2013年7月28日日曜日

「苦難の中に備えられている神の慰め」

2013年7月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 9章26節~31節

何のためにエルサレムに
 「サウロはエルサレムに着き」と書かれていました。サウロ、またの名をパウロというこの男は、かつて教会の迫害者としてエルサレムを後にし、ダマスコへと向かいました。しかしその途上においてキリストと出会い、ダマスコにおいて洗礼を受け、今や彼はキリストを信じる者となって再びエルサレムに戻ってきたのです。「サウロはエルサレムに着いた」。エルサレムはもともと彼がいたところですから、そこに帰って来たのは一見自然なことのように思えます。しかし、よく事情を考えてみるならば、これはまことに驚くべきことだとも言えるのです。

 この直前にはサウロが命からがらダマスコを脱出した様子が描かれています。ユダヤ人たちがサウロを殺そうと陰謀を巡らしていたからです。彼らは昼も夜も町の門で見張っていました。町の外に出たところを襲撃するつもりだったのでしょう。そのたくらみを知ったサウロは夜の間に城壁つたいにつり降ろしてもらい、まさに九死に一生を得てダマスコから脱出したのです。そのようなサウロがエルサレムに向かうということは、さらに大きな危険に身をさらすことに他なりませんでした。

 サウロがダマスコにおいてイエス・キリストを宣べ伝え、「この人こそ神の子である」と語っていたことは、すぐにエルサレムのユダヤ人たちにも知れることとなるでしょう。ダマスコでサウロが憎まれたなら、同じことはエルサレムでも必ず起こるでしょう。サウロは迫害を受けていたキリスト者たちの姿を決して忘れなかったに違いありません。殊に自分の目の前で石に打たれて血みどろになって死んでいったステファノの姿は生涯脳裏に焼き付いて離れなかったに違いありません。そして、明かなことは今やサウロ自身が彼らと同じ立場に置かれることになったということです。もし身の安全を確保するためのダマスコ脱出なら、エルサレム行きという選択肢はあり得ません。むしろ故郷のタルソスに向かうべきなのでしょう。実際、今日の聖書箇所では最終的にタルソスに向かうパウロの姿を見ることになるのです。

 ならば、なぜそこまでしてエルサレムへと向かわなくてはならなかったのか。一つの大きな理由はイエスがキリストであることを、まず同胞であるユダヤ人たちに宣べ伝えるためでしょう。ダマスコにおいては、それゆえに、ユダヤ人たちから憎まれて命までも狙われるようになったのですが、憎まれること自体は伝道をやめる理由にはならなかったのです。彼はエルサレムにおいて憎まれようが、たとえ命が危ぶまれることがあろうが、かつて共に歩んでいたエルサレムの同胞にイエス・キリストを宣べ伝えたかったのです。

弟子の仲間に加わるため
 それは確かにパウロがエルサレムに戻った大きな目的だったと言えます。しかし、今日の聖書箇所はもう一つの目的の方に私たちの目を向けさせます。こう書かれているのです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(26節)。なぜまっすぐにタルソに逃れなかったのか。なぜエルサレムなのか。そこには彼が会わねばならない人々がいたからです。迫害の中にあってなおエルサレムに留まっていた弟子たちです。エルサレムの教会は散らされた多くのキリスト者にとってもなお中心であったからです。彼らと会わなくてはならない。迫害者サウロとしてではなく、キリスト者サウロとして。「弟子の仲間に加わること」。それこそがパウロにとって大きな目的だったのです。

 そのことを考える時、改めて彼のエルサレム帰還は驚くべきことだと思わされます。ダマスコではかの地のキリスト者との関係はおおむね良好でした。少し前の19節を見る限り、彼は回心後、ダマスコの弟子たちにはすぐに受け入れられたようです。しかし、ダマスコとエルサレムでは状況が違います。ダマスコの教会はサウロによって荒らされてはいないのです。ダマスコに到着する前にサウロがキリストと出会いましたから。エルサレムから散らされて来た人々を除いては、だた、サウロがエルサレムで何をしてきたかを耳にしていただけだったのです。

 しかし、エルサレムのキリスト者は違います。サウロがどれほど酷いことをしたかを身近に見てきたのです。サウロ自身、後にこう言っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。エルサレムに残った信徒の多くは、そのような迫害をなんとか逃れて留まった人たちなのでしょう。その中には、自分の家族を投獄された人がいるかも知れません。親を殺された子供たちがいたかも知れません。サウロが都を数年離れていたとしても、彼の暴力的な行為の記憶は決して薄れることはなかったでしょう。

 サウロがエルサレムに向かうということは、そのような人々に再会することを意味したのです。そこで簡単に受け入れられるとは到底思えなかったに違いありません。実際、彼は信じてもらえなかったのです。受け入れられなかったのです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」。そんなことは始めから分かっていたのです。分かっていながら彼はエルサレムに来たのです。そこに心地よいもてなしや自分の居場所があると思って来たのではないのです。それでもなお「弟子の仲間に加わろうとした」のです。なぜか。それがキリストの御心であると信じていたからでしょう。それがキリストに従うことだったからでしょう。

 それはサウロの回心の物語を思い起こせば分かります。サウロの回心の物語は使徒言行録に三回でてきます。一つはこの9章に、あとの二回はサウロ自身が物語っています。その描写は細かい点において違っています。しかし、一言一句違うことなく伝えられている言葉があるのです。サウロが聞いたキリストの言葉です。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4,22:7,26:14)。この言葉をサウロは生涯忘れることはできなかったのでしょう。それは自分が迫害してきたキリスト者が、教会が、いったい何であるかを明らかにする言葉だったのです。キリストは教会を御自分と同一視された。キリスト者を痛めつけることはキリストを痛めつけることに他ならなかった。キリストを信じる者とキリストとは分かちがたく一つに結ばれていることを彼は知ったのです。

 ならばサウロがキリストを信じるということは、サウロもまたその中に身を置くことに他ならないのです。キリストを信じるということは、自分もまた教会と一つになり、キリストと一つになって生きていくことを意味するのです。だから彼はエルサレムへと向かったのです。「弟子の仲間に加わろうとした」のです。彼らが心地よく受け入れてくれるからではないのです。楽しい仲間と一緒にいられることを求めてではなかったのです。すでにキリストによって結びあわされているゆえに、キリストに従い、キリストを証しする共同体を一緒に形作っていくために、さらには苦しみをも共にするために、サウロは「弟子の仲間に加わろうとした」のです。それがキリストを信じるということだからです。

神の備えてくださる慰めがそこに
 しかし、それでも受け入れてもらえないところに身を置くということは苦しいことではあります。もちろん憎まれて命を狙われることも苦しみではありますが、かつて自分が憎んだゆえに、かつて自分が傷つけたゆえに、信じてもらえない、受け入れてもらえない関係にあえて身を置くということは、実に苦しいことだと思います。そこでは自分自身の罪が突きつけられることになるからです。しかし、その苦しみを覚悟の上でキリストに従った時に、そこに何が起こったかを聖書は次のように伝えているのです。「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した」(27節)。

 サウロが向かった苦しみの中に、主は既に出会うべき人を備えておられたのでした。バルナバと呼ばれるその人の名前の意味は「慰めの子」です。仲間が恐れと敵意の目で見ていた時に、どこまでも自分を信じて行動してくれた人。サウロにとって、まさに彼は苦難の中に備えられていた神の慰めでした。そのひとりの執り成しによって、サウロは使徒たちに会うことができ、教会に受け入れられることになりました。

 いやそれだけではありません。その後、再びエルサレムにおいてもユダヤ人たちに命を狙われた時、サウロを助けようと努めたのは、かつてサウロによって迫害された教会の兄弟たちだったのです。「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」(30節)。これは驚くべきことでしょう。命を狙われているサウロを連れてカイサリアに下るということは、自ら危険に身を晒すことになるのでしょう。しかし、彼らはそのことを覚悟の上で、サウロを安全にタルソスへ出発させるためにカイサリアまで同行したのです。

 その情景を思い浮かべます時に、まことに胸が熱くなる思いがいたします。サウロにとっては愛する同胞であるユダヤ人たちから命を狙われて結局はエルサレムを後にしなくてはならない。いくら語っても理解されないことに、もどかしい思いで一杯だったことでしょう。同胞を思う時に深い悲しみがこみ上げてきたことでしょう。しかし、そのような深い悲しみの中にあって、サウロはかつて自分が迫害した人々によって赦され、愛され、助けられ、確かにキリストによって一つに結び合わされている事実を目にしていたのです。苦難の中にあって神の慰めと平和は備えられていたのです。

 そして当時の教会の状況が次のようにまとめられているのです。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)。「こうして、教会は」――その言葉の重さを思わずにはいられません。6章にも似た言葉がありました。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(6:7)。その時から今日お読みした場面に至るまでに何があったのか。ステファノが石で打たれて惨殺されました。それがきっかけとなって大規模の迫害が起こりました。成長し始めていた教会は散らされることとなり大きな打撃を受けました。しかし、そのような中でサウロはキリストに捕らえられ、神の御言葉は伝えられて行き、神の恵みの計画は着実に進んでいったのです。

 サウロ、またの名をパウロというこの人は、まさに敗北者のようにタルソへと逃げていきます。彼はしばらく表舞台から姿を消します。しかし、「この方こそ神の子である」と宣べ伝えた彼は、そのキリストの恵みの御支配を信じて旅立ったのでしょう。神の備えてくださった慰めを目にしながら。私たちもまたキリストに従う時に、人から理解されず、受け入れられず、深い悲しみの中に置かれ、あるいは大きな困難の中に置かれることがあるのかもしれません。しかし、そこには既に神が備えてくださっている出会いがあり、神の備えてくださっている慰めと平和があるのです。主を信じて、これからも共に主に従ってまいりましょう。

2013年7月21日日曜日

「今こそ恵みの時、救いの日」

2013年7月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章16節~6章2節

神との関係はどうなっていますか
 「神と和解させていただきなさい」。本日の聖書箇所にそのように語られていました。「神と和解させていただきなさい」。「和解」とは関係の回復です。この聖書箇所において取り上げられている問題は「神との関係」です。「神との関係」がどうなっているかです。

 一般的にこの世において「神」について語られる時、「神との関係」が話題になることはまずありません。一般的に話題になるのは、「神の存在を信じているかどうか」です。ある人は「わたしは神が存在すると信じていますよ」と言い、ある人は「わたしは神がいるなんて信じない」と言います。クリスチャンとは「神がいると信じている人のこと」だと思っている人は少なくありません。

 しかし、聖書は私たちに「あなたは神の存在を信じていますか」とは問いません。そうではなくて、「あなたと神との関係はどうなっていますか」と問うのです。そして、「あなたと神との関係はどうなっていますか」という問いは、私たちの最も深い内面を問う質問となります。なぜなら、神との関係において問題となるのは表面的なことではないからです。人との関係ならいくらでもごまかしが利くのです。表面的に良いおつきあいをすることはいくらでもできるのです。しかし、神との間ではそうはいきません。聖書は言います。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ4:13)。神の御前においては、私たちの深い部分、そして隠れた部分が問題となるのです。

 神との関係はどうなっていますか。しばし静まって考えてみましょう。まず私たち自身について、神との関係はどうなっていますか。さらに家族についてはどうですか。神との関係はどうなっていますか。友人たちについてはどうですか。神との関係はどうなっていますか。この国についてはどうですか。参院選の投票日である今日、恐らくだれもそんなことは考えていないかもしれない。けれど私たちは考えなくてはなりません。神との関係はどうなっていますか。そこでは表面的なことなど意味を持ちません。問題となるのは、最も深い部分、隠れた部分です。そのように神との関係を思いながら、問いながら、今日の箇所に耳を傾けてこそ、そこで語られている一言一言が神の言葉として迫ってくるのです。

罪を数え立てることなく
 今日朗読されたところに何が語られていましたか。18節以下にはこう書かれていました。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18‐19節)。

 静まって、神との関係がどうなっているかを考えました。その時に、どうしても問題となるのは私たちの罪なのでしょう。人と人との間では隠れていて問題とならないとしても、神との間ではそれが問題となるのです。その罪を問われたら、私たちは神に顔向けができなくなるのでしょう。アダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれています。私たちの罪を問われるならば、私たちもまたそうせざるを得ないのでしょう。

 しかし、先ほどお読みした箇所にはこう書かれていたのです。「人々の罪の責任を問うことなく」。確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が、こう言われるのです。「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と。

 「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。それが何を意味するかは、人間同士のことを考えると分かります。私たちはしばしば互いに罪過を数え立てているのでしょう。一つ一つを問題にし、その一つ一つについて償いを求めます。いや、償いを求めないにしても、「あの人はこういうことをした。ああいうことをした」と、心の中の記録にしっかりと記帳するのです。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神は罪の記録をあえて破棄されるのです。もはや数え立てることはないと言われるのです。

 いや、罪を数え立てないだけではありません。さらに驚くべきことが語られています。神の方から人間に対して和解を求められた、ということです。これがどれほど理に叶わないことかは、考えてみればすぐに分かります。罪があるのは私たちです。実際、神を侮り、神を蔑ろにし、神に背き、ある時にはあからさまに神に敵対してきたのは人間の方なのです。神との関係が壊れているとするならば、問題は一方的に人間の側にあるのです。しかし、神はその罪を数えることをせず、ただ一方的に自ら和解の手を伸ばしてくださったのです。私たちは、相手が謝るなり、償うなりしない限り、自分の方から和解を求めるようなことはしないでしょう。罪を犯した方が誠意を見せて和解を願い求めるのが私たちの常識なのでしょう。しかし、私たちが願う以前に、神の方から和解の道を開いてくださったのです。

罪なき方を罪とされました
 このように、パウロは確信をもって、この人間の思いをはるかに越えた神の恵みを語っています。なぜでしょうか。パウロは私たち人間に対して伸ばされた神の御手を知ったからです。この世に伸ばされた和解の御手、救いの御手、それはこの地上に来られた神の御子イエス・キリストに他なりません。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とパウロが言っているのは、そういうことです。

 その意味するところは具体的に21節に記されています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(21節)。「罪と何のかかわりもない方」とはキリストのことです。その罪のない方を、神は罪人のひとりとして裁かれました。裁かれる必要のない方が裁かれました。死ぬ必要のない方が死なれました。神の御子が十字架にかけられたという出来事は、神御自身がそのような形において人間の罪を引き受けられたということを意味するのです。

 本来私たちが負うはずの罪の重荷は神の独り子が負ってくださいました。そして、神は御子の身代わりをもって、もはや私たちの罪の責任を問うまいとされたのです。キリストの十字架のゆえに、もはや罪過を数え上げることをされないのです。罪過を数え上げる代わりに、和解の言葉を与えてくださったのです。それをパウロに託し、教会に託してくださったのです。ですからパウロはこう言うのです。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」

 「神と和解させていただきなさい!」これはパウロを通して語られるキリストの叫びです。神の御心のゆえに十字架にかかられたキリストの叫びです。「和解させていただきなさい!」和解のための全ては神が備えてくださいました。私たちはその和解を受けるだけなのです。罪ある私たちが神と共に生きることが出来る唯一の道がここにあります。神の呼びかけを拒否しないということです。素直に呼びかけに応えることだけです。自分の罪を認めて、立ち帰るのです。これが悔い改めです。私たちは自分の努力によって自らの罪の問題を解決することができません。神の御前にある罪責をどうすることも出来ません。私たちはただ自らの罪を神の前に認めて、悔い改め、神に立ち帰るのです。そして、和解させていただくのです。

今こそ、救いの日
  そして、これは未信者に語られた言葉ではなくコリントの教会に対して語られたことであることも忘れてはなりません。既にキリスト者として歩み出した人々に語られているのです。つまり、悔い改めとは一回限りのことではないということです。教会の中にいても、神との交わりを失ってしまうことがあり得るからです。それゆえ、これは一回かぎりのできごとではなく、繰り返し和解を受け入れることが勧められているのです。ルターは95箇条の提題を掲げた時、その第一項において次のように書きました。「われわれの主であり教師でありたまうイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない、ということを意味されたのである。」

 ですから、パウロは更に「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めるのです。「神の恵みをいたずらに受けてはならない」と口語訳では訳されていました。これは大切なことです。洗礼を受けてそれで完了なのではありません。私たちは生涯、恵みに与り続けて生きるのです。受けた恵みが無駄になってしまうようなことは、あってはならないのです。神の恵みによって神と共に生き始めたなら、神との交わりの中に生き続けるのです。

 6章1節以下にはこう書かれています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです」(6:1‐2)。ここに引用されているのはイザヤ49章8節です。これは日本語にすると過去のこととして語られていますが、本来の意味は将来の希望を語ったものなのです。やがて救いの日が訪れる、と。

 しかし、パウロはこの預言の言葉を引用して、今が救いの時だ、と言うのです。つまり、これはやがて遠い未来に何かが起こると言うのではなくて、福音の言葉が語られている時、一人一人に語りかけられている今、決定的なことが起こっているのだ、と言っているのです。福音がこうして語られている時が常に恵みの時、救いの日なのです。だからこそ、またそこで悔い改めて御言葉を受け入れ、神に立ち帰るかどうかが問われているのです。そうです、それは今ここにおいても起こっていることです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。

2013年7月14日日曜日

「泣く声さえも祈りとなる」

2013年7月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

起こるべくして起こった問題
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。これだけ読みますと、自分の子供がからかわれているのを見て腹を立てたサラがその子と母親を追い出そうとしたという話に見えます。しかし、「イサクをからかっていた」というのは一つの解釈にすぎないのです。ここは単純に「遊んでいた」と訳している聖書も少なくありません。他の箇所では同じ言葉が「戯れていた」と訳されています。

 その子に悪意があったかどうかは分かりません。ただ遊んでいただけかもしれない。いずれにせよ、それがトラブルの原因ではないのです。実はこのトラブルは起こるべくして起こったのです。この日に起こらなければ、後の日にもっと大きな形で起こったはずなのです。なぜなら、これは相続の問題だからです。

 ここでそもそもの話を振り返っておく必要があるでしょう。なぜそこに相続争いになりかねない二人が存在するのか。ここに出てきます「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子」は名前を「イシュマエル」と言います。イシュマエル誕生に関わる話は、創世記16章に出ています。アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに提案したのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。聖書の他の場面でも似たような提案が当たり前のように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサラがこう提案した理由です。これは神の約束に関わっていることだったのです。そもそも出発点において主はアブラムにこう言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供はなかなか生まれることはありませんでした。16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。そこで出てきたのが先ほどの提案です。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。要するに、「神様がしてくださらないなら、私たちの手で実現しましょうよ」ということです。そもそもアブラムに子孫について語られたのは主なのですから、これは主にとっても善いことのはず。この提案をアブラムは受け入れました。エジプトの女ハガルも、ある意味ではこのプロジェクトに協力したとも言えるでしょう。神が望んでいることを人の力によって実現することに皆が取り組んだのです。

 ところで、先ほど引用した15章の言葉には続きがあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)と続くのです。そうです、主が求めておられたのは約束してくださった主に信頼することだったのです。

 《主を信じる》ゆえの行動というものがあります。アブラムは主を信じて旅だったのです。しかし、《主を信じない》ゆえに起こす行動というものもあるのです。信仰から出た行動と不信仰から出た行動。神の霊による行動と人間の肉による行動。その二つは時として区別が付きにくいものです。不信仰から出た行動であっても、実に熱心に、献身的に行われることはあり得るのです。あのサライの提唱したプロジェクトも「主の約束の実現のために!」というスローガンが掲げられたかもしれません。そのように区別は付きにくいものです。

 しかし、その違いは自ずと明らかになってくるものです。何が起こってきたでしょう。 ハガルについてはこう書かれています。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」(16:4)。信仰に由来しない熱心な行動、肉による行動は高ぶりを生み出します。そこでは見下す人と見下される人が出て来るのです。人から出たことならば、何かが成し遂げられた時、その手柄は人間に帰せられるのでしょう。そこで自分を誇り、誰かを軽んじるということが起こってくるのです。

 サライについてはこう書かれています。「サライはアブラムに言った。『わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように』」(16:5)サライの内には怒りが生じました。彼女は自らに犠牲を強いてきたのです。我慢してきたのです。「女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに」という言葉に見られるように。しかし、肉による自己犠牲はそれが評価されないと容易に怒りへと変質するのです。そして、その怒りは時として極めて理不尽な方向へと向かいます。サライの怒りはアブラムに向かったのでした。

 アブラムについてはこう書かれています「アブラムはサライに答えた『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』」(16:6)。肉による行動は、それが自分に不都合を生じるようになる時に、容易に無責任へと変質します。彼は神の御心を実現するつもりだったのではないでしょうか。しかし、そんなことはどうでもいい。面倒なことからは手を引きたいのです。

 さて、このようにしてやがてハガルの子イシュマエルが生まれました。ハガルは、女奴隷という立場でありながらも、唯一の跡継ぎの母親としてある程度の優位を保ちながらイシュマエルを育てていくことになります。この家の確執においては、もともとハガルの方が弱い立場ですから、イシュマエルがいることで均衡が保たれていたとも言えます。

 ところがその均衡が破れることになりました。サラにも子供が生まれたからです。神の約束された子、イサクです。そして、そのイサクもついに乳離れする年齢となりました。乳児期を守られていよいよ成長を見ていくことになる。そして、ついに来るべき時が来ました。ここまで見てきたように、このトラブルは起こるべくして起こったのです。この日に起こらなければ、後の日にもっと大きな形で起こったはずなのです。

神は聞いていてくださる
 今日お読みした箇所の直前には、「笑い」の話が書かれています。アブラハムはサラに生まれた子に「イサク」と名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった」。そうです、その日、アブラハムの家には笑いが満ちていたのでしょう。しかし、今日お読みした箇所に、もはやサラの「笑い」はありません。そこに吹き出しているのは将来の不安、これまでの怒りや悲しみなのでしょう。そこにはまた苦悩するアブラハムの姿があります。この事態をもはやどうすることもできません。そして、そこにはまたハガルとその子の苦悩があります。すべては起こるべくして起こりました。トラブルの種は既に蒔かれていた。先に見た通りです。

 もともとは誰にも悪気はなかったのです。悪意をもって計画されたことでも実行されたことでもなかったのです。神に背くことだとはみじんも思ってはいなかったのでしょう。しかし、良かれと思って為される行動がしばしば未来に苦しみを残すのです。良かれと思って熱心に蒔いているものが実は苦しみの種であるということがいくらでもあるのです。それは私たちにも覚えがあることでしょう。実際、この社会全体としても、また私たち個人の生活においても、まさに起こるべくして起こったという苦悩に満ちた現実に日々直面しているわけではないですか。

 しかし、今日の聖書箇所において語られているのは、そのようなまことに愚かで不信仰な私たちに神様がどのように関わってくださっているのか、ということなのです。

 その場面を思い描いて見てください。まことに人間の愚かなはかりごとにもかかわらず、そこにはイシュマエルだけでなくイサクもいるではありませんか。これが注目すべき第一のことです。人々がトラブルの中で苦しんでいるところに、イサクはちゃんとそこにいる。神の約束は実現しているのです。神の救いの計画は、進んでいるのです。その後も同じです。イスラエルの罪にもかかわらず、やがてイスラエルの民からキリストは到来し、人間が到来したキリストを十字架にかけてしまったにもかかわらず、神が計画した贖いの御業は実現することとなったのです。そして、私たちは同じように約束が与えられているのです。この救いの御業は完成し神の国が到来するという約束が。そのように誰も止めることのできない神の救いの計画の中に私たちはあるのです。

 そして、さらに目を向けるべきはハガルとその子に対する神の慈しみです。もはや事態を収拾することができないアブラハムに対して、神はこう言われました。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(12‐13節)。もう苦しまなくてよいと主は言われるのです。要するに、あなたがどうすることもできないあの二人については、わたしに任せなさいということでしょう。アブラハムはそれゆえに、二人のことについて神にゆだねるのです。「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)と書かれています。追放したのではありません。イシュマエルを守るために、いや神に守っていただくために、連れ去らせたのです。

 また、そのようにしてハガルを荒れ野へと導かれたのは、主がハガルと出会うためでもありました。さまよっていたハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」(15‐16節)。そのように、もはや泣くことしかできないハガルに、神様は御使いを通してこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は主への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。井戸は突然そこに現れたのではありません。既にあったのです。絶望に涙していた時に、既にその側には神の備えがあったのです。もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。追放された身は変わりません。今の現実を彼女は受け入れなくてはならない。しかし、泣く声さえも聞いていてくださる主、そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている主を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

2013年7月7日日曜日

「神によって変えられた生活」

2013年7月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 19章13節~20節


 今日お読みしましたのは、パウロによるエフェソ宣教の一場面です。本日の朗読は13節からでした。しかし、この朗読箇所はその前から読まないと意味をなしません。直前にはこう書かれているのです。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(11‐12節)。

 なるほど確かにめざましい奇跡の話です。病気のいやしは人々の注目を集めます。実際に、その不思議な奇跡に注目した人々の話がでてきます。ユダヤ人の祈祷師たちです。彼らの中に、パウロの行っている不思議なことを見て真似をする人々がいたというのです。例えば祭司長スケワの七人の息子たちのことが取り上げられています。実際にはなまじっか真似をしたばかりに酷い目に遭ったわけですが、ともかくそれが今日朗読された話です。

 そのように病気のいやしや悪霊払いは人の目を引くものです。しかし、今日の朗読はそれだけで終わりません。本当に私たちが注目すべきことを次のような言葉をもって非常に印象的に描いているのです。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18‐19節)。

魔術を手放した人々
 魔術を行っていた人々がその書物を焼き捨てるということは、もはや金輪際魔術を行うことはないということです。そこに描かれているのは決定的な生活の変化です。確かに病気のいやしもめざましい奇跡と言うことができますが、エフェソにおいて起こった本当に驚くべきことは人々の生活の変化だったのです。

 焼き捨てられた書物は「銀貨五万枚にもなった」と書かれています。銀貨一枚は当時の労働者の平均的な日当です。銀貨五万枚は今日の五億円ほどに相当するでしょう。それは書物の量が膨大だったということもあるでしょうが、またそれらの書物はいずれも高価なものだったということでもあります。彼らが魔術に関わることによって、それだけのお金をつぎ込んできたということです。

 それだけのお金をつぎ込むほどに、魔術は彼らにとって魅力的なものだったのです。かつ絶対に必要なものだったのです。それだけ生活の大きな部分を占めていたものでしょう。いわば魔術は生活を支配していたとも言える。それを彼らは手放したのです。誰から強制されたわけでもありません。自発的に手放したのです。しかも惜しみながら、心を痛めながらではありません。「焼き捨てた」という表現は、むしろ忌むべきものとして手放したということを意味します。もはや必要ではないというだけでなく、手に絡みついた蛇を振り払うかのように、自らそれらを火の中に投げ込んだのです。

 そこに起こっているのは明らかに内的な変化です。内的な変化による生活の変化です。だいたい強制によって何かを手放しても、嫌々ながら生活を変えたとしても、内なるものが変わっていなかったら、やがては元の木阿弥になるのでしょう。そのようなことは私たちが嫌というほど経験しているではありませんか。エフェソの人々に起こったのは、そのようなことではなかったのです。彼らは自ら進んで魔術を手放したのです。

魔術に支配された生活
 さて、そもそも彼らが手放した「魔術」とは何でしょう。古来から様々な形を取って存在してきた魔術。その前に出てくるユダヤ人の祈祷師が行っていたことも同じカテゴリーに入ります。いずれにせよ、いかなる名前で呼ばれるものであれ、魔術的な行為の根底にあるのは、超自然的な力、神的な力を支配し、自由に用いたいという人間の欲求です。それゆえに、魔術的な行為の中心にはいつでも「自分」がいるのです。神秘的な事柄に関わっていながら、決して神は中心にはならない。中心にいるのは、究極的には神のようになりたい自分です。特別な存在になりたい自分、支配する者でありたい自分、自分の思い通りに、願い通りにしたくてならない自分がそこにいるのです。

 そのように神的な力を支配するために、彼らはお金をつぎ込んだのです。そのようにして得たものは手放せなくなります。いや、つぎ込めばつぎ込むほど手放せないだけでなく、さらにもっと欲しくなる。そうやって抜け出ることができなくなります。魔術は超自然的な力を支配するために行うのでしょうが、実際には魔術によって人間の欲望が際限なくかき立てられて、魔術から魔術へとのめり込み、魔術そのものに支配されることになるのです。そのように人間の欲望の満たしを求めて、その結果得た生活というのは、実際にはかきたてられた自分の欲望そのものに支配されたまことに不自由な生活となっていくのです。

 あのスケワの息子たちを考えてみてください。彼らはパウロが特別なものを持っているのを見たのです。そのように人が持っているものを見るならば、自分もそれを欲しくなる。彼らは自分のものにしようと試みたのです。そして、あのスケワの息子たちは酷い目に遭いました。しかし、恐らくあのスケワの息子たちは酷い目にあっても、また別なところで同じようなことを繰り返すのでしょう。それが欲望に支配された生活というものです。

 そう考えます時に、あのスケワの息子たちにせよ、多くの魔術の本を抱えて生活していた他の人々にせよ、その姿はまさに他人事とは思えなくなってまいります。今日、私たちの社会においても、テレビを通して、インターネットを通して、様々なメディアを通して、「ここに行けばあなたの欲求は満たされる。これを得ればあなたの欲求は満たされる」というメッセージを聞き続けているのです。そして、そのメッセージに動かされて何かを得ればもっと欲をかきたてられて、もっと欲しくなる。多くの魔術の本を抱えて生活していた人々の姿は、まさに今日の社会に生きる私たちの姿そのものであろうと思うのです

御言葉によって
 しかし、今日の聖書箇所において、そのような多くの人たちの劇的な変化が書かれているのです。彼らが魔術に支配された生活を自らの手で捨てている姿を見るのです。誰から強制されたわけでもなく、惜しみながらではなく、むしろ忌み嫌うかのように手放しているのです。そうです、彼らは手放すことができたのです。

 先に見たように、そこに見るのは内的な変化です。それは何によって起こったのでしょう。今日の朗読箇所は次のように締めくくられていました。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」。そうです、彼らの生活を変え、そしてさらに力を増して広まっていたのは「主の言葉」なのです。

 今日の朗読箇所の直前に書かれていた、パウロを通してなされた目覚ましい奇跡については先ほどお読みしました。先に見たように、スケワの息子たちはその奇跡にしか注目していませんでした。しかし、パウロは病気がいやされる奇跡の手ぬぐいを配って歩いていたわけではないのです。エフェソにおいて彼が全精力を傾けて行っていたのは別なことでした。その奇跡の描写の前にはこう書かれているのです。「 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(8‐9節)。

 このティラノという人が教師であったのか、それとも講堂の持ち主であったのか、はっきりしたことは分かりません。いずれにせよ、朝に夕に哲学が講じられてきた場所であったと思われます。その場所を昼間に借りることができました。昼の暑い時間帯には、学校に限らず公の活動が停止していたようです。パウロは早朝をテント造りに費やし、人々が昼寝をしている昼間の暑い時間を宣教に当て、そこに全精力を注いだのでした。人々もまた、決して好ましい時間帯ではなく、また良い環境とは言えないところにおいて、パウロの語ることに熱心に耳を傾けたのです。その結果どうなったでしょうか。次のように書かれています。「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(10節)。

 「パウロは…論じていた」と書かれているのです。しかし、人々はただパウロの言葉を聞いていたのではありませんでした。そこで語られ聞かれているのがただ人間の言葉なら、そこで起こりえるのは「説得」以上のことではないでしょう。しかし、そうではなかったのです。このことを二年間行った時に、精力的に論じるパウロ以上に働いておられたのは聖霊だったのです。聖霊において主御自身が働いておられた。主御自身が語っておられたのです。人々は確かにパウロの宣教において「主の言葉」を聞いていたのです。「ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と書かれているとおりです。

 そのような二年間において起こったのが、信仰に入ったエフェソの人々の生活における具体的な変化でした。彼らは神と向き合うことになったのです。神の支配のもとにある自分を見つめることとなったのです。罪を赦して救うために独り子をさえ惜しまず与えたもう神の愛の支配のもとにある自分を見いだしたのです。もはや、この世界の中心は自分ではない。人生の中心も自分ではない。自分が中心にいる必要もない。神が中心なのであって、その愛の支配のもとに神と人とに仕える人生が与えられていることを知ったのです。そこにおいてもはや魔術は必要ないのでしょう。人間の欲望に支配された人生も必要ないのでしょう。既に神のものとされているのだから。そのように彼らが信仰によって受け入れた神の言葉こそが彼らの内に根源的な変化をもたらしたのです。

 そして、エフェソに起こったことは、同じ主が語られる今日の教会においても起こることなのです。人間の言葉が為し得ることは説得以上のことではありません。それは大したことではないのです。私たちがここに集まっているのは、人の言葉を聞くためではありません。私も皆さんも共に主の言葉を聞くために集まっているのです。主は今も生きておられます。主が語られます。私たちが神の言葉を求める時、神の言葉が私たちを神の愛の内に私たちを本来の場所に据え直し、私たちの生活を造り変えるのです。主の御言葉によって、私たちは強制されてではなく、嫌々ながらでもなく、惜しみながらでもなく、私たちを支配し不自由にしているものを手放して火にくべる者とされていくのです。私たちの内なるものは単に私たち自らの意志と決断によって変えていくのではありません。私たちを変えてくださる生ける主の御言葉を求めましょう。

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