2013年4月28日日曜日

「闇は去り、光が輝いている」


2013年4月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 2章1節~11節


古くて新しい神の掟
 今日お読みした箇所では、ヨハネが次のようなことを書いていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(7‐8節)。一回読んだだけで分かりますか。どうも分かりにくい言葉です。「新しい掟」と言い「古い掟」と言う。ヨハネさん、いったいどっちなんですか?そう言いたくなります。

 しかし、改めてじっくり読みますと、どうも古くて新しいところが肝のようです。この手紙に「掟」という言葉が繰り返されている。その前には「神の掟」という言葉も出てきます。この手紙において「掟」あるいは「神の掟」と語られた場合、その内容は明確です。それは愛することです。互いに愛し合って生きることなのです。例えば次章においてこう表現されています。「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。これらの言葉は最後の晩餐においてイエス様が語られた言葉に基づいています。主はこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

 「愛する」ということについては言えば、それはことさらに新しいことが命じられているわけではありません。既に旧約聖書に語られていたことです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。そして、イエス様が語られた「互いに愛し合いなさい」という言葉も、この手紙を受け取った人たちは、もう信仰をもったはじめの頃から聞いていた言葉なのです。ですから、「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」とヨハネは言っているのです。

 しかし、先にも触れましたように、最後の晩餐においてイエス様はそれを「新しい掟」と呼ばれました。「新しい掟」と言って手渡してくださったのです。ならばそこにはやはり特別なことがあるのです。特別な新しさがあるのです。ヨハネはそこに注目させようとしているのです。

 では、その新しさとは何でしょう。どうしてイエス様は「新しい掟」と呼ばれたのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。「既にまことの光が輝いている」。その「まことの光」とは神の愛の光です。イエス・キリストを遣わしてこの世界に現してくださった神の愛の光です。神は実に独り子をお与えになるほどに、この世を愛してくださった。神に背いている私たちを愛してくださいました。私たちが罪の中に滅びてしまうことがないように。私たちの罪を赦して救うために、独り子さえも与えて、十字架にかけて、私たちの罪を贖ってくださった。その神の愛の光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事のもとで、その光の中でこう語られているのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。神の愛そのものであるイエス・キリストを通して与えられているのです。そこにこそ新しさがある。ですから、イエス様は「新しい掟」と言われた。ヨハネもまた、「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」と言っているのです。

既にまことの光が輝いているのだから
 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。にもかかわらず、そこでなお「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に背を向けるとするならば、それは何を意味するでしょうか。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものです。あるいは、既に明るい光の中を歩いているはずなのに、自ら目をつぶってしまって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 ここに「光の中にいる」という言葉が出てきました。翻訳聖書ではわざわざ鉤括弧に入れられています。というのも、実は、教会の中にはそのように言っている人々が実際にいたからです。今日の朗読箇所には別の表現も出てきました。4節の「神を知っている」という言葉です。そうです、その当時の教会に、自分たちは特別な知識を与えられて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシスと呼ばれるようになる異端の人々です。

 当時、この肉体を牢獄と見る思想がありました。彼らは自分自身を、その牢獄から解放されて神と一つとなった霊の人であると見なしていたのです。その思想はさておき、人が「神を知っている」とか「光の中にいる」と主張し、自分を「霊の人」と呼ぶからには、明らかにその背景にはある種の体験があると考えられます。いわゆる神秘的な体験というものがある。そのような体験を持つ人は、当時においても、また今日においても、決して珍しくありません。しかし、そのような神秘的な体験がイコール「神を知ること」であり、「光の中にいること」であり、「霊的な人間になること」になるのでしょうか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と。

 神秘的な体験というものは往々にして周りを見えなくさせるものとしても働きます。神秘的なスピリチュアルな世界だけが重要になって、現実のこの世界のこと、現実に目に見える隣人との関わりなどはどうでも良いことに思えてくるのです。実際に、先に述べた人々は肉体から解放されてしまっていると思っているので、実際にこの肉体が何をやろうともはや重要なことではないと考えた。しかし、当然のことながら、そのような意識でいる限り、「愛する」ということは人生の課題とはなりません。否むしろそこでは対立が起こり、争いが起こってくる。神を知っていると言いながら、もう一方において「兄弟を憎む者」となるのです。

 忘れてはなりません。イエス様は、現実に私たちと同じこの肉体を取って、この現実の世界の中に来られて、現実の人間との関わりの中に身を置いてくださったのです。そして、自らその身をもって、救いの業を実現してくださったのです。そのようにして、その身をもってこの世界を愛し、私たちを愛してくださったのです。明らかに神にとっては目に見えるこの世界、目に見える体をもっている私たちお互いのことが重要なのです。

 この世に来られたイエス・キリストにおいて、神の愛はこの世界のただ中で光り輝きました。既にまことの光が輝いています。そのようにこの世に来られた神の愛そのものである御方が言われるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

 既にまことの光が輝いているのです。私たちは暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こりますか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。

 「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との間の問題でつまずくのです。そのような時、他者のゆえにわたしはつまずいたと思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。

 いや、つまずくだけだったらまだ良いのです。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」。目をつぶったまま、突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。私たちはもう一度、ここに語られている言葉を心に留めましょう。既に光は輝いています。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。私たちは光の中を歩いていくことができるはずなのです。暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。今まで暗闇の中に身を置いていたならば、ここから再び光の中を歩み出しましょう。

2013年4月21日日曜日

「神からいただく賜物と務めと働き」


2013年4月21日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章3節~13節


特別な力が与えられたら?
 福音書を読みますと、そこにはイエス様のなさった悪霊の追放や病気の癒しなど、神の力による数々の奇跡が描かれています。使徒言行録を読みますと、イエス様だけでなく、使徒たちによっても数々の奇跡がなされている場面に出会います。そして、今日お読みしましたコリントの信徒への手紙にも、このようなことが書かれていました。

 「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(8‐10節)。

 「知恵の言葉」「知識の言葉」「奇跡を行う力」など、ここに書かれているのが具体的にどのようなものであるか明確に説明されているわけではありませんが、ともかく超自然的な能力について書かれていることはわかります。コリントの教会には、このような超自然的な能力が与えられている人が少なからずいたことが分かります。

 もちろん信仰生活とは神と共に生きることですから、信仰生活において人間の理解を超える神の力の現れがあっても、それ自体は不思議なことではありません。私たちもまた気づいていないだけで、本当は不思議な神の力の現れによって守られ、支えられ、助けられて今ここにいるとも言えるのでしょう。しかし、そのような超自然的な神の力が顕著に日常的に現れていたのが、この手紙が宛てられているコリントの教会だったのです。

 さて、そのような顕著な神の力の現れが私たちに与えられたらどうなるかを考えてみましょう。先ほどのリストの中で一番わかりやすいのは「病気をいやす力」(9節)ですので、例えばその力について考えてみましょう。ある日、「病気をいやす力」が与えられました。その人が手を置いて祈ると、病気の人が次々にいやされていきます。その人はいったい何を考えるでしょうか。

 その人はこう考えるかもしれません。「この特別な力が与えられたのは、これをもって神と人とに仕えるためだ。わたしには特別な務めが与えられているのだ。」そのように「務め」が与えられたと理解して、一生懸命に仕える。その結果として、病を負って苦しんでいる人たちの間において具体的な働きが進められていくでしょう。まさにその人を通して神の働きが現れることになるでしょう。

 しかし、それとは異なったシナリオも考えられます。その人は他の人にできないことができることによって、自分を他より優れた人間であると考えるようになった。他の人は自分に従うべきだと考えるようになった。自分の特別な力を利用して、他の人々を支配するようになった。こういうこともあり得ます。人は自分に与えられた能力をもって仕えることもできるし支配することもできるのです。

 さらにもう一つのことを考えてみましょう。そのような特別な力を与えられた人が二人いたとします。一人には「病気をいやす力」が与えられた。もう一人には「預言する力」が与えられたとします。さてこの二人は何を考えるでしょう。

 彼らは考えました。「自分に与えられていない力がもう一人には与えられている。また自分に与えられている力がもう一人には与えられていない。それはなぜか。それぞれ務めが異なるからだ。仕える仕方が違うからだ。それらが異なるのは互いに補い合うためなのだ」と。そして、共に働くようになる。こうして彼ら二人を通して、苦しみを負っている人々の間で、神の働きが進められていくことでしょう。

 しかし、この場合も違うシナリオが考えられます。彼らは互いに与えられている能力を比較し合った。いったいどちらが優れているのか。こうして互いは対立するようになった。周りの人々もこの対立に加わります。いったいどちらが優れているのか。どちらに付くべきか。こうして対立する二つのグループができあがります。人は自分に与えられた能力をもって仕える者として協力することもできるし、支配しようとする者として対立することもできるのです。

 さて、ここまでの話で分かりますように、このようなことは何もここに書かれている超自然的な能力に限った話ではないということです。人は与えられている力をもって仕えることもできるし支配することもできる。協力することもできるし対立することもできるのです。

いろいろありますが
 そこで実際、コリントの教会はどうであったのか。どうもこの手紙を読む限り、第一のシナリオではなく、第二のシナリオに従って事は進んでいたようです。仕えるのではなく支配する方向に、協力し補い合うのではなく、対立し争い合う方向に事は進んでいた。それゆえにパウロは次のように書いているのです。

 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(4‐6節)。

 ここで繰り返されている言葉があります。「いろいろありますが」という言葉です。そうです「いろいろある」のです。私たちはある能力や資質が「あるかないか」が気になります。「あの人にあるものが私にはない。」それが気になります。「あの人にないものが私にはある。」そこに思いがいきます。しかし、聖書は「あるかないか」ではなくて「いろいろある」と言うのです。あの人に与えられているものが自分にないとするならば、自分には別なものが与えられているのです。「いろいろある」のですから。そうです。与えられているものが異なるだけの話なのです。

 今、「与えられているもの」と表現しました。今日の聖書の言葉を用いるならば「賜物」です。「賜物」というのは「恵み」という言葉から派生しているのです。「恵み」というのは、要するに自分の努力によって獲得したものではない、ということです。あるいは、自分の行いに対する報酬ではない、ということです。純粋に恵みとして「与えられたもの」。それが「賜物」です。ならばそれはいかなる意味においても自分があたかも他者よりも優れた者であるかのように誇ったり思い上がったりすべきものではないのでしょう。また、それは自分が他者を支配するためのものでもないのです。それが恵みとして与えられているのは、あくまでも「仕えるため」なのです。これを聖書は「務め」と表現します。これはもともと例えば食卓で給仕をすることなどに用いる言葉なのです。

 ここに書かれているように「賜物」がいろいろあるのは、「務め」もいろいろあるからです。いろいろな仕え方があるからなのです。ならば大切なことは自分の仕え方を見いだすことなのでしょう。そのためには、自分に与えられている賜物について高ぶってはなりません。与えられていない賜物について卑下してもなりません。高ぶりも卑下も自分に与えられている務めを見失わせます。

 そして、そのようにいろいろな「務め」が与えられているのは、いろいろな「働き」がこの世の現実において現れるためなのです。その「働き」は「私たちの働き」でありながら同時に「神の働き」でもあります。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(6節)と書かれていました。この「すべての場合に」というのは「すべての人の中で」とも訳せる言葉です。この世にはありとあらゆる人がいます。またありとあらゆる場合があります。そこで神が働かれるとするならば、それこそその働きは「いろいろある」のです。そのように神がいろいろな働きをなさるために、いろいろな務めにおいて仕える人が必要なのです。いろいろな形で神は私たちを用いられるのです。

同じ霊、同じ主、同じ神
 さて、そのように「いろいろありますが」という言葉が繰り返されていますが、もう一つ繰り返されている言葉があります。それは「同じ」という言葉です。「同じ霊」「同じ主」「同じ神」。「霊」「主」「神」という言葉に、聖霊・キリスト・父なる神の三位一体を見る人もいます。いずれにせよ、同じ神によることを言い換えているのです。私たちはいろいろな賜物を与えられている。いろいろな務めを与えられている。それはいろいろな働きのためです。しかし、それはすべて「同じ神の働き」が現れるためなのです。そのように同じ神に仕えているのです。ならば、それは共に仕えるための「いろいろ」なのです。互いに補い合うための「いろいろ」なのです。そのようにして一つになるための「いろいろ」なのです。

 ですから、確かに「いろいろな賜物」があり「いろいろな務め」があるのですが、私たちが集中しなくてはならないのは、「同じ」という方向なのでしょう。「同じ霊」であり「同じ主」であり「同じ神」なのです。そこでその「同じ」に集中するためにとても大事なことが、その前に書かれているのです。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(3節)。

 コリントの教会の人たちには、確かにいろいろな賜物が与えられており、いろいろな務めが与えられており、いろいろな働きが現れているのですが、共通していることがありました。それは「イエスは主である」と信仰を言い表していることなのです。

 「イエスは主である」と言い表しているということは何を意味するのでしょう。これと対立するもう一つの言葉が出てきます。「イエスは神から見捨てられよ」という言葉です。これは「イエスは呪われよ」というのが直訳です。これはイエスに敵対し、教会に敵対していた人たちの言葉です。彼らは「イエスは呪われよ」と言った。どうしてでしょうか。イエスは十字架にかけられて死んだからです。それは普通に考えれば、神に呪われて死んだとしか思えない。そのような者がメシアであるということはあり得ないのです。

 しかし、キリスト者はそのように十字架にかけられたイエスについて、「イエスは主である」と言うのです。「イエスは主である」と信仰を言い表すとはそういうことです。それは本来あり得ないことなのです。それがあり得るとするなら、それは神によるとしか言いようがありません。ですから、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と書かれているのです。そうです、聖霊によって、イエスの十字架が私たちの救いのためであったと知ったのです。聖霊のお働きによって、あの御方は罪の贖いのために十字架におかかりくださり、復活して今も生きていることを信じたのです。

 その聖霊が賜物を与えてくださっているのです。わたしにも、隣の人にも、またその隣の人にも、そのように信仰を与えてくださった同じ聖霊が賜物を与えてくださっているのです。そのように私たちのために十字架におかかりくださった同じ主が務めを与えてくださっているのです。ならばそこで補い合いながら共に仕えていったらよいのです。高ぶってはなりません。卑下する必要もありません。仕え方は様々でも、私たちを通して、同じ神が働かれます。私たちのためにキリストを遣わしてくださり、聖霊を与えてくださった同じ神が働かれるのです。
 

2013年4月14日日曜日

「信仰が揺さぶられる時」


2013年4月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 列王記上 17章1節~24節


干魃の予告
 今日は「エリヤ物語」の一部をお読みしました。その背景となっているのはイスラエルの王アハブの治世です。アハブについては次のように書かれています。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」(16:30‐33)。そのようなアハブの時代に、エリヤという預言者が突然次のような言葉をもって登場するのです。「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう』」(1節)。

 エリヤがアハブ王の前に立つまでのことは何一つ書かれていません。出生の物語も預言者としての召命の物語もありません。しかし、ある程度想像することはできます。彼は主に仕える者としてイスラエルの霊的な状態を憂い、イスラエルが主に立ち帰ることを祈り求めていたのでしょう。「わたしの仕えているイスラエルの神」とありますが、これは「わたしがその御前に立っているイスラエルの神」というのが直訳です。エリヤは常に生ける神の御前に立っていたのです。イスラエルの救いを求めて。そして、その祈りの答えこそが「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」だったのです。それは恐るべき答えでした。しかし、エリヤはそれを良しとしたのです。だからその言葉をもってアハブの前に立ったのです。

 このエリヤの最初の言葉を私たちは心に留めねばなりません。聖書はただ単に人々が問題なく生活し、豊かで幸福であればそれで良いとは言わないのです。聖書が最も重く見ているのは神と人との関係なのです。逆に言うならば、たとえ災いと見えることがあったとしても、それ自体が人間にとって本質的な不幸なことではないのです。神に背いていること自体が本当の意味での不幸なのです。ですから、主に背いている国が主に立ち帰るためならば、主の答えがたとえ干魃であったとしてもそれを良しとする人物が聖書には登場してくるのです。

ケリト川のほとりへ
 そのようにエリヤがアハブ王の前に立ったところからこの章は始まります。普通に考えるならば、まさに戦いの火ぶたは切って落とされ、ここからエリヤの本格的な活動が始まるように思います。ところが不思議なことにそうなっていないのです。主はエリヤにこう命じたのでした。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」(4節)。主はケリトの川のほとりにエリヤを隠してしまわれた。いよいよ戦いが開始したと思われた時に、主はエリヤを表舞台から引っ込めてしまわれたのです。それはなぜでしょうか。隠れたところにおいて、エリヤ自身がまず備えられねばならなかったからです。

 まずエリヤ自身が主の御用に備えられるために、完全に主に寄り頼み、主に養っていただかなければ生き得ないところに追いやられたのでした。主はよりによって、エリヤを養うのに烏を用いられました。烏は律法によれば汚れた鳥とされています。その汚れた鳥に養われるということは、もっとも相応しくない方法に見えます。そのように、主は時として自尊心を打ち砕くような方法を用いられます。しかし、まさに「そこで」、エリヤは主の言葉が真実であることを経験することになるのです。カルメル山に立つ前にケリトの川のほとりへと隠されることは必要なことなのです。

 エリヤは主の御言葉に従って「直ちに行動し」ました。そして、「そこにとどまった」と書かれています。彼はそこにとどまり、主の言葉を待ちました。とどまって待つということは、往々にして人間にとって最も困難なことです。待たねばならない時、人は信仰が揺さぶられます。エリヤはそこで毎日水位の下がっていく川を目の当たりにしなくてはなりませんでした。水が涸れつつあっても、主はエリヤに何も語られませんでした。彼は待たねばなりませんでした。このままでは手遅れになると人は思い、待たずに先に進みたくなるものです。しかし、エリヤは涸れつつある川を見ながら、「そこにとどまった」のです。そして、まさにその「川も涸れてしまった」ときに、「また主の言葉がエリヤに臨んだ」と書かれているのです。

シドンのやもめによって養われる
 さて、エリヤに臨んだ主の言葉はこのようなものでした。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」(9節)。この主の言葉はエリヤにとってさらなる試練を意味しました。「やもめ」は聖書において常に弱い立場にある者の代表です。干魃による飢饉が全地を襲っている時に、いかなる「やもめ」であっても苦境に立たされていることは想像できます。そのような人を、身を粉にして助けよと命じられたならまだ従いやすいのでしょう。しかし、主はそうは言われない。そのような苦境にある者に養われることを命じたのです。与えることにおいて信仰が問われる時がある。しかし、さらに信仰が問われるのは受けねばならない立場に置かれる時なのです。

 エリヤはサレプタに着くと、町の入り口で一人のやもめに出会います。これが主の語られた人であることをエリヤは悟ったのでしょう。「器に少々水を持ってきて、わたしに飲ませてください」と願います。そして、さらに「パンも一切れ、手に持ってきてください」と願うと、彼女は答えました。「わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(12節)。

 エリヤはイスラエルが主に立ち帰ることを求めた。干魃は主の応えでした。エリヤはそれを良しとしました。新約聖書には、「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした」(ヤコブ5:17)という書き方までされているわけです。しかし、今や、そのことによって、実際に死に臨んでいるやもめに出会うのです。信仰のゆえに自らが苦しみに遭うことは確かに信仰の試練であると言えるでしょう。しかし、自分の信仰のゆえに他者が苦しむ時、それはより大きな試練となるに違いありません。それは例えば自分が伝えた信仰のゆえに迫害を受けて苦しむ信者を目の当たりにする宣教師が経験してきたことであり、自分が信仰を言い表したゆえに揺さぶられる家庭の状況に直面する受洗者が経験してきたことなのでしょう。そこで信仰が揺さぶられます。

 しかし、エリヤはなおも主を信じるのです。主はこのやもめに命じて自分を養わせると言われた。それゆえに、エリヤは自分が主に信頼するだけでなく、このやもめにも信じることを求めるのです。エリヤは言います。「恐れてはならない。…まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい」。自分たちの食べるものすらわずかしかないのに、その彼らからパンを取り上げることは残酷ではないでしょうか。しかし、エリヤは主が養ってくださることを信じ、主の御言葉を告げるのです。「主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。するとやもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。そして、主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、主は彼らを養われたのでした。

主の言葉は真実です
 ところが話はここで終わりません。思わぬ不幸がその家を襲いました。彼女の息子が病気にかかり、死んでしまったのです。彼女はエリヤを責めて言いました。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(18節)。異教の世界に生きてきた彼女が、主の言葉の光に照らし出された時、確かに心に咎める過去があったのでしょう。彼女は自分の子供の死について、それを主の裁きであると受け取ったのです。

 エリヤは災いをもたらし罪を思い起こさせるものとして詰られました。しかし、それこそまさにエリヤがイスラエルとの関係において立たされていたところだったのです。自分が語った主の言葉のとおり、干魃が続いている。人々は苦しんでいるのです。まさに災いをもたらし罪を思い起こさせる者となっているのです。彼女に起こっていたことはイスラエルに起こっていたことだったのです。

 しかし、そこでもなおエリヤは信仰にとどまります。エリヤは彼女の手から息子を受け取り、階上の部屋に行って寝台に寝かせました。彼は子供の上に三度身を重ねて主に願います。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と。すると、主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになったと書かれています。しかし、ここで重要なことは奇跡そのものではありません。聖書は、このやもめの言葉を伝えています。彼女はこう言ったのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。

 彼女の言葉はエリヤにとっても大きな意味を持っていたに違いありません。この言葉こそエリヤにとって最終的な備えだったのでしょう。彼女の子供と同じように、イスラエルの大地は雨を受けることなく死んだような状態になっています。そこにおいて人々は苦しんでいます。まさに自分の罪を思い起こさせられる出来事がそこで起こっている。しかし、それが最後の姿ではないのです。そのことを経てなお先に起こるべきことがあるのです。これらすべては彼女と同じ言葉が人々の口に宿るためなのです。「主の言葉は真実です」と。

 こうしてエリヤは再びアハブの前に立つことになります。神によって備えられた人として。この教会も、また私たちの個人の人生においても、信仰が揺さぶられるような過程を通ることがあるのでしょう。しかし、それはまさに主の御言葉は真実であることを知る時であり、さらには私たちを通して誰かが主の真実を知り、「主の言葉は真実です」と言い表すようになるためなのです。

2013年4月7日日曜日

「新しい天と新しい地の創造」


2013年4月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 65章17節~25節


救いの世界の縮小版
 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と主は言われます。そのように、神様が実現してくださる最終的な救いを聖書は「新しい天と新しい地の創造」と表現しています。「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、神によって造られた世界の全体です。この全宇宙を含め、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われるのです。

 そのように語られた時点で、事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。というのも私たちは被造物世界のほんの小さな一部分に過ぎませんから。私たちが見ていること、人類が知っていることは、「天と地」のごくごく一部でしかない。いやほとんど知らないに等しいのです。そのような私たちが「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と語られても、もはや考えることも想像することもできません。言い換えるならば、そのように神様は私たちの想像の及ばないようなことを最終的に私たちの救いのために実現してくださるということです。「新しい天と新しい地を創造する」とはそういうことです。

 そのように神が最終的に私たちのために実現してくださる救いは本質的に私たちの想像を遙かに超えています。しかし、「想像も及ばない」で終わってしまうと、それは喜びにも希望にも繋がりにくいことは事実でしょう。どんなに素晴らしいことが起こるのか、想像できませんから。

 そこで、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださるのです。それが18節以下に書かれていることです。「新しい天と新しい地の創造」という途方もなく大きな事柄を縮小して、ものすごく小さくして語り直してくださる。そのように救いの全体の極々一部分に限定して、いわば大きなウエディングケーキの端っこのクリームをちょっと取って舐めさせる程度のことを語られるのです。そのように、神様は「新しい天と新しい地の創造」という大きな事柄を極端に小さくして「新しくされたエルサレム」の描写として語り直してくださるのです。

 神の御業によって新しくされた町とそこに生きる救われた人々。これでしたらイメージできます。もちろんクリームをちょっと嘗めることとケーキそのものを食べることは違います。しかしそれでも、ケーキについてなにがしかを味わったことにはなります。同じように、この新しいエルサレムとそこに生きる人々の描写を通して、神様が最終的にしようとしていること、神様が与えようとしている大いなる救いの片鱗に触れることができるのです。

長寿が祝福となる世界
 そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)と書かれているのです。神様が与えてくださる救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは興味深いことだと思いませんか。もちろん、それは私たちの想像の枠内に入るようにそう語られているのですが、そうであっても、救いの世界が「長寿の世界」として表現されていることは注目に値します。

 実際、この世における「長寿」について考えてみてください。この世において「長寿」は祝われます。しかし、現実的に考えて「長寿」は単純に「救い」とつながりますでしょうか。「長寿」は単純に「祝福」と見なされ得るでしょうか。日本は世界一の長寿国です。しかし、日本のお年寄りは幸せでしょうか。確かに教会では多くのお年寄りの素敵な笑顔に出会います。しかし、現実にこの世の中には早く死にたいと思っているお年寄りはいくらでもいるのです。わたしが以前出会ったある方は、聖書を初めて読んだ時に「永遠の命」という言葉を見てこう思ったそうです。「そんなもの、いらねえ」と。永遠に死ねないなんて、たまったものではない。永遠の長寿なんて、そんな恐ろしいものはいらない。もちろん聖書が語る「永遠の命」は永遠の長寿のことではありません。しかし、そう言った人の気持ちは分かります。「長寿」は単純に「救い」とはならないのです。

 長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われていきます。神が喜び楽しませてくださるのでなければ、喜びや楽しみは失われていくのです。それゆえに、神が喜び楽しませてくださるのでなければ、長寿は祝福とはなりません。

 いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)と語られているのです。真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神の備えていてくださる救いの世界はそのような世界です。

狼が小羊と共に生きる世界
 そして、その喜びは21節以下に書かれていることと深いところで結びついています。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21‐22節)。

 ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住むことはない。植えたものを他人が食べることはない。そう書かれているのです。この逆を考えてみてください。自分が建てたものに他人が住む。自分が植えたものを他人が食べる。それはすなわちそれらを他人に奪われるということでしょう。つまり、このように語られているのは、もう一方において現実には、奪われることに怯え、労苦が無駄になることに怯えて生きざるを得ない世界があるからです。奪い合う世界が厳然として存在し、そのような奪い合う世界の中に私たちは生きているからです。小さな家庭の中の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史に他ならないのです。

 しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることへの恐れが取り去られた世界です。害される恐れが取り去られた世界です。なぜなら神が近くおられ、神が治めてくださるからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(24節)と書かれていますが、それほどに神は近くにおられ、現実に介入され、その御力をもって治めてくださる。救いの世界とはそのような世界です。

 いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は奪われる者を奪う者から守ってくださるだけでなく、奪われることへの恐れを取り除かれるだけでなく、奪い合う悪そのものを取り除かれるのです。奪い合いそのものにピリオドを打たれる。害し合う悪そのものを取り除かれる。そして、皆が本当の意味で共に生きるようになるのです。25節に表現されているのは、そのような世界です。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。そのように共に生きる世界にこそ、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。

新しい天と新しい地を味わいながら
 さて、このような聖なる山、エルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。大きなケーキの端っこのクリームの味わいでしかありません。しかし、これらの言葉から少なくとも神様は私たちについて何を望んでおられるのかは分かります。主は奪い合い害し合う悪そのものを取り除こうとしておられる。私たちが真に共に生きる世界を望んでおられる。そして、そこにおいて長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。私たちの思いを遙かに超えた仕方で、新しい天と新しい地の創造としか表現できないような仕方において、実現してくださるのです。

 さらに言うならば、私たちはそのような新しい天と新しい地を想像もできないものとして待ち望むのではなくて、その一部を味わいながら待ち望むことが許されているのです。先ほどは、このようなエルサレムの描写がケーキの端っこのクリームだと申しましたが、私たちはそれを聖書の中に読むだけでなく、実生活の中で味わう恵みが与えられているのです。それはパウロも次のように言っているとおりです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。そのように、私たちは今から新しく創造された者として生き始めることができるのです。

 私たちが神様の御支配を受け入れて、神のもとで、聖霊の働きによって、奪い合い害し合う悪が本当に小さな規模においてでも終結し、互いに愛し合って生きることが小さな規模においてでも実現する時に、そこで私たちは新しい天と新しい地の片鱗に触れるのです。 あるいは、私たちの人生において、たとえこの世から受ける喜びが失われていったとしても、共に神を礼拝する中で、共に聖餐を分かち合うまさにここにおいて神から喜びをいただくならば、私たちは新しい天と新しい地の片鱗に触れることができるのです。それこそ長寿が祝福となるような喜びを私たちは神様からいただくことができる。そのようにして、私たちは神が最後に与えようとしている新しい天と新しい地の端っこを、いわば味見しながら生きることができるのです。それが私たちの信仰生活です。

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