2013年8月25日日曜日

「何事でも願うがよい」

2013年8月25日 主日礼拝
東京神学大学 修士課程2年 三橋侑子
聖書 列王記上 3章4節~15節 

 今日の聖書箇所には「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた主に、ソロモンが「聞き分ける心を与えて下さい。」と願った話が収められています。父ダビデの後継者として新しい王に立てられたソロモン王の初期の頃の出来事です。この一連の話は、自分のためではなく、神様の民、今でいう教会を正しく導き治めるための願い事をしたソロモンの賢明さや謙虚さにスポットが当てられがちです。確かに、このソロモンから学ぶ祈りの姿勢があるでしょう。しかし、聖書はまた違った角度からも、この話を伝えようとしています。

主に従わずに滅んだ民たちの記録
 今日の聖書箇所である列王記は、ソロモンが生きていた時代に書かれたのではありません。ソロモンが王として立てられたイスラエル王国が南北に分裂し、最初に北イスラエル王国が、続いて南ユダ王国が滅び、バビロン捕囚となった後に書き始められたと言われています。イスラエル民族は、国を失い、捕囚となった地で、自分たちの歴史を振り返るのです。ただ単に起こったことを時系列で振り返ったのではありません。なぜ自分たちは国を失い、捕囚となったのか。それは主なる神様に聞き従わなかったからだ。そう受けとめた人々による自分たちの背信の記録なのです。ですので、今日の聖書箇所においても、ソロモンは良い願い事をした王として、ただ楽観的に記されているのではありません。主に逆らい、王国に分裂をもたらすことになったソロモン王の初期の時代を、自分たちの背信の歴史として振り返っているのです。

既に始まっていた主からの離反
 「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「ギブオン」は、ソロモンがいたエルサレムから約九キロ離れている地です。また「聖なる高台」というのは、イスラエル王国の先住民カナン人が祭儀に利用していた聖所です。イスラエル王国の王が、エルサレムから離れたギブオンにあるカナン人の聖所で、主なる神様にいけにえをささげていたということです。それは、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)からであり、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)のでした。
 ソロモンは不敬虔な王ではなかったのです。主を愛し、父ダビデの授けた掟に従い、「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を捧げていました。「焼き尽くす献げ物」というのは、レビ記1:4によりますと、献げる人の罪を贖う、いわば「赦される」ための献げ物です。また、自分自身を焼き尽くして完全に捧げる「献身」のしるしでもありました。ソロモンは、主に罪を赦していただき、自分自身を完全に焼き尽くして献げるために、一千頭もの献げ物を献げていたのです。

 しかしここに、主の言葉への違反が潜んでいました。主はかつて、こう語られていました。「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい」(申命記12:2)。罪を赦していただくための、そして献身のしるしとしての献げ物をしている、まさにその所で主の言葉に背いていた、というのはまことに皮肉なことです。ソロモンは主を愛していました。しかし、主の言葉を軽んじていたのです。

 ソロモンが主の言葉を軽んじていたのは3章1節からも分かります。「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。」おそらく、当時の有力な国エジプトの王の娘と結婚することは、イスラエル王国にとって得策と思えたのでしょう。実際、この結婚によってイスラエル王国は外交関係が栄え、国として豊かになっていくのです。しかし、主の言葉はこう語っていました。「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない」(申命記7・3)。ソロモンは主の言葉よりも、自分の考えを優先させていたのです。

願い事を聞かれる主
 主がソロモンに姿を顕されたのは、そんな中でした。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう。』と言われた」(5節)。主はソロモンの罪をご存知だったはずです。しかし、主がとられた行動は罪の指摘ではなく、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と声をかけることでした。

 ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を正しく判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」と願い、その願いは聞き入れられます。主はソロモンに知恵と富と栄光をお与えになりました。しかしここで注目すべきなのは、ソロモンにお答えになった主の言葉の最後の部分です。「もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(14節)。この「父ダビデの歩んだように」は、ソロモンの願い事にも出てきた表現です。主に語りかけられたとき、ソロモンは開口一番こう述べています。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました」(6節)。

 主の関心は、ソロモンが父ダビデのように主に忠実に聞き従うことにありました。主の言葉から離れていくソロモンに本当に伝えたいことを伝えるために、主はギブオンまで出かけて行き、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう。」と語りかけられたのです。極端な言い方をすれば、願いを聞き入れることを手段としてでも、ご自分との正しい関係の中に招き返そうとされた。それが、主がソロモンに対してとった行動でした。

立ち返ったソロモン
 その後、ソロモンはどうしたでしょうか。「ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」(15節)。具体的に何を思ったのか、考えや心の動きは記されていません。しかし、「ギブオン」の「聖なる高台」で「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を献げていたソロモンが、すぐさま「エルサレムに帰り」、「主の契約の箱の前に立って」、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」という行動が全てを物語っています。

 ソロモンは、立つべき場所に立ち返ったのです。エルサレムに帰って、主の契約に忠実に歩むことができるように、父ダビデが歩んだように主との正しい関係の中で歩むことができるように、礼拝を献げたのです。一千頭という量を献げるためではなく、主との契約の中で、主の言葉に従う自分として歩み直すために礼拝を献げました。

 このときのソロモンの姿を思うとき、イスラエル王国の初代の王サウルに、預言者サムエルが語った言葉が思い出されます。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)。サウルは、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を戦利品の中から取り分けて、主に献げようとしたことがありました。「滅ぼし尽くしなさい。」という主の言葉よりも、自分が良いと思うことを優先させました。主への反逆は、主への善意の中にも入り込んでくるのです。

 ソロモンはここでさらに、「焼き尽くす献げ物」と共に「和解の献げ物」を献げています。「和解の献げ物」は「神との平和」「人との平和」を表す献げ物です。本来ならば、神にとって忌み嫌うべき存在である私たちが罪の赦しをいただいて、神の食卓に招いていただくことを表す献げ物です。それはつまり、神と共なる生活に招かれるということです。主の言葉を締め出し、聖なる高台を築いて、自分の考えで生活を送ってきた、その自分がもう一度、罪赦され、神と共に生きる生活に招いていただくのです。

 ソロモンはその食卓に、「家臣のすべてを招いて」(15節)います。かつてのソロモンには、ギブオンの聖なる高台が「重要」(4節)と映っていました。しかし今は、本当に重要な場所がどこであるかが分かったのです。神が罪の赦しを与え、和解の食卓に招いてくださる礼拝と、神と共に生きる生活こそが、本当に重要な場所であることを悟ったのです。そして、人々をそこに招くという、本来の王としての姿に回復させられました。

罪の実り
 そのようにして一度は立ち返ったソロモンですが、始めに申しましたように、11章以降からソロモンの背信が始まり、結果、王国の分裂に至っていきます。ソロモンは再び、主の言葉に聞き従う生活から出て行ってしまったのです。願い事だった知恵は与えられ、国は豊かになりました。神殿も立ちました。あらゆる富と栄光が与えられました。しかし、主に聞き従う心を失っていくのです。そして、自身に滅びを招いたどころか、国を分裂、崩壊させていくこととなりました。

 最後に、11章から始まるソロモンの背信の内容を確認しておきましょう。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」(11:1)。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべきケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行った」(11:7・8)。ソロモンが3章で行ったファラオの娘との結婚と、聖なる高台での礼拝が思い出されます。主を愛し、賢明で謙虚な願い事をした王として描かれる初期の時代に、既に、主の言葉に逆らう罪の芽が生え出ていたことを聖書は知らせています。罪の芽はソロモンの中で着実に育ち、大きくなって、11章からの背信へと実っていったのです。

私たちが願うべき事
 私たちの心や生活の中にも立ち現れてくる「重要な聖なる高台」があります。「神様はこうおっしゃるけれど、世ではこっちの方が重要だから。」敬虔に見える礼拝行為の中に潜む主の言葉の軽視があります。「今日の御言葉は私の考えに合わない。」主への善意の中に入り込む主の言葉への反逆があります。「こっちの方が神様を喜ばせることができるのではないか。」このように、主の言葉を軽んじさせる小さな高台から、人生を滅びに向かわせ、周りの人々や国をも崩壊させる将来が始まっていくのです。

 「何事でも願うがよい。」そう声をかけられたソロモンが願うべきだったのは、父ダビデが示した「憐れみ深く正しい心」をもって主に聞き従って歩むことでした。「何事でも願うがよい。」これは、罪を犯しているまさにその場所でこそ聞こえてくる主の言葉です。滅びの道に向かうに早い私たちを守ろうとする愛の配慮の言葉です。主からの関係回復への招きの言葉です。「何事でも願うがよい。」そう声をかけられた私たちは、そんな主の御思いに結び付けられて「主に聞き従う心」をお与えください、と願う者でありたいと思います。

2013年8月18日日曜日

「希望にあふれて」

2013年8月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハバクク書3:17~19、ローマの信徒への手紙8:18~25

  「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」(3:17)。今日お読みした聖書箇所に書かれていました災いの描写です。しかも、これは文脈からすると他国の襲来による災いの描写なのです。そのような時、人は悲しみ、落胆し、嘆き、あるいは怒るのでしょう。しかし、この人はこう続けるのです。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(3:18‐19)。この人は羊や牛を奪われても、喜びを奪われないのです。田畑の収穫を失っても、生きる力を失わないのです。彼はこれがすべての結末だとは思っていないからです。彼はなおも前を向いて、待ち望む者として生きているのです。

主よ、なぜですか
 しかし、初めからそうだったわけではありません。この書の冒頭にまで遡ってみましょう。この書は喜びの歌声ではなく、神に対する嘆きと訴えの言葉から始まります。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:2-4)。

 紀元前7世紀にユダの国にヨシヤという王がいました。ヨシヤ王については、聖書が次のように語っています。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(列王記下23:25)。そのヨシヤの時代に、神殿からモーセの律法の書が発見されました。ヨシヤ王は、その書を読み、悔い改め、主に立ち帰ります。彼は律法の書に従い、宗教改革を断行しました。国家全体が主に立ち帰るためでした。この事は国内に良き秩序を回復しました。正義が回復されつつありました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして戦死してしまったのです。ひとつの時代が終わりました。崩壊が始まりました。そしてハバククの時代には、すでに国家は秩序を失い、ここの書の冒頭に記されているような惨状だったのです。

 なぜ暴虐と不法が許されているのか。なぜヨシヤの改革によって理想国家が誕生しなかったのか。なぜ中途でヨシヤが戦死してしまったのか。なぜ神はこのような状態を放っておかれるのか。なぜ沈黙しておられるのか。不可解な現実を前にして、ある人は神に背を向けるのでしょう。しかし、彼は神に背を向けなかった。神に向き続け、神に問い続けるのです。神にしがみつくようにして「なぜ」と問い続けるのです。

 問い続けるハバククに主は答えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われるのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る」(1:6-7)。

 カルデア人とは当時にわかに勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。事実、その徴候は十分に見られました。国内の混乱に加えて外国の襲来。つまり、事態はさらに悪くなりつつあったのです。それが神のなさろうとしていたことだったのです。

 ハバククは神の言葉を受け止め、こう語ります。「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」(1:12)

 ハバククはカルデア人の襲来を神の懲らしめとして理解しました。たしかに私たちは悔い改めなくてはならない。しかし、それにしてもまだ腑に落ちません。彼はこう続けます。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか」(1:13-17)

 「彼ら」とは「カルデア人」のことです。彼らはこんなに酷いことをしているではないか、とハバククは訴えるのです。つまり、こういうことです。確かにユダも不敬虔かも知れないが、カルデア人のほうがずっと不敬虔ではないか。カルデア人は随分残忍なことをしているではないか。そして、その残忍さのゆえに今や恐るべき勢力を誇っているのではないか。神を神としない、また人道をわきまえないカルデア人が、少なくとも彼らよりは正しいと思われるユダを懲らしめるために立てられるのはおかしいではないか。神の正義、神の清さはどうしてこれを許されるのか。ハバククには全くもって不可解なことでした。

 しかし、彼は祈ることをやめませんでした。目の前の出来事がいかに不可解であろうとも、彼は祈ることをやめないのです。むしろますます神に向かいます。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(2:1)。彼はどんなに苦しくとも神から顔を背けません。必死で神の語りかけを聞こうとします。神の御思いを知ろうとするのです。

信仰によって生きる
 そのようなハバククに主は答えられました。神様はひとつの幻を示されたのです。それは神御自身が決着をつけられる時についてです。それは、2章6節以下に見るように、バビロニア帝国が裁かれ、滅びるということでした。その幻について、主は言われるのです。「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3)。繁栄を極めたバビロニア帝国が滅びることなど、とうてい考えられないことでした。しかし、主はその時が来ると言われたのです。たとえ、遅くなっても待っておれ、必ずその時が来るから、と言われるのです。

 さて、ハバククに対して主が語ってこられたことはいったい何でしょう。主はこう言われたのです。「それは終わりの時に向かって急ぐ」と。つまり、言い換えるならば「まだ終わりではない」ということです。今見ていることが結末ではないということです。その先がある。神が備えておられる先がある。人間が途中だけを見ると全く不可解なのだけれど、神御自身にとっては不可解ではないのであって、神にはその先に為そうとしておられることがあるのです。それは今は見えない。想像することもできないことかもしれない。しかし、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と主は言われる。それは人間の目には遅いように見えるかもしれないけれど、神の計画の中においては「手遅れ」になることはないのです。

 そこで、主はこう言われたのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)。ここで神が言われる「信仰によって生きる」という意味は明確ではありませんか。どこまでも信頼して待ち望むことです。神に信頼して将来に目を向け、待ち望む。神の時を待ち望む。それがハバククの得た神の答えだったのです。

 最初に読んだ言葉は、そのように、信仰によって生きることを神より教えられた人の言葉です。彼は主に信頼して待ち望む。それゆえにまた、現在がどのような状態であったとしても、喜びをもってこう歌うのです。「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。

希望をもって待ち望む
 そして今日は「信仰によって生きる」ということを語り続けたもう一人の人の言葉をお読みしました。パウロはこう語っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)

 「現在の苦しみ」。パウロはそこでまず自然界の苦しみを語っています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(同8:22)。そうです、実際、私たちもまたうめき苦しんでいるこの自然界の姿を見ているのでしょう。そして、それをもたらしているのは人間の罪であるに違いないのだけれど、その人間もまた自然界の一部として苦しみうめいているわけです。それは「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(同8:23)、すなわちキリスト者であっても例外ではありません。しかし、パウロはあくまでも「現在の苦しみ」と表現するのです。それは途中のことなのです。最終的な苦しみではないのです。その先に待ち望むべきものがある。神に信頼して、待ち望むのです。それを「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とパウロは表現するのです。

 「現在の苦しみ」と言い、「将来の栄光」と言う。そのときにパウロの念頭に常にあったのはキリストの十字架と復活なのでしょう。ですから、その直前にもこう言っているのです。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(同17節)。十字架の苦しみは復活の栄光へと続いていたのです。先ほど自然界の苦しみについて引用した言葉にもこの信仰が現れていました。「共に産みの苦しみを味わっている」と書かれていました。読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、しかし、これは苦しみの意味を決定的に変える言葉でしょう。産みの苦しみは最終的な苦しみではないのです。その先に大きな喜びが待っているのです。いや、「その先に」は適切ではないかもしれません。それが産みの苦しみであることが分かっているならば、苦しみが始まった時に、既に喜びは始まっているとも言えるのでしょう。

 そのように、この世において体を持つ者として苦しみを免れない私たちであっても、神の栄光にあずかる救いの完成の時は将来であったとしても、その救いを待ち望む確かな希望に生きているならば、既に救われていると言うことができるのです。救いの喜びは既にそこにあるのですから。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とパウロは苦しみの中にあって宣言するのです。


 私たちは神に信頼し、希望に生きる民とされました。しかも、キリストの十字架と復活によって信仰に導き入れられた私たちは、ハバククよりもさらに確かな希望をもって将来に目を向けることができるのです。彼は言っていました。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。私たちはさらに大きな希望に満ち溢れてそのように語りながら生きることができるのです。

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