2013年12月8日日曜日

「信仰生活の試金石」

2013年12月8日 アドベント(待降節)第二主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅱ 4章1節~8節


自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の聖書箇所においてパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。

 この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めるのです。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はもう自分でしようと思っていることがある。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまうものです。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。そんなことが起こります。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いから。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのでしょう。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活がある。そんな自分の本当の姿、自分の内にある偽りがある。その偽りを明らかにする本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。テモテへの手紙にも「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そうです、実際そのような人たちは後の教会に繰り返し現れてきたのです。

 しかし、それは実はまことに不幸なことなのです。真理からどんなに耳を背けたとしても、事実は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、自分の本当の姿は変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはないのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しにあずかり、真実に神と共に生きるところにしかないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。それを伝えるのが伝道者です。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」と伝道者であるテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝道者にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑があるのです。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなるのです。しかし、もしそうなってしまうなら、伝道者は伝道者ではなく、教会も教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして伝道者は「御言葉を語る」ことに留まることができるのでしょう。どのようにして教会は御言葉を聞く教会として留まることができるのでしょう。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。この書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない聖書に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても伝道者と教会を試す試金石ともなります。伝道者が聖書を重んじなくなり、伝道者が聖書を解き明かさなくなったら要注意です。また、キリスト者が聖書に関心がなくなり、聖書以外のことを聞きたがり、伝道者がその求めに応えるようになったら要注意です。私たちは絶対にそのようなものとなってはなりません。「御言葉を語りなさい」。これは伝道者に対する至上命令であり、教会にとっては生命線なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、伝道者は御言葉を語り続けなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロは命じるのです。

 人々が受け入れようが受け入れまいが、御言葉を語らなくてはならない。それは最終的に伝道者の働きを判断するのは人間ではないからです。神御自身が判断されるのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ終末を思いつつ語っているのです。その人生全体が神の御前に明らかにされる時を念頭において語っているのです。その時に意味を持つのは、多くの人に受け入れられたか拒否されたか、賞賛されたか認められることなく終わったかではないのです。

 それは御言葉を語る側だけでなく、聞く側についても言えるでしょう。皆さんにとって信仰生活において最も大事なことはなんですか。何を思って聖書の言葉を聞いていますか。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることですか。毎日の生活に役に立つ教えを受けることですか。悩みを解決する手だてを得ることですか。もしそうならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉、あるいは巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なことは、自分にとって都合の良い言葉が語られたか、耳に心地よい言葉が語られたかということではないでしょう。そうではなくて、ひたすら神の言葉を求め、神の言葉を聞いて生きてきたかどうか、ということではありませんか。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えますが、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。そのような人にとって、生きている人に自分を誇っても意味がないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことである故に、こう書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)と。

2013年11月24日日曜日

「人間にできなくても神にはできる」

2013年11月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章17節~31節


何をすればよいのでしょうか
 イエス様は弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうしてイエス様がこんなことを言われたのかは、今日朗読された話の流れから明らかでしょう。その直前に、財産のある人とイエス様が話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めてイエス様のもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼は多くの財産を持っている人でした。しかし、自分が生きて最終的に残るのがこの世の財産しかないならば、それは実に空しいことだと分かっていたのでしょう。彼が求めたのは死をもっても失われないもの、世の終わりにおいても失われないものでした。最終的な神の救い、神の国、永遠の命。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。その問いを持って彼はやってきた。それは彼の人生をかけた切実なる問いだったのです。

 「何をすればよいのでしょうか」。そうです。彼はこれまで自分にできることをやってきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。イエス様が「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えたのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」子供の時から守ってきた。何のためですか。神の救いを得るためです。永遠の命を受け継ぐためです。しかし、彼にはそれで十分だとは思えませんでした。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。

 イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。このイエス様の言葉は救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明します。そこでイエス様は弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

財産のある者が神の国に入るのは
 厳密に言いますと、この「財産」という言葉と22節の「財産」とは元の言葉が異なります。「財産のある者が」とイエス様が言われた時の「財産」は、もともとは「使う」という言葉に由来します。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは要するに必要に応じて使うことができるものをたくさん持っていたということです。欲しいものがあれば、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと。だから彼は子供の時から律法を守ってきたのです。それは永遠の命を得るために「使えるもの」だったからです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。22節のいわゆる「財産」の他、幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い。これもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうと思っていたのです。彼がそうしたがっているので、イエス様はそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいと思っているなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。そこで彼は悲しみながら去らざるを得なくなりました。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです人間にはそれができると考えていたことです。

人間にできなくても神にはできる
 今日の説教題は「人間にできなくても神にはできる」です。これは27節のイエス様の言葉から取りました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。

 「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。イエス様がこう言われたのは弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということでしょう。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。本当に「神にはできる」に行き着くのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時なのです。ですからイエス様は別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能をどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神は救い主をお遣わしくださいました。神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を赦して永遠お命を与えることがおできになります。神は罪人を救うことができるのです。そうです、神にはそれができる。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られたイエス様は、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

わたしのためまた福音のため
 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」とイエス様が言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 当然考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。イエス様が単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が今度はペトロが「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、こう続けられています。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 イエス様はペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 イエス様は「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。イエス様の故にとはどういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れだったのです。私たちを救うことができる神の一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。そのイエス様のためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。主はご存じなのです。しかし、彼らは救いを得るために犠牲を払う必要はないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。救いはただ神によるのです。これらはただ神の一方的な恵みによって罪を赦され救われたことへの応答として出てくることなのです。「イエスのために福音のために」。それに対して、イエス様はこう言われました。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく恵みに応えて行ったことが結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、それは「神にはできる」と言って救いを成就してくださった神の恵みへの応答として行うのです。ならば大事なことは恵みを知ることなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。わずかなものを手放しても、いつまでも惜しんでいるようなことが起こります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」はそこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」。

2013年11月3日日曜日

「失われることのない希望」

2013年11月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 1章1節~9節


喜びをもって生きる
 今日共にお読みしましたのはペトロの手紙です。冒頭にありますように、これはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられた回覧状です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあったことが分かります。具体的には迫害の苦しみの中にあったということでしょう。彼らは、キリスト者であるというだけで、非難や中傷、不当な扱いを耐え忍ばねばなりませんでした。そのような人々を励まし、適切な指示を与えるために、この手紙は書かれたのです。

 しかし、そのように苦しみの中にある人々に書かれた手紙であるにもかかわらず、その文面からは暗く重苦しいものは全く伝わってきません。むしろ伝わってくるのは底抜けた明るさです。ペトロは苦しみの中にある人々に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)と書き送るのです。さらに彼はこう書いています。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」(6節)。そして、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(8節)と書いているのです。

 これは私たちに何を示していますか。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできるということです。人は置かれている環境や境遇によってどう生きるかを決められる必要はないということです。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はないということです。他の人が何をしようが、何が起ころうが、人は喜びを持って輝いて生きることができるのです。

生き生きとした希望
 ではどうしたら、そのように喜びを持って生きられるのでしょう。彼らが持っていたのは何だったのでしょう。それは希望です。新共同訳の小見出しにもなっている「生き生きとした希望」です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。これが彼らの喜びの源なのです。

 「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。味わい深い表現でしょう。わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのではありませんか。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を与え」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかった。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても神にとっては終わりではなかったからです。そうです。人間にとってピリオドであっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないのです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によって。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何ですか。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることのできる御方なのです。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まったのです。ただ神によって。そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではなかったのです。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのでしょう。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。一般的にはどうですか。死によって未来が失われるのでしょう。死は未来を奪うのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということではありませんか。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、一般的に言うならば、未来を失っていくということではありませんか。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来があるのです。それをペトロは次のように表現しているのです。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)。

 死の先は私たちの想像を超えた未来です。ですから、ある意味で「財産」という陳腐な言葉をもってしか表現できない。そのように、私たちには思い描くことさえできないわけですが、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来であることに間違いはありません。

 そのように、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。死の床においてもなお、期待をもって最後まで生きることができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。そうです、人は人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで喜びをもって生きることができる。輝いて生きることができる。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

わたしたちを新たに生まれさせ
 しかし、そのように生き生きとした希望に生きるために、なお大事なもう一つのことがあります。今、神が「生き生きとした希望」を与えてくださった、と言いました。生きている希望は神から来る。ならば人生において決定的に重要なことは、その神との関係がどうなっているかということです。もし神との関係が悪いままであるならば、人は喜ばしき未来を期待できるでしょうか。最終的に人生最後の時にも、死の向こう側になお喜ばしき未来を期待できるでしょうか。できないだろうと思うのです。大事なのは神との関係なのです。神との関係が悪ければ、神がおられることは希望につながらないのです。そのままでは「生き生きとした希望」に生きることができないのです。

 だからこそ、神はこの世にキリストを遣わされたのです。私たちと神との関係を良くするためです。どのようにして、関係を良くするのでしょう。独り子なるイエス・キリストを十字架におかけになり、私たちの罪の贖いとすることによってです。神の側から私たちに対して、罪の赦しを宣言することによってです。そのようにして、神に愛されている子どもとして私たちが新しく生きることができるようにしてくださったのです。親子の関係という、この上ない良い関係に生きられるようにしてくださったのです。

 それを聖書はこのように表現しているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3節)。そのように、どんな人であっても、新しく生まれた神の子どもとして生き始めることができるのです。これまでがどうであったかが問題ではないのです。いつでも大事なのはこれからどう生きるのかです。「生まれる」とはそういうことでしょう。そこからがスタートなのです。人は神の子どもとして生き始めることができるのです。それはまさに福音です。良き知らせです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。良き未来を待ち望む喜びをもって生きることができるのです。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできます。暗闇の中にあっても人は輝いて生きることはできます。置かれている環境や境遇によって人生を決められる必要はありません。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はありません。神を見上げ、信仰によって神の子どもとして希望をもって生きることができるのです。

2013年10月13日日曜日

「与えられているものを生かしていますか」

2013年10月13日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章7節~11節

    マタイによる福音書 25章14節~30節

神のさまざまな恵みの善い管理者として
 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」(1ペトロ4:10)と語られていました。それは「賜物」です。私たちが何かをしたことに対する報酬ではありません。何もしないうちに神が備え、与えてくださった「賜物」です。ですから「神のさまざまな恵み」と言い換えられています。「さまざまな恵み」ですから一種類ではありません。自分に与えられているものと他の人に与えられているものは異なるのです。他の人に与えられているものが自分には与えられていない。しかし、他の人に与えられていないものが自分には与えられている。どちらも「恵み」であり「賜物」です。

 私たちはとかく他の人に与えられていて自分に与えられていないものばかりが気になります。ですから、「わたしには何も与えられていない」などと言い出す人もいる。しかし、それを本当に神様に向かっていえますか。わたしは何ももらっていません、と。言えないだろうと思うのです。私たちは、それぞれ、恵みとして与えられているものがある。「賜物」が与えられているのです。

 そこで重要なことは、善い管理者となることです。そう書かれていましたでしょう。「神のさまざまな恵みの善い管理者として」と。管理者はオーナーではありません。先ほどから「与えられている」という言い方をしていますが、正確に言えば「託されている」ということです。管理者なのですから。期間限定で託されている。やがてはすべてをお返しするのです。それが私たちの人生です。

 期間限定で託されているに過ぎないものをお互いに比較しても大した意味はありません。誇ることも卑下することも意味のないことです。いずれにせよやがてはお返しするものですから。大事なことは、とにかく自分に託されているものを管理することです。善い管理者となることです。それが私たちの人生の課題です。

 託してくださった神様が喜ばれるように管理するとはどういうことでしょう。管理者には何が期待されているのでしょう。「その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書かれています。これが神様の望んでおられることです。最終的に問われるのは、どれだけ他者のために用いることができたか、お互いのために用いることができたか、ということです。それをもって、どれだけ人に仕えることができたか、ということです。

 世の中には、「わたしは満足です。幸せな人生でした。もういつ死んでも思い残すことはありません」とおっしゃる方もいます。言葉だけの人もいるでしょうが、本気でそう言うことのできる人もいないわけではない。しかし、善い人生であったかを計る尺度は、どれだけ自分を満足させられたかではありません。どれだけしたいことができたかではありません。どれだけ幸福であったかでさえありません。神の判断において重要なのは別のことです。主は言われるでしょう。「満足でしたか。幸せでしたか。それは結構なことです。しかし、あなたは賜物をどれだけ他者のために用いましたか。それを互いに仕えるために生かしましたか。」

 逆に言えば、苦難に満ちていたとしても、人から何一つ評価されることがなかったとしても、あるいは何もかもが中途半端に終わるように見えたとしても、それで人生が無意味になるわけではない、ということです。そこで自分の賜物を精一杯用いたならば、他者のために用いたならばそれでよいのです。神様にとって重要なのはそのことなのですから。この手紙を書いたペトロにしても、あるいはパウロにしても、この世においては決して絵に描いたような幸福な人生を全うしたわけではありません。晩年は獄中での生活でした。しかし、そこにあっても善い管理者として生きた。それでよかったのです。

忠実な良い僕だ。よくやった。
 そのように、重要なのは託されているものが何であるかということよりも、どう管理するか、どう用いるかなのです。そのことをイエス様はたとえ話を用いて生き生きと描き出しています。

 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:14‐15)。

 先ほどのペトロの手紙ですと「さまざまな恵み」となっていましたけれど、イエス様のたとえ話では、これが「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」として表現されています。こちらの方が私たちにはピンとくるかもしれません。「あなたと他の人では異なる恵みが与えられているのですよ」と言われれば分からないことはないのですが、やはり与えられている量が違うと私たちには感じるではないですか。あの人には多く与えられているけれど、わたしには少ししか与えられていない、というように。「五タラントン」と「二タラントン」の方が確かに私たちの感覚に近いようです。ですから時として神様は不公平に思えることもあるのでしょう。

 しかし、ここでイエス様は「それぞれの力に応じて」という一言を忘れません。つまりある人に「五タラントン」、ある人に「二タラントン」を託したのは、主人の気まぐれではないということです。しっかり見て、考えた上で、「五タラントン」にし「二タラントン」にしたということです。私たちにおいて「さまざまな恵み」が与えられる時も同じだということでしょう。私たちを知った上で、神様のお考えに基づいて、信頼して、それぞれ異なる賜物を与え、異なる恵みの管理を託されるのです。

 いずれにしても、あくまで期間限定です。「旅に出かけた」のですから、出たままではありません。必ず帰ってくるのです。必ずお返ししなくてはならない時が来るのです。そして、どう用いたかが問われる時が来るのです。ですから、イエス様の話においても、「その時が来た」という展開になっているのです。

 さて、主人が帰ってきました。その場面でのやりとりをもう一度読んでみましょう。「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」(同20‐23節)。

 これを読んですぐに気づきますのは、僕の報告はそれぞれ異なるけれど、それに対する主人の言葉は同じだということです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。原文においても一言一句同じです。一人は五タラントンもうけた。一人は二タラントンもうけた。しかし、主人にとっては五タラントンだろうが二タラントンだろうがどうでもよいのです。主人が喜んでいるのは「忠実な良い僕」だということなのです。

 忠実な良い僕というのは、主人が望んでいることを行う僕です。主人である神様が望んでおられることって何ですか。先ほどのペトロの手紙にありました。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。

 ある人は託されているものを用いて大きなことをするのでしょう。ちょうど五タラントンもうけた人のように。ある人は様々な制約のもとにあって地味な小さなことをして一生を終えるのでしょう。二タラントンもうけた人のように。しかし、神様にとってはどちらでもよいのです。託されているものを神様の喜ぶように用いさえしたならば。言ってくださる言葉は同じです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

タラントンを土に埋めた人
 ところで、ここには一タラントンを託された僕も出てきます。彼の言葉を聞いてみましょう。「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』」(同24‐25節)。そして、この僕は主人から「怠け者の悪い僕だ」と叱られて、厳しい裁きを受けることになるのです。

 さて、この僕はそんなに悪いことをしたのでしょうか。そうは見えないでしょう。預かった金はちゃんと返したのですから。しかし、イエス様の言わんとしていることは明確です。大事なのは「用いたかどうか」だということです。用いないということは、神の目にそれほど大きなことなのだ、ということなのです。

 どうして用いることができなかったのでしょう。どうして土に埋めてしまったのでしょう。それは「成果こそがすべてだ」と思っているからです。主人は成果をこそ求め、成果をもって評価すると考えているからです。主人は「刈り取り」「かき集められる厳しい方」だ、と。

 そもそも「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」という言葉はどこから来るのでしょう。それは、「自分のところには蒔かれていない。自分のところには散らされていない」という意識から来るのでしょう。「あの人には五タラントン分蒔かれていますよ。あの人には二タラントン分蒔かれていますよ。でも、私にはせいぜい一タラントンだ。それなのに成果ばかり求められる。蒔いたものに見合わないものを刈り取ろうとされる。ひどい主人だ。」――そんな思いが見え隠れしませんか。

 しかし、神様に対してそんなことを思っていたら、生かせるものも生かせやしません。不平や不満ばかり言っていたら、用い得る得るものさえも用いることができません。大事なことは成果ではないのです。用いることなのです。神様が喜ばれるような仕方で。それは「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」ということです。託されたのが一タラントンだっていいではないですか。神様の喜びを思って用いたならば、主は最終的に言ってくださるでしょう。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と。

2013年10月6日日曜日

「キリストの命によって結ばれて」

2013年10月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~26節


 今日は世界聖餐日です。世界中の多くの教会が私たちと同じように聖餐を行っていることを思いながら私たちも聖餐にあずかります。聖餐式は、主が弟子たちと食された最後の晩餐に由来します。今日はその聖書箇所が読まれました。

引き渡される夜
 今日読まれた聖書箇所には、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り…」と書かれていました。最後の晩餐がなされた夜、それは「引き渡される夜」と表現されています。イエス様が裏切られた夜です。神の御子が銀貨30枚で売り渡されることになる夜です。

 その食事が行われたのが「夜」であったというのは、ある意味でとても象徴的です。それは闇に覆われた世界のただ中で行われた食事でした。この食事から始まって、福音書が描き出す一日の出来事は、まさにこの世の暗闇が何であるかを描き出していると言えるでしょう。神の愛を語り、神の愛を現されたイエス・キリストは、この数時間後に捕らえられることになります。神が遣わされた独り子は、人間による不当な裁きによって死に定められます。唾をかけられ、鞭打たれ、卑しめられ辱められ、十字架を負わされ、その十字架に釘づけられ、殺されることになるのです。

 人はこの世のありさまを見て「暗い世の中だ」と口にします。降りかかってくる災いの中で「暗い人生だ」と思うこともあるのでしょう。しかし、この世界の本当の暗さは神の愛に背を向けているゆえの暗さなのです。神の光に対して自らを閉ざし、自らを暗闇に閉じ込めてしまっている暗さなのです。愛の源であり命の源である神に背を向けるならば、罪と死が支配することになるのです。この世界はそのように罪と死が支配する世界であったし、今日もなおそのような「夜」を私たちは生きているのです。

 そのように、闇に覆われた夜の世界のただ中で、主は最後の晩餐を弟子たちと共にしておられました。その後にご自分の身にどのようなことが起ころうとしているかもご存じの上で、主はパンを手に取られたのでした。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り」――そして聖書はこう続けます。「感謝の祈りをささげてそれを裂き…言われた」。主は「感謝の祈り」をささげて弟子たちにこう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:24)。また、杯も同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(同25節)。

 イエス様は十字架へと向かっておられました。自分自身の死の時が刻一刻近づいていることを知っていました。しかし、主は終わりへと向かっていたのでも、終点に立っていたのでもありませんでした。主は始まりを思っていたのです。始まりを感謝し、祝っていたのです。主は確かに新しいことが始まっているのを見ておられた。十字架の死において、最終的に勝ち誇るのは罪でも死でも悪魔でもないのです。それは新しい神の御業の始まりなのです。ですから主は感謝をささげながらパンを裂きました。それはユダヤ人が食事においては必ず捧げるいつもの感謝の祈りだったのでしょう。しかし、そこで感謝し祝われていたのは、新しい始まりを告げる食事だったのです。

 そこにおいて始まっている新しい神の御業。それを主は「新しい契約」と呼びました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」新しいことが始まり、それが続いていくのです。ですから、これからのことを主は弟子たちに語るのです。「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と。

 主が十字架で流される血によって、新しい契約が立てられると主は言われました。それは、神と人との新しい絆です。それは神がかつて預言者エレミヤを通して語られたことの実現に他なりませんでした。エレミヤ書には次のように書かれています。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)。

 そのように主の流された血によって、新しいイスラエル、新しい神の民が生み出されようとしていたのです。新しい契約の民が生み出されようとしていたのです。そこにおいて、エレミヤを通して主が語られたように、「わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる」ということがまさに実現しようとしていたのです。あの夜、そして続く十字架の出来事において、この暗闇の覆った世界のただ中で、本当に小さくですが、誰にも知られないような小さな出来事としてでしたが、確かにそこに神による新しい始まりがあったのです。

 そして、今日、私たちがここにいるということは、主を記念して聖餐を行うこの場にいるということは、あの日始まったことに、主の御業に、私たちもまた与っているということなのです。神が私たちに対しても、「わたしはあなたの神である。あなたはわたしの民である」と言ってくださるのです。

主の死を告げ知らせる
 そして、私たちがこうして神の民とされ、繰り返し聖餐を行う教会としてこの地上に置かれていることには、主の目的があるのです。聖書には何と書かれているでしょうか。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)。そうです、教会は聖餐を代々に渡って行いながら、主の死を告げ知らせてきたのです。私たちも繰り返し聖餐を行いながら主の死を告げ知らせることを続けていくのです。それが教会なのです。

 「主の死を告げ知らせる」とはどういうことでしょう。イエス・キリストが十字架にかけられて死んだということを告げ知らせることは何を意味するのでしょう。それは第一に、この世界が御子を十字架にかけた世界であることを告げ知らせることを意味します。この世界は神の救いの御手を拒否した世界であり、神の愛を決定的な仕方で拒否した世界であるということです。この世界は神の愛に背を向けた世界であったし、今もそうあり続けているということです。そして、神の愛に背を向けた暗闇は、外なる暗闇であるだけでなく、私たちの内なる暗闇でもあるということです。私たちは確かに神に背を向けた世界に生きているし、その世界と一つとなって生きてきたのです。そのように「主の死」は神に背を向けたこの世界の罪、そして私たちの罪を指し示します。「主の死を告げ知らせる」とはこの世界の罪、私たちの罪を告げ知らせることを意味するのです。

 しかし、「主の死を告げ知らせる」ということは、それだけに留まりません。「主の死」は、そのように神の愛に背を向けたこの世界に対する神の愛、私たちに対する神の愛をも指し示しているのです。神は御自分に背いたこの世界にあえて御子を送られました。御自分に背いたこの世界の罪を贖うために独り子を犠牲にされたのです。「主の死を告げ知らせる」とは、神の愛を告げ知らせることでもあるのです。

 この世界は罪の贖いの十字架が立てられた世界です。この世界は贖いの血が流された世界です。この世界が今もなお神に背を向け続け、暗闇の中に留まっているとしても、そして、現実に暗闇の中に滅びていくようにしか見えない世界であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。なぜなら主はこの世の罪のために死なれたのだから。たとえこれまで神に背を向け、今もなお神に背き続けている人がいたとしても、今までずっと神の光に自らを閉ざして暗闇の中を生きてきた人であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。主はその人のためにも死なれたのだから。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、私たちをどこまでも追い求め、どこまでも関わり続ける神の愛を告げ知らせることに他ならないのです。神はこの世界をあきらめてはおられない。神はいかなる人についてもあきらめてはおられない。神は関わり続けられるのです。いつまで。世の終わりまで。だから「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と書かれているのです。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、神の愛を告げ知らせることであるのですから、それはまたこの世界に希望を告げ知らせることでもあるのです。神が愛して独り子を送られた世界であるならば、この世界を覆う暗闇は永遠に続くことはないのです。闇には終わりがあるのです。夜は終わるのです。「主が来られるときまで」と書かれているとおりです。そう、主が来られる。それは夜明けの到来です。朝が来るのです。同じ闇夜であっても、夜中の十二時と夜中の三時では意味合いが違います。その暗さを私たちは区別することができないかもしれません。夜中の三時の方が、夜中の十二時よりも暗いかもしれません。しかし、確実に夜明けは近づいているのです。そのことを私たちは告げ知らせる。「主の死を告げ知らせる」とはそういうことです。


 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」そのように言われた主の御言葉に従って、私たちは聖餐を行います。主の死を告げ知らせる教会として。今日は世界中の教会と共にということを意識して聖餐を行います。これは新しい契約です。既に新しいことが始まっています。この世界に、そして私たちの人生に。キリストの流された血によって結ばれて、キリストの命によって結ばれて、私たちが今こうして共にいることがそのしるしです。

2013年9月29日日曜日

「先に神の国に入る人たち」

2013年9月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21章18節~32節


 今日の福音書朗読においては三つの話が読まれました。その一つ目は、イエス様がいちじくの木を枯らした話です。イエス様がなさった奇跡の物語は福音書に数多く記されていますが、この話は明らかにそれらの中でも異質です。イエス様がいちじくの木を呪うと、木が枯れてしまった。実がなっていないからと言っていちじくの木を呪ったこと自体に違和感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、問題はその続きです。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねた弟子たちにイエス様はこう答えるのです。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(21‐22節)。

 「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく…」と主は言われるのですが、そんなことできるようになりたいと思いますか?木を呪うとたちどころに木が枯れる。人間に対して破滅と滅亡を宣言するとそのとおりになる。そんな力が欲しいですか?仮にそのような人がいたとします。そう思う人がイエス様の言われるとおり、「求めるものは何でも得られる」ことになったらどうなりますか。それはそれで大変なことになるでしょう。その人は世界で最も危険な人物となるに違いありません。しかし、そのような話が福音書の中に書かれているのは紛れもない事実です。弟子たちがこの話を語り伝えたからです。ならば、それはなぜなのか。そのことを私たちはよくよく考えなくてはならないのです。

だれがその権威を与えたのか
 そこで注目したいのは書き出しの言葉です。「朝早く、都に帰る途中」と書かれています。宿泊しているのはベタニアです。そこからエルサレムに向かっていた。それは神殿に行くためです。いちじくの木を枯らした話は、その途中での出来事なのです。

 そこで神殿での出来事を先に見ておくことにしましょう。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。これが二つ目の話です。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(12‐13節)。

 神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人は、何も無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまいました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威を与えたのか」と。

 この問いに対するイエス様の答えは明らかです。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は直接彼らの質問には答えませんでした。逆に彼らに問い返されたのです。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。

 「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。このヨハネとはイエス様の先駆者です。道備えをするために遣わされた人です。彼は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えた。ヨハネは人々が神に立ち帰り、神の前にへりくだって自分の罪を認め、赦しを求め、新しく生き始めることを求めたのです。そして、夥しい数の人々がヨハネのもとに行き、洗礼を受けました。

 しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。行かなかった人もいたのです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある人々です。その権威をもって人々を教え諭し、あるいは裁きを行ってきた人たちです。そのような人たちは自分が罪人であることを認めてヨハネのもとに行こうとはしなかった――分かるような気がしませんか。イエス様は彼らがヨハネのメッセージを受け入れなかったことを知ってしました。ですからこう問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。

 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らはただちに「神を冒涜した」と言って逮捕するつもりだったのでしょう。そのような彼らの悪巧みをイエス様はもののみごとに退けました。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで話を終わりにして良かったのです。しかし、イエス様は彼らを去らせませんでした。今度は主が彼らに問いかけます。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。今日お読みした三番目の話です。

徴税人や娼婦たちの方が先に
 たとえ話は至って単純です。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。これだけを聞きますと要するに「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という教訓話に聞こえます。そして、実際に祭司長たちにせよ民の長老たちにせよ、行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守って生きることが大事だと。だから律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。ですから主が「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問うた時、彼らはきっと自分自身と重ね合わせながら自信をもって答えたのです。「兄の方です」と。

 ところがイエス様が続けて語られたことは、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。

 そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。

 徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求めてヨハネのもとに行った。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。

 一方、祭司長や民の長老たちは、世間的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」です。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心では分かっていたのかもしれません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったということです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。

いちじくを枯らした方の言葉
 さて、ここで最初の話に戻ります。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」と宣言された方は、その朝にいちじくを枯らした御方だということです。

 話の流れから考えると、この最初の話においても重要なのはイエス様の権威であることがわかります。ここではいちじくですが、そのいちじくを罪に定める権威がここで話題となっているのです。木を罪に定めるというのは奇妙に思えるかもしれません。しかし、いちじくの木は旧約聖書においてぶどうの木と並んでイスラエルを象徴するものなのです。ならばそれ自体が極めて象徴的な行為です。同じことがイスラエルに対しても行えるということです。人間に対しても行うことができる御方だということです。すなわち神の裁きを宣言し、滅ぼすことのできる御方だということです。ちょうどあのいちじくの木を枯らしたように。

 しかし、罪に定めて滅びを宣言する権威をお持ちだということは、罪の赦しを宣言して救う権威も持っているということでもあるのです。裁きの権威を持たない者は赦しを宣言することもできませんから。そのように裁きの権威を持ちの方がこう宣言しておられるのです。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」。主は神に立ち帰り赦しを求める者に、赦しと救いを宣言されるのです。

 そして、もう一つ注目すべきことがあります。イエス様はいちじくの木に対して行ったことを、実際に人間に対しては行わなかったということです。

 「だれがその権威を与えたのか」と問う人たちが、自分たちの権威をもって何をしようとしているのか、イエス様はご存じでした。やがて祭司長や民の長老たちは、自分たちの権威と力をもってイエス・キリストを逮捕し、彼らの権威のもとに裁判にかけ、彼らの権威によって断罪し、ローマの権威に訴えて十字架にかけ、殺すことになるのでしょう。しかし、ゲッセマネの園で逮捕された時も、裁判にかけられている時も、鞭打たれている時も、十字架につけられた時にも、主はそのすべてを覆して、彼らを滅ぼすことがおできになるのに、そうしなかったのです。主はただ黙々と人間の罪を背負って罪の贖いの犠牲として死なれたのです。主は御自分に与えられた権威を滅ぼすためではなく、救いの門を大きく開くためにお使いになられたのです。その主が言われるのです。

 「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう。」

2013年8月25日日曜日

「何事でも願うがよい」

2013年8月25日 主日礼拝
東京神学大学 修士課程2年 三橋侑子
聖書 列王記上 3章4節~15節 

 今日の聖書箇所には「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた主に、ソロモンが「聞き分ける心を与えて下さい。」と願った話が収められています。父ダビデの後継者として新しい王に立てられたソロモン王の初期の頃の出来事です。この一連の話は、自分のためではなく、神様の民、今でいう教会を正しく導き治めるための願い事をしたソロモンの賢明さや謙虚さにスポットが当てられがちです。確かに、このソロモンから学ぶ祈りの姿勢があるでしょう。しかし、聖書はまた違った角度からも、この話を伝えようとしています。

主に従わずに滅んだ民たちの記録
 今日の聖書箇所である列王記は、ソロモンが生きていた時代に書かれたのではありません。ソロモンが王として立てられたイスラエル王国が南北に分裂し、最初に北イスラエル王国が、続いて南ユダ王国が滅び、バビロン捕囚となった後に書き始められたと言われています。イスラエル民族は、国を失い、捕囚となった地で、自分たちの歴史を振り返るのです。ただ単に起こったことを時系列で振り返ったのではありません。なぜ自分たちは国を失い、捕囚となったのか。それは主なる神様に聞き従わなかったからだ。そう受けとめた人々による自分たちの背信の記録なのです。ですので、今日の聖書箇所においても、ソロモンは良い願い事をした王として、ただ楽観的に記されているのではありません。主に逆らい、王国に分裂をもたらすことになったソロモン王の初期の時代を、自分たちの背信の歴史として振り返っているのです。

既に始まっていた主からの離反
 「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「ギブオン」は、ソロモンがいたエルサレムから約九キロ離れている地です。また「聖なる高台」というのは、イスラエル王国の先住民カナン人が祭儀に利用していた聖所です。イスラエル王国の王が、エルサレムから離れたギブオンにあるカナン人の聖所で、主なる神様にいけにえをささげていたということです。それは、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)からであり、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)のでした。
 ソロモンは不敬虔な王ではなかったのです。主を愛し、父ダビデの授けた掟に従い、「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を捧げていました。「焼き尽くす献げ物」というのは、レビ記1:4によりますと、献げる人の罪を贖う、いわば「赦される」ための献げ物です。また、自分自身を焼き尽くして完全に捧げる「献身」のしるしでもありました。ソロモンは、主に罪を赦していただき、自分自身を完全に焼き尽くして献げるために、一千頭もの献げ物を献げていたのです。

 しかしここに、主の言葉への違反が潜んでいました。主はかつて、こう語られていました。「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい」(申命記12:2)。罪を赦していただくための、そして献身のしるしとしての献げ物をしている、まさにその所で主の言葉に背いていた、というのはまことに皮肉なことです。ソロモンは主を愛していました。しかし、主の言葉を軽んじていたのです。

 ソロモンが主の言葉を軽んじていたのは3章1節からも分かります。「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。」おそらく、当時の有力な国エジプトの王の娘と結婚することは、イスラエル王国にとって得策と思えたのでしょう。実際、この結婚によってイスラエル王国は外交関係が栄え、国として豊かになっていくのです。しかし、主の言葉はこう語っていました。「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない」(申命記7・3)。ソロモンは主の言葉よりも、自分の考えを優先させていたのです。

願い事を聞かれる主
 主がソロモンに姿を顕されたのは、そんな中でした。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう。』と言われた」(5節)。主はソロモンの罪をご存知だったはずです。しかし、主がとられた行動は罪の指摘ではなく、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と声をかけることでした。

 ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を正しく判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」と願い、その願いは聞き入れられます。主はソロモンに知恵と富と栄光をお与えになりました。しかしここで注目すべきなのは、ソロモンにお答えになった主の言葉の最後の部分です。「もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(14節)。この「父ダビデの歩んだように」は、ソロモンの願い事にも出てきた表現です。主に語りかけられたとき、ソロモンは開口一番こう述べています。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました」(6節)。

 主の関心は、ソロモンが父ダビデのように主に忠実に聞き従うことにありました。主の言葉から離れていくソロモンに本当に伝えたいことを伝えるために、主はギブオンまで出かけて行き、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう。」と語りかけられたのです。極端な言い方をすれば、願いを聞き入れることを手段としてでも、ご自分との正しい関係の中に招き返そうとされた。それが、主がソロモンに対してとった行動でした。

立ち返ったソロモン
 その後、ソロモンはどうしたでしょうか。「ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」(15節)。具体的に何を思ったのか、考えや心の動きは記されていません。しかし、「ギブオン」の「聖なる高台」で「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を献げていたソロモンが、すぐさま「エルサレムに帰り」、「主の契約の箱の前に立って」、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」という行動が全てを物語っています。

 ソロモンは、立つべき場所に立ち返ったのです。エルサレムに帰って、主の契約に忠実に歩むことができるように、父ダビデが歩んだように主との正しい関係の中で歩むことができるように、礼拝を献げたのです。一千頭という量を献げるためではなく、主との契約の中で、主の言葉に従う自分として歩み直すために礼拝を献げました。

 このときのソロモンの姿を思うとき、イスラエル王国の初代の王サウルに、預言者サムエルが語った言葉が思い出されます。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)。サウルは、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を戦利品の中から取り分けて、主に献げようとしたことがありました。「滅ぼし尽くしなさい。」という主の言葉よりも、自分が良いと思うことを優先させました。主への反逆は、主への善意の中にも入り込んでくるのです。

 ソロモンはここでさらに、「焼き尽くす献げ物」と共に「和解の献げ物」を献げています。「和解の献げ物」は「神との平和」「人との平和」を表す献げ物です。本来ならば、神にとって忌み嫌うべき存在である私たちが罪の赦しをいただいて、神の食卓に招いていただくことを表す献げ物です。それはつまり、神と共なる生活に招かれるということです。主の言葉を締め出し、聖なる高台を築いて、自分の考えで生活を送ってきた、その自分がもう一度、罪赦され、神と共に生きる生活に招いていただくのです。

 ソロモンはその食卓に、「家臣のすべてを招いて」(15節)います。かつてのソロモンには、ギブオンの聖なる高台が「重要」(4節)と映っていました。しかし今は、本当に重要な場所がどこであるかが分かったのです。神が罪の赦しを与え、和解の食卓に招いてくださる礼拝と、神と共に生きる生活こそが、本当に重要な場所であることを悟ったのです。そして、人々をそこに招くという、本来の王としての姿に回復させられました。

罪の実り
 そのようにして一度は立ち返ったソロモンですが、始めに申しましたように、11章以降からソロモンの背信が始まり、結果、王国の分裂に至っていきます。ソロモンは再び、主の言葉に聞き従う生活から出て行ってしまったのです。願い事だった知恵は与えられ、国は豊かになりました。神殿も立ちました。あらゆる富と栄光が与えられました。しかし、主に聞き従う心を失っていくのです。そして、自身に滅びを招いたどころか、国を分裂、崩壊させていくこととなりました。

 最後に、11章から始まるソロモンの背信の内容を確認しておきましょう。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」(11:1)。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべきケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行った」(11:7・8)。ソロモンが3章で行ったファラオの娘との結婚と、聖なる高台での礼拝が思い出されます。主を愛し、賢明で謙虚な願い事をした王として描かれる初期の時代に、既に、主の言葉に逆らう罪の芽が生え出ていたことを聖書は知らせています。罪の芽はソロモンの中で着実に育ち、大きくなって、11章からの背信へと実っていったのです。

私たちが願うべき事
 私たちの心や生活の中にも立ち現れてくる「重要な聖なる高台」があります。「神様はこうおっしゃるけれど、世ではこっちの方が重要だから。」敬虔に見える礼拝行為の中に潜む主の言葉の軽視があります。「今日の御言葉は私の考えに合わない。」主への善意の中に入り込む主の言葉への反逆があります。「こっちの方が神様を喜ばせることができるのではないか。」このように、主の言葉を軽んじさせる小さな高台から、人生を滅びに向かわせ、周りの人々や国をも崩壊させる将来が始まっていくのです。

 「何事でも願うがよい。」そう声をかけられたソロモンが願うべきだったのは、父ダビデが示した「憐れみ深く正しい心」をもって主に聞き従って歩むことでした。「何事でも願うがよい。」これは、罪を犯しているまさにその場所でこそ聞こえてくる主の言葉です。滅びの道に向かうに早い私たちを守ろうとする愛の配慮の言葉です。主からの関係回復への招きの言葉です。「何事でも願うがよい。」そう声をかけられた私たちは、そんな主の御思いに結び付けられて「主に聞き従う心」をお与えください、と願う者でありたいと思います。

2013年8月18日日曜日

「希望にあふれて」

2013年8月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハバクク書3:17~19、ローマの信徒への手紙8:18~25

  「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」(3:17)。今日お読みした聖書箇所に書かれていました災いの描写です。しかも、これは文脈からすると他国の襲来による災いの描写なのです。そのような時、人は悲しみ、落胆し、嘆き、あるいは怒るのでしょう。しかし、この人はこう続けるのです。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(3:18‐19)。この人は羊や牛を奪われても、喜びを奪われないのです。田畑の収穫を失っても、生きる力を失わないのです。彼はこれがすべての結末だとは思っていないからです。彼はなおも前を向いて、待ち望む者として生きているのです。

主よ、なぜですか
 しかし、初めからそうだったわけではありません。この書の冒頭にまで遡ってみましょう。この書は喜びの歌声ではなく、神に対する嘆きと訴えの言葉から始まります。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:2-4)。

 紀元前7世紀にユダの国にヨシヤという王がいました。ヨシヤ王については、聖書が次のように語っています。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(列王記下23:25)。そのヨシヤの時代に、神殿からモーセの律法の書が発見されました。ヨシヤ王は、その書を読み、悔い改め、主に立ち帰ります。彼は律法の書に従い、宗教改革を断行しました。国家全体が主に立ち帰るためでした。この事は国内に良き秩序を回復しました。正義が回復されつつありました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして戦死してしまったのです。ひとつの時代が終わりました。崩壊が始まりました。そしてハバククの時代には、すでに国家は秩序を失い、ここの書の冒頭に記されているような惨状だったのです。

 なぜ暴虐と不法が許されているのか。なぜヨシヤの改革によって理想国家が誕生しなかったのか。なぜ中途でヨシヤが戦死してしまったのか。なぜ神はこのような状態を放っておかれるのか。なぜ沈黙しておられるのか。不可解な現実を前にして、ある人は神に背を向けるのでしょう。しかし、彼は神に背を向けなかった。神に向き続け、神に問い続けるのです。神にしがみつくようにして「なぜ」と問い続けるのです。

 問い続けるハバククに主は答えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われるのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る」(1:6-7)。

 カルデア人とは当時にわかに勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。事実、その徴候は十分に見られました。国内の混乱に加えて外国の襲来。つまり、事態はさらに悪くなりつつあったのです。それが神のなさろうとしていたことだったのです。

 ハバククは神の言葉を受け止め、こう語ります。「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」(1:12)

 ハバククはカルデア人の襲来を神の懲らしめとして理解しました。たしかに私たちは悔い改めなくてはならない。しかし、それにしてもまだ腑に落ちません。彼はこう続けます。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか」(1:13-17)

 「彼ら」とは「カルデア人」のことです。彼らはこんなに酷いことをしているではないか、とハバククは訴えるのです。つまり、こういうことです。確かにユダも不敬虔かも知れないが、カルデア人のほうがずっと不敬虔ではないか。カルデア人は随分残忍なことをしているではないか。そして、その残忍さのゆえに今や恐るべき勢力を誇っているのではないか。神を神としない、また人道をわきまえないカルデア人が、少なくとも彼らよりは正しいと思われるユダを懲らしめるために立てられるのはおかしいではないか。神の正義、神の清さはどうしてこれを許されるのか。ハバククには全くもって不可解なことでした。

 しかし、彼は祈ることをやめませんでした。目の前の出来事がいかに不可解であろうとも、彼は祈ることをやめないのです。むしろますます神に向かいます。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(2:1)。彼はどんなに苦しくとも神から顔を背けません。必死で神の語りかけを聞こうとします。神の御思いを知ろうとするのです。

信仰によって生きる
 そのようなハバククに主は答えられました。神様はひとつの幻を示されたのです。それは神御自身が決着をつけられる時についてです。それは、2章6節以下に見るように、バビロニア帝国が裁かれ、滅びるということでした。その幻について、主は言われるのです。「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3)。繁栄を極めたバビロニア帝国が滅びることなど、とうてい考えられないことでした。しかし、主はその時が来ると言われたのです。たとえ、遅くなっても待っておれ、必ずその時が来るから、と言われるのです。

 さて、ハバククに対して主が語ってこられたことはいったい何でしょう。主はこう言われたのです。「それは終わりの時に向かって急ぐ」と。つまり、言い換えるならば「まだ終わりではない」ということです。今見ていることが結末ではないということです。その先がある。神が備えておられる先がある。人間が途中だけを見ると全く不可解なのだけれど、神御自身にとっては不可解ではないのであって、神にはその先に為そうとしておられることがあるのです。それは今は見えない。想像することもできないことかもしれない。しかし、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と主は言われる。それは人間の目には遅いように見えるかもしれないけれど、神の計画の中においては「手遅れ」になることはないのです。

 そこで、主はこう言われたのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)。ここで神が言われる「信仰によって生きる」という意味は明確ではありませんか。どこまでも信頼して待ち望むことです。神に信頼して将来に目を向け、待ち望む。神の時を待ち望む。それがハバククの得た神の答えだったのです。

 最初に読んだ言葉は、そのように、信仰によって生きることを神より教えられた人の言葉です。彼は主に信頼して待ち望む。それゆえにまた、現在がどのような状態であったとしても、喜びをもってこう歌うのです。「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。

希望をもって待ち望む
 そして今日は「信仰によって生きる」ということを語り続けたもう一人の人の言葉をお読みしました。パウロはこう語っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)

 「現在の苦しみ」。パウロはそこでまず自然界の苦しみを語っています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(同8:22)。そうです、実際、私たちもまたうめき苦しんでいるこの自然界の姿を見ているのでしょう。そして、それをもたらしているのは人間の罪であるに違いないのだけれど、その人間もまた自然界の一部として苦しみうめいているわけです。それは「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(同8:23)、すなわちキリスト者であっても例外ではありません。しかし、パウロはあくまでも「現在の苦しみ」と表現するのです。それは途中のことなのです。最終的な苦しみではないのです。その先に待ち望むべきものがある。神に信頼して、待ち望むのです。それを「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とパウロは表現するのです。

 「現在の苦しみ」と言い、「将来の栄光」と言う。そのときにパウロの念頭に常にあったのはキリストの十字架と復活なのでしょう。ですから、その直前にもこう言っているのです。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(同17節)。十字架の苦しみは復活の栄光へと続いていたのです。先ほど自然界の苦しみについて引用した言葉にもこの信仰が現れていました。「共に産みの苦しみを味わっている」と書かれていました。読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、しかし、これは苦しみの意味を決定的に変える言葉でしょう。産みの苦しみは最終的な苦しみではないのです。その先に大きな喜びが待っているのです。いや、「その先に」は適切ではないかもしれません。それが産みの苦しみであることが分かっているならば、苦しみが始まった時に、既に喜びは始まっているとも言えるのでしょう。

 そのように、この世において体を持つ者として苦しみを免れない私たちであっても、神の栄光にあずかる救いの完成の時は将来であったとしても、その救いを待ち望む確かな希望に生きているならば、既に救われていると言うことができるのです。救いの喜びは既にそこにあるのですから。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とパウロは苦しみの中にあって宣言するのです。


 私たちは神に信頼し、希望に生きる民とされました。しかも、キリストの十字架と復活によって信仰に導き入れられた私たちは、ハバククよりもさらに確かな希望をもって将来に目を向けることができるのです。彼は言っていました。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。私たちはさらに大きな希望に満ち溢れてそのように語りながら生きることができるのです。

2013年7月14日日曜日

「泣く声さえも祈りとなる」

2013年7月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

起こるべくして起こった問題
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。これだけ読みますと、自分の子供がからかわれているのを見て腹を立てたサラがその子と母親を追い出そうとしたという話に見えます。しかし、「イサクをからかっていた」というのは一つの解釈にすぎないのです。ここは単純に「遊んでいた」と訳している聖書も少なくありません。他の箇所では同じ言葉が「戯れていた」と訳されています。

 その子に悪意があったかどうかは分かりません。ただ遊んでいただけかもしれない。いずれにせよ、それがトラブルの原因ではないのです。実はこのトラブルは起こるべくして起こったのです。この日に起こらなければ、後の日にもっと大きな形で起こったはずなのです。なぜなら、これは相続の問題だからです。

 ここでそもそもの話を振り返っておく必要があるでしょう。なぜそこに相続争いになりかねない二人が存在するのか。ここに出てきます「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子」は名前を「イシュマエル」と言います。イシュマエル誕生に関わる話は、創世記16章に出ています。アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに提案したのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。聖書の他の場面でも似たような提案が当たり前のように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサラがこう提案した理由です。これは神の約束に関わっていることだったのです。そもそも出発点において主はアブラムにこう言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供はなかなか生まれることはありませんでした。16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。そこで出てきたのが先ほどの提案です。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。要するに、「神様がしてくださらないなら、私たちの手で実現しましょうよ」ということです。そもそもアブラムに子孫について語られたのは主なのですから、これは主にとっても善いことのはず。この提案をアブラムは受け入れました。エジプトの女ハガルも、ある意味ではこのプロジェクトに協力したとも言えるでしょう。神が望んでいることを人の力によって実現することに皆が取り組んだのです。

 ところで、先ほど引用した15章の言葉には続きがあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)と続くのです。そうです、主が求めておられたのは約束してくださった主に信頼することだったのです。

 《主を信じる》ゆえの行動というものがあります。アブラムは主を信じて旅だったのです。しかし、《主を信じない》ゆえに起こす行動というものもあるのです。信仰から出た行動と不信仰から出た行動。神の霊による行動と人間の肉による行動。その二つは時として区別が付きにくいものです。不信仰から出た行動であっても、実に熱心に、献身的に行われることはあり得るのです。あのサライの提唱したプロジェクトも「主の約束の実現のために!」というスローガンが掲げられたかもしれません。そのように区別は付きにくいものです。

 しかし、その違いは自ずと明らかになってくるものです。何が起こってきたでしょう。 ハガルについてはこう書かれています。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」(16:4)。信仰に由来しない熱心な行動、肉による行動は高ぶりを生み出します。そこでは見下す人と見下される人が出て来るのです。人から出たことならば、何かが成し遂げられた時、その手柄は人間に帰せられるのでしょう。そこで自分を誇り、誰かを軽んじるということが起こってくるのです。

 サライについてはこう書かれています。「サライはアブラムに言った。『わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように』」(16:5)サライの内には怒りが生じました。彼女は自らに犠牲を強いてきたのです。我慢してきたのです。「女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに」という言葉に見られるように。しかし、肉による自己犠牲はそれが評価されないと容易に怒りへと変質するのです。そして、その怒りは時として極めて理不尽な方向へと向かいます。サライの怒りはアブラムに向かったのでした。

 アブラムについてはこう書かれています「アブラムはサライに答えた『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』」(16:6)。肉による行動は、それが自分に不都合を生じるようになる時に、容易に無責任へと変質します。彼は神の御心を実現するつもりだったのではないでしょうか。しかし、そんなことはどうでもいい。面倒なことからは手を引きたいのです。

 さて、このようにしてやがてハガルの子イシュマエルが生まれました。ハガルは、女奴隷という立場でありながらも、唯一の跡継ぎの母親としてある程度の優位を保ちながらイシュマエルを育てていくことになります。この家の確執においては、もともとハガルの方が弱い立場ですから、イシュマエルがいることで均衡が保たれていたとも言えます。

 ところがその均衡が破れることになりました。サラにも子供が生まれたからです。神の約束された子、イサクです。そして、そのイサクもついに乳離れする年齢となりました。乳児期を守られていよいよ成長を見ていくことになる。そして、ついに来るべき時が来ました。ここまで見てきたように、このトラブルは起こるべくして起こったのです。この日に起こらなければ、後の日にもっと大きな形で起こったはずなのです。

神は聞いていてくださる
 今日お読みした箇所の直前には、「笑い」の話が書かれています。アブラハムはサラに生まれた子に「イサク」と名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった」。そうです、その日、アブラハムの家には笑いが満ちていたのでしょう。しかし、今日お読みした箇所に、もはやサラの「笑い」はありません。そこに吹き出しているのは将来の不安、これまでの怒りや悲しみなのでしょう。そこにはまた苦悩するアブラハムの姿があります。この事態をもはやどうすることもできません。そして、そこにはまたハガルとその子の苦悩があります。すべては起こるべくして起こりました。トラブルの種は既に蒔かれていた。先に見た通りです。

 もともとは誰にも悪気はなかったのです。悪意をもって計画されたことでも実行されたことでもなかったのです。神に背くことだとはみじんも思ってはいなかったのでしょう。しかし、良かれと思って為される行動がしばしば未来に苦しみを残すのです。良かれと思って熱心に蒔いているものが実は苦しみの種であるということがいくらでもあるのです。それは私たちにも覚えがあることでしょう。実際、この社会全体としても、また私たち個人の生活においても、まさに起こるべくして起こったという苦悩に満ちた現実に日々直面しているわけではないですか。

 しかし、今日の聖書箇所において語られているのは、そのようなまことに愚かで不信仰な私たちに神様がどのように関わってくださっているのか、ということなのです。

 その場面を思い描いて見てください。まことに人間の愚かなはかりごとにもかかわらず、そこにはイシュマエルだけでなくイサクもいるではありませんか。これが注目すべき第一のことです。人々がトラブルの中で苦しんでいるところに、イサクはちゃんとそこにいる。神の約束は実現しているのです。神の救いの計画は、進んでいるのです。その後も同じです。イスラエルの罪にもかかわらず、やがてイスラエルの民からキリストは到来し、人間が到来したキリストを十字架にかけてしまったにもかかわらず、神が計画した贖いの御業は実現することとなったのです。そして、私たちは同じように約束が与えられているのです。この救いの御業は完成し神の国が到来するという約束が。そのように誰も止めることのできない神の救いの計画の中に私たちはあるのです。

 そして、さらに目を向けるべきはハガルとその子に対する神の慈しみです。もはや事態を収拾することができないアブラハムに対して、神はこう言われました。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(12‐13節)。もう苦しまなくてよいと主は言われるのです。要するに、あなたがどうすることもできないあの二人については、わたしに任せなさいということでしょう。アブラハムはそれゆえに、二人のことについて神にゆだねるのです。「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)と書かれています。追放したのではありません。イシュマエルを守るために、いや神に守っていただくために、連れ去らせたのです。

 また、そのようにしてハガルを荒れ野へと導かれたのは、主がハガルと出会うためでもありました。さまよっていたハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」(15‐16節)。そのように、もはや泣くことしかできないハガルに、神様は御使いを通してこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は主への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。井戸は突然そこに現れたのではありません。既にあったのです。絶望に涙していた時に、既にその側には神の備えがあったのです。もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。追放された身は変わりません。今の現実を彼女は受け入れなくてはならない。しかし、泣く声さえも聞いていてくださる主、そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている主を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

2013年6月23日日曜日

「神はあなたを忘れてはいません」

2013年6月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 49章14節~21節


主はわたしを忘れられた
 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と」(14節)。

 「主はわたしを見捨てられた」。そんな思いを抱いたことはありますか。「わたしの主はわたしを忘れられた」。そんな思いを抱いたことはありますか。苦しみが長く続く時、出口の見えないトンネルの中を延々とこれからもずっと歩き続けなくてはならないかのように感じる時、神に祈り願っても依然として事態は何も変ってはいないように思える時、私たちの内にもこのような思いが湧き上がってくるかもしれません。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と。

 シオンとはエルサレムのことです。この場合、破壊され廃墟となったエルサレムです。紀元前五八七年、エルサレムはネブカドネツァルの率いるバビロニア軍によって二年間包囲された後に陥落し、城壁は破壊され、エルサレムの神殿は焼き払われ、主だった人々はバビロンに強制移住せられて捕囚となりました。それから五十年近くの月日が経ち、依然としてエルサレムの城壁も神殿も建て直されることなく、都は廃墟のままだったのです。そのような月日を経た捕囚の民の口に上ったのがこの言葉でした。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。

 確かに、見捨てられているとしか思えない時があります。忘れ去られているとしか思えない時があります。そこに罪の自覚が加われば、絶望はいよいよ深くなるのでしょう。捕囚の地にあって歴史を振り返った人々がいました。彼らに見えてきたのは、神が繰り返し預言者を遣わして語りかけ、呼びかけ続けてくださったという事実でした。そして、もう一つ見えてきたのは、その呼びかけに背を向け、耳を塞ぎ、逆らい続けてきた民の姿でした。見捨てられたとしても仕方がない。忘れられたとしても仕方がない。エルサレムの荒廃をもたらしたのは外交政策を誤ったゼデキヤ王でもなければ攻めて来たバビロンの王でもなかった。それは他ならぬ自分たちなのだ。それが彼らの自覚でした。そのように民の罪によって廃墟となり、荒れ果てたまま年月だけが過ぎていったエルサレムが、悔いと悲しみをもってこう嘆いているのです。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そこにあるのは深い絶望の暗闇でした。

あなたを忘れることは決してない
 しかし、その暗闇の中に主の御声が響くのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない!」主はそう言われるのです。それは暗闇の中に天から差し込んでくる一筋の光です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)。

 主が「忘れることはない」と言われる時、それは何を意味するのか。主はさらにこう言続けられます。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」(16節)。「刻みつける」という言葉は、レンガなどに絵や字を彫り込む時に使われる言葉です。そのようなことを手に対して行ったら、当然、痛みを伴うことになるでしょう。実際、ここで語られているのは、ある種の入れ墨のようなものだろうと多くの人は考えます。そのように痛みをもって手のひらに刻みつけ、「あなたを決して忘れない」と言われる。それは神の憐れみなのです。見捨てられても仕方のない者をあえて赦して受け入れる神の憐れみなのです。

 そのように、見捨てられても仕方のない者をあえて赦して受け入れて「あなたを決して忘れない」と言われる神の憐れみを思う時、私たちもまた私たち自身のことを考えざるを得ません。私たちもその憐れみを知っています。私たちもそのようにして救われたからです。そのように痛みをもって刻まれた私たち自身の名前。そうです、神はキリストにおいて私たちをもその御手に刻まれました。十字架の太い釘をもって。その釘の跡はイエス様が復活されたあとも残っていました。その傷跡を主は復活した時にトマスにお見せになりました。それはトマスのための傷跡であり、他の弟子たちのための傷跡であり、私たちのための傷跡でした。いわばその御手に、穴のあいたその御手に、私たちもまた赦された者として彫り刻まれているのです。

 「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」と主は言われた。だから忘れられてはいません。罪を赦された者として常に主の御前にいるのです。人の目には主から忘れられているかのように見えても、見捨てられているかのように見えても、主は宣言されるのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない」と。主は常に覚えていてくださいます。主は心にかけていてくださいます。主は見ていてくださいます。主は長い間苦しんできたことも分かっていてくださいます。その上で、主は私たちの未来にしっかりと目を向けていてくださるのです。

あなたの城壁は常にわたしの前にあ
 主はあの時、自らの手に刻みつけたエルサレムに向かってこう言われました。「あなたの城壁は常にわたしの前にある」と。崩れてしまった城壁は常に主の前にありました。惨めなエルサレムの姿は主の前にありました。主は決してそっぽを向いていたわけではありません。しっかりと見ておられた。しかし、主がご覧になっていたのは、ただ崩れてしまった城壁だけではありませんでした。主は再建された城壁をも見ておられたのです。やがて美しく建て直される城壁。その再建プランは既に主の御手にあったのです。主は人がまだ見ていない再建された城壁を既に見ておられた。それゆえに主はさらにこう言われるのです。「あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る」(17節)。

 「あなたを破壊した者は速やかに来た」。そうです。確かにそうでした。破壊されるのは速かった。それが建て直されるのには気が遠くなるほどの時間がかかると人は思います。これまでの苦しみの時が長ければ、その苦しみから解放されるのにも恐ろしく長い時間がかかるように思う。時にそれは永遠に続くとさえ思えるものです。しかし、主は言われるのです。「あなたを建てるものは更に速やかに来る」。なぜなら、それは主がなさることだからです。

 主は人間の時間割に従って事を為されるわけではありません。主は御自分の仕方で事を為されます。主はある日、突然、人間の思いがけない仕方で介入されるのです。実際、エルサレムの再建はそのように起こりました。再建のための勅令を出したのは、なんとバビロンを征服したペルシャの王キュロスだったのです。そして城壁の再建を指導したネヘミヤもペルシャの王に仕える高官であり、ペルシャ帝国の公務としてエルサレム入りすることになるのです。

主は備えておられます
 「あなたの城壁は常にわたしの前にある」。そのように、主は私たちの現実を見ていてくださいます。その主が私たちの未来をも見ていてくださいます。そこには主のご計画があるのです。そして、主がなそうとしておられることは、ただ「元通りになる」ということではありません。破壊されたエルサレムはただ元通りになるのではなく、それ以上のものとなるのです。

 主はこう言われました。「 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい、花嫁の帯のように結ぶであろう。破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は、彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った。 あなたが失ったと思った子らは再びあなたの耳に言うであろう、場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と」(18‐20節)。

 廃墟となり人の住まなくなったエルサレムは、ただ元通りに人が住むようになるだけではありません。エルサレムは失った人々以上の人々が帰ってきて、入りきれないほどの人で賑わう繁栄した都になるというのです。人々は言うのです。「場所が狭すぎます」と。

 そのようなことが起こるならば人は不思議に思うわけでしょう。ですから主はこう言われるのです。「あなたは心に言うであろう、誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか、わたしは子を失い、もはや子を産めない身で、捕らえられ、追放された者なのに、誰がこれらの子を育ててくれたのか、見よ、わたしはただひとり残されていたのに、この子らはどこにいたのか、と」(21節)。

 誰が生んでくれたのか。誰が育ててくれたのか。もちろん神様です。神様が生んで育てておられたのです。いつですか。彼らが「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と言っていた時にです。まだ再建の兆しも見えなかった時です。何も進んではいないように見えた時です。その時に、主は既に再建された城壁を見、そして、そこに住む人々を備えておられたのです。

 「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そのように見える時、そのように思えてくる時、ぜひ今日の御言葉を思い起こしてください。主は言われます。「わたしがあなたを忘れることは決してない」。私たちは主の手に彫り刻まれているのです。主は忘れてはおられません。主は私たちの現在を、そして未来を見ていてくださいます。そして、主は何も進んではいないように見える今、そのために着々と準備を進めておられるのです。

 ならば大切なことはただ一つ。信仰に留まることです。エルサレムの言葉をもう一度聞いてみてください。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。「主は見捨てられた」と言いながらもなお「わたしの主は」と言っているのです。そうです、当時、主を捨ててバビロンの神々に帰依していく人たちがいる一方で、自らの罪を自覚しながらも、暗闇の中にあっても、どこまでも主に向こうとしていた人たちがいたのです。そのような人々が主の言葉を聞いたのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」と。私たちもまた信仰に留まるならば、私たちへの語りかけとして主の言葉を聞くのです。暗闇の中に差し込む一筋の光として。「わたしがあなたを忘れることは決してない」。

2013年6月16日日曜日

「豊かな人として生きる」

2013年6月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1節~15節


 今日は朗読された聖書箇所の中で特に8章9節の言葉に注目したいと思います。次のように書かれていました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。

キリストの恵みを知っている
 まずこう書かれています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」。

 先ほど読まれましたとおり、この8章はおもに「お金」のことが書かれている章です。「募金」の働きについて書かれているのです。おそらくはエルサレムの貧しいキリスト者たちを助けるためのものだったと思われます。そのような働きが各地の教会においてなされていました。パウロはコリントに宛てた手紙の中でマケドニアの諸教会における募金活動の様子を紹介しています。

 「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」(1‐4節)。

 そして、それに続けてコリントの教会に対しても、この募金活動に励むように勧めているのです。「わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(6‐7節)。そして、さらに続けてこう言うのです。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです」(8節)。

 これを読んでどう思われましたか。聞きようによっては、他の人たちの頑張りを引き合いに出して、「あの人たち熱心に良くやっています。彼らを見習ってあなたたちも頑張りなさい」と言っているように聞こえなくもない。そう、パウロもそのことは分かっているのでしょう。他の諸教会の活動について紹介したら、そこで熱心さの比較が起こるかもしれないことを、パウロは分かっているのです。しかし、ここで重要なのは彼が言っているように「愛の純粋さ」なのです。「私たちも彼らに負けてはいられない」と言うのでは「愛の純粋さ」とは結びつかないでしょう。

 ですから、あえてパウロはここで人間の頑張りの話ではなく、「神の恵み」として語っているのです。「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と言ってますでしょう。そして、コリントの人たちにも言うのです。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」。

 「キリストの恵みを知っている」。教会の働きというものは、信仰者の行動というものは、本来そこから生じてくるべきものなのです。「私たちはキリストの恵みを知っている。だからこのことをするのです。」「私たちは神の恵みを知りました。だからこのことをするのです。」そうあってこそ、神のことを思わない比較と競争に陥る誘惑、単に神の名を借りた自己実現に陥る誘惑から守られるのでしょう。そうあってこそ「愛の純粋さ」が語られ得るのです。

 以前、キリスト者学生会の主事がこんなことを書いていました。「私たちの心は、玉ねぎのようにどこまでむいても『私を見て』と叫んでいます。親切や献身でさえも自分の足場を固めるための道具にしか過ぎません。『あなたのために』という声も、『あなたのためにこれをする私を見て』という声の省略です。…」ずいぶん辛辣なことを書く人だなあ、と思いましたが、言われていることは間違っていないと思います。「キリストの恵みを知っている」ということが抜けていれば、人間の自然な性向としては「わたしを見て」になってくる。コリントの教会の募金活動も、「マケドニアの教会ではなく、私たちを見て」になりかねなかったのです。

主はあなたがたのために貧しくなられた
 それゆえに、パウロはコリントの人たちが知っているはずの「主イエス・キリストの恵み」についてさらに次のように語り始めるのです。彼は言います。「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」

 「主は豊かであったのに」とはどういうことでしょうか。主イエスが生まれたところは馬小屋でした。主が育った家庭は決して豊かではありませんでした。主が弟子たちとともに宣教の働きをしていたときでさえ、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言っておられたとおり、決して豊かではありませんでした。それでもなお、聖書は「主は豊かであった」と語るのです。なぜなら聖書はキリストの生涯を馬小屋から始まったものと見てはいないからです。父なる神と共におられた御子なる神の到来として見ているからなのです。

 私たちが礼拝しているキリストとは、努力の末に霊的な力を獲得した偉大な人物ではありません。そうではなく、神の御子があえて天の栄光を捨てて貧しくなり、この世に来られたのです。富むことに、得ることに、受けることに躍起になっている私たち人間の世界に、神の子がまず貧しくなられて身を置かれたのです。いや、それだけではありません。フィリピの信徒への手紙には次のように書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6‐8)。十字架の死に至るまで。それがキリストの引き受けられた貧しさでした。それは何故か。「主は豊かであったのに、《あなたがたのため》に貧しくなられた」と書かれているのです。

 「あなたがたのため」とはいったいどういうことでしょうか。パウロは言います。「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」キリストが十字架に掛けられたのは私たちが豊かになるためであると言うのです。

あなたがたが豊かになるために
 「あなたがたが豊かになるため」と言いますが、これは言い換えるならば「あなたがたはもともと貧しいのだ」と言うことでしょう。貧しいから豊かになることが必要なのです。しかし、私たちは貧しいのでしょうか。いや、ここで言う「貧しさ」を知るためには、「私たちは貧しいのだろうか」と問うよりも、「私たちは本当に貧しくないのだろうか」と問う方が良いのかもしれません。

 実際、私たちの持っているものは何でしょうか。私たちはいったい何を所有するのでしょうか。本当の意味で所有しているものなど何もありません。それは傲慢にも私たちが「自分のものだ」と思っている何かが私たちの意に反して失われる時に、否が応でも突きつけられる事実です。考えて見るならば、私たちの命でさえも、私たちは本当の意味で所有してなどいないのです。ならばいったい何が私たちに属するのでしょう。私たちが確実に持っているものは何でしょう。あえて言うならば、私たちに属するのは「罪」と「死」だけです。「死」は未来のどこかにあるのではありません。私たちの背中に背負っているのです。私たちは生きながらにして「死」を負った存在です。それゆえに私たちは常に「死につつある(dying)」存在です。

 そのように、私たちが確実に持っているのは「罪」と「死」だけです。いわば借用証書だけを所有しているようなものです。本当は貧しいのです。その貧しさを私たちは忘れたいと思います。ですから、実際所有してはいないこの世のもので自分の不安を解消しようとするのです。しかし、実際の貧しさは時が明らかにするでしょう。私たちが人生の最後にさしかかるとき、ああ自分は本当に貧しいということがわかる。ならば、最後になる前に分かっていたほうが良いのでしょう。

 では、その貧しさをどうすれば良いのでしょうか。貧しさから抜け出すには、負債を肩代わりして頂き、さらに富を与えて頂くしかありません。それは人にはできないことです。しかし、人となられた神、死んでよみがえって今も生きておられるこのお方にはできるのです。

 私たちの貧しさの極みにキリストは降りてきて下さいました。そして、負債を引き受けて下さいました。キリストは私たちの罪を代わりに担い、死を引き受けられました。これ以外に私たちの貧しさを解決する道はありませんでした。キリストは御自身貧しくなることによって、私たちを「豊か」にして下さいました。借用証書を破り捨てられただけではありません。さらに私たちに永遠の命を与えて下さったのです。それは救われて神との永遠の交わりに入れられるということです。いや、それどころか、神は私たちを「神の子」と呼んで下さるのです。私たちは今から神を「天にまします我らの父よ」と呼んで生きるという生活を与えられているのです。

豊かな人として生きる
 これがキリストの恵みです。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」。そうです。まずこの恵みを知ることから始まるのです。その恵みに目を向け、その恵みによって生きることです。恵みこそがすべての源だからです。パウロが紹介していたマケドニアの諸教会の募金活動の源もそこにあったのです。恵みから生まれたものです。ですから不思議な書き方がされていましたでしょう。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(2節)。

 実際には彼らは苦しみの中にありました。試練を受けていました。極度の貧しさの中にありました。しかし、そこからあふれ出る喜びがありました。そこにはあふれ出てきて、他者に与えることができる豊かさがありました。なぜか。キリストの恵みが源だったからです。そうです、キリストが貧しくなってくださったゆえに、彼らは豊かにされていたのです。どのような状況に置かれていたとしても、恵みによって豊かな人として生きることができたのです。それは彼らの頑張りなどではありませんでした。恵みを源とするものですから、すべてが神の恵みとして与えられたものなのです。ですからパウロはこう言っていたのです。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」

 パウロがマケドニア州の諸教会について語ったのは、彼らが豊かに生きたように、コリントの信徒たちもまた豊かな人々として生きて欲しいと願ってのことなのです。それは他ならぬ神の願いでもあるのでしょう。そして、そのような聖書の言葉が伝えられて私たちが今聞いているのは、私たちもまた豊かな人として生きることを神が望んでいてくださるからなのです。

2013年6月9日日曜日

「闇夜に輝く星のように」

2013年6月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節


 今日の聖書朗読は次のような言葉で始まっていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。

 「自分の救いを達成するように努める」と書かれていましたが、私たちは信仰生活において常々「自分の救いを達成するように努める」ということを考えながら生活しているでしょうか。もしそうでないなら、私たちは改めてこの御言葉を受け取らなくてはならないのでしょう。

自分の救いを達成するように努める
 さて、「自分の救いを達成するように努める」とはいかなることを意味しているのでしょうか。それは私たちが良き行いを積んで救いを獲得するということでしょうか。私たちが正しい人となり救われるにふさわしい人間となるということでしょうか。いいえ、聖書は私たちが自分の行いによって救いを獲得するのではないことをはっきりと語っています。例えば別の手紙においてパウロは次のように書いているのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、救いは神の賜物なのです。恵みによって与えられるプレゼントであり私たちはただ受け取るだけなのです。そのように神は一方的な恵みによってキリストをこの世にお送りになられ、キリストの十字架によってこの世の罪を贖われ、ただ十字架のゆえに私たちは罪を赦されて、神との交わりに入れられるのです。私たちが神の子どもたちとして「天にまします我らの父よ」と祈り、こうして共に礼拝していること自体が既に救いの現れなのです。その意味において、私たちは「救われた」と表現することができる。私たちは「恵みにより、信仰によって救われました」と言えるのです。

 ではなぜ「自分の救いを達成するように努めなさい」と言われているのでしょう。そこで自分がいただいたプレゼントを手にしている姿を想像してみてください。私たちはその中身を一つ一つ味わいはじめています。やがてその中身のすべてを見て驚く時が来るでしょう。しかし、そのように受け取ったプレゼントを奪おうと狙っている敵があちらこちらに潜んでいるとしたらどうでしょう。私たちはそれを持って歩く時に、奪われないように注意深く歩いていくことでしょう。場合によってはそれを奪われないために敵と戦わなくてはならないかもしれません。

 私たちは一方的な神の恵みによって神との交わりに入れられ、神の子どもたちとして生き始めました。そのような信仰生活を与えられました。それが何を意味するのか、そのすべてを私たちはまだ見ていません。ただその栄光に満ちた救いを少しだけ味わい始めているだけです。そのように救いの完成に向かって歩んでいるのです。しかし、私たちがそのように歩んでいるこの世界には罪の力が働いていることを私たちは知っています。私たちを神から引き離す力が働いているのです。せっかくいただいた信仰生活を破壊する力が厳然として働いているのです。悪魔との戦いについては聖書が繰り返し語っていることですが、それは決しておとぎ話ではないのです。

 そこで、私たちは無償の賜物として罪の赦しを与えられ、神との交わりを与えられ、信仰生活を与えられたなら、その救いの完成に至るまで、最後まで神と共に歩むことを本気で考えていかなくてはならないのです。それをパウロは「従順」という言葉で表現するのです。信じて従い続けることです。どこまでも信じて従い続けることなのです。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。

 そのように信頼して従うのは、他ならぬ神御自身が救いの完成を願っておられるからです。私たちの内に働きかけて救いの望みを与えてくださったのは神御自身が、その実現へと導こうとしておられるのです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです」(13節)と書かれているとおりです。だからその神に信頼して従い続けさえすれば、救いの完成に至るのです。そうです、私たちの側として必要なのは従順であることなのです。

不平や理屈を言わずに行いなさい
 では具体的にどうしたらよいのでしょう。そこでパウロは次のような勧めを与えています。「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」(14節)。「理屈を言う」というのは「疑う」とも訳せる言葉です。信頼しないでブツブツ言うことです。さて、従順が語られるところで、どうして殊更に「不平を言わずに」という話が出てくるのでしょう。それは実際に従順が非常に重要になる場面で、不平を言い、理屈を言って従おうとしなかった人々がいたからなのです。そのような人たちの話が旧約聖書に出てくるのです。

 ご存じのように、エジプトにおける奴隷であった民は、神によってエジプトから解放され、モーセに率いられて神と共に歩む民となりました。それは神の恵みであり恵み以外の何ものでもありませんでした。神が葦の海を二つに分けてその中を通らせた話は有名ですが、それこそまさに恵みが何であるかを明らかにする出来事でした。そのように恵みによって救われた民が、神の恵みに感謝しつつ、安息の地に向かって旅をし始めたのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれての旅でした。それは神が共におられることのしるしでした。主が共におられるゆえ、確実に安息の地へと向かうことのできる旅だったのです。ただ信頼して従って行けば良かったのです。

 しかし、聖書はなんと語っているでしょうか。すぐに彼らは不平を言い始めたのです。彼らは、水がない、食べ物がないと言ってつぶやき始めたのです。彼らを救ってくださった御方が真実であることを信じなかったのです。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出16:3)。彼らは救いの恵みを忘れて、彼らの古い生活、エジプトの肉鍋を懐かしんでいるのです。彼らは繰り返しこのように不平を言いました。そしてついには、「エジプトに引き返した方がましだ」(民13:3)とまで言い出したのです。

 同じことが今日の私たちにも起こるかもしれません。ですから聖書は言うのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」。不平を言うというのは、ある意味では小さなことです。他の人に対して極悪非道なことを行っているわけではないでしょう。しかし、その小さなことが救いの達成と深く関わっているのです。

 エジプトの国で死んだ方がましだった。エジプトからの脱出なんてしなければよかった。そのようにイスラエルの民はつぶやきました。同じように私たちも試練の中を通される時に、後ろを向いて古い生活を懐かしむようなことがあるかもしれません。しかし、今もし荒れ野に導かれているとするならば、そこには神の意図があるのでしょう。そこで与えようとしていることがあるのでしょう。そこで為さなくてはならないことがあるのでしょう。どうしても為さなくてはならないことや、しばし堪え忍ばなくてはならないことがあるならば、後ろを向いて不平を言いながら行うのと、前に向かって救いへの導きを信じて行うのとでは天と地ほどの開きができるのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。繰り返しますが、その小さなことが救いの達成と深く関わっているのです。

星のように輝いて
 しかし、ここでもう一つのことを考えたいと思うのです。パウロは単に、「何事も、不平や理屈を言わずに、従順でいなさい。そうすれば、あの不従順の民のように途中で滅んでしまうことはないから」と言っているのではないということです。「途中で滅びてくれるな」というような、そんな消極的な意味合いでこの勧めをしているのではないのです。なんとパウロはこのように続けるのです。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16節)。

 彼がフィリピの信徒たちのことを考える時に思い描いていたのは、真っ暗な闇夜においてキラキラと輝いている星々だったのです。確かにこの世界には罪の力が大きく働いているのでしょう。この世界の罪の故に起こってくる様々な苦しみを使って、悪魔は信仰者を神から引き離そうとするのでしょう。この世界は確かにいまだ救いの朝を迎えてはいない夜の世界です。しかし、そこで神が見たいと思っているのは、なんとか信仰を保っていますというレベルのことではないのです。まだ救いの朝が来ていないこの世界において、いやそのようないまだ暗闇が覆っている世界だからこそ、そこに星のように輝く人々が生きることを期待しておられるのです。私たちが恵みの賜物によって信仰生活が与えられているとはそういうことなのです。

 もちろん、普通に考えるならば、ここに書かれていることは、はるか遠くに見える山の頂のような話です。「とがめられるところのない清い者」とか「非のうちどころのない神の子」などという言葉を読みますと、それはとても私には無理でしょうと思わざるを得ない。しかし、それをお望みなのは神なのです。そのように導いておられるのは神御自身なのです。だから信頼して一歩一歩進んでいけばよいのです。その小さな一歩は何か。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」今、置かれている現実の中で神を信じることです。信頼して喜びながら従っていくことです。不平を言いながら星のように輝くことなどできようはずもありません。救ってくださった方を信じ、与えられている状況の中で事々に感謝をもって受け止めて生きてこそ、確実に一歩一歩を踏み出すことになるのです。そのような歩みを続ける内に、やがて私たちは自分の救いを達成することになるのでしょう。私たちは恵みによって救われました。その恵みを無駄にすることなく、救いの達成へと向かって主と共に歩んでまいりましょう。

2013年5月26日日曜日

「あなたは祝福されています」

2013年5月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節


神をほめたたえて生きる
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(1:3)。今日の聖書朗読は、そのような言葉で始まっていました。パウロは神を讃美しているのです。神を讃美しながら、これらのことを書いているのです。ここに書かれているのは、神が私たちのためにしてくださったことです。その合間にこう書かれています。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12節)。「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。神の御業はすべてここに向かっていたのです。神が私たちのためにしてくださったすべては、私たちが神を讃美する民となるためなのです。

 信仰生活とは、神をほめたたえて生きる生活です。喜びの中にあって神を賛美し、悲しみの中にあっても神を賛美し、豊かさの中にあって神を賛美し、困難と窮乏の中にあって神を賛美し、健康な時に神を賛美し、病気の床において神を賛美して生きる。そのような生活です。ちなみに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と書いているパウロは、獄中からこれを書き送っているのです。獄中において神を賛美しているのです。

 この世界は変わります。私たちの置かれている状況も刻一刻と変わっていきます。そうです、すべては変わっていきます。しかし、信仰をもって生きるということは、神を賛美し神を礼拝するという、私たちの人生を貫く変わらざる一本の太い柱を持つことです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。

 そのように、いかなる時にも神を賛美して生きるためには、神がいかなる御方であるかを良く知らなくてはなりません。神が何をしてくださったのかを知らなくてはなりません。そして、知ったなら、それを忘れてはなりません。常に意識して生活することです。そのためにも、今日のような箇所が繰り返し読まれるということは、私たちにとって大事なことなのでしょう。

一方的な恵みにより
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。そのように私たちがほめたたえて生きるその神はいかなる神であるのか。キリストにおいて、私たちを祝福してくださった神だと書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(1:3)。

 神は祝福してくださいました。私たちは祝福されているのです。既に、天のあらゆる霊的な祝福をもって祝福されているのです。それは天に属するものです。神のみが与えることができる祝福です。「霊的」とはそういうことです。「霊的」という言葉と「精神的」という言葉を混同してはなりません。単に精神的なものならば人間でも与えることができるのです。しかし、人間にとって本当に必要なのは、人が与えることのできるものではなく、天に属する霊的なもの、神のみが与えることのできるものです。そして、それは既に与えられているのです。それは天に属するものですから、もはや誰も奪うことはできないのです。人はパウロを牢獄に放り込むことはできましたが、天のあらゆる霊的な祝福を奪うことはできませんでした。ですから牢獄の中にさえ賛美が満ちていたのです。

 それはすべて神の恵みによるものです。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それを聖書は「選び」という言葉で表現します。この「選び」という言葉は誤解を生みやすい言葉でもあります。「選ばれた」と言うならば、ともするとエリート意識の現れと受け取られやすい。しかし、パウロが「選ばれた」と言うのは、「私たちの側に根拠はない」という意味です。すなわち「神の一方的な恵みです」という意味なのです。ですから「天地創造の前に、神は…お選びになりました」などという奇妙な表現が出てくるのです。「神は私が生まれる前から私を選んでくださいました」と言えば、それは「私の行いや功績にはよらない」ということになるでしょう。「生まれる前」ならまだ何もしていないのですから。それを究極まで押し進めると「天地創造の前から」となるのです。どのような表現にせよ、要するに、「私たちの功績じゃない」ということです。一方的な恵みだということです。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。

神の子とされて
 それは5節において、神の子でない者を神の子とすることとして、言い換えられています。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5節)。ここで用いられているのは養子縁組を表す言葉です。神の養子にされるということです。神は「主イエス・キリストの父である神」であります。しかし、そのキリストと父なる神との関係の中に、キリストを信じる私たちも入れていただいたのです。主イエスが「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちも天と地の造り主なる方を、「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されているのです。そして、御子を長子とする家族へと加えられたのであります。その理由と根拠は人間の側にはありません。パウロは、ただ神が「御心のままに前もってお定めになった」からだ、と言うのです。

 実は、この「御心のままに」と訳されている言葉は、「神の喜びとするところに従って」とも訳せる表現です。要するに、私たちが神の子とされるのは、それが「神の喜びであるから」という単純な理由によるのです。これは驚くべきことでしょう。まことに神の子とされるに相応しからぬ私たち、自分で自分のことを持て余しているような私たちを、神の子とすることが、神にとっては喜びなのだと聖書は教えているのです。私たちが神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになることが、神の喜びだというのです。私たちは神の喜びなのです。

 神が御子を世に送られたのは、まことに相応しからぬ私たちを神の子にするためでした。「イエス・キリストによって」(5節)とあるとおりです。その事実を6節では「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」と呼んでおります。その恵みが何であるかは、7節において明らかにされています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」この「贖い」とは奴隷が買い戻され、解放される時に使われる言葉です。私たちは贖われたのだ、と言う時、それは私たちがかつて奴隷であったことを示しています。罪という負債を背負った奴隷であったのです。

 日本人はしばしば「罪を水に流す」と言います。過去の罪は忘れてしまえば、それで解決するかのように語ります。しかし、実際には、罪は水では流れないこと、忘れても解決はしないことを、私たちは皆、本当は良く知っているのです。罪は赦していただかなければ、解決しないのです。そして、罪を赦すことができるのは、最終的に神だけです。そこで、神は御子の血をもって、その命をもって、私たちの罪の代価とされたのでした。私たちの罪の負債は、御子の血によって完済されました。私たちは御子の血によって買い取られて解放されました。これが「贖い」です。罪の負債を抱えたままでは、私たちは神の子となり得ませんでした。私たちは、罪を完済された者として、まさにキリストの贖いの業を通して、神の子としていただいたのです。

救いの完成に向かって
 そして、神はさらにこの恵みを私たちの上にあふれさせ、神の秘められた計画を知る者としてくださいました。次のように書かれています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(8‐10節)。

 私たちが罪を赦され、神の子とされ、御子のもとに集められていることを、ただ自分個人に関わることと考えてはなりません。神は、御子を通して、この世界に対する計画を明らかにされたのです。それは、私たちがこうしてキリストのもとに集められているように、やがて頭であるキリストのもとに世界が一つとされるということです。いや、天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのだ、と聖書は教えているのです。

 目を転じて見るならば、この世界はまさにずたずたに引き裂かれた世界です。互いに対立し、反目し、争い、殺し合っている世界です。私たちの身近なところにも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、私たちは決して絶望する必要はないのです。神はこの世界の中に生きて働かれ、救いの完成に向かって導いておられるからです。そして、やがて時が満ちるのです。神の約束は実現するのです。

 そして、受け継ぐべき救いの完成は、ただ単に遠い未来に待ち望むべき希望であるだけではありません。今、こうしている時に、既に私たちはその救いの豊かさの一部を味わい知ることが許されているのです。

 13節でパウロは「あなたがたもまた」と語りかけます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。これはエフェソの異邦人キリスト者たちです。彼らが宣べ伝えられた言葉を聞いて、信じて、バプテスマを受け、互いに異なった者たちが共に主を礼拝していること自体が、既に聖霊の働きです。それはここにいる私たちも同じです。私たちもパウロから見たら異邦人ですから。その私たちが今こうしていることは、聖霊の働きです。私たちは聖霊によって「証印」を押されたのです。「証印」とは所有者を現すしるしです。私たちは神のものなのです。

 そのように信仰生活を与えてくれた聖霊こそ「わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(14節)と語られています。この「保証」というのは、言い換えれば「手付け金」のことです。やがて全体を受けとることの保証として、その一部を受け取るのです。それが聖霊によって私たちに与えられる信仰生活です。私たちは、救いの完成へと向かう者として希望に生きるだけでなく、その一部を手付け金として受け取り、救いの恵みを今この時に味わいつつ生きることが許されているのです。そして、その手付け金によって、さらに確かな希望に生きる者とされるのです。

 これらはすべて神が恵みによって私たちに対してしてくださったことでした。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それゆえ、最初に申し上げたように、信仰生活とは神をほめたたえて生きる生活となるのです。私たちがここにおいて、歌声をもって神を賛美するように、私たちの人生全体が神への賛美となりますように。

2013年5月19日日曜日

「満たされていますか?」


2013年5月19日  ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~13節


御心が成るために
 私たちは先ほど「主の祈り」を祈りました。その中で「御国を来らせたまえ」と祈りました。「御国に入れてください」と祈ったのではありません。御国、神の国が「来るように」と祈っているのです。どこにですか。この地上にです。神の国が来るとはどういうことでしょう。神の国とは神の支配のことです。神の支配が実現することです。その意味するところは、主の祈りにおいて、さらに明確に祈られています。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。私たちは、地の上に、御心が実現するように祈っているのです。

 「御心が行われますように」と祈っているということは、まだ御心は実現していない、少なくとも完全には実現してはいない、ということを意味します。この世界を見てください、人々が憎みあい、殺し合っているこの世界は、神の御心が完全に実現した世界ですか。これが神の国ですか。とんでもない。私たちの仕事場は、神の御心が実現した仕事場ですか。神の国ですか。私たちの家庭はどうでしょう。神の御心が完全に実現している家庭ですか。神の国ですか。子供たちの通う学校はどうですか。天に神の御心が実現しているように、この地の上に実現していますか。いいえ、実現してはおりません。

 だから、私たちは祈り続けているのです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。イエス様は、「このように祈りなさい」と言って、主の祈りを与えてくださいました。イエス様は、私たちが一生をかけて一心に求めるべきものを明らかにしてくださったのです。言い換えるならば、イエス様は私たちの人生の目的を与えてくださったのです。それは神の御心が成ことを求めて生きることです。私たちの人生はそのためにあるのです。主の祈りを真面目に祈っている人は、少なくとも「私は何のために生きているのだろう」などという悩み方はしないはずです。なぜなら、求めがはっきりしているからです。神の御心の成っていない悲惨極まりないこの世界に、神の御心が成るために、私たちは生きるのです。生きていくのです。

 しかし、私たちはもう一方で良く知っています。私たちは、この手で、この自分の力で、神の国を実現することはできません。神の御心を実現することはできません。この世界を支配する罪の力、死の力、悪魔の力、地獄の勢力の方が、圧倒的な現実として私たちに迫ってまいります。私たちの為しえることは、あたかも山火事に向かってコップの水を投げかけるようなことでしかないと感じます。私たちは、身近な一人の人間をも変え得ないような者ではありませんか。いやそれどころか、我が身一つどうすることもできないのです。それが私たちの現実です。

 ですから、一つのことは明らかなのです。私たちが主の祈りを真面目に祈るならば、その実現のためには、神様においでいただかなくてはならない、ということです。神様に来ていただいて、御心を実現していただくしかありません。だから神様を求めるのです。この世界に来て働かれる神の霊、聖霊を求めるのです。私たちの内に住んでくださり、私たちを用いて、私たちを通して働いてくださる神の霊、聖霊を求めるのです。聖霊によらずして、どうして地上に御心が実現するでしょうか。どうして、神の支配が実現するでしょうか。聖霊によらずして、どうして私たち自身の罪、また世界の罪が克服されることがあるでしょうか。そして、最終的にはキリストが再び来られることなくして、どうして救いが完成することがあり得るでしょうか。

 イエス様の弟子たちは、そのことを良く知っていたのだと思います。つくづく自分の無力さを知った人々だからです。彼らはキリストが十字架にかけられたときに、主を見捨てて逃げ去ってしまった人々です。この世の罪の前に、そして自分の罪の前に、完全に敗北した人々です。エルサレムの街角に見る景色の一つ一つが、自分の弱さと自分の罪にまつわる忌まわしい記憶を呼び起こしたに違いありません。ですから、彼らは神様においでいただくしかないことを知っていたのです。神の霊においでいただくしかなかったのです。父の約束してくださった聖霊を待ち望むしかなかったのです。

 だから、彼らは祈り求めて待ちました。待ち望みました。それが今日お読みした聖書箇所の背景です。そして、そのように祈り求めて待ち望んだ彼らは一同は、「聖霊に満たされた」と書かれているのです。その場面の描写は摩訶不思議なものです。このような箇所に奇異な印象を持たれる人もあろうかと思います。しかし、重要なのは、ここに描かれている不思議な出来事そのものではありません。その結果です。一同が聖霊に満たされた、ということです。

 私たちは、これを教会の誕生と見ることもできますし、教会の宣教の開始として見ることもできるでしょう。その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来事です。しかし、ここに語られています、「聖霊の満たし」そのものは一回限りの事ではありません。すぐ後の4章において、彼らは再び聖霊に満たされます(4:31)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)。

 要するに、ここの書かれていることは、ある意味では、私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。今日の箇所を読みます時に、単に「何か特別なことが起こった」と考えて読むことは、この箇所の正しい読み方ではありません。むしろ、「何か特別なことがそこから始まったのだ。そして今日に至るまで継続しているのだ。それはキリストの再臨に至るまで続くのだ」ということを考えて読まなくてはなりません。続いているのですから、私たちもまた同じことを求めるのです。聖霊の満たしを求めるのです。

聖霊の満たしを求めましょう
 そこで残された時間、聖霊に満たされるとはいかなることかを、なおこの箇所から共に考えたいと思います。今後、私たちが聖霊に満たされること、満たされ続けることを求めるならば、あの日に起こった出来事の本質をしっかり捉えておくことはとても重要なことだからです。特に二つのことに心を留めましょう。

 第一に、それが「五旬祭の日」に起ったことに注目しましょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(1節)と書かれているとおりです。五旬祭の一つの意味は「刈り入れの祭り」ですが、もう一つの意味は「律法授与の記念の祭り」です。出エジプトの後、荒れ野を導かれながら旅をして、シナイに着くわけですが、そこにおいて律法を与えられ、神と契約を結んだその出来事を記念しているのが、この過越祭から五十日後の「五旬祭」という祭りでした。

 しかし、聖書の伝えるところによりますと、この律法をイスラエルの民は守ることができませんでした。彼らは、律法に基づいた最初の契約を破ったのです。そこで神は預言者エレミヤを通して次のように語られたのでした。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31‐33)。これが新しい契約の預言です。このように、新しい契約における律法は、先に石の板に書き記された言葉として与えられるのではありません。心の板に書き付けられるのです。それは人間の為しえることではなく神の御業です。神の霊によるのです。

 「五旬祭の日」に聖霊降臨が起こったことは、まさにあの最初の律法の授与と同じように、エレミヤの預言した出来事が実現したことを意味します。ですから、聖霊の満たしを求めるということは、第一には、私たち自身の心に、神が律法を書き記してくださることを求めることに他ならないのです。言い換えるならば、私たち自身が、神に従順な者になることを求めることです。この世界に、私たちの周りに、神の御心が実現することを願うなら、まず私たちの心にそれが実現することを求めねばなりません。この世界が変わり、私たちの周りが変わることを求めるならば、まず私たち自身が変えられ、神に従順なものへと変えられることを求めるべきです。聖霊の満たしを求めるべき第一の意味はそこにあるのです。

 第二に、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(4節)と書かれていることに注目しましょう。

 私たちがここで思い起こしますのは、旧約聖書に記されている有名なバベルの塔の出来事です。創世記11章1節以下に出てくるその物語の中で人々はこう言っています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)。そこで神は彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまわれました。至って単純な話です。その町は「バベル」と呼ばれました。バベルという言葉は、混乱(バラル)という言葉から来ていると創世記は説明しています。

 単なる昔話ではありません。神に背を向けて、自らの力で「天まで届く塔のある町を建てよう」と言っている人間の傲慢な姿は、歴史を通じて少しも変わっていないからです。そこで互いの言葉が通じなくなり、混乱が生じている現実も、そのまま現代に当てはまります。単に多くの国語があるという事ではありません。同じ国語を語りながらも言葉が通じないということがいくらでも起こります。ある時には親と子の間で意志が通じません。言い換えるなら、言葉が通じないのです。夫婦の間で言葉が通じません。世代間で言葉が通じません。隣人同志でさえ言葉が通じません。人と人とが共に生きることができません。この世界はずたずたに引き裂かれた世界です。それは人間の傲慢さの結果に他なりません。

 しかし、ここで、あのバベルの塔の出来事とまったく逆のことが起こっています。彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。しかし、彼らはバラバラではありません。神の霊によって一つとされているのです。異なる言葉を話しながら、もはやバベルではありません。神の霊が彼らを満たし、支配しているからです。罪の支配は人と人との関係を分断します。しかし、聖霊の支配は異なる者たちを結びつけて一つにするのです。

 聖霊降臨によって宣教の働きが始まりました。あの五旬節に起こったことは神による一つのデモンストレーションに他なりません。あの時、起こった出来事によって示されているように、やがて神の言葉は、異なる言葉の異なる人々の中に宣べ伝えられていくのです。そして、神の霊によって、それまで対立していたユダヤ人とサマリア人が一つにされるのです。さらにユダヤ人と異邦人が一つにされるのです。それは聖霊によって実現するのです。

 このように聖霊の満たしを求めるということは、一つになることを求めることでもあるのです。単に個人的な霊的な体験を求めることではありません。これを間違えると、聖霊については語られていながら、みんながバラバラ、さらには互いにいがみ合っている、などということが起こります。

 「満たされていますか?」今日の説教題です。単に心が満たされているかどうかの話ではありません。聖霊に満たされているかどうかということです。もしそうでないなら、共に祈り求めましょう。この世界の悲惨について語る前に、私たちの身近な人々の罪を語る前に、まず、自分が神に従順になれるように祈り、さらに他者のために祈り、皆が一つとなることを求めて祈り、聖霊に満たされることを共に祈り求めましょう。

2013年5月12日日曜日

「平和のきずなで結ばれて」


2013年5月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~15節


神から招かれたのですから
 「神から招かれたのですから」――そう書かれていました。ここには140名ほどの人が毎週集まって礼拝を捧げています。お互い住んでいる地域も違う。育ってきた環境も違う。普通に考えるならば出会うはずのない私たちお互いが、一緒に心を合わせて讃美歌をうたい、共に祈っているのです。そこに改めて神の御業を見る思いがいたします。パウロはその神秘を指して「神から招かれたのですから」と言うのです。確かにそうです。私たちが共にいるのは偶然ではありません。「わたしが教会に来ようと決めて、わたしの意志で信じたのだ」と言う人がいるかもしれませんし、「学校から勧められて来ました」という人がいるかもしれません。しかし、これは単に人間の意志によって実現したことではないのです。「神から招かれたのですから」――そう、ここには神のご意志が働いている。神様が私たちを招いてくださったのです。

 神様は何のために私たちを招いてくださったのでしょう。もちろん、私たちをお救いになるために違いありません。イエス様がなさった「百匹の羊のたとえ」をご存じでしょう。群れから迷い出た一匹の羊を羊飼いが見つけ出すまで捜し求めるという話しです。そして、見失った一匹の羊を見つけたら、羊飼いは喜んでその羊を担いで家に帰る。そのように神様は人間を追い求めておられます。迷い出たまま滅びてしまうことがないように、追い求めてくださるのです。私たちをここに呼び集めてくださった神様は、そのように私たちを救うために、私たち一人一人を追い求めてくださった神様です。

 しかし、神様の与えようとしている救いは、ただ単に私たち個人の救いに留まりません。神様のなさろうとしていることは、もっと大きなことです。この手紙の一章にはこのようなことが書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(7‐10節)。

 私たちは御子の血によって贖われ、罪を赦されました。しかし、それで終わりではないのです。その先へと向かっている。神様の救いの業はやがて完成されるのです。神様が目指しておられるのは救いの完成です。それは「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」ことだと書かれています。私たちが罪を赦され、滅びから救われるというだけではなく、人間の罪によって神と断絶し、互いにズタズタに引き裂かれたこの世界そのものが救い主のもとに一つとされる。そこにこそ救いの完成はあるのです。

 その「救いの完成」という目的のもとに、私たちは招かれました。呼び集められました。ただ私たち自身の救いのためではありません。この世界が一つとされる前に、まず私たちがキリストのもとに一つとされるためです。そのように私たちが、最終的な神の救いの完成を指し示すしるしとなるためです。そのように救いの完成を指し示すのが教会という存在なのです。

招きにふさわしく歩みなさい
 ですから「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。既に述べてきたことから、「招きにふさわしく歩む」ということが何を意味するか、もうお分かりでしょう。それは「一つになろう」とすることです。人間の罪はバラバラにしようとする方向に働きます。その罪の力に抗って「一つになろう」という方向に歩いていくことです。「一つになろう」という方向に向かって生きていくことです。それが「招きにふさわしく歩む」ということです。そのためには当然、必要なことがあります。パウロの言葉はこう続きます。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(2‐3節)。

 ここには「霊による一致」と書かれていることに注意してください。単に人間の努力による一致ではないのです。肉による一致ではないのです。人間がそうしようと思えば一つになれると語るほどパウロはナイーブではありません。聖書は極めて現実的な書物です。人間の罪の深刻さを知っているからです。ですから、あえて「霊による一致を保つように」と書いているのです。それは神の霊のお働きによる一致です。

 私たちは「一つになろう」とすることはできますが、私たちの力によって「一つになる」ことはできません。一つにするのはあくまでも聖霊のお働きです。ですから、私たちにとって重要なことは、その働きの邪魔をしないことなのです。ですから「保つように」と書かれているのです。この「保つ」という言葉は、看守が牢獄を見張るという意味で使われる言葉です。聖霊による一致を邪魔するものや壊すものが入り込まないように、見張らなくてはならないのです。

 たとえば、私たちの「高ぶり」が「へりくだることの欠如」が聖霊による一致を壊します。「私が、私が」という肉の頑張りや肉の誇りが霊の働きを邪魔します。忍耐のなさが、一致を妨げることがあるでしょう。具体的にどうしたら良いのでしょうか。四つのことが挙げられています。守る者が常にチェックしていなくてはならない四つのチェック項目です。謙虚であること、柔和であること、寛容であること、愛をもって忍耐すること。他人をチェックする必要はありません。それぞれが自分をこの四点において省みる時に、平和の絆で結ばれて、聖霊による一致は保たれるのです。

異なることを重んじる
 そのように「招きにふさわしく歩む」とは一つになろうとする事だと申しました。そして、パウロは畳み掛けるように、「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4‐6節)と語ります。ここで強調されているのは明らかに「一」です。「一」であることが重要なのです。

 しかし、それは多様性が否定され、個が全体の中に解消されてしまうような、全体主義的な一致を意味しません。パウロは言います。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。ここには「一人一人」の話が出てくるのです。一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。そのことについては、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章にも記されていますが、ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものですが、いずれにせよ、ここで言いたい最も重要なことは、主が異なる働きを各自に与えているということでしょう。

 私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。同じように他の人に与えられていないものが自分にも与えられているのですから。与えられている賜物が異なるならば、務めも異なるのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありません。大事なことは、互いに異なるものが一緒に「キリストの体を造り上げ」(12節)ていくことです。

成熟を目指して
 パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。その目標はどこにあるでしょう。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(13節)と書かれているように、「成熟」しなくてはならないのです。

 ここで間違ってはならないのですが、「成熟した人間となり」というのは、各自のことではありません。これは「単数」ですから、キリストの体である教会のことです。教会が成熟し、「大人」になるということです。それは「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」(13節)ということだと書かれています。

 私たちはお互い与えられている賜物は異なります。務めは異なります。他の人と同じである必要はありません。しかし、信じている事柄においては一つでなくてはなりません。信仰だけでなく「信仰と知識において」と書かれています。何を信じているのか、ということを「知っている」ということです。その知識を伴った信仰において一つになる――それが成熟した教会です。ですから世々の教会は「信仰告白」を様々な形で言葉にしてきたのですし、その信仰の内容を共に祈り共に学ぶことを大切にしてきたのです。

 そのように「一つになる」ということは単に「仲がいい」ということではありません。皆が何を信じているのか曖昧なまま、ただ「仲がいい」だけの教会があったとするならば、それは分裂している教会よりは良いかもしれませんが、それは成長においてはいわば幼稚園児のレベルと言わざるを得ないでしょう。そのような教会であるならば、時代の思想の風が吹き荒れる時には、その風に翻弄されることになり、あるいは倒れてしまうことになるでしょう。

 そうならないように、しっかりと大人にならねばならないとパウロは言うのです。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(14‐15節)。これが私たちの教会です。平和のきずなで結ばれた私たちが「愛に根ざして真理を語る」ことのできる教会として、キリストの満ちあふれる豊かさに至るまで成長していくことを共に求めていきましょう。

2013年5月5日日曜日

「主イエスの教える祈りの世界」


2013年5月5日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章5節~15節


 今日の福音書朗読は、イエス様がその「主の祈り」を教えてくださった場面です。「主の祈り」は呼びかけの言葉からはじまります。「天におられるわたしたちの父よ」。祈りは瞑想ではありません。「主の祈り」が呼びかけから始まっているように、祈りは語りかけている相手をはっきりと意識した上での語りかけです。誰に語りかけているのでしょう。私たちが信じている神様は、天地の造り主です。万物を統べ治めておられる全地の王です。そのような御方に呼びかけるのですけれど、その時に「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさいと、イエス様は教えてくださいました。

 「父よ」とありますが、イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」という言葉です。アラム語の「アッバ」という言葉のままで、聖書には三回ほど出てきます。イエス様御自身が祈りの時に使っていた言葉です。これは幼い子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。圧倒的な父親の権威に対して恐れおののきながら使う言葉ではありません。むしろ親しみと愛情を込めた呼びかけです。そのように「父よ―アッバ」と呼びかけなさいとイエス様は言われたのです。

 そこで何を祈るのでしょう。イエス様は「アッバ」と呼びかける子どもたちが口にすべき六つの祈りの言葉を教えてくださいました。「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。そして、さらに「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(11‐13節)。

父に愛されている子どもたちとして
 通常、私たちが「祈り」ということでイメージしますのは、「ください」が付く後半部分の方でしょう。ですので、そちらを先に見ておきましょう。

 イエス様は「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと言われました。このようなイエス様の言葉を聞きますと実に安心します。「こんなことを神様に求めて良いのだろうか」と祈りについて迷いを覚えたことのある人はいませんか。他の人が美しい言葉でいかにも高尚な求めを口にしていることを耳にするときに、自分の祈りが極めて低俗なものに思えたことはありませんか。しかし、イエス様は「ご飯食べさせてください」と祈りなさいと教えてくださったのです。そうです。そのようなことでもお祈りしてよいのです。

 「糧」は必要なものの代表です。マルティン・ルターはこの「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いていました。例えば、「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」と。要するに、私たちが生きていく上で、生活していく上で、しかも幸いに生活していく上で必要なありとあらゆるもの。それがこの「必要な糧」が代表しているものなのです。それはすべて愛されている子どもたちとして父に求めたらよいのです。

 そして、主はさらにこう祈るように教えられました。「わたしたちの負い目を赦してください」と。私たちに必要なのは、「糧」の類だけではありません。それ以上に、私たちは「赦し」を必要としている者なのです。そして私たちに必要な「赦し」は、最終的には人からではなく神様によって与えられねばなりません。それは私たちがやがて死の床において、もはや誰にも具体的に赦しを求め得なくなる時が来ることからも明らかでしょう。ですから神様に求めたらよいのです。「わたしたちの負い目を赦してください」と。

 しかし、そこには一言加えられております。「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。イエス様は、父の赦しと私たちの赦しを結びつけて語られるのです。14節以下に改めて語られていますでしょう。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(14‐15節)。

 実に厳しい言葉です。しかし、ここで改めて考えてみる必要があります。そもそも私たちは「父よ」と呼びかけて祈るのですが、それは当たり前のことでしょうか。それは本来、あり得ないことでしょう。私たち人間はどれほど神様に背いてきたことか。私たちがまことの神の御前に出るならば、裁きを恐れておののかざるを得ないはずです。最終的にこの世界を正しく裁く権威をお持ちである御方に対して、イエス様がしていたのと同じように「アッバ、父よ」と親しみを込めて呼びかけることなど、本来できようはずもありません。

 しかし、そのあり得ないことが許されているのです。それはイエス様が「こう祈りなさい」と言ってくださったからです。イエス様だから言うことができたのです。なぜならこの御方こそ、神の赦しを携えて来てくださった御方だからです。罪ある人間がなお神の御前に出て「父よ」と呼ぶことができるために、何が為されなくてはならないかを、イエス様はよくご存じでした。それは父の御心に従って、イエス様御自身が罪の贖いの犠牲となることでした。十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださることでした。神を「父よ」と呼べるのは、既に神が赦しの恵みをもって私たちを神の子どもたちとして受け入れてくださっているからなのです。その大いなる赦しの中にある子どもたちとして、私たちは互いに赦し合って生き、また日々の罪の赦しを神に求めながら生きていくのです。

 そして、さらに主は「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈りなさいと教えてくださいました。「罪を赦してください」という祈りが真剣になされるようになるならば、また罪への誘惑の問題も切実に感じられるようになってくるのでしょう。「悪い者から救ってください」。この「悪い者」とは悪魔のことです。すべてのものは悪魔の誘惑となり得えます。富も貧しさも、成功も失敗も、恋愛も失恋も、健康も病気も、私たちの人生に起こるすべてのことは、悪魔の誘惑となり得るのです。私たちは信仰者として生きていけることを、当たり前のことと考えてはなりません。イエス様が教えてくださったように、父の助けを求めるべきなのです。誘惑に陥るのは、祈らぬことの結果であるとも言えるのです。

父を愛する子どもたちとして
 さて、このように私たちは、父に愛されている子どもたちとして、必要なものはすべて天の父に求めながら生きていったらよいのです。そのように、私たちの信仰生活とは、父に愛されている子どもたちとして、父なる神に依り頼んで生きていくことです。

 しかし、「父に愛されている子どもたち」として生きるだけでなく、「父を愛する子どもたち」として生きていくことは大事なことです。子どもが父を愛する時、子どもは父の関心事を共有するようになります。父の関心事が子どもの関心事ともなります。父の望んでいることを子どもも望むようになります。父がどのようなことを考えているのか、父を愛している子どもなら、もっともっと知りたいと願うようになるでしょう。そして、父が願っていることが実現することを、子どもも願うようになるでしょう。そのような親子の関係こそ、イエス様が地上において私たちに見せてくださった関係であり、私たちがまたそこに招かれている関係なのです。

 そこで、父を愛する子どもたちとして祈る、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。主の祈りの前半部分です。

 「御名が崇められますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において神の御名が汚されているという現実があるからでしょう。主の御名が神聖なものとされていない。神が神とされていない。むしろ神様は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われてきたのです。

 「御国が来ますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において今、現に目にしているのは御国ではない、という現実があるからでしょう。神ならぬものの支配。私たちがこの世に目にしているのは罪と死の支配であり、悪魔の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることはまた、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。私たちが目にしているのは、神の御心に反することが厳然として行われている世界です。

 父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられたのでしょう。父の御名が崇められ、御心が地上で行われることを誰よりも願っていたのはイエス様だったのでしょう。その御子なるイエス様の心を共にして祈るようにと、イエス様は主の祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。

 「このように祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」ということは、それを実現するのは神様御自身だということです。神様の御名が崇められるようになること、神の御国が来ること、神の救いの御心がこの地上において実現することは、すべて神の御業なのであり、神様御自身の戦いなのです。しかし、父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。そのように父が御自分の心を共有し、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈る子どもたちを求めておられるゆえに、私たちはキリストによってここに集められているのです。

 そのことを思います時に、私たち自身の求めがいかにこの三つの祈りから遠いかをも思わせられます。むしろ信仰生活において私たちが求めているのは、御名とか御国とか御心についてではなくて、私たち自身のことばかりではないか。自分の平安、自分の喜び、充実した人生、楽しい交わり。それらが少しでも欠けると不満を覚えて「なぜですか」と問う。しかし、むしろ問われているのは私たちの側なのです。あなたはいったい何を求めて生きているのか、と。そうです問題は「主の祈り」が自分の祈りになっているか否かなのです。

 さて、そのような「主の祈り」を自分の祈りとするためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様が教えてくださった祈りの世界に私たちもまた共に生きるためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様が教えてくださったように、まずは呼びかけから始めましょう。私たちのために十字架におかかりくださったイエス様から「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉を受け取りましょう。全地の王なる御方を「アッバ、父よ」と呼べるということ、罪ある私が滅ぼされるのではなくて神の子どもとされているという驚くべき事実にまず私たちの思いを向けましょう。そして、神様の大きな憐れみと赦しを思いつつ呼びかけてみましょう。「天におられるわたしたちの父よ」と。

2013年4月28日日曜日

「闇は去り、光が輝いている」


2013年4月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 2章1節~11節


古くて新しい神の掟
 今日お読みした箇所では、ヨハネが次のようなことを書いていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(7‐8節)。一回読んだだけで分かりますか。どうも分かりにくい言葉です。「新しい掟」と言い「古い掟」と言う。ヨハネさん、いったいどっちなんですか?そう言いたくなります。

 しかし、改めてじっくり読みますと、どうも古くて新しいところが肝のようです。この手紙に「掟」という言葉が繰り返されている。その前には「神の掟」という言葉も出てきます。この手紙において「掟」あるいは「神の掟」と語られた場合、その内容は明確です。それは愛することです。互いに愛し合って生きることなのです。例えば次章においてこう表現されています。「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。これらの言葉は最後の晩餐においてイエス様が語られた言葉に基づいています。主はこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

 「愛する」ということについては言えば、それはことさらに新しいことが命じられているわけではありません。既に旧約聖書に語られていたことです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。そして、イエス様が語られた「互いに愛し合いなさい」という言葉も、この手紙を受け取った人たちは、もう信仰をもったはじめの頃から聞いていた言葉なのです。ですから、「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」とヨハネは言っているのです。

 しかし、先にも触れましたように、最後の晩餐においてイエス様はそれを「新しい掟」と呼ばれました。「新しい掟」と言って手渡してくださったのです。ならばそこにはやはり特別なことがあるのです。特別な新しさがあるのです。ヨハネはそこに注目させようとしているのです。

 では、その新しさとは何でしょう。どうしてイエス様は「新しい掟」と呼ばれたのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。「既にまことの光が輝いている」。その「まことの光」とは神の愛の光です。イエス・キリストを遣わしてこの世界に現してくださった神の愛の光です。神は実に独り子をお与えになるほどに、この世を愛してくださった。神に背いている私たちを愛してくださいました。私たちが罪の中に滅びてしまうことがないように。私たちの罪を赦して救うために、独り子さえも与えて、十字架にかけて、私たちの罪を贖ってくださった。その神の愛の光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事のもとで、その光の中でこう語られているのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。神の愛そのものであるイエス・キリストを通して与えられているのです。そこにこそ新しさがある。ですから、イエス様は「新しい掟」と言われた。ヨハネもまた、「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」と言っているのです。

既にまことの光が輝いているのだから
 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。にもかかわらず、そこでなお「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に背を向けるとするならば、それは何を意味するでしょうか。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものです。あるいは、既に明るい光の中を歩いているはずなのに、自ら目をつぶってしまって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 ここに「光の中にいる」という言葉が出てきました。翻訳聖書ではわざわざ鉤括弧に入れられています。というのも、実は、教会の中にはそのように言っている人々が実際にいたからです。今日の朗読箇所には別の表現も出てきました。4節の「神を知っている」という言葉です。そうです、その当時の教会に、自分たちは特別な知識を与えられて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシスと呼ばれるようになる異端の人々です。

 当時、この肉体を牢獄と見る思想がありました。彼らは自分自身を、その牢獄から解放されて神と一つとなった霊の人であると見なしていたのです。その思想はさておき、人が「神を知っている」とか「光の中にいる」と主張し、自分を「霊の人」と呼ぶからには、明らかにその背景にはある種の体験があると考えられます。いわゆる神秘的な体験というものがある。そのような体験を持つ人は、当時においても、また今日においても、決して珍しくありません。しかし、そのような神秘的な体験がイコール「神を知ること」であり、「光の中にいること」であり、「霊的な人間になること」になるのでしょうか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と。

 神秘的な体験というものは往々にして周りを見えなくさせるものとしても働きます。神秘的なスピリチュアルな世界だけが重要になって、現実のこの世界のこと、現実に目に見える隣人との関わりなどはどうでも良いことに思えてくるのです。実際に、先に述べた人々は肉体から解放されてしまっていると思っているので、実際にこの肉体が何をやろうともはや重要なことではないと考えた。しかし、当然のことながら、そのような意識でいる限り、「愛する」ということは人生の課題とはなりません。否むしろそこでは対立が起こり、争いが起こってくる。神を知っていると言いながら、もう一方において「兄弟を憎む者」となるのです。

 忘れてはなりません。イエス様は、現実に私たちと同じこの肉体を取って、この現実の世界の中に来られて、現実の人間との関わりの中に身を置いてくださったのです。そして、自らその身をもって、救いの業を実現してくださったのです。そのようにして、その身をもってこの世界を愛し、私たちを愛してくださったのです。明らかに神にとっては目に見えるこの世界、目に見える体をもっている私たちお互いのことが重要なのです。

 この世に来られたイエス・キリストにおいて、神の愛はこの世界のただ中で光り輝きました。既にまことの光が輝いています。そのようにこの世に来られた神の愛そのものである御方が言われるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

 既にまことの光が輝いているのです。私たちは暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こりますか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。

 「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との間の問題でつまずくのです。そのような時、他者のゆえにわたしはつまずいたと思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。

 いや、つまずくだけだったらまだ良いのです。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」。目をつぶったまま、突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。私たちはもう一度、ここに語られている言葉を心に留めましょう。既に光は輝いています。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。私たちは光の中を歩いていくことができるはずなのです。暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。今まで暗闇の中に身を置いていたならば、ここから再び光の中を歩み出しましょう。

2013年4月7日日曜日

「新しい天と新しい地の創造」


2013年4月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 65章17節~25節


救いの世界の縮小版
 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と主は言われます。そのように、神様が実現してくださる最終的な救いを聖書は「新しい天と新しい地の創造」と表現しています。「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、神によって造られた世界の全体です。この全宇宙を含め、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われるのです。

 そのように語られた時点で、事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。というのも私たちは被造物世界のほんの小さな一部分に過ぎませんから。私たちが見ていること、人類が知っていることは、「天と地」のごくごく一部でしかない。いやほとんど知らないに等しいのです。そのような私たちが「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と語られても、もはや考えることも想像することもできません。言い換えるならば、そのように神様は私たちの想像の及ばないようなことを最終的に私たちの救いのために実現してくださるということです。「新しい天と新しい地を創造する」とはそういうことです。

 そのように神が最終的に私たちのために実現してくださる救いは本質的に私たちの想像を遙かに超えています。しかし、「想像も及ばない」で終わってしまうと、それは喜びにも希望にも繋がりにくいことは事実でしょう。どんなに素晴らしいことが起こるのか、想像できませんから。

 そこで、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださるのです。それが18節以下に書かれていることです。「新しい天と新しい地の創造」という途方もなく大きな事柄を縮小して、ものすごく小さくして語り直してくださる。そのように救いの全体の極々一部分に限定して、いわば大きなウエディングケーキの端っこのクリームをちょっと取って舐めさせる程度のことを語られるのです。そのように、神様は「新しい天と新しい地の創造」という大きな事柄を極端に小さくして「新しくされたエルサレム」の描写として語り直してくださるのです。

 神の御業によって新しくされた町とそこに生きる救われた人々。これでしたらイメージできます。もちろんクリームをちょっと嘗めることとケーキそのものを食べることは違います。しかしそれでも、ケーキについてなにがしかを味わったことにはなります。同じように、この新しいエルサレムとそこに生きる人々の描写を通して、神様が最終的にしようとしていること、神様が与えようとしている大いなる救いの片鱗に触れることができるのです。

長寿が祝福となる世界
 そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)と書かれているのです。神様が与えてくださる救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは興味深いことだと思いませんか。もちろん、それは私たちの想像の枠内に入るようにそう語られているのですが、そうであっても、救いの世界が「長寿の世界」として表現されていることは注目に値します。

 実際、この世における「長寿」について考えてみてください。この世において「長寿」は祝われます。しかし、現実的に考えて「長寿」は単純に「救い」とつながりますでしょうか。「長寿」は単純に「祝福」と見なされ得るでしょうか。日本は世界一の長寿国です。しかし、日本のお年寄りは幸せでしょうか。確かに教会では多くのお年寄りの素敵な笑顔に出会います。しかし、現実にこの世の中には早く死にたいと思っているお年寄りはいくらでもいるのです。わたしが以前出会ったある方は、聖書を初めて読んだ時に「永遠の命」という言葉を見てこう思ったそうです。「そんなもの、いらねえ」と。永遠に死ねないなんて、たまったものではない。永遠の長寿なんて、そんな恐ろしいものはいらない。もちろん聖書が語る「永遠の命」は永遠の長寿のことではありません。しかし、そう言った人の気持ちは分かります。「長寿」は単純に「救い」とはならないのです。

 長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われていきます。神が喜び楽しませてくださるのでなければ、喜びや楽しみは失われていくのです。それゆえに、神が喜び楽しませてくださるのでなければ、長寿は祝福とはなりません。

 いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)と語られているのです。真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神の備えていてくださる救いの世界はそのような世界です。

狼が小羊と共に生きる世界
 そして、その喜びは21節以下に書かれていることと深いところで結びついています。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21‐22節)。

 ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住むことはない。植えたものを他人が食べることはない。そう書かれているのです。この逆を考えてみてください。自分が建てたものに他人が住む。自分が植えたものを他人が食べる。それはすなわちそれらを他人に奪われるということでしょう。つまり、このように語られているのは、もう一方において現実には、奪われることに怯え、労苦が無駄になることに怯えて生きざるを得ない世界があるからです。奪い合う世界が厳然として存在し、そのような奪い合う世界の中に私たちは生きているからです。小さな家庭の中の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史に他ならないのです。

 しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることへの恐れが取り去られた世界です。害される恐れが取り去られた世界です。なぜなら神が近くおられ、神が治めてくださるからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(24節)と書かれていますが、それほどに神は近くにおられ、現実に介入され、その御力をもって治めてくださる。救いの世界とはそのような世界です。

 いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は奪われる者を奪う者から守ってくださるだけでなく、奪われることへの恐れを取り除かれるだけでなく、奪い合う悪そのものを取り除かれるのです。奪い合いそのものにピリオドを打たれる。害し合う悪そのものを取り除かれる。そして、皆が本当の意味で共に生きるようになるのです。25節に表現されているのは、そのような世界です。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。そのように共に生きる世界にこそ、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。

新しい天と新しい地を味わいながら
 さて、このような聖なる山、エルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。大きなケーキの端っこのクリームの味わいでしかありません。しかし、これらの言葉から少なくとも神様は私たちについて何を望んでおられるのかは分かります。主は奪い合い害し合う悪そのものを取り除こうとしておられる。私たちが真に共に生きる世界を望んでおられる。そして、そこにおいて長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。私たちの思いを遙かに超えた仕方で、新しい天と新しい地の創造としか表現できないような仕方において、実現してくださるのです。

 さらに言うならば、私たちはそのような新しい天と新しい地を想像もできないものとして待ち望むのではなくて、その一部を味わいながら待ち望むことが許されているのです。先ほどは、このようなエルサレムの描写がケーキの端っこのクリームだと申しましたが、私たちはそれを聖書の中に読むだけでなく、実生活の中で味わう恵みが与えられているのです。それはパウロも次のように言っているとおりです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。そのように、私たちは今から新しく創造された者として生き始めることができるのです。

 私たちが神様の御支配を受け入れて、神のもとで、聖霊の働きによって、奪い合い害し合う悪が本当に小さな規模においてでも終結し、互いに愛し合って生きることが小さな規模においてでも実現する時に、そこで私たちは新しい天と新しい地の片鱗に触れるのです。 あるいは、私たちの人生において、たとえこの世から受ける喜びが失われていったとしても、共に神を礼拝する中で、共に聖餐を分かち合うまさにここにおいて神から喜びをいただくならば、私たちは新しい天と新しい地の片鱗に触れることができるのです。それこそ長寿が祝福となるような喜びを私たちは神様からいただくことができる。そのようにして、私たちは神が最後に与えようとしている新しい天と新しい地の端っこを、いわば味見しながら生きることができるのです。それが私たちの信仰生活です。

2013年3月31日日曜日

「終わりではありません。始まりです」


2013年3月31日 イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節〜10節


墓を見に行った婦人たち
 「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。そう書かれていました。「墓を見に行った」――いいえ、本当はそれが目的ではありませんでした。他の福音書を読むと分かります。彼らはイエスの遺体に香油を塗りに行ったのです。葬られた時は安息日に入る直前だったので、遺体の処置が十分にできなかったからです。彼らはイエス様をふさわしく葬りたかった。そのために墓に行ったのです。しかし、今日の箇所ではそれを「墓を見に行った」と表現するのです。

 「墓を見に行った」。その彼女たちについては、たいへん印象的な姿が聖書の中に描かれています。イエス様が十字架から降ろされ、葬られた場面です。イエス様が葬られたのは、ヨセフという人の持っていた墓でした。その人が総督ピラトのところに行ってイエスの遺体の引き渡しを願い出ました。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」(27:59‐60)と書かれています。そして、こう続くのです。「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(61節)。あの二人です。ヨセフが立ち去った後もそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。

 彼女たちが墓の方を向いて座り、墓を見つめていたのは、その中にイエス様がおられたからです。そこがイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。いや、それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。イエス様との出会いがありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅した時のことが思い起こされたでしょう。喜びも悲しみも共有しながら歩んできました。しかし、その彼女たちが行き着いたのは、イエス様の葬られた墓でした。

 イエス様が捕らえられた時、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。そして、彼女たちの目の前で、イエス様は息を引き取りました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。彼女たちが見つめていた「墓」は、まさにすべてが終わったという事実そのものでした。

 それは墓の持ち主であったヨセフにとっても同じだったろうと思います。ヨセフが総督ピラトに遺体の引き渡しを求めることができたのは、彼がユダヤの最高法院の議員だったからです(マルコ15:43)。彼はイエス様に対して有罪判決を下して死刑を言い渡したあの最高法院の一員だったのです。ヨセフはわかっていたと思います。このナザレのイエスという方は死罪に当たることは何もしていない。真夜中に行われた裁判は明らかに異常であること。その判決はどう見ても正しくはないこと。分かっていたのだと思います。しかし、彼は声を上げなかった。彼は黙っていたのです。そして、判決は下された。そして、結果的にはローマ人の手によってですが、イエスは処刑されて死んでしまったのです。

 ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思ったのでしょう。ですから自分の墓を提供したのです。申し訳ない思いで一杯だったかもしれません。しかし、遺体を自分の墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。自分の無力さ、自分もまたその一部である宗教的権威の醜さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな罪、それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。自分は正しい人を見殺しにした。ヨセフにとってはこれが結論でした。終わったのです。すべては終わったのです。彼が提供した墓は、まさにすべてが終わったという事実そのものでした。

 さらに私たちは今日の箇所に登場しない人々のことも思い出す必要があります。イエスの弟子たちです。彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロであることを私たちは知っていますし、イエスを残して逃げてしまった弟子たちであることを私たちは知っています。

 ペトロは、他の弟子たちは、イエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いものなのかも知れません。終わったのです。すべては終わったのです。彼らにとっても、イエスが葬られた墓は、すべてが終わったという事実そのものでした。

あの方は、ここにはおられない
 そのような「墓」を彼女たちは見に行った。それが今日の聖書箇所に書かれていることです。そこにイエス様がおられるから。すべてが終わったところに、イエス様がおられるから。そうです、彼女たちはすべては終わったという事実を彼女たちはもう一度見るはずでした。しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見たのです。それこそ私たちがイースターにおいて聞くべき、聖書の伝えている使信です。教会が語り伝えてきた福音なのです。

 彼女たちは何を見たのでしょうか。マグダラのマリアともう一人のマリアがまず見たのは、転がされた大きな石、そして開かれた墓の入り口でした。主の天使が石をわきへ転がしたと書かれていますが、その意味するところは神が転がしたということです。神がなさったことがそこにあった。それは何なのか。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあるからです。そこにイエスはおられない、ということです。主の御使いは彼女たちにこう言ったのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。

 そこで彼女たちが見たのは、終わりではなく、新しい始まりだったのです。終わりであると思われたところにキリストはおられなかった。神によって復活させられたキリストは、もうそこにはおられなかったのです。神によって復活させられたキリストは既に墓から歩み出しておられたのです。先に進んでおられたのです。神によって新しいことが既に始まっていたのです。

 これが教会の信じてきた神様です。私たちの信じている神様です。神は「終わり」を「始まり」に変えることのできる御方です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっているのです。墓で終わっているのです。教会も存在していいないのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、キリスト教会が存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。

 あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見ただけではなく、そこから歩み出されたキリストにお会いすることとなりました。そこでキリストはこう言われたのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 こうして、今度は彼女たちが伝える人になりました。終わりではないこと。神は終わりを始まりに変えてしまわれたこと。神によって終わりが始まりとなったこと。もうキリストは先に進んでおられること。先に進んで待っていてくださること。だから、あの弟子たちもまた立ち止まっていてはいけないこと。これが結末だ、これが結論だ、「もう終わりだ」と思っているところから歩み出さなくてはならないということ。そう、キリストが先に行って待っていてくださるから。既に始まっているから。だから彼らも絶望の中から、また後悔と自責の中から新しく歩み出さなくてはならないのです。

 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。そう主は言われました。ガリラヤは弟子たちがイエス様に出会った場所です。あの日、この不思議な魅力に溢れた御方が突然現れ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。そうです、すべてはそこから始まったのです。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。

 しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。

 神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、いわば神の恵みによって新たに生かされた者として、一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから始まったのです。

 そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられてきました。そのようにして、私たちにもキリストの復活が伝えられました。そのようにして、私たちもまたキリストの復活を信じる集まりへと招かれたのです。あの弟子たちにとってそうであったように、ここにいる私たちにとっても、もはや絶望としての《終わり》はありません。常に新しい始まりがそこにあります。いかなる人生の途上の出来事も、いかなる挫折も失敗も敗北も、私たちにとっては終わりではありません。主の十字架に基づいて常にそこには新しい始まりがあります。死でさえも終わりではありません。十字架に基づいてそこには新しい始まりがあります。この世界の終わりでさえも私たちにとっては終わりではありません。十字架に基づいてそこには新しい始まりがあります。神は終わりを始まりにすることができる御方です。その神の御業を喜び祝いましょう。共にキリストの復活を祝いましょう。
イースター、おめでとうございます。

2013年3月17日日曜日

「すべては努力次第?」


2013年3月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章1節〜11節

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 本日の礼拝においてはローマの信徒への手紙の8章が読まれました。5節をご覧ください。このように書かれています。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。ここに二通りの人間が出てきます。「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」です。二通りの生き方、と言ってもよいかもしれません。人は「肉に従って」生きることもできますし、「霊に従って」生きることもできるのです。

肉に従って歩むのではなく
 「肉に従って歩む者」という表現は、私たちの日常においては使われません。これは聖書における独特の表現です。しかし、「肉」という言葉から連想されるのは「肉欲」という言葉でしょう。ですので、そこから肉欲に振り回されて放縦な生活をしている人を想像する人がいるかもしれません。不道徳なだらしない人を思い描く人もいることでしょう。

 しかし、「肉に従って歩む者」と言う時、第一に念頭においているのは、恐らくはこの手紙を書いているパウロ自身のかつての姿なのです。それは7章と8章を続けて読むと分かります。今日はお読みしませんでしたが7章には例えばこのような言葉が出てきます。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:14‐15)。明らかにパウロは自分自身の経験を下敷きとして「肉の人」について語っているのです。

 そうしますと、「肉に従って歩む者」とは単に不道徳なだらしのない人のことではありません。というのもパウロは恐らくここにいる私たちの誰よりも道徳的に真面目に生きてきた人であったからです。しかし、そのような彼もまた「肉に従って歩む者」だったのです。では「肉に従って歩む者」とは何を意味するのでしょう。

 パウロはファリサイ派に属するユダヤ人でした。彼にとって宗教とは神の律法を学び、神の前に正しい人間となり、救いを獲得し永遠の命に至ることでした。そのような理解は私たちにも馴染みがあります。この国においても、宗教の中心は善い教えを学び、正しい生き方を身につけることあると考える人は、恐らく少なくはないでしょう。教会に行き始めてしばらくした時、家族の方から「お前は教会で何を学んでいるんだ。やることなすこと、少しも変わっていないじゃないか」と詰られた経験はありませんか。」そのような言葉の背後には、「教会とは何か善い事を学んで善い人間になるところだ」という理解があるわけです。

 あるいは、宗教の目的を道徳的行為に見るのではなく、心理的な安定に見る人もいるでしょう。何が起ころうとも揺るがない心を持つこと。常におだやかな心をもって生活できるようになること。そうなるために信仰は大きな意味を持っていると考える人もまた少なくないことでしょう。

 そのように、宗教について考える時、ある人は重点を人間の行為に置き、ある人は重点を人間の心理的な状態に置きます。そして、この二つは異なるように見えて、実は共通しているものがあります。何でしょうか。それは「人間の」ということです。行為にせよ心にせよ人間に属するものが中心であることに変わりはありません。どちらにしても人間のことに関心の中心がある。言い換えるならば関心の中心には「わたし」がいるということです。「私はどれだけ変わっただろうか。」「私の心はどれだけきれいになったか。」「私はどれだけおだやかに生きられるようになったか。」そのようなことを言いながら、いつでも自分のほうに関心を向けているのです。

 分かりますでしょう。これが「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」ということなのです。体も精神も、共に肉です。それはすなわちあくまでも生まれながらの人間に属する事柄だということです。行動も心理的な変化も、皆、肉に属する、生まれながらの人間に属することです。「肉に属することを考える」ということは、言い換えるなら「神に属すること、霊に属することには関心がない」ということです。神の御業、神の霊の働きには関心がないということです。

 これに対して、「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とパウロは言います。霊に従って歩む者は、こちら側に目を向け続けるのではなく、あちら側に目を向けます。信仰において本来中心であるのは人間ではなく神様だからです。霊に従って歩む者は、神の御業に関心を向けます。神が何をしてくださったか。神が何をしてくださっているか。神が何をしてくださろうとしているのか。そこに関心が向けられます。「霊に属することを考える」とは、そういうことです。

 そのように「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」「霊に従って歩む者は、霊に属することを考える」という二通りの生き方について語り、さらにこう続けます。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(6‐8節)。

 肉に属することを考え、肉に従って歩むということは、先にも申しましたように、それ自体は必ずしも不道徳なことを意味しません。一般的に言いまして、それは極めて真面目な営みとも見えるのです。「私の努力」「私の精進」「私の向上」「私の心の変化」に関心を向け、すべては「私の努力次第だ」と考えることは、悪いことには思えないでしょう。神様について語られるよりも、「すべてはあなたの努力次第ですよ」と言われる方が正しいように聞こえるものではありませんか。パウロはそのような私たちの常識を覆すのです。しかし、それこそまさに「肉の思い」なのです。そのように考えている人は、神に喜ばれることはできない。いやむしろ神に敵対しているのだ、と言われているのです。神の御心にかなわないのです。それは一見神の律法に従っているように見えても、実は従っていないのだと言うのです。

神の霊が宿っているのだから
 神が望んでおられるのは、私たちが肉に属することを考え、人間の方に向いて、自分の方を向いて「すべては自分の努力次第だ」と言って生きることではなく、「霊に従って歩む者」として生きることなのです。すなわち霊に属すること、神の御業を考えて生きることなのです。

 そこでパウロはさらに次のように語ります。9節以下をご覧ください。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言います。これは「神の霊がもし宿っているとするならば…」と言う意味ではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉です。キリスト者として生きるということは、神の霊を宿した者として生きることです。パウロはまずその事実に目を向けさせるのです。

 パウロは一方において、私たちがこの世に生きる人間である限り肉の内には罪が住んでいると語ります(7:18‐20)。しかし、もはやただ罪が住んでいるだけではありません。神の霊が宿っていてくださるのです。そして、神の霊が宿っているかぎり、肉ではなく霊の支配下にあるのです。それゆえ、罪との戦いは継続しているにしても、「すべては私の努力次第」と言って、孤軍奮闘している者のように生きる必要はないのです。

 そして、神の霊が宿っているという事実について幾つかの言い換えがなされています。「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられています。さらに、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(10節)と言います。神の霊、すなわちキリストの霊が宿っているということころに、キリストが現臨されます。いわば復活のキリストが内に住んでくださるということです。

 もちろん、キリストが内に住んでくださると言いましても、罪が無くなってしまったわけではありませんから、死もあるわけです。神の霊に敵対する罪を宿す体ですから、これは死ななくてはなりません。体は死に行く体です。しかし、キリストのおられるところに義があります。キリストを通して与えられた神の義があるのです。義のゆえに、神から切り離された者ではありません。命につながっているのですから、命がそこにあるのです。永遠の命は死後に与えられるのではなく、未だ罪との格闘激しい現在において、既に与えられているのです。聖霊が与えられていること自体が義によって命となっているのです。

 さらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれております。この呼び名は、キリストの復活と私たちを結び付けます。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。このようにキリストを死者の中から復活させ、栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。

 これは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。戦いはやがて終わるのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。

 パウロは、キリストに結ばれた者が聖霊の支配のもとにあることを思い起こさせます。キリストに属する者とされ、神の霊が与えられているということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることを意味するのです。そうです。事は始まっているのです。パウロが語っているのは神の御業です。神が完成してくださるのです。私たちはそれゆえ、こちら側にひたすら関心を向けて生きるのではなく、向こう側、神の側に思いを向けて生きるのです。「すべては私の努力次第だ」と言いながら生きるのではなく、神の為し給う御業に思いを向け、既に与えられている聖霊に信頼し、ひたすら聖霊の御支配を求めて生きる。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。

2013年2月24日日曜日

「神から送られた侵略者イエス」

2013年2月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章22節〜32節

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サタンとその支配
 本日朗読された福音書の中でイエス様はこう言っておられました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。今日は特にこの言葉を私たちに与えられた御言葉として心に留めたいと思います。

 それはイエス様が「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を癒やされた時のことでした。そのようにイエス様が悪霊に取りつかれた人を癒やされたり、悪霊を追い出したりする話は福音書の中に繰り返し出てきます。皆さんはこのような箇所を読んでどう思いますでしょうか。

 ある人は、このような箇所に興味を抱くかもしれません。世の中にはこのような「霊」にまつわる話が大好きな人がいるものです。人は科学では説明できないような怪奇現象に好奇心をかき立てられます。あるいは好奇心ではなく、このような霊的な事柄に恐怖を抱く人もあろうかと思います。そのような人が「悪霊」にまつわる聖書の記述を読みますと、病気や不幸な出来事をことごとく悪霊の仕業と考えるようになるかもしれません。

 そのように興味を持つにせよ、恐れを抱くにせよ、いずれにしても「悪霊」そのものに関心を向けてこのような箇所を読むならば、聖書が本当に語ろうとしているメッセージを受け損なってしまうように思います。なぜならイエス様ご自身の関心は明らかに悪霊の存在を指し示すところにはなかったからです。イエス様は悪霊の脅威を宣べ伝えていたのではなく、神の国を宣べ伝えていたのですから。

 しかし、そのように悪霊について殊更に興味を持ったり恐れを抱いたりする人がいる一方で、このような悪霊についての記述を単に前近代的な迷信として片づけてしまう人もいます。「当時はそのように考えられていました」と。しかし、それもまたこのような箇所を読むに際して正しい態度ではなかろうと思います。というのも、それを悪霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、そのような言葉や表現の背後には、人間の経験というものがあるからです。しばしば人間は自分のコントロールを越えた力に支配されるという経験です。まさに「悪霊」としか呼びようがないような力に支配され翻弄されるという経験です。

 悪霊の頭は今日の箇所でベルゼブルと呼ばれています。より一般的な名称はサタンでしょう。イエス様も今日の箇所においてサタンとその王国について語っています。「サタン」とは「敵対する者」という意味です。その敵対には様々な意味合いがありますが、究極においては神に対する敵対です。

 サタンとその配下にある悪霊とは本質において神に敵対する力です。イエス様は、ただ人々の苦しみを見ていたのではなく、そこに働く神に敵対する力の支配を見ておられたのです。神に敵対する力については様々な言い換えが可能でしょう。聖書は「神は愛です」と語ります。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとは神と人との交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 皆さん、そのような力が確かにこの世界に働いているではありませんか。そのようなサタンの支配が、悪霊の支配が、この世界に猛威を振るっている現実を、私たちは確かに今日も見ているではありませんか。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ本当の喜びがあることも分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿があります。本当は自分を大切にして生きたらよいのに、実際には自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿があります。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいや、そうじゃない。愛なる神の御心に敵対する力が猛威を振るっているのです。ちなみにヨハネによる福音書では、イエス様はサタンのことを「この世の支配者」と呼んでいます。まさにサタンの王国となっているようなこの世界の中に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、私たちはそのようなサタンの王国の中に放って置かれているのではありません。イエス様はこう宣言されたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。

 今日お読みしました箇所に出てきたあの悪霊に取りつかれた人はイエス様によって癒やされてさぞかし喜んだことでしょう。目が見えるようになり、口が利けるようになったのですから。しかし、イエス様の言葉によるならば、喜ばしいことはただ癒やされたその人の上にだけ起こっていたのではないのです。喜ばしいことは、そこにいるすべての人にとって起こっていたのです。いや、そこにいた人々だけでなく、後の時代の人々にとっても、ここにいる私たちにとっても喜ばしいことが起こっていたのです。主はこう言われたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは決定的な出来事を目に見える形で表すしるしだったのです。重要なのはしるしそのものよりも、それが指し示している事実だったのです。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 さて、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主は言われたのですが、それは何を意味するのでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(21‐22節)。

 分かりますでしょう。強い人とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。しかし、そこに略奪者としてキリストが押し入って来たのです。サタンを縛り上げ、サタンの家を略奪するためです。すなわち、私たちをサタンの家から奪い取るためにキリストは来られたのです。神の国からの略奪者としてです。

 ある神学者がこんなことを書いていました。「戦いが進行しているのです。霊の世界における戦いです。イエスはサタンの力を粉砕するために神から送られた侵略者でした。そう考えるなら、イエスがなさった働きのすべての意味がわかります。」その言葉を説教題にも使わせていただきました。

 イエス様は単に倫理道徳を教えるために来られたのではありません。単に私たちを良い人間にするために来られたのではありません。サタンの王国を侵略し、私たちを略奪するために来られたのです。神の国に奪い返すために来られたのです。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも私たちを神の国に奪い返すためでした。イエス様が復活されたのも私たちを神の国に私たちを奪い返すためでした。天に上げられ、聖霊を注ぎ、教会を生み出し、キリストの体として遣わしてくださったのも、私たちを神の国に奪い返すためでした。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、主は私たちに教会を与えてくだり、共に捧げる礼拝を与えてくださり、洗礼を与えてくださり、聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、信仰生活を与えてくださいました。確かにそのすべてが、今ここに、私たちのただ中にあるではありませんか。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主が言われたようにです。

 そうです既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。神の国への略奪が既に始まっているのです。それゆえに私たちはこの世にありながらキリストのものとされ、神の国に略奪された者として生き始めることができるのです。神に背を向けて生きてきた人が、サタンに敵対し、神の方に向き直って神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、サタンの支配から解放され、共にサタンに立ち向かい、再び愛し合う関係と交わりを回復していくのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、サタンから解放され、サタンに立ち向かい、尊厳をもって、尊い存在として生き始めるのです。自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。

 この福音書にはイエス様の長い五つの説教がでてきます。一番良く知られているのは山上の説教でしょう。それは単なる倫理道徳ではないのです。主がこの福音書において語っておられるのは、この世にありながら神の国へと略奪された者において始まっていく新しい生活なのです。そうです、小さな一歩からですが、この世にありながら神の国に生きる新しい生活が始まっていくのです。

 もちろん、この世にある限り、私たちは依然としてサタンの力が猛威をふるっていることをも知っています。それゆえに、この世にある限りは戦いもまたあります。葛藤もあります。そのような中で多くの涙をも流すのでしょう。しかし、「神の国」と言うからには、中途半端で終わることはありません。「神の国」という言葉は終末論的な言葉です。それは最終的な完全な救いを指し示している言葉なのです。やがて神の完全な支配がおとずれるのです。神の完全な救いが実現するのです。そのような完全な救いへと向かう途上に私たちはいるのです。それゆえに私たちは神の国を部分的に味わいながら、大きな希望を抱きつつ、喜びながら生きることが許されているのです。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。


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