2013年7月14日日曜日

「泣く声さえも祈りとなる」

2013年7月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

起こるべくして起こった問題
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。これだけ読みますと、自分の子供がからかわれているのを見て腹を立てたサラがその子と母親を追い出そうとしたという話に見えます。しかし、「イサクをからかっていた」というのは一つの解釈にすぎないのです。ここは単純に「遊んでいた」と訳している聖書も少なくありません。他の箇所では同じ言葉が「戯れていた」と訳されています。

 その子に悪意があったかどうかは分かりません。ただ遊んでいただけかもしれない。いずれにせよ、それがトラブルの原因ではないのです。実はこのトラブルは起こるべくして起こったのです。この日に起こらなければ、後の日にもっと大きな形で起こったはずなのです。なぜなら、これは相続の問題だからです。

 ここでそもそもの話を振り返っておく必要があるでしょう。なぜそこに相続争いになりかねない二人が存在するのか。ここに出てきます「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子」は名前を「イシュマエル」と言います。イシュマエル誕生に関わる話は、創世記16章に出ています。アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに提案したのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。聖書の他の場面でも似たような提案が当たり前のように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサラがこう提案した理由です。これは神の約束に関わっていることだったのです。そもそも出発点において主はアブラムにこう言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供はなかなか生まれることはありませんでした。16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。そこで出てきたのが先ほどの提案です。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。要するに、「神様がしてくださらないなら、私たちの手で実現しましょうよ」ということです。そもそもアブラムに子孫について語られたのは主なのですから、これは主にとっても善いことのはず。この提案をアブラムは受け入れました。エジプトの女ハガルも、ある意味ではこのプロジェクトに協力したとも言えるでしょう。神が望んでいることを人の力によって実現することに皆が取り組んだのです。

 ところで、先ほど引用した15章の言葉には続きがあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)と続くのです。そうです、主が求めておられたのは約束してくださった主に信頼することだったのです。

 《主を信じる》ゆえの行動というものがあります。アブラムは主を信じて旅だったのです。しかし、《主を信じない》ゆえに起こす行動というものもあるのです。信仰から出た行動と不信仰から出た行動。神の霊による行動と人間の肉による行動。その二つは時として区別が付きにくいものです。不信仰から出た行動であっても、実に熱心に、献身的に行われることはあり得るのです。あのサライの提唱したプロジェクトも「主の約束の実現のために!」というスローガンが掲げられたかもしれません。そのように区別は付きにくいものです。

 しかし、その違いは自ずと明らかになってくるものです。何が起こってきたでしょう。 ハガルについてはこう書かれています。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」(16:4)。信仰に由来しない熱心な行動、肉による行動は高ぶりを生み出します。そこでは見下す人と見下される人が出て来るのです。人から出たことならば、何かが成し遂げられた時、その手柄は人間に帰せられるのでしょう。そこで自分を誇り、誰かを軽んじるということが起こってくるのです。

 サライについてはこう書かれています。「サライはアブラムに言った。『わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように』」(16:5)サライの内には怒りが生じました。彼女は自らに犠牲を強いてきたのです。我慢してきたのです。「女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに」という言葉に見られるように。しかし、肉による自己犠牲はそれが評価されないと容易に怒りへと変質するのです。そして、その怒りは時として極めて理不尽な方向へと向かいます。サライの怒りはアブラムに向かったのでした。

 アブラムについてはこう書かれています「アブラムはサライに答えた『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』」(16:6)。肉による行動は、それが自分に不都合を生じるようになる時に、容易に無責任へと変質します。彼は神の御心を実現するつもりだったのではないでしょうか。しかし、そんなことはどうでもいい。面倒なことからは手を引きたいのです。

 さて、このようにしてやがてハガルの子イシュマエルが生まれました。ハガルは、女奴隷という立場でありながらも、唯一の跡継ぎの母親としてある程度の優位を保ちながらイシュマエルを育てていくことになります。この家の確執においては、もともとハガルの方が弱い立場ですから、イシュマエルがいることで均衡が保たれていたとも言えます。

 ところがその均衡が破れることになりました。サラにも子供が生まれたからです。神の約束された子、イサクです。そして、そのイサクもついに乳離れする年齢となりました。乳児期を守られていよいよ成長を見ていくことになる。そして、ついに来るべき時が来ました。ここまで見てきたように、このトラブルは起こるべくして起こったのです。この日に起こらなければ、後の日にもっと大きな形で起こったはずなのです。

神は聞いていてくださる
 今日お読みした箇所の直前には、「笑い」の話が書かれています。アブラハムはサラに生まれた子に「イサク」と名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった」。そうです、その日、アブラハムの家には笑いが満ちていたのでしょう。しかし、今日お読みした箇所に、もはやサラの「笑い」はありません。そこに吹き出しているのは将来の不安、これまでの怒りや悲しみなのでしょう。そこにはまた苦悩するアブラハムの姿があります。この事態をもはやどうすることもできません。そして、そこにはまたハガルとその子の苦悩があります。すべては起こるべくして起こりました。トラブルの種は既に蒔かれていた。先に見た通りです。

 もともとは誰にも悪気はなかったのです。悪意をもって計画されたことでも実行されたことでもなかったのです。神に背くことだとはみじんも思ってはいなかったのでしょう。しかし、良かれと思って為される行動がしばしば未来に苦しみを残すのです。良かれと思って熱心に蒔いているものが実は苦しみの種であるということがいくらでもあるのです。それは私たちにも覚えがあることでしょう。実際、この社会全体としても、また私たち個人の生活においても、まさに起こるべくして起こったという苦悩に満ちた現実に日々直面しているわけではないですか。

 しかし、今日の聖書箇所において語られているのは、そのようなまことに愚かで不信仰な私たちに神様がどのように関わってくださっているのか、ということなのです。

 その場面を思い描いて見てください。まことに人間の愚かなはかりごとにもかかわらず、そこにはイシュマエルだけでなくイサクもいるではありませんか。これが注目すべき第一のことです。人々がトラブルの中で苦しんでいるところに、イサクはちゃんとそこにいる。神の約束は実現しているのです。神の救いの計画は、進んでいるのです。その後も同じです。イスラエルの罪にもかかわらず、やがてイスラエルの民からキリストは到来し、人間が到来したキリストを十字架にかけてしまったにもかかわらず、神が計画した贖いの御業は実現することとなったのです。そして、私たちは同じように約束が与えられているのです。この救いの御業は完成し神の国が到来するという約束が。そのように誰も止めることのできない神の救いの計画の中に私たちはあるのです。

 そして、さらに目を向けるべきはハガルとその子に対する神の慈しみです。もはや事態を収拾することができないアブラハムに対して、神はこう言われました。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(12‐13節)。もう苦しまなくてよいと主は言われるのです。要するに、あなたがどうすることもできないあの二人については、わたしに任せなさいということでしょう。アブラハムはそれゆえに、二人のことについて神にゆだねるのです。「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)と書かれています。追放したのではありません。イシュマエルを守るために、いや神に守っていただくために、連れ去らせたのです。

 また、そのようにしてハガルを荒れ野へと導かれたのは、主がハガルと出会うためでもありました。さまよっていたハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」(15‐16節)。そのように、もはや泣くことしかできないハガルに、神様は御使いを通してこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は主への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。井戸は突然そこに現れたのではありません。既にあったのです。絶望に涙していた時に、既にその側には神の備えがあったのです。もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。追放された身は変わりません。今の現実を彼女は受け入れなくてはならない。しかし、泣く声さえも聞いていてくださる主、そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている主を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

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