2013年2月24日日曜日

「神から送られた侵略者イエス」

2013年2月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章22節〜32節

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サタンとその支配
 本日朗読された福音書の中でイエス様はこう言っておられました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。今日は特にこの言葉を私たちに与えられた御言葉として心に留めたいと思います。

 それはイエス様が「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を癒やされた時のことでした。そのようにイエス様が悪霊に取りつかれた人を癒やされたり、悪霊を追い出したりする話は福音書の中に繰り返し出てきます。皆さんはこのような箇所を読んでどう思いますでしょうか。

 ある人は、このような箇所に興味を抱くかもしれません。世の中にはこのような「霊」にまつわる話が大好きな人がいるものです。人は科学では説明できないような怪奇現象に好奇心をかき立てられます。あるいは好奇心ではなく、このような霊的な事柄に恐怖を抱く人もあろうかと思います。そのような人が「悪霊」にまつわる聖書の記述を読みますと、病気や不幸な出来事をことごとく悪霊の仕業と考えるようになるかもしれません。

 そのように興味を持つにせよ、恐れを抱くにせよ、いずれにしても「悪霊」そのものに関心を向けてこのような箇所を読むならば、聖書が本当に語ろうとしているメッセージを受け損なってしまうように思います。なぜならイエス様ご自身の関心は明らかに悪霊の存在を指し示すところにはなかったからです。イエス様は悪霊の脅威を宣べ伝えていたのではなく、神の国を宣べ伝えていたのですから。

 しかし、そのように悪霊について殊更に興味を持ったり恐れを抱いたりする人がいる一方で、このような悪霊についての記述を単に前近代的な迷信として片づけてしまう人もいます。「当時はそのように考えられていました」と。しかし、それもまたこのような箇所を読むに際して正しい態度ではなかろうと思います。というのも、それを悪霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、そのような言葉や表現の背後には、人間の経験というものがあるからです。しばしば人間は自分のコントロールを越えた力に支配されるという経験です。まさに「悪霊」としか呼びようがないような力に支配され翻弄されるという経験です。

 悪霊の頭は今日の箇所でベルゼブルと呼ばれています。より一般的な名称はサタンでしょう。イエス様も今日の箇所においてサタンとその王国について語っています。「サタン」とは「敵対する者」という意味です。その敵対には様々な意味合いがありますが、究極においては神に対する敵対です。

 サタンとその配下にある悪霊とは本質において神に敵対する力です。イエス様は、ただ人々の苦しみを見ていたのではなく、そこに働く神に敵対する力の支配を見ておられたのです。神に敵対する力については様々な言い換えが可能でしょう。聖書は「神は愛です」と語ります。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとは神と人との交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 皆さん、そのような力が確かにこの世界に働いているではありませんか。そのようなサタンの支配が、悪霊の支配が、この世界に猛威を振るっている現実を、私たちは確かに今日も見ているではありませんか。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ本当の喜びがあることも分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿があります。本当は自分を大切にして生きたらよいのに、実際には自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿があります。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいや、そうじゃない。愛なる神の御心に敵対する力が猛威を振るっているのです。ちなみにヨハネによる福音書では、イエス様はサタンのことを「この世の支配者」と呼んでいます。まさにサタンの王国となっているようなこの世界の中に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、私たちはそのようなサタンの王国の中に放って置かれているのではありません。イエス様はこう宣言されたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。

 今日お読みしました箇所に出てきたあの悪霊に取りつかれた人はイエス様によって癒やされてさぞかし喜んだことでしょう。目が見えるようになり、口が利けるようになったのですから。しかし、イエス様の言葉によるならば、喜ばしいことはただ癒やされたその人の上にだけ起こっていたのではないのです。喜ばしいことは、そこにいるすべての人にとって起こっていたのです。いや、そこにいた人々だけでなく、後の時代の人々にとっても、ここにいる私たちにとっても喜ばしいことが起こっていたのです。主はこう言われたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは決定的な出来事を目に見える形で表すしるしだったのです。重要なのはしるしそのものよりも、それが指し示している事実だったのです。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 さて、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主は言われたのですが、それは何を意味するのでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(21‐22節)。

 分かりますでしょう。強い人とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。しかし、そこに略奪者としてキリストが押し入って来たのです。サタンを縛り上げ、サタンの家を略奪するためです。すなわち、私たちをサタンの家から奪い取るためにキリストは来られたのです。神の国からの略奪者としてです。

 ある神学者がこんなことを書いていました。「戦いが進行しているのです。霊の世界における戦いです。イエスはサタンの力を粉砕するために神から送られた侵略者でした。そう考えるなら、イエスがなさった働きのすべての意味がわかります。」その言葉を説教題にも使わせていただきました。

 イエス様は単に倫理道徳を教えるために来られたのではありません。単に私たちを良い人間にするために来られたのではありません。サタンの王国を侵略し、私たちを略奪するために来られたのです。神の国に奪い返すために来られたのです。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも私たちを神の国に奪い返すためでした。イエス様が復活されたのも私たちを神の国に私たちを奪い返すためでした。天に上げられ、聖霊を注ぎ、教会を生み出し、キリストの体として遣わしてくださったのも、私たちを神の国に奪い返すためでした。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、主は私たちに教会を与えてくだり、共に捧げる礼拝を与えてくださり、洗礼を与えてくださり、聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、信仰生活を与えてくださいました。確かにそのすべてが、今ここに、私たちのただ中にあるではありませんか。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主が言われたようにです。

 そうです既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。神の国への略奪が既に始まっているのです。それゆえに私たちはこの世にありながらキリストのものとされ、神の国に略奪された者として生き始めることができるのです。神に背を向けて生きてきた人が、サタンに敵対し、神の方に向き直って神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、サタンの支配から解放され、共にサタンに立ち向かい、再び愛し合う関係と交わりを回復していくのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、サタンから解放され、サタンに立ち向かい、尊厳をもって、尊い存在として生き始めるのです。自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。

 この福音書にはイエス様の長い五つの説教がでてきます。一番良く知られているのは山上の説教でしょう。それは単なる倫理道徳ではないのです。主がこの福音書において語っておられるのは、この世にありながら神の国へと略奪された者において始まっていく新しい生活なのです。そうです、小さな一歩からですが、この世にありながら神の国に生きる新しい生活が始まっていくのです。

 もちろん、この世にある限り、私たちは依然としてサタンの力が猛威をふるっていることをも知っています。それゆえに、この世にある限りは戦いもまたあります。葛藤もあります。そのような中で多くの涙をも流すのでしょう。しかし、「神の国」と言うからには、中途半端で終わることはありません。「神の国」という言葉は終末論的な言葉です。それは最終的な完全な救いを指し示している言葉なのです。やがて神の完全な支配がおとずれるのです。神の完全な救いが実現するのです。そのような完全な救いへと向かう途上に私たちはいるのです。それゆえに私たちは神の国を部分的に味わいながら、大きな希望を抱きつつ、喜びながら生きることが許されているのです。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。


2013年2月17日日曜日

「悪魔との勝負の勘所」


2013年2月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節〜11節

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 今日の箇所には悪魔が登場してまいります。一方、私たちの生活において目に見える形で悪魔が登場してくることはまずありません。その意味において、今日の聖書箇所が伝えるのはあくまでもメシアとしてのイエス様に起こった特殊な出来事であると言えます。私たちに同じようなことがそのまま起こるわけではありません。しかし、ヘブライ人への手紙にこんな言葉がでてきます。「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。この「試練に遭う」という言葉は、原文においては先ほど読みました「誘惑を受ける」という言葉と同じなのです。主は、《わたしたちと同様に》誘惑を受けられたのです。そのように聖書は、主が受けられた試練(誘惑)は、今日お読みした箇所に書かれていることも含め、私たちと無関係ではないと語っているのです。主は確かにメシアとして誘惑を受け、悪魔と戦われた。しかし、それはまた私たちの戦いを先頭に立って戦ってくださったとも言えるのです。

 私たちは今日の箇所において、私たちの人生に働く誘惑の本質が何であるかをしっかりと見なくてはなりません。そして、その誘惑に主がどのようにして打ち勝たれたかを見て、私たち自身の悪魔との戦いにおける勝負の勘所をつかみたいと思うのです。

人はパンだけで生きるのではない
 そこでまずイエス様が受けられた第一の誘惑に目を向けましょう。こう書かれています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。

 悪魔が「パンを盗んできなさい」と言ったなら、いかにも悪魔らしいと思います。しかし、石がパンになるように命じることは、そんなに悪いことでしょうか。石の一個や二個自分が食べるためにパンに変えたとしても、誰にも迷惑はかからない。別にいいじゃないですか。

 しかし、これが悪魔の誘惑なのだ、と聖書は教えているのです。悪魔が悪魔らしくやって来ると思ってはならない。悪魔の誘惑は「なぜこれがいけないの」というところにこそあるのです。では、どのような意味でこれが誘惑なのでしょう。イエス様はどんな誘惑をそこに見ていたのでしょう。

 それはイエス様が何と言って悪魔を退けているかによって分かります。主はこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)。つまりイエス様はそこに、「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という真理から人間を引き離そうとする悪魔の誘惑を見ていたのです。

 「石がパンになるように命じてごらん。パンが必要なんだろう。欲しいんだろう」。悪魔がささやきます。もちろん、私たちに語りかけるなら、悪魔は別な言葉を使ったに違いありません。「石がパンになるように命じてごらん」とは言わない。なぜならイエス様ならできるかもしれないけれど、私たちにはできないから。しかし、悪魔は私たちができることについて言ってくるに違いありません。「必要なものと手にいれなさい。欲しいものを手にいれなさい。どうしたら手に入れられるか、知っているんだろう。それを実行したらいいじゃないか。欲しいんだろう。手に入れなさい」と。

 お腹がへっていたらパンが欲しくなる。人生に欠乏感を覚えていたら、それを満たす何かが欲しくなる。空腹で死にそうだったら、死ぬほどパンが欲しいに違いない。同じように、人生において死ぬほど欲しいものがあるかもしれません。欲しいものを手に入れるためだったら、どんなことだってするものです。悪魔はそんな私たちの思いを刺激します。「欲しいものを手にいれなさい」と。そして、結構やろうと思えば手に入れることができるものです。イエス様にとって、パンを得ることが本当は極めて容易であったように。

 しかし、そうやって欲しいものを手にするうちに、欲しいものを手に入れてこその人生だ、と思うようになるのです。願っているものを手にしてこそ生きる意味がある、と考えるようになるのです。しかし、本当はそうではないのです。人はパンだけで生きるものではないのです。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。欲しいものを手に入れてこその人生ではないのです。神の言葉を聞いてこその人生なのです。神の御心を聞き、神の願いを知り、神の望んでいることを実現してこその人生なのです。その意味において、人を本当に生かすのは神であり、神の言葉なのです。

 「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエス様は、それが単に御自身の空腹に関わる誘惑ではなく、この全人類に及ぶ悪魔の誘惑であることを見て取ったに違いありません。それゆえ主は、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と言って悪魔を退けられたのです。

主を試してはならない
 次に第二の誘惑を見てみましょう。悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)。

 この誘惑もいわゆる悪魔らしい誘惑ではありません。飛び降りたって神様が必ず守ってくださるよ。そう言っているのです。しかも聖書を引用して言っているのです。「聖書にはそう書いてあるでしょ」って、まるで敬虔なクリスチャンみたいではありませんか。しかし、そのようなところにも、悪魔の誘惑があり得るというのです。悪魔は時として聖書を引用した極めて敬虔そうな言葉を通してやってくる。

 この悪魔の言葉のどこにイエス様は誘惑を見ておられたのでしょう。それはイエス様が何と言って悪魔を退けているかによって分かります。イエス様はこうお答えになりました。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。イエス様はここに、「主を試す」ことへの誘惑を見ていたのです。「主を試す」とはどういうことでしょう。主をテストするということです。人間がテストする側。神はテストされる側。人間は問う側。神は問われる側。人間が合格か不合格かを決める。人間が信ずるに価するか否かを決める。そういうことです。

 旧約聖書にこんな話が書かれています。エジプトを脱出したイスラエルの人たちはモーセに率いられて荒れ野を旅していました。ある時、彼らはレフィディムというところに宿営したのです。しかし、そこには飲み水がありませんでした。すると民はモーセに言ったのです。「我々に飲み水を与えよ」と。水の湧いていないところで「飲み水を与えよ」というのは無茶な話です。要するに、「神が私たちと共にいると言うならば、神の奇跡によって水を出してみろ」ということです。水を出したら合格。神様もおまえも信じてやる。これからも従っていってやる。そういうことです。

 その時モーセはこう言いました。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」(出エジプト17:3)。それは違うだろう、とモーセは言いたいのです。問われるべきは神ではなくて、人間の側なのです。窮乏の時こそ人間が信仰を問われているのでしょう。あくまでも神に信頼して生きるのか。どこまでも信じて従うのか。神から問われているのはイスラエルの人々の側だったはずなのです。

 そのように本来神から問われる側にあるはずの人間が問う側に回ってしまう。神をテストする側に回ってしまう。そのような悪魔の誘惑が確かにあるのです。それはイスラエルが経験しただけでなく、まさに全人類に及んでいる悪魔の誘惑であることをイエス様は見て取ったに違いありません。それゆえに、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と言って、悪魔を退けられたのです。

主を拝み、ただ主に仕えよ
 最後に第三の誘惑に目を向けましょう。悪魔はキリストを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて言ったのです。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)。これは、三つの誘惑の中で最も悪魔らしいし、分かりやすいもののように見えます。しかし、この言葉の中にイエス様がいかなる誘惑を見ておられたかは、悪魔を退けるその言葉から理解しなくてはなりません。主はこう答えられたのです。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。

 イエス様が引用したのは申命記6章13節です。その前後までを含めて引用しますと、そこには次のように書かれております。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6:13‐15)。つまりイエス様が引用したのは、もともと「悪魔を拝むな」と言っている言葉ではないのです。

 そもそも悪魔を悪魔として礼拝する人など、そう多くはないのです。イエス様が引用しているのは申命記の言葉なのですが、実際、イスラエルの歴史を見ても悪魔礼拝などしてはいないのです。殊更に悪魔に心を売り渡して、悪に手を染めてでも繁栄を手にしようとしたわけでもないのです。しかし、人はそのつもりがなくても、いつの間にか悪魔に膝をかがめ、悪魔を礼拝していることがあるのです。

 イスラエルはどのようにして、そうなってしまったのか。繁栄を約束する豊穣神、バアルの神を拝むことによってです。私たちに信頼と従順を求める神ではなく、ただ繁栄と幸福とを与えてくださる神を求めることによってなのです。神を礼拝し、神に信頼して真実に神と共に生きることを求めるのではなく、自らの幸福と欲求の充足を第一に求める時に、「いいですよ、それらすべてを与えてあげましょう」と言ってくるのは主なる神ではなく悪魔なのです。

 イエス様は、これが全人類に及ぶ悪魔の誘惑であることを見て取ったに違いありません。それゆえに、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って、悪魔を退けられたのです。

 神の御言葉によって生き、主にどこまでも信頼し、ただ主なる神のみを礼拝し、主に仕える。そのような私たちの本来あるべき生活を破壊しようと、妨げようと悪魔は総攻撃をかけていることを知らなくてはなりません。しかし、私たちはいたずらに恐れる必要はないのです。私たちと同じように試練と誘惑に遭われ、悪魔を退けられた御方、その御生涯において、十字架と復活において悪魔に対する完全な勝利を収められた御方が私たちと共におられるからです。

2013年2月10日日曜日

「神は扉を開いてくださる」


2013年2月10日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節〜17節
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熱心な祈りが神にささげられていた
 「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(12:1)。本日読まれた聖書の言葉です。「ヘロデ王」と呼ばれているのはヘロデ・アグリッパ一世のことです。洗礼者ヨハネの首を切ったヘロデ・アンティパスは彼の叔父に当たります。イエス様が生まれた時の物語にもヘロデという名前の王が登場しました(マタイ2章)。ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を皆殺しにしたというエピソードが聖書に記されています。ヘロデ大王の孫に当たるのが、ここに出てくるヘロデ・アグリッパ一世です。

 ヘロデ大王にせよ、アンティパスにせよ、残虐なことをするのは、もう一方において恐れがあるからです。王位が常に脅かされていた。それだけユダヤ人のコミュニティが存在する領土を治めることが難しかったということでもあります。それは今日登場するアグリッパ一世についても同じでした。彼は最終的にユダヤ、サマリヤからガリラヤ地方に至るまで、祖父のヘロデ大王の時代にまさる広い領土を得ることになったのですが、そこには常に恐れがあったのです。

 ですから、彼はエルサレムの城壁の建造に取り組んだり、ファリサイ派を重んじ、自らも律法を遵守するよう努めたりすることによって、なんとかユダヤ人の好意を得ようと腐心したのです。今日の聖書箇所に書かれている出来事にもそのような王の思惑が垣間見られます。「そして、それが(すなわち、ヤコブを剣で殺したことが)ユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした」(3節)。彼はペトロを捕らえ、過越祭の後で民衆の前に引き出して裁判にかけ、公衆の面前で処刑しようと考えていたのです。過越祭には多くのユダヤ人が都に集まっているのですから、ユダヤ人たちに自分の姿勢をアピールするには絶好の機会だと考えたのでしょう。

 ヘロデによってペトロは捕らえられ、牢に入れられました。「ヘロデは…四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた」と書かれています。強大な権力のもとにがっちりと捕らえられているペトロの姿がそこにあります。使徒の一人が斬り殺され、もう一人の使徒が捕らえられて処刑されようとしている。この厳しい事態に直面している教会は実に無力です。ヘロデの力に対抗して教会は何も為すことができません。しかし、教会には唯一なお為し得ることがありました。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と書かれています。彼らは集まって祈ったのです。

 ヘロデは、ペトロが自分の手の内にあると思っていたことでしょう。教会の運命も自分の手の内にあると思っていたことでしょう。「過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」(4節)と書かれているとおりです。しかし、教会はこの世界が、ヘロデではない、もっと大きな支配のもとにあることを知っていました。捕らえられているペトロも、国家権力の支配のもとにあるのではなく、さらに大きな支配のもとにあることを知っていたのです。すなわち、すべては天地を造られた神の支配のもとにある。ゆえに彼らはその神に祈りました。その大きな御手にすべてを委ねて祈ったのです。

 かつて、ペトロとヨハネがサンヘドリンから脅迫されて帰ってきた時もそうでした。4章24節にはこう書かれています。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です』」。

 その後、多くの困難があり、迫害がありました。教会は幾たびも大きな打撃を受けました。多くの人々が散らされていきました。そのような中でステファノは死に、ヤコブは死にました。「なぜ、こんなことになるのか?」と叫ばざるを得ないことも幾たびもあったでしょう。しかし、彼らはこの世界が神の支配のもとにあることを忘れませんでした。彼らは、自分たちの力によって困難を乗り越えて今日まで来たのだ、とは考えませんでした。彼らは自分たちの力が教会を導いてきたのだとは決して考えませんでした。誰が治められ、誰が導いておられるかを知っていたのです。だから、ここにおいても祈った。熱心に祈ったのです。私たちは、ここに持つべき基本的な姿勢を見ることができます。祈りは人が徹底的に自らの無力を自覚するところにあるのです。誰が主であるかを認識するところに祈りがあるのです。

神に栄光を帰する
 さて、6節以下では場面が獄中に移ります。囚われのペトロはどうしていたのでしょう。「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」と書かれています。彼は、教会の仲間がその夜どこにいるかを知っています。マルコの母マリアの家で夜を徹して祈っていることを知っているのです。壁の外では、教会が神の支配を仰ぎつつ、夜を徹して祈っている。壁の中では、同じ神の支配を仰ぎつつペトロが安らかに眠っています。この世の権力を象徴するような牢獄の壁は、もはや彼らを引き離してはいないのです。ペトロと教会は同じ主のもとにあって一つに結び合わされています。そこでは、もはやヘロデの支配は意味を持たない。そして、その夜、壁の中に主の天使が遣わされたというのが、ここに書かれている物語です。

 人間の目から見るならば、ペトロはヘロデの手の内にあり、ヘロデの壁の中にいるわけです。しかし、本当の支配者なる方が、その中において具体的に働かれたのです。ですから、ペトロは我に返ってこう言うのです。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」(11節)。

 神は閉ざされているように見える現実の中に働かれます。何者も何事も、神の支配の及ばぬところに私たちを閉じ込めることはできません。聖書は「町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いた」と伝えています。「門がひとりでに開いた」――それはいかなる意味においても、ペトロが関わっていないことを意味します。それはペトロによらず人の力によらず、神によって開かれたのです。

そして、私たちはここで単にペトロの命が助かったからそう言えるのだ、と思ってはならないのです。教会がこの出来事を伝えてきたのは、これがまさに象徴的な出来事だからです。事態は仮にペトロが殺されたとしても同じなのです。最終的には死でさえも、私たちを神の手の届かないところに閉じこめることはできないのです。その門は人の力によらず、いかなる人の関わりによらず神によって開かれた。キリストの復活によって神はそのことを表してくださいました。最終的には死の壁の中にまでも神の力は働かれる。そのような意味において、この事件はペトロにとっても、教会にとっても、大きな意義を持つ象徴的な出来事であったのです。

 さて、こうしてペトロは獄から出され、ヨハネの母マリアの家に行きました。「そこには大勢の人が集まって祈っていた」と書かれています。先にも言いましたように、そこでは夜を徹して祈りがなされ、ペトロもそれを知っていたのでしょう。しかし、そこでルカは、非常にユーモラスに、その時の出来事を記します。ペトロが門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出ました。そして、彼女はペトロだと分かると、門も開けずに家に駆け込んでしまうのです。しかも、彼女が人々に告げると、彼らは「あなたは気が変になっているのだ」と言った、と書かれているのです。あるいは「それはペトロを守る天使だろう」と言う者もいたと言うのです。

 思わず笑ってしまうような箇所でしょう。彼らは祈っていたのだけれど、ペトロが助かって帰ってくると確信していたわけではないようです。むしろ、それは信じられないことだったのです。いや、信じられない自分たちであるからこそ、ただ神を仰ぎ続けて夜を過ごすしかなかったのです。彼らの熱心な祈りとはそのようなものだった。ですから、私たちは、祈りに際して、確信のない自分の不信仰を責める必要はありません。彼らもまた、そのような人々だったのです。

 そして、最後にヘロデの死の報告をもってこのひとつの話は締めくくられます。集まった人々は王の演説を聞きながら「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。すると、どういうわけか、王は急死してしまったと言うのです。聖書は「するとたちまち、主の天使がヘロデを打ち倒した」と説明しています。そのようにしか説明できないような非業の死だったのでしょう。このヘロデの急死というのは歴史的な事実のようでありまして、細かい描写は違っているのですが、ヨセフスという歴史家も記しております。紀元44年のことです。

 ヘロデに始まり、ヘロデに終わるこの一連の物語でありますが、明らかにそこに描かれているヘロデと教会の姿は対照的です。最初に申しましたように、ヘロデは一生懸命に自己保身のために教会を迫害するのです。ユダヤ人に気に入られるために、ヤコブを斬り殺し、ペトロを捕らえます。そうして、王としての地位の安定を謀ります。彼は、教会の運命も、ペトロの生と死も、そして自分の王権の安定も、すべて自分の手の内にあると思っていたのです。しかし、彼は真実を知らなかった。それは愚かなことでした。真実とは何か。人間は我が身一つさえ思い通りにできない。自分の手の内に置くことはできないということです。彼は人間の栄光の絶頂において死んでいきました。すべてが自分の手の内にあると思いながら、その自分自身を彼は失ったのです。そんな彼を聖書は「神に栄光を帰さなかった」と表現するのです。

 一方、教会はヘロデのように権力もありません。自己保身のためにすら何も為し得ません。ペトロが捕らえられても何も出来ません。しかし、一つのことだけを知っています。それは教会の運命も何もかも、一人の御方の手の内にあるのだ、ということです。そして、その方を呼び求め、その方に信頼し、その方に栄光を帰した。それが祈る教会の姿でありました。頌栄教会もまたそのような教会の歴史の中にあるのです。

2013年2月3日日曜日

「主よ、ごもっともです」


2013年2月3日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 15章21節〜31節
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 本日お読みした聖書の箇所には、一人の女性が登場します。彼女は言いました。「娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。娘が苦しんでいる。その娘を母親はどうすることもできない。それは母親にとっても大きな苦しみです。その苦しみを抱えて彼女はイエス様のもとにやって来たのです。そして御前にひれ伏しました(25節)。「ひれ伏す」――これは「礼拝する」という言葉です。東方から来た占星術の学者たちが幼子イエスを拝んだ、というところから始まって、この言葉はマタイによる福音書に繰り返し出て来ます。マタイは、イエスの御前にひれ伏した人々の姿と、礼拝するキリスト者の姿を重ね合わせているのです。

わたしを憐れんでください
 このエピソードは、「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(21節)という言葉から始まります。「そこ」とは14章34節によれば「ゲネサレトという土地」ということになります。しかし、この直前には、ファリサイ派の人々や律法学者たちとの論争が記されていますから、意味合いとしては、イエス様の言葉を拒否した彼らのもとを離れたということでしょう。

 15章は「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った」(15:1)という言葉で始まります。エルサレムからガリラヤまで百二十キロもの道のりを旅してやって来たのは、イエス様のことを伝え聞いたからに違いありません。神の国を宣べ伝え、罪の赦しを宣言し、病める人々を癒し、飼う者のない羊ような群衆を憐れみ、神の恵みの豊かさを現されたイエス様。その言葉と行いが、エルサレムにまで伝えられたのです。しかし、彼らが遠くからやってきて開口一番に言ったことは何だったでしょう。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」(2節)でした。

 律法を守ることに熱心であったファリサイ派の人々。彼らは決して不真面目な人々ではありません。しかし、そのような彼らは、イエス様のことを伝え聞いていながら、そして現にイエス様にお会いしていながら、その言葉と行いの中に神の恵みを見出すことはできませんでした。イエス様は、そのような彼らのもとを、一時的にですが離れたのです。そして異邦人の地、ティルスとシドンの地方へと退かれたのです。それがこの状況説明の意味するところです。そして、聖書はそのような場所において何が起こったのかを語りはじめるのです。

 「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」(22節)。

 この女の人も、イエス様のことを伝え聞いて御もとにやってきたのでしょう。その点では、あのファリサイ派の人々と同じです。しかし、彼女が開口一番口にしたのは「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(22節)という言葉でした。「あなたの弟子たちは食事の前に手を洗いません」ではありませんでした。これはある意味で当然のことです。彼女はユダヤ人の律法に関心ありませんし、置かれている状況も違いますから。

 確かにファリサイ派の人々とは状況が違います。しかし、彼女の言葉を注意深く聞いてください。この母親は「娘を憐れんでください。娘を癒してください」と言ったのではないのです。「主よ、《わたしを》憐れんでください」と言ったのです。憐れみを必要としているのは、娘ではないのです。母親である自分なのです。なぜでしょう。愛する娘が苦しんでいるのに、どうすることもできない無力な自分であるからです。

 赤ん坊が夜中に泣き出したら、普通お母さんは何と言いますか。「大丈夫よ、お母さんがいるから」。そう言うでしょう。しかし、本当にお母さんがいれば大丈夫なのでしょうか。そんなことないでしょう。それは子供が成長していく過程において明らかになっていきます。自分の子供のことどころか、我が身一つどうすることもできない。それが人間なのです。この自分自身の行動すら、自分の心すらコントロールできないようなものなのです。何が大丈夫なもんですか。

 その点においては、本当はあのファリサイ派の人々や律法学者たちも同じなのです。気づいていないだけの話です。この母親は、娘の問題を通して、そのことに気づかされたのです。憐れみを必要としている自分であることを知ったのです。認めたのです。彼女とファリサイ派の人々との違いは、単に置かれている状況の違いではありません。憐れみを必要としている自分を知っているか否かの違いなのです。憐れみを必要としている自分が分からなければ、他の人のあらばかりに目が行くのです。「なぜ、あなたの弟子たちは、手を洗わないのですか」。憐れみを必要としている自分を知っている人は――ひたすら憐れみを求めます。「主よ、わたしを憐れんでください」と。

主よ、ごもっともです
 そのように、彼女は「わたしを憐れんでください」と言いました。その「憐れんでください」が何を意味するのかをさらに見ていきましょう。23節からお読みします。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」(23‐27節)。

 驚いたことに、イエス様は実に冷たい言葉をもって、その女の求めを拒否されました。この母親は「カナンの女」と呼ばれています。異邦人であるということです。その彼女に、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と主は言われたのです。異邦人のあなたには遣わされていない、ということです。さらに、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とまで言われました。イエス様の言っている「子供たち」というのはユダヤ人のことです。イエス様が言わんとしている意味は明らかです。神様の恵みは先ずユダヤ人に向けられているのであって、それを異邦人であるあなたに与えるのはよくないのだ、と言っているのです。

 こういう言葉を聞くと、なんとなく不愉快になりませんか。それでは不公平ではないか、と。神の恵みはすべての人に対して公平に与えられるべきではないか。そう思います。他人のことでさえ不愉快な思いを抱くのに、これが自分に対してだったらなおさらでしょう。どう思いますか。ここで「子供たちのパンを取って、あなたのような小犬にやることは良くないことだ」と言われたら。腹を立てて出て行きますか。「もう二度とあんな教会には行くものか!」そう言いますか。

 驚いたことに、彼女の反応は違っていたのです。彼女は、「主よ、ごもっともです」と言ったのです。なぜでしょうか。ここで腹を立てたら元も子もないという損得勘定で、ぐっと怒りをこらえたのでしょうか。そうではないでしょう。その心は、次の言葉によく現れています。彼女はこう続けるのです。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

 彼女は自分が「小犬」であることを認めているのです。わたしは「子供です」とは言わないのです。これは単に自分が異邦人であるということを言っているのではありません。そうではなく、《自分は当然のごとく何かをいただけるような者ではない》と言っているのです。パンを受けるべき「子供」ではないと言っているのです。

 人は神の御前においてさえ、極めて傲慢な者であり得ます。神なのだから願いを聞き入れてくれて《当然》。救い主なのだから自分を救ってくれて《当然》。神の恩恵は等しく自分にも与えられて《当然》。自分に与えられないとするならば、神は極めて不当であって、不公平でもある。だから自分の願い通りにならなければ、「そんな神は信じるに価しない」と言ってそっぽを向く。そのような人ならば「憐れんでください」とは言いませんでしょう。「憐れんでください」という言葉は、受けるに価しない自分であることを知っている人が口にする言葉です。

パン屑はいただきます
 しかし、ここで最も重要なことは、彼女が謙っていたということではありません。この聖書の箇所は「あなたがたも彼女のように謙らなくてはなりませんよ」ということを教えようとしているのではないのです。

 ここで最も重要なことは、彼女が安心して「主よ、ごもっともです」と言えたということなのです。イエス様の御前では、安心して「小犬」であり得た、ということなのです。なぜか。こう言うことができたからです。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。細かいことになりますが、実は、原文には「しかし」という言葉はないのです。「なぜならば」と書かれているのです。彼女が言っているのは、こういうことなのです。「主よ、ごもっともです。わたしは小犬なんです。なぜなら、主人の食卓から落ちるパン屑をいただく――それが小犬というものだからです」。

 要するに、彼女は「主人の食卓から落ちるパン屑」をいただけることを知っているのです。確信しているのです。私は当然のごとくパンをいただける者ではない。でも、神は受けるに価しない者を憐れんでくださる。小犬を憐れんでくださる。パン屑をくださる。神様はそういう主人なのだ。――それが彼女の確信だったのです。

 なぜそう言い得たのでしょう。目の前にいるのがイエス様だったからなのです。受けるに価しない者に、なおも恵みを示してくださる神の憐れみを、言葉をもって、行いをもって現して来られたイエス様だったからなのです。イエス様を通して神の憐れみがいかに豊かに現されてきたか、そのことを彼女は伝え聞いていたのです。だからイエス様のもとに来て「主よ、憐れんでください」と言ったのでしょう。

 同じことを伝え聞いていても、ファリサイ派の人々にとってはそれが喜びになりませんでした。なぜですか。自分が当然のごとくパンをもらえる者だと思っているからです。そのような人にとって、小犬がパン屑を受けることは面白くないものです。しかし、自分が「小犬」だと思っている人にとっては、イエス様の言葉と存在は、大きな喜びです。安心して、「小犬」として、「主よ、わたしを憐れんでください」と言えるのです。

 最初に申しましたように、マタイはこの女性の姿に、礼拝するキリスト者の姿、教会の姿を重ね合わせて書いているのです。主を礼拝するとはどういうことかを描き出しているのです。「主よ、憐れんでください」。ギリシア語で「キュリエ、エレエーソン」と言います。これは古くからの祈りの言葉です。教会は礼拝において、この祈りの言葉を繰り返してきたのです。主を礼拝し、主に祈るとは、「主よ、憐れんでください」と言うことに他なりません。私たちもまた、そのように祈って良いのです。安心して、主の食卓のもとにいていいのです。主の憐れみを求めてよいのです。イエス・キリストを通して御自身を現された主は、まことに憐れみ深い御方だからです。

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