめたち」は油を用意していました。油を用意していた人たちというのは、どういう人たちでしょうか。それは、花婿が来るまで、たとえ遅くなろうとも、ひたすら待つつもりでいた人たちです。言い換えるならば、花婿を迎え、そしてさらに花嫁の家にまでお連れして、共に祝宴に与るその時までのことを考えて行動していた人たちだということです。彼女たちには務めがありますが、本当に重要なことは到着した花婿がしてくれることなのでしょう。彼らを祝宴へと迎え入れてくれるのは花婿なのですから。だからその花婿を待つ。遅くなっても待つつもりでいる。だから油の予備も用意しておく。「賢いおとめたち」はそういう人たちです。

 一方、他の五人は違います。その時、その場のことしか考えていなかった人たちです。ランプは持って出ました。なぜですか。夜だったからです。そのように目の前のことに対処することしか考えていない。今どうであるか。今どういう状態にあるか。今何が必要か。そのことしか考えていない。待つことなどは想定していない。花婿がしてくれることまでを思ってひたすら待つことなどは考えていない。「愚かなおとめたち」はそういう人たちです。

 もっとも賢い五人も愚かな五人もある時点までは何も変わらないように見えるかもしれません。先のことまで考えて油を用意していようが、目先のことだけ考えてともし火を持って出ただけであろうが大差なく見えるのです。このたとえ話においてはあえて、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)と書かれています。そうです。賢い人も愚かな人もです。そのように、途中まではこの両者はまったく区別つかないのです。

 しかし、途中においては大差ないとしても、結末では大きな違いが出てきます。イエス様のたとえ話においては、このように表現されています。「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(10‐12節)。そのように、このたとえ話は愚かな人と賢い人の話です。最終的にその違いがはっきり現れるという話です。

分けることのできないもの
 そこで注目すべきもう一つのことがあります。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言いました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(8‐9節)。そのように、油を用意していた五人は他の五人に油を分けてあげなかった、ということです。

 これが助け合いを教えるたとえ話であったならば、そこで「彼らは油を分け合って、ともし火の数を減らし、一緒に花婿を迎えましたとさ」という話になるでしょう。しかし、主はそのようには語られませんでした。ここには、人生の厳粛な一面がはっきりと語られているのです。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがあるということです。その人がどのように生きてきたかということは、最終的には他の人と分かつことも、代わることもできないことなのです。「賢いおとめ」として生きたかそうでないかは、その人の人生なのであって、他の人は代わってあげられないのです。

 それはまた、周りの人の責任にできない厳粛さであるとも言えるでしょう。「愚かなおとめたち」は、「あの人たちが油を分けてくれなかったからです」と言って彼らのせいにすることができなかったのです。私たちは、自分がどう生きているかということについて、とかく周りの人々の責任にしたくなるものでしょう。「あの人のせいでこうなった。この人のせいでこうなった」と言いたくなるものなのです。しかし、最終的に問われるのは、「他の人がどうであったか」ではないのです。あくまでも、「あなたはどうであったか。あなたはどう生きたか。賢いおとめとして生きましたか」が問われるのです。

 言い換えるならば、「賢いおとめ」になるか「愚かなおとめ」になるかは、他の人や他の何かに決めさせてはならない、ということでもあります。最終的には他の何ものの責任にもできないのですから。

 ある人は不幸な家庭環境で育ったかもしれません。ある人は悲しい幼少期を過ごしたかもしれない。しかし、そのことに未来を決めさせてはなりません。どう生きていくのかということを決めさせてはなりません。あるいは、誰かに傷つけられて、人生の大きな部分を損なわれた人がいるかもしれません。しかし、自分を傷つけた人に、自分の人生を決めさせてはならないのです。自分がどう生きていくかをその人に決めさせてはならないのです。先週一週間の間にも、もしかしたら不愉快なこと、ガッカリすることがあったかもしれません。しかし、その出来事に、今週からどう生きていくかを決めさせてはならないのです。

 あくまでも私たち自身が問われているのです。花婿を待つ者として生きるのか。キリストの再臨を信じる者として生きるのか。この世界の救いにおいて決定的に大事なことは神様から来ることを信じて生きるのか。そのように日々の生活をも生きるのか。為し得ること、為さねばならないことを行いながら、ひたすら主に期待し、主を待ち望んで生きるのか。これまでがどうであれ、ここから私たちはそのように生きることは可能なのです。そして、それこそがキリストの再臨される終末を喜ばしき終末として迎えるために必要不可欠なことなのです。

2013年10月13日日曜日

「与えられているものを生かしていますか」

2013年10月13日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章7節~11節

    マタイによる福音書 25章14節~30節

神のさまざまな恵みの善い管理者として
 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」(1ペトロ4:10)と語られていました。それは「賜物」です。私たちが何かをしたことに対する報酬ではありません。何もしないうちに神が備え、与えてくださった「賜物」です。ですから「神のさまざまな恵み」と言い換えられています。「さまざまな恵み」ですから一種類ではありません。自分に与えられているものと他の人に与えられているものは異なるのです。他の人に与えられているものが自分には与えられていない。しかし、他の人に与えられていないものが自分には与えられている。どちらも「恵み」であり「賜物」です。

 私たちはとかく他の人に与えられていて自分に与えられていないものばかりが気になります。ですから、「わたしには何も与えられていない」などと言い出す人もいる。しかし、それを本当に神様に向かっていえますか。わたしは何ももらっていません、と。言えないだろうと思うのです。私たちは、それぞれ、恵みとして与えられているものがある。「賜物」が与えられているのです。

 そこで重要なことは、善い管理者となることです。そう書かれていましたでしょう。「神のさまざまな恵みの善い管理者として」と。管理者はオーナーではありません。先ほどから「与えられている」という言い方をしていますが、正確に言えば「託されている」ということです。管理者なのですから。期間限定で託されている。やがてはすべてをお返しするのです。それが私たちの人生です。

 期間限定で託されているに過ぎないものをお互いに比較しても大した意味はありません。誇ることも卑下することも意味のないことです。いずれにせよやがてはお返しするものですから。大事なことは、とにかく自分に託されているものを管理することです。善い管理者となることです。それが私たちの人生の課題です。

 託してくださった神様が喜ばれるように管理するとはどういうことでしょう。管理者には何が期待されているのでしょう。「その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書かれています。これが神様の望んでおられることです。最終的に問われるのは、どれだけ他者のために用いることができたか、お互いのために用いることができたか、ということです。それをもって、どれだけ人に仕えることができたか、ということです。

 世の中には、「わたしは満足です。幸せな人生でした。もういつ死んでも思い残すことはありません」とおっしゃる方もいます。言葉だけの人もいるでしょうが、本気でそう言うことのできる人もいないわけではない。しかし、善い人生であったかを計る尺度は、どれだけ自分を満足させられたかではありません。どれだけしたいことができたかではありません。どれだけ幸福であったかでさえありません。神の判断において重要なのは別のことです。主は言われるでしょう。「満足でしたか。幸せでしたか。それは結構なことです。しかし、あなたは賜物をどれだけ他者のために用いましたか。それを互いに仕えるために生かしましたか。」

 逆に言えば、苦難に満ちていたとしても、人から何一つ評価されることがなかったとしても、あるいは何もかもが中途半端に終わるように見えたとしても、それで人生が無意味になるわけではない、ということです。そこで自分の賜物を精一杯用いたならば、他者のために用いたならばそれでよいのです。神様にとって重要なのはそのことなのですから。この手紙を書いたペトロにしても、あるいはパウロにしても、この世においては決して絵に描いたような幸福な人生を全うしたわけではありません。晩年は獄中での生活でした。しかし、そこにあっても善い管理者として生きた。それでよかったのです。

忠実な良い僕だ。よくやった。
 そのように、重要なのは託されているものが何であるかということよりも、どう管理するか、どう用いるかなのです。そのことをイエス様はたとえ話を用いて生き生きと描き出しています。

 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:14‐15)。

 先ほどのペトロの手紙ですと「さまざまな恵み」となっていましたけれど、イエス様のたとえ話では、これが「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」として表現されています。こちらの方が私たちにはピンとくるかもしれません。「あなたと他の人では異なる恵みが与えられているのですよ」と言われれば分からないことはないのですが、やはり与えられている量が違うと私たちには感じるではないですか。あの人には多く与えられているけれど、わたしには少ししか与えられていない、というように。「五タラントン」と「二タラントン」の方が確かに私たちの感覚に近いようです。ですから時として神様は不公平に思えることもあるのでしょう。

 しかし、ここでイエス様は「それぞれの力に応じて」という一言を忘れません。つまりある人に「五タラントン」、ある人に「二タラントン」を託したのは、主人の気まぐれではないということです。しっかり見て、考えた上で、「五タラントン」にし「二タラントン」にしたということです。私たちにおいて「さまざまな恵み」が与えられる時も同じだということでしょう。私たちを知った上で、神様のお考えに基づいて、信頼して、それぞれ異なる賜物を与え、異なる恵みの管理を託されるのです。

 いずれにしても、あくまで期間限定です。「旅に出かけた」のですから、出たままではありません。必ず帰ってくるのです。必ずお返ししなくてはならない時が来るのです。そして、どう用いたかが問われる時が来るのです。ですから、イエス様の話においても、「その時が来た」という展開になっているのです。

 さて、主人が帰ってきました。その場面でのやりとりをもう一度読んでみましょう。「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」(同20‐23節)。

 これを読んですぐに気づきますのは、僕の報告はそれぞれ異なるけれど、それに対する主人の言葉は同じだということです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。原文においても一言一句同じです。一人は五タラントンもうけた。一人は二タラントンもうけた。しかし、主人にとっては五タラントンだろうが二タラントンだろうがどうでもよいのです。主人が喜んでいるのは「忠実な良い僕」だということなのです。

 忠実な良い僕というのは、主人が望んでいることを行う僕です。主人である神様が望んでおられることって何ですか。先ほどのペトロの手紙にありました。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。

 ある人は託されているものを用いて大きなことをするのでしょう。ちょうど五タラントンもうけた人のように。ある人は様々な制約のもとにあって地味な小さなことをして一生を終えるのでしょう。二タラントンもうけた人のように。しかし、神様にとってはどちらでもよいのです。託されているものを神様の喜ぶように用いさえしたならば。言ってくださる言葉は同じです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

タラントンを土に埋めた人
 ところで、ここには一タラントンを託された僕も出てきます。彼の言葉を聞いてみましょう。「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』」(同24‐25節)。そして、この僕は主人から「怠け者の悪い僕だ」と叱られて、厳しい裁きを受けることになるのです。

 さて、この僕はそんなに悪いことをしたのでしょうか。そうは見えないでしょう。預かった金はちゃんと返したのですから。しかし、イエス様の言わんとしていることは明確です。大事なのは「用いたかどうか」だということです。用いないということは、神の目にそれほど大きなことなのだ、ということなのです。

 どうして用いることができなかったのでしょう。どうして土に埋めてしまったのでしょう。それは「成果こそがすべてだ」と思っているからです。主人は成果をこそ求め、成果をもって評価すると考えているからです。主人は「刈り取り」「かき集められる厳しい方」だ、と。

 そもそも「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」という言葉はどこから来るのでしょう。それは、「自分のところには蒔かれていない。自分のところには散らされていない」という意識から来るのでしょう。「あの人には五タラントン分蒔かれていますよ。あの人には二タラントン分蒔かれていますよ。でも、私にはせいぜい一タラントンだ。それなのに成果ばかり求められる。蒔いたものに見合わないものを刈り取ろうとされる。ひどい主人だ。」――そんな思いが見え隠れしませんか。

 しかし、神様に対してそんなことを思っていたら、生かせるものも生かせやしません。不平や不満ばかり言っていたら、用い得る得るものさえも用いることができません。大事なことは成果ではないのです。用いることなのです。神様が喜ばれるような仕方で。それは「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」ということです。託されたのが一タラントンだっていいではないですか。神様の喜びを思って用いたならば、主は最終的に言ってくださるでしょう。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と。

2013年10月6日日曜日

「キリストの命によって結ばれて」

2013年10月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~26節


 今日は世界聖餐日です。世界中の多くの教会が私たちと同じように聖餐を行っていることを思いながら私たちも聖餐にあずかります。聖餐式は、主が弟子たちと食された最後の晩餐に由来します。今日はその聖書箇所が読まれました。

引き渡される夜
 今日読まれた聖書箇所には、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り…」と書かれていました。最後の晩餐がなされた夜、それは「引き渡される夜」と表現されています。イエス様が裏切られた夜です。神の御子が銀貨30枚で売り渡されることになる夜です。

 その食事が行われたのが「夜」であったというのは、ある意味でとても象徴的です。それは闇に覆われた世界のただ中で行われた食事でした。この食事から始まって、福音書が描き出す一日の出来事は、まさにこの世の暗闇が何であるかを描き出していると言えるでしょう。神の愛を語り、神の愛を現されたイエス・キリストは、この数時間後に捕らえられることになります。神が遣わされた独り子は、人間による不当な裁きによって死に定められます。唾をかけられ、鞭打たれ、卑しめられ辱められ、十字架を負わされ、その十字架に釘づけられ、殺されることになるのです。

 人はこの世のありさまを見て「暗い世の中だ」と口にします。降りかかってくる災いの中で「暗い人生だ」と思うこともあるのでしょう。しかし、この世界の本当の暗さは神の愛に背を向けているゆえの暗さなのです。神の光に対して自らを閉ざし、自らを暗闇に閉じ込めてしまっている暗さなのです。愛の源であり命の源である神に背を向けるならば、罪と死が支配することになるのです。この世界はそのように罪と死が支配する世界であったし、今日もなおそのような「夜」を私たちは生きているのです。

 そのように、闇に覆われた夜の世界のただ中で、主は最後の晩餐を弟子たちと共にしておられました。その後にご自分の身にどのようなことが起ころうとしているかもご存じの上で、主はパンを手に取られたのでした。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り」――そして聖書はこう続けます。「感謝の祈りをささげてそれを裂き…言われた」。主は「感謝の祈り」をささげて弟子たちにこう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:24)。また、杯も同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(同25節)。

 イエス様は十字架へと向かっておられました。自分自身の死の時が刻一刻近づいていることを知っていました。しかし、主は終わりへと向かっていたのでも、終点に立っていたのでもありませんでした。主は始まりを思っていたのです。始まりを感謝し、祝っていたのです。主は確かに新しいことが始まっているのを見ておられた。十字架の死において、最終的に勝ち誇るのは罪でも死でも悪魔でもないのです。それは新しい神の御業の始まりなのです。ですから主は感謝をささげながらパンを裂きました。それはユダヤ人が食事においては必ず捧げるいつもの感謝の祈りだったのでしょう。しかし、そこで感謝し祝われていたのは、新しい始まりを告げる食事だったのです。

 そこにおいて始まっている新しい神の御業。それを主は「新しい契約」と呼びました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」新しいことが始まり、それが続いていくのです。ですから、これからのことを主は弟子たちに語るのです。「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と。

 主が十字架で流される血によって、新しい契約が立てられると主は言われました。それは、神と人との新しい絆です。それは神がかつて預言者エレミヤを通して語られたことの実現に他なりませんでした。エレミヤ書には次のように書かれています。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)。

 そのように主の流された血によって、新しいイスラエル、新しい神の民が生み出されようとしていたのです。新しい契約の民が生み出されようとしていたのです。そこにおいて、エレミヤを通して主が語られたように、「わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる」ということがまさに実現しようとしていたのです。あの夜、そして続く十字架の出来事において、この暗闇の覆った世界のただ中で、本当に小さくですが、誰にも知られないような小さな出来事としてでしたが、確かにそこに神による新しい始まりがあったのです。

 そして、今日、私たちがここにいるということは、主を記念して聖餐を行うこの場にいるということは、あの日始まったことに、主の御業に、私たちもまた与っているということなのです。神が私たちに対しても、「わたしはあなたの神である。あなたはわたしの民である」と言ってくださるのです。

主の死を告げ知らせる
 そして、私たちがこうして神の民とされ、繰り返し聖餐を行う教会としてこの地上に置かれていることには、主の目的があるのです。聖書には何と書かれているでしょうか。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)。そうです、教会は聖餐を代々に渡って行いながら、主の死を告げ知らせてきたのです。私たちも繰り返し聖餐を行いながら主の死を告げ知らせることを続けていくのです。それが教会なのです。

 「主の死を告げ知らせる」とはどういうことでしょう。イエス・キリストが十字架にかけられて死んだということを告げ知らせることは何を意味するのでしょう。それは第一に、この世界が御子を十字架にかけた世界であることを告げ知らせることを意味します。この世界は神の救いの御手を拒否した世界であり、神の愛を決定的な仕方で拒否した世界であるということです。この世界は神の愛に背を向けた世界であったし、今もそうあり続けているということです。そして、神の愛に背を向けた暗闇は、外なる暗闇であるだけでなく、私たちの内なる暗闇でもあるということです。私たちは確かに神に背を向けた世界に生きているし、その世界と一つとなって生きてきたのです。そのように「主の死」は神に背を向けたこの世界の罪、そして私たちの罪を指し示します。「主の死を告げ知らせる」とはこの世界の罪、私たちの罪を告げ知らせることを意味するのです。

 しかし、「主の死を告げ知らせる」ということは、それだけに留まりません。「主の死」は、そのように神の愛に背を向けたこの世界に対する神の愛、私たちに対する神の愛をも指し示しているのです。神は御自分に背いたこの世界にあえて御子を送られました。御自分に背いたこの世界の罪を贖うために独り子を犠牲にされたのです。「主の死を告げ知らせる」とは、神の愛を告げ知らせることでもあるのです。

 この世界は罪の贖いの十字架が立てられた世界です。この世界は贖いの血が流された世界です。この世界が今もなお神に背を向け続け、暗闇の中に留まっているとしても、そして、現実に暗闇の中に滅びていくようにしか見えない世界であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。なぜなら主はこの世の罪のために死なれたのだから。たとえこれまで神に背を向け、今もなお神に背き続けている人がいたとしても、今までずっと神の光に自らを閉ざして暗闇の中を生きてきた人であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。主はその人のためにも死なれたのだから。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、私たちをどこまでも追い求め、どこまでも関わり続ける神の愛を告げ知らせることに他ならないのです。神はこの世界をあきらめてはおられない。神はいかなる人についてもあきらめてはおられない。神は関わり続けられるのです。いつまで。世の終わりまで。だから「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と書かれているのです。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、神の愛を告げ知らせることであるのですから、それはまたこの世界に希望を告げ知らせることでもあるのです。神が愛して独り子を送られた世界であるならば、この世界を覆う暗闇は永遠に続くことはないのです。闇には終わりがあるのです。夜は終わるのです。「主が来られるときまで」と書かれているとおりです。そう、主が来られる。それは夜明けの到来です。朝が来るのです。同じ闇夜であっても、夜中の十二時と夜中の三時では意味合いが違います。その暗さを私たちは区別することができないかもしれません。夜中の三時の方が、夜中の十二時よりも暗いかもしれません。しかし、確実に夜明けは近づいているのです。そのことを私たちは告げ知らせる。「主の死を告げ知らせる」とはそういうことです。


 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」そのように言われた主の御言葉に従って、私たちは聖餐を行います。主の死を告げ知らせる教会として。今日は世界中の教会と共にということを意識して聖餐を行います。これは新しい契約です。既に新しいことが始まっています。この世界に、そして私たちの人生に。キリストの流された血によって結ばれて、キリストの命によって結ばれて、私たちが今こうして共にいることがそのしるしです。

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