2013年9月29日日曜日

「先に神の国に入る人たち」

2013年9月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21章18節~32節


 今日の福音書朗読においては三つの話が読まれました。その一つ目は、イエス様がいちじくの木を枯らした話です。イエス様がなさった奇跡の物語は福音書に数多く記されていますが、この話は明らかにそれらの中でも異質です。イエス様がいちじくの木を呪うと、木が枯れてしまった。実がなっていないからと言っていちじくの木を呪ったこと自体に違和感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、問題はその続きです。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねた弟子たちにイエス様はこう答えるのです。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(21‐22節)。

 「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく…」と主は言われるのですが、そんなことできるようになりたいと思いますか?木を呪うとたちどころに木が枯れる。人間に対して破滅と滅亡を宣言するとそのとおりになる。そんな力が欲しいですか?仮にそのような人がいたとします。そう思う人がイエス様の言われるとおり、「求めるものは何でも得られる」ことになったらどうなりますか。それはそれで大変なことになるでしょう。その人は世界で最も危険な人物となるに違いありません。しかし、そのような話が福音書の中に書かれているのは紛れもない事実です。弟子たちがこの話を語り伝えたからです。ならば、それはなぜなのか。そのことを私たちはよくよく考えなくてはならないのです。

だれがその権威を与えたのか
 そこで注目したいのは書き出しの言葉です。「朝早く、都に帰る途中」と書かれています。宿泊しているのはベタニアです。そこからエルサレムに向かっていた。それは神殿に行くためです。いちじくの木を枯らした話は、その途中での出来事なのです。

 そこで神殿での出来事を先に見ておくことにしましょう。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。これが二つ目の話です。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(12‐13節)。

 神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人は、何も無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまいました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威を与えたのか」と。

 この問いに対するイエス様の答えは明らかです。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は直接彼らの質問には答えませんでした。逆に彼らに問い返されたのです。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。

 「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。このヨハネとはイエス様の先駆者です。道備えをするために遣わされた人です。彼は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えた。ヨハネは人々が神に立ち帰り、神の前にへりくだって自分の罪を認め、赦しを求め、新しく生き始めることを求めたのです。そして、夥しい数の人々がヨハネのもとに行き、洗礼を受けました。

 しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。行かなかった人もいたのです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある人々です。その権威をもって人々を教え諭し、あるいは裁きを行ってきた人たちです。そのような人たちは自分が罪人であることを認めてヨハネのもとに行こうとはしなかった――分かるような気がしませんか。イエス様は彼らがヨハネのメッセージを受け入れなかったことを知ってしました。ですからこう問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。

 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らはただちに「神を冒涜した」と言って逮捕するつもりだったのでしょう。そのような彼らの悪巧みをイエス様はもののみごとに退けました。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで話を終わりにして良かったのです。しかし、イエス様は彼らを去らせませんでした。今度は主が彼らに問いかけます。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。今日お読みした三番目の話です。

徴税人や娼婦たちの方が先に
 たとえ話は至って単純です。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。これだけを聞きますと要するに「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という教訓話に聞こえます。そして、実際に祭司長たちにせよ民の長老たちにせよ、行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守って生きることが大事だと。だから律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。ですから主が「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問うた時、彼らはきっと自分自身と重ね合わせながら自信をもって答えたのです。「兄の方です」と。

 ところがイエス様が続けて語られたことは、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。

 そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。

 徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求めてヨハネのもとに行った。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。

 一方、祭司長や民の長老たちは、世間的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」です。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心では分かっていたのかもしれません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったということです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。

いちじくを枯らした方の言葉
 さて、ここで最初の話に戻ります。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」と宣言された方は、その朝にいちじくを枯らした御方だということです。

 話の流れから考えると、この最初の話においても重要なのはイエス様の権威であることがわかります。ここではいちじくですが、そのいちじくを罪に定める権威がここで話題となっているのです。木を罪に定めるというのは奇妙に思えるかもしれません。しかし、いちじくの木は旧約聖書においてぶどうの木と並んでイスラエルを象徴するものなのです。ならばそれ自体が極めて象徴的な行為です。同じことがイスラエルに対しても行えるということです。人間に対しても行うことができる御方だということです。すなわち神の裁きを宣言し、滅ぼすことのできる御方だということです。ちょうどあのいちじくの木を枯らしたように。

 しかし、罪に定めて滅びを宣言する権威をお持ちだということは、罪の赦しを宣言して救う権威も持っているということでもあるのです。裁きの権威を持たない者は赦しを宣言することもできませんから。そのように裁きの権威を持ちの方がこう宣言しておられるのです。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」。主は神に立ち帰り赦しを求める者に、赦しと救いを宣言されるのです。

 そして、もう一つ注目すべきことがあります。イエス様はいちじくの木に対して行ったことを、実際に人間に対しては行わなかったということです。

 「だれがその権威を与えたのか」と問う人たちが、自分たちの権威をもって何をしようとしているのか、イエス様はご存じでした。やがて祭司長や民の長老たちは、自分たちの権威と力をもってイエス・キリストを逮捕し、彼らの権威のもとに裁判にかけ、彼らの権威によって断罪し、ローマの権威に訴えて十字架にかけ、殺すことになるのでしょう。しかし、ゲッセマネの園で逮捕された時も、裁判にかけられている時も、鞭打たれている時も、十字架につけられた時にも、主はそのすべてを覆して、彼らを滅ぼすことがおできになるのに、そうしなかったのです。主はただ黙々と人間の罪を背負って罪の贖いの犠牲として死なれたのです。主は御自分に与えられた権威を滅ぼすためではなく、救いの門を大きく開くためにお使いになられたのです。その主が言われるのです。

 「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう。」

2013年9月22日日曜日

「落ち着いて、落ち着いて」

2013年9月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅱ
 3章6節~13節

怠惰な生活をしている人
 「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。その言葉の出所は今日朗読された聖書箇所であると言われています。「働かざるもの食うべからず」という言葉は、場合によってはとても残酷な言葉となります。いつの時代でも、働きたくても仕事のない人、あるいは働きたくても病気で働けない人はいるものですから。しかし、新共同訳に見るように原文では「働きたくない者は」(10節)となっているのであって、働きたくても様々な事情で働けない人には当てはまりません。

 しかし、この箇所において重要なことは、そもそもここにおいて話題となっているのは労働そのものの話ではないということです。もう一度その前後を含めてお読みします。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」(10‐11節)。

 パウロはここで「怠惰な生活をしている者」を問題にしているのですが、ここで言われている「怠惰な生活」とは何もしないでぶらぶらしていることではありません。確かに「少しも働かず」と書かれていますように通常の労働はしていません。しかし、パウロに言わせれば「余計なこと」はしているのです。これは「お節介」とも訳せる言葉です。そのように余計なお節介をしている本人は、それなりに忙しくしているのです。そのようにここに書かれている「怠惰な生活」というものは、私たちが一般的に考えるような「怠惰な生活」とは異なるのです。

 それが何を意味するかは2章まで遡るとわかります。このようなことが書かれていました。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:2)。このようなことを書かざるを得なかったのは、実際には動揺したり慌てふためいたりする人たちがいたからです。

 「主の日」とは最終的な神の裁きの日です。すなわち、最終的な神の裁きは始まっているということです。これを聞いて、動揺したり慌てふためいたりする者がいたのです。あるいは「既に来てしまった」とまでは言わなくても、いつ再臨があるかは分からないのだからという危機感から、例えば仕事を辞めてしまったり、通常の日常生活を放棄する者が現れたのです。そして、ただひたすら信仰に関わることに専念しようと思ったのです。それこそ伝道のために日夜かけずりまわる人がいたことでしょう。あるいは世の生活から離れてひたすら祈りに専念する人がいたことでしょう。教会の奉仕のために身を粉にして働いている人もいたかもしれません。

 ですから、この「怠惰な生活」をしている人とは、何もしないで怠けている人というよりは、むしろ見ようによっては極めて熱心な信仰者にさえ見える人々なのです。しかし、それにもかかわらず、パウロは彼らのしていることについて、「余計なことをしている」と言うのです。余計なおせっかいであると。そして、そのような人たちに命じるのです。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)。危機感によって動かされないで、慌てふためいたりしないで、とにかく落ち着いて普通の生活を続けなさいと命じているのです。

危機意識に動かされることの危険
 しかし、ここでどうしても考えざるを得ないことがあります。そう言っているパウロはどうなのでしょう。パウロは普通のユダヤ人としての日常生活を放棄した人ではなかったでしょうか。彼もまた故郷のタルソでの生活を捨てて、伝道のために旅を続けているわけでしょう。確かに彼はテント職人を続けながら伝道の旅をしていました。テサロニケにいた時もそうでした。彼がここに書いているとおりです。「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」(8節)。そうです、そのとおりです。しかし、それでも反論したくなります。パウロさん、いつもそうであったわけではないでしょう、と。

 実際、パウロはコリントに着いた当初はテント造りをしながら伝道していたのですが、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念した」(使徒18:5)と書かれているのです。この手紙はその頃のコリントにおいて書かれたと考えられますので、実はこの手紙を書いている時には、パウロは通常の労働はしていないのです。またもう一方でパウロ自身、必ずしも自給伝道が相応しい形だと思ってもいないのです。後にテモテに宛てた手紙からも分かります(2テモテ2:4以下)。まさにそのように、生計を立てるための仕事から離れて走っているとしか見えないパウロが、「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているのです。

 そこで私たちは改めてこれを書いているパウロと、ここで言われている「怠惰な人々」との違いをしっかりと見極めなくてはなりません。パウロが伝道のために奔走しているのはなぜでしょうか。それは終末の到来を考えたときにこの世の営みに意味を見いだせなくなったからとか、もはや伝道にしか意味が見出せなくなったから、という理由によるのではないのです。そうではなくて、パウロはキリストによって召され、キリストに命じられてそうしているのです。つまりそれは伝道者としての召命によるものなのであって、単に危機感によって動かされているのではないのです。

 キリストが命じておられるか。キリストが本当に望んでおられるのか。そのことを考えずにただ危機意識によって行動することは、時にとても大きな危険をはらむことになります。「世の終わりが来る」という危機感。そのような終末的危機意識が煽られる時、容易に日常生活の放棄が起こります。いやただ仕事を放棄するだけでなく、歴史的に見るならば、そこには危険な殺人集団が生み出されることもあれば、集団自殺が引き起こされることもあったのです。「宗教は怖い」と言う人がいます。ある意味で当たっています。危機意識によって支配された宗教的熱狂ほど怖いものはありません。そこで人は何をし始めるかわからないからです。

 パウロはテサロニケにいたときから、終末的危機意識から来る熱心さ、しかも通常の生活を軽視した形での熱心さが大きな問題になるであろうことを既に予感していたのでしょう。ですから、パウロは援助を受けて伝道することもできたのですが、あえて通常の仕事をしながら伝道したのです。日常の当たり前の生活を大切にして見せたのです。それは「身をもって模範を示すため」だったと語られています。そして、言葉によっても、「働きたくない者は、食べてはならない」と教えたのです。

たとえ世界が明日終わるとしても
 しかし、パウロはただ危機意識から来る熱狂を問題にしているだけではありません。そこにはより根の深い問題があったからです。そもそもギリシア人はもともとこの世界における労働そのものに大きな価値を置いてはいなかったのです。労働は奴隷の務めとさえ考えられていたのです。それは目に見えるこの世界を価値なきものと見る世界観から来ています。物質的なるものは悪であり、見えざる霊魂こそが善であるとする霊肉二元論です。容易に想像できるように、そのような思想はこの世の生を非本質的なものと考える人々を生み出したのです。そのような人々にとってはむしろ死ぬことこそ救いなのでしょう。彼らにとって死とは魂の牢獄からの解放に他ならなかったのですから。

 そのような人生観において宗教は現実逃避と容易に結びつくものとなります。そうです、宗教は現実逃避の手段となるのです。そのような素地をもった人々が福音を受け入れたとき、キリスト教信仰もまたが日常生活の放棄や現実逃避と結びついていくことはいくらでも起こり得ることでした。パウロはそのことが分かっていたゆえに、あえてこの世における労働を強調せざるを得なかったのです。

 それは今日の私たちもまた考えねばならない事柄です。宗教が現実逃避と結びつく要素は、この国の一般的な宗教的な思考にも根強く存在するからです。この世から逃れることが救いだと考えている人は決して少なくない。ありきたりの日常から離れて、ひとときでも非日常的な世界に身を置くことのできる時間を宗教に求める人は少なくないのです。さらには、テサロニケの「怠惰な」人たちのように、この世から隔絶したところに完全に身を置いてしまう人もいるのです。そのようにして、人はカルト宗教に捕らえられていくのです。

 しかし、聖書は全く逆のことを語っているのです。この目に見える世界は無価値などころか、この世界こそ神の造られた世界なのだと言うのです。エデンの園の物語を思い起こしてください。そこには何と書かれていますか。神は人を造って、園に住まわせ、「人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)と書かれているのです。労働は本来、神からの委託であり、神からの賜物でもあるのです。いわば、この目に見える世界との関わりにおいて神との交わりを経験する契機でもあったのです。

 この世界は神が造られた世界であるゆえに、神にとってこの上なく大事な世界なのです。どれほど大事かと言えば、独り子を目に見える体を与えてこの世界を歩ませるくらい大事なのです。また最終的にキリストを再臨させると約束されたくらい大事なのです。それゆえに、そこに生きる私たちの人生も神にとっては重大事なのです。神は関心をもってご覧になっておられるのです。私たちがこの世に生きる、当たり前の日常生活、同じことの繰り返しかもしれない労働の生活、あるいは様々な苦難を耐え忍びながら神を信じて生きる生活、そのすべてが神様にとって決して小さな取るに足りないことではないからです。

 「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」とはルターが言ったとされている言葉ですが、これは信仰者にとって忘れてはならない姿勢なのでしょう。終末的危機意識に限らず、危機的な状況がある時に正しい意味での危機感を持つことは大事です。しかし、危機感に支配されてはならないのです。そのような時こそ神に信頼して、落ち着いて、自らに託されていることを見出さなくてはならないのです。自分が召されている務め、その時に本当にしなくてはならないことを忠実に行うことこそが大事なのです。場合によっては、それはごく当たり前の生活をそのまま落ち着いて継続することかもしれないのです。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているように。

2013年9月15日日曜日

「神に愛されている子供ですから」

2013年9月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 
マタイによる福音書 19章13節~30節
    エフェソの信徒への手紙 5章1節~5節
    

心の清らかな人たちの国?
 今日読まれた福音書の中でイエス様はこう言っておられます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)。

 さて、イエス様は子供たちの何を見て、「天の国はこのような者たちのもの」と言われたのでしょう。ここで「子供たち」と言われているのは「幼子」を意味する言葉です。主が見ておられるのはまだ幼い子供たちの内にある「心の清らかさ」でしょうか。ならば、天の国は幼子のように心の清らかな者たちのものである、という意味になります。皆さんは心の清らかな者たちの国に入れますか。わたしとしては心の清らかな者たちの中に入れてもらえる自信はありません。しかし、イエス様が言っているのはそういうことなのでしょうか。

 実はイエス様が天の国について語る時に子供を引き合いに出されたのはこれが初めてではありません。18章の冒頭にこんな話が出てきます。弟子たちがイエス様のところに来て言いました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。するとイエス様は一人の子供を呼び寄せて、彼らの中に立たせてこう言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)。

 イエス様は子供の何を見て、「心を入れ替えて子供のようにならなければ」と言われたのでしょう。続けて主はこう言われました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」(同4節)。子供のようになるとは、「自分を低く」することだと言われています。それは「謙虚になる」ということでしょうか。はたして子供はそんなに謙虚でしょうか。いやむしろ謙虚さの欠けた人について、否定的な意味で「あいつは子供みたいな奴だ」と言うのではありませんか。どうも「自分を低くする」とは、単に「謙虚な人になる」ということではなさそうです。

どんな善いことをすればよいのでしょうか
 今日の朗読箇所に戻ります。イエス様が「天の国はこのような者たちのもの」と言われた話の後に、もう一つの話が続いていました。一人の男がイエス様に近寄ってきてこう言ったという話です。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)。この二つの話が続いているのはマタイによる福音書だけではありません。マルコによる福音書でも、ルカによる福音書でも同じです。どうもこの二つの話はセットになっているようです。

 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。これは「天の国に入るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とも言い換えられます。「どんな善いことをすれば」――救いを求める者として、それは極めて真面目な姿勢ではありませんか。そして、実際彼は善いことをしてきたのです。イエス様が十戒の言葉を並べて「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と言いますと、即座に彼はこう答えたのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(20節)。神の掟はこれまでずっと守ってきた。しかし、それでもなお永遠の命を得るには、天の国に入るには十分ではないと思えたから、イエス様に問うたのです。

 すると主はすかさずこう答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。「貧しい人々への施し」はユダヤ人の社会においても重視されてきたことです。律法を幼い頃から守ってきたこの人は、察するにこれまでも施しについて熱心にこれを行ってきたに違いありません。しかし、イエス様の言われたことは、明らかに全財産の処分と施しです。これはいくら律法に熱心である者にとっても、無茶苦茶な要求です。しかもイエス様は多くの財産を持つこの人に、あえてこのことを求められたのです。

 他のことならば、ある程度無茶な要求であっても従えられたかもしれません。しかし、よりによってこの裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。意地悪でしょうか。いいえ、この人がどうしても知らなくてはならないことを知らせるためでした。「天の国はこのような者たちのものである」。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。先に読みましたこの言葉の意味するところを彼は知らなくてはなりませんでした。そして、私たちもまた知らなくてはならないことです。

 この人は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とイエス様に尋ねました。この問いは何を意味しますか。要するにこの人は、自分の行う「善いこと」と引き替えに天の国に入ろうとしたということです。いわば神様との取引によって救いを得ようとしたのです。ですから主はその取引を手伝ったのです。行き着くところまで押し進めたのです。そうです、神様との取引を押し進めるならば、ここに至ります。自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならないのです。

 いや、全額など払いきれるはずがないのです。たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけではない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは人間の善い行いで買えるほど安物ではありません。それが自分の行いで獲得できると思っていること自体が人間の思い上がりなのです。いや人間の思い上がりはそこで留まらないのです。さらに進むとどうなりますか。あの弟子たちのようにお互いを比べ合って「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」とさえ言い出すようになるのです。

 だから主は言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と。「子供のようになる」とは、先に見たように「自分を低くする」ことです。それは世間で言う「謙虚な人」になることではないのです。そうではなくて、何も持たない者として神の前に立つということなのです。天の国に入るために、永遠の命を得るために、代わりとして差し出すことのできるようなものは何も持たない者として神の御前に出るのです。何も持たない子供のように御前に出て、ただ親が子供を愛して用意した善きものを喜んで受け取るしかないのです。それゆえに何も持っていない幼子らを指して、「天の国はこのような者たちのものである」と主は言われたのです。

神に倣う者となりなさい
 そのように子供のような者として神との関わりの中に生きてこそ、神との取引材料ではない「善いこと」が私たちの生活の中に生まれてくるのでしょう。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というような他の人との比較材料ではない「善いこと」が私たちの生活の中に生まれてくるのでしょう。そのような私たちの本来の姿が、今日読まれたもう一つの聖書箇所において次のように表現されていました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。

 「神に倣う」という表現はここにしか出てきません。極端な表現にも思えます。神に倣うことなどできるはずがない、と思うかもしれません。しかし、もう一方において「倣う」とは「まねる」という意味の言葉ですから、ここで求められているのは、所詮は「ものまね」に過ぎないとも言えます。神になれるわけではない。同じことができるわけでもない。所詮は不完全な真似事です。

 例えば、幼い息子が料理人である父親を尊敬して、憧れて、その仕事を真似したくなる。そのようなものです。真似して何かを作ったとしても、できるのは料理とはとても呼べない代物でしょう。しかし、それを見て父親は、「こんなもの店に出せるか」と言って殴ったりはしない。父親に憧れて、見よう見まねでやったことを大いに喜んで誇りに思うことでしょう。

 信仰生活とはそのようなものだと、この箇所を読む度に思うのです。愛されている子供として、父である神を愛して、神にあこがれて、神がしてくださったことを真似てみる。神様と私たちとの違いは、料理人とその息子の腕の違いどころではありませんから、それこそ私たちが真似てみたところで、似ても似つかぬことをすることになるのでしょう。食べられないような料理を作るのでしょう。しかし、それでも愛されている子供として真似てみるのです。

 それが例えば直前に書かれている「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:22)ということなのでしょう。あるいは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」ということなのでしょう。

 または否定的な面から言うならば3節以下に書かれているように、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」ということであり、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」(4節)ということでもあるのでしょう。

 これらはすべて、私たちを愛して、とてつもなく大きなことを私たちのためにしてくださった神の物まねなのです。神の物まねですから、恐らくはあまり似てないのです。「わたしはこれだけ親切にしました」「人を赦しました」「身を捧げて愛しました」「下品な冗談を言わなくなりました」と言っても、なんら誇るほどのことでもないのです。たぶん似ていないのですから。ましてや、「これだけのことをしているのだから天の国に入れてくださいね」と胸を張って差し出せるようなことではないでしょう。私たちがやっていることは、恐らくは猿まね以下のことなのですから。

 しかし、それでもよいのです。私たちはここに神に愛されている子供たちとして生きるようにと招かれているのです。似ていようがいまいが、それでも神を真似て生きるのです。神との取引ではない、他の人との比較でもない、ただただ私たちを赦して愛してくださった天の父に感謝して、天の父に憧れて、父の愛を目に見える姿で現してくださったイエス・キリストに憧れて、神に倣って生きるのです。その時、イエス様はそのような私たちをも指してこう言ってくださることでしょう。「天の国はこのような者たちのものである」と。

2013年9月8日日曜日

「憐れみは裁きに打ち勝つ」

2013年9月8日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブの手紙 2章1節~13節

    マタイによる福音書 18章21節~35節

 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。それが人道的に良くないことだから「人を分け隔てしてはなりません」と言っているのではありません。主イエス・キリストを信じる信仰と「分け隔て」とは本来相容れないものであるはずだ、という意味で、「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 今日はヤコブの手紙を読んでいますが、パウロもまたガラテヤの教会に宛てた手紙の中で次のように書いています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26‐28)

 実際、初期の教会が社会に与えた強烈なインパクトの一つは、本来なら共にいないはずの人々が同じ食卓についていることでした。ユダヤ人と異邦人が共にパンを裂いて食べている。奴隷の階級の人と自由人とが、富める者と貧しい者が、共に賛美して食事を共にしている。それはあり得ないことだったのです。

 そのようなあり得ないことがどうして起こったのかと言えば、それはイエス・キリストを信じる信仰の絶大な価値を認識していたからです。キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に向かって「われらの父よ」と祈る者とされたこと、そのように神に受け入れられ神の子供たちとされ、神の国を受け継ぐ者とされていること、完全な救いにあずかる永遠の希望を抱いて生きる者とされたこと。そのような同じ恵みにあずかっていることこそが重要なのであって、その事実の前においては他のいかなる違いも重要性を失ってしまったのです。パウロの言葉によるならば「キリストを着ている」ということが重要なのであって、着ているのがユダヤ人であろうが異邦人であろうが、富める者であろうが貧しい者であろうが、それは大きな意味を持ち得なかったのです。

教会において起こる分け隔て
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。それが本来の教会の姿です。しかし、そのようなキリストを信じる信仰が光を放つ一方で、罪あるこの世の教会においては、残念ながらキリストを信じる信仰とは相容れないことも起こります。ですからヤコブはこのようなことまで書かなくてはならなかったのです。「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。

 そして次のような一例が挙げられています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2‐4節)。いかにもえげつない話です。世の人が聞けば「信仰云々の前に人としてどうなのか」と言うでしょう。

 しかし、ここに書かれているのは、単にこの世の差別意識が教会にも持ち込まれたという単純な話ではありません。このようなことは教会のことを真剣に考える敬虔な人々において起こっていたのかも知れないのです。そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それはそのような人の存在が教会にとって有利であったからです。貧しい人が多かった初期の教会でしたから実際の活動の継続も困難であったに違いありません。聖餐のパンや食事も、裕福な人が主に用意したのです。集会の場所も裕福な人たちが提供していたのです。6節以下にあるように、この世の富裕層からしばしば教会が酷い目に遭わされたり脅かされたりすることがあったのでしょう。そのような時、教会の中に富裕層の人たちがいることは極めて有利なことだったに違いありません。このように教会の中に起こる分け隔てや差別というものは、教会のことを思う時に、その人の存在が教会にとって有利か否か、役に立つか否かという判断をしてしまうことによって起こるのです。

 ですから、それは富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こることでしょう。例えば、私たちが「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う時、何を考えてそう言っているのでしょうか。本当に若い人たちを愛して福音を伝えたいと思ってそう言っているのか。それとも教会を維持するために必要だからそう言っているのか。もし後者ならば、今日の聖書箇所に書かれていることと変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと大して変わらないことでしょう。

 そして、さらに言うならば、そのような分け隔ては「他者」に対して行われるだけでなく、「自分」に対しても行われ得るのです。他の人について「あの人は必要、あの人は必要ではない」というだけでなく、自分についても「わたしは必要な人」と考え、あるいは「わたしは必要ない人」と考える。しかし、それは他者を見る目が自分に向けられているだけなのです。自分は貧しいからいてもいなくてもいい人。自分は能力がないから必要ない人。そう思うのは、他の人についてそう思っているから、そのような目をもって他の人を見ているから、自分についても同じことを思うのです。

目を向けるべきところに向けて
 ではどうしたら良いのでしょうか。私たちは特に4節の言葉を心に留めたいと思います。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」ここで「誤った考え」とあるのは「悪い考え」という言葉です。確かに差別は悪いことです。それは「悪い考えに基づく判断だ」と言うことができます。しかし、ここでヤコブが言っているのはそのようなことではありません。ここで起こっているのは、先にも触れたように、要するに信仰とは相容れないことなのです。あくまでも問題は信仰に関わることなのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向けているか、信仰によって価値あるものを価値あるものとして見ているかどうか、ということなのです。そうなっていない時に起こってくる判断。それが「悪い考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとするのです。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。どこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が信仰に富ませてくださったという事実です。そうです、既にこの上なく豊かなのです。

 それは1節にあるように「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる信仰」です。すなわちイエス・キリストによって実現したことなのです。先に述べたように、キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に受け入れられ神の子供たちとされ、そこに書かれているように「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者」とされたということです。そのような神が既にしてくださった偉大なことに目を向けないから、そうでないところに目が行くのです。この世的な違いや、自分たちにとって有利か不利かというところにばかり目がいくのです。そして結果的には神がしてくださった大いなることを踏みにじることになるのです。例えばここに書かれているように「貧しい人を辱めた」という形で起こってくるのです。

憐れみは裁きに打ち勝つ
 さて、このように今日の聖書箇所においては「人を分け隔てしてはなりません」という勧めがなされていたのですが、最後に、この部分が次のように締めくくられていることに注目しておきたいと思います。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)。ここで「憐れみをかける」という話が出て来るのはいささか唐突な感じがしないでもありません。「人を分け隔てしない」ということと「憐れみをかける」ということは、全く別なことのように思います。「分け隔てをしない」ということがすなわち「憐れみをかける」ということならば、上から人を見て「分け隔てをしないであげよう」という意味合いにもなりかねません。

 しかし、今日の福音書朗読において語られていたイエス様のたとえ話に耳を傾ける時に、「憐れみをかける」という言葉は全く違った意味合いをもって響いてきます。そこで語られていたのは、王によって一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話でした。借金を帳消しにされた家来が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うのです。百デナリオンは一万タラントンの六十万分の一です。その仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、借金を返すまでと牢に入れたのです。それを聞いた王は怒りました。そして、こう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32‐33)。

 この王とは神であり家来は私たちです。「憐れんでやるべきではなかったか」。その「憐れみ」の源は神様です。「わたしがお前を憐れんでやったように」。要するに「憐れみをかける」とは、神がしてくださったことに目を向けて、神がしてくださったことに基づいて判断し、行動することなのです。

 「分け隔てをしない」ということは、まさにそのようなことでしょう。神様がしてくださったことに基づいて判断し、行動するならば、分け隔ては起こらないはずなのです。そうでない判断は「悪い考えに基づく判断」と呼ばれていました。ちなみに「判断する」とは「裁く」という言葉です。悪い考えに基づく裁き、すなわち神がしてくださったことを思わない「裁き」、それが「憐れみをかけない」ということです。そうするならば「憐れみのない裁きが下されます」と語られているのです。

 神の憐れみが先になかったかのように裁くなら、そのように私たちも神に裁かれることになるでしょう。自分が裁く裁きで裁かれるのです。逆に神の憐れみが先にあることを思いつつ、それに基づいて裁く(すなわち「判断する」)なら、そのように神もまた憐れみに基づいて裁いてくださる。私たちにおいて「憐れみが裁きに打ち勝つ」なら、神においても「憐れみが裁きに打ち勝つ」のです。そうです、その時には憐れみの方が裁きよりも遙かに大きいのです。神のしてくださった大いなることに目を向けて、神の憐れみの内にある者として、新しい週の歩みへと遣わされていきましょう。

2013年9月1日日曜日

「心を一つにし思いを一つにして」

2013年9月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10節~17節


分裂した教会
 「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。今日の礼拝で朗読された聖書の言葉です。いかなるコミュニティであっても内部に仲たがいなどないに越したことはありません。バラバラであるよりは一つになれた方がいいに決まってます。ここには何ら特別なことが書かれているわけではありません。しかし、そんな当たり前のことがあえて勧められているのは、当たり前のことを当たり前のように実行することが現実には難しいからでしょう。仲たがいなしに共に生きることは難しい。それは教会についても例外ではないわけで、ですから教会に宛てた手紙にまでこのようなことが書かれているのです。

 確かにコリントの教会にはこう書かざるを得ない状況がありました。先ほどの勧めは次のように続きます。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(11‐12節)。

 そこには「わたしはパウロにつく」と言う人々がいました。コリントの教会は、使徒言行録16章に記されているように、パウロとその一行の開拓した教会です。ですからそこにパウロを殊更に慕う人たちがいたとしても不思議ではありません。しかし、あえて「わたしはパウロにつく」と言う人々がいたということは、もう一方に「わたしはパウロにはつかない」と言う人々がいたからでしょう。コリントの教会の中にはパウロに敵対する人たちがいたのです。その事情はこの手紙の先の方まで読みますと明らかになってきます。そのような教会だったからこそ、パウロを使徒として受け入れ、あえて彼を支持することを表明する人たちがいたのです。

 その一方で、ある者たちは「わたしはアポロにつく」と言っていました。アポロという人物は使徒言行録18章において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大中心地でした。そこが出身地であるとわざわざ書いてあるのは、彼が教養豊かで修辞学にも長けていたことを言いたいのでしょう。そのような伝道者がパウロの去った後のコリントにやってきて活動していたのです。他方、パウロについてはコリントの一部の人たちから「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と評されていました。パウロよりもアポロとの関係を強調する一群の人々が現れたとしても不思議ではありません。

 また、ある人々は「わたしはケファにつく」と言っていました。ケファというのはペトロのことです。もしかしたら、ペトロもコリントに滞在したことがあったのかも知れません。しかし、そうでなくても、ペトロはイエス・キリストの直弟子として、そしていわば教会の本家とも言うべきエルサレムの教会の代表的人物として、大きな影響力を持っていました。恐らくはユダヤ人を中心としたエルサレムの教会の優位性を主張していたユダヤ人キリスト者の一群が、ペトロとの特別なつながりを強調していたものと思われます。

 しかし、今日特に注目したいのはその次です。そこには「わたしはキリストにつく」という人々がいたというのです。明らかにこのグループだけは異質でしょう。「キリストにつく」という主張は、「パウロであれアポロであれペトロであれ、それがどれほど偉大な人物であっても、私たちは人間にはつかない」という意識の表れと言えます。恐らくそのような人たちは目に見えないキリストとのスピリチュアルな交わりを大切にしていた人たちだったでしょうし、またそのような霊的な体験の豊かな人たちであったに違いありません。

 そもそも決して完全ではない「人間」を持ち上げて、あの人につくとかこの人につくとか言っているから分裂が起こるのであって、キリストにこそしっかりと結ばれることが大事なのである。そう言われたらなるほどもっともな話でしょう。その意味で「キリストにつく」という主張は健全であり正しいとも言えます。しかし、皮肉なことにその正しい主張をするたちが分裂と仲たがいの一要因となっていたのです。しかも、そこで造り出される分裂状況は極めて深刻なものとなるでしょう。なぜなら「パウロにつく」「ペトロにつく」というような言葉、つまり人間とのつながりは相対化され得ますが、「キリストにつく」という言葉は絶対的な意味を持つことになるからです。「自分たちこそキリストについているのだ」という主張は「他の人々はキリストについていない」という主張にも成りかねないわけですから。それは極めて深刻な分裂を生み出すことになるのです。

キリストの体であるのだから
 そこで私たちはパウロの言葉に改めて耳を傾けねばなりません。彼はこう前置きしているのです。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」(10節)。この「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」とは重い言葉です。これは言い換えるならば、「わたしではなく、主イエス・キリストが勧めているのだ」ということだからです。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」というのは、他ならぬキリストの願いであり、キリスト御自身が求めていることなのだ、ということです。

 逆に言えば、分裂した状況をあえて続けるということは、キリストの求めを踏みにじることであり、キリストに対する意図的な反抗となるのだということなのです。それは最後の「キリストにつく」と言う人たちについても言えるのです。どれほど心情的にキリストを愛し慕う思いに溢れていたとしても、あるいは仮に神秘的なキリストとの交わりを体験していたとしても、そう言いながら実際にはキリストに逆らっていることがあり得るということです。

 そこで決定的に重要な意味を持つ言葉は13節の言葉です。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(13節)。パウロがこのように語るのは、これが教会における話だからです。彼はこの手紙の後の方で次のように語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント12:27)。

 人は教会を単なる人間の集まりと見るかも知れません。事実人間が集まっているわけで、天使の集まりではありません。ですから教会は人間が持つ弱さや欠けや罪深さをそのまま内に有しています。教会を天使の集まりだと思っているなら、必ず失望することになるでしょう。しかし、それでもなお聖書は教会を「キリストの体」と呼ぶのです。神はそう見ていてくださる。キリストに結ばれ、キリストの命が通っていて、そして、キリストの御心をこの地上に実現するためにキリストが用いてくださる体です。私たちはその部分だと言うのです。それぞれかけがえのないキリストの体の部分なのです。ならばそこに分裂が生じ、互いが反目し合うようになるならば、それはキリストの体をバラバラにしてしまうことになるではありませんか。

 パウロはあえてそこで「パウロにつく」と言っている人たちに語りかけます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」(13節)。先にも申しましたように、コリントの教会には、パウロには敵対する人々がいたのです。もし誰かが私たちに敵対していたとするならば、私たちは一人でも多くの人が自分を理解してくれ、味方になってくれることを求めるのではないでしょうか。しかし、そのような状態でありましても、パウロ自身は、「わたしはパウロにつく」と言っている人々の存在を喜んではいなかったのです。彼にとっては、自分の味方がいることよりも、キリストの体が一つとなることの方が大事だったからです。キリストこそが大事なのです。なぜなら、キリストこそ私たちの罪のために十字架にかかられた方だからです。パウロに反対する人たちによってパウロの名誉は傷つけられてきたのかもしれません。パウロの立場は損なわれてきたのかもしれません。しかし、パウロにとっては自分の名誉にせよ立場にせよ、キリストの体を傷つけてまでも守らねばならないものではなかったのです。

 さらにパウロは言います。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。「パウロの名によって」と訳されていますが、もともとは「パウロの名の中へ」という言葉です。「パウロの名の中に入れられる、パウロに結びつけられる、そのような洗礼を受けたのか」と問うているのです。そうではありません。彼らは、キリストの名の中に入れられる、キリストに結ばれる、そのような洗礼を受けたはずです。そのようにしてキリストの体の一部となったのです。すなわち教会の一人となったのです。

 その後でパウロが「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」(1:17)と言っているからと言って、彼が洗礼のことを重んじてはいないと考えてはなりません。むしろ、ここでキリストとの関連でどうしても話に出さなくてはならないほど重要に考えているのです。

 洗礼はご存じの通り水を用いて行います。水は手に触れることができるし、目に見ることもできます。そして、洗礼式は、目に見える教会の中において行われます。そこには目に見える具体的な現実の人々がいるのです。そのことによって、洗礼は、目に見えないキリストとの信仰的な関わりを、目に見えるこの地上の現実と結びつけるのです。洗礼というものは、キリストとの関係をただ心の中のこと、頭の中のことにすることを許さないのです。私たちを目に見える教会と結びつけ、キリストの体に結びつけるからです。

 ですから、逆に言うと、洗礼を重んじないとどうなってしまうのか。洗礼を重んじない信仰生活はどうなるのか。そのような信仰は極めて個人的な心情的なものとなってしまいます。ですから、キリストを愛すると言いながらキリストの体を傷つけたり破壊したりするという矛盾に満ちたことが起こるのです。「わたしは人間ではなくキリストにつく」という人がかえってキリストの体である教会を傷つけたり破壊したりするようなことが起こるのです。

 決定的な出来事はただ一度かぎり、あのカルバリの十字架において起こりました。聖書はその事実に私たちの目を向けさせます。十字架にかかってくださった方は、あのイエス・キリストただお一人です。私たちのために、この地上で、現実に血を流してくださって罪を贖ってくださったのは、ただこの方お一人です。その御方の前では、すべてが相対化されます。あらゆる人間も、あらゆる人間の主張や体験も相対化されます。キリスト者となるとは、洗礼によって、そのただ一人の御方の御名の内へと入れられることです。その御方の体の一部となることです。その事実こそが重要なのです。「わたしはキリストにつく」という意識を持つ人は、自分は信仰的に行動していると思う人は、自分がキリストの体の一部であり他の部分と結ばれているのだということを絶対に忘れてはならないのです。

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