2013年1月20日日曜日

「イエスの関心が向けられているところ」

2013年1月20日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章18節〜25節
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わたしについて来なさい
今日の福音書朗読箇所の直前にはこう書かれています。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(17節)。そこにはイエス様の宣教活動の開始が告げられているのです。そのように宣教活動を公に開始されたイエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。それが今日の箇所の最初に書かれていたことです。

 宣教を開始されたイエス様はどこに目を向けておられたのでしょう。イエス様の視線の先にあったのは二人の漁師の姿でした。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」(18節)。もちろんイエス様の関心は彼らが捕っていた魚に向けられていたわけではありません。イエス様が関心を向けて求めておられたのは、シモンとアンデレという二人の「人間」でした。二人の人間を求められ、「わたしについて来なさい」と言われた。その求めに応えて「二人はすぐに網を捨てて従った」のでした。

 続いてイエス様が見ておられるのは、別な二人の漁師です。「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった」(21節)。イエス様が求めておられたのは、彼らが持っている舟や網ではありませんでした。イエス様は「彼らをお呼びになった」のです。「お呼びになった」という言葉が意味しているのは、先にシモンとアンデレが聞いた言葉でしょう。「わたしについて来なさい」。それゆえに、「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」と書かれているのです。

 そして、興味深いのはその続きです。そこには、イエス様が「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(23節)という話が書かれております。そこでガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆がイエス様のもとに集まって来た。それ自体は至極当たり前のことと言えます。奇跡を聞きつけて人々が集まって来るのは自然なことですから。しかし、興味深いと言いましたのは、この章の最後に書かれている言葉についてです。ただ大勢の群衆が集まったと書かれているのではなくて、「大勢の群衆が来てイエスに《従った》」(25節)と書かれているのです。そこではあえて先ほどのペトロやアンデレたちについて書かれていたのと同じ言葉が用いられているのです。

 この箇所を読む限り、この「大勢の群衆」の大部分は病気の人かあるいは病気の人を連れて来た人です。病気の人も病気の人を連れて来た人もそれぞれ苦しみを負っているわけでしょう。もちろん、イエス様はその苦しみを見て心を動かされたに違いない。しかし、明らかにイエス様が関心をもって目を向けておられたのは彼らの背負っている苦しみだけではないのです。苦しみにしか目を向けていなければ、病気が癒されて苦しみが取り除かれた時に、イエス様が関心を向けていたものも無くなるわけです。イエス様とその人を繋げていたものは無くなるではありませんか。しかし、そうではないのです。イエス様は病気を見ておられるのではなく、人間を見ておられるのです。病気の人であろうが連れてきた人であろうが、イエス様は人間に目を向けておられる。だから苦しみが取り除かれる前から苦しみを負いながらもイエスに「従う」という関係がそこにはあるし、そうならば苦しみが取り除かれた後にも「従う」という関係は残るのです。「大勢の群衆が来てイエスに従った」。既に癒された人もまだ癒されていない人も。

 そのように、イエス様が開始された宣教の働きにおいて、イエス様は人間に目を向けられ、人間を求められた。そこには元気な漁師たちもいたし、ただ病気を癒して欲しいという一心だった人たちもいた。しかし、マタイによる福音書はそこに「イエスに従う人々」を見ているのです。そして、イエス様は彼らを見て山に登られる。人々はその後についていく。そこでイエス様は山上の説教を語られるという流れになっています。いわばそこに教会の原型を見ているのです。もちろんその延長上に私たちもまたいるのです。主は御自身がガリラヤにおいて開始された宣教の働きを、お一人で進めてはいかれないのです。主は人間を求められます。従う人々を求められます。そして、主に従う人間を用いて宣教の働きは進められるのです。

人間をとる漁師
 そこで注目したいのは、主がペトロとアンデレに言われた言葉です。主は「わたしについて来なさい」と言われ、さらにこう続けられました。「人間をとる漁師にしよう」。人間を用いた宣教の働きにおいて、イエス様の関心はどこに向けられているのか。それは「人間」です。あくまでも「人間」なのです。

 ユダヤ人たちがローマ帝国の支配下にあった時代です。ローマ人の支配が打ち倒されて、イスラエルの王国が建て直されることを多くの人々が待ち望んでいた時代です。人々のメシア待望とは、まさにそのような社会体制の変革を実現してくれる力ある王の到来を待ち望むものでした。もう一方において武力をもって異邦人の支配に対抗しようとする人々がいました。武力によって体制の変革を実現しようとする人々がいました。熱心党と呼ばれていた集団です。イエス様が歩いておられたガリラヤは、そのような熱心党運動の発祥の地であり拠点でした。後にイエス様の弟子となる人たちの中にも、熱心党出身者がいたことが知られています。「熱心党のシモン」(10:4)と呼ばれた男です。

 しかし、イエス様御自身は熱心党運動に全く関心を示しませんでした。イエス様が数々の奇跡を行った時、人々はやがてこの人がその驚くべき力をもってローマ帝国を揺り動かすだろうと期待を膨らませたに違いありません。事実、ヨハネによる福音書には、人々がイエス様を王にしようとする動きがあったことを伝えています。しかし、イエス様はそのような人々の動きをむしろ遠ざけられました。イエス様がその気になりさえすれば、恐らく大きな政治的権力や影響力を獲得することはいとも容易いことだったに違いありません。しかし、そのために御自分の力を用いようとはなさいませんでした。

 またイエス様に近づいて来る人たちの中には、ユダヤ人の最高法院であるサンヘドリンの議員たちもいました。イエス様に好意的な人々もいたようです。最高法院が動けば、離散のユダヤ人たちをも含め、全ユダヤ人社会が動きます。エルサレムに活動の拠点を置いてサンヘドリンを動かすことができたなら、ユダヤ人の宗教的な体制や制度を完全に作り直すことだってできたのでしょう。しかし、そのためにイエス様が御自分の力を用いようとはなさいませんでした。イエス様の関心は明らかにそこにありませんでした。

 イエス様がいつでも目を向けていたのは人間でした。それは時として誰も目に留めないような一人の貧しいやもめであったり、社会の構成員とは見なされなかった重い皮膚病の人であったり、軽蔑の対象でしかなかった徴税人であったり、そして、ごく当たり前の日常を来る日も来る日も変わることなく送っている漁師たちでした。イエス様が関心を向けておられたのは、そのような一人一人の人間でした。その人間が神に立ち帰ること、まことの父である神に立ち帰ること、そして一人一人の人間が神の救いに入れられることを求められたのです。ただ人間を神のもとに獲得すること、神のもとにすなどること、それだけを求められたのです。

 それゆえに、御自分に従ってくるペトロやアンデレたちを、神のもとに《人間を》すなどってくる漁師にすると言われたのです。彼らは世界を覆す必要はなかったのです。彼らは世界を救う英雄になる必要はなかったのです。彼らはただ目の前の一人一人の人間を追い求めていればよかったのです。それが彼らに託されたことだったのです。そして、それがここにいる私たちにも求められていることなのです。

 教会はただ漠然とこの世に向き合うのではありません。教会はあくまでも人間と向き合い、個々の人間と関わり続けます。教会は十把一絡げの伝道はしません。ホースで水を撒くような仕方で洗礼を授けることはしません。それぞれ固有の名前を持ち、固有の人生を歩んできた固有の人格と関わり、一人が神に立ち帰ることを求めます。そして、神の救いにあずかる一人のゆえに喜ぶ。それが教会です。個々の人間が視野から消え、人間を追い求めなくなった時、私たちは人間をとる漁師ではなくなります。教会は教会でなくなります。

わたしがしてあげよう
 しかし、主は「あなたは人間をとる漁師になりなさい」と言っていないことに注意してください。イエス様は「わたしが人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。イエス様がしてくださるのです。「人間をとる漁師にしよう」。なんと自信に満ちた言葉でしょうか。イエス様はペトロについて自信があるのです。アンデレについて自信があるのです。ペトロがその時どれほどの能力を持っていたか、どれほどの可能性を持っていたか、そんなことはどうでもよいのです。イエス様はペトロという一人の人間を求められたのだし、そのペトロが従ったという事実だけが重要だったのです。それで十分だったのです。

 実際、そのペトロはイエス様に従う中で様々な失敗をします。弱さを露呈することになります。しかし、それでもペトロは従っていけばそれで良かったのです。それでイエス様には十分でした。イエス様はその言葉のとおり、ペトロは人間をとる漁師になったのです。また、イエス様が十字架につけられた後、ユダヤ人を恐れて家の中に隠れていたあの小さな群れを、イエス様は人間をとる漁師とすることができました。そして、後の教会もまた同じです。確かに教会の歴史を見る限り、そこには人間的な弱さや過ちが絶えることがありませんでした。しかし、それでもなおイエス様は「わたしについて来なさい」と語り続け、その呼び声に従った人々によって、教会は人間をとる漁師であり続けたのです。

 また、今日の箇所において、ペトロやアンデレと同じように「従った」と語られている「大勢の群衆」の多くが病気であったり、病気の人を連れて来た人であったことをもう一度思い起こしてください。しかし、病気が癒される前であっても後であっても、イエス様がそこに見ていたのは「病人」ではなく、一人一人の「人間」だったのです。そのように、私たちもまた様々な弱さをかかえながらここにいるのかもしれないけれど、それでもなお主は一人一人の人間として私たちを招いてくださっているのです。主は私たちにも言われます。「わたしについて来なさい」と。私たちはついて行けばよいのです。私たちが有能であるか無能であるか、若いか年老いているか、元気か病気か、そんなことは関係ありません。イエス様に従い行くことを放棄することさえしなければよいのです。私たちがついて行くならば、そんな私たちに対して主は自信をもって宣言されます。「人間をとる漁師にしてあげよう」と。

2013年1月13日日曜日

「人間の苦しみと神の愛」



2013116日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 3章13節〜1
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正しいことをすべて行うことは
 今日は教会の暦においては、「主の洗礼の主日」と呼ばれる日です。そこで今日の福音書朗読では、イエス様が洗礼を受けられた場面が読まれました。今日の箇所は次のような言葉からはじまります。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)。

 そのようにイエス様が洗礼者ヨハネのところに来られた。しかし、このイエス様の行動に洗礼者ヨハネは戸惑いを覚えました。洗礼者ヨハネはこの御方こそ来るべきメシアであると信じていたからです。そして、ヨハネ自身については「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」(11節)と思っていたのです。どう考えても立場が逆です。そこでヨハネはそれを思いとどまらせようとしてこう言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)。それに対してイエス様はこう答えられたのでした。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。私たちはまず、このイエス様の答えられた言葉に注目したいと思います。

 イエス様がバプテスマを受けるためにヨハネのもとに来られたのは、それが「正しいこと」だから。それが理由でした。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と。「正しいこと」とは、「義」という訳語でこの福音書に繰り返し出て来ます。それは神の目から見て「正しいこと」です。神の御心に適うことであり、言い換えるなら「神が望んでおられること」ということです。罪のないメシアが悔い改めのバプテスマを受けることは、人の目から見たら道理が通っていないことです。しかし、イエス様はそれでもなおバプテスマを受けようとなさる。それは「正しいこと」だから。道理が通ろうが通るまいが、それが神の望んでおられることならば、それを行うことは「我々にふさわしいことです」とイエス様は言われるのです。

 そして、さらに言うならば、イエス様は、「正しいことを《すべて》行うのは」と言われたのです。すべての義を満たさなくてはならない、と。ですから、イエス様が念頭に置いておられるのは、バプテスマを受けることだけではないのです。神の望んでおられる一連のことがあるのです。その《すべて》を成し遂げなくてはならないのです。バプテスマはその端緒に過ぎないのです。

 神はまず、罪のない神の子が、罪ある人間の一人として、罪人と共にバプテスマの水の中に立つことを望まれた。そして、それで終わりではないことをイエス様は分かっておられたのです。罪人と一緒に水の中に立ったら、それだけでは終わらない。続きがあるのです。その続きはこの福音書にすべて書かれています。話はどこに向かっているか、皆さんはご存じでしょう。十字架です。罪人の一人として水の中に沈まれたイエス様は、やがて罪人の一人として裁かれ、十字架にかけられることになるのです。それが「正しいこと」、神が望まれたことです。罪のない神の子が、罪人の一人として、すべての人の罪を代わりに背負って死んでいくこと。人々の救いのために苦しみ、そして死んでいくこと。十字架への歩みは、バプテスマにおいて既に始まっているのです。だから「正しいこと、神が望んでおられることを、すべて全うしなくてはならない」と言われたのです。

これはわたしの愛する子
 しかし、今日注目したいのは、それだけではありません。さらにもう一つのことに注目したいと思うのです。それは、「正しいこと」としてバプテスマを受けたイエス様の上に起こった出来事です。こう書かれています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(16‐17節)。

 天が開きました。しかし、それはあくまでも「イエスに向かって」です。そう書かれていましたでしょう。他の人にではなくイエスに向かって。イエス様御自身の体験です。また神の霊が降ってくるのを御覧になった。「御覧になった」のはもちろんイエス様です。他の人ではない。イエス様御自身の体験です。そして、声が聞こえた。これも明らかにイエス様に聞こえたということでしょう。あくまでもイエス様の個人的な体験。ですからマルコによる福音書では、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっていまして、もっとはっきりとイエス様が聞いた言葉として書かれているのです。イエス様は確かに天から響く父の声を聴いたのです。「あなたはわたしの愛する子だ」と。

 この出来事は、イエス様にとって大きな意味を持つことになったに違いありません。なぜなら、先にも触れましたように、イエス様は十字架への道、苦しみの道を歩くことになるからです。苦しみの道を歩んで行く上でどうしても必要なのは、父である神に愛されているとの確信なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神は宣言してくださっているとの確信なのです。

 もちろんイエス様は既に自分の苦しみが何であるかをご存じでした。イエス様は罪のない御方ですから、自分の罪の故に苦しむ必要はありませんでした。イエス様の人生には、自分の罪が招いた苦しみはありませんでした。御自分の苦しみはメシアとしての苦しみであることを知っておられました。御自分の苦しみは神の救いの計画が実現するための苦しみであることを知っていました。だからこそ「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言って、苦難の道を歩み出されたのです。父の御心はわかっているのです。しかし、そのようなイエス様でさえなお、苦難の道を歩んで行く上でどうしても、この語りかけを必要としたのです。イエス様に必要であるからこそ、父ここで語られたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

愛されている子供たちとして生きる
 さて、私たちが注目してきたイエス様のバプテスマにおける体験は、ここにいる私たちにとっても大きな意味を持っています。御覧ください。イエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の語りかけを聞いているのは、「ヨルダン川」においてです。イエス様が、まさに人間の一人として、罪人の列の中に並んでバプテスマを受けたという場面においてなのです。間違ってはなりません。イエス様は単に永遠に父なる神と共におられる御子なる神だから、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いているのではないのです。もしそうならば、何もこの場面でなくても良いのです。イエス様はあくまでもバプテスマを受けている人間として、私たちと同じ人間として立ちながら、この声を聞いておられるのです。そうしますと、そこで私たちとつながるではありませんか。イエス様が受けられたバプテスマと、私たちが受けるバプテスマがつながってくるのです。

 ですからマタイによる福音書は、イエス様が受けられたバプテスマの話だけで終わらないのです。この福音書の最後で弟子たちにこう命じているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18‐20)。最後には「バプテスマを授けよ」とイエス様が命じたという話が出て来るのです。教会が授けるバプテスマが出て来るのです。

 イエス様の受けたバプテスマ。教会が授けよと命じられているバプテスマ。その二つの間には何がありますか。3章と28章の間には何がありますか。十字架と復活の出来事があるのです。「バプテスマを授けよ」とイエス様が命じられる前に、イエス様が「正しいことをすべて行った」、すなわち神の御心に従って十字架へと歩みを全うされ、救いの御業を成し遂げられたという話が記されているのです。この救いの御業のゆえに、教会が授けるバプテスマは意味を持つのです。成し遂げられた救いの御業のゆえに、あのヨルダン川で起こったことが、今日の教会において私たちの間にも起こっているのです。

 あの時、「天がイエスに向かって開いた。」そう書かれていましたでしょう。同じように私たちにも天が開かれているのです。イエス様が罪の贖いを成し遂げてくださったのですから。主の御業のゆえに、天は私たちに対して閉ざされてはいない。もはや決して閉ざされることはないのです。

 あの時、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」そう書かれていましたでしょう。同じように、私たちにも神の霊が与えられるのです。私たちは洗礼において、ただ水による儀式を行っているのではありません。私たちは水と霊によって新しく生まれるのです。このことについて、パウロはこう語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。そうです、私たちはイエス・キリストの父である神を、私たちの父と呼ぶことができるのです。

 そして、神御自身が私たちにもこう言ってくださる。「あなたはわたしの愛する子供だ」と。そうです、私たちもまた、イエス様が耳にした神の愛の宣言を聞きながら、愛されている神の子供たちとして生きていくのです。神の子供たちとして、神の愛を信じることによって、苦難の中にあってもなお、私たちは神の救いの御業のために身を献げて生きていくことができるのです。

2013年1月6日日曜日

「あなたを通してキリストが働かれる」



2013年1月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 1513節〜21
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 日曜日の午後に持たれています受洗後クラスでは八つのテーマについて学んでいますが、第四回目のテーマは「伝道」です。その冒頭にいつもこのようなことを申し上げています。「わたしがここにおり、皆さんがここにいるのは、教会が二千年間伝道することを止めなかったからです。そして、当然のことながら私たちが福音の終着点ではありません。ゆえに伝道は私たちに託された使命であり責任でもあります。キリスト教信仰が伝道によって今日に至るまで伝えられているという事実は、『伝道』がキリスト教信仰において本質的な意味を持っていることをも意味します。ゆえに『伝道』に無頓着なキリスト者はキリスト教信仰の本質的な部分を見失っているとも言えるでしょう。」

 もちろん、それは「受洗後クラス」での話であって、既に洗礼を受けている人にお話ししていることなのですが、実のところ「伝道」の話は必ずしもキリスト者にのみ重要なテーマではないのです。これは教会に来られてこれから信仰を求めようとしている人にも関心をもってもらいたいテーマでもあるのです。キリスト教会が信仰の言葉を伝えてきたということ、そして、今もなおこの教会においても伝えられているということが何を意味するのか、正しく理解していただきたいからです。

供え物を捧げる祭司として
 さて、今日の礼拝においてはパウロが書いた「ローマの信徒への手紙」が読まれました。新共同訳の小見出しでは「宣教者パウロの使命」となっています。ここには「伝道」について、パウロがどのように考えていたかがよく表れています。そこで私たちが出会う言葉は、ある意味では実に過激な言葉であると言えます。彼はこう言っているのです。

 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」(ローマ15:15‐16)。

 先ほども言いましたように、パウロは「伝道」について語っているのです。しかし、パウロはここで自分を「宣教者」とか「伝道者」とは呼ばないのです。そうではなくて、「祭司の役を務めている」と表現するのです。祭司とは神殿において神に犠牲を捧げる人です。パウロはそのように神に犠牲を捧げる役を務めているというのです。では捧げられる犠牲、供え物はなんでしょう。それは異邦人だ、と言うのです。16節に「そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」と書かれていましたでしょう。つまりパウロが宣教者としていることは、要するに神様に異邦人を供え物として捧げるという務めなのだというのです。

 これだけでもかなり過激な発言だと思いませんか。皆さんだったら同じことを言うでしょうか。誰かにキリストを伝えようとしている時に、「私がこうしているのは、あなたを神様に犠牲としてお捧げしたいからだ」と言うでしょうか。恐らく言わないでしょう。しかも、この手紙の宛先であるローマの教会の多くは異邦人なのです。しかも、ローマの教会はパウロが伝道してできた教会ではないのです。ほとんどの人とは面識がないと思われます。そのような教会に宛てた手紙で、ほとんど面識のない多くの異邦人に向かって、「わたしがしていることは、異邦人を神に喜ばれる供え物とすることだ」と言っているのです。過激です。実に過激です。

 しかし、彼が誤解を恐れずにあえて大胆にこのような表現をもって語るのは、そこにどうしても失われてはならない本質的な事柄があるからなのでしょう。それは私たちにとっても、やはり失われてはならない理解なのだと思うのです。

 実際、私たちは、「伝道」の働きについて、往々にしてまったく違った見方をしているものです。私たちが考えることは、やはりどこまでも人間中心なのです。人間のことからしか考えられない。だから私たちは恐らくは「そしてそれは、異邦人が…神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」とは言わない。そうではなく、こう言うに違いないのです。「それは、救いを必要としている異邦人が救われるために他なりません」と。もちろん、それは間違いではありません。教会は人間の救いのために仕えるのです。しかし、それは事柄の一面に過ぎないのです。そのような「人間の必要」という観点からしか伝道を考えることができないとするならば、それは大事な部分が欠落していることになるのです。

 パウロが、異邦人を神に喜ばれる供え物として捧げようとしているのは、神御自身がそのような供え物を求めておられることを知っているからでしょう。神が求めてもいないものを捧げても意味がないのですから。パウロは確信しているのです。神は異邦人を求めておられる。パウロにとって、キリストにおいて現された神の愛とは、まさにユダヤ人の枠を越えて、この世界全体を愛し求めておられる神の愛に他ならなかったのです。

 その愛は、神を求める人間に対する神の応答ではないのです。そもそも私たち人間は神を求めていなかったのです。神を必要としているということさえ分からなかったのです。パウロに言わせるならば、私たちはむしろ、神に逆らう者であり、神に敵対する者であったのです。しかし、キリストは不信心な者のために死んでくださった。パウロがこの手紙においてこう言っているとおりです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」(5:8)。

 そのように、私たちが神を求める以前に、神が私たちを求めてくださった。神は異邦人を求められたのです。私たちを求められたのです。まことに愛するに価しない、求めても意味がないと思えるような私たちを、神は求められたのです。この神の求めが先にあるのです。伝道は第一には人間の必要に基づくのではなく、この神の求めに基づくのです。だから、パウロは祭司の務め得て、求めておられる神に異邦人を供え物として捧げようとするのです。それが神の愛に応え、神に仕えることに他ならないからです。これが教会が今日まで続けてきた伝道です。私たちは皆、そのような伝道において神の喜びとなったのです。

キリストは人を通して働かれる
 そして、さらにパウロが宣教者としての自分の働きをどのように見ていたかについて、もう一つの大事な点を見ておきましょう。彼は続けてこう言っています。「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(17‐19節)。

 ここで「神のために働くこと」とありますが、これは意訳で原文には「働く」という言葉はありません。「神のためのこと」としか書いてないのです。では働いているのは誰か。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と彼は言っているのです。彼はキリストの働きについて語っているのです。ある人は「私は神様のためにこのことをしました」と言い、別な人は「神様のために何もしていない」と自らを嘆くのでしょう。しかし、聖書によるならば、本当に重要なことは「人が神のために行うこと」ではなくて、「神が人を通して行うこと」なのです。

 もちろん、パウロは何もしないで、ただキリストが何かをなさるのを待っていたわけではありません。いやそれどころか、実際にはパウロが驚異的な働きをしていたことを私たちは知っています。それは彼自身、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました」(19‐20節)と書いているとおりです。

 しかし彼の行いは、キリストの働きのための備えであり、いわば道具立てに過ぎなかったのです。そして、彼はそのことを弁えているゆえに、かえって安心して自分の成し得るところを精一杯行ったのです。このことは私たちにとっても大切な認識なのでしょう。これが分からないと、私たちは怠惰か傲慢かのいずれかになるのです。何も備えずにキリストの働きだけを期待する人は怠惰になります。一方、事を為すのは自分の努力以外の何ものでもないと思っている人は傲慢になります。あるいは何も出来ないと言って卑下します。しかし、卑下は傲慢の裏返しに他ならないのです。

 ここで特に、宣教の働きについて述べる時に、パウロが注意深く言葉を選んで、自分の働きとキリストの働きを区別していることを見落としてはなりません。パウロはキリストの名が知られていない所で福音を告げ知らせようと努めました。それはパウロの働きです。しかし、異邦人を神に従う者としたのは、パウロではありませんでした。異邦人を神に従わせるために働かれたのはキリストでした。私たちはしばしば思い上がって、自分の言葉や行いをもって人の心を変え得るかのように考えるのです。しかし、そのように行動することによって、かえってキリストとその人との間に割って入って邪魔をしているのかもしれないのです。人が為し得るのは「告げ知らせる」ところまでです。それで十分なのです。

 パウロはそのことを知るゆえに、彼は自分に託されていることに専念します。「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者」と自覚しながらも、異邦人宣教に関わるすべてを自分で為そうとはしません。パウロの働きは土台のないところに土台を据えることでした。家を建てるのは他の人がすることです。他人の築いた土台の上に何かを建てることは、パウロに託されていることではありませんでした。そのように土台を据える務めを受けていることを知るパウロは、ローマ帝国の東部における働きが終わったことを思い、イスパニア行きを計画します。その途上でローマを訪問し、そこからイスパニアに向けて送り出されたいと願ってこの手紙を書いているのです。

 さて、パウロの願いは実現したのでしょうか。その後の事情を、私たちは使徒言行録に見ることができます。確かにパウロはローマに行くことができました。しかし、彼が願ったような仕方においてではありませんでした。彼は、エルサレムで捕らえられ、鎖につながれた囚人として、ローマに護送されることになるのです。イスパニアには行けたのでしょうか。可能性はありますが、確かなことは分かりません。いずれにせよ、パウロの願いが実現されたか否かは、彼にとって最終的に重要なことではなかったのでしょう。パウロにとって意味あることは、あくまでも彼を通して「キリストが働かれること」であったからです。

 私たちにとっても、最終的に意味を持つのは、私たちが何かを成し得るか否かではありません。私たちが何かを完成できたか否かでもありません。そうではなく、私たちを通してキリストが働かれることこそが重要なのです。そのようにして、私たちは神によって用いられ、神の喜びとすることが実現していくのです。それが教会が今日まで続けてきた伝道です。その神の喜びを共に喜びつつ私たちは自分自身を神に献げられた者として仕えていくのです。

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