2013年1月6日日曜日

「あなたを通してキリストが働かれる」



2013年1月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 1513節〜21
------------------------------------------------------------------ 

 日曜日の午後に持たれています受洗後クラスでは八つのテーマについて学んでいますが、第四回目のテーマは「伝道」です。その冒頭にいつもこのようなことを申し上げています。「わたしがここにおり、皆さんがここにいるのは、教会が二千年間伝道することを止めなかったからです。そして、当然のことながら私たちが福音の終着点ではありません。ゆえに伝道は私たちに託された使命であり責任でもあります。キリスト教信仰が伝道によって今日に至るまで伝えられているという事実は、『伝道』がキリスト教信仰において本質的な意味を持っていることをも意味します。ゆえに『伝道』に無頓着なキリスト者はキリスト教信仰の本質的な部分を見失っているとも言えるでしょう。」

 もちろん、それは「受洗後クラス」での話であって、既に洗礼を受けている人にお話ししていることなのですが、実のところ「伝道」の話は必ずしもキリスト者にのみ重要なテーマではないのです。これは教会に来られてこれから信仰を求めようとしている人にも関心をもってもらいたいテーマでもあるのです。キリスト教会が信仰の言葉を伝えてきたということ、そして、今もなおこの教会においても伝えられているということが何を意味するのか、正しく理解していただきたいからです。

供え物を捧げる祭司として
 さて、今日の礼拝においてはパウロが書いた「ローマの信徒への手紙」が読まれました。新共同訳の小見出しでは「宣教者パウロの使命」となっています。ここには「伝道」について、パウロがどのように考えていたかがよく表れています。そこで私たちが出会う言葉は、ある意味では実に過激な言葉であると言えます。彼はこう言っているのです。

 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」(ローマ15:15‐16)。

 先ほども言いましたように、パウロは「伝道」について語っているのです。しかし、パウロはここで自分を「宣教者」とか「伝道者」とは呼ばないのです。そうではなくて、「祭司の役を務めている」と表現するのです。祭司とは神殿において神に犠牲を捧げる人です。パウロはそのように神に犠牲を捧げる役を務めているというのです。では捧げられる犠牲、供え物はなんでしょう。それは異邦人だ、と言うのです。16節に「そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」と書かれていましたでしょう。つまりパウロが宣教者としていることは、要するに神様に異邦人を供え物として捧げるという務めなのだというのです。

 これだけでもかなり過激な発言だと思いませんか。皆さんだったら同じことを言うでしょうか。誰かにキリストを伝えようとしている時に、「私がこうしているのは、あなたを神様に犠牲としてお捧げしたいからだ」と言うでしょうか。恐らく言わないでしょう。しかも、この手紙の宛先であるローマの教会の多くは異邦人なのです。しかも、ローマの教会はパウロが伝道してできた教会ではないのです。ほとんどの人とは面識がないと思われます。そのような教会に宛てた手紙で、ほとんど面識のない多くの異邦人に向かって、「わたしがしていることは、異邦人を神に喜ばれる供え物とすることだ」と言っているのです。過激です。実に過激です。

 しかし、彼が誤解を恐れずにあえて大胆にこのような表現をもって語るのは、そこにどうしても失われてはならない本質的な事柄があるからなのでしょう。それは私たちにとっても、やはり失われてはならない理解なのだと思うのです。

 実際、私たちは、「伝道」の働きについて、往々にしてまったく違った見方をしているものです。私たちが考えることは、やはりどこまでも人間中心なのです。人間のことからしか考えられない。だから私たちは恐らくは「そしてそれは、異邦人が…神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」とは言わない。そうではなく、こう言うに違いないのです。「それは、救いを必要としている異邦人が救われるために他なりません」と。もちろん、それは間違いではありません。教会は人間の救いのために仕えるのです。しかし、それは事柄の一面に過ぎないのです。そのような「人間の必要」という観点からしか伝道を考えることができないとするならば、それは大事な部分が欠落していることになるのです。

 パウロが、異邦人を神に喜ばれる供え物として捧げようとしているのは、神御自身がそのような供え物を求めておられることを知っているからでしょう。神が求めてもいないものを捧げても意味がないのですから。パウロは確信しているのです。神は異邦人を求めておられる。パウロにとって、キリストにおいて現された神の愛とは、まさにユダヤ人の枠を越えて、この世界全体を愛し求めておられる神の愛に他ならなかったのです。

 その愛は、神を求める人間に対する神の応答ではないのです。そもそも私たち人間は神を求めていなかったのです。神を必要としているということさえ分からなかったのです。パウロに言わせるならば、私たちはむしろ、神に逆らう者であり、神に敵対する者であったのです。しかし、キリストは不信心な者のために死んでくださった。パウロがこの手紙においてこう言っているとおりです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」(5:8)。

 そのように、私たちが神を求める以前に、神が私たちを求めてくださった。神は異邦人を求められたのです。私たちを求められたのです。まことに愛するに価しない、求めても意味がないと思えるような私たちを、神は求められたのです。この神の求めが先にあるのです。伝道は第一には人間の必要に基づくのではなく、この神の求めに基づくのです。だから、パウロは祭司の務め得て、求めておられる神に異邦人を供え物として捧げようとするのです。それが神の愛に応え、神に仕えることに他ならないからです。これが教会が今日まで続けてきた伝道です。私たちは皆、そのような伝道において神の喜びとなったのです。

キリストは人を通して働かれる
 そして、さらにパウロが宣教者としての自分の働きをどのように見ていたかについて、もう一つの大事な点を見ておきましょう。彼は続けてこう言っています。「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(17‐19節)。

 ここで「神のために働くこと」とありますが、これは意訳で原文には「働く」という言葉はありません。「神のためのこと」としか書いてないのです。では働いているのは誰か。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と彼は言っているのです。彼はキリストの働きについて語っているのです。ある人は「私は神様のためにこのことをしました」と言い、別な人は「神様のために何もしていない」と自らを嘆くのでしょう。しかし、聖書によるならば、本当に重要なことは「人が神のために行うこと」ではなくて、「神が人を通して行うこと」なのです。

 もちろん、パウロは何もしないで、ただキリストが何かをなさるのを待っていたわけではありません。いやそれどころか、実際にはパウロが驚異的な働きをしていたことを私たちは知っています。それは彼自身、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました」(19‐20節)と書いているとおりです。

 しかし彼の行いは、キリストの働きのための備えであり、いわば道具立てに過ぎなかったのです。そして、彼はそのことを弁えているゆえに、かえって安心して自分の成し得るところを精一杯行ったのです。このことは私たちにとっても大切な認識なのでしょう。これが分からないと、私たちは怠惰か傲慢かのいずれかになるのです。何も備えずにキリストの働きだけを期待する人は怠惰になります。一方、事を為すのは自分の努力以外の何ものでもないと思っている人は傲慢になります。あるいは何も出来ないと言って卑下します。しかし、卑下は傲慢の裏返しに他ならないのです。

 ここで特に、宣教の働きについて述べる時に、パウロが注意深く言葉を選んで、自分の働きとキリストの働きを区別していることを見落としてはなりません。パウロはキリストの名が知られていない所で福音を告げ知らせようと努めました。それはパウロの働きです。しかし、異邦人を神に従う者としたのは、パウロではありませんでした。異邦人を神に従わせるために働かれたのはキリストでした。私たちはしばしば思い上がって、自分の言葉や行いをもって人の心を変え得るかのように考えるのです。しかし、そのように行動することによって、かえってキリストとその人との間に割って入って邪魔をしているのかもしれないのです。人が為し得るのは「告げ知らせる」ところまでです。それで十分なのです。

 パウロはそのことを知るゆえに、彼は自分に託されていることに専念します。「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者」と自覚しながらも、異邦人宣教に関わるすべてを自分で為そうとはしません。パウロの働きは土台のないところに土台を据えることでした。家を建てるのは他の人がすることです。他人の築いた土台の上に何かを建てることは、パウロに託されていることではありませんでした。そのように土台を据える務めを受けていることを知るパウロは、ローマ帝国の東部における働きが終わったことを思い、イスパニア行きを計画します。その途上でローマを訪問し、そこからイスパニアに向けて送り出されたいと願ってこの手紙を書いているのです。

 さて、パウロの願いは実現したのでしょうか。その後の事情を、私たちは使徒言行録に見ることができます。確かにパウロはローマに行くことができました。しかし、彼が願ったような仕方においてではありませんでした。彼は、エルサレムで捕らえられ、鎖につながれた囚人として、ローマに護送されることになるのです。イスパニアには行けたのでしょうか。可能性はありますが、確かなことは分かりません。いずれにせよ、パウロの願いが実現されたか否かは、彼にとって最終的に重要なことではなかったのでしょう。パウロにとって意味あることは、あくまでも彼を通して「キリストが働かれること」であったからです。

 私たちにとっても、最終的に意味を持つのは、私たちが何かを成し得るか否かではありません。私たちが何かを完成できたか否かでもありません。そうではなく、私たちを通してキリストが働かれることこそが重要なのです。そのようにして、私たちは神によって用いられ、神の喜びとすることが実現していくのです。それが教会が今日まで続けてきた伝道です。その神の喜びを共に喜びつつ私たちは自分自身を神に献げられた者として仕えていくのです。

以前の記事