2013年12月29日日曜日

「神の救いは地の果てにまで」

2013年12月29日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 49章7節~13節


 2013年最後の主日となりました。次の日曜日は来年になります。年末年始は一つの区切りです。区切りがあるということはありがたいことです。少なくともすぐる365日を振り返り、次の365日をどう生きるかを考える機会となりますから。そこで、今日は同じように一つの時代の区切りを迎えていた人々が耳にした預言者の言葉を通して私たちへの主の語りかけを聞きたいと思います。

前に進むのか、それとも留まるのか
 本日の礼拝におきましてはイザヤ書の49章が読まれました。今日お読みした箇所の背景となっている一つの区切りとはバビロニア帝国の滅亡です。ネブカドネツァル二世の時代に諸民族を次々に支配下において巨大化していったバビロニア帝国は結局のところ長くは続きませんでした。内部において反乱が繰り返され、紀元前6世紀後半には既に内側から崩壊しつつあったのです。一方において新勢力として台頭してきたのがキュロス率いるペルシア帝国でした。そして、紀元前539年にペルシア軍が都バビロンを占領することにおいて、最終的にバビロニア帝国は滅亡することとなったのです。ペルシアの時代が到来しました。

 これはバビロンに捕囚となっていたユダの人々の置かれていた境遇が大きく変化することを意味しました。というのも、ペルシアの王キュロスは被占領民族に対して非常に寛容な政策を採ったからです。彼は諸民族の文化と宗教を重んじ、また故郷への帰還と再建を許可したのです。かつてバビロニアの支配下にあった人々にとって、ペルシアの王キュロスは新しい支配者であるよりは、むしろ解放者であったのです。バビロンに捕囚となっていたユダの人々にとっても同じでした。彼らもエルサレムへの帰還と神殿の再建が許されたのです。紀元前538年のことでした。

 捕囚の民の解放。それは既に預言者が語ってきたことでした。その預言の言葉はイザヤ書40章以降に記されています。二週間前、主日礼拝においてイザヤ書40章前半が読まれました。そこにおいて「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)と語られていましたが、その慰めとは具体的には捕囚からの解放を意味したのです。神がなさろうとしていることについては、44章の終わりに至ってあからさまに語られていました。主はこう言われるのです。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」(44:28)。

 それは長い間捕囚であった人々にとっては信じ難い言葉であったに違いありません。しかし、預言者は人々が信じようが信じまいが、とにかく語り続けたのです。神の言葉こそが永遠に立つことを信じて、忍耐強く語り続けたのです。そして、歴史は動きました。キュロスはバビロンを征服し、翌年、出された勅令によって捕囚の民は解放されたのです。彼らはエルサレムに帰還することができる。再建することができるのです。

 しかし、神の恵みによって実現した捕囚からの解放を、すべての人々が喜んだわけではありませんでした。一つの区切りに立った時、人は二通りに分かれるのです。これを機に前に進む者がいる。しかし、同じところに留まる者もいるのです。

 彼らは長い間捕囚であった人々でした。異国の地の生活とはいえ、それなりに生きてきたのです。生活も成り立ってきたのです。既にその地に根ざした産業もありました。また、ダニエル書に出て来るダニエルや友人たちのように、中にはある程度高い地位に就いている人もいたのです。「何を好きこのんでバビロンを離れ、厳しい過酷な旅へと出発しなくてはならないのか。むしろ、このままでよいではないか。」そのように言う人も当然いたことでしょう。

 実際、エルサレムに帰還したからといって、そこでの生活が保障されていたわけではありません。それでもなお神を信じて一歩を踏み出すのか。それとも同じところに留まるのか。神に期待し神の御業を見るために前に進んでいくのか。それとも「今のままでいいじゃないか」と言って同じところに立ち続けるのか。彼らはその問いの前に立たされていたのです。

 彼らが直面していた問いは、ある区切りに人が立たされた時、いつも直面せざるを得ない問いなのでしょう。ここにいる私たちにとっても同じです。前に進むのか。同じところに留まるのか。2014年の365日、信仰の成長を目指して前に進むために具体的な一歩を踏み出すのか。それとも2013年の365日と同じ一年をもう一度繰り返すのか。はっきりしていることは、この繰り返しのトータルが私たちの一生だということです。一生を終える時に、今と同じところに居るつもりなのか。それとも神の御心に従って一歩でも前に進むつもりでいるのか。年の区切りに立つ私たちが問われているのはそういうことなのでしょう。

わたしの救いを地の果てまでもたらす者に
 そこで私たちが考えねばならないもう一つの大事なことがあります。私たちがどちらを選ぶかは、ただ私たち自身だけに関わっているのではない、ということです。

 今日の朗読箇所は7節からでしたが、この言葉は6節と切り離すことはできないのです。6節の終わりにはこう書かれていました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。直接的には預言者に対する言葉ですが、ただ預言者個人ではなく、これは預言者の言葉を聞いている帰還民に対する主の御心でもあるのです。主はただ彼らを帰還させようとしているだけではないのです。ただエルサレムを再建させようとしているだけではないのです。そうではなくて、解放された人々を通して、全世界に神の救いが伝えられることこそ、神が望んでおられることなのです。そのような神の大きな目的のもとにあって、7節以下の言葉は語られているのです。

 彼らについてはこう語られていました。「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君候はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が、あなたを選ばれたのを見て」(7節)。確かにそのとおりです。捕囚の民は、「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」です。

 そのような彼らエルサレムを再建するのは実に困難なことかもしれません。しかし、そこに向かうことは、ただ彼ら自身のためではないのです。そうではなくて、諸国の人々が神を知り、神を畏れ敬うようになるためなのです。「王たちは見て立ち上がり、君候はひれ伏す」とはそういうことです。もともと力ある者が大きなことを実現したとしても、そこに神のリアリティは見えてはこないでしょう。彼らが人々に侮られている捕囚の民であるからこそ、神が彼らを選び、神が彼らを通して働かれたのだということが見えてくるのです。

 主は言われました。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(8‐9節)。ここで繰り返されているのは「わたしは…あなたを」という言葉です。原文ですとより顕著です。主語はあくまでも神なのであって人間ではありません。ここに語られているのは神の御業なのです。

 しかし、その神の御業は人間が神に従い、自ら一歩を踏み出していく時に現れるのです。9節後半以下には次のように書かれていますでしょう。「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す」(9‐11節)。彼らが飢えることもなく、渇くこともないのは、「憐れみ深い方が彼らを導」いておられ、「彼らを伴って行かれる」からなのです。立ちはだかる山に道が開かれるのは、同じところに留まるのではなく、神に従って歩んでいくからこそ実現することなのです。そうです、神に従う時に人は神の御業を見るのです。

 そして、繰り返しますが、それはただ彼らのためではないのです。神は御自分の救いを「地の果てまで」もたらそうとしておられるのです。彼らは、そのような神の目的にこそ思いを向けなくてはならなかったのです。

 さて、ここにいる私たちは何を考えているのでしょう。私たちの思いはどこに向けられているのでしょう。信仰者が自分の救いのことだけを考え、教会が自分たちの救いのことだけを考えるならば、何も荒れ野に向かって旅立つ必要もないのでしょう。立ちはだかる山に向かって一歩を踏み出す必要もないのでしょう。同じところに留まってもう一年過ごしてもよいのでしょう。一生の終わりまで同じところに留まっても、自分たち救いに関してはなんら変わることはないのでしょう。

 しかし、私たちの信仰生活は自分の救いだけに関わっているのではないのです。主は御自分の救いを地の果てにまで至らせようとしておられるのです。私たちが来たる一年をどう生きるのか、どのような信仰生活を送るのか、私たちが同じところに留まっているのか、それとも神に導かれて「湧き出る水のほとり」に伴われていくのかは、この世界の救いに関わっているのです。この年末年始が単に年の区切りに留まるのではなく、私たちが信仰の一歩を踏み出す区切りとなりますように。

2013年12月22日日曜日

「最も喜ばしきこと」

2013年12月22日 クリスマス主日礼拝  (アドベント第四主日)
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章39節~56節


 今日の福音書朗読は「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉から始まっていました。マリアは急いでいました。一刻も早く会って話をしたい人がいたからです。親戚の老婦人エリサベトです。

受胎告知
 この直前には聖誕劇でお馴染みの「受胎告知」の場面が書かれています。天使ガブリエルがマリアに現れて、彼女がメシアを身ごもっていることを伝えたというくだりです。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。これが第一声でした。しかし、天使が持ってきた話は、単純に「おめでたい」話ではありませんでした。

 ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言いますが、これほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時、ヨセフと婚約していたのです。マリアはヨセフと共に幸せな家庭を築くことを夢見ていたごく普通の娘だったに違いない。しかし、そんなささやかな望みがこの天使の言葉で打ち壊されてしまいました。

 婚約している娘が身ごもるということがユダヤ人社会においてどのように受け止められるか、マリアが知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身ごもった」と言いますが、いったい誰がそんな説明を信じるでしょう。事実、今日でも信じない人の方が圧倒的に多いのですから。姦淫の罪として告発されれば有罪は免れない。仮にヨセフが告発しなかったとしても、彼との関係は終わりでしょう。しかし、その全てをマリアは受け止めたのです。彼女は言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの信仰でした。

共に信じる交わり
 しかし、マリアに不安がなかったはずはありません。恐れがなかったはずがありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛く悲しかったか知れません。そんな思いを抱えて、彼女はユダの山里へと急ぎました。エリサベトに会うために。どうしてですか。エリサベトだったら分かってくれるからです。なぜなら、エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったから。不妊の年老いた女がただ神の力によって身ごもった。彼女ならば分かってくれる。いや、それだけではありません。それ以上に大事なことがあります。そこで神のことを語り合えるということです。人生に起こっていることを神の御業として語り合える。マリアはそんなエリサベトに会うために急いだのです。

 マリアは間違ってはいませんでした。確かにエリサベトこそ、マリアが会うべき人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(40節)と書かれています。この場面は物語がかなり端折られているようにも思います。実際には「挨拶した」という言葉の中には、マリアが挨拶の言葉に次いで、これまで起こってきたこと、自分の思いなどを語ったのかもしれません。あるいは不思議なことにエリサベトには語らずして事情が分かったということかもしれません。いずれにせよ、大事なことは、深刻な事態に置かれているマリアに対してエリサベトがこう語ったということです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(42節)。

 祝福するのは神様です。神様がマリアをも胎内の子も祝福してくださっている。そのように神がなさっていることとして一緒に信じて語ってくれた、それがエリサベトでした。彼女は言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。エリサベトが見ているのはマリアが直面せざるを得ない困難ではなくて、神のご計画の方なのです。必ず実現へと向かっていく神の御業について語っているのです。そうです、それを一緒に信じて、一緒に語り合ってくれる人こそ、マリアには必要だったのです。

 このエリサベトがいたからこそ、その後にマリアの賛歌が続くのです。そこで爆発的な喜びに満たされてマリアは歌うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46‐47節)。ここで初めて、マリアの口から「喜ぶ」という言葉が出て来るのです。

 事態は何も変わってはいません。重荷が無くなったわけではありません。しかし、一緒に信じるところで、一緒に神の御業について語り合うところで、悩みが喜びに変えられていくのです。不安や恐れが讃美へと変えられていくのです。このマリアとエリサベトの二人に何が見えてきますか。そう、教会です。悩みについて語り合う場所や人はこの世にいくらでもあるかもしれません。しかし、本当に必要なのは、当たり前のように神について語り合われ、そして、共に信じることができる交わりなのです。

最も喜ばしきこと
 マリアとエリサベトの間において何が起こったのか。教会において何が起こるのか。マリアが歌っている言葉に、もう少し耳を傾けてみましょう。

 マリアは何を喜んでいるのでしょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女はこう続けるのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節)。そうです。彼女は主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜んでいるのです。だからそんな自分について「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語るのです。

 しかし、彼女が単純に自分の個人的な「幸い」を考えて喜んでいるのではないことは、このマリアの賛歌全体から明らかです。後半に入ると、まるで革命歌であるかのような言葉が続くのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(49‐53節)。つまり彼女の目は自分の小さな幸福に向けられているのではなくて、その目はこの世界に向けられているのです。

 この世界とはどういう世界ですか。ここに歌われているように、実際に「思い上がる者」が存在する世界でしょう。「思い上がる者」がひたすら権力と富を追い求めている世界です。最終的には力と金がモノを言うと考えているからです。それは世の権力者の話だと思いますか。いいえ、私たちもまた往々にして私たち自身の小さな世界において、その「思い上がる者」の一人となっているのではありませんか。

 しかし、神はそのような世界をひっくり返されるのです。それがここに歌われていることです。最終的に人間の権力や金が支配するのではなくて、神御自身が治める神の国とされるのです。最後にモノを言うのは力と金ではないことを神が明らかにされるのです。それは人間にとっては救いなのです。なぜなら「思い上がる者」がそのまま支配している世界は滅びるのであり、「思い上がる者」も滅びるからです。メシアが産まれるという知らせは、まさにこの新しい時代の幕開けを意味したのです。

 マリアはこの世界に目を向け、この世界に生きて働いておられる神、メシアを与え、救いのご計画を進めておられる神に目を向けて歌っているのです。そうすると、「目を留めてくださった」と言って喜んでいる意味も分かるでしょう。自分はこの世においては取るに足りない小さな存在かもしれない。この世においては「身分の低い」者であるかもしれない。しかし、そんなわたしにも神は目を留めてくださって、この世界におけるご計画の中で用いてくださる。わたしは主のお役に立つことができる。そのことを喜んでいるのです。メシアが産まれる。それは喜ばしきお告げです。しかし、最も喜ばしきことは、そのメシアの誕生と神の救いの計画が自分とは無関係ではないということなのです。わたしは確かに関わっている。「この主のはしためにも目を留めてくださった!」

 もし人が自分の幸・不幸だけを考えているならば、人生はまことに不可解な重荷に満ちていると言えます。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなくてはならないのか。そう言って嘆かざるを得ないのでしょう。

 しかし、そうではなくて、目をこの世に転じて、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを考え始める時、一方的に天使が運んできた重荷の意味もまた見えてくるのです。そして、既に傍らにはエリサベトが与えられているのです。当たり前のように神について語られ、そして、共に信じることができる交わりが与えられているのです。ここにおいて神に用いていただける喜びを分かち合い、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくことを豊かに味わわせていただきましょう。

2013年12月15日日曜日

「揺るぎない人生の土台」

2013年12月15日 アドベント(待降節)第三主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 40章1節~11節


草は枯れ、花はしぼむ
 今日の旧約聖書の朗読では「草は枯れ、花はしぼむ」(7節)という言葉が読まれました。旧約の預言者の言葉です。彼が見つめているのは人間です。彼はそれを「肉なる者」と呼びます。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(6節)と。その「草は枯れ、花はしぼむ」と言っているのです。

 かつて旧約の詩人はこう歌いました。「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩編90:5‐6)。彼はこのように人生のはかなさを歌います。彼は言います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(10節)。その意味で「草は枯れ、花はしぼむ」。確かにそうです。それは私たちにもわかります。

 しかし、今日お読みした箇所においてこの人は、ただ個々の人間の一生を思って語っているのではありません。彼はまた人間の営みによって成り立っている社会そのものをも見つめているのです。人間が積み上げてきたもの。人間が築き上げてきたもの。それもまた肉なるものです。それもまた「草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」なのです。彼は実際に枯れてしまったユダの王国、枯れてしまった野の花であるイスラエルを見て語っているのです。

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国は崩壊しました。エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。彼は崩壊したユダの国、捕囚となったイスラエルを思いつつ語るのです。「草は枯れ、花はしぼむ」。

 「栄枯盛衰は世の習い」と言います。私たちも良く知っています。栄える時があれば衰退する時がある。人間が築き上げていく時があり、その築き上げてきたものが崩壊することがある。それは今日の社会においても身近に起こってきたことですし、私たち自身も多かれ少なかれ経験してきていることです。

 しかし、この人は単にこの世界はそういうものなのだと言いたいのではなさそうです。「草は枯れ、花はしぼむ」と言った後、彼はこう付け加えるのです。「主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(7節)。彼はそこに「主の風」を見たのです。

 パレスチナの自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐色の野山にもどってしまうとのこと。その姿を思いながら、「主の風が吹き付けたのだ」と語る時、彼が思い描いているのは神の裁きに他なりません。言い換えるならば、人間の罪とその結果を思いながらこれを語っているのだということです。

 私たちは往々にしてこの世界についても個人の人生についても、表に現れていることにしか目がいかないものです。栄えたものが衰退する。築き上げてきたものが崩壊する。それを単に災いや不幸としか考えない。しかし、彼はただ表に現れている枯れ草のような姿やしぼんだ花のようなありさまに目を向けていたのではないのです。さらに深いところ、それをもたらした本質的な問題、人間の罪に目を向けていたのです。神に背いているという現実、神に背き続けている現実を見ていたのです。(実は先ほど引用した詩編90編も同じなのです。詩人はただ人間のはかなさを「世の常」として歌っていたのではありません。「あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます」と歌っているのです。)

 そのような意味において、聖書は「草は枯れ、花はしぼむ」と語るのです。それが預言者の見ていた世界であり、それが私たちの見ている世界です。そこで確かに人は、「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れない。現実と正直に向き合うならば「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れないのです。

 しかし、「人」がもはやそこまでしか語り得ないところに、「神」が語られることがあるのです。人間の言葉が終わるところに、神の言葉はあるのです。それゆえに、預言者はもう一度「草は枯れ、花はしぼむ」と繰り返した後、こう続けるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

 そうです、とこしえに立つのは、永遠であるのは、人間が語ることではなくて、神が語ることなのです。では、神は何を語られるのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ」としか言えない人間の現実に対して、何を語られるのでしょう。枯れ草としぼんだ花を目にしていた預言者が聞いたのはこのような言葉でした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。本日朗読された言葉です。

見よ、あなたたちの神
 「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(1節)。「慰める」とは、単に悲しみを和らげることではありません。これは励まし力づけることを意味します。励まし力づけるのは立ち上がらせるためです。希望のない者たちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って起き上がるためです。

 神がそのことを望んでいてくださる。しかも、神は「《わたしの民を》慰めよ」と言ってくださったのです。そうです、神は御自分に背き続け、ついに枯れ草のようになった人々を、いまだに「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は今もなお「あなたたちの神」だと言ってくださるのです。そのように神は憐れんでくださる。神は赦してくださる。だから「草は枯れ、花はしぼむ」で終わりではないのです。

 さらに天からの声はこう続きます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐4節)。勝利を得た王が凱旋する時のように広い道を整える。それは神が来てくださるからです。

 ですから9節にはこう書かれているのです。「見よ、あなたたちの神」。神に背いて枯れてしまった枯れ草が、神に背いてしぼんでしまった花が、そこから「わたしの神、わたしたちの神」として神を見上げることができる。神が来てくださるから。こう書かれています。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(9‐10節)。

 神が来られる。力を帯びて来られる。その力は滅ぼすための力ではありません。なぜなら、その神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言ってくださる神だから。神は救うために来てくださるのです。そして、恵みをもって治めるために来てくださるのです。人はこの神のもとに生きることができるのです。

 そこで人はもはや朽ちていくだけの枯れ草ではありません。まったく異なる描写がそこにあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11節)。そこで人はもはや望みなき者として生きる必要はありません。人はもはや見捨てられた者のように生きる必要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているのです。主に導かれる母羊、主のふところに抱かれる小羊として生きることが許されているのです。

 このように、救いをもたらす神の支配の到来――これこそ、人間がもはや何も語り得ないところでなお神が語られることなのです。とこしえに立つ神の言葉がそこにあるのです。

力を帯びて来られた神
 さて、本日の福音書朗読においては、マルコによる福音書の冒頭の言葉が読まれました。そこにはこう書かれていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1‐4)。

 ここで再び私たちはあの預言者が聞いた言葉を耳にすることになります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主の道を整えるのは何のため。神の支配が到来するためです。そのようにして来られた御方、それがイエス・キリストに他ならないのです。

 しかし、かつて「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたあの言葉は本当に実現したのでしょうか。この世界が見たのは、およそこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。その御方は、この世の権力によって十字架にかけられ殺されてしまったではありませんか。そのようなキリストの内に《力を帯びて来られた神》を見ることができるのでしょうか。

 そうです。その御方において確かに神の支配が到来したと聖書は語るのです。確かに神は統治するために来られたのです。この世の権力や武力の支配とは全く違う支配として。それは当然のことでしょう。神の支配が人間の支配と同じであろうはずがありません。そもそも権力や武力は人の心まで支配することはできないのです。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配するのは、真の力によるのです。それは愛の力です。神の愛の力です。

 ナザレのイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架とキリストの復活において完全に現されたのです。そして、その御力をもって、主は統治されるのです。実際、私たちは主の御支配のもとにいるではありませんか。私たちは主のものとされているではありませんか。私たちは確かにその愛の支配のもとにいるのです。


 主の風が吹き付けるならば滅びるしかないこの世界に私たちは生きています。私たちは、主の風が吹くならば滅びるしかない「肉なる者」に過ぎません。しかし、そこにおいてもはや「草は枯れ、花はしぼむ」としか語り得ない私たちに、神は永遠に揺らぐことのない救いの言葉を与えてくださいました。この上に教会は立っているのです。そして、私たちの人生もまたその上に据えられているのです。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。アーメン。

2013年12月8日日曜日

「信仰生活の試金石」

2013年12月8日 アドベント(待降節)第二主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅱ 4章1節~8節


自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の聖書箇所においてパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。

 この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めるのです。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はもう自分でしようと思っていることがある。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまうものです。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。そんなことが起こります。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いから。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのでしょう。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活がある。そんな自分の本当の姿、自分の内にある偽りがある。その偽りを明らかにする本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。テモテへの手紙にも「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そうです、実際そのような人たちは後の教会に繰り返し現れてきたのです。

 しかし、それは実はまことに不幸なことなのです。真理からどんなに耳を背けたとしても、事実は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、自分の本当の姿は変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはないのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しにあずかり、真実に神と共に生きるところにしかないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。それを伝えるのが伝道者です。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」と伝道者であるテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝道者にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑があるのです。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなるのです。しかし、もしそうなってしまうなら、伝道者は伝道者ではなく、教会も教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして伝道者は「御言葉を語る」ことに留まることができるのでしょう。どのようにして教会は御言葉を聞く教会として留まることができるのでしょう。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。この書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない聖書に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても伝道者と教会を試す試金石ともなります。伝道者が聖書を重んじなくなり、伝道者が聖書を解き明かさなくなったら要注意です。また、キリスト者が聖書に関心がなくなり、聖書以外のことを聞きたがり、伝道者がその求めに応えるようになったら要注意です。私たちは絶対にそのようなものとなってはなりません。「御言葉を語りなさい」。これは伝道者に対する至上命令であり、教会にとっては生命線なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、伝道者は御言葉を語り続けなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロは命じるのです。

 人々が受け入れようが受け入れまいが、御言葉を語らなくてはならない。それは最終的に伝道者の働きを判断するのは人間ではないからです。神御自身が判断されるのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ終末を思いつつ語っているのです。その人生全体が神の御前に明らかにされる時を念頭において語っているのです。その時に意味を持つのは、多くの人に受け入れられたか拒否されたか、賞賛されたか認められることなく終わったかではないのです。

 それは御言葉を語る側だけでなく、聞く側についても言えるでしょう。皆さんにとって信仰生活において最も大事なことはなんですか。何を思って聖書の言葉を聞いていますか。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることですか。毎日の生活に役に立つ教えを受けることですか。悩みを解決する手だてを得ることですか。もしそうならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉、あるいは巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なことは、自分にとって都合の良い言葉が語られたか、耳に心地よい言葉が語られたかということではないでしょう。そうではなくて、ひたすら神の言葉を求め、神の言葉を聞いて生きてきたかどうか、ということではありませんか。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えますが、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。そのような人にとって、生きている人に自分を誇っても意味がないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことである故に、こう書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)と。

2013年12月1日日曜日

「信仰と愛と希望を身に着ける」

2013年12月1日 アドベント(待降節)第一主日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章1節~11節


終わりを見つめつつ現在を思う
 今週からアドベントに入ります。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間であると言えるでしょう。

 ところで、私たちが使う「終わり」という言葉は二通りの意味合いを持ち得ます。完成としての「終わり」がある。しかし、破局としての「終わり」もある。例えば、入学試験を考えてみてください。一つの達成として試験を終えた者が「終わった!」と叫ぶのと、まったく手が着かない白紙の答案を前にして「終わった...」と呟くのでは「終わり」の意味合いが全く違います。

 同じことが、一回の試験よりももっと大事な、人生の終末についても言えます。さらにはこの世の終末についても言えます。そして、明らかなことは、どちらの意味で「終わり」を迎えるかということは「現在」と深く関わっているということです。それゆえに「終わり」を見つめつつ「現在」を思う。それがアドベントと呼ばれるこの期間の大事な意味なのです。

身を慎んでいましょう
 そこでアドベントの最初の主日に読まれたのは次のような言葉でした。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1‐2節)。

 福音書においてもイエス様がこう言っておられました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13:32‐33)。

 「その日、その時はだれも知らない」。「子も知らない」。イエス様も知らない。しかし、もしイエス様が知っていたとしても教えなかったに違いありません。なぜなら、イエス様が一番おっしゃりたいのは「目を覚ましていなさい」ということだからです。それは「現在」に関することです。終わりの日を特定したならば、人が問題とするのは「その日」でしょう。しかし、その日が教えられていなければ、常に「現在」が問題となります。それこそが主の意図するところなのです。

 ですから、今日お読みしたパウロの手紙でもこう書かれています。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(6節)。ここには「目を覚ます」という言葉と共に「身を慎む」という言葉が出てきます。これは酔っていないこと、しらふであることを意味する言葉です。と言いましても、これは禁酒の勧めではありません。酔っていないということは、要するに「現実逃避をしない」ということです。これもまた「現在」に関わることです。

 もちろん、多くの人は現実逃避をしないで真面目に現実と向き合って生活しているのでしょう。しかし、パウロが言っているのはそのような次元のことではないのです。「終わりを見つめつつ現在を思う」と先ほど申しましたが、これこそ本当の意味で現実的になることなのです。なぜなら「終わり」が必ず来るというのが「現実」だからです。私たちの人生の終わりが先に来るのか、世の終わりが先に来るのかは分かりません。しかし、終わりは必ず来る。その終わりを考えずに生きることは、聖書の観点から言えば現実逃避なのであって、それは酔っているのと変わらないのです。信仰生活とは本当の意味で現実的に生きる生活です。

 私たちが日常生活を中断してここに集まっているのも、現実逃避のためではありません。むしろ終わりが来ないかのように生活している日常から引き出されて、現実の中に正しく据え直される時間なのです。来るべき終わりは2節において「主の日」と表現されていました。それは「キリストの再臨」として語られていますように、それは主の御前に立つ日なのです。私たちはやがて主の御前に立つ者として、その時を思いつつ、今、ここにおいて主に向かい、礼拝しているのです。

 最終的に主の御前に立つということは、本来は恐ろしいことであるはずです。なぜなら、主の御前に出るということは、主の裁きの前に出るということに他ならないからです。それは私たちがどれほど神を侮り、主に背いてきたかが明らかになるということでもあるのです。しかし、それにもかかわらず、私たちは今こうして喜びをもって神を讃美し、安心して祈ることができる。なぜですか。それは私たちに伝えられていることがあるからです。伝えられている良き知らせがあるからなのです。今日の箇所にも書かれていました。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(9節)。そのことを私たちは既に知らされているのです。

 「主イエス・キリストによる救いにあずからせる」ために、神はキリストを死に渡されました。10節には、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と書かれています。つまり、キリストの再臨のとき「目覚めていても眠っていても」すなわち、生きていても死んでいても、私たちが主と共に生きることを、神は望んでくださったのです。そのようにして、「主の日」を恐るべき時ではなく、喜びをもって待ち望むべき時としてくださったのです。5節にあるように、「光の子、昼の子」としていただいたとは、そういうことです。

信仰と愛と希望
 ならば、私たちはこの恵みを無駄にしてはならないのです。私たちは、「昼の子」として、昼に属する者として生きることが求められているのです。それゆえにこう語られているのです。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。これらを武具のように身に着けなさい。かぶりなさいと言うのです。実は「信仰」と「愛」と「希望」がセットで出て来るのはこの手紙において初めてではありません。一章にも次のような表現において出てきます。

 「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(1:2‐3)。

 そこでは「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」ということばが結びつけられています。そのように「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではなく、具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。

 第一に、「信仰によって働き」と書かれていることについて考えてみましょう。これは直訳すれば「信仰の行い」です。「信仰」と「行い」が結び付けられているのです。

 私たちは確かに聖書が次のように語っているのを知っています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。そのように、私たちは自分の行いによって救われるのではありません。救いは一方的な神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、救いが一方的な恵みによるゆえに、その救いにあずかった者の内には、感謝の応答として行いが生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。

 この世の原理はギブ・アンド・テイクです。信仰によらなければ、人に対しても神に対しても常に行いに対する報いを求めているのが人間です。そして、報われれば自分の行いを誇っては高ぶり、報われなければ腹を立てたり嘆いたり――そんなことを繰り返している私たちです。しかし、そのようなギブ・アンド・テイクを前提にした行いではなくて、純粋に神への感謝から生まれる「信仰の行い」こそ私たちの人生を形作り、教会を形作るものとなることを主は望んでおられるのでしょう。それこそが、信仰によって救われた者が信仰を身に着けるということなのです。

 第二は「愛のために労苦し」。直訳すれば「愛の労苦」です。愛するということは、単に好きになることではありません。この世のラヴソングでは"I Love You. I Want You"と続きますが、ここで語られている「愛」とは自分のために誰かを求めることではありません。誰かのための自分になることです。ですから、愛するということは時として、誰かのために労苦すること、労苦を引き受けることでもあるのです。

 さらに言うならば、この手紙において「労苦」と言われる時、それはすべて福音を伝える労苦を指しているのです。私たちが今ここにいるのは、誰かが労苦してくれたからでしょう。世々の人々が時には命がけで労苦して福音を伝えてくれたからでしょう。その源には、キリストの労苦があり神の労苦があります。私たちは神と人との愛の労苦のゆえに今ここにいるのです。その愛の労苦に応えて私たちが愛する者となっていくこと、特に福音を伝えるために労苦する者となっていくこと。それこそが愛を身に着けることなのです。

 そして、最後は「希望を持って忍耐している」と語られていることについて。直訳は「希望の忍耐」です。これもまた味わい深い言葉です。

 「忍耐」について語られているのは苦しみがあるからでしょう。この世においては苦しみがある。それは信仰者においても同じです。いや、迫害の時代には、信仰のゆえにより大きな苦しみの中に置かれることもあったのでしょう。 私たちも良く知っているように、苦しみは人を神から引き離す力として働きます。その意味で試練は誘惑ともなります。そこで必要なのは信仰に留まる忍耐です。

 その忍耐はどこから来るのか。それは「希望」なのです。希望こそ苦しみに打ち勝つ力となるのです。特に5章においては「救いの希望」と書かれていました。終わりを見つめつつ現在を思う――その「終わり」には完全な救いがあるのです。そこから目を離さない。救いの希望を絶対に手放さない。それが「救いの希望を兜としてかぶる」ということです。


 そのように、「信仰」と「愛」と「希望」を身に着けるように勧められているのは、既に与えられているからです。与えられていないものを身に着けることはできませんから。既に与えられているものを、私たちは信仰生活において本当の意味で自分のものにしていくのです。そこで重要なのは次の勧めです。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(11節)。私たちはそのような「お互い」としてここに集められているのです。

2013年11月24日日曜日

「人間にできなくても神にはできる」

2013年11月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章17節~31節


何をすればよいのでしょうか
 イエス様は弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうしてイエス様がこんなことを言われたのかは、今日朗読された話の流れから明らかでしょう。その直前に、財産のある人とイエス様が話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めてイエス様のもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼は多くの財産を持っている人でした。しかし、自分が生きて最終的に残るのがこの世の財産しかないならば、それは実に空しいことだと分かっていたのでしょう。彼が求めたのは死をもっても失われないもの、世の終わりにおいても失われないものでした。最終的な神の救い、神の国、永遠の命。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。その問いを持って彼はやってきた。それは彼の人生をかけた切実なる問いだったのです。

 「何をすればよいのでしょうか」。そうです。彼はこれまで自分にできることをやってきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。イエス様が「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えたのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」子供の時から守ってきた。何のためですか。神の救いを得るためです。永遠の命を受け継ぐためです。しかし、彼にはそれで十分だとは思えませんでした。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。

 イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。このイエス様の言葉は救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明します。そこでイエス様は弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

財産のある者が神の国に入るのは
 厳密に言いますと、この「財産」という言葉と22節の「財産」とは元の言葉が異なります。「財産のある者が」とイエス様が言われた時の「財産」は、もともとは「使う」という言葉に由来します。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは要するに必要に応じて使うことができるものをたくさん持っていたということです。欲しいものがあれば、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと。だから彼は子供の時から律法を守ってきたのです。それは永遠の命を得るために「使えるもの」だったからです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。22節のいわゆる「財産」の他、幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い。これもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうと思っていたのです。彼がそうしたがっているので、イエス様はそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいと思っているなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。そこで彼は悲しみながら去らざるを得なくなりました。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです人間にはそれができると考えていたことです。

人間にできなくても神にはできる
 今日の説教題は「人間にできなくても神にはできる」です。これは27節のイエス様の言葉から取りました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。

 「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。イエス様がこう言われたのは弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということでしょう。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。本当に「神にはできる」に行き着くのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時なのです。ですからイエス様は別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能をどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神は救い主をお遣わしくださいました。神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を赦して永遠お命を与えることがおできになります。神は罪人を救うことができるのです。そうです、神にはそれができる。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られたイエス様は、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

わたしのためまた福音のため
 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」とイエス様が言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 当然考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。イエス様が単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が今度はペトロが「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、こう続けられています。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 イエス様はペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 イエス様は「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。イエス様の故にとはどういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れだったのです。私たちを救うことができる神の一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。そのイエス様のためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。主はご存じなのです。しかし、彼らは救いを得るために犠牲を払う必要はないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。救いはただ神によるのです。これらはただ神の一方的な恵みによって罪を赦され救われたことへの応答として出てくることなのです。「イエスのために福音のために」。それに対して、イエス様はこう言われました。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく恵みに応えて行ったことが結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、それは「神にはできる」と言って救いを成就してくださった神の恵みへの応答として行うのです。ならば大事なことは恵みを知ることなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。わずかなものを手放しても、いつまでも惜しんでいるようなことが起こります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」はそこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」。

2013年11月17日日曜日

「人に惑わされないように」

2013年11月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 13章5節~13節


未来を知りたいですか
 「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。そうイエス様は言われました。これは弟子たちの問いに対する答えでした。弟子たちはこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。弟子たち問うているのは「いつ起こるのか」という「時」です。あるいは正確な「時」が分からないとしても、近づいているという「前兆」は知りたい。だから「どんな徴があるのですか」と聞いているのです。それに対してイエス様は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 「いつ起こるのか」という「時」を知りたい。あるいはせめて「前兆」を知りたい。これは要するに「未来を知りたい」ということでしょう。正確にではなくても、ある程度予測できたり見通しが立てられるようになっていたいということでしょう。それは私たちにも分かります。そのような思いは多かれ少なかれ持っていますから。特に将来に不安を抱いている時にはなおさらです。何か恐ろしいことが起こることが予想される時には、未来を知りたくなるものです。

 弟子たちが問うたのは、確かにイエス様が未来に起こる恐るべきことを語られたからでした。それは何か。神殿の崩壊です。弟子たちがエルサレムの神殿を見て感嘆の声を上げた時、イエス様はこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。重なって残る石が全くないほどに徹底的に破壊されるということです。

 普通に見れば、永遠に残ると思えるような建造物です。しかし、崩れるはずがないと思えるものが、実際には崩壊することがある。それがこの世の現実です。イエス様が言われるならば、それは起こりえることだと弟子たちも思ったのでしょう。弟子たちは神殿の終わりだけでなく、世の終わりを考えていたのかもしれません。しかし、世の終わりでなくても、確かに見えるものの崩壊は起こる。実際、彼らが目にしていた神殿は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。この世に確かに残ると言い得るものは何一つありません。

 それは私たちもまた知っています。絶対的な権力によって支配されていた国家の体制が崩壊することがある。それは過去三年の間、北アフリカと中東に見てきたことです。絶対に倒れるように見えない大企業が崩壊することもある。これは過去20年の間にこの国において見せられてきたことです。絶対に安全であると思っていた社会の制度が崩壊することもある。あるいは家庭の崩壊ということも起こり得る。信頼していた人間関係が崩壊することも起こり得る。大きな挫折によって揺るぎない自信が見るも無惨に崩壊してしまうこともある。健康だけが取り柄ですという人の、その健康が崩れてしまうこともある。この世に確かに残ると言い得るものは何一つありません。

 ですから将来が不安になります。人は未来を知りたいと思うのです。先のことが知りたい。あるいはせめて前兆を知って、ある程度予測できるようになりたいと思うのです。しかし、本当は未来を知ることよりも、先の予測ができるようになることよりも、もっと大事なことがあるのです。だからイエス様は弟子たちの問いにそのまま答えられなかったのです。そんなことよりも、もっと大事なことがある。主は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではないのです。そうではなくて、いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。不安だから未来を知りたくなる。しかし、いつ何が起こるかを問題にしている限り不安はなくなりません。問題にしなくてはならないのは、私たち自身のことなのです。

 そこで今日は、特に私たち自身に関わる三つの言葉を心に留めたいと思います。「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。「慌ててはいけない」(7節)。そして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。

人に惑わされないように
 主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。どうしてか。主はこう続けます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(6節)。

 崩れるはずがないと思えるものが崩壊していく時、あるいはそのようなことが起こるのではないかと人々が不安に駆られる時、そこに様々な形において偽のメシアが現れてくるのです。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたようにです。「こっちに来なさい。こちらに救いがあるよ」と言って手招きするのです。

 あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす者が現れる。「わたしがそれだ」というのはユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。そして、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離してしまうのです。実際、恐れに駆られると人間は何にでも考えなしに飛びつきたくなるものでしょう。

 だから主は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。人に惑わされないためには、神ならぬ誰かに惑わされないためには、自らがしっかりと神に向いて生きているということが大事なのです。そのような生活がしっかりと形作られていることが大事なのです。いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てしまうものですから。今、もし平穏無事であり安定の中にいるとするならば、いざという時にではなく、今この時、神に向き神を礼拝して生きる生活を大切にすることです。そうすれば未来に何が起ころうとも、神に向く生活が変わらずそこに残るのです。

慌ててはいけない
 そして、さらに主は言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)。さらにイエス様はこうも言っておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)。戦争だけではありません。地震や飢饉についても語っておられます。そのような具体的な災いがこの世界には起こり得ますし、私たちの人生にも及ぶことがあり得る。他の人に起こったことは我が身にも起こりえることを知っています。それは恐ろしいことです。しかし、主は「慌ててはいけない」と言われる。これは「恐れるな」という言葉でもあります。

 主は「恐れるな」と言われる。どうしてか。イエス様は言われるのです。「まだ世の終わりではない」。原文では「世の終わり」とは書いてありません。ただ「まだ終わりではない」と書かれているのです。もちろん「世の終わり」のことが言われているのでしょうが、大事なことは「世の終わり」のことはさておき、「まだ終わりではない」ということなのです。

 どんなに恐るべきことが起こったとしても、大事なことは「まだ終わりではない」という意識です。「ああ、もう終わりだ」と思えるようなことも人生にはあるのでしょう。しかし、主は言われるのです。「まだ終わりではない」と。終わりではなかったら、まだ途中経過なのです。その先があるのです。その途中経過を見て、恐れたり慌てたりしてはならないのです。

 その途中経過をイエス様は「産みの苦しみ」と表現しました。「産みの苦しみ」をわたしは経験していません。しかし、相当苦しいのだろうということは分かります。しかし、私たちは良く知っているのです。産みの苦しみは最終的な苦しみではないということ。それは途中経過なのでしょう。大きな喜びへと向かう途中の苦しみなのでしょう。

 さらに言うならば、イエス様はそれを「産みの苦しみの始まりである」と表現しました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。「悪い方向に向かっている」ように見えることは私たちの周りにも私たちの人生にもあるではありませんか。しかし、産みの苦しみについては、そうは言いません。産婦は陣痛が大きくなってきたときに、「ああ、私の状態は悪くなっているのだ」と言って絶望することはないでしょう。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。大きな喜びの時が刻一刻と近づいていることを知っているからです。それが産みの苦しみです。だから主は言われるのです。慌てるな。恐れるな、と。

自分自身に目を向けなさい
 そして、さらに主は言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。「気をつける」という言葉は前にも出てきましたが、もともとの意味は「見る」という言葉なのです。目を向けることです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とは、「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」ということでもあるのです。

 ここにおいて語られているのは迫害についてです。主はこう続けます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。会堂で打ちたたかれるとするならば、打ちたたくのは人間です。迫害というものは直接的に人間から与えられる苦しみです。苦しみが人間から来る時には、どうしても直接的に苦しみを与える人間に目が行ってしまうものでしょう。しかし、主は言われるのです。「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」。

 人に目を向けるならば、その人の憎しみや敵意が見えてくる。その人が自分に何をしたかが見えてくる。しかし、自分自身に目を向けるならば、そこで自分が為すべきことが見えてくるのです。何のためにそこに立たされているのか。証しをするためです。主は言われるのです。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)。

 今日、キリスト者であるゆえに迫害されることは皆無とは言えないにせよ、この国に生きる私たちにおいてはそれほど多くはないでしょう。しかし、人から苦しめられることはいくらでもあるに違いありません。不当な苦しみを強いられることはあるでしょう。しかし、見なくてはならないのは彼らではないのです。自分自身なのです。そこで為すべきことは何か。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と主は言われるのです。

 神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださった。神は私たちをそれほどに愛していてくださる。私たちを愛していてくださる神は、私たちの罪を赦し、私たちを必ず救ってくださる。産みの苦しみの向こうに命に満ちた大きな喜びを神は備えていてくださる。そのことを知っている私たちが、希望に満たされて福音を告げ知らせなくてはならないのです。

 さらに言うならば、その主体は私たち自身ではなく神の霊なのです。神が私たちを用いてくださるのです。主は言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。私たちが自分自身に目を向けるなら、どのような状況に置かれたとしても、そこで神が御自分の愛を現すために用いようとしている《わたし》そして《私たち》が見えてくるのです。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではありません。いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。

2013年11月10日日曜日

「あなたの神、主を愛しなさい」

2013年11月10日 子ども祝福礼拝説教
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 申命記 6章4節~9節


あなたの神、主を愛しなさい
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(4‐5節)。

 これはモーセの言葉です。モーセの遺言と言ってもよい。なぜなら、モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。一方、イスラエルは、いよいよヨルダンを渡り、約束の地に入ろうとしていました。去りゆくモーセは、これまでの四十年に渡る荒れ野の旅を振り返りながら、切々とイスラエルに語り聞かせるのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。

 「あなたの神、主を愛しなさい」。それは何を意味するのか。そこに至るまでの四十年の荒れ野の旅を思い起こす時に見えてきます。どのような旅であったかは民数記に詳細に描かれていますが、ここではモーセ自身の言葉に耳を傾けてみましょう。約束の地に入ろうとしている人々に次のように語っているのです。

 「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」(9:6‐7)。

 そのように背き続けてきた民が、約束の地を与えてくださるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。彼らは主を愛してはこなかったのです。そうではなくて、主が彼らを愛して来られたのです。その神によって、神の恵みによって、約束の地における新しい生活が与えられるのです。そこで改めて語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。ならばそれは、立ち帰るべき御方に立ち帰って、恵みに応えて生きるということに他なりません。

 しかし、私たちはもう一つのことを考えておく必要があります。話は約束の地を得たところで終わらないということです。私たちは申命記を読んでおりますが、イスラエルの歴史の物語はさらに続くのです。

 ヨシュア記から列王記へと向かう歴史物語は何を伝えているのでしょう。約束の地を得たイスラエルは、やがてそこにおいて王国を形成することになります。しかし、その王国は南北に分裂し、やがて北王国が滅び、南王国も滅んでいくのです。南のユダ王国は滅亡し、主だった人々はバビロンに連れ去られることになる。そこで列王記は終わります。つまりイスラエルは約束の地を与えられたのですが、先に四十年の荒れ野の旅を振り返ってモーセが語ったのと同じように、イスラエルは約束の地においても主に背き続けて、最終的に約束の地を失うことになるのです。

 私たちが読んでいる申命記が今の形にまとめられたのは、そのような時代においてです。そのように約束の地を失った時代に、人々は改めてモーセの説教を聞くことになりました。そこにおいて人々はもう一度聞くことになったのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 ならばそれは何を意味しますか。もう終わりだ、おしまいだ、と思えるようなところにおいて、なお語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。すべてを失ってしまったと思えるようなところにおいて、なお語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。ならば何を意味しますか。終わっていないということでしょう。すべてを失ってなどいないということでしょう。そこには残されているのです。立ち帰るべき御方が残されているのです。愛すべき御方が残されているのです。そうです、そこから主を愛して生きたらよいのです。

 今日は申命記6章をお読みしていますが、30章には次のような言葉が出てきます。 「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(30:1‐3)。さらにこう書かれています。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(30:6)。

 そのとおりに神様は彼らにされたのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。そのようにしてくださった。主は彼らにもう一度語ってくださったのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。だからこそ、今このような形で申命記が残っているのです。

 それは遠い昔の話ではありません。失って初めて気づく。そのようなことが確かに私たちにもあります。神によって恵みとして与えられていた生活が、恵みであると分からない。だから神様に背を向けて、神様に逆らって、神ならぬものを追い求めて、恵みを与えてくださっていた御方をないがしろにしてしまうのです。そのようにして恵みとして与えられていたものを失って初めて気がつくのです。ああ、恵みだったのだ、と。私たちは本当に愚かなものですから、そんなことを繰り返しているのでしょう。あのイスラエルの民のように。

 しかし、そこでなお人は神の呼び声を聞くのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。なぜなら神の愛は失われていないからです。神がそのような神であるからこそ、最終的には独り子をさえ惜しまずに世に与えられたのでしょう。神は御子を十字架にかけることさえなさったのです。御子を私たちの罪の贖いとして、私たちの罪を赦して、私たちが生きられるようにしてくださったのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と申命記に書かれていたように、そのように主を愛して生きられるようにしてくださったのです。だからこそ、私たちは今ここにいるのではありませんか。

語り聞かせなさい
 この大いなる恵み。「あなたの神、主を愛しなさい」となおも語られていることの大いなる恵み。この恵みをこそ、伝えていかなくてはならないのです。次の世代に語り伝えていかなくてはならないのです。今日の聖書箇所は次のように続きます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6‐7節)。

 私たちが子供たちに語らなくてはならないのは、自分たちの要求や希望や願望ではないのです。私たちが本当に伝えなくてはならないのは、神の恵みなのです。今もなお「あなたの神、主を愛しなさい」と言ってくださっている神の恵みなのです。主を愛して命を得ることができるようにしてくださっている神の恵みなのです。

 しかも、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」とあります。そこまで言うか、と驚きを覚えます。しかし、モーセにこのことを語らせているのは、他ならぬ神の熱情なのです。神御自身がどれほど子供たちのことを考えておられるか、どれほど子供たちに伝えて欲しいと思っておられるか、ということでしょう。

 今日は「子ども祝福礼拝」です。先ほど、一人一人の子供たちの名を呼んで、彼らの上に神の祝福を祈り求めました。しかし、私たちが子供たちの上に祝福を願う以上に、神御自身がそのことを望んでおられるのでしょう。子供たちが、主を愛して命を得るようにと願っているのは、他ならぬ神御自身なのです。だからこそ、その御方は言われるのです。「これを語り聞かせなさい」と。

 そのように神の恵みを伝えるためには、まず私たち自身が繰り返し思い起こすことが必要なのでしょう。ですから、モーセは次のように語ります。「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(8‐9節)。

 私たちがどれほど大きな愛をもって愛されているか、どれほど大きな愛をもって主は私たちの神となっていてくださるのか、どれほど大きな愛をもって、「あなたの神、主を愛しなさい」と語られているか、私たちは忘れてしまいやすいのです。人間はそれほどに愚かなものなのです。主がエジプトから導き出してくださっても、また約束の地に導き入れてくださっても、それほどまでに大きなことをしてくださっても、人は忘れてしまうのです。その恵みに基づく命令を忘れてしまうのです。だから「自分の手に結んでおきなさい。額に付けておきなさい。戸口の柱にも門にも書き記しておきなさい」とまで言われなくてはならないのです。

 そのような神の民の愚かさはイエス様御自身もよくご存じだったのでしょう。ですから、イエス様もこう言われたのです。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。そう言って、裂かれたパンを渡されたのです。ご存じでしょう。最後の晩餐での出来事です。「記念として行いなさい」。そのことを繰り返し行わなかったら、忘れてしまうから。イエス様が自らの体を裂いて渡されるようなことをされたとしても、それすらも忘れてしまうのが人間だからです。

 ですから、教会はイエス様を記念してパンを分かち合うことを行ってきたのです。それを二千年間、繰り返し行ってきたのです。ですから、この礼拝堂にも聖餐卓が置かれています。その背後には十字架があるのです。しかも、聖餐は単なる「しるし」ではありません。聖霊のお働きによって、そこにキリストが現臨してくださるのです。キリストが現に私たちに触れてくださり、キリストの贖いの恵みに、現実に繰り返し私たちは与るのです。そうまでしなければ、私たちは忘れてしまうのでしょう。私たちはここにおいて思い起こさなくてはならないのです。キリストの体と血とに与りながら、思い起こさなくてはならないのです。神の愛を思い起こさなくてはならないのです。そして、神を愛して生きることへの招きを思い起こさなくてはならないのです。

 今日はこうして子供たちと共に礼拝を捧げました。心を合わせて子供たちのために祈りました。そのような私たちに必要なことは、まず私たち自身が神の恵みを思い起こし、立ち帰り、「あなたの神、主を愛しなさい」という呼びかけに応えてここから生き始めることです。そして、「これを語り聞かせなさい」という主の求めを、何よりも大事なこととしてしっかりと受け止めることなのです。

2013年11月3日日曜日

「失われることのない希望」

2013年11月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 1章1節~9節


喜びをもって生きる
 今日共にお読みしましたのはペトロの手紙です。冒頭にありますように、これはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられた回覧状です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあったことが分かります。具体的には迫害の苦しみの中にあったということでしょう。彼らは、キリスト者であるというだけで、非難や中傷、不当な扱いを耐え忍ばねばなりませんでした。そのような人々を励まし、適切な指示を与えるために、この手紙は書かれたのです。

 しかし、そのように苦しみの中にある人々に書かれた手紙であるにもかかわらず、その文面からは暗く重苦しいものは全く伝わってきません。むしろ伝わってくるのは底抜けた明るさです。ペトロは苦しみの中にある人々に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)と書き送るのです。さらに彼はこう書いています。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」(6節)。そして、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(8節)と書いているのです。

 これは私たちに何を示していますか。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできるということです。人は置かれている環境や境遇によってどう生きるかを決められる必要はないということです。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はないということです。他の人が何をしようが、何が起ころうが、人は喜びを持って輝いて生きることができるのです。

生き生きとした希望
 ではどうしたら、そのように喜びを持って生きられるのでしょう。彼らが持っていたのは何だったのでしょう。それは希望です。新共同訳の小見出しにもなっている「生き生きとした希望」です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。これが彼らの喜びの源なのです。

 「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。味わい深い表現でしょう。わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのではありませんか。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を与え」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかった。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても神にとっては終わりではなかったからです。そうです。人間にとってピリオドであっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないのです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によって。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何ですか。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることのできる御方なのです。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まったのです。ただ神によって。そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではなかったのです。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのでしょう。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。一般的にはどうですか。死によって未来が失われるのでしょう。死は未来を奪うのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということではありませんか。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、一般的に言うならば、未来を失っていくということではありませんか。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来があるのです。それをペトロは次のように表現しているのです。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)。

 死の先は私たちの想像を超えた未来です。ですから、ある意味で「財産」という陳腐な言葉をもってしか表現できない。そのように、私たちには思い描くことさえできないわけですが、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来であることに間違いはありません。

 そのように、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。死の床においてもなお、期待をもって最後まで生きることができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。そうです、人は人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで喜びをもって生きることができる。輝いて生きることができる。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

わたしたちを新たに生まれさせ
 しかし、そのように生き生きとした希望に生きるために、なお大事なもう一つのことがあります。今、神が「生き生きとした希望」を与えてくださった、と言いました。生きている希望は神から来る。ならば人生において決定的に重要なことは、その神との関係がどうなっているかということです。もし神との関係が悪いままであるならば、人は喜ばしき未来を期待できるでしょうか。最終的に人生最後の時にも、死の向こう側になお喜ばしき未来を期待できるでしょうか。できないだろうと思うのです。大事なのは神との関係なのです。神との関係が悪ければ、神がおられることは希望につながらないのです。そのままでは「生き生きとした希望」に生きることができないのです。

 だからこそ、神はこの世にキリストを遣わされたのです。私たちと神との関係を良くするためです。どのようにして、関係を良くするのでしょう。独り子なるイエス・キリストを十字架におかけになり、私たちの罪の贖いとすることによってです。神の側から私たちに対して、罪の赦しを宣言することによってです。そのようにして、神に愛されている子どもとして私たちが新しく生きることができるようにしてくださったのです。親子の関係という、この上ない良い関係に生きられるようにしてくださったのです。

 それを聖書はこのように表現しているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3節)。そのように、どんな人であっても、新しく生まれた神の子どもとして生き始めることができるのです。これまでがどうであったかが問題ではないのです。いつでも大事なのはこれからどう生きるのかです。「生まれる」とはそういうことでしょう。そこからがスタートなのです。人は神の子どもとして生き始めることができるのです。それはまさに福音です。良き知らせです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。良き未来を待ち望む喜びをもって生きることができるのです。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできます。暗闇の中にあっても人は輝いて生きることはできます。置かれている環境や境遇によって人生を決められる必要はありません。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はありません。神を見上げ、信仰によって神の子どもとして希望をもって生きることができるのです。

2013年10月27日日曜日

「神を礼拝するとはいかなることか」

2013年10月27日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 4章1節~11節


 私たちは日曜日に教会に集まり、礼拝堂において約1時間を過ごします。人が教会に来はじめるきっかけは実に様々です。ですから、この約1時間の過ごし方も様々でしょう。ある人は聖書を学ぶために来たかもしれませんし、ある人は心の落ち着く場所を求めて教会に来たかもしれません。その他、初めの求めや動機は何であっても良いと思います。入口はいろいろあって良いのですから。

 しかし、そのように始まった教会生活において、ある時点から「私たちは共に礼拝をしているのだ」という明確な意識を持ってこの時間を過ごすようになることは大事なことです。前奏前の時間からその意識をもって参加するなら、この時間の過ごし方は決定的に違ってくるからです。そして、この時間の過ごし方が違ってくるということは、この礼拝から始まる一週間が違ってくるということであり、さらには積み重ねである人生そのものが違ってくることでもあるのです。

 そこで今日は、共に礼拝を捧げるとはいかなることを意味するのかを知るために、人々が礼拝をしている場面を伝えている聖書箇所をお読みしました。私たちが今共に礼拝を捧げている時間がどのような意味を持っているのか、この聖書の御言葉から共に聞きたいと思います。

共にイエスと結ばれて
 今日お読みしたのは、聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録に書かれているのは、ヨハネが見た幻です。それは特殊な神秘体験です。しかし、それがただ個人に関わることではなく、諸教会にとって、さらに言えば後々の教会にとっても大事なことであるゆえに、このように書物として読まれ続けてきたのでしょう。しかもこの書物の冒頭を読みますと、明らかにこれは個人的に読まれるためではなく、礼拝において朗読されるために書かれたことが分かるのです。今、私たちがこうしているようにです。

 そのように幻を見たヨハネは、その時、大きな苦しみの中にいました。パトモス島に抑留されていたのです。1章9節以下に次のように書かれています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9‐11)

 ここで大事なことが二つあります。一つは、それが「主の日」だったということです。日曜日です。日曜日ですけれど、かつてしていたように集まって礼拝することはできません。流刑の身ですから。しかし、それでも主の日であることを思って祈っていた。ですから主の日において「わたしは“霊”に満たされていた」と書かれているのです。

 そして、もう一つ、彼は自分のことを「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言っていることです。ヨハネは流刑の苦しみの中にあります。しかし、彼は孤独ではありません。彼は他のキリスト者と結ばれていることを知っているからです。「共にイエスと結ばれて」いるのです。特にそのことを思うのは「主の日」なのでしょう。同じ主の日に、エフェソやスミルナ、ペルガモンなど、それぞれの地において集まって礼拝している人たちがいることをヨハネは知っているのです。ある人たちは危険の中で、命がけで集まって、礼拝している人たちがいることを知っているのです。その人たちと体は離れているけれど、一緒に主に結ばれて、一緒に礼拝していることをヨハネは知っているのです。それが主の日の礼拝なのです。

 私たちは毎週、ここに集まっている私たち自身のために祈るだけでなく、ここに集まることのできない人たちのために祈ります。入院している人たち、自宅で療養している人たち、年老いた人たちのために祈ります。それは毎週繰り返されていますが、決して単なる形式的なことではありません。私たちは主の日に礼拝する時に、ここに集うことのできない兄姉とも互いに結ばれているのです。いやそれだけでなく、同じように主の日に礼拝している他の教会、他の国々の教会とも結ばれているのです。さらには天と地の聖徒たちが結ばれているのです。それが主の日の礼拝なのです。ですからヨハネは、天において主を礼拝している人々の幻を見せていただくのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。

開かれた門が天に
 今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)。これ一つ取っても、本当に嬉しい言葉ではありませんか。天の門は開かれているのです。閉ざされてはいないのです。ヨハネはそれを見せていただいたのです。

 天の門は開かれている。誰が開いてくれたのでしょう。3章7節にこんな言葉があります。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(3:7)。これはイエス様のことです。イエス様こそが鍵を握っているのです。そのイエス様が天の門を開いてくださったのです。本来だったら閉め出されてしかるべき私たちがのために、十字架にかかって、罪を贖ってくださって、罪の赦しを与えてくださって、その門を開いてくださったのです。主が開かれたならば、誰も閉じることはできないのです。

 ヨハネが主の日に見たのは、この開かれた天の門でした。それはヨハネという個人の特殊な体験です。しかし、先にも申しましたように、その幻が書かれ礼拝において朗読されているのは、私たちのためでもあるのです。天の門が開かれているのを私たちは肉の目で見ることはできません。しかし、確かに救いの門、天の門はこうして主の日に礼拝している私たちに向かって大きく開かれているのです。

 逆に言えば、もし天の門が開かれていないなら、私たちがしていることは所詮この世の次元のことに過ぎないということでしょう。せいぜい聖書の知識を得、より良い人生の指針を得、あるいは何らかの心理的な効果を得る程度のことでしょう。しかし、実際にはそうではないのです。天の門が開かれているのです。私たちのこの集まりは天と関わっているのです。天はここに集まっている私たちに対して閉ざされていないのです。だからこそ、迫害の時代であっても、命がけで人々は集まって礼拝をしたのです。それが天に繋がる永遠の価値を持っているからです。

 そして、さらにヨハネが開かれた門の次に見たのは玉座でした。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。玉座というのは王の座のことです。すなわち王としての神を見たということです。神が王として支配しているのを見たのです。

 現実に肉眼で見えるのは人間が支配する世界です。ヨハネが生きていた当時でありますならば、それはローマ皇帝が頂点に立って支配している世界です。パトモス島に抑留されているヨハネもまた、ローマ皇帝の権力のもとに、その悲惨かつ孤独な生活を強いられていたのです。教会はこの世の力が嵐のように吹きまくる中にあって翻弄される木の葉のような存在にしか見えなかったでしょう。しかし、ヨハネはそこで神の玉座を見たのです。その王なる神を礼拝する天の礼拝を見たのです。そうです、本当の支配者はまぎれもなく王なる神であることを目の当たりにしたのです。

 ヨハネは言葉を尽くして、彼が目にした神の玉座の栄光を描写しようと試みます。「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(3節)。もちろんこの宝石による描写はあくまでも地上の言葉です。地上の言葉では十分に表現できるわけはない。しかし、それでも言わんとしていることは分かります。栄光に輝くまことの王がおられる。礼拝とはそのまことの王を仰ぐことに他ならないのです。

 私たちはまことに不遜なものです。人間のすることがすべてであるかのように見ているのです。人間の力がこの世界を最終的に左右するかのように、人間のすることが自分の人生を最終的に左右するかのように生きているのです。しかし、そうではないのです。天には玉座があるのです。最後の言葉を持っているのは王なのです。そのことをへりくだって認めてまことの王を仰ぎ望み礼拝する。それが主の日において私たちがしていることなのです。

冠を投げ出して
 またヨハネはそこに24人の長老たちを見ました。また玉座のまわりに四つの生き物を見ました。それらについては実に不思議な描写が続いています。さて、これら長老たちや四つの生き物が「何であるか」ということに思いを巡らすこともそれなりに意味があろうかと思いますが、今日はやめておきます。ここでは特に彼らの礼拝の姿に注目したいと思います。

 この四つの生き物は、夜も昼も絶え間なくこう言い続けていたというのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(8節)。さらに、24人の長老たちは、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出してこう言っていたというのです。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。

 このような描写を読みますと、私たちはまだまだ本当に知るべきことのごくごく一部しか知らないのだと思わされます。ここには信仰歴の数十年の人もいれば一年未満の人もいれば、教会に来はじめて一ヶ月未満の方もいらっしゃるわけですが、私たちは礼拝することの大きな喜びをまだまだ本当は知らないのだと思います。これから味わい知るべきことがたくさん残されているのです。

 本当に私たちが天の門が開かれているのを知り、神の玉座の御前にあって礼拝していることを知るならば、もう昼も夜も絶え間なく神を誉め讃えずにはいられなくなるということでしょう。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。そのように延々と賛美せずにはいられなくなる。一つの讃美歌を4節まで歌って終わり、ではないのです。この得体の知れない生き物の姿は、本当に主を礼拝することを知っている者の姿なのです。

 そして、主を礼拝することを本当に知るならば、冠をかぶっている者がもう自分の冠をその前に投げ出したくなるというのでしょう。もう自分の栄光など、自分が受けるべき報いなど、どうでも良くなるのです。自分がどう評価されたか、どういう扱いを受けたか、どう報いられたか…そんな思いを後生大事に抱えているとするならば、それはまだまだ主を礼拝する本当の喜びを味わい知っていないということなのでしょう。

 ここに描かれている礼拝を私たちは天と一つになって捧げたいものです。私たちは信仰生活において、もっともっと主の日にこうして集まって礼拝を捧げることの尊さ、その真の喜びを味わい知る者となりたいものです。

2013年10月20日日曜日

「喜びに満ちた終末」

2013年10月20日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章7節~13節


かしこより来たりて
 先ほど使徒信条を御一緒に唱和しました。その中で私たちはキリストについて「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と私たちの信仰を言い表しました。復活し、天に挙げられたキリストは再び来られる。これを「キリストの再臨」と言います。教会はキリストの再臨を二千年間信じ続け、その信仰を伝え続けてきました。数え方にもよると思いますが、新約聖書において直接的・間接的に「キリストの再臨」に言及している箇所は三百以上にもなるとも言われます。新約聖書の記述のすべてはキリストの再臨を前提として書かれているとさえ言えるでしょう。今日の福音書朗読においても、これがキリストの再臨を前提として書かれていることがはっきりと見て取れます。花婿がやってくる。この花婿はキリストです。

 もっとも、キリストの再臨というのは現実感をもってイメージしにくいのも事実です。イエス様が捕らえられ、ユダヤ人の議会に立たされ、「おまえは神の子、メシアなのか」と問われた時にこう言われました。「あなたたちはやがて、人の子(すなわちキリスト)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(26:64)。しかし、これが起こるということを現実的に思い描けますか。それはとても難しいことだろうと思うのです。初めて「キリストの再臨」について聞く人にとっては、自分とは関係ない戯言に聞こえるかもしれません。

 しかし、そうではないのです。「キリストの再臨」を信じるか否かは、私たちの人生を決定的に左右するのです。というのも、「キリストの再臨」を信じる信仰は、私たちがこの世界をどう見るのかということに深く関わっているからです。そして、私たちがこの世界をどう見るかで、その中に生きる私たちの人生は決まってくるのです。

 この世界は悪と悲惨に満ちた世界です。それは紛れもない事実です。しかし、聖書はこの世界について、キリストが再び来られる世界なのだと言っているのです。私たちは悪と悲惨に満ちた世界にあって多かれ少なかれ「わたしには何ができるのか」と考えながら生きているのでしょう。そうです、私たちの為し得ることはある。為すべきことはあります。しかし、それでもなお人間が行うことがすべてではないと聖書は教えているのです。この世界の救いにおいて決定的に重要なことは時満ちて天から来る。神様の方から来る。神様御自身が決着をつけられるのです。それが「キリストの再臨」の意味するところです。

 この世界を「キリストが再び来られる世界」として見るならば、そこに生きる私たちの日々の生活も変わってくるのです。日常の小さな出来事にどう関わるかということが変わってくるのです。この世に生きるかぎり、私たちは日々の生活の中で他者の悪のゆえに苦しみ、また自分の罪のゆえに苦しむことになるのでしょう。あるいは誰の悪のゆえであるか定めることのできないような不条理に苦しむことにもなるのでしょう。そこで何ができるかを考え、何をしなくてはならないかを考えながら生きることになる。しかし、そこで本当に大事なことは時が満ちて天から来るのだと信じるのか信じないのかは大きな違いではないですか。本当に大事なことは時が満ちて神様の方から来る。神様がしてくださる。そう信じるのか信じないのかは大きな違いでしょう。

 実際そのことを信じないから、やたらに焦って、苛立って、むやみに争うようなことをして、その結果、為し得ることがあるのに、為すべきことがあるのに、それができなくなるのです。その意味において、「キリストの再臨」を信じる信仰は私たちの人生を決定的に左右するものとなるのです。そこで今日は「花婿が来る」という話を私たちに深く関わっている話として読みたいと思うのです。

愚かなおとめと賢いおとめ
 ここに「十人のおとめ」が出てきます。彼らは婚宴に招かれている人々です。多くの人々が招かれるのです。そして、招かれた人々には役割が割り当てられます。結婚式、またその祝宴のためには準備すべきことがたくさんあったからです。花嫁は十人の友達に花婿を迎える役目をお願いしました。それがここに出てくる十人のおとめです。

 当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われるのです。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるのです。そこで花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人です。時としては町外れにまで出て花婿を迎えるのです。時には花婿が遅くなることもあるでしょう。夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。それが彼らの役目です。

 しかし、その十人が二通りに分かれたというのです。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と主は言われます。賢い者と愚かな者に分かれるのです。それはいったいどういうことでしょうか。続いて聖書はこう説明しています。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」(3‐4節)。

 「賢いおとめたち」は油を用意していました。油を用意していた人たちというのは、どういう人たちでしょうか。それは、花婿が来るまで、たとえ遅くなろうとも、ひたすら待つつもりでいた人たちです。言い換えるならば、花婿を迎え、そしてさらに花嫁の家にまでお連れして、共に祝宴に与るその時までのことを考えて行動していた人たちだということです。彼女たちには務めがありますが、本当に重要なことは到着した花婿がしてくれることなのでしょう。彼らを祝宴へと迎え入れてくれるのは花婿なのですから。だからその花婿を待つ。遅くなっても待つつもりでいる。だから油の予備も用意しておく。「賢いおとめたち」はそういう人たちです。

 一方、他の五人は違います。その時、その場のことしか考えていなかった人たちです。ランプは持って出ました。なぜですか。夜だったからです。そのように目の前のことに対処することしか考えていない。今どうであるか。今どういう状態にあるか。今何が必要か。そのことしか考えていない。待つことなどは想定していない。花婿がしてくれることまでを思ってひたすら待つことなどは考えていない。「愚かなおとめたち」はそういう人たちです。

 もっとも賢い五人も愚かな五人もある時点までは何も変わらないように見えるかもしれません。先のことまで考えて油を用意していようが、目先のことだけ考えてともし火を持って出ただけであろうが大差なく見えるのです。このたとえ話においてはあえて、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)と書かれています。そうです。賢い人も愚かな人もです。そのように、途中まではこの両者はまったく区別つかないのです。

 しかし、途中においては大差ないとしても、結末では大きな違いが出てきます。イエス様のたとえ話においては、このように表現されています。「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(10‐12節)。そのように、このたとえ話は愚かな人と賢い人の話です。最終的にその違いがはっきり現れるという話です。

分けることのできないもの
 そこで注目すべきもう一つのことがあります。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言いました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(8‐9節)。そのように、油を用意していた五人は他の五人に油を分けてあげなかった、ということです。

 これが助け合いを教えるたとえ話であったならば、そこで「彼らは油を分け合って、ともし火の数を減らし、一緒に花婿を迎えましたとさ」という話になるでしょう。しかし、主はそのようには語られませんでした。ここには、人生の厳粛な一面がはっきりと語られているのです。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがあるということです。その人がどのように生きてきたかということは、最終的には他の人と分かつことも、代わることもできないことなのです。「賢いおとめ」として生きたかそうでないかは、その人の人生なのであって、他の人は代わってあげられないのです。

 それはまた、周りの人の責任にできない厳粛さであるとも言えるでしょう。「愚かなおとめたち」は、「あの人たちが油を分けてくれなかったからです」と言って彼らのせいにすることができなかったのです。私たちは、自分がどう生きているかということについて、とかく周りの人々の責任にしたくなるものでしょう。「あの人のせいでこうなった。この人のせいでこうなった」と言いたくなるものなのです。しかし、最終的に問われるのは、「他の人がどうであったか」ではないのです。あくまでも、「あなたはどうであったか。あなたはどう生きたか。賢いおとめとして生きましたか」が問われるのです。

 言い換えるならば、「賢いおとめ」になるか「愚かなおとめ」になるかは、他の人や他の何かに決めさせてはならない、ということでもあります。最終的には他の何ものの責任にもできないのですから。

 ある人は不幸な家庭環境で育ったかもしれません。ある人は悲しい幼少期を過ごしたかもしれない。しかし、そのことに未来を決めさせてはなりません。どう生きていくのかということを決めさせてはなりません。あるいは、誰かに傷つけられて、人生の大きな部分を損なわれた人がいるかもしれません。しかし、自分を傷つけた人に、自分の人生を決めさせてはならないのです。自分がどう生きていくかをその人に決めさせてはならないのです。先週一週間の間にも、もしかしたら不愉快なこと、ガッカリすることがあったかもしれません。しかし、その出来事に、今週からどう生きていくかを決めさせてはならないのです。

 あくまでも私たち自身が問われているのです。花婿を待つ者として生きるのか。キリストの再臨を信じる者として生きるのか。この世界の救いにおいて決定的に大事なことは神様から来ることを信じて生きるのか。そのように日々の生活をも生きるのか。為し得ること、為さねばならないことを行いながら、ひたすら主に期待し、主を待ち望んで生きるのか。これまでがどうであれ、ここから私たちはそのように生きることは可能なのです。そして、それこそがキリストの再臨される終末を喜ばしき終末として迎えるために必要不可欠なことなのです。

2013年10月13日日曜日

「与えられているものを生かしていますか」

2013年10月13日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章7節~11節

    マタイによる福音書 25章14節~30節

神のさまざまな恵みの善い管理者として
 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」(1ペトロ4:10)と語られていました。それは「賜物」です。私たちが何かをしたことに対する報酬ではありません。何もしないうちに神が備え、与えてくださった「賜物」です。ですから「神のさまざまな恵み」と言い換えられています。「さまざまな恵み」ですから一種類ではありません。自分に与えられているものと他の人に与えられているものは異なるのです。他の人に与えられているものが自分には与えられていない。しかし、他の人に与えられていないものが自分には与えられている。どちらも「恵み」であり「賜物」です。

 私たちはとかく他の人に与えられていて自分に与えられていないものばかりが気になります。ですから、「わたしには何も与えられていない」などと言い出す人もいる。しかし、それを本当に神様に向かっていえますか。わたしは何ももらっていません、と。言えないだろうと思うのです。私たちは、それぞれ、恵みとして与えられているものがある。「賜物」が与えられているのです。

 そこで重要なことは、善い管理者となることです。そう書かれていましたでしょう。「神のさまざまな恵みの善い管理者として」と。管理者はオーナーではありません。先ほどから「与えられている」という言い方をしていますが、正確に言えば「託されている」ということです。管理者なのですから。期間限定で託されている。やがてはすべてをお返しするのです。それが私たちの人生です。

 期間限定で託されているに過ぎないものをお互いに比較しても大した意味はありません。誇ることも卑下することも意味のないことです。いずれにせよやがてはお返しするものですから。大事なことは、とにかく自分に託されているものを管理することです。善い管理者となることです。それが私たちの人生の課題です。

 託してくださった神様が喜ばれるように管理するとはどういうことでしょう。管理者には何が期待されているのでしょう。「その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書かれています。これが神様の望んでおられることです。最終的に問われるのは、どれだけ他者のために用いることができたか、お互いのために用いることができたか、ということです。それをもって、どれだけ人に仕えることができたか、ということです。

 世の中には、「わたしは満足です。幸せな人生でした。もういつ死んでも思い残すことはありません」とおっしゃる方もいます。言葉だけの人もいるでしょうが、本気でそう言うことのできる人もいないわけではない。しかし、善い人生であったかを計る尺度は、どれだけ自分を満足させられたかではありません。どれだけしたいことができたかではありません。どれだけ幸福であったかでさえありません。神の判断において重要なのは別のことです。主は言われるでしょう。「満足でしたか。幸せでしたか。それは結構なことです。しかし、あなたは賜物をどれだけ他者のために用いましたか。それを互いに仕えるために生かしましたか。」

 逆に言えば、苦難に満ちていたとしても、人から何一つ評価されることがなかったとしても、あるいは何もかもが中途半端に終わるように見えたとしても、それで人生が無意味になるわけではない、ということです。そこで自分の賜物を精一杯用いたならば、他者のために用いたならばそれでよいのです。神様にとって重要なのはそのことなのですから。この手紙を書いたペトロにしても、あるいはパウロにしても、この世においては決して絵に描いたような幸福な人生を全うしたわけではありません。晩年は獄中での生活でした。しかし、そこにあっても善い管理者として生きた。それでよかったのです。

忠実な良い僕だ。よくやった。
 そのように、重要なのは託されているものが何であるかということよりも、どう管理するか、どう用いるかなのです。そのことをイエス様はたとえ話を用いて生き生きと描き出しています。

 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:14‐15)。

 先ほどのペトロの手紙ですと「さまざまな恵み」となっていましたけれど、イエス様のたとえ話では、これが「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」として表現されています。こちらの方が私たちにはピンとくるかもしれません。「あなたと他の人では異なる恵みが与えられているのですよ」と言われれば分からないことはないのですが、やはり与えられている量が違うと私たちには感じるではないですか。あの人には多く与えられているけれど、わたしには少ししか与えられていない、というように。「五タラントン」と「二タラントン」の方が確かに私たちの感覚に近いようです。ですから時として神様は不公平に思えることもあるのでしょう。

 しかし、ここでイエス様は「それぞれの力に応じて」という一言を忘れません。つまりある人に「五タラントン」、ある人に「二タラントン」を託したのは、主人の気まぐれではないということです。しっかり見て、考えた上で、「五タラントン」にし「二タラントン」にしたということです。私たちにおいて「さまざまな恵み」が与えられる時も同じだということでしょう。私たちを知った上で、神様のお考えに基づいて、信頼して、それぞれ異なる賜物を与え、異なる恵みの管理を託されるのです。

 いずれにしても、あくまで期間限定です。「旅に出かけた」のですから、出たままではありません。必ず帰ってくるのです。必ずお返ししなくてはならない時が来るのです。そして、どう用いたかが問われる時が来るのです。ですから、イエス様の話においても、「その時が来た」という展開になっているのです。

 さて、主人が帰ってきました。その場面でのやりとりをもう一度読んでみましょう。「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」(同20‐23節)。

 これを読んですぐに気づきますのは、僕の報告はそれぞれ異なるけれど、それに対する主人の言葉は同じだということです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。原文においても一言一句同じです。一人は五タラントンもうけた。一人は二タラントンもうけた。しかし、主人にとっては五タラントンだろうが二タラントンだろうがどうでもよいのです。主人が喜んでいるのは「忠実な良い僕」だということなのです。

 忠実な良い僕というのは、主人が望んでいることを行う僕です。主人である神様が望んでおられることって何ですか。先ほどのペトロの手紙にありました。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。

 ある人は託されているものを用いて大きなことをするのでしょう。ちょうど五タラントンもうけた人のように。ある人は様々な制約のもとにあって地味な小さなことをして一生を終えるのでしょう。二タラントンもうけた人のように。しかし、神様にとってはどちらでもよいのです。託されているものを神様の喜ぶように用いさえしたならば。言ってくださる言葉は同じです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

タラントンを土に埋めた人
 ところで、ここには一タラントンを託された僕も出てきます。彼の言葉を聞いてみましょう。「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』」(同24‐25節)。そして、この僕は主人から「怠け者の悪い僕だ」と叱られて、厳しい裁きを受けることになるのです。

 さて、この僕はそんなに悪いことをしたのでしょうか。そうは見えないでしょう。預かった金はちゃんと返したのですから。しかし、イエス様の言わんとしていることは明確です。大事なのは「用いたかどうか」だということです。用いないということは、神の目にそれほど大きなことなのだ、ということなのです。

 どうして用いることができなかったのでしょう。どうして土に埋めてしまったのでしょう。それは「成果こそがすべてだ」と思っているからです。主人は成果をこそ求め、成果をもって評価すると考えているからです。主人は「刈り取り」「かき集められる厳しい方」だ、と。

 そもそも「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」という言葉はどこから来るのでしょう。それは、「自分のところには蒔かれていない。自分のところには散らされていない」という意識から来るのでしょう。「あの人には五タラントン分蒔かれていますよ。あの人には二タラントン分蒔かれていますよ。でも、私にはせいぜい一タラントンだ。それなのに成果ばかり求められる。蒔いたものに見合わないものを刈り取ろうとされる。ひどい主人だ。」――そんな思いが見え隠れしませんか。

 しかし、神様に対してそんなことを思っていたら、生かせるものも生かせやしません。不平や不満ばかり言っていたら、用い得る得るものさえも用いることができません。大事なことは成果ではないのです。用いることなのです。神様が喜ばれるような仕方で。それは「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」ということです。託されたのが一タラントンだっていいではないですか。神様の喜びを思って用いたならば、主は最終的に言ってくださるでしょう。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と。

2013年10月6日日曜日

「キリストの命によって結ばれて」

2013年10月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~26節


 今日は世界聖餐日です。世界中の多くの教会が私たちと同じように聖餐を行っていることを思いながら私たちも聖餐にあずかります。聖餐式は、主が弟子たちと食された最後の晩餐に由来します。今日はその聖書箇所が読まれました。

引き渡される夜
 今日読まれた聖書箇所には、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り…」と書かれていました。最後の晩餐がなされた夜、それは「引き渡される夜」と表現されています。イエス様が裏切られた夜です。神の御子が銀貨30枚で売り渡されることになる夜です。

 その食事が行われたのが「夜」であったというのは、ある意味でとても象徴的です。それは闇に覆われた世界のただ中で行われた食事でした。この食事から始まって、福音書が描き出す一日の出来事は、まさにこの世の暗闇が何であるかを描き出していると言えるでしょう。神の愛を語り、神の愛を現されたイエス・キリストは、この数時間後に捕らえられることになります。神が遣わされた独り子は、人間による不当な裁きによって死に定められます。唾をかけられ、鞭打たれ、卑しめられ辱められ、十字架を負わされ、その十字架に釘づけられ、殺されることになるのです。

 人はこの世のありさまを見て「暗い世の中だ」と口にします。降りかかってくる災いの中で「暗い人生だ」と思うこともあるのでしょう。しかし、この世界の本当の暗さは神の愛に背を向けているゆえの暗さなのです。神の光に対して自らを閉ざし、自らを暗闇に閉じ込めてしまっている暗さなのです。愛の源であり命の源である神に背を向けるならば、罪と死が支配することになるのです。この世界はそのように罪と死が支配する世界であったし、今日もなおそのような「夜」を私たちは生きているのです。

 そのように、闇に覆われた夜の世界のただ中で、主は最後の晩餐を弟子たちと共にしておられました。その後にご自分の身にどのようなことが起ころうとしているかもご存じの上で、主はパンを手に取られたのでした。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り」――そして聖書はこう続けます。「感謝の祈りをささげてそれを裂き…言われた」。主は「感謝の祈り」をささげて弟子たちにこう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:24)。また、杯も同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(同25節)。

 イエス様は十字架へと向かっておられました。自分自身の死の時が刻一刻近づいていることを知っていました。しかし、主は終わりへと向かっていたのでも、終点に立っていたのでもありませんでした。主は始まりを思っていたのです。始まりを感謝し、祝っていたのです。主は確かに新しいことが始まっているのを見ておられた。十字架の死において、最終的に勝ち誇るのは罪でも死でも悪魔でもないのです。それは新しい神の御業の始まりなのです。ですから主は感謝をささげながらパンを裂きました。それはユダヤ人が食事においては必ず捧げるいつもの感謝の祈りだったのでしょう。しかし、そこで感謝し祝われていたのは、新しい始まりを告げる食事だったのです。

 そこにおいて始まっている新しい神の御業。それを主は「新しい契約」と呼びました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」新しいことが始まり、それが続いていくのです。ですから、これからのことを主は弟子たちに語るのです。「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と。

 主が十字架で流される血によって、新しい契約が立てられると主は言われました。それは、神と人との新しい絆です。それは神がかつて預言者エレミヤを通して語られたことの実現に他なりませんでした。エレミヤ書には次のように書かれています。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)。

 そのように主の流された血によって、新しいイスラエル、新しい神の民が生み出されようとしていたのです。新しい契約の民が生み出されようとしていたのです。そこにおいて、エレミヤを通して主が語られたように、「わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる」ということがまさに実現しようとしていたのです。あの夜、そして続く十字架の出来事において、この暗闇の覆った世界のただ中で、本当に小さくですが、誰にも知られないような小さな出来事としてでしたが、確かにそこに神による新しい始まりがあったのです。

 そして、今日、私たちがここにいるということは、主を記念して聖餐を行うこの場にいるということは、あの日始まったことに、主の御業に、私たちもまた与っているということなのです。神が私たちに対しても、「わたしはあなたの神である。あなたはわたしの民である」と言ってくださるのです。

主の死を告げ知らせる
 そして、私たちがこうして神の民とされ、繰り返し聖餐を行う教会としてこの地上に置かれていることには、主の目的があるのです。聖書には何と書かれているでしょうか。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)。そうです、教会は聖餐を代々に渡って行いながら、主の死を告げ知らせてきたのです。私たちも繰り返し聖餐を行いながら主の死を告げ知らせることを続けていくのです。それが教会なのです。

 「主の死を告げ知らせる」とはどういうことでしょう。イエス・キリストが十字架にかけられて死んだということを告げ知らせることは何を意味するのでしょう。それは第一に、この世界が御子を十字架にかけた世界であることを告げ知らせることを意味します。この世界は神の救いの御手を拒否した世界であり、神の愛を決定的な仕方で拒否した世界であるということです。この世界は神の愛に背を向けた世界であったし、今もそうあり続けているということです。そして、神の愛に背を向けた暗闇は、外なる暗闇であるだけでなく、私たちの内なる暗闇でもあるということです。私たちは確かに神に背を向けた世界に生きているし、その世界と一つとなって生きてきたのです。そのように「主の死」は神に背を向けたこの世界の罪、そして私たちの罪を指し示します。「主の死を告げ知らせる」とはこの世界の罪、私たちの罪を告げ知らせることを意味するのです。

 しかし、「主の死を告げ知らせる」ということは、それだけに留まりません。「主の死」は、そのように神の愛に背を向けたこの世界に対する神の愛、私たちに対する神の愛をも指し示しているのです。神は御自分に背いたこの世界にあえて御子を送られました。御自分に背いたこの世界の罪を贖うために独り子を犠牲にされたのです。「主の死を告げ知らせる」とは、神の愛を告げ知らせることでもあるのです。

 この世界は罪の贖いの十字架が立てられた世界です。この世界は贖いの血が流された世界です。この世界が今もなお神に背を向け続け、暗闇の中に留まっているとしても、そして、現実に暗闇の中に滅びていくようにしか見えない世界であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。なぜなら主はこの世の罪のために死なれたのだから。たとえこれまで神に背を向け、今もなお神に背き続けている人がいたとしても、今までずっと神の光に自らを閉ざして暗闇の中を生きてきた人であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。主はその人のためにも死なれたのだから。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、私たちをどこまでも追い求め、どこまでも関わり続ける神の愛を告げ知らせることに他ならないのです。神はこの世界をあきらめてはおられない。神はいかなる人についてもあきらめてはおられない。神は関わり続けられるのです。いつまで。世の終わりまで。だから「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と書かれているのです。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、神の愛を告げ知らせることであるのですから、それはまたこの世界に希望を告げ知らせることでもあるのです。神が愛して独り子を送られた世界であるならば、この世界を覆う暗闇は永遠に続くことはないのです。闇には終わりがあるのです。夜は終わるのです。「主が来られるときまで」と書かれているとおりです。そう、主が来られる。それは夜明けの到来です。朝が来るのです。同じ闇夜であっても、夜中の十二時と夜中の三時では意味合いが違います。その暗さを私たちは区別することができないかもしれません。夜中の三時の方が、夜中の十二時よりも暗いかもしれません。しかし、確実に夜明けは近づいているのです。そのことを私たちは告げ知らせる。「主の死を告げ知らせる」とはそういうことです。


 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」そのように言われた主の御言葉に従って、私たちは聖餐を行います。主の死を告げ知らせる教会として。今日は世界中の教会と共にということを意識して聖餐を行います。これは新しい契約です。既に新しいことが始まっています。この世界に、そして私たちの人生に。キリストの流された血によって結ばれて、キリストの命によって結ばれて、私たちが今こうして共にいることがそのしるしです。

2013年9月29日日曜日

「先に神の国に入る人たち」

2013年9月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21章18節~32節


 今日の福音書朗読においては三つの話が読まれました。その一つ目は、イエス様がいちじくの木を枯らした話です。イエス様がなさった奇跡の物語は福音書に数多く記されていますが、この話は明らかにそれらの中でも異質です。イエス様がいちじくの木を呪うと、木が枯れてしまった。実がなっていないからと言っていちじくの木を呪ったこと自体に違和感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、問題はその続きです。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねた弟子たちにイエス様はこう答えるのです。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(21‐22節)。

 「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく…」と主は言われるのですが、そんなことできるようになりたいと思いますか?木を呪うとたちどころに木が枯れる。人間に対して破滅と滅亡を宣言するとそのとおりになる。そんな力が欲しいですか?仮にそのような人がいたとします。そう思う人がイエス様の言われるとおり、「求めるものは何でも得られる」ことになったらどうなりますか。それはそれで大変なことになるでしょう。その人は世界で最も危険な人物となるに違いありません。しかし、そのような話が福音書の中に書かれているのは紛れもない事実です。弟子たちがこの話を語り伝えたからです。ならば、それはなぜなのか。そのことを私たちはよくよく考えなくてはならないのです。

だれがその権威を与えたのか
 そこで注目したいのは書き出しの言葉です。「朝早く、都に帰る途中」と書かれています。宿泊しているのはベタニアです。そこからエルサレムに向かっていた。それは神殿に行くためです。いちじくの木を枯らした話は、その途中での出来事なのです。

 そこで神殿での出来事を先に見ておくことにしましょう。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。これが二つ目の話です。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(12‐13節)。

 神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人は、何も無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまいました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威を与えたのか」と。

 この問いに対するイエス様の答えは明らかです。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は直接彼らの質問には答えませんでした。逆に彼らに問い返されたのです。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。

 「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。このヨハネとはイエス様の先駆者です。道備えをするために遣わされた人です。彼は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えた。ヨハネは人々が神に立ち帰り、神の前にへりくだって自分の罪を認め、赦しを求め、新しく生き始めることを求めたのです。そして、夥しい数の人々がヨハネのもとに行き、洗礼を受けました。

 しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。行かなかった人もいたのです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある人々です。その権威をもって人々を教え諭し、あるいは裁きを行ってきた人たちです。そのような人たちは自分が罪人であることを認めてヨハネのもとに行こうとはしなかった――分かるような気がしませんか。イエス様は彼らがヨハネのメッセージを受け入れなかったことを知ってしました。ですからこう問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。

 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らはただちに「神を冒涜した」と言って逮捕するつもりだったのでしょう。そのような彼らの悪巧みをイエス様はもののみごとに退けました。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで話を終わりにして良かったのです。しかし、イエス様は彼らを去らせませんでした。今度は主が彼らに問いかけます。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。今日お読みした三番目の話です。

徴税人や娼婦たちの方が先に
 たとえ話は至って単純です。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。これだけを聞きますと要するに「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という教訓話に聞こえます。そして、実際に祭司長たちにせよ民の長老たちにせよ、行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守って生きることが大事だと。だから律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。ですから主が「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問うた時、彼らはきっと自分自身と重ね合わせながら自信をもって答えたのです。「兄の方です」と。

 ところがイエス様が続けて語られたことは、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。

 そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。

 徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求めてヨハネのもとに行った。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。

 一方、祭司長や民の長老たちは、世間的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」です。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心では分かっていたのかもしれません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったということです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。

いちじくを枯らした方の言葉
 さて、ここで最初の話に戻ります。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」と宣言された方は、その朝にいちじくを枯らした御方だということです。

 話の流れから考えると、この最初の話においても重要なのはイエス様の権威であることがわかります。ここではいちじくですが、そのいちじくを罪に定める権威がここで話題となっているのです。木を罪に定めるというのは奇妙に思えるかもしれません。しかし、いちじくの木は旧約聖書においてぶどうの木と並んでイスラエルを象徴するものなのです。ならばそれ自体が極めて象徴的な行為です。同じことがイスラエルに対しても行えるということです。人間に対しても行うことができる御方だということです。すなわち神の裁きを宣言し、滅ぼすことのできる御方だということです。ちょうどあのいちじくの木を枯らしたように。

 しかし、罪に定めて滅びを宣言する権威をお持ちだということは、罪の赦しを宣言して救う権威も持っているということでもあるのです。裁きの権威を持たない者は赦しを宣言することもできませんから。そのように裁きの権威を持ちの方がこう宣言しておられるのです。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」。主は神に立ち帰り赦しを求める者に、赦しと救いを宣言されるのです。

 そして、もう一つ注目すべきことがあります。イエス様はいちじくの木に対して行ったことを、実際に人間に対しては行わなかったということです。

 「だれがその権威を与えたのか」と問う人たちが、自分たちの権威をもって何をしようとしているのか、イエス様はご存じでした。やがて祭司長や民の長老たちは、自分たちの権威と力をもってイエス・キリストを逮捕し、彼らの権威のもとに裁判にかけ、彼らの権威によって断罪し、ローマの権威に訴えて十字架にかけ、殺すことになるのでしょう。しかし、ゲッセマネの園で逮捕された時も、裁判にかけられている時も、鞭打たれている時も、十字架につけられた時にも、主はそのすべてを覆して、彼らを滅ぼすことがおできになるのに、そうしなかったのです。主はただ黙々と人間の罪を背負って罪の贖いの犠牲として死なれたのです。主は御自分に与えられた権威を滅ぼすためではなく、救いの門を大きく開くためにお使いになられたのです。その主が言われるのです。

 「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう。」

2013年9月22日日曜日

「落ち着いて、落ち着いて」

2013年9月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅱ
 3章6節~13節

怠惰な生活をしている人
 「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。その言葉の出所は今日朗読された聖書箇所であると言われています。「働かざるもの食うべからず」という言葉は、場合によってはとても残酷な言葉となります。いつの時代でも、働きたくても仕事のない人、あるいは働きたくても病気で働けない人はいるものですから。しかし、新共同訳に見るように原文では「働きたくない者は」(10節)となっているのであって、働きたくても様々な事情で働けない人には当てはまりません。

 しかし、この箇所において重要なことは、そもそもここにおいて話題となっているのは労働そのものの話ではないということです。もう一度その前後を含めてお読みします。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」(10‐11節)。

 パウロはここで「怠惰な生活をしている者」を問題にしているのですが、ここで言われている「怠惰な生活」とは何もしないでぶらぶらしていることではありません。確かに「少しも働かず」と書かれていますように通常の労働はしていません。しかし、パウロに言わせれば「余計なこと」はしているのです。これは「お節介」とも訳せる言葉です。そのように余計なお節介をしている本人は、それなりに忙しくしているのです。そのようにここに書かれている「怠惰な生活」というものは、私たちが一般的に考えるような「怠惰な生活」とは異なるのです。

 それが何を意味するかは2章まで遡るとわかります。このようなことが書かれていました。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:2)。このようなことを書かざるを得なかったのは、実際には動揺したり慌てふためいたりする人たちがいたからです。

 「主の日」とは最終的な神の裁きの日です。すなわち、最終的な神の裁きは始まっているということです。これを聞いて、動揺したり慌てふためいたりする者がいたのです。あるいは「既に来てしまった」とまでは言わなくても、いつ再臨があるかは分からないのだからという危機感から、例えば仕事を辞めてしまったり、通常の日常生活を放棄する者が現れたのです。そして、ただひたすら信仰に関わることに専念しようと思ったのです。それこそ伝道のために日夜かけずりまわる人がいたことでしょう。あるいは世の生活から離れてひたすら祈りに専念する人がいたことでしょう。教会の奉仕のために身を粉にして働いている人もいたかもしれません。

 ですから、この「怠惰な生活」をしている人とは、何もしないで怠けている人というよりは、むしろ見ようによっては極めて熱心な信仰者にさえ見える人々なのです。しかし、それにもかかわらず、パウロは彼らのしていることについて、「余計なことをしている」と言うのです。余計なおせっかいであると。そして、そのような人たちに命じるのです。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)。危機感によって動かされないで、慌てふためいたりしないで、とにかく落ち着いて普通の生活を続けなさいと命じているのです。

危機意識に動かされることの危険
 しかし、ここでどうしても考えざるを得ないことがあります。そう言っているパウロはどうなのでしょう。パウロは普通のユダヤ人としての日常生活を放棄した人ではなかったでしょうか。彼もまた故郷のタルソでの生活を捨てて、伝道のために旅を続けているわけでしょう。確かに彼はテント職人を続けながら伝道の旅をしていました。テサロニケにいた時もそうでした。彼がここに書いているとおりです。「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」(8節)。そうです、そのとおりです。しかし、それでも反論したくなります。パウロさん、いつもそうであったわけではないでしょう、と。

 実際、パウロはコリントに着いた当初はテント造りをしながら伝道していたのですが、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念した」(使徒18:5)と書かれているのです。この手紙はその頃のコリントにおいて書かれたと考えられますので、実はこの手紙を書いている時には、パウロは通常の労働はしていないのです。またもう一方でパウロ自身、必ずしも自給伝道が相応しい形だと思ってもいないのです。後にテモテに宛てた手紙からも分かります(2テモテ2:4以下)。まさにそのように、生計を立てるための仕事から離れて走っているとしか見えないパウロが、「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているのです。

 そこで私たちは改めてこれを書いているパウロと、ここで言われている「怠惰な人々」との違いをしっかりと見極めなくてはなりません。パウロが伝道のために奔走しているのはなぜでしょうか。それは終末の到来を考えたときにこの世の営みに意味を見いだせなくなったからとか、もはや伝道にしか意味が見出せなくなったから、という理由によるのではないのです。そうではなくて、パウロはキリストによって召され、キリストに命じられてそうしているのです。つまりそれは伝道者としての召命によるものなのであって、単に危機感によって動かされているのではないのです。

 キリストが命じておられるか。キリストが本当に望んでおられるのか。そのことを考えずにただ危機意識によって行動することは、時にとても大きな危険をはらむことになります。「世の終わりが来る」という危機感。そのような終末的危機意識が煽られる時、容易に日常生活の放棄が起こります。いやただ仕事を放棄するだけでなく、歴史的に見るならば、そこには危険な殺人集団が生み出されることもあれば、集団自殺が引き起こされることもあったのです。「宗教は怖い」と言う人がいます。ある意味で当たっています。危機意識によって支配された宗教的熱狂ほど怖いものはありません。そこで人は何をし始めるかわからないからです。

 パウロはテサロニケにいたときから、終末的危機意識から来る熱心さ、しかも通常の生活を軽視した形での熱心さが大きな問題になるであろうことを既に予感していたのでしょう。ですから、パウロは援助を受けて伝道することもできたのですが、あえて通常の仕事をしながら伝道したのです。日常の当たり前の生活を大切にして見せたのです。それは「身をもって模範を示すため」だったと語られています。そして、言葉によっても、「働きたくない者は、食べてはならない」と教えたのです。

たとえ世界が明日終わるとしても
 しかし、パウロはただ危機意識から来る熱狂を問題にしているだけではありません。そこにはより根の深い問題があったからです。そもそもギリシア人はもともとこの世界における労働そのものに大きな価値を置いてはいなかったのです。労働は奴隷の務めとさえ考えられていたのです。それは目に見えるこの世界を価値なきものと見る世界観から来ています。物質的なるものは悪であり、見えざる霊魂こそが善であるとする霊肉二元論です。容易に想像できるように、そのような思想はこの世の生を非本質的なものと考える人々を生み出したのです。そのような人々にとってはむしろ死ぬことこそ救いなのでしょう。彼らにとって死とは魂の牢獄からの解放に他ならなかったのですから。

 そのような人生観において宗教は現実逃避と容易に結びつくものとなります。そうです、宗教は現実逃避の手段となるのです。そのような素地をもった人々が福音を受け入れたとき、キリスト教信仰もまたが日常生活の放棄や現実逃避と結びついていくことはいくらでも起こり得ることでした。パウロはそのことが分かっていたゆえに、あえてこの世における労働を強調せざるを得なかったのです。

 それは今日の私たちもまた考えねばならない事柄です。宗教が現実逃避と結びつく要素は、この国の一般的な宗教的な思考にも根強く存在するからです。この世から逃れることが救いだと考えている人は決して少なくない。ありきたりの日常から離れて、ひとときでも非日常的な世界に身を置くことのできる時間を宗教に求める人は少なくないのです。さらには、テサロニケの「怠惰な」人たちのように、この世から隔絶したところに完全に身を置いてしまう人もいるのです。そのようにして、人はカルト宗教に捕らえられていくのです。

 しかし、聖書は全く逆のことを語っているのです。この目に見える世界は無価値などころか、この世界こそ神の造られた世界なのだと言うのです。エデンの園の物語を思い起こしてください。そこには何と書かれていますか。神は人を造って、園に住まわせ、「人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)と書かれているのです。労働は本来、神からの委託であり、神からの賜物でもあるのです。いわば、この目に見える世界との関わりにおいて神との交わりを経験する契機でもあったのです。

 この世界は神が造られた世界であるゆえに、神にとってこの上なく大事な世界なのです。どれほど大事かと言えば、独り子を目に見える体を与えてこの世界を歩ませるくらい大事なのです。また最終的にキリストを再臨させると約束されたくらい大事なのです。それゆえに、そこに生きる私たちの人生も神にとっては重大事なのです。神は関心をもってご覧になっておられるのです。私たちがこの世に生きる、当たり前の日常生活、同じことの繰り返しかもしれない労働の生活、あるいは様々な苦難を耐え忍びながら神を信じて生きる生活、そのすべてが神様にとって決して小さな取るに足りないことではないからです。

 「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」とはルターが言ったとされている言葉ですが、これは信仰者にとって忘れてはならない姿勢なのでしょう。終末的危機意識に限らず、危機的な状況がある時に正しい意味での危機感を持つことは大事です。しかし、危機感に支配されてはならないのです。そのような時こそ神に信頼して、落ち着いて、自らに託されていることを見出さなくてはならないのです。自分が召されている務め、その時に本当にしなくてはならないことを忠実に行うことこそが大事なのです。場合によっては、それはごく当たり前の生活をそのまま落ち着いて継続することかもしれないのです。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているように。

2013年9月15日日曜日

「神に愛されている子供ですから」

2013年9月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 
マタイによる福音書 19章13節~30節
    エフェソの信徒への手紙 5章1節~5節
    

心の清らかな人たちの国?
 今日読まれた福音書の中でイエス様はこう言っておられます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)。

 さて、イエス様は子供たちの何を見て、「天の国はこのような者たちのもの」と言われたのでしょう。ここで「子供たち」と言われているのは「幼子」を意味する言葉です。主が見ておられるのはまだ幼い子供たちの内にある「心の清らかさ」でしょうか。ならば、天の国は幼子のように心の清らかな者たちのものである、という意味になります。皆さんは心の清らかな者たちの国に入れますか。わたしとしては心の清らかな者たちの中に入れてもらえる自信はありません。しかし、イエス様が言っているのはそういうことなのでしょうか。

 実はイエス様が天の国について語る時に子供を引き合いに出されたのはこれが初めてではありません。18章の冒頭にこんな話が出てきます。弟子たちがイエス様のところに来て言いました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。するとイエス様は一人の子供を呼び寄せて、彼らの中に立たせてこう言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)。

 イエス様は子供の何を見て、「心を入れ替えて子供のようにならなければ」と言われたのでしょう。続けて主はこう言われました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」(同4節)。子供のようになるとは、「自分を低く」することだと言われています。それは「謙虚になる」ということでしょうか。はたして子供はそんなに謙虚でしょうか。いやむしろ謙虚さの欠けた人について、否定的な意味で「あいつは子供みたいな奴だ」と言うのではありませんか。どうも「自分を低くする」とは、単に「謙虚な人になる」ということではなさそうです。

どんな善いことをすればよいのでしょうか
 今日の朗読箇所に戻ります。イエス様が「天の国はこのような者たちのもの」と言われた話の後に、もう一つの話が続いていました。一人の男がイエス様に近寄ってきてこう言ったという話です。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)。この二つの話が続いているのはマタイによる福音書だけではありません。マルコによる福音書でも、ルカによる福音書でも同じです。どうもこの二つの話はセットになっているようです。

 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。これは「天の国に入るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とも言い換えられます。「どんな善いことをすれば」――救いを求める者として、それは極めて真面目な姿勢ではありませんか。そして、実際彼は善いことをしてきたのです。イエス様が十戒の言葉を並べて「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と言いますと、即座に彼はこう答えたのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(20節)。神の掟はこれまでずっと守ってきた。しかし、それでもなお永遠の命を得るには、天の国に入るには十分ではないと思えたから、イエス様に問うたのです。

 すると主はすかさずこう答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。「貧しい人々への施し」はユダヤ人の社会においても重視されてきたことです。律法を幼い頃から守ってきたこの人は、察するにこれまでも施しについて熱心にこれを行ってきたに違いありません。しかし、イエス様の言われたことは、明らかに全財産の処分と施しです。これはいくら律法に熱心である者にとっても、無茶苦茶な要求です。しかもイエス様は多くの財産を持つこの人に、あえてこのことを求められたのです。

 他のことならば、ある程度無茶な要求であっても従えられたかもしれません。しかし、よりによってこの裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。意地悪でしょうか。いいえ、この人がどうしても知らなくてはならないことを知らせるためでした。「天の国はこのような者たちのものである」。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。先に読みましたこの言葉の意味するところを彼は知らなくてはなりませんでした。そして、私たちもまた知らなくてはならないことです。

 この人は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とイエス様に尋ねました。この問いは何を意味しますか。要するにこの人は、自分の行う「善いこと」と引き替えに天の国に入ろうとしたということです。いわば神様との取引によって救いを得ようとしたのです。ですから主はその取引を手伝ったのです。行き着くところまで押し進めたのです。そうです、神様との取引を押し進めるならば、ここに至ります。自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならないのです。

 いや、全額など払いきれるはずがないのです。たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけではない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは人間の善い行いで買えるほど安物ではありません。それが自分の行いで獲得できると思っていること自体が人間の思い上がりなのです。いや人間の思い上がりはそこで留まらないのです。さらに進むとどうなりますか。あの弟子たちのようにお互いを比べ合って「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」とさえ言い出すようになるのです。

 だから主は言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と。「子供のようになる」とは、先に見たように「自分を低くする」ことです。それは世間で言う「謙虚な人」になることではないのです。そうではなくて、何も持たない者として神の前に立つということなのです。天の国に入るために、永遠の命を得るために、代わりとして差し出すことのできるようなものは何も持たない者として神の御前に出るのです。何も持たない子供のように御前に出て、ただ親が子供を愛して用意した善きものを喜んで受け取るしかないのです。それゆえに何も持っていない幼子らを指して、「天の国はこのような者たちのものである」と主は言われたのです。

神に倣う者となりなさい
 そのように子供のような者として神との関わりの中に生きてこそ、神との取引材料ではない「善いこと」が私たちの生活の中に生まれてくるのでしょう。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というような他の人との比較材料ではない「善いこと」が私たちの生活の中に生まれてくるのでしょう。そのような私たちの本来の姿が、今日読まれたもう一つの聖書箇所において次のように表現されていました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。

 「神に倣う」という表現はここにしか出てきません。極端な表現にも思えます。神に倣うことなどできるはずがない、と思うかもしれません。しかし、もう一方において「倣う」とは「まねる」という意味の言葉ですから、ここで求められているのは、所詮は「ものまね」に過ぎないとも言えます。神になれるわけではない。同じことができるわけでもない。所詮は不完全な真似事です。

 例えば、幼い息子が料理人である父親を尊敬して、憧れて、その仕事を真似したくなる。そのようなものです。真似して何かを作ったとしても、できるのは料理とはとても呼べない代物でしょう。しかし、それを見て父親は、「こんなもの店に出せるか」と言って殴ったりはしない。父親に憧れて、見よう見まねでやったことを大いに喜んで誇りに思うことでしょう。

 信仰生活とはそのようなものだと、この箇所を読む度に思うのです。愛されている子供として、父である神を愛して、神にあこがれて、神がしてくださったことを真似てみる。神様と私たちとの違いは、料理人とその息子の腕の違いどころではありませんから、それこそ私たちが真似てみたところで、似ても似つかぬことをすることになるのでしょう。食べられないような料理を作るのでしょう。しかし、それでも愛されている子供として真似てみるのです。

 それが例えば直前に書かれている「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:22)ということなのでしょう。あるいは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」ということなのでしょう。

 または否定的な面から言うならば3節以下に書かれているように、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」ということであり、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」(4節)ということでもあるのでしょう。

 これらはすべて、私たちを愛して、とてつもなく大きなことを私たちのためにしてくださった神の物まねなのです。神の物まねですから、恐らくはあまり似てないのです。「わたしはこれだけ親切にしました」「人を赦しました」「身を捧げて愛しました」「下品な冗談を言わなくなりました」と言っても、なんら誇るほどのことでもないのです。たぶん似ていないのですから。ましてや、「これだけのことをしているのだから天の国に入れてくださいね」と胸を張って差し出せるようなことではないでしょう。私たちがやっていることは、恐らくは猿まね以下のことなのですから。

 しかし、それでもよいのです。私たちはここに神に愛されている子供たちとして生きるようにと招かれているのです。似ていようがいまいが、それでも神を真似て生きるのです。神との取引ではない、他の人との比較でもない、ただただ私たちを赦して愛してくださった天の父に感謝して、天の父に憧れて、父の愛を目に見える姿で現してくださったイエス・キリストに憧れて、神に倣って生きるのです。その時、イエス様はそのような私たちをも指してこう言ってくださることでしょう。「天の国はこのような者たちのものである」と。

2013年9月8日日曜日

「憐れみは裁きに打ち勝つ」

2013年9月8日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブの手紙 2章1節~13節

    マタイによる福音書 18章21節~35節

 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。それが人道的に良くないことだから「人を分け隔てしてはなりません」と言っているのではありません。主イエス・キリストを信じる信仰と「分け隔て」とは本来相容れないものであるはずだ、という意味で、「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 今日はヤコブの手紙を読んでいますが、パウロもまたガラテヤの教会に宛てた手紙の中で次のように書いています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26‐28)

 実際、初期の教会が社会に与えた強烈なインパクトの一つは、本来なら共にいないはずの人々が同じ食卓についていることでした。ユダヤ人と異邦人が共にパンを裂いて食べている。奴隷の階級の人と自由人とが、富める者と貧しい者が、共に賛美して食事を共にしている。それはあり得ないことだったのです。

 そのようなあり得ないことがどうして起こったのかと言えば、それはイエス・キリストを信じる信仰の絶大な価値を認識していたからです。キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に向かって「われらの父よ」と祈る者とされたこと、そのように神に受け入れられ神の子供たちとされ、神の国を受け継ぐ者とされていること、完全な救いにあずかる永遠の希望を抱いて生きる者とされたこと。そのような同じ恵みにあずかっていることこそが重要なのであって、その事実の前においては他のいかなる違いも重要性を失ってしまったのです。パウロの言葉によるならば「キリストを着ている」ということが重要なのであって、着ているのがユダヤ人であろうが異邦人であろうが、富める者であろうが貧しい者であろうが、それは大きな意味を持ち得なかったのです。

教会において起こる分け隔て
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。それが本来の教会の姿です。しかし、そのようなキリストを信じる信仰が光を放つ一方で、罪あるこの世の教会においては、残念ながらキリストを信じる信仰とは相容れないことも起こります。ですからヤコブはこのようなことまで書かなくてはならなかったのです。「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。

 そして次のような一例が挙げられています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2‐4節)。いかにもえげつない話です。世の人が聞けば「信仰云々の前に人としてどうなのか」と言うでしょう。

 しかし、ここに書かれているのは、単にこの世の差別意識が教会にも持ち込まれたという単純な話ではありません。このようなことは教会のことを真剣に考える敬虔な人々において起こっていたのかも知れないのです。そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それはそのような人の存在が教会にとって有利であったからです。貧しい人が多かった初期の教会でしたから実際の活動の継続も困難であったに違いありません。聖餐のパンや食事も、裕福な人が主に用意したのです。集会の場所も裕福な人たちが提供していたのです。6節以下にあるように、この世の富裕層からしばしば教会が酷い目に遭わされたり脅かされたりすることがあったのでしょう。そのような時、教会の中に富裕層の人たちがいることは極めて有利なことだったに違いありません。このように教会の中に起こる分け隔てや差別というものは、教会のことを思う時に、その人の存在が教会にとって有利か否か、役に立つか否かという判断をしてしまうことによって起こるのです。

 ですから、それは富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こることでしょう。例えば、私たちが「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う時、何を考えてそう言っているのでしょうか。本当に若い人たちを愛して福音を伝えたいと思ってそう言っているのか。それとも教会を維持するために必要だからそう言っているのか。もし後者ならば、今日の聖書箇所に書かれていることと変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと大して変わらないことでしょう。

 そして、さらに言うならば、そのような分け隔ては「他者」に対して行われるだけでなく、「自分」に対しても行われ得るのです。他の人について「あの人は必要、あの人は必要ではない」というだけでなく、自分についても「わたしは必要な人」と考え、あるいは「わたしは必要ない人」と考える。しかし、それは他者を見る目が自分に向けられているだけなのです。自分は貧しいからいてもいなくてもいい人。自分は能力がないから必要ない人。そう思うのは、他の人についてそう思っているから、そのような目をもって他の人を見ているから、自分についても同じことを思うのです。

目を向けるべきところに向けて
 ではどうしたら良いのでしょうか。私たちは特に4節の言葉を心に留めたいと思います。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」ここで「誤った考え」とあるのは「悪い考え」という言葉です。確かに差別は悪いことです。それは「悪い考えに基づく判断だ」と言うことができます。しかし、ここでヤコブが言っているのはそのようなことではありません。ここで起こっているのは、先にも触れたように、要するに信仰とは相容れないことなのです。あくまでも問題は信仰に関わることなのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向けているか、信仰によって価値あるものを価値あるものとして見ているかどうか、ということなのです。そうなっていない時に起こってくる判断。それが「悪い考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとするのです。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。どこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が信仰に富ませてくださったという事実です。そうです、既にこの上なく豊かなのです。

 それは1節にあるように「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる信仰」です。すなわちイエス・キリストによって実現したことなのです。先に述べたように、キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に受け入れられ神の子供たちとされ、そこに書かれているように「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者」とされたということです。そのような神が既にしてくださった偉大なことに目を向けないから、そうでないところに目が行くのです。この世的な違いや、自分たちにとって有利か不利かというところにばかり目がいくのです。そして結果的には神がしてくださった大いなることを踏みにじることになるのです。例えばここに書かれているように「貧しい人を辱めた」という形で起こってくるのです。

憐れみは裁きに打ち勝つ
 さて、このように今日の聖書箇所においては「人を分け隔てしてはなりません」という勧めがなされていたのですが、最後に、この部分が次のように締めくくられていることに注目しておきたいと思います。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)。ここで「憐れみをかける」という話が出て来るのはいささか唐突な感じがしないでもありません。「人を分け隔てしない」ということと「憐れみをかける」ということは、全く別なことのように思います。「分け隔てをしない」ということがすなわち「憐れみをかける」ということならば、上から人を見て「分け隔てをしないであげよう」という意味合いにもなりかねません。

 しかし、今日の福音書朗読において語られていたイエス様のたとえ話に耳を傾ける時に、「憐れみをかける」という言葉は全く違った意味合いをもって響いてきます。そこで語られていたのは、王によって一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話でした。借金を帳消しにされた家来が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うのです。百デナリオンは一万タラントンの六十万分の一です。その仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、借金を返すまでと牢に入れたのです。それを聞いた王は怒りました。そして、こう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32‐33)。

 この王とは神であり家来は私たちです。「憐れんでやるべきではなかったか」。その「憐れみ」の源は神様です。「わたしがお前を憐れんでやったように」。要するに「憐れみをかける」とは、神がしてくださったことに目を向けて、神がしてくださったことに基づいて判断し、行動することなのです。

 「分け隔てをしない」ということは、まさにそのようなことでしょう。神様がしてくださったことに基づいて判断し、行動するならば、分け隔ては起こらないはずなのです。そうでない判断は「悪い考えに基づく判断」と呼ばれていました。ちなみに「判断する」とは「裁く」という言葉です。悪い考えに基づく裁き、すなわち神がしてくださったことを思わない「裁き」、それが「憐れみをかけない」ということです。そうするならば「憐れみのない裁きが下されます」と語られているのです。

 神の憐れみが先になかったかのように裁くなら、そのように私たちも神に裁かれることになるでしょう。自分が裁く裁きで裁かれるのです。逆に神の憐れみが先にあることを思いつつ、それに基づいて裁く(すなわち「判断する」)なら、そのように神もまた憐れみに基づいて裁いてくださる。私たちにおいて「憐れみが裁きに打ち勝つ」なら、神においても「憐れみが裁きに打ち勝つ」のです。そうです、その時には憐れみの方が裁きよりも遙かに大きいのです。神のしてくださった大いなることに目を向けて、神の憐れみの内にある者として、新しい週の歩みへと遣わされていきましょう。

2013年9月1日日曜日

「心を一つにし思いを一つにして」

2013年9月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10節~17節


分裂した教会
 「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。今日の礼拝で朗読された聖書の言葉です。いかなるコミュニティであっても内部に仲たがいなどないに越したことはありません。バラバラであるよりは一つになれた方がいいに決まってます。ここには何ら特別なことが書かれているわけではありません。しかし、そんな当たり前のことがあえて勧められているのは、当たり前のことを当たり前のように実行することが現実には難しいからでしょう。仲たがいなしに共に生きることは難しい。それは教会についても例外ではないわけで、ですから教会に宛てた手紙にまでこのようなことが書かれているのです。

 確かにコリントの教会にはこう書かざるを得ない状況がありました。先ほどの勧めは次のように続きます。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(11‐12節)。

 そこには「わたしはパウロにつく」と言う人々がいました。コリントの教会は、使徒言行録16章に記されているように、パウロとその一行の開拓した教会です。ですからそこにパウロを殊更に慕う人たちがいたとしても不思議ではありません。しかし、あえて「わたしはパウロにつく」と言う人々がいたということは、もう一方に「わたしはパウロにはつかない」と言う人々がいたからでしょう。コリントの教会の中にはパウロに敵対する人たちがいたのです。その事情はこの手紙の先の方まで読みますと明らかになってきます。そのような教会だったからこそ、パウロを使徒として受け入れ、あえて彼を支持することを表明する人たちがいたのです。

 その一方で、ある者たちは「わたしはアポロにつく」と言っていました。アポロという人物は使徒言行録18章において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大中心地でした。そこが出身地であるとわざわざ書いてあるのは、彼が教養豊かで修辞学にも長けていたことを言いたいのでしょう。そのような伝道者がパウロの去った後のコリントにやってきて活動していたのです。他方、パウロについてはコリントの一部の人たちから「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と評されていました。パウロよりもアポロとの関係を強調する一群の人々が現れたとしても不思議ではありません。

 また、ある人々は「わたしはケファにつく」と言っていました。ケファというのはペトロのことです。もしかしたら、ペトロもコリントに滞在したことがあったのかも知れません。しかし、そうでなくても、ペトロはイエス・キリストの直弟子として、そしていわば教会の本家とも言うべきエルサレムの教会の代表的人物として、大きな影響力を持っていました。恐らくはユダヤ人を中心としたエルサレムの教会の優位性を主張していたユダヤ人キリスト者の一群が、ペトロとの特別なつながりを強調していたものと思われます。

 しかし、今日特に注目したいのはその次です。そこには「わたしはキリストにつく」という人々がいたというのです。明らかにこのグループだけは異質でしょう。「キリストにつく」という主張は、「パウロであれアポロであれペトロであれ、それがどれほど偉大な人物であっても、私たちは人間にはつかない」という意識の表れと言えます。恐らくそのような人たちは目に見えないキリストとのスピリチュアルな交わりを大切にしていた人たちだったでしょうし、またそのような霊的な体験の豊かな人たちであったに違いありません。

 そもそも決して完全ではない「人間」を持ち上げて、あの人につくとかこの人につくとか言っているから分裂が起こるのであって、キリストにこそしっかりと結ばれることが大事なのである。そう言われたらなるほどもっともな話でしょう。その意味で「キリストにつく」という主張は健全であり正しいとも言えます。しかし、皮肉なことにその正しい主張をするたちが分裂と仲たがいの一要因となっていたのです。しかも、そこで造り出される分裂状況は極めて深刻なものとなるでしょう。なぜなら「パウロにつく」「ペトロにつく」というような言葉、つまり人間とのつながりは相対化され得ますが、「キリストにつく」という言葉は絶対的な意味を持つことになるからです。「自分たちこそキリストについているのだ」という主張は「他の人々はキリストについていない」という主張にも成りかねないわけですから。それは極めて深刻な分裂を生み出すことになるのです。

キリストの体であるのだから
 そこで私たちはパウロの言葉に改めて耳を傾けねばなりません。彼はこう前置きしているのです。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」(10節)。この「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」とは重い言葉です。これは言い換えるならば、「わたしではなく、主イエス・キリストが勧めているのだ」ということだからです。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」というのは、他ならぬキリストの願いであり、キリスト御自身が求めていることなのだ、ということです。

 逆に言えば、分裂した状況をあえて続けるということは、キリストの求めを踏みにじることであり、キリストに対する意図的な反抗となるのだということなのです。それは最後の「キリストにつく」と言う人たちについても言えるのです。どれほど心情的にキリストを愛し慕う思いに溢れていたとしても、あるいは仮に神秘的なキリストとの交わりを体験していたとしても、そう言いながら実際にはキリストに逆らっていることがあり得るということです。

 そこで決定的に重要な意味を持つ言葉は13節の言葉です。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(13節)。パウロがこのように語るのは、これが教会における話だからです。彼はこの手紙の後の方で次のように語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント12:27)。

 人は教会を単なる人間の集まりと見るかも知れません。事実人間が集まっているわけで、天使の集まりではありません。ですから教会は人間が持つ弱さや欠けや罪深さをそのまま内に有しています。教会を天使の集まりだと思っているなら、必ず失望することになるでしょう。しかし、それでもなお聖書は教会を「キリストの体」と呼ぶのです。神はそう見ていてくださる。キリストに結ばれ、キリストの命が通っていて、そして、キリストの御心をこの地上に実現するためにキリストが用いてくださる体です。私たちはその部分だと言うのです。それぞれかけがえのないキリストの体の部分なのです。ならばそこに分裂が生じ、互いが反目し合うようになるならば、それはキリストの体をバラバラにしてしまうことになるではありませんか。

 パウロはあえてそこで「パウロにつく」と言っている人たちに語りかけます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」(13節)。先にも申しましたように、コリントの教会には、パウロには敵対する人々がいたのです。もし誰かが私たちに敵対していたとするならば、私たちは一人でも多くの人が自分を理解してくれ、味方になってくれることを求めるのではないでしょうか。しかし、そのような状態でありましても、パウロ自身は、「わたしはパウロにつく」と言っている人々の存在を喜んではいなかったのです。彼にとっては、自分の味方がいることよりも、キリストの体が一つとなることの方が大事だったからです。キリストこそが大事なのです。なぜなら、キリストこそ私たちの罪のために十字架にかかられた方だからです。パウロに反対する人たちによってパウロの名誉は傷つけられてきたのかもしれません。パウロの立場は損なわれてきたのかもしれません。しかし、パウロにとっては自分の名誉にせよ立場にせよ、キリストの体を傷つけてまでも守らねばならないものではなかったのです。

 さらにパウロは言います。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。「パウロの名によって」と訳されていますが、もともとは「パウロの名の中へ」という言葉です。「パウロの名の中に入れられる、パウロに結びつけられる、そのような洗礼を受けたのか」と問うているのです。そうではありません。彼らは、キリストの名の中に入れられる、キリストに結ばれる、そのような洗礼を受けたはずです。そのようにしてキリストの体の一部となったのです。すなわち教会の一人となったのです。

 その後でパウロが「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」(1:17)と言っているからと言って、彼が洗礼のことを重んじてはいないと考えてはなりません。むしろ、ここでキリストとの関連でどうしても話に出さなくてはならないほど重要に考えているのです。

 洗礼はご存じの通り水を用いて行います。水は手に触れることができるし、目に見ることもできます。そして、洗礼式は、目に見える教会の中において行われます。そこには目に見える具体的な現実の人々がいるのです。そのことによって、洗礼は、目に見えないキリストとの信仰的な関わりを、目に見えるこの地上の現実と結びつけるのです。洗礼というものは、キリストとの関係をただ心の中のこと、頭の中のことにすることを許さないのです。私たちを目に見える教会と結びつけ、キリストの体に結びつけるからです。

 ですから、逆に言うと、洗礼を重んじないとどうなってしまうのか。洗礼を重んじない信仰生活はどうなるのか。そのような信仰は極めて個人的な心情的なものとなってしまいます。ですから、キリストを愛すると言いながらキリストの体を傷つけたり破壊したりするという矛盾に満ちたことが起こるのです。「わたしは人間ではなくキリストにつく」という人がかえってキリストの体である教会を傷つけたり破壊したりするようなことが起こるのです。

 決定的な出来事はただ一度かぎり、あのカルバリの十字架において起こりました。聖書はその事実に私たちの目を向けさせます。十字架にかかってくださった方は、あのイエス・キリストただお一人です。私たちのために、この地上で、現実に血を流してくださって罪を贖ってくださったのは、ただこの方お一人です。その御方の前では、すべてが相対化されます。あらゆる人間も、あらゆる人間の主張や体験も相対化されます。キリスト者となるとは、洗礼によって、そのただ一人の御方の御名の内へと入れられることです。その御方の体の一部となることです。その事実こそが重要なのです。「わたしはキリストにつく」という意識を持つ人は、自分は信仰的に行動していると思う人は、自分がキリストの体の一部であり他の部分と結ばれているのだということを絶対に忘れてはならないのです。

2013年8月25日日曜日

「何事でも願うがよい」

2013年8月25日 主日礼拝
東京神学大学 修士課程2年 三橋侑子
聖書 列王記上 3章4節~15節 

 今日の聖書箇所には「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた主に、ソロモンが「聞き分ける心を与えて下さい。」と願った話が収められています。父ダビデの後継者として新しい王に立てられたソロモン王の初期の頃の出来事です。この一連の話は、自分のためではなく、神様の民、今でいう教会を正しく導き治めるための願い事をしたソロモンの賢明さや謙虚さにスポットが当てられがちです。確かに、このソロモンから学ぶ祈りの姿勢があるでしょう。しかし、聖書はまた違った角度からも、この話を伝えようとしています。

主に従わずに滅んだ民たちの記録
 今日の聖書箇所である列王記は、ソロモンが生きていた時代に書かれたのではありません。ソロモンが王として立てられたイスラエル王国が南北に分裂し、最初に北イスラエル王国が、続いて南ユダ王国が滅び、バビロン捕囚となった後に書き始められたと言われています。イスラエル民族は、国を失い、捕囚となった地で、自分たちの歴史を振り返るのです。ただ単に起こったことを時系列で振り返ったのではありません。なぜ自分たちは国を失い、捕囚となったのか。それは主なる神様に聞き従わなかったからだ。そう受けとめた人々による自分たちの背信の記録なのです。ですので、今日の聖書箇所においても、ソロモンは良い願い事をした王として、ただ楽観的に記されているのではありません。主に逆らい、王国に分裂をもたらすことになったソロモン王の初期の時代を、自分たちの背信の歴史として振り返っているのです。

既に始まっていた主からの離反
 「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「ギブオン」は、ソロモンがいたエルサレムから約九キロ離れている地です。また「聖なる高台」というのは、イスラエル王国の先住民カナン人が祭儀に利用していた聖所です。イスラエル王国の王が、エルサレムから離れたギブオンにあるカナン人の聖所で、主なる神様にいけにえをささげていたということです。それは、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)からであり、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)のでした。
 ソロモンは不敬虔な王ではなかったのです。主を愛し、父ダビデの授けた掟に従い、「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を捧げていました。「焼き尽くす献げ物」というのは、レビ記1:4によりますと、献げる人の罪を贖う、いわば「赦される」ための献げ物です。また、自分自身を焼き尽くして完全に捧げる「献身」のしるしでもありました。ソロモンは、主に罪を赦していただき、自分自身を完全に焼き尽くして献げるために、一千頭もの献げ物を献げていたのです。

 しかしここに、主の言葉への違反が潜んでいました。主はかつて、こう語られていました。「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい」(申命記12:2)。罪を赦していただくための、そして献身のしるしとしての献げ物をしている、まさにその所で主の言葉に背いていた、というのはまことに皮肉なことです。ソロモンは主を愛していました。しかし、主の言葉を軽んじていたのです。

 ソロモンが主の言葉を軽んじていたのは3章1節からも分かります。「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。」おそらく、当時の有力な国エジプトの王の娘と結婚することは、イスラエル王国にとって得策と思えたのでしょう。実際、この結婚によってイスラエル王国は外交関係が栄え、国として豊かになっていくのです。しかし、主の言葉はこう語っていました。「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない」(申命記7・3)。ソロモンは主の言葉よりも、自分の考えを優先させていたのです。

願い事を聞かれる主
 主がソロモンに姿を顕されたのは、そんな中でした。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう。』と言われた」(5節)。主はソロモンの罪をご存知だったはずです。しかし、主がとられた行動は罪の指摘ではなく、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と声をかけることでした。

 ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を正しく判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」と願い、その願いは聞き入れられます。主はソロモンに知恵と富と栄光をお与えになりました。しかしここで注目すべきなのは、ソロモンにお答えになった主の言葉の最後の部分です。「もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(14節)。この「父ダビデの歩んだように」は、ソロモンの願い事にも出てきた表現です。主に語りかけられたとき、ソロモンは開口一番こう述べています。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました」(6節)。

 主の関心は、ソロモンが父ダビデのように主に忠実に聞き従うことにありました。主の言葉から離れていくソロモンに本当に伝えたいことを伝えるために、主はギブオンまで出かけて行き、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう。」と語りかけられたのです。極端な言い方をすれば、願いを聞き入れることを手段としてでも、ご自分との正しい関係の中に招き返そうとされた。それが、主がソロモンに対してとった行動でした。

立ち返ったソロモン
 その後、ソロモンはどうしたでしょうか。「ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」(15節)。具体的に何を思ったのか、考えや心の動きは記されていません。しかし、「ギブオン」の「聖なる高台」で「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を献げていたソロモンが、すぐさま「エルサレムに帰り」、「主の契約の箱の前に立って」、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」という行動が全てを物語っています。

 ソロモンは、立つべき場所に立ち返ったのです。エルサレムに帰って、主の契約に忠実に歩むことができるように、父ダビデが歩んだように主との正しい関係の中で歩むことができるように、礼拝を献げたのです。一千頭という量を献げるためではなく、主との契約の中で、主の言葉に従う自分として歩み直すために礼拝を献げました。

 このときのソロモンの姿を思うとき、イスラエル王国の初代の王サウルに、預言者サムエルが語った言葉が思い出されます。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)。サウルは、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を戦利品の中から取り分けて、主に献げようとしたことがありました。「滅ぼし尽くしなさい。」という主の言葉よりも、自分が良いと思うことを優先させました。主への反逆は、主への善意の中にも入り込んでくるのです。

 ソロモンはここでさらに、「焼き尽くす献げ物」と共に「和解の献げ物」を献げています。「和解の献げ物」は「神との平和」「人との平和」を表す献げ物です。本来ならば、神にとって忌み嫌うべき存在である私たちが罪の赦しをいただいて、神の食卓に招いていただくことを表す献げ物です。それはつまり、神と共なる生活に招かれるということです。主の言葉を締め出し、聖なる高台を築いて、自分の考えで生活を送ってきた、その自分がもう一度、罪赦され、神と共に生きる生活に招いていただくのです。

 ソロモンはその食卓に、「家臣のすべてを招いて」(15節)います。かつてのソロモンには、ギブオンの聖なる高台が「重要」(4節)と映っていました。しかし今は、本当に重要な場所がどこであるかが分かったのです。神が罪の赦しを与え、和解の食卓に招いてくださる礼拝と、神と共に生きる生活こそが、本当に重要な場所であることを悟ったのです。そして、人々をそこに招くという、本来の王としての姿に回復させられました。

罪の実り
 そのようにして一度は立ち返ったソロモンですが、始めに申しましたように、11章以降からソロモンの背信が始まり、結果、王国の分裂に至っていきます。ソロモンは再び、主の言葉に聞き従う生活から出て行ってしまったのです。願い事だった知恵は与えられ、国は豊かになりました。神殿も立ちました。あらゆる富と栄光が与えられました。しかし、主に聞き従う心を失っていくのです。そして、自身に滅びを招いたどころか、国を分裂、崩壊させていくこととなりました。

 最後に、11章から始まるソロモンの背信の内容を確認しておきましょう。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」(11:1)。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべきケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行った」(11:7・8)。ソロモンが3章で行ったファラオの娘との結婚と、聖なる高台での礼拝が思い出されます。主を愛し、賢明で謙虚な願い事をした王として描かれる初期の時代に、既に、主の言葉に逆らう罪の芽が生え出ていたことを聖書は知らせています。罪の芽はソロモンの中で着実に育ち、大きくなって、11章からの背信へと実っていったのです。

私たちが願うべき事
 私たちの心や生活の中にも立ち現れてくる「重要な聖なる高台」があります。「神様はこうおっしゃるけれど、世ではこっちの方が重要だから。」敬虔に見える礼拝行為の中に潜む主の言葉の軽視があります。「今日の御言葉は私の考えに合わない。」主への善意の中に入り込む主の言葉への反逆があります。「こっちの方が神様を喜ばせることができるのではないか。」このように、主の言葉を軽んじさせる小さな高台から、人生を滅びに向かわせ、周りの人々や国をも崩壊させる将来が始まっていくのです。

 「何事でも願うがよい。」そう声をかけられたソロモンが願うべきだったのは、父ダビデが示した「憐れみ深く正しい心」をもって主に聞き従って歩むことでした。「何事でも願うがよい。」これは、罪を犯しているまさにその場所でこそ聞こえてくる主の言葉です。滅びの道に向かうに早い私たちを守ろうとする愛の配慮の言葉です。主からの関係回復への招きの言葉です。「何事でも願うがよい。」そう声をかけられた私たちは、そんな主の御思いに結び付けられて「主に聞き従う心」をお与えください、と願う者でありたいと思います。

2013年8月18日日曜日

「希望にあふれて」

2013年8月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハバクク書3:17~19、ローマの信徒への手紙8:18~25

  「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」(3:17)。今日お読みした聖書箇所に書かれていました災いの描写です。しかも、これは文脈からすると他国の襲来による災いの描写なのです。そのような時、人は悲しみ、落胆し、嘆き、あるいは怒るのでしょう。しかし、この人はこう続けるのです。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(3:18‐19)。この人は羊や牛を奪われても、喜びを奪われないのです。田畑の収穫を失っても、生きる力を失わないのです。彼はこれがすべての結末だとは思っていないからです。彼はなおも前を向いて、待ち望む者として生きているのです。

主よ、なぜですか
 しかし、初めからそうだったわけではありません。この書の冒頭にまで遡ってみましょう。この書は喜びの歌声ではなく、神に対する嘆きと訴えの言葉から始まります。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:2-4)。

 紀元前7世紀にユダの国にヨシヤという王がいました。ヨシヤ王については、聖書が次のように語っています。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(列王記下23:25)。そのヨシヤの時代に、神殿からモーセの律法の書が発見されました。ヨシヤ王は、その書を読み、悔い改め、主に立ち帰ります。彼は律法の書に従い、宗教改革を断行しました。国家全体が主に立ち帰るためでした。この事は国内に良き秩序を回復しました。正義が回復されつつありました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして戦死してしまったのです。ひとつの時代が終わりました。崩壊が始まりました。そしてハバククの時代には、すでに国家は秩序を失い、ここの書の冒頭に記されているような惨状だったのです。

 なぜ暴虐と不法が許されているのか。なぜヨシヤの改革によって理想国家が誕生しなかったのか。なぜ中途でヨシヤが戦死してしまったのか。なぜ神はこのような状態を放っておかれるのか。なぜ沈黙しておられるのか。不可解な現実を前にして、ある人は神に背を向けるのでしょう。しかし、彼は神に背を向けなかった。神に向き続け、神に問い続けるのです。神にしがみつくようにして「なぜ」と問い続けるのです。

 問い続けるハバククに主は答えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われるのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る」(1:6-7)。

 カルデア人とは当時にわかに勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。事実、その徴候は十分に見られました。国内の混乱に加えて外国の襲来。つまり、事態はさらに悪くなりつつあったのです。それが神のなさろうとしていたことだったのです。

 ハバククは神の言葉を受け止め、こう語ります。「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」(1:12)

 ハバククはカルデア人の襲来を神の懲らしめとして理解しました。たしかに私たちは悔い改めなくてはならない。しかし、それにしてもまだ腑に落ちません。彼はこう続けます。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか」(1:13-17)

 「彼ら」とは「カルデア人」のことです。彼らはこんなに酷いことをしているではないか、とハバククは訴えるのです。つまり、こういうことです。確かにユダも不敬虔かも知れないが、カルデア人のほうがずっと不敬虔ではないか。カルデア人は随分残忍なことをしているではないか。そして、その残忍さのゆえに今や恐るべき勢力を誇っているのではないか。神を神としない、また人道をわきまえないカルデア人が、少なくとも彼らよりは正しいと思われるユダを懲らしめるために立てられるのはおかしいではないか。神の正義、神の清さはどうしてこれを許されるのか。ハバククには全くもって不可解なことでした。

 しかし、彼は祈ることをやめませんでした。目の前の出来事がいかに不可解であろうとも、彼は祈ることをやめないのです。むしろますます神に向かいます。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(2:1)。彼はどんなに苦しくとも神から顔を背けません。必死で神の語りかけを聞こうとします。神の御思いを知ろうとするのです。

信仰によって生きる
 そのようなハバククに主は答えられました。神様はひとつの幻を示されたのです。それは神御自身が決着をつけられる時についてです。それは、2章6節以下に見るように、バビロニア帝国が裁かれ、滅びるということでした。その幻について、主は言われるのです。「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3)。繁栄を極めたバビロニア帝国が滅びることなど、とうてい考えられないことでした。しかし、主はその時が来ると言われたのです。たとえ、遅くなっても待っておれ、必ずその時が来るから、と言われるのです。

 さて、ハバククに対して主が語ってこられたことはいったい何でしょう。主はこう言われたのです。「それは終わりの時に向かって急ぐ」と。つまり、言い換えるならば「まだ終わりではない」ということです。今見ていることが結末ではないということです。その先がある。神が備えておられる先がある。人間が途中だけを見ると全く不可解なのだけれど、神御自身にとっては不可解ではないのであって、神にはその先に為そうとしておられることがあるのです。それは今は見えない。想像することもできないことかもしれない。しかし、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と主は言われる。それは人間の目には遅いように見えるかもしれないけれど、神の計画の中においては「手遅れ」になることはないのです。

 そこで、主はこう言われたのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)。ここで神が言われる「信仰によって生きる」という意味は明確ではありませんか。どこまでも信頼して待ち望むことです。神に信頼して将来に目を向け、待ち望む。神の時を待ち望む。それがハバククの得た神の答えだったのです。

 最初に読んだ言葉は、そのように、信仰によって生きることを神より教えられた人の言葉です。彼は主に信頼して待ち望む。それゆえにまた、現在がどのような状態であったとしても、喜びをもってこう歌うのです。「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。

希望をもって待ち望む
 そして今日は「信仰によって生きる」ということを語り続けたもう一人の人の言葉をお読みしました。パウロはこう語っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)

 「現在の苦しみ」。パウロはそこでまず自然界の苦しみを語っています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(同8:22)。そうです、実際、私たちもまたうめき苦しんでいるこの自然界の姿を見ているのでしょう。そして、それをもたらしているのは人間の罪であるに違いないのだけれど、その人間もまた自然界の一部として苦しみうめいているわけです。それは「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(同8:23)、すなわちキリスト者であっても例外ではありません。しかし、パウロはあくまでも「現在の苦しみ」と表現するのです。それは途中のことなのです。最終的な苦しみではないのです。その先に待ち望むべきものがある。神に信頼して、待ち望むのです。それを「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とパウロは表現するのです。

 「現在の苦しみ」と言い、「将来の栄光」と言う。そのときにパウロの念頭に常にあったのはキリストの十字架と復活なのでしょう。ですから、その直前にもこう言っているのです。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(同17節)。十字架の苦しみは復活の栄光へと続いていたのです。先ほど自然界の苦しみについて引用した言葉にもこの信仰が現れていました。「共に産みの苦しみを味わっている」と書かれていました。読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、しかし、これは苦しみの意味を決定的に変える言葉でしょう。産みの苦しみは最終的な苦しみではないのです。その先に大きな喜びが待っているのです。いや、「その先に」は適切ではないかもしれません。それが産みの苦しみであることが分かっているならば、苦しみが始まった時に、既に喜びは始まっているとも言えるのでしょう。

 そのように、この世において体を持つ者として苦しみを免れない私たちであっても、神の栄光にあずかる救いの完成の時は将来であったとしても、その救いを待ち望む確かな希望に生きているならば、既に救われていると言うことができるのです。救いの喜びは既にそこにあるのですから。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とパウロは苦しみの中にあって宣言するのです。


 私たちは神に信頼し、希望に生きる民とされました。しかも、キリストの十字架と復活によって信仰に導き入れられた私たちは、ハバククよりもさらに確かな希望をもって将来に目を向けることができるのです。彼は言っていました。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。私たちはさらに大きな希望に満ち溢れてそのように語りながら生きることができるのです。

2013年8月11日日曜日

「人間関係の土台」

2013年8月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 3章17節~4章1節

 ここには私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきかを教えている聖書箇所です。しかし、私たちはここだけを取り出して「より良い人間関係を築くための秘訣」のように読んではなりません。その前に書かれていることがあるのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。すなわち、前提となっているのは、御言葉を聞き、心に宿し、神を礼拝し、感謝して生きる生活です。ここに書かれているのは、その具体的な展開なのです。そのことを踏まえた上で、三つの関係、すなわち夫婦の関係、親子の関係、労使の関係における勧めをご一緒に見ていきたいと思います。

夫婦の関係
 まず、夫婦の関係においてパウロは勧めます。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18、19節)。当時の女性の地位は大変低いものでした。それはギリシャ人においてもユダヤ人においても変わりませんでした。しかし、パウロはここで、女性は劣っているから、夫の方が偉いから、妻は仕えるべきなのだと言っているのではありません。パウロは何と言っているでしょうか。「主を信じる者にふさわしく」と言っているのです。仕えるのは「主を信じる者にふさわしい」ことだからなのです。

 主イエスを信じ、主に結ばれる時に、「仕える」ことの意味が変わります。なぜなら、主イエス御自身こそ、神の御子であられながら徹底して低くなられ、僕の姿となられ、私たちの救いのために仕えてくださったからです。主は弟子たちに言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。

 象徴的な出来事がありました。主が十字架にかけられる前日のことです。イエス様は弟子たちとの最後の食事をするために共におられました。すると突然主は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められたのです。当時の奴隷がしていたことを、あえてなさった。それはやがて主が十字架につけられて死ぬことが何を意味しているかを表す出来事でした。主は僕となって私たちの罪を洗ってくださった。罪の贖いのために死んでくださったとはそういうことです。

 主を信じる者であるとは、言い換えるならば、主に仕えていただき罪を洗っていただいた者として生きることです。主に仕えていただいた者が今度は人に仕える者となる。それは主を信じる者にふさわしいことです。そのことが「妻たち」について語られているのです。もちろん「主を信じる者にふさわしいこと」が求められているのは「妻たち」だけではありません。

 それゆえに、夫たちには別の面から「主を信じる者にふさわしいこと」が勧められています。それは「妻を愛しなさい」ということです。それでは、「妻を愛する」とはどういうことでしょうか。実は、同じ勧めの言葉がエフェソの信徒への手紙にも書かれているのです。そこではもう少し詳しく書かれています。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5:5)。やはりここでもキリストがしてくださったことにまず目が向けられています。キリストが教会を愛された。それは要するに十字架にかかって命を捨てられたということです。それと同じように愛しなさいということが、特に夫に対して言われているのです。妻を愛して、妻のために命を捨てなさいということです。

 さて、ここで私たちは、「相手が愛してくれたら仕えなさい」とか「相手が仕えたら愛しなさい」とは言われていないことに注意しなくてはなりません。相手がどうであるかではないのです。まずこちらから仕え、また愛することが求められているのです。実際それがキリストのしてくださったことであり、キリストを遣わされた父なる神がしてくださったことでした。聖書は言います。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。そのように、まず神が愛して、神が行動してくださいました。そのことを思います時に、私たちにとって具体的な身近な関係において「主を信じる者にふさわしいこと」もまた見えてくるのです。

親子の関係
 次に、親子の関係についてこのように言われています。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(20-21節)。ここでも子供が従うべき理由は、子供が親より劣っているからではありません。親の方が人生経験に富んでいるからでもありません。「食べさせてもらっているうちは親に従え」などという親もいますが、もちろんそのような意味で「両親に従いなさい」と言われているのでもありません。この背景には、家庭というものは神に由来するのだという聖書的な理解があるのです。親子について言えば、神が親に子供を託された。ですから、子供が従うことは、「主に喜ばれることです」と書かれているのです。あくまでも主との関わりにおいての話なのです。

 ですから、この聖書の箇所を読んで、「そうだ、いいことが書いてある。子供に読ませよう」などと単純に考えてはなりません。良く読んでみてください。「どんなことについても両親に従いなさい」という勧めは親にとって簡単に喜べる言葉ではないでしょう。「どんなことについても両親に従いなさい」――大丈夫でしょうか。本当に「どんなことについても」従って大丈夫でしょうか。そのことを親はよく考えなくてはならない。子供が親の語るように語り、親の行なうように行ない、親が生きているように生き、親が考えていることを同じように考えるようになって大丈夫なのでしょうか。要するに、ここではただ「子供たち」のあり方が語られているのではなく、親の生き方そのものが問われているのです。子供が従って良いような人生を送っているかが問われているのです。

 もちろん親たる者も人間です。自分自身の内に確かさがあるわけではありません。ならば、最終的に、親として子供に出来ることは、神を指し示すことだけなのです。言い換えるならば、親に出来ることは、子供に従順を求める前に、自らが神への感謝と従順に生きるということなのです。親が喜びと感謝をもって神に従順であって初めて、子供が親に従順であっても大丈夫なのです。そのことなしに、力をもって子供を服従させようとするとき、ここに書いてあるように「子供をいらだたせる」ことになるでしょうし、子供が「いじける」ことも起こってくるのでしょう。「いじける」という言葉は「気落ちする」「がっかりする」とも訳される言葉です。生きる力と希望を失った状態のです。子供たちが希望にあふれた人として神への感謝と従順に生きられるようになるためにも、親と神との関係は重要です。

労使の関係
 最後に、労使の関係における勧めを概観して終わりましょう。これはまた、私たちが社会生活におけるすべての人間関係においても適用できる言葉であろうかと思います。
 現代の日本には奴隷制度はありません。しかし、奴隷根性の人はいくらでもいます。すなわち、義務としてしか何事もできない人。人にへつらおうとしてうわべだけでしか仕えることのできない人です。それは奴隷ではなくても、実質的には奴隷と少しも変わりません。パウロは当時の社会において奴隷解放運動を展開したわけではありません。しかし、パウロが伝えた福音は、もっと大きなことをしたとも言えます。人間を奴隷根性から解放したからです。義務だから仕方なくいやいや行っていた人を、喜びに溢れて感謝をもって行う人に、人にへつらおうとうわべだけで仕える者を、喜びをもって主なるキリストに仕える者にしたのです。そして、これこそ私たちもまた得なくてはならない大きな解放なのです。

 ノートルダム修道女会の渡辺和子さんがアメリカの修錬院で過ごされた時のことを「美しい人に」という本の中に書いておられます。大きな修錬院の中での一日の大半は、掃除、洗濯、アイロンかけ、つくろいものといったことに費やされていきます。もともとオフィスで男性と肩を並べてバリバリと仕事をしてきた彼女は、覚悟して入ったものの、毎日がそのようなことに明け暮れることに少々焦りを感じていたのでした。そんなある日、彼女は当番として食堂で百人以上の修錬生のためにスープ皿とフォークとナイフを並べていました。するとそこに入ってきた年配の指導者が彼女に声をかけたというのです。「あなたは、食堂でお皿をならべながら、何を考えていますか」。そしてその人はさらにこのように言ったそうです。「一つ一つ、音をさせないように、静かにおいてごらんなさい。さらに、そこに坐る人が幸せになるようにと、心をこめておいてごらんなさい。」渡辺和子さんはこの経験から学んだことを次のように書いています。「世の中に、つまらない仕事というのはない。雑用と呼ばれる職種もない。それは人間がつまらないものにしているのであり、人間が用を雑にしている時、生じるものなのだ。」

 私たちは物事をなんと雑にしていることかと思います。パウロは「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心から行ないなさい」(23節)と勧めます。このようにして私たちは時として毎日同じ事の繰り返しとしか思えない平凡な生活の中で主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。私たちは、やり甲斐や生き甲斐とは全く無縁と思えるような作業においても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。気難しい人々、愛することが困難な人々との関わりにおいても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。

 また、私たちが仮に人の上に立つような場合でも、ここでパウロが「主人たち」と呼んでいるような立場に身を置くことがあったとしても、自分の主人が天にいることを忘れてはならないのです。そのようにして主人たる者も主キリストに仕えることができるのです。

 以上、身近な人間関係を取り上げている聖書の箇所を読んできました。「主を信じる者にふさわしく」「主に喜ばれること」「主に対してするように」という言葉が出てきましたように、信仰者にとってすべての人間関係の土台は「主との関係」です。主にある者としてふさわしく生きたい。主に喜ばれる者になりたい。主にお仕えする人生を送りたい。そのような願いが養われてこそ、人との関わりも変わってくるのです。最初にお読みした言葉をもう一度お読みします。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。この神への讃美と感謝が、私たちの関わるすべての人間関係に溢れ流れていきますように。

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