2013年3月31日日曜日

「終わりではありません。始まりです」


2013年3月31日 イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節〜10節


墓を見に行った婦人たち
 「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。そう書かれていました。「墓を見に行った」――いいえ、本当はそれが目的ではありませんでした。他の福音書を読むと分かります。彼らはイエスの遺体に香油を塗りに行ったのです。葬られた時は安息日に入る直前だったので、遺体の処置が十分にできなかったからです。彼らはイエス様をふさわしく葬りたかった。そのために墓に行ったのです。しかし、今日の箇所ではそれを「墓を見に行った」と表現するのです。

 「墓を見に行った」。その彼女たちについては、たいへん印象的な姿が聖書の中に描かれています。イエス様が十字架から降ろされ、葬られた場面です。イエス様が葬られたのは、ヨセフという人の持っていた墓でした。その人が総督ピラトのところに行ってイエスの遺体の引き渡しを願い出ました。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」(27:59‐60)と書かれています。そして、こう続くのです。「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(61節)。あの二人です。ヨセフが立ち去った後もそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。

 彼女たちが墓の方を向いて座り、墓を見つめていたのは、その中にイエス様がおられたからです。そこがイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。いや、それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。イエス様との出会いがありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅した時のことが思い起こされたでしょう。喜びも悲しみも共有しながら歩んできました。しかし、その彼女たちが行き着いたのは、イエス様の葬られた墓でした。

 イエス様が捕らえられた時、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。そして、彼女たちの目の前で、イエス様は息を引き取りました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。彼女たちが見つめていた「墓」は、まさにすべてが終わったという事実そのものでした。

 それは墓の持ち主であったヨセフにとっても同じだったろうと思います。ヨセフが総督ピラトに遺体の引き渡しを求めることができたのは、彼がユダヤの最高法院の議員だったからです(マルコ15:43)。彼はイエス様に対して有罪判決を下して死刑を言い渡したあの最高法院の一員だったのです。ヨセフはわかっていたと思います。このナザレのイエスという方は死罪に当たることは何もしていない。真夜中に行われた裁判は明らかに異常であること。その判決はどう見ても正しくはないこと。分かっていたのだと思います。しかし、彼は声を上げなかった。彼は黙っていたのです。そして、判決は下された。そして、結果的にはローマ人の手によってですが、イエスは処刑されて死んでしまったのです。

 ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思ったのでしょう。ですから自分の墓を提供したのです。申し訳ない思いで一杯だったかもしれません。しかし、遺体を自分の墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。自分の無力さ、自分もまたその一部である宗教的権威の醜さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな罪、それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。自分は正しい人を見殺しにした。ヨセフにとってはこれが結論でした。終わったのです。すべては終わったのです。彼が提供した墓は、まさにすべてが終わったという事実そのものでした。

 さらに私たちは今日の箇所に登場しない人々のことも思い出す必要があります。イエスの弟子たちです。彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロであることを私たちは知っていますし、イエスを残して逃げてしまった弟子たちであることを私たちは知っています。

 ペトロは、他の弟子たちは、イエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いものなのかも知れません。終わったのです。すべては終わったのです。彼らにとっても、イエスが葬られた墓は、すべてが終わったという事実そのものでした。

あの方は、ここにはおられない
 そのような「墓」を彼女たちは見に行った。それが今日の聖書箇所に書かれていることです。そこにイエス様がおられるから。すべてが終わったところに、イエス様がおられるから。そうです、彼女たちはすべては終わったという事実を彼女たちはもう一度見るはずでした。しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見たのです。それこそ私たちがイースターにおいて聞くべき、聖書の伝えている使信です。教会が語り伝えてきた福音なのです。

 彼女たちは何を見たのでしょうか。マグダラのマリアともう一人のマリアがまず見たのは、転がされた大きな石、そして開かれた墓の入り口でした。主の天使が石をわきへ転がしたと書かれていますが、その意味するところは神が転がしたということです。神がなさったことがそこにあった。それは何なのか。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあるからです。そこにイエスはおられない、ということです。主の御使いは彼女たちにこう言ったのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。

 そこで彼女たちが見たのは、終わりではなく、新しい始まりだったのです。終わりであると思われたところにキリストはおられなかった。神によって復活させられたキリストは、もうそこにはおられなかったのです。神によって復活させられたキリストは既に墓から歩み出しておられたのです。先に進んでおられたのです。神によって新しいことが既に始まっていたのです。

 これが教会の信じてきた神様です。私たちの信じている神様です。神は「終わり」を「始まり」に変えることのできる御方です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっているのです。墓で終わっているのです。教会も存在していいないのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、キリスト教会が存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。

 あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見ただけではなく、そこから歩み出されたキリストにお会いすることとなりました。そこでキリストはこう言われたのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 こうして、今度は彼女たちが伝える人になりました。終わりではないこと。神は終わりを始まりに変えてしまわれたこと。神によって終わりが始まりとなったこと。もうキリストは先に進んでおられること。先に進んで待っていてくださること。だから、あの弟子たちもまた立ち止まっていてはいけないこと。これが結末だ、これが結論だ、「もう終わりだ」と思っているところから歩み出さなくてはならないということ。そう、キリストが先に行って待っていてくださるから。既に始まっているから。だから彼らも絶望の中から、また後悔と自責の中から新しく歩み出さなくてはならないのです。

 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。そう主は言われました。ガリラヤは弟子たちがイエス様に出会った場所です。あの日、この不思議な魅力に溢れた御方が突然現れ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。そうです、すべてはそこから始まったのです。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。

 しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。

 神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、いわば神の恵みによって新たに生かされた者として、一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから始まったのです。

 そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられてきました。そのようにして、私たちにもキリストの復活が伝えられました。そのようにして、私たちもまたキリストの復活を信じる集まりへと招かれたのです。あの弟子たちにとってそうであったように、ここにいる私たちにとっても、もはや絶望としての《終わり》はありません。常に新しい始まりがそこにあります。いかなる人生の途上の出来事も、いかなる挫折も失敗も敗北も、私たちにとっては終わりではありません。主の十字架に基づいて常にそこには新しい始まりがあります。死でさえも終わりではありません。十字架に基づいてそこには新しい始まりがあります。この世界の終わりでさえも私たちにとっては終わりではありません。十字架に基づいてそこには新しい始まりがあります。神は終わりを始まりにすることができる御方です。その神の御業を喜び祝いましょう。共にキリストの復活を祝いましょう。
イースター、おめでとうございます。

2013年3月17日日曜日

「すべては努力次第?」


2013年3月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章1節〜11節

------------------------------------------------------------------

 本日の礼拝においてはローマの信徒への手紙の8章が読まれました。5節をご覧ください。このように書かれています。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。ここに二通りの人間が出てきます。「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」です。二通りの生き方、と言ってもよいかもしれません。人は「肉に従って」生きることもできますし、「霊に従って」生きることもできるのです。

肉に従って歩むのではなく
 「肉に従って歩む者」という表現は、私たちの日常においては使われません。これは聖書における独特の表現です。しかし、「肉」という言葉から連想されるのは「肉欲」という言葉でしょう。ですので、そこから肉欲に振り回されて放縦な生活をしている人を想像する人がいるかもしれません。不道徳なだらしない人を思い描く人もいることでしょう。

 しかし、「肉に従って歩む者」と言う時、第一に念頭においているのは、恐らくはこの手紙を書いているパウロ自身のかつての姿なのです。それは7章と8章を続けて読むと分かります。今日はお読みしませんでしたが7章には例えばこのような言葉が出てきます。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:14‐15)。明らかにパウロは自分自身の経験を下敷きとして「肉の人」について語っているのです。

 そうしますと、「肉に従って歩む者」とは単に不道徳なだらしのない人のことではありません。というのもパウロは恐らくここにいる私たちの誰よりも道徳的に真面目に生きてきた人であったからです。しかし、そのような彼もまた「肉に従って歩む者」だったのです。では「肉に従って歩む者」とは何を意味するのでしょう。

 パウロはファリサイ派に属するユダヤ人でした。彼にとって宗教とは神の律法を学び、神の前に正しい人間となり、救いを獲得し永遠の命に至ることでした。そのような理解は私たちにも馴染みがあります。この国においても、宗教の中心は善い教えを学び、正しい生き方を身につけることあると考える人は、恐らく少なくはないでしょう。教会に行き始めてしばらくした時、家族の方から「お前は教会で何を学んでいるんだ。やることなすこと、少しも変わっていないじゃないか」と詰られた経験はありませんか。」そのような言葉の背後には、「教会とは何か善い事を学んで善い人間になるところだ」という理解があるわけです。

 あるいは、宗教の目的を道徳的行為に見るのではなく、心理的な安定に見る人もいるでしょう。何が起ころうとも揺るがない心を持つこと。常におだやかな心をもって生活できるようになること。そうなるために信仰は大きな意味を持っていると考える人もまた少なくないことでしょう。

 そのように、宗教について考える時、ある人は重点を人間の行為に置き、ある人は重点を人間の心理的な状態に置きます。そして、この二つは異なるように見えて、実は共通しているものがあります。何でしょうか。それは「人間の」ということです。行為にせよ心にせよ人間に属するものが中心であることに変わりはありません。どちらにしても人間のことに関心の中心がある。言い換えるならば関心の中心には「わたし」がいるということです。「私はどれだけ変わっただろうか。」「私の心はどれだけきれいになったか。」「私はどれだけおだやかに生きられるようになったか。」そのようなことを言いながら、いつでも自分のほうに関心を向けているのです。

 分かりますでしょう。これが「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」ということなのです。体も精神も、共に肉です。それはすなわちあくまでも生まれながらの人間に属する事柄だということです。行動も心理的な変化も、皆、肉に属する、生まれながらの人間に属することです。「肉に属することを考える」ということは、言い換えるなら「神に属すること、霊に属することには関心がない」ということです。神の御業、神の霊の働きには関心がないということです。

 これに対して、「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とパウロは言います。霊に従って歩む者は、こちら側に目を向け続けるのではなく、あちら側に目を向けます。信仰において本来中心であるのは人間ではなく神様だからです。霊に従って歩む者は、神の御業に関心を向けます。神が何をしてくださったか。神が何をしてくださっているか。神が何をしてくださろうとしているのか。そこに関心が向けられます。「霊に属することを考える」とは、そういうことです。

 そのように「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」「霊に従って歩む者は、霊に属することを考える」という二通りの生き方について語り、さらにこう続けます。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(6‐8節)。

 肉に属することを考え、肉に従って歩むということは、先にも申しましたように、それ自体は必ずしも不道徳なことを意味しません。一般的に言いまして、それは極めて真面目な営みとも見えるのです。「私の努力」「私の精進」「私の向上」「私の心の変化」に関心を向け、すべては「私の努力次第だ」と考えることは、悪いことには思えないでしょう。神様について語られるよりも、「すべてはあなたの努力次第ですよ」と言われる方が正しいように聞こえるものではありませんか。パウロはそのような私たちの常識を覆すのです。しかし、それこそまさに「肉の思い」なのです。そのように考えている人は、神に喜ばれることはできない。いやむしろ神に敵対しているのだ、と言われているのです。神の御心にかなわないのです。それは一見神の律法に従っているように見えても、実は従っていないのだと言うのです。

神の霊が宿っているのだから
 神が望んでおられるのは、私たちが肉に属することを考え、人間の方に向いて、自分の方を向いて「すべては自分の努力次第だ」と言って生きることではなく、「霊に従って歩む者」として生きることなのです。すなわち霊に属すること、神の御業を考えて生きることなのです。

 そこでパウロはさらに次のように語ります。9節以下をご覧ください。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言います。これは「神の霊がもし宿っているとするならば…」と言う意味ではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉です。キリスト者として生きるということは、神の霊を宿した者として生きることです。パウロはまずその事実に目を向けさせるのです。

 パウロは一方において、私たちがこの世に生きる人間である限り肉の内には罪が住んでいると語ります(7:18‐20)。しかし、もはやただ罪が住んでいるだけではありません。神の霊が宿っていてくださるのです。そして、神の霊が宿っているかぎり、肉ではなく霊の支配下にあるのです。それゆえ、罪との戦いは継続しているにしても、「すべては私の努力次第」と言って、孤軍奮闘している者のように生きる必要はないのです。

 そして、神の霊が宿っているという事実について幾つかの言い換えがなされています。「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられています。さらに、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(10節)と言います。神の霊、すなわちキリストの霊が宿っているということころに、キリストが現臨されます。いわば復活のキリストが内に住んでくださるということです。

 もちろん、キリストが内に住んでくださると言いましても、罪が無くなってしまったわけではありませんから、死もあるわけです。神の霊に敵対する罪を宿す体ですから、これは死ななくてはなりません。体は死に行く体です。しかし、キリストのおられるところに義があります。キリストを通して与えられた神の義があるのです。義のゆえに、神から切り離された者ではありません。命につながっているのですから、命がそこにあるのです。永遠の命は死後に与えられるのではなく、未だ罪との格闘激しい現在において、既に与えられているのです。聖霊が与えられていること自体が義によって命となっているのです。

 さらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれております。この呼び名は、キリストの復活と私たちを結び付けます。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。このようにキリストを死者の中から復活させ、栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。

 これは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。戦いはやがて終わるのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。

 パウロは、キリストに結ばれた者が聖霊の支配のもとにあることを思い起こさせます。キリストに属する者とされ、神の霊が与えられているということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることを意味するのです。そうです。事は始まっているのです。パウロが語っているのは神の御業です。神が完成してくださるのです。私たちはそれゆえ、こちら側にひたすら関心を向けて生きるのではなく、向こう側、神の側に思いを向けて生きるのです。「すべては私の努力次第だ」と言いながら生きるのではなく、神の為し給う御業に思いを向け、既に与えられている聖霊に信頼し、ひたすら聖霊の御支配を求めて生きる。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。

2013年3月10日日曜日

「暗い所に輝くともし火」


2013年3月10日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 17章1節〜13節

    ペトロの手紙Ⅱ 1章16節~19節  ------------------------------------------------------------------

モーセとエリヤが現れて
 今日の福音書朗読では、山の上においてイエス様の御姿が変わったという話が読まれました。それを目撃したのはペトロとヤコブとヨハネの三人です。限られた人々だけに与えられた特殊な神秘体験です。しかし、ここで重要なことは、彼らが目撃したのは単にイエスに起こった変化だけではない、ということです。そこに二人の人物を見た。一人はモーセ。もう一人はエリヤです。モーセは律法を代表する人物です。エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言えます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。

 彼らがそこに見た光景は、後に決定的に重要な意味を持つことになりました。というのも、彼らはやがてイエス様が苦難を受け、十字架につけられる姿を目撃することになるからです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ってついて行った彼らは、やがてそのメシアが十字架の上に釘付けられるのを目撃することになるのです。しかし、神はそのような彼らに、そのような彼らだからこそ、前もってイエス様がモーセとエリヤと共に立っている光景をお見せになったのです。

 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。イエス様が受けることになる苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということです。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていた。聖書の預言の言葉によって指し示されていた。言い換えるなら、それはすべて神の御心によって起こったことであり、神の御計画によって起こったことなのだ、ということです。

 ならばその苦難は単なる苦難で終わるはずがありません。単なる不幸な出来事として終わらない。十字架の死はただ悲惨な死として終わらない。これが神によるならば、その先があるはずです。そして、事実その先があったのだ、と聖書は私たちに告げているのです。キリストの復活です。

 キリストの顔が太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で垣間見たのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。この御方に起こる苦難は苦難をもって終わらないことを、その先に復活があることを、ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。

 もちろん、彼らはその意味するところをその時に理解できようはずもありません。それゆえに正しく伝えることもできない。そんな弟子たちであることはイエス様もご存じでした。ですからイエス様は彼らに口止めされたのです。その時にはまだ分からないから。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)。

 しかし、やがて後の日に、口止めされていた彼らが語り出すことになりました。キリストの復活に出会い、その出来事の意味を知って語り出すことになりました。キリストの受難の前に、既に彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出すこととなりました。今日の第二朗読においてもペトロが書いていましたでしょう。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ1:16)。

キリストの変容
 そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を示す出来事でした。復活の命に輝くキリストの御姿でした。しかし、私たちはさらにここにおいて「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていることに注目したいと思うのです。教会は単にペトロたちが栄光に輝くキリストを見たことを語り伝えてきたのではないのです。キリストがペトロたちの目の前で《変化したこと》を伝えてきたのです。強調点はむしろその変化の方にあったとも言えます。

 実はこの「変わる」という言葉ですが、それは例えば芋虫が蝶になるような変化を表すような言葉です。芋虫が蝶になって羽ばたくその変化。思い描いて見てください。しかも、本当は「変わる」と書かれているのではなくて、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違いますでしょう。イエス様は神の御子でありながら、神の側にではなく、人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」と書かれているのです。この御方は一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。

 ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。主は一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちに「変えられる」という希望を与えるためでしょう。私たちが「変えられる」という希望。私たちに絶対に必要ではありませんか。

 先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。彼の言っていることは明らかに変でしょう。簡単な幕屋であったとしても、にわかにそんな仮小屋など作れるはずないのですから。しかし、その気持ちは分かります。そこにいつまでも留まりたかったのでしょう。栄光に輝くキリスト、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたい。天の栄光に触れたその甘美な恍惚感の中に少しでも長く留まりたい。そういうことです。

 しかし、ペトロたちは山の上に留まるために召されたのではないのです。ですからペトロの提案は却下されました。光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのです。神自らペトロたちにこう語られました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

 父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と言われました。しかし、その神の「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。山の下へと向かわれるのです。モーセとエリヤ、すなわち旧約聖書が指し示していたイエスという御方は、罪深い人間世界へと向かわれるのです。父なる神を愛し、人を愛するゆえに、エルサレムへと、十字架へと向かわれるのです。その御方に聞き従っていくならば、どうなりますか。弟子たちも山の上に留まっていることはできません。キリスト教信仰は、山の上のようなところ、非日常的な神秘の世界に逃げ込むためにあるのではありません。キリスト教信仰は、現実から逃避するためのものではありません。そうではなくて、現実としっかりと向き合うことができるために、信仰は与えられているのです。

 そして明らかなことは、私たちが現実の世界に生きるならこの世界が暗闇であることを認めざるを得ない、ということです。私たちは救いの太陽が昇る前の暗闇の世界に生きているのだということを認めざるを得ないでしょう。いや、暗闇は私たちの周りにあるだけではありません。山の下において、現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとする時、初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてきます。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるか、いかに自分が醜いエゴイストであるかが分かります。そう、わが内にも暗闇がある。その時、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなります。そして、もう一つ――自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになります。自分の醜さを知った人は、変えられたいと願う。自分が芋虫の姿であると知った人は、変えられたいと切に願う。そういうものでしょう。

 その時、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままじゃない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。

 やがてそのように私たちに救いが完成する夜明けが来るでしょう。この世界全体がやがて夜明けを迎える時が来るでしょう。聖書が語る救いの言葉、救いの預言の言葉はキリストにおいて、その十字架の死と復活を経て、いよいよ確かなものとなりました。それゆえに、本日第二朗読において読まれた箇所において、あの日イエス様の栄光を目撃したペトロはこう書いているのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(2ペトロ1:1)。

 本日の説教題はこのペトロの手紙の言葉から取りました。そのように、私たちには既にともし火が与えられているのです。暗い所に輝くともし火が与えられているのです。そうです、このように聖書の言葉が読まれ、キリストが宣べ伝えられているところにおいて、私たちには確かに暗い所に輝くともし火が与えられているのです。このともし火を手放しさえしなければよいのです。そうすれば、夜明け前のどんなに深い暗闇にあっても絶望しないで現実と向き合うことができる。自分自身にどれほど深い暗闇を見いだしたとしても、絶望しないで自分自身とも向き合うことができるのです。たとえ暗闇において度々つまずき倒れるようなことがあっても、再び立ち上がって前に向かって歩いて行くことができるのです。主が苦しみの先にある栄光の姿、天の御国において完成する私たちの姿を既に見せてくださっているからです。

2013年3月3日日曜日

「あなたに天の国の鍵をさずける」


2013年3月3日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 16章13節〜28節

------------------------------------------------------------------

教会の土台
 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(18節)。今日の福音書朗読において読まれた御言葉です。「わたしの教会」とイエス様は言われました。教会はキリストの教会です。いかなる意味においても、教会は私たちのものではありません。そして、教会がキリストの教会でありますゆえに、教会を建てるのもキリストの御業です。「わたしがわたしの教会を建てる」と主は言われるのです。

 もし、私たちが《私たちの教会》を建てるのならば、その土台も私たちが据えるのでしょう。「私たちはこのような理念に基づいて教会をつくりましょう」と言うこともできる。しかし、それでは「私たちの教会」にはなっても、キリストの教会にはなりません。キリストが建て給う《キリストの教会》であるならば、その土台を据えるのはキリスト御自身です。キリストの教会は、キリストが良しとする土台の上にのみ建てられるのです。

 では、その土台とはなんでしょうか。主は言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。イエス様は弟子のシモンをペトロと呼ばれます。主の用いておられたアラム語ならば「ケファ」となります。「ケファ」とは「岩」という意味です。そして、「この岩(ケファ)の上にわたしの教会を建てる」と主は言われたのです。ですから、直接的には、教会の土台である「この岩」とはペトロのことです。

 しかし、この言葉はその前のやりとりに続いています。「わたしも言っておく」と主は言われました。つまり、その前にペトロの発言があるのです。16節の言葉です。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これはナザレのイエスという御方に対するシモン・ペトロの信仰告白です。つまり、「この岩」は、ただ単に人間ペトロを指しているのではなく、《信仰を告白している》ペトロを指しているのです。

 ただ単にペトロという人間について語るだけなら、何もこの場面でなくても良いのです。そして、実際、ペトロその人について言えば、ここで教会の土台である「岩」と呼ばれたにもかかわらず、その直後には「サタン、引き下がれ」(23節)と叱責されています。岩ともなるし、サタンの手先ともなる。それが人間ペトロです。ですから、大事なのはペトロその人よりも、むしろ彼が言い表した信仰告白なのです。要するに、教会の土台は、ペトロが口にした、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白なのです。

 その信仰告白は、その前に書かれている人々の声と対比されております。イエス様が弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)と尋ねられました。すると、弟子たちはこう答えたのです。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(14節)。

 今日においても、様々なイエス像について語られています。ナザレのイエスの生き方に感動し、その模範に生きようとする人は決して少なくありません。あるいは、イエスの教えに大きな意義を認め、その教えに従って生きようとする人も少なくないでしょう。しかし、単にイエスの生き方を見習うことがキリスト教信仰なのではありません。

 教会の土台となる信仰とは、イエスという御方に向かって、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い表すところにあるのです。イエス様が弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。誰かがそう言っているということではなくて、ペトロのように、私たち自身が、自分の口で、この御方に向かって、「あなたはメシアです。生ける神の子です」と語るのです。それはすなわち、この御方こそ神の与えてくださった救い主であることを認めることを意味します。この御方にこそまことの救いがあることを認めることです。そして、この御方にこそ私たちを救い得る絶対的な権威と力があることを信じ、その御方に救いを求めることです。

 さて、「あなたこそメシアです。生ける神の子です」という言葉を聞いたイエス様は、ペトロにこう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)。ところが不思議なことに、そのイエス様について20節にはこう書かれているのです。「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。

 イエス様は「御自分がメシアであることを宣べ伝えなさい」とは言われなかったのです。なぜでしょうか。ペトロはまだすべてを見てはいないからです。ペトロにはまだ見るべきことがあるのです。知るべきことがあるのです。それは他の弟子たちについても同じです。ですから、それまでは誰にも話してはならない、と主は言われたのです。

 では、彼らが見るべきこと、知るべきこととは何だったのでしょうか。その直後にこう書かれております。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。そのように、彼らはイエス様の受難と復活を見なくてはならないのです。このことを通して、初めて彼らは本当の意味で、イエスをメシアであると告白することができ、またメシアとして宣べ伝えることができるのです。すなわち、イエスを《十字架にかけられて死に、三日目に復活したメシア》として告白し、そのように宣べ伝えることができるのです。

 先に、イエス様に向かって「あなたはメシアです。生ける神の子です」と言い表すことは、この御方に救いを求めることだ、と申しました。当然のことですが、救いを求めるのは、救われなくてはならない状態にあるから救いを求めるのです。では、救われなくてはならない状態とは何を意味するのでしょうか。イエス様の周りにいた人々の多くは、社会的な抑圧を経験していました。ある人たちは肉体的な、あるいは精神的な病を持っていました。経済的な困窮の中にいた人々もおりました。しかし、そのような苦境からの救いということならば、必ずしもメシアが苦しみを受けて死ぬ必要はありません。事実、多くの人々は苦しみを受けて死ぬようなメシアは求めていなかったのです。

 メシアが苦しみを受けて死ななくてはならなかったのは、人間の根元的な悲惨がもっと深いところにあるからなのです。すなわち、人間が神に背いている罪人であるという現実です。神に背いた罪人として生き、そして神に背いた罪人として死んでいなかなくてはならないという現実です。その悲惨からこそ救われなくてはならないのです。そのためには何よりもまず、神と人間とを隔てている罪が取り除かれなくてはなりません。神の御子の御苦しみによって、御子の血によって、罪が贖われなくてはならないのです。人間は罪を赦された者として、神のもとに回復されねばならないのです。

 それゆえ、私たちは《罪から救われなくてはならないものとして》、イエス様に向かって次のように信仰を言い表すのです。「あなたはメシアです。私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアです。あなたこそ生ける神の子です」と。これが岩なのです。教会の土台なのです。この岩以外に、いかなるものも教会の土台にはなりません。この岩の上にこそ、キリスト御自身が教会をお建てになるのです。それがキリストの教会なのです。

陰府の力もこれに対抗できない
 そして、そのような《キリストの教会》であるからこそ、キリスト御自身がこう宣言されるのです。「陰府の力もこれに対抗できない」と。

 「陰府の力」。文字通りには「陰府の門」です。陰府とは死の世界です。ですから、これは「死の力」「死の門」と言いかえてもよいでしょう。死の力がいかに強大であるか、私たちは皆、良く知っています。いかなる人も死の力にはかないません。いかなる権力者も、いかに屈強な人でも、いかに裕福な人でも、いかに優秀な人でも、必ず死に飲み込まれていきます。陰府の門はすべてを飲み込んでしまいます。しかし、キリストは言われたのです。「陰府の力も教会には対抗できない」と。

 なぜ陰府の力、死の力はもはや教会に対抗できないのでしょうか。キリストがペトロに対して、すなわちペトロの告白した信仰を土台としている教会に対して、このように言われるからです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と。――天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。ならば罪深い私たち人間に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによる以外にありません。罪を赦された者に対して、天の国が開かれるのです。

 その意味において、天の国の鍵とは、《罪の赦し》に他なりません。キリストは、罪の赦しを、教会に与えてくださったのです。キリストが罪の赦しを、天の国の鍵を、与えることができるのは、キリスト自らが、罪の贖いを成し遂げられたからです。この御方こそ、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアであり、生ける神の子だからです。

 そして、「天の国の鍵を授ける」ということは、次のように言い換えられています。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(19節)。必ずしも分かりやすい表現ではありませんが、要するに地上の教会において行われることが、天においても、神の御前においても有効だということが語られているのです。

 もし、このキリストの言葉がなければ、教会が今日まで二千年間に渡って行ってきたことは、ほとんど意味を持ちません。そうでしょう。牧師が説教をします。キリストの十字架における罪の贖いを語ります。罪の赦しと新しい命を語ります。それで心の中の罪責感が取り除かれる人がいるかも知れません。心の安らぎを得る人がいるかも知れません。しかし、もしその罪の赦しが本当に天において、神の御前において有効なのでなければ、本当に神が赦してくださるのでなければ、それは単なる気休めでしかないでしょう。

 同じことが聖礼典にも言えます。教会は洗礼式を行います。キリストと共に葬られ、新しい命に生き始めた者として、その人に罪の赦しを宣言します。しかし、これが天においても有効なのでなければ、神が本当にそのように見なしてくださるのでなければ、教会がやっていることは単なる水遊びに過ぎません。今日はこの後に聖餐が行われますが、聖餐についても同じことが言えます。小さなパンと杯を分かち合います。私たちの罪のために御自分を与えてくださったキリストの体と血として、これを分かち合うのです。しかし、これが本当に天において意味を持つのでなければ、神が本当にそのように見なしてくださるのでなければ、教会がやっていることは、まさにままごと遊びに過ぎないでしょう。

 しかし、キリストは言われたのです。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。私たちが地上の教会で目にしていることは、天上において神の御前においても決定的な意味を持つのです。

 キリストが罪の赦しを与えてくださるならば、しかも天において神の御前において有効な罪の赦しを与えてくださるならば、もはや陰府の力、死の力はこれに対抗することはできません。私たちが、キリストの建て給うキリストの教会の中に立っているなら、私たちは死の力も揺るがすことのできない岩の上に立っているのです。私たちが十字架にかけられたメシア、復活して今も生きておられるメシアへの信仰を土台とするキリストの教会の中に立っているなら、もはや陰府の力、死の力を恐れる必要はないのです。私たちはもはや神から離れた罪人として死ぬ必要はないからです。もはや何ものも私たちを神の愛から引き離し、滅ぼすことはできないからです。

以前の記事