日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節
神をほめたたえて生きる
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(1:3)。今日の聖書朗読は、そのような言葉で始まっていました。パウロは神を讃美しているのです。神を讃美しながら、これらのことを書いているのです。ここに書かれているのは、神が私たちのためにしてくださったことです。その合間にこう書かれています。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12節)。「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。神の御業はすべてここに向かっていたのです。神が私たちのためにしてくださったすべては、私たちが神を讃美する民となるためなのです。
信仰生活とは、神をほめたたえて生きる生活です。喜びの中にあって神を賛美し、悲しみの中にあっても神を賛美し、豊かさの中にあって神を賛美し、困難と窮乏の中にあって神を賛美し、健康な時に神を賛美し、病気の床において神を賛美して生きる。そのような生活です。ちなみに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と書いているパウロは、獄中からこれを書き送っているのです。獄中において神を賛美しているのです。
この世界は変わります。私たちの置かれている状況も刻一刻と変わっていきます。そうです、すべては変わっていきます。しかし、信仰をもって生きるということは、神を賛美し神を礼拝するという、私たちの人生を貫く変わらざる一本の太い柱を持つことです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。
そのように、いかなる時にも神を賛美して生きるためには、神がいかなる御方であるかを良く知らなくてはなりません。神が何をしてくださったのかを知らなくてはなりません。そして、知ったなら、それを忘れてはなりません。常に意識して生活することです。そのためにも、今日のような箇所が繰り返し読まれるということは、私たちにとって大事なことなのでしょう。
一方的な恵みにより
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。そのように私たちがほめたたえて生きるその神はいかなる神であるのか。キリストにおいて、私たちを祝福してくださった神だと書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(1:3)。
神は祝福してくださいました。私たちは祝福されているのです。既に、天のあらゆる霊的な祝福をもって祝福されているのです。それは天に属するものです。神のみが与えることができる祝福です。「霊的」とはそういうことです。「霊的」という言葉と「精神的」という言葉を混同してはなりません。単に精神的なものならば人間でも与えることができるのです。しかし、人間にとって本当に必要なのは、人が与えることのできるものではなく、天に属する霊的なもの、神のみが与えることのできるものです。そして、それは既に与えられているのです。それは天に属するものですから、もはや誰も奪うことはできないのです。人はパウロを牢獄に放り込むことはできましたが、天のあらゆる霊的な祝福を奪うことはできませんでした。ですから牢獄の中にさえ賛美が満ちていたのです。
それはすべて神の恵みによるものです。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それを聖書は「選び」という言葉で表現します。この「選び」という言葉は誤解を生みやすい言葉でもあります。「選ばれた」と言うならば、ともするとエリート意識の現れと受け取られやすい。しかし、パウロが「選ばれた」と言うのは、「私たちの側に根拠はない」という意味です。すなわち「神の一方的な恵みです」という意味なのです。ですから「天地創造の前に、神は…お選びになりました」などという奇妙な表現が出てくるのです。「神は私が生まれる前から私を選んでくださいました」と言えば、それは「私の行いや功績にはよらない」ということになるでしょう。「生まれる前」ならまだ何もしていないのですから。それを究極まで押し進めると「天地創造の前から」となるのです。どのような表現にせよ、要するに、「私たちの功績じゃない」ということです。一方的な恵みだということです。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。
神の子とされて
それは5節において、神の子でない者を神の子とすることとして、言い換えられています。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5節)。ここで用いられているのは養子縁組を表す言葉です。神の養子にされるということです。神は「主イエス・キリストの父である神」であります。しかし、そのキリストと父なる神との関係の中に、キリストを信じる私たちも入れていただいたのです。主イエスが「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちも天と地の造り主なる方を、「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されているのです。そして、御子を長子とする家族へと加えられたのであります。その理由と根拠は人間の側にはありません。パウロは、ただ神が「御心のままに前もってお定めになった」からだ、と言うのです。
実は、この「御心のままに」と訳されている言葉は、「神の喜びとするところに従って」とも訳せる表現です。要するに、私たちが神の子とされるのは、それが「神の喜びであるから」という単純な理由によるのです。これは驚くべきことでしょう。まことに神の子とされるに相応しからぬ私たち、自分で自分のことを持て余しているような私たちを、神の子とすることが、神にとっては喜びなのだと聖書は教えているのです。私たちが神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになることが、神の喜びだというのです。私たちは神の喜びなのです。
神が御子を世に送られたのは、まことに相応しからぬ私たちを神の子にするためでした。「イエス・キリストによって」(5節)とあるとおりです。その事実を6節では「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」と呼んでおります。その恵みが何であるかは、7節において明らかにされています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」この「贖い」とは奴隷が買い戻され、解放される時に使われる言葉です。私たちは贖われたのだ、と言う時、それは私たちがかつて奴隷であったことを示しています。罪という負債を背負った奴隷であったのです。
日本人はしばしば「罪を水に流す」と言います。過去の罪は忘れてしまえば、それで解決するかのように語ります。しかし、実際には、罪は水では流れないこと、忘れても解決はしないことを、私たちは皆、本当は良く知っているのです。罪は赦していただかなければ、解決しないのです。そして、罪を赦すことができるのは、最終的に神だけです。そこで、神は御子の血をもって、その命をもって、私たちの罪の代価とされたのでした。私たちの罪の負債は、御子の血によって完済されました。私たちは御子の血によって買い取られて解放されました。これが「贖い」です。罪の負債を抱えたままでは、私たちは神の子となり得ませんでした。私たちは、罪を完済された者として、まさにキリストの贖いの業を通して、神の子としていただいたのです。
救いの完成に向かって
そして、神はさらにこの恵みを私たちの上にあふれさせ、神の秘められた計画を知る者としてくださいました。次のように書かれています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(8‐10節)。
私たちが罪を赦され、神の子とされ、御子のもとに集められていることを、ただ自分個人に関わることと考えてはなりません。神は、御子を通して、この世界に対する計画を明らかにされたのです。それは、私たちがこうしてキリストのもとに集められているように、やがて頭であるキリストのもとに世界が一つとされるということです。いや、天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのだ、と聖書は教えているのです。
目を転じて見るならば、この世界はまさにずたずたに引き裂かれた世界です。互いに対立し、反目し、争い、殺し合っている世界です。私たちの身近なところにも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、私たちは決して絶望する必要はないのです。神はこの世界の中に生きて働かれ、救いの完成に向かって導いておられるからです。そして、やがて時が満ちるのです。神の約束は実現するのです。
そして、受け継ぐべき救いの完成は、ただ単に遠い未来に待ち望むべき希望であるだけではありません。今、こうしている時に、既に私たちはその救いの豊かさの一部を味わい知ることが許されているのです。
13節でパウロは「あなたがたもまた」と語りかけます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。これはエフェソの異邦人キリスト者たちです。彼らが宣べ伝えられた言葉を聞いて、信じて、バプテスマを受け、互いに異なった者たちが共に主を礼拝していること自体が、既に聖霊の働きです。それはここにいる私たちも同じです。私たちもパウロから見たら異邦人ですから。その私たちが今こうしていることは、聖霊の働きです。私たちは聖霊によって「証印」を押されたのです。「証印」とは所有者を現すしるしです。私たちは神のものなのです。
そのように信仰生活を与えてくれた聖霊こそ「わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(14節)と語られています。この「保証」というのは、言い換えれば「手付け金」のことです。やがて全体を受けとることの保証として、その一部を受け取るのです。それが聖霊によって私たちに与えられる信仰生活です。私たちは、救いの完成へと向かう者として希望に生きるだけでなく、その一部を手付け金として受け取り、救いの恵みを今この時に味わいつつ生きることが許されているのです。そして、その手付け金によって、さらに確かな希望に生きる者とされるのです。
これらはすべて神が恵みによって私たちに対してしてくださったことでした。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それゆえ、最初に申し上げたように、信仰生活とは神をほめたたえて生きる生活となるのです。私たちがここにおいて、歌声をもって神を賛美するように、私たちの人生全体が神への賛美となりますように。