2013年8月25日日曜日

「何事でも願うがよい」

2013年8月25日 主日礼拝
東京神学大学 修士課程2年 三橋侑子
聖書 列王記上 3章4節~15節 

 今日の聖書箇所には「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた主に、ソロモンが「聞き分ける心を与えて下さい。」と願った話が収められています。父ダビデの後継者として新しい王に立てられたソロモン王の初期の頃の出来事です。この一連の話は、自分のためではなく、神様の民、今でいう教会を正しく導き治めるための願い事をしたソロモンの賢明さや謙虚さにスポットが当てられがちです。確かに、このソロモンから学ぶ祈りの姿勢があるでしょう。しかし、聖書はまた違った角度からも、この話を伝えようとしています。

主に従わずに滅んだ民たちの記録
 今日の聖書箇所である列王記は、ソロモンが生きていた時代に書かれたのではありません。ソロモンが王として立てられたイスラエル王国が南北に分裂し、最初に北イスラエル王国が、続いて南ユダ王国が滅び、バビロン捕囚となった後に書き始められたと言われています。イスラエル民族は、国を失い、捕囚となった地で、自分たちの歴史を振り返るのです。ただ単に起こったことを時系列で振り返ったのではありません。なぜ自分たちは国を失い、捕囚となったのか。それは主なる神様に聞き従わなかったからだ。そう受けとめた人々による自分たちの背信の記録なのです。ですので、今日の聖書箇所においても、ソロモンは良い願い事をした王として、ただ楽観的に記されているのではありません。主に逆らい、王国に分裂をもたらすことになったソロモン王の初期の時代を、自分たちの背信の歴史として振り返っているのです。

既に始まっていた主からの離反
 「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「ギブオン」は、ソロモンがいたエルサレムから約九キロ離れている地です。また「聖なる高台」というのは、イスラエル王国の先住民カナン人が祭儀に利用していた聖所です。イスラエル王国の王が、エルサレムから離れたギブオンにあるカナン人の聖所で、主なる神様にいけにえをささげていたということです。それは、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)からであり、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)のでした。
 ソロモンは不敬虔な王ではなかったのです。主を愛し、父ダビデの授けた掟に従い、「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を捧げていました。「焼き尽くす献げ物」というのは、レビ記1:4によりますと、献げる人の罪を贖う、いわば「赦される」ための献げ物です。また、自分自身を焼き尽くして完全に捧げる「献身」のしるしでもありました。ソロモンは、主に罪を赦していただき、自分自身を完全に焼き尽くして献げるために、一千頭もの献げ物を献げていたのです。

 しかしここに、主の言葉への違反が潜んでいました。主はかつて、こう語られていました。「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい」(申命記12:2)。罪を赦していただくための、そして献身のしるしとしての献げ物をしている、まさにその所で主の言葉に背いていた、というのはまことに皮肉なことです。ソロモンは主を愛していました。しかし、主の言葉を軽んじていたのです。

 ソロモンが主の言葉を軽んじていたのは3章1節からも分かります。「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。」おそらく、当時の有力な国エジプトの王の娘と結婚することは、イスラエル王国にとって得策と思えたのでしょう。実際、この結婚によってイスラエル王国は外交関係が栄え、国として豊かになっていくのです。しかし、主の言葉はこう語っていました。「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない」(申命記7・3)。ソロモンは主の言葉よりも、自分の考えを優先させていたのです。

願い事を聞かれる主
 主がソロモンに姿を顕されたのは、そんな中でした。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう。』と言われた」(5節)。主はソロモンの罪をご存知だったはずです。しかし、主がとられた行動は罪の指摘ではなく、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と声をかけることでした。

 ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を正しく判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」と願い、その願いは聞き入れられます。主はソロモンに知恵と富と栄光をお与えになりました。しかしここで注目すべきなのは、ソロモンにお答えになった主の言葉の最後の部分です。「もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(14節)。この「父ダビデの歩んだように」は、ソロモンの願い事にも出てきた表現です。主に語りかけられたとき、ソロモンは開口一番こう述べています。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました」(6節)。

 主の関心は、ソロモンが父ダビデのように主に忠実に聞き従うことにありました。主の言葉から離れていくソロモンに本当に伝えたいことを伝えるために、主はギブオンまで出かけて行き、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう。」と語りかけられたのです。極端な言い方をすれば、願いを聞き入れることを手段としてでも、ご自分との正しい関係の中に招き返そうとされた。それが、主がソロモンに対してとった行動でした。

立ち返ったソロモン
 その後、ソロモンはどうしたでしょうか。「ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」(15節)。具体的に何を思ったのか、考えや心の動きは記されていません。しかし、「ギブオン」の「聖なる高台」で「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を献げていたソロモンが、すぐさま「エルサレムに帰り」、「主の契約の箱の前に立って」、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」という行動が全てを物語っています。

 ソロモンは、立つべき場所に立ち返ったのです。エルサレムに帰って、主の契約に忠実に歩むことができるように、父ダビデが歩んだように主との正しい関係の中で歩むことができるように、礼拝を献げたのです。一千頭という量を献げるためではなく、主との契約の中で、主の言葉に従う自分として歩み直すために礼拝を献げました。

 このときのソロモンの姿を思うとき、イスラエル王国の初代の王サウルに、預言者サムエルが語った言葉が思い出されます。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)。サウルは、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を戦利品の中から取り分けて、主に献げようとしたことがありました。「滅ぼし尽くしなさい。」という主の言葉よりも、自分が良いと思うことを優先させました。主への反逆は、主への善意の中にも入り込んでくるのです。

 ソロモンはここでさらに、「焼き尽くす献げ物」と共に「和解の献げ物」を献げています。「和解の献げ物」は「神との平和」「人との平和」を表す献げ物です。本来ならば、神にとって忌み嫌うべき存在である私たちが罪の赦しをいただいて、神の食卓に招いていただくことを表す献げ物です。それはつまり、神と共なる生活に招かれるということです。主の言葉を締め出し、聖なる高台を築いて、自分の考えで生活を送ってきた、その自分がもう一度、罪赦され、神と共に生きる生活に招いていただくのです。

 ソロモンはその食卓に、「家臣のすべてを招いて」(15節)います。かつてのソロモンには、ギブオンの聖なる高台が「重要」(4節)と映っていました。しかし今は、本当に重要な場所がどこであるかが分かったのです。神が罪の赦しを与え、和解の食卓に招いてくださる礼拝と、神と共に生きる生活こそが、本当に重要な場所であることを悟ったのです。そして、人々をそこに招くという、本来の王としての姿に回復させられました。

罪の実り
 そのようにして一度は立ち返ったソロモンですが、始めに申しましたように、11章以降からソロモンの背信が始まり、結果、王国の分裂に至っていきます。ソロモンは再び、主の言葉に聞き従う生活から出て行ってしまったのです。願い事だった知恵は与えられ、国は豊かになりました。神殿も立ちました。あらゆる富と栄光が与えられました。しかし、主に聞き従う心を失っていくのです。そして、自身に滅びを招いたどころか、国を分裂、崩壊させていくこととなりました。

 最後に、11章から始まるソロモンの背信の内容を確認しておきましょう。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」(11:1)。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべきケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行った」(11:7・8)。ソロモンが3章で行ったファラオの娘との結婚と、聖なる高台での礼拝が思い出されます。主を愛し、賢明で謙虚な願い事をした王として描かれる初期の時代に、既に、主の言葉に逆らう罪の芽が生え出ていたことを聖書は知らせています。罪の芽はソロモンの中で着実に育ち、大きくなって、11章からの背信へと実っていったのです。

私たちが願うべき事
 私たちの心や生活の中にも立ち現れてくる「重要な聖なる高台」があります。「神様はこうおっしゃるけれど、世ではこっちの方が重要だから。」敬虔に見える礼拝行為の中に潜む主の言葉の軽視があります。「今日の御言葉は私の考えに合わない。」主への善意の中に入り込む主の言葉への反逆があります。「こっちの方が神様を喜ばせることができるのではないか。」このように、主の言葉を軽んじさせる小さな高台から、人生を滅びに向かわせ、周りの人々や国をも崩壊させる将来が始まっていくのです。

 「何事でも願うがよい。」そう声をかけられたソロモンが願うべきだったのは、父ダビデが示した「憐れみ深く正しい心」をもって主に聞き従って歩むことでした。「何事でも願うがよい。」これは、罪を犯しているまさにその場所でこそ聞こえてくる主の言葉です。滅びの道に向かうに早い私たちを守ろうとする愛の配慮の言葉です。主からの関係回復への招きの言葉です。「何事でも願うがよい。」そう声をかけられた私たちは、そんな主の御思いに結び付けられて「主に聞き従う心」をお与えください、と願う者でありたいと思います。

2013年8月18日日曜日

「希望にあふれて」

2013年8月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハバクク書3:17~19、ローマの信徒への手紙8:18~25

  「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」(3:17)。今日お読みした聖書箇所に書かれていました災いの描写です。しかも、これは文脈からすると他国の襲来による災いの描写なのです。そのような時、人は悲しみ、落胆し、嘆き、あるいは怒るのでしょう。しかし、この人はこう続けるのです。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(3:18‐19)。この人は羊や牛を奪われても、喜びを奪われないのです。田畑の収穫を失っても、生きる力を失わないのです。彼はこれがすべての結末だとは思っていないからです。彼はなおも前を向いて、待ち望む者として生きているのです。

主よ、なぜですか
 しかし、初めからそうだったわけではありません。この書の冒頭にまで遡ってみましょう。この書は喜びの歌声ではなく、神に対する嘆きと訴えの言葉から始まります。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:2-4)。

 紀元前7世紀にユダの国にヨシヤという王がいました。ヨシヤ王については、聖書が次のように語っています。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(列王記下23:25)。そのヨシヤの時代に、神殿からモーセの律法の書が発見されました。ヨシヤ王は、その書を読み、悔い改め、主に立ち帰ります。彼は律法の書に従い、宗教改革を断行しました。国家全体が主に立ち帰るためでした。この事は国内に良き秩序を回復しました。正義が回復されつつありました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして戦死してしまったのです。ひとつの時代が終わりました。崩壊が始まりました。そしてハバククの時代には、すでに国家は秩序を失い、ここの書の冒頭に記されているような惨状だったのです。

 なぜ暴虐と不法が許されているのか。なぜヨシヤの改革によって理想国家が誕生しなかったのか。なぜ中途でヨシヤが戦死してしまったのか。なぜ神はこのような状態を放っておかれるのか。なぜ沈黙しておられるのか。不可解な現実を前にして、ある人は神に背を向けるのでしょう。しかし、彼は神に背を向けなかった。神に向き続け、神に問い続けるのです。神にしがみつくようにして「なぜ」と問い続けるのです。

 問い続けるハバククに主は答えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われるのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る」(1:6-7)。

 カルデア人とは当時にわかに勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。事実、その徴候は十分に見られました。国内の混乱に加えて外国の襲来。つまり、事態はさらに悪くなりつつあったのです。それが神のなさろうとしていたことだったのです。

 ハバククは神の言葉を受け止め、こう語ります。「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」(1:12)

 ハバククはカルデア人の襲来を神の懲らしめとして理解しました。たしかに私たちは悔い改めなくてはならない。しかし、それにしてもまだ腑に落ちません。彼はこう続けます。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか」(1:13-17)

 「彼ら」とは「カルデア人」のことです。彼らはこんなに酷いことをしているではないか、とハバククは訴えるのです。つまり、こういうことです。確かにユダも不敬虔かも知れないが、カルデア人のほうがずっと不敬虔ではないか。カルデア人は随分残忍なことをしているではないか。そして、その残忍さのゆえに今や恐るべき勢力を誇っているのではないか。神を神としない、また人道をわきまえないカルデア人が、少なくとも彼らよりは正しいと思われるユダを懲らしめるために立てられるのはおかしいではないか。神の正義、神の清さはどうしてこれを許されるのか。ハバククには全くもって不可解なことでした。

 しかし、彼は祈ることをやめませんでした。目の前の出来事がいかに不可解であろうとも、彼は祈ることをやめないのです。むしろますます神に向かいます。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(2:1)。彼はどんなに苦しくとも神から顔を背けません。必死で神の語りかけを聞こうとします。神の御思いを知ろうとするのです。

信仰によって生きる
 そのようなハバククに主は答えられました。神様はひとつの幻を示されたのです。それは神御自身が決着をつけられる時についてです。それは、2章6節以下に見るように、バビロニア帝国が裁かれ、滅びるということでした。その幻について、主は言われるのです。「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3)。繁栄を極めたバビロニア帝国が滅びることなど、とうてい考えられないことでした。しかし、主はその時が来ると言われたのです。たとえ、遅くなっても待っておれ、必ずその時が来るから、と言われるのです。

 さて、ハバククに対して主が語ってこられたことはいったい何でしょう。主はこう言われたのです。「それは終わりの時に向かって急ぐ」と。つまり、言い換えるならば「まだ終わりではない」ということです。今見ていることが結末ではないということです。その先がある。神が備えておられる先がある。人間が途中だけを見ると全く不可解なのだけれど、神御自身にとっては不可解ではないのであって、神にはその先に為そうとしておられることがあるのです。それは今は見えない。想像することもできないことかもしれない。しかし、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と主は言われる。それは人間の目には遅いように見えるかもしれないけれど、神の計画の中においては「手遅れ」になることはないのです。

 そこで、主はこう言われたのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)。ここで神が言われる「信仰によって生きる」という意味は明確ではありませんか。どこまでも信頼して待ち望むことです。神に信頼して将来に目を向け、待ち望む。神の時を待ち望む。それがハバククの得た神の答えだったのです。

 最初に読んだ言葉は、そのように、信仰によって生きることを神より教えられた人の言葉です。彼は主に信頼して待ち望む。それゆえにまた、現在がどのような状態であったとしても、喜びをもってこう歌うのです。「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。

希望をもって待ち望む
 そして今日は「信仰によって生きる」ということを語り続けたもう一人の人の言葉をお読みしました。パウロはこう語っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)

 「現在の苦しみ」。パウロはそこでまず自然界の苦しみを語っています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(同8:22)。そうです、実際、私たちもまたうめき苦しんでいるこの自然界の姿を見ているのでしょう。そして、それをもたらしているのは人間の罪であるに違いないのだけれど、その人間もまた自然界の一部として苦しみうめいているわけです。それは「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(同8:23)、すなわちキリスト者であっても例外ではありません。しかし、パウロはあくまでも「現在の苦しみ」と表現するのです。それは途中のことなのです。最終的な苦しみではないのです。その先に待ち望むべきものがある。神に信頼して、待ち望むのです。それを「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とパウロは表現するのです。

 「現在の苦しみ」と言い、「将来の栄光」と言う。そのときにパウロの念頭に常にあったのはキリストの十字架と復活なのでしょう。ですから、その直前にもこう言っているのです。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(同17節)。十字架の苦しみは復活の栄光へと続いていたのです。先ほど自然界の苦しみについて引用した言葉にもこの信仰が現れていました。「共に産みの苦しみを味わっている」と書かれていました。読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、しかし、これは苦しみの意味を決定的に変える言葉でしょう。産みの苦しみは最終的な苦しみではないのです。その先に大きな喜びが待っているのです。いや、「その先に」は適切ではないかもしれません。それが産みの苦しみであることが分かっているならば、苦しみが始まった時に、既に喜びは始まっているとも言えるのでしょう。

 そのように、この世において体を持つ者として苦しみを免れない私たちであっても、神の栄光にあずかる救いの完成の時は将来であったとしても、その救いを待ち望む確かな希望に生きているならば、既に救われていると言うことができるのです。救いの喜びは既にそこにあるのですから。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とパウロは苦しみの中にあって宣言するのです。


 私たちは神に信頼し、希望に生きる民とされました。しかも、キリストの十字架と復活によって信仰に導き入れられた私たちは、ハバククよりもさらに確かな希望をもって将来に目を向けることができるのです。彼は言っていました。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。私たちはさらに大きな希望に満ち溢れてそのように語りながら生きることができるのです。

2013年8月11日日曜日

「人間関係の土台」

2013年8月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 3章17節~4章1節

 ここには私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきかを教えている聖書箇所です。しかし、私たちはここだけを取り出して「より良い人間関係を築くための秘訣」のように読んではなりません。その前に書かれていることがあるのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。すなわち、前提となっているのは、御言葉を聞き、心に宿し、神を礼拝し、感謝して生きる生活です。ここに書かれているのは、その具体的な展開なのです。そのことを踏まえた上で、三つの関係、すなわち夫婦の関係、親子の関係、労使の関係における勧めをご一緒に見ていきたいと思います。

夫婦の関係
 まず、夫婦の関係においてパウロは勧めます。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18、19節)。当時の女性の地位は大変低いものでした。それはギリシャ人においてもユダヤ人においても変わりませんでした。しかし、パウロはここで、女性は劣っているから、夫の方が偉いから、妻は仕えるべきなのだと言っているのではありません。パウロは何と言っているでしょうか。「主を信じる者にふさわしく」と言っているのです。仕えるのは「主を信じる者にふさわしい」ことだからなのです。

 主イエスを信じ、主に結ばれる時に、「仕える」ことの意味が変わります。なぜなら、主イエス御自身こそ、神の御子であられながら徹底して低くなられ、僕の姿となられ、私たちの救いのために仕えてくださったからです。主は弟子たちに言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。

 象徴的な出来事がありました。主が十字架にかけられる前日のことです。イエス様は弟子たちとの最後の食事をするために共におられました。すると突然主は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められたのです。当時の奴隷がしていたことを、あえてなさった。それはやがて主が十字架につけられて死ぬことが何を意味しているかを表す出来事でした。主は僕となって私たちの罪を洗ってくださった。罪の贖いのために死んでくださったとはそういうことです。

 主を信じる者であるとは、言い換えるならば、主に仕えていただき罪を洗っていただいた者として生きることです。主に仕えていただいた者が今度は人に仕える者となる。それは主を信じる者にふさわしいことです。そのことが「妻たち」について語られているのです。もちろん「主を信じる者にふさわしいこと」が求められているのは「妻たち」だけではありません。

 それゆえに、夫たちには別の面から「主を信じる者にふさわしいこと」が勧められています。それは「妻を愛しなさい」ということです。それでは、「妻を愛する」とはどういうことでしょうか。実は、同じ勧めの言葉がエフェソの信徒への手紙にも書かれているのです。そこではもう少し詳しく書かれています。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5:5)。やはりここでもキリストがしてくださったことにまず目が向けられています。キリストが教会を愛された。それは要するに十字架にかかって命を捨てられたということです。それと同じように愛しなさいということが、特に夫に対して言われているのです。妻を愛して、妻のために命を捨てなさいということです。

 さて、ここで私たちは、「相手が愛してくれたら仕えなさい」とか「相手が仕えたら愛しなさい」とは言われていないことに注意しなくてはなりません。相手がどうであるかではないのです。まずこちらから仕え、また愛することが求められているのです。実際それがキリストのしてくださったことであり、キリストを遣わされた父なる神がしてくださったことでした。聖書は言います。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。そのように、まず神が愛して、神が行動してくださいました。そのことを思います時に、私たちにとって具体的な身近な関係において「主を信じる者にふさわしいこと」もまた見えてくるのです。

親子の関係
 次に、親子の関係についてこのように言われています。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(20-21節)。ここでも子供が従うべき理由は、子供が親より劣っているからではありません。親の方が人生経験に富んでいるからでもありません。「食べさせてもらっているうちは親に従え」などという親もいますが、もちろんそのような意味で「両親に従いなさい」と言われているのでもありません。この背景には、家庭というものは神に由来するのだという聖書的な理解があるのです。親子について言えば、神が親に子供を託された。ですから、子供が従うことは、「主に喜ばれることです」と書かれているのです。あくまでも主との関わりにおいての話なのです。

 ですから、この聖書の箇所を読んで、「そうだ、いいことが書いてある。子供に読ませよう」などと単純に考えてはなりません。良く読んでみてください。「どんなことについても両親に従いなさい」という勧めは親にとって簡単に喜べる言葉ではないでしょう。「どんなことについても両親に従いなさい」――大丈夫でしょうか。本当に「どんなことについても」従って大丈夫でしょうか。そのことを親はよく考えなくてはならない。子供が親の語るように語り、親の行なうように行ない、親が生きているように生き、親が考えていることを同じように考えるようになって大丈夫なのでしょうか。要するに、ここではただ「子供たち」のあり方が語られているのではなく、親の生き方そのものが問われているのです。子供が従って良いような人生を送っているかが問われているのです。

 もちろん親たる者も人間です。自分自身の内に確かさがあるわけではありません。ならば、最終的に、親として子供に出来ることは、神を指し示すことだけなのです。言い換えるならば、親に出来ることは、子供に従順を求める前に、自らが神への感謝と従順に生きるということなのです。親が喜びと感謝をもって神に従順であって初めて、子供が親に従順であっても大丈夫なのです。そのことなしに、力をもって子供を服従させようとするとき、ここに書いてあるように「子供をいらだたせる」ことになるでしょうし、子供が「いじける」ことも起こってくるのでしょう。「いじける」という言葉は「気落ちする」「がっかりする」とも訳される言葉です。生きる力と希望を失った状態のです。子供たちが希望にあふれた人として神への感謝と従順に生きられるようになるためにも、親と神との関係は重要です。

労使の関係
 最後に、労使の関係における勧めを概観して終わりましょう。これはまた、私たちが社会生活におけるすべての人間関係においても適用できる言葉であろうかと思います。
 現代の日本には奴隷制度はありません。しかし、奴隷根性の人はいくらでもいます。すなわち、義務としてしか何事もできない人。人にへつらおうとしてうわべだけでしか仕えることのできない人です。それは奴隷ではなくても、実質的には奴隷と少しも変わりません。パウロは当時の社会において奴隷解放運動を展開したわけではありません。しかし、パウロが伝えた福音は、もっと大きなことをしたとも言えます。人間を奴隷根性から解放したからです。義務だから仕方なくいやいや行っていた人を、喜びに溢れて感謝をもって行う人に、人にへつらおうとうわべだけで仕える者を、喜びをもって主なるキリストに仕える者にしたのです。そして、これこそ私たちもまた得なくてはならない大きな解放なのです。

 ノートルダム修道女会の渡辺和子さんがアメリカの修錬院で過ごされた時のことを「美しい人に」という本の中に書いておられます。大きな修錬院の中での一日の大半は、掃除、洗濯、アイロンかけ、つくろいものといったことに費やされていきます。もともとオフィスで男性と肩を並べてバリバリと仕事をしてきた彼女は、覚悟して入ったものの、毎日がそのようなことに明け暮れることに少々焦りを感じていたのでした。そんなある日、彼女は当番として食堂で百人以上の修錬生のためにスープ皿とフォークとナイフを並べていました。するとそこに入ってきた年配の指導者が彼女に声をかけたというのです。「あなたは、食堂でお皿をならべながら、何を考えていますか」。そしてその人はさらにこのように言ったそうです。「一つ一つ、音をさせないように、静かにおいてごらんなさい。さらに、そこに坐る人が幸せになるようにと、心をこめておいてごらんなさい。」渡辺和子さんはこの経験から学んだことを次のように書いています。「世の中に、つまらない仕事というのはない。雑用と呼ばれる職種もない。それは人間がつまらないものにしているのであり、人間が用を雑にしている時、生じるものなのだ。」

 私たちは物事をなんと雑にしていることかと思います。パウロは「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心から行ないなさい」(23節)と勧めます。このようにして私たちは時として毎日同じ事の繰り返しとしか思えない平凡な生活の中で主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。私たちは、やり甲斐や生き甲斐とは全く無縁と思えるような作業においても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。気難しい人々、愛することが困難な人々との関わりにおいても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。

 また、私たちが仮に人の上に立つような場合でも、ここでパウロが「主人たち」と呼んでいるような立場に身を置くことがあったとしても、自分の主人が天にいることを忘れてはならないのです。そのようにして主人たる者も主キリストに仕えることができるのです。

 以上、身近な人間関係を取り上げている聖書の箇所を読んできました。「主を信じる者にふさわしく」「主に喜ばれること」「主に対してするように」という言葉が出てきましたように、信仰者にとってすべての人間関係の土台は「主との関係」です。主にある者としてふさわしく生きたい。主に喜ばれる者になりたい。主にお仕えする人生を送りたい。そのような願いが養われてこそ、人との関わりも変わってくるのです。最初にお読みした言葉をもう一度お読みします。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。この神への讃美と感謝が、私たちの関わるすべての人間関係に溢れ流れていきますように。

2013年8月4日日曜日

「神とその恵みの言葉にゆだねます」

2013年8月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 20章17節~38節

 パウロはエルサレムへと向かっていました。途中、彼らを乗せた船がミレトスに到着しますと、パウロはエフェソに人をやって教会の長老たちを呼び寄せました。エフェソまで片道約60キロ。決して近くはありません。しかし、船出する前にどうしても彼らと会って話がしたかった。なぜでしょう。パウロはもう二度と生きて彼らに会うことはないことを知っていたからです。今日お読みした箇所でパウロはこう言っていました。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(22‐23節)。またパウロはこうも言っています。「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」(25節)。だから、どうしても会って話をしたかったのです。

 船が出るまでのわずかな時の間にもうこの世では二度と会うことはないであろう人々に、私たちだったら何を話すでしょう。話したいと思うでしょう。余計なことは一切省いて、本当に伝えたいこと、知って欲しいこと、心に刻んでおいて欲しいことだけを話すに違いありません。今日お読みしたところに綴られているのは、そのようなパウロの言葉なのです。そして、それが聖書に書かれて伝えられているということは、後の時代の教会もまた、どうしても聞いておかなくてはならない言葉がそこにあるからでしょう。もちろん、ここにいる私たちも含めて。

神の恵みの福音
 ではパウロは何を語ろうとしたのでしょう。彼はこう語り始めます。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」(18‐20節)。

 パウロは涙を流しながら主に仕えてきた。また苦難をも耐え忍びつつ主に仕えてきたのです。どのようにして。彼らに伝えるべきことを伝え、教えるべきことを教えることによってです。「役に立つことは一つ残らず」伝えてきたし教えてきたとパウロは言うのです。

 「役に立つこと」。パウロはどんな「役に立つこと」を話してきたのでしょう。確かに人生をより良いものとするために「役に立つこと」はいくらでもあるでしょう。様々な悩みや実際に直面している問題を解決するために「役に立つこと」はいくらでもあるのでしょう。しかし、「役に立つこと」と言っているのは苦難を覚悟でエルサレムへと向かおうとしているパウロです。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(24節)と断言する人なのです。その彼が「役に立つこと」と言うならば、それは人間の生と死を越えて決定的に重要となることを意味するのでしょう。人間はいつか必ず己の人生が神の御前において総括される時を迎えなくてはならないのです。そのような人間にとって真に重要になることを意味するのでしょう。

 そのような意味での「役に立つこと」は多くはありません。ですからパウロはこう続けます。「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(21節)。究極的にはこれだけです。これをどうしても思い起こして欲しかったのです。これは救いに関わることだからです。

 「神に対する悔い改め」と彼は言いました。「悔い改め」とは単に「悔いる」ことではありません。過去の自分の行いについて後悔する人はいくらでもいますが、後悔をいくら繰り返しても救いにはなりません。「悔い改め」とは神に立ち帰ることです。ですから「神に対する悔い改め」と語られているのです。重要なのは神との関係なのです。

 そこで「神に対する悔い改め」と共に、どうしても必要となるのが「主イエスに対する信仰」なのです。ここで「主イエス」と言われている時、それが意味するのは、私たちの罪のために十字架にかけられ、三日目に復活されたキリストです。十字架において私たちの罪の贖いを成し遂げて、復活して今も生きておられて、私たちを救ってくださる御方です。

 このキリストによる罪の赦しと救いがなければ、私たちは神に立ち帰ることはできないでしょう。あのアダムとエバのように神のように神の顔を避けて隠れるしかない。私たちは主イエスを信じるからこそ、神に立ち帰ることができるのです。主イエスによって成し遂げられた罪の贖いを信じるからこそ、確かな罪の赦しが主のもとにあることを信じるからこそ、平安と喜びをもって神に立ち帰ることができるのです。「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」は切り離すことができない一つのことなのです。

 そのことをパウロはエフェソの教会に余すことなく伝えました。語られるべきことは語られた。聞かれるべきことは聞かれた。伝えられるべきことは伝えられた。ですからパウロは言うのです。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」(26節)。パウロは去っていきます。もう二度と会うことはありません。長老たちはここでパウロと話をしていますが、エフェソの教会の人たちは、もう二度とパウロに会うことはないでしょう。しかし、それでも良いのです。大事なのは伝えた人ではなく、伝えられた福音だからです。彼らの永遠の救いに関わっているのはパウロという人物なのではなく、伝えられた「神の恵みの福音」なのです。永遠の救いに関わっているのは、彼らとパウロとの関係なのではなくて、彼らと神との関係なのであり、彼ら自身が信仰に留まるということなのです。

神の教会の世話をさせるため
 そこでパウロはエフェソの長老たちに教会の信仰に関わる事柄を託すのです。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)。

 パウロは福音を伝えました。しかし、それはパウロの教会ではありません。それは「御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのです。パウロは長老たちに、まず「自分」と「群れ全体」に気を配ることを求めます。神は彼らを「神の教会の世話」をさせるために任命されたのだと語るのです。「気を配る」「世話をする」という言葉でパウロが思い描いているのは羊飼いです。

 羊飼いが必要なのはなぜか。狼がいるからです。次のように語られているとおりです。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(29‐30節)。実際にこの使徒言行録が書かれた頃には、このパウロの言葉はそのまま実現していたのです。小アジアの教会には異端の教えが嵐のように吹き荒れていたのです。

 そのように、「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」とは相容れない言葉が教会の中に、信仰者の生活の中に入り込んでくるのです。時にはすぐに役立つ言葉として。時にはキリスト教的な装いをもって。耳に心地よく、非常にわかりやすく、受け入れやすい言葉として。しかし、結果的には人を神から引き離してしまい、人を「神の教会」から引き離してしまう、そんな言葉が入り込んでくるのです。人の目を永遠の救いからそらせ、目の前の欲求を満たすことに終始させる言葉が入り込んでくるのです。狼が入り込んでくる。狼が狼らしい姿で来るならばわかりやすいのです。しかし、時に狼には見えない姿で入り込んでくるのです。そのような狼によって信仰生活が荒らされ、教会が荒らされるということが起こってくる。長老たちはそのような教えから守るために任命されているのです。いや、その長老たちの中からも邪説を唱える者たちが出てくるかもしれません。だからパウロは「あなたがた自身」に気を配りなさいと言ったのです。

 今、パウロは彼らに言います。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。この世にいる間にどうしてもエフェソの長老たちに会って話をしたかった理由がここにはっきりと現れています。忘れて欲しくなかったのです。思い起こさせ、確認したかったのです。いったい何を伝えられたのか。何が真に人を生かすのか。何が永遠の救いに関わるのか。何を信じているのか。どこに留まらなくてはならないのか。そのことについて目を覚ましていて欲しかったのです。そこにいるのは教会の代表です。しかし、パウロにはそこにエフェソの教会が見えていたに違いありません。涙を流して福音を語るパウロの言葉を聞いてきた一人一人の姿が見えていたに違いありません。その教会全体に、目を覚ましていて欲しかったのでしょう。

 そして、今、パウロは去っていきます。もう二度と会うこともないでしょう。しかし、それでもよいのです。パウロが伝えた神の恵みの言葉、彼らが聞いた神の恵みの言葉は、彼らを信仰者として建て上げ、造り上げ、完成し、永遠なる神の恵みを共に受け継ぐ者とすることができるからです。パウロは言いました。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)。そうです。共に受け継ぐのです。パウロは永遠なる神の恵みを共に受け継ぐ神の国を思いつつこれを語っているのでしょう。ならばこの地上において別れがあったとしても永遠の別れではありません。永遠の神の恵みが互いを結びつけているからです。

 もちろん、この地上における別れは悲しい。今日の聖書箇所において最後に見るのは激しく嘆き悲しむ彼らの姿です。しかし、嘆き悲しみながらも、彼らは一緒にひざまずいて祈っている。そうです、彼らは永遠なる神に共に向かい、共に祈っているのです。そこには何によっても引き離されることのない永遠の命の交わりがあるのです。そうです、これこそがこの世の言葉ではない神の恵みの言葉を伝えられ共有する「神の教会」に与えられている永遠の命の輝きなのです。

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