2013年3月31日日曜日

「終わりではありません。始まりです」


2013年3月31日 イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節〜10節


墓を見に行った婦人たち
 「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。そう書かれていました。「墓を見に行った」――いいえ、本当はそれが目的ではありませんでした。他の福音書を読むと分かります。彼らはイエスの遺体に香油を塗りに行ったのです。葬られた時は安息日に入る直前だったので、遺体の処置が十分にできなかったからです。彼らはイエス様をふさわしく葬りたかった。そのために墓に行ったのです。しかし、今日の箇所ではそれを「墓を見に行った」と表現するのです。

 「墓を見に行った」。その彼女たちについては、たいへん印象的な姿が聖書の中に描かれています。イエス様が十字架から降ろされ、葬られた場面です。イエス様が葬られたのは、ヨセフという人の持っていた墓でした。その人が総督ピラトのところに行ってイエスの遺体の引き渡しを願い出ました。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」(27:59‐60)と書かれています。そして、こう続くのです。「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(61節)。あの二人です。ヨセフが立ち去った後もそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。

 彼女たちが墓の方を向いて座り、墓を見つめていたのは、その中にイエス様がおられたからです。そこがイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。いや、それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。イエス様との出会いがありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅した時のことが思い起こされたでしょう。喜びも悲しみも共有しながら歩んできました。しかし、その彼女たちが行き着いたのは、イエス様の葬られた墓でした。

 イエス様が捕らえられた時、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。そして、彼女たちの目の前で、イエス様は息を引き取りました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。彼女たちが見つめていた「墓」は、まさにすべてが終わったという事実そのものでした。

 それは墓の持ち主であったヨセフにとっても同じだったろうと思います。ヨセフが総督ピラトに遺体の引き渡しを求めることができたのは、彼がユダヤの最高法院の議員だったからです(マルコ15:43)。彼はイエス様に対して有罪判決を下して死刑を言い渡したあの最高法院の一員だったのです。ヨセフはわかっていたと思います。このナザレのイエスという方は死罪に当たることは何もしていない。真夜中に行われた裁判は明らかに異常であること。その判決はどう見ても正しくはないこと。分かっていたのだと思います。しかし、彼は声を上げなかった。彼は黙っていたのです。そして、判決は下された。そして、結果的にはローマ人の手によってですが、イエスは処刑されて死んでしまったのです。

 ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思ったのでしょう。ですから自分の墓を提供したのです。申し訳ない思いで一杯だったかもしれません。しかし、遺体を自分の墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。自分の無力さ、自分もまたその一部である宗教的権威の醜さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな罪、それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。自分は正しい人を見殺しにした。ヨセフにとってはこれが結論でした。終わったのです。すべては終わったのです。彼が提供した墓は、まさにすべてが終わったという事実そのものでした。

 さらに私たちは今日の箇所に登場しない人々のことも思い出す必要があります。イエスの弟子たちです。彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロであることを私たちは知っていますし、イエスを残して逃げてしまった弟子たちであることを私たちは知っています。

 ペトロは、他の弟子たちは、イエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いものなのかも知れません。終わったのです。すべては終わったのです。彼らにとっても、イエスが葬られた墓は、すべてが終わったという事実そのものでした。

あの方は、ここにはおられない
 そのような「墓」を彼女たちは見に行った。それが今日の聖書箇所に書かれていることです。そこにイエス様がおられるから。すべてが終わったところに、イエス様がおられるから。そうです、彼女たちはすべては終わったという事実を彼女たちはもう一度見るはずでした。しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見たのです。それこそ私たちがイースターにおいて聞くべき、聖書の伝えている使信です。教会が語り伝えてきた福音なのです。

 彼女たちは何を見たのでしょうか。マグダラのマリアともう一人のマリアがまず見たのは、転がされた大きな石、そして開かれた墓の入り口でした。主の天使が石をわきへ転がしたと書かれていますが、その意味するところは神が転がしたということです。神がなさったことがそこにあった。それは何なのか。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあるからです。そこにイエスはおられない、ということです。主の御使いは彼女たちにこう言ったのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。

 そこで彼女たちが見たのは、終わりではなく、新しい始まりだったのです。終わりであると思われたところにキリストはおられなかった。神によって復活させられたキリストは、もうそこにはおられなかったのです。神によって復活させられたキリストは既に墓から歩み出しておられたのです。先に進んでおられたのです。神によって新しいことが既に始まっていたのです。

 これが教会の信じてきた神様です。私たちの信じている神様です。神は「終わり」を「始まり」に変えることのできる御方です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっているのです。墓で終わっているのです。教会も存在していいないのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、キリスト教会が存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。

 あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見ただけではなく、そこから歩み出されたキリストにお会いすることとなりました。そこでキリストはこう言われたのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 こうして、今度は彼女たちが伝える人になりました。終わりではないこと。神は終わりを始まりに変えてしまわれたこと。神によって終わりが始まりとなったこと。もうキリストは先に進んでおられること。先に進んで待っていてくださること。だから、あの弟子たちもまた立ち止まっていてはいけないこと。これが結末だ、これが結論だ、「もう終わりだ」と思っているところから歩み出さなくてはならないということ。そう、キリストが先に行って待っていてくださるから。既に始まっているから。だから彼らも絶望の中から、また後悔と自責の中から新しく歩み出さなくてはならないのです。

 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。そう主は言われました。ガリラヤは弟子たちがイエス様に出会った場所です。あの日、この不思議な魅力に溢れた御方が突然現れ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。そうです、すべてはそこから始まったのです。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。

 しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。

 神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、いわば神の恵みによって新たに生かされた者として、一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから始まったのです。

 そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられてきました。そのようにして、私たちにもキリストの復活が伝えられました。そのようにして、私たちもまたキリストの復活を信じる集まりへと招かれたのです。あの弟子たちにとってそうであったように、ここにいる私たちにとっても、もはや絶望としての《終わり》はありません。常に新しい始まりがそこにあります。いかなる人生の途上の出来事も、いかなる挫折も失敗も敗北も、私たちにとっては終わりではありません。主の十字架に基づいて常にそこには新しい始まりがあります。死でさえも終わりではありません。十字架に基づいてそこには新しい始まりがあります。この世界の終わりでさえも私たちにとっては終わりではありません。十字架に基づいてそこには新しい始まりがあります。神は終わりを始まりにすることができる御方です。その神の御業を喜び祝いましょう。共にキリストの復活を祝いましょう。
イースター、おめでとうございます。

2013年3月17日日曜日

「すべては努力次第?」


2013年3月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章1節〜11節

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 本日の礼拝においてはローマの信徒への手紙の8章が読まれました。5節をご覧ください。このように書かれています。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。ここに二通りの人間が出てきます。「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」です。二通りの生き方、と言ってもよいかもしれません。人は「肉に従って」生きることもできますし、「霊に従って」生きることもできるのです。

肉に従って歩むのではなく
 「肉に従って歩む者」という表現は、私たちの日常においては使われません。これは聖書における独特の表現です。しかし、「肉」という言葉から連想されるのは「肉欲」という言葉でしょう。ですので、そこから肉欲に振り回されて放縦な生活をしている人を想像する人がいるかもしれません。不道徳なだらしない人を思い描く人もいることでしょう。

 しかし、「肉に従って歩む者」と言う時、第一に念頭においているのは、恐らくはこの手紙を書いているパウロ自身のかつての姿なのです。それは7章と8章を続けて読むと分かります。今日はお読みしませんでしたが7章には例えばこのような言葉が出てきます。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:14‐15)。明らかにパウロは自分自身の経験を下敷きとして「肉の人」について語っているのです。

 そうしますと、「肉に従って歩む者」とは単に不道徳なだらしのない人のことではありません。というのもパウロは恐らくここにいる私たちの誰よりも道徳的に真面目に生きてきた人であったからです。しかし、そのような彼もまた「肉に従って歩む者」だったのです。では「肉に従って歩む者」とは何を意味するのでしょう。

 パウロはファリサイ派に属するユダヤ人でした。彼にとって宗教とは神の律法を学び、神の前に正しい人間となり、救いを獲得し永遠の命に至ることでした。そのような理解は私たちにも馴染みがあります。この国においても、宗教の中心は善い教えを学び、正しい生き方を身につけることあると考える人は、恐らく少なくはないでしょう。教会に行き始めてしばらくした時、家族の方から「お前は教会で何を学んでいるんだ。やることなすこと、少しも変わっていないじゃないか」と詰られた経験はありませんか。」そのような言葉の背後には、「教会とは何か善い事を学んで善い人間になるところだ」という理解があるわけです。

 あるいは、宗教の目的を道徳的行為に見るのではなく、心理的な安定に見る人もいるでしょう。何が起ころうとも揺るがない心を持つこと。常におだやかな心をもって生活できるようになること。そうなるために信仰は大きな意味を持っていると考える人もまた少なくないことでしょう。

 そのように、宗教について考える時、ある人は重点を人間の行為に置き、ある人は重点を人間の心理的な状態に置きます。そして、この二つは異なるように見えて、実は共通しているものがあります。何でしょうか。それは「人間の」ということです。行為にせよ心にせよ人間に属するものが中心であることに変わりはありません。どちらにしても人間のことに関心の中心がある。言い換えるならば関心の中心には「わたし」がいるということです。「私はどれだけ変わっただろうか。」「私の心はどれだけきれいになったか。」「私はどれだけおだやかに生きられるようになったか。」そのようなことを言いながら、いつでも自分のほうに関心を向けているのです。

 分かりますでしょう。これが「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」ということなのです。体も精神も、共に肉です。それはすなわちあくまでも生まれながらの人間に属する事柄だということです。行動も心理的な変化も、皆、肉に属する、生まれながらの人間に属することです。「肉に属することを考える」ということは、言い換えるなら「神に属すること、霊に属することには関心がない」ということです。神の御業、神の霊の働きには関心がないということです。

 これに対して、「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とパウロは言います。霊に従って歩む者は、こちら側に目を向け続けるのではなく、あちら側に目を向けます。信仰において本来中心であるのは人間ではなく神様だからです。霊に従って歩む者は、神の御業に関心を向けます。神が何をしてくださったか。神が何をしてくださっているか。神が何をしてくださろうとしているのか。そこに関心が向けられます。「霊に属することを考える」とは、そういうことです。

 そのように「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」「霊に従って歩む者は、霊に属することを考える」という二通りの生き方について語り、さらにこう続けます。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(6‐8節)。

 肉に属することを考え、肉に従って歩むということは、先にも申しましたように、それ自体は必ずしも不道徳なことを意味しません。一般的に言いまして、それは極めて真面目な営みとも見えるのです。「私の努力」「私の精進」「私の向上」「私の心の変化」に関心を向け、すべては「私の努力次第だ」と考えることは、悪いことには思えないでしょう。神様について語られるよりも、「すべてはあなたの努力次第ですよ」と言われる方が正しいように聞こえるものではありませんか。パウロはそのような私たちの常識を覆すのです。しかし、それこそまさに「肉の思い」なのです。そのように考えている人は、神に喜ばれることはできない。いやむしろ神に敵対しているのだ、と言われているのです。神の御心にかなわないのです。それは一見神の律法に従っているように見えても、実は従っていないのだと言うのです。

神の霊が宿っているのだから
 神が望んでおられるのは、私たちが肉に属することを考え、人間の方に向いて、自分の方を向いて「すべては自分の努力次第だ」と言って生きることではなく、「霊に従って歩む者」として生きることなのです。すなわち霊に属すること、神の御業を考えて生きることなのです。

 そこでパウロはさらに次のように語ります。9節以下をご覧ください。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言います。これは「神の霊がもし宿っているとするならば…」と言う意味ではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉です。キリスト者として生きるということは、神の霊を宿した者として生きることです。パウロはまずその事実に目を向けさせるのです。

 パウロは一方において、私たちがこの世に生きる人間である限り肉の内には罪が住んでいると語ります(7:18‐20)。しかし、もはやただ罪が住んでいるだけではありません。神の霊が宿っていてくださるのです。そして、神の霊が宿っているかぎり、肉ではなく霊の支配下にあるのです。それゆえ、罪との戦いは継続しているにしても、「すべては私の努力次第」と言って、孤軍奮闘している者のように生きる必要はないのです。

 そして、神の霊が宿っているという事実について幾つかの言い換えがなされています。「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられています。さらに、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(10節)と言います。神の霊、すなわちキリストの霊が宿っているということころに、キリストが現臨されます。いわば復活のキリストが内に住んでくださるということです。

 もちろん、キリストが内に住んでくださると言いましても、罪が無くなってしまったわけではありませんから、死もあるわけです。神の霊に敵対する罪を宿す体ですから、これは死ななくてはなりません。体は死に行く体です。しかし、キリストのおられるところに義があります。キリストを通して与えられた神の義があるのです。義のゆえに、神から切り離された者ではありません。命につながっているのですから、命がそこにあるのです。永遠の命は死後に与えられるのではなく、未だ罪との格闘激しい現在において、既に与えられているのです。聖霊が与えられていること自体が義によって命となっているのです。

 さらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれております。この呼び名は、キリストの復活と私たちを結び付けます。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。このようにキリストを死者の中から復活させ、栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。

 これは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。戦いはやがて終わるのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。

 パウロは、キリストに結ばれた者が聖霊の支配のもとにあることを思い起こさせます。キリストに属する者とされ、神の霊が与えられているということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることを意味するのです。そうです。事は始まっているのです。パウロが語っているのは神の御業です。神が完成してくださるのです。私たちはそれゆえ、こちら側にひたすら関心を向けて生きるのではなく、向こう側、神の側に思いを向けて生きるのです。「すべては私の努力次第だ」と言いながら生きるのではなく、神の為し給う御業に思いを向け、既に与えられている聖霊に信頼し、ひたすら聖霊の御支配を求めて生きる。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。

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